孤月的陣
第四章 ナミダ 涙
⑥
風狗を捕らえる。
その一念で、新野へやってきた朱季南は、新野の街を徹底的に調べつくし、その地理も頭に叩き込んでいた。
だが、子供の手を引いて休みなく走る嫦娥の背中を追いかけ、夜の街を走駆しているあいだに、自分がどこにいるのか、わからなくなってきた。
逆に、この女がこれほどに新野の街の地理に精通していることが気味悪くさえある。
陳到が追いかけてくることはなく、振り返っても、だれもいないし、足音もしない。
阿片で身体を痛めつけられていた朱季南には、走り続けることがつらくなってきた。
息がつづかなくなり、足をゆるめたところで、それに気づいたのか、前方の嫦娥の足も止まる。そうして振り返った嫦娥の息はほとんど切れていない。
この女、化け者じみている。
「つくづく阿片を止めたくなったのではないか」
「聞かれるまでもない」
いったいなにがおかしいのか、小憎らしい餓鬼が、朱季南の様子を見て笑う。
一方の嫦娥は目を細めて、闇に目を凝らした。
「追いかけてこないようだな」
こみ上げる吐き気をこらえつつ、朱季南は尋ねた。
「楼閣へ戻らねばならん。ここはどのあたりだ?」
「今宵は戻らぬ」
そう言うと、嫦娥はくるりと朱季南に背を向けた。
そうして、闇のなか、まるで昼間のように道が開けているかのごとく早足で、街を歩いていく。
すぐそばで、野犬の気配を闇の塊に感じ、朱季南は立ち上がった。武器を持っていたとしても、野犬をあなどってはならない。
群を為した場合の彼らの戦闘能力は人間を上回る。
「では、どこへ行く」
朱季南の声が、寝静まった新野の街にひびきわたる。
しかし嫦娥は振り向きもせず、足早に先へ先へと進む。
「黙ってついてくればいい。妙なところには向かわぬから安心しろ」
「あんた、本当に何者だ? ただの医者とはとても思えぬ。もしや、俺とおなじ、曹公の?」
「たわけめが。もしそうであれば、曹操の役人であるおまえに、最初からそうだと打ち明けておる」
「たわけは余計だ。ならば、何者なのだ?」
「朱季南、人の破滅のたいがいは、好奇心が原因だ。先人とおなじ轍を踏むか?」
「そういう言い回しはよせ。単に、得体の知れぬ者と組むのが恐ろしいだけだ」
「わたしは何者でもないよ。残念ながらな。ただ、私が動くのは、子は親を選べないという、ただそれだけの理由だ」
「わけがわからぬ」
「わからなくてよい。さあ、そこだ」
と、嫦娥は、手を引く子供にはやさしく言って、町外れの空き家とおぼしき家の扉を指した。
荒れ果てた外観を持つ家であるが、窓にぼんやりと明かりが差している。仲間がいるらしい。
曹公の手の者ではないとするなら、江東ではなかろうな、と朱季南は考えたが、しかし、そうだとすると、なぜ自分を助けたのかがわからない。
細く長い首を持つ嫦娥は、鶴を思わせる影をつくって空き家へ入っていった。
朱季南もそれにつづく。
空き家のなかには、どこぞの下働きらしい女が、ひとり、明かりを灯して待っていた。
「今宵は、そちらに動きはなかったかね」
嫦娥がたずねると、豊かな髪を、壷をひっくり返したような形にして、珊瑚のついた簪をつけた女は、こくりとうなずいた。
「あいかわらず、あちらの先生がご不在なので、城の中は忙しそうでしたけれど、それ以外はとりたてて目立ったことはありませんでした」
「連中が城に忍び込んでいる気配はあるか?」
「おそらくは、ない、と。あちらの先生が樊城に発たれてから、関将軍がいつにもまして城の警備を固めてらっしゃいますので、いかに『壷中』とはいえども、忍び込むのはむずかしいかと」
「ならばいい。奴らのことだ。トチ狂って、劉備の首をもって曹操に降伏しよう、などと考えかねないからな。つづけて城の監視を頼む」
「承知いたしました」
