孤月的陣
第四章 ナミダ  涙


斐仁は馬を走らせながら、追いすがってくる者たちの気配を敏感に感じ取っていた。
さすが『壷中』というべきか。
新野に戻るであろう趙雲を先回りして捕らえようと、道中で待機していたにちがいない。
しかし、趙雲は孔明を奪取するために樊城へ戻った。
『壷中』としては当てが外れた、ということろであろう。
だが、斐仁が、彼らにとって危険な男だということに変わりはない。
黄忠をうまく言いくるめ、孔明や趙雲の不審をかわし、自由になったのは、なにもわざわざ趙雲の言いつけを忠実に守るためではない。

斐仁は考えた。
孔明の考えは当たっているだろう。
『壷中』は、曹操の南下をきっかけに、播天流側と、劉表側に分裂している。
播天流は、劉表以外の勢力と通じている。
播天流が、今の時期に子供たちをふたたび狩り集めているのは、村を移るためだ。それには資金が必要だろう。
しかし、播天流の翻意を、いまだ劉表は知らない。
劉表が財源でないとするならば、播天流に出資している者がいるはずだ。
蜀か、あるいは江東か。
曹操ではない。曹操であったならば、劉表の首をさっさと取って、献上しているはずだから。

播天流が、表面上は劉表に、表面上は忠誠を誓い続けているのはなぜか。

劉表には、生きてもらわねば困るからではないのか。
曹操と対するに、時間を稼ぎたい勢力が裏にいる。
曹操が劉表、そして劉備と対決して、そちらに集中する時間が長ければ長いほど助かる勢力。
となれば、それはひとつ。江東の孫氏だ。

劉表は、もはや老いて判断力が鈍っているうえに、病を得ているという。
播天流が、まさか目の前にいるというのに、裏切っている、などということは考えもしないのだろう。
播天流は、それをうまく利用して着々と移住の準備を進めているのだ。
劉表に気づかれたらまずい、という理由から、播天流は斐仁にも手を出さなかった。孔明を殺すこともなかった。
だが、樊城を斐仁が出た時点で、遠慮するものはなにもなくなった。
連中は容赦なく襲ってくる。
危険を冒してでも、斐仁は殺された一族のため、戦いたかった。
嫉妬、などという、限りなく利己的な理由のために、おのれの一族を殺害した播天流が許せない。
かならず殺してやる。その思惑を崩してやる。

闇に目を凝らしつつ、斐仁はさらに馬を走らせた。

                                 ※         ※

孔明が逃げたというので、静寂に包まれていた城内は一転、あちこちで騒ぎが起こっていた。
劉表の部屋についていた衛士たちがみな殺されていたということで、さらに騒ぎが深まる。
すでに、趙雲らが城内に入り込んでいるのではないか。連中は城の外に逃げてしまったのではないか。

「子龍ではない」
と、衛士たちの血に塗れた死体を見るなり、播天流は言った。
残酷な切り口であった。横たわる兵士たちの全員が、見事に急所を外して倒されているのである。
そしてわざと、多くの血を吹き出させるように、狙って斬っている。
趙雲ならば、こんな回りくどいことはせずに、襲ってくる敵を一撃で仕留めただろう。
倒した敵の数を並べて、快楽を得る男だ。
これは子龍の手口ではない。

「播天流さま、もしや」
と、先ほど城壁にて、花安英の消息を伝えに来た若者が、おそるおそる口を開く。
「この鮮やかな切り口は、あやつの者では?」
そのようなこと、いちいち指摘されなくてもわかっていた。
殺しを楽しむこの手口、武器を持つ兵士を相手に、異様なまでのその余裕。
やつだ。
播天流は、面倒な、と思うと同時に、ずいぶん腕が上がったなと、場違いな感想を抱いていた。
目の前に折り重なるようにして血の海に倒れ伏している兵士たちへは、なんの感慨も沸かない。
彼らはいずれ、敵として戦うことになるだろう者たちであるからだ。