と、女は深々と頭を下げる。
二人のやりとりを、ぽかんとして聞いていた朱季南であるが、明かりに浮かぶ女の袖の薄い布地から、はっきりと両腕に、ひどい火傷のあとがあるのに気がついた。それが顔に出たのだろう。女は己の手首を隠すようにした。
「すまぬ」
思わず朱季南の口から謝罪が出る。
すると、女はぎこちない笑みを浮かべてみせた。目立たないが、顔立ちの愛らしい女であった。
「かまいません。慣れておりますから」
「さきほどの会話からすると、おまえは、新野城に入っている、この女の草のようであるが」
問われて、女は逆におどろいたようであった。
戸惑った表情を浮かべて、嫦娥を見る。嫦娥が朱季南に、代わりに答えた。
「この人には、新野にいる『壷中』の動きを見張ってもらっているのだ」
嫦娥のことばに、朱季南はますます首をかしげた。
曹操の間者ではないことはわかった。
劉備を守っているようにも聞こえるが、だとしたら陳到たちに協力せずに、逃げてきた理由がわからない。
「さきほど、この小僧を連れ去ろうとしていた男女が『壷中』なのであろう? そいつらは、子供を集めて、刺客に育てている組織の末端だと」
「そうだ。『壷中』は劉表と荊州の豪族どもが、自分たちの身を守るためだけに、難民の子を狩り出してつくりあげた組織なのだ。最近では、あまりにきびしい訓練のために子供の数が減ってしまい、人攫いの真似をして子供を集めているのだ」
「胸くそのわるい話だな。だが、あんたが、その組織の邪魔をしているのはなぜだ?」
「さっきの理由さ。子は親を選べない。わたしなぞは、はるかに恵まれているから、グチにもならぬが、この人は、連中によって攫われて、さんざん利用されつくした挙句に、最後は火あぶりにされて殺されるところだった」
「なんだと?」
「この火傷は、まだ全身にありますの」
と、女は袖をあげて、腕にひろがる火傷の無残な火ぶくれの痕を見せた。
「たわいのない理由でしたわ。仲間のひとりと恋仲になったのが原因。『壷中』では、恋愛沙汰などご法度なのです。隠し通してきたのですけれど、仲間に密告されて、それで捕まって、火にくべられたのです」
まるで薪をくべた、というくらいに淡々と語る女の話に、朱季南は慄然とした。
「隠し村には崖があって、そこでは死んだ仲間たちを燃やすための台があるのです。そこで火をつけられたのですけれど、わたしは苦しんで、もがいて、火達磨のまま、崖から落ちたのです。でも運がよいことに、途中の木にひっかかって、そこを女老師が助けてくださったのです」
「それは…よいことをしたな」
思わず朱季南が言うと、嫦娥は自嘲気味に鼻を鳴らした。
「それとて、償いの一端にすぎぬ。我らの行為はあまりに罪深い」
「おまえも、『壷中』だったのか?」
「いいや」
嫦娥は、悲しそうに首を振った。
「いまもって『壷中』なのだ」
※ ※
律儀についてくる孔明を振り返り、花安英は鼻を鳴らして笑った。
「あんた、本当に目立つね。はっきりいって、隠密なんて無理だな」
花安英の言うとおりだ。動きやすい黒地の装束に着替えた花安英とは対照的に、孔明の衣裳は昼と変わらぬ淡い色の長袍。闇夜には目立つことこの上ない。
といっても、そもそもが、品よく目立つのが目的で、着ていたものだ。
「そう言ってわたしをおびえさせて引き返させ、ひとりで母親を殺しに行く魂胆ならばムダだ」
「どうぞご勝手に。あんたがついてこようとこなかろうと、こちらのやることはひとつだ」
周囲の気配に機敏に目をくばりつつ、孔明は悠々と前をあるく花安英の背中を追いかけていく。
城内は、あきれるほどに人の気配が薄い。自分が逃げたことは、播天流に伝わっているはずである。
花安英の地下の隠し部屋から、一歩、足を踏み出した時点で孔明は、はげしく後悔したが、花安英が振り返りもせず、どんどん行ってしまうので、迷っている暇はなかった。
なんと気に食わない状況なのだろう。この自分が、すべて後手にまわっている。
音も立てずに前をゆく花安英のうしろで、わずかな一歩を踏み出すのも細心の注意を払わねばならない孔明は、自分の沓のつま先が、床を踏むたびに生じる足音に、いちいちひやひやする。
そうして周囲に目を配るのであるが、いまのところだれにも気づかれてはいない。
しかし妙だ。衛兵が少なすぎる。
ふと気づくと、小癪なことに、花安英が柱にもたれて、孔明の様子を笑って見ていた。
「いまのあんたの姿を新野の連中が見たら、手を打って大喜びするだろうね」
「なんと情けないと、泣くだろうよ」
「衛兵がすくないと、あやしんでいるね」
「君の罠だとは思っていない」
孔明が答えると、花安英は、わずかに意外そうな顔をしたが、すぐに嘲笑にもどって、言った。
「播天流という男は、ひとつのことに集中して当たる癖があるのさ。いま、その集中は、あんたじゃなく、趙子龍に向かっている。だから、彼が来るであろう門の前に兵士をあつめて、彼がやってくるのをじっと待っているのさ」
「子龍は新野へ戻った」
「おそらく、あんたより播天流のほうが、趙雲という男をよく知っているよ。なにせ十年以上もひたすら見つめてきたのだからね。播天流が真正面から来ると読んでいるのだ。かならず来るだろう。それに」
と、欄干にたった花安英が、たくさんの篝火のおかげで昼のように明るくなった城門の上にある、奇妙なものを指差した。
最初それは、細い支柱にぼろぼろの天蓋がかろうじてぶら下がっているように見えた。
だが、じっと目を凝らした孔明は、思わずちいさくうめき声をもらした。
長袍をまとった、細身の男が、その四肢を串刺しにされて、天幕のように磔にされているのだ。
絶命していることは、遠目からもあきらかだ。
そして、それがだれに似せているのか、ということも。
「死んだか。気の毒に。悪い男じゃなかったけれど、あれもちょっと勘違いしていたからね」
「勘違い?」
声が震える。
「播天流は、自己主張のつよい人間や、頭のよすぎる人間、要領のよすぎる人間が大嫌いなのですよ。つまり、張り切りたがる男は疎ましがられるってわけ。だけど、あいつはちょっと鈍感でね。
でもそれにしたって、趙雲をおびき寄せる餌になって死ぬなんて、わたしは嫌だなぁ」
と、花安英は声を立てて笑う。
まるで、子供がトンボを捕まえて、ばらばらにしてよろこんでいるときのような、残酷な邪気のない笑みであった。
孔明は、己の身代わりとなって死んだ男から目を離すと、振り向きざま、思い切り花安英の頬を張り倒した。
頬を打つ、ぱん、という音があたりに響く。
不意のことであったためか、花安英は避けることもせず、まともに横っ面を殴られて、廊下に倒れた。
「人の死が、それほどに楽しいか!」
廊下に倒れた花安英が、孔明を唖然とした表情で見上げている。
そのことも腹立たしい。
この少年は、命の重さがわからない。
播天流の価値観をそのまま押し付けられて育てられた。
仲間の無残な死を目の当たりにして、どうして笑うことができるのだろう。
「おまえの仲間が殺されたのだぞ! なのに、なぜ笑う!」
「怒れというのですか。無駄なことなのに」
「無駄?」
孔明に殴られた頬をさすりつつ、花安英は身を起こす。
「そう。怒りや悲しみを見せた時点で、わたしも彼と同じ身の上になるでしょう。だからせめて笑ってやるのです」
「それがおまえたちの弔いだというのか」
花安英は、それには答えず、無言のまま、そしてまったく表情を消して、じっと孔明を見据えた。
鋭い、しかし真摯な眼差しであった。
なにを考えている? こちらのなにを探っている?