播天流は、趙雲が一矢を放つたびに見事に敵を追い散らすさまを見て、趙雲が殺しを楽しんでいると眉をひそめたものだが、
あきらかに殺しを楽しんだ痕跡の見える死体を前にしては、喜んでいた。
矛盾したことではあるが、播天流の意識の中では、武将の戦い方と、刺客の戦い方には、それぞれの美学があり、
戦場において、弓でもって敵を蹴散らすだけの戦法は卑怯であり、敵の逃げ惑う様を楽しんでいる、とさえみるのであるが、
こうして平素の場において、刺客が人殺しをする場合、その恐怖を見せ付けるためにわざと残酷な手口を選ぶのは、おおいに賞賛すべきことなのである。

問題は、なぜやつが、ということだ。
諸葛亮を助けたとしか思えないのだが、なぜ?
「播天流さま」
と、先ほど、花安英のことを知らせに来た兵卒がふたたび前に進み出た。
「どうぞ、それがしになんなりとお申し付けくださいませ。
この始末、それがしがつけてみせます。花安英に劣らぬ働きを見せましょう」
播天流は、その青年のことをすっかり忘れていたのだが、目の前で拱手するその姿を見て、よい考えが浮かんだ。
「おまえ、身の丈はどれほどになる?」
「八尺になります」
播天流は、立つようにと、手ぶりで命じた。
若者は怪訝そうな顔をしつつ、立ち上がってみせる。
「まこと、役に立つ、と申すか」
「もちろんでございます」
意気込む若者に、播天流は、無表情のまま、そうか、と答えると、腰に差していた剣を抜き放った。
若者の笑顔は、訳がわからず、笑みを浮かべたまま、篝火の光をはじく白刃を見る。

播天流は、なんのためらいもなく、若者を切り捨てた。
鮮やかな切り口からは、鮮血がほとばしり、すでに乾き、変色をはじめている兵士たちの血に混ざっていった。

一瞬のことである。
その場にいた者はすべて唖然とし、声を立てる人間すらいない。
「こやつの身体を磔にし、城壁にさらせ」
冷静に血糊を拭いて、剣を鞘にしまいつつ、播天流は、沈黙をつづける兵卒たちに下知した。
足元に横たわる青年の死に顔は、強ばった笑みをいまだ湛えている。
「もちろん、諸葛亮に似せる工作を忘れるなよ」
言いつつ、ふたたび、城壁のほうへと足を向ける。
孔明の身体が磔にされているとわかったならば、あの男のことだ、真正面からやってくる。
待っているだけでいい。
あいつは、弓で攻撃してくることはない。
兵士たちは馬鹿正直に剣と槍で刃向かってくる男を射がける、そして捕らえるのだ。
今度こそ、決着をつけてやろう。
 

                                ※         ※

ほこりの匂いと、汗の匂いがそこはかとなくする部屋である。
地下の小部屋だ。
本来ならば、貯蔵庫として使われていたであろうそこは、人目がつかないことを理由に、花安英の隠れ部屋として使われているようであった。
天井は低く、積まれた石がむき出しになっている。辛うじて壁の途中に、装飾らしいものが施されているのは、どこであろうと美しく清らかに、という樊城の表向きの意向を受けてのことだろうか。
奥行きのない長方形の部屋には、本来の部屋の主人である貯蔵甕と、中央には背の低い長方形の卓や椅子がある。
小箪笥もあれば、鏡台もある。調度品の趣味はばらばらで、余った家具をてきとうに見繕って運んできたのだろう。
孔明の腿の高さまである大きな甕が壁伝いに並べられており、中を見ると、果実酢や酒であった。