少年のこころをつかみかね、孔明が戸惑っていると、不意に花安英に表情が戻ってきた。
肩の力を抜いて、自嘲気味に笑う。
「軍師、たぶんあんたの怒りは正しいのでしょうね。だから、頬を打ったことは気にしないで差し上げます。ただし、次はこちらも怒りますよ」
「そうしたら、わたしはいまの倍は怒る」
「意外に子供っぽいのですね」
いいざま、花安英はつまらなさそうに背をむけて、言った。
「涙をお拭きなさい。鬱陶しい。大の男の涙なんて、ちっともきれいじゃない。あんたに泣いてもらっても、あの男は喜びやしませんよ」
花安英に言われて、孔明は自分が泣いていたことに初めて気がついた。
袖で涙をぬぐうと、乾いた涙で頬がつっぱって痛かった。
泣いたあとというのは、むしろ涙を流した以前よりも、大胆になれるというのは不思議である。
もはや孔明は足音を気にせず、ひたひたと先を進む花安英の後にずんずんとついていった。
あまりに傍若無人なその歩みに、今度は花安英が迷惑そうに振り返る。
「軍師、状況がわかってらっしゃいますか?」
「わかっているとも。君は母親を殺しに向かい、わたしはそれを止めようとしている」
「そもそも樊城に戻ってきたのは、それが主旨ではないでしょうに。やれやれ、こちらも口を滑らせる相手をまちがえたかな」
花安英がぼやく。
さきほどからちらちらと後ろを振り返る花安英の横顔には、笑みらしきものが浮かんでいる。
「間違いでよいではないか。数年後には、その間違いに感謝するようになるかもしれぬぞ」
「いま手を下さねば、後悔します」
「そうだろうか。よく考えてみたまえ。母上とて気の毒な女性ではないか。意に添わぬ結婚を強いられ、つづいて攫われて、さらに親子ほど年の離れた男と結婚させられて、女性として、不幸きわまりない人生を歩んできた。
君たちにしたことは、たしかに許されるべきではないが、君とてその年で、世間もさまざまに見て来ただろう。すこしは、母上に同情する気は起きないのかね?」
「うるさいですよ、軍師。あなたの舌を引っこ抜いてやるのだった」
「脅してもだめだ。ひとつ宣言しておこう。わたしは『壷中』の君たちを解放してやるために戻ってきた。だが、最初にする仕事は、君を更生させることだ!」
「ご自分がなにを口走っているのか、わかってらっしゃらないようですね」
「しっかり把握しているとも。思いつきで言っているのではないぞ。いまここで君を見捨てたら、君はたとえ本懐を遂げたとしても、しまいには泥屑のように死ぬだろう。
おなじ死ぬのなら、せめて最後に自分が『生きた』と満足できるように死ぬのだ。どうだ、いま死んだとして、満足して死ねると思うか」
「莫迦なことを」
足早になった花安英のあとを、孔明も早足になって追いかける。
もはや意地になっていた。
「莫迦なことか。とても重要なことだぞ。人の手駒となるべく育てられ、言いなりになりつづけて、自分の情人すら救えず、そうして最後に自分の意思としてやることといえば、自分とおなじ境涯の母親を殺すことだけ。
これのいったいどこに満足ができる?」
「うるさい! 咽喉を切り裂かれたいか!」
とたん、のけぞるほどのすさまじい鬼の形相で、花安英が振り返った。
直言を吐いたことに、孔明は後悔しなかった。
いままで虚偽のなかで生きてきた少年には、孔明の言葉は、効きすぎる薬のようであったにちがいない。
怒り、動揺しているのは、言葉が届いたからだ。
だから孔明は後悔しなかった。
短刀を持っていた手に力が入るのが見てとれる。