「ここに案内した方には、もれなく一杯ずつ差し上げているのです。どれかお好きなものをどうぞ」

と、花安英がおどけた仕草で杯を差し出す。
花安英は、血に汚れた衣を片肌で脱いで、乱雑に血をぬぐっていた。当然、その青白い肌は晒したままになる。
通常、漢族のあいだでは、人に肌を晒すという行為は、おおいに恥とされる。
花安英がなにも感じていないように振る舞っていることと、そのことに慣れていることに、孔明はおおいに眉をひそめた。
花安英自身にではない。花安英をそのように躾けた大人たちに向かって。
「早く服を着たまえ」
そう言うと、孔明は薄暗がりを見回す。
紙燭の明かりに浮かび上がるそこには、花安英の私物が無造作に並べられている。
血のついた衣は処分されずに、丸めたまま積まれており、それを隠すために大きな布がかぶせられているだけ。
経書などがあるかと思えば、その横には、血のついた錆びた小刀が整然とならぶ。
うつくしい色彩を施された蝋燭の下には、祭壇にささげる供物のように、女物の装飾品が並べられている。
装飾品は紙の上に置かれており、その下には、孔明の見たことのない文字と、漢字をさまざまに組み合わせて出来上がったような、気味の悪い角の生えた神の絵があった。
装飾品はどれもきれいに手入れをされていて、あまり高価なものではないが、単品で見る限り、異常なところはない。
しかし、その横に当然のように並べられている干からびたものを見たとき、孔明は慄然とした。
血のついた衣や血のついた武器をみても平然としていられたが、それはだめであった。孔明は激しい嘔吐におそわれた。
もはや常識では理解できない、深くおぞましい闇が、ぽつんとそこに突然あった。
これがなんなのか、聞くべきか。それとも気づかぬフリをするべきか。

聞いたらダメだ、と本能が告げてくる。
たとえ平静を装ったとしても、いまの自分がそのことに触れれば、声が尖る。
詰問調になる。
いま、自分は囚われ人なのだ。
虎の檻にいるのと同じ。
慎重にならなくては。
言い聞かせながらも、孔明は、その悪夢のような祭壇から目を離せないでいた。
「ああ、それ? 触らないでください。供物だから」
花安英の声が、背後からかかる。びくりと背筋が震える。
これほどまでに緊張したことは、かつてない。
相手は一回りも年下の少年だ。
背丈もじぶんの顎あたりまでしかないちいさな少年。
なのに、恐怖していた。
じっとりと汗が背中に浮かぶ。
声が震えないように、動揺をさとられないように、あえて背を向けたまま孔明は声に応える。
「だれのだね」
「だれ、って、誰に対して、ってこと? それとも、その供物の元の持ち主ってこと?」
「両方だ」
「私の故郷に、兵主神を祀っている部族がいたんです。ご存知でしょう? 黄帝と戦って、負けた神」
「知っている、わたしの一族も、この神を祀る」
「なら話は早いや。最後は捕らえられて、身体をバラバラにされたそうだけれど、でも魂はひとつなのですって。
そういう神ならば、千切れた人間の身体も、ふたたび元に戻すことができるかなって思ったのですよ。だけど、あまり効き目がないようだから、自分で神さまを作ってみたのです」
「だれを元に戻そうとしているのかね」
「それを喋ったら、願が消えてしまうから、言わない。そういうものなのでしょう?」
「見たところ、ここにあるのは、女性の身体の一部のようだが」

動揺など、この聡い少年にはとっくの昔に気づかれているにちがいない。
怯えていることもそうだ。
完全に相手に呑まれている。
そうして、状況を把握し、楽しんでいるのは相手なのだ。諸葛孔明ではない。

うつくしい色彩の蝋燭の下に、奇妙な神の絵図、女物の装飾品。
そうして、その横にきちんと並べられているのは、防腐処置のしっかりほどこされた、切り取られた子宮と乳房であった。

本物なのか? 
誘惑に駆られるようにして、それに手を伸ばした孔明であるが、途中で動きを止めた。
首筋に、ぴたりと冷たいものが押し当てられたのがわかった。
いつのまにか、花安英が背後にいた。
その薄い胸板を、孔明の背中に押し付けるようにして、耳元でささやく。

「触ってはいけません。それに触ることができるのは、神だけです」
「本物なのか」
刃物はぴたりと首筋にあるまま、花安英は声を殺して笑った。
「あなた、本当に人がいいな。ここまで来て、まだ私がマトモじゃないかと信じようとしている。触らないで、よくそれを御覧なさい。 それが作り物に見えますか?」
首を横に振ることができない。孔明はくぐもった声で、
「いいや」
となんとか応えた。
「あなたは、さっき彼らに啖呵を切っていらしたでしょう? 救う手段がある、と。どんな手段なのか、助けてあげたお礼に、教えてくださいませんか」
「単純な話だよ。彼らを一介の兵卒としてあつかうのだ」
「本当に単純ですね」
と、花安英の鈴のような笑い声がする。
劉表の部屋にいた少年たちとおなじ笑い声だ。
そういう笑い方すら、訓練させられて身につけたものなのだろう。
暗い思いにとらわれていると、ぐい、とさらに冷たい刃が肌に押し当てられる。