孔明は身を強ばらせたが、目をつぶることはしなかった。
じっと、花安英の奮う刃が、自分に向かうのを見ていた。
自分の死の瞬間を、しっかりと目におさめておくために。
※ ※
城門からほど近い茂みから、樊城の様子をさぐる。
夜の帳に沈む町のひとびとは、まさか城でひと騒動起こっている、などとは夢にも思っていないにちがいない。
まるで昼間のように煌々と灯された篝火が、橙色に夜空を染め上げ、その間を、黒い輪郭を描いて、兵士たちが往来する。
黄忠が判断したとおり、播天流は趙雲たちが真正面から来るであろうと想定し、兵士を配置したようだ。
彼らのすべてが『壷中』ではないだろうが、趙雲は、いままで対峙してきた敵とは、質の違うなにかを感じ取っていた。
戦場に出たならば、敵とは有象無象の兵士たちのことを指した。しかし、樊城に待ち受けている敵には、ひとつひとつに顔があるような気がしてならない。
それは、自分とおなじ男に訓練を受けた者と見なすからか、それともある種の同情が、趙雲に錯覚を起こさせているのか、それはわからない。
ただ、ふつうに訓練された敵ではないから、てこずるだろう、ということだけは覚悟していた。
「む」
ふと、となりにいる黄忠が声をあげる。
そのきびしい視線の先を見て、趙雲は、はっとなった。
城壁に、四肢をそれぞれ木の柱で繋がれ、そのままボロ布のように晒されている男の遺体があらわれたのだ。
その遺体はちょうど身の丈が八尺くらいであろう。そうして、孔明が好む長袍を身にまとっている。
いや、まとっていた、というべきか。
いったいどんな目に遭ったのか、それは引き裂かれてかろうじて身体にまとわりついている、というふうである。
まさか。
趙雲が思わず腰を浮かせかけたのを、素早く黄忠が肩をつかんでおさめた。
「待て。いま出てはならぬ」
「しかし、あれは、まさか」
軍師ではないのか。
その最悪の可能性を口にすることはためらわれた。声がふるえている。
「遠目でわからぬが、亮さまではなかろう」
黄忠のことばに、趙雲は眉をひそめる。
「なぜわかるのだ」
「可能性の問題じゃ。播天流がおまえを狙っているとしても、いくばくかの理性が残っているのであれば、亮さまはやはり殺せぬはずじゃ。くどいくらいにくりかえすが、亮さまを殺せば、おまえのところの劉玄徳は兵を動かし、樊城を襲うだろう。そうなってはかえって曹操の南下を早め、播天流も滅びる。
そうとわかっていて、亮さまを殺すほどに、やつは愚かではなかろう。
冷静になれ。相手はおまえの気性を知り尽くしている男。おそらくああすることによって、おまえの頭に血が上って、ばか正直に真正面からやってくるだろうと想定してのことじゃ」
ぽんぽんと直言が飛び出すが、腹は立たない。
むしろ、だんだん冷静になってきた。
「それにしては稚拙にすぎぬか」
「まったくじゃ。やつの誤算は、この儂がおまえとともにいる、ということかな。伊達に年は取っておらぬ。ああいう男の考え方なぞ、すぐに読めるわ」
と、黄忠は得意そうに、真っ白なあごひげをしごいてみせる。
そのあいだ、兵士たちは、遺体を見晴らしの良いように篝火に照らすと、城壁の際に立ち、闇にむかって、罵詈雑言を叫びはじめた。
その内容は、きわめて下劣、かつ卑猥なものであった。
孔明の死に様がどうであったか、死ぬ前にどのような目に遭わせられたか、吐き気がするほどみみざわりな言葉を並べ立て、下卑な冗談をからめて闇にわめいているのである。
遺体が孔明ではないだろう、とわかっても、趙雲は思わず立ち上がって連中を射すくめてやりたい衝動にかられた。