「怒りますよ」

「もっともよい手段だ。彼らをふつうの生活に返す、との名目で解放したところで、そんな単純にことがうまく運ぶと思うか?
 いったいどれだけの時間を『壷中』で過ごしてきたと思う。彼らは全身に毒を含めさせられた綿のようなものだ。
元の生活に戻るには、毒をすべて抜き放つことが必要になる。一部の者はすぐに順応できるかもしれないが、できない者のほうが多いはずだ。もちろん、君も含めて。ちがうか?」
「そうかもしれません」
「それに現状を見るといい。明日にでも曹操来襲の狼煙があがってもおかしくない状況だぞ。戦いはいかなる者にも降りかかる、不可避のものだ。
ただ解放するだけならば、彼らは状況に流されて、また『壷中』とおなじ境遇に戻ってしまうかもしれない。
だが、わたしの軍に入るのならば、そのような目に遭わせないよう、保護することができる。事情を知っているからこそ、わたしが諸葛玄の甥だからこそ、できる保護だ。君たちの身につけた技術は、けっして使わせない。約束しよう」
「詭弁のようにも聞こえるけれど」

すっ、と刃が首筋を流れる気配がある。
斬られた。
孔明は身を固くしたが、そうではない。
肩から、さらさらと、切られた後れ毛の束が落ちる。

「播天流よりマシだから、許してさしあげます。あなたにならば、弟たちを託してもいい」
「弟たち?」
振り返ると、薄い刃を闇の中でひらひらと、羽虫のように輝かせている花安英の、嫣然とした笑みがあった。
「そう。『壷中』の子供は互いに全員が兄弟姉妹なのです。表立って言うと、播天流が嫌がるので、お互いにひっそりそう呼び合っているのですよ。
あなたも大体のところは読めているのでしょう? 『壷中』はいま、樊城側と、播天流側に分裂をしている。
そもそものきっかけは、あなたが劉表の部屋で見た、白髪の者です。
あの子は、だれより優秀な子だった。うまく成長すれば、私以上になったでしょう。もしかしたら、あなたの趙子龍を上回ったかもしれない」
「あの者は、まだ少年なのか?」
「曹操の動きを探るために許都に送られたけれど、そこで正体がばれた。助けることもできただろうに、劉表はなんの指示も出さず、あの子を見殺しにしたのです。
あの子が許都でどんな目に遭ったのかはわかりません。しかし送り返されてきたとき、あの子は完全に抜け殻になっていた。
命だけを救って、送り返してきたのは、見せしめのためですよ。曹操は、噂にたがわぬ冷酷な男。どんな底辺の者にも容赦がない。
別人になって帰ってきたあの子を見たときに、わたしたちは理解したのです。
もはや、誰も我々を助けてくれはしない。劉表も播天流も、われらを使い捨てにするだけだ、と。
わたしたちだってバカじゃない。むしろ、劉表や播天流や、下手をするとあなたよりも世の中の動きに詳しい。荊州がどのような状況にあるのか、理解しています。
劉表はわたしたちに言った。曹操がやってきたら、総員でこれにあたり、玉砕せよ、と。
そんな命令がありますか。戦術なんてものは欠片もない。あなたも見たとおり、あの男は病んでいる。自分の世界に閉じこもって、人をなぶることしか考えていない化け物なのです。
播天流も播天流で、劉表を見限るのはよいけれど、自分たちだけがうまく荊州から脱出できるように、わたしたちを目くらましにしようとしている。
さんざん、劉表へ恩返しをせよとわたしたちに言い聞かせてきた男が、ふざけているとは思いませんか。
しかも、前の主人である公孫瓚を殺したなんて、いままでひと言もわたしたちには言わなかった。
それどころか、亡国の主を最後まで守ったのが自分だと、嘯いていたのですよ。汚い嘘で固められた狂人。それが播天流なのです」