そうして身体を浮き上がらせると、またも黄忠が肩をつかむ。
「これ、まんまと向こうの思惑に乗るやつがあるか! まったく、播天流というのは気味が悪いくらいに、おまえの弱点を知り尽くしているようじゃな」
「名誉の問題だぞ、あいつら、軍師がまるで断袖であるかのような」
みなまで言わせず、黄忠はさえぎった。
「ちがうのであろう? ならば放っておけ」
「しかし!」
「殴るぞ、小僧。いま我らがこうしている間にも、もしかしたら亮さまは殺されていないまでも、拷問にかけられているやもしれぬ」
「あいつらの喚き声のなかに真実が含まれている、とでもいうのか」
「最悪の場合はそうかもしれぬ。だからこそ早くお助けせねばならぬのだ。わかっておるな? 亮さまは、おまえのために樊城に戻ったのじゃ。そのことをゆめゆめ忘れるでないぞ」
「忘れるものか」
そうして、いまも悪言を吐き続ける兵士たちを見上げ、睨みつける。と、兵士たちの背後に、けして忘れえぬ姿が立っているのが見えた。
播天流だ。
遠目で、細かい風貌などはわからない。だが、篝火に浮かび上がるその姿は、まぎれもなく、播天流その人であった。
闇に叫ぶ兵士たちに、なにか指示を送っている様子であるのがわかる。
怒りはもちろんこみ上げてくるが、それ以上に、播天流の中に眠る狂気にも似た憎悪に、趙雲は、氷をいきなり肌に押し当てられたような痛みをおぼえた。
いったい、自分がなにをしたというのだ。
もし恨みに思うのであれば、なぜ、直接、前に現われないで、こんな回りくどいことをする?
「これは思わぬ好機かもしれぬ」
と、黄忠は不敵ににやりと笑って見せた。
それまで賢しい老爺であったのが、不意に獰猛な戦士の表情に変わる。
その変化に、となりにいた趙雲さえ、ぞくりと背筋が寒くなった。
「ヤツはおまえが単独か、あるいは斐仁と同行していると思っているにちがいない。儂が何者かまでは知らないはずじゃ。ヤツはすっかりおまえが、真正面から来るものと思い込んでいる。そのおごりを叩き潰してやろうぞ」
「では、はじめのとおりに?」
「うむ。儂は真正面から切り込むゆえ、おまえは弓で城壁の兵士どもを狙い、儂を弓から守れ。しばらくのあいだは、連中は混乱し、儂ひとりに集中するはずじゃ。
おまえは隙を見て、樊城の東側の入り口から中へと入れ。東側には、儂がむかし世話をした男が門衛の隊長をしておる。そやつは『壷中』のことはなにも知らぬ。その弓を見せ、黄漢升の名を出せば、きっと中へ通してくれよう」
「通してくれなかった場合は?」
「いたし方あるまい。それはおまえに任せる」
それだけの言葉を交わすと、黄忠と趙雲は、互いの衣の交換をはじめた。
※ ※
刃は風を切って孔明の頬をかすめ、真後ろで、鈍い音を立てて止まった。
くぐもった声がして、振り返ると、白目を剥いた兵士が、咽喉に深々と突き刺さった刃もそのままに、膝から崩れ落ちていた。
「追っ手か」
花安英は低くつぶやくと、孔明の手を乱暴につかんで、最寄りのあいている部屋に押し込めた。
「しばらくそこに隠れていてください。わたしが危なくなっても、勘違いして飛び出してこないように。さきほど貸してさしあげた剣は持っていますね?」
孔明はうなずくと、闇に沈む部屋の一室の壁際に身をよせた。
花安英は不敵に笑って見せると、扉を閉め、廊下に戻っていく。
真っ暗闇の部屋から外をのぞむと、煌々と盛大に燃やされている篝火のおかげで、まるで夕刻に時間が遡ったような明るさであった。
細かい装飾の施された扉に、赤い明かりが映り、そこに、花安英の影が投じられている。
孔明は、花安英の助太刀に出たいと思ったが、冷静に自分をなだめて、大人しくしていることにした。
もし出て行ったとしても、武芸の心得は多少ある、といっても、実戦経験のまるでない孔明は、花安英の足手まといにしかならないだろう。
わたしは、みなのお荷物になっている。
そう思うだけで、むしゃくしゃするほど腹が立った。
なにもよい策を練れない自分に腹が立つ。
音もなく、扉の表に影が増えた。
兵士たちがやってきたのだろう。
花安英と、『壷中』の子供たちが連合し、樊城の兵士たちと殺し合いをして、相打ちになるならば、話が早くなる、と酷薄で浅慮な声が頭にひびく。
花安英が死ねば、蔡夫人は殺されることはなく、樊城の『壷中』は滅び、のこるは播天流と隠れ里の『壷中』を始末するだけでよくなる。
だが、すぐさま孔明は、はげしくそれを拒んだ。
始末、だと?
いまさら、人の生き死にの尊さを彼らに問うつもりはない。多くの人々に死を贈ってきた彼らこそ、孔明よりもはるかに生命の儚さ、もろさを知っているだろう。
殺さねば殺される。ひたすらその恐怖で、目の前の『敵』を殺し続けてきた。
そんな彼らを、扱いづらいから、簡単に『悪』だと切り捨てて、見捨てるのか?
だめだ。それでは、荊州を守るという美名のもとに、子供たちを狩りだして刺客に育てた劉表や、ほかの豪族たちと、どう違うというのだ。
叔父上ならばどうなさったであろう。
孔明は、扉をいちまい隔てただけで、まるで別世界のことのように展開する、影だけの殺戮劇に目を転じた。
趙雲や張飛の戦う姿を見たことがある。
実戦ではなかったけれど、強いと呼ばれる人間は、基礎がしっかりしているのだ。
ただ力がつよいとか、身体能力がすぐれている、というだけではない。もともとの素養に加えて、基礎の訓練がしっかりされている。だから、臨機応変な戦術を生み出せるのであり、彼らの自信になっているのだ。
花安英もおなじであった。
趙雲の戦う姿は、見ていると息をするのを忘れるほどに、壮絶なまでに美しかったが、花安英もまた、影だけだからこそわかるのだが、舞踊をしているような優雅さである。
これほどの才能を持ちながら、影の仕事しか強制されてこなかった、というのが不憫でならない。
播天流は、彼らの素晴らしさを知らないのだろう。
自分の育てた戦士たちが、どれほどに優秀であるのか、わからないのだ。
だから、かんたんに捨て駒にできるし、殺し合いをさせることも平気なのだ。
叔父上がもし生きていたなら…
そう考えて、手にしていた長剣を見下ろす。
武芸の心得はあるけれど、一度も剣を振るったことがない。
それは叔父を殺した男の姿、がいまでも脳裏に焼きついているからであり、刃を身体に深く埋め、うずくまり、苦悶する叔父の姿を、忘れることができないからだ。
刺されるのは痛いだろう。当然だ。
死は恐ろしい。それも当然だろう。
だが、叔父はそれを黙って受け容れたのだ。
逃げずに真正面から受け止めて、自分たちの未来を守ってくれた。
叔父が果たせなかったことをするために、ここに戻ってきたのではないのか。
孔明は立ち上がるべく、床に手をついた。
とたん、ぬるりとした液体が指を汚す。
ぎょっとして闇に目を凝らすと、自分の座っていた位置からほど近いところで、少年が、口を大きく開いた絶望の表情のまま、息絶えていた。
蜀錦の豪奢な衣裳をまとい、顔にはうっすらと化粧のあとがのこっている。
さきほど、劉表の部屋に並んでいた、少年のひとりであった。
嫌悪と恐怖がぞくりと背筋を凍らせる。
足音をしのばせて部屋を見渡すと、部屋には、ほかにも少年たちの遺体が転がっていた。
なにがあったのか。
死体のひとつひとつは見事なまでの切り口で、少年たちも手だれであっただろうに、ほとんど一撃で急所を狙われているのがわかる。
少年のひとりは、武器を取り出そうとしている姿勢のまま死んでおり、もうひとりは、逃げ惑うところを背中から襲われていた。
戦闘らしい戦闘もなく、ほとんど一方的な殺戮がおこなわれたのだ。
虚空を見つめたまま絶命している少年の目を、ひとつひとつ孔明は閉じてやり、そうして、肩で息を整えた。
今夜ほど、涙があふれる夜はない。
孔明はまたも泣いていた。
少年たちの数は全部で6人。
切り口はみな似ていることから、さきほど劉表の部屋にいた『壷中』のなかで仲間割れがおこり、一方が一方の不意を襲ったのか。
不意に風が動き、孔明は反射的に手にしていた長剣でもって振り向きざま、襲ってきた敵に切りつけた。
同時に、ぎん、とするどい金属の音がして、場違いなほど明るい声が、暗い部屋に響く。
「やっぱりあなたは頭がいい。もう状況に慣れたようですね。それでいいのですよ」
大人びた口調で、血塗れの花安英は言った。
刃と刃を交えた先の、美しいけだものに向けて、孔明はうなる。
「悪ふざけが過ぎるぞ。もし当たっていたら、大変なことになる!」
「当たりゃしません。あなたの腕はたかがしれているし、わたしは本気じゃなかった。だから怪我をしようがない」
「くりかえすぞ。悪ふざけが過ぎる。周りを見ろ!」
花安英は、孔明に言われて、はじめて部屋の状況がわかったようである。
まず、最初にひとりの死体をみつけて、はっとして剣を引いた。
それから部屋に横たわる六人分の遺体をすべて見て回った。
花安英は言葉を発さなかった。
孔明が廊下のほうを見ると、わずかに開いた隙間から、廊下に打ち倒された兵士たちの死体が見えた。
篝火が夜空を赤く照らしている。悪夢のような光景だ。
「あいつ…」
ようやく、花安英はそれだけ絞りだした。
「あいつ? 風狗か?」
孔明の問いに、花安英は答えず、『弟たち』の無残な死体を見下ろしたまま、震えている。
血まみれの剣を持たない手は、蒼白になったおのれの顔を撫でている。
「あいつは、もう駄目だ。『弟たち』にまで手を出すなんて…」
「風狗はだれだ? なにが目的なのだ? 彼らはなぜ、殺されねばならなかったのだ?」
花安英は、孔明に背中を向ける形で、沈黙をつづけている。
「花安英、この者たちを始末せよと命じたのは播天流か?」
「ちがう。こいつらは、弟たちの中でも、『壷中』の仕事を嫌がっていた連中なんだ。きっとあんたの言葉を聞いて、樊城を出ようとしたのだと思う。
だから、殺された。でも播天流はいま、趙雲のことで頭がいっぱいのはずだ。こいつらのことまで頭が回るとは思えない」
「では単純に仲間われか? 風狗というのは、ずいぶんと播天流に忠誠を誓っているのだな」
だが、花安英は首を大きく横に振った。
「忠誠なんて誓っているものか。あいつは単に、播天流がいいようにやらせてくれるから、一緒に組んでいるだけなのだ。でもなぜだ。自分だって、自由になりたいと言っていたのに!」
ふと、花安英は思い当たったことがあったらしく、顔をあげる。
「あいつ、まさか、全部ひとりで始末をつけるつもりでは?」
そのとき、ひときわ大きな怒号が、城門のほうから聞こえてきた。