花安英は憎憎しげに吐き捨てたが、紙燭の明かりに浮かび上がるその美しい双眸は、意外なほどに理智的であった。
狂った少年のそれではない。
趙雲の話からすれば、この美少年の行動は支離滅裂な印象しか与えなかったが、こうして対峙してみると、仲間たちを救おうと必死になっている、華奢な外見に似合わず、男気のある、真摯な少年そのものだ。
とはいえ、趙雲が嘘をついているとか、誇張をしているわけではなく、奇態な振る舞いをしているのも、まちがいなく花安英という少年なのだ。
そうして、この地下の部屋で奇妙な祭壇をつくって、『だれか』を復活させようとしている少年も。

「君はわたしを嫌っていたはずだが、なぜ、いまになってわたしを助けてくれるのだね?」
「思い上がらないでください。あなたを頼りたくなんかないんだ。
ただ、あなたは劉州牧に、播天流が叛乱を起こしていることを伝えなかった。もし伝えていたなら、劉州牧は、弟たちをすぐに殺していたでしょう。
あなたはちゃんとそれを見越して、拷問にかけられる寸前でも、保身のためにそのことを口にしようとはしなかった。だからです。
それに、程子聞が、もしも自分たちだけでは、どうにもならなくなったら、あなたを頼れと、そう言っていたから」
「子聞が…そうか。わかった。わたしを信じてくれただけの等価を与えよう。特に君には、命を救われたわけだからな」
そう言うと、花安英は、皮肉げに唇をゆがめる。
「だからといって、あなたと馴れ合いになるつもりはない。わたしの頼みは、別なところにある。聞いてくださるでしょうね?」
「モノにもよるな」
答えつつ、孔明は、相手の目をじっと見る。
奇妙な思いに囚われた。
この少年が、もし叔父という存在がなければ、こうなっていたかもしれないという自分自身に見えたのだ。

それまで、孔明は、花安英という少年が苦手であった。
孔明がひそかに気にしている短所、男らしさの不足した、華奢すぎる容貌を、この少年が武器にしているのを見るのが、いやだった。
自分も開き直って武器にしているが、傍から見れば、こんなふうかと客観視させるところがいやであった。
意固地なところが、変に似ているのもいやだった。
だが、その背景に至るまで、似ているのに気づけば、同情ともちがう、なにか連帯感のようなものが生じた。
兄が、弟に寄せる気持ちのようなものだ。
この少年を修羅の世界から救い出してやりたい。

そう思って、何気なく、背後にある小棚に手をかける。
そうして、はからずも、祭壇に飾られていた供物に手が触れてしまった。
ぞおっと、臓腑を凍らせるような悪寒が全身をつらぬいた。身震いをするのを懸命にこらえる。
孔明は、自分の悪い癖を思い出した。
情に流されすぎてはならない。
この少年は、『壷中』の犠牲者というだけではない。常軌を逸した、殺人狂でもあるのだ。

こいつが『風狗』なのだ。

朱季南が追っている、許都で数名の娼妓を殺し、また、斐仁についていったあわれな娼妓をも殺した殺人鬼。
ここに飾られている干からびた肉体は、殺された女たちの体から、盗み取ったものにちがいない。
娼妓を殺すことなどが、『壷中』の命令であったとは思えない。
この少年の腕からすれば、許都において将軍職にある男さえ狙えたはずだ。
なのに、か弱い女たちに手をかけた。

なんのためか。

それはわからない。わかることは、『風狗』が、人を殺すという行為自体を楽しんでいる、ということだ。
理解しがたいことではあるが、それはまちがいない。はからずも、孔明はその光景を、劉表の部屋の前で見た。その結果救われたのだから、皮肉なものである。

そうして胸のうちで悪態をつく。
播天流め、よくも子龍に、人を殺めるのが巧すぎる、などと言えたものだ。
おまえが育てた子は、人を殺めるのが巧すぎて、とうとう楽しみだしたのだ。
子龍のときは眉をひそめて突き放したくせに、花安英は刺客であるから、それでよいと野放しにしたのか。
理解しがたい矛盾のカタマリ。
播天流にとって、この世には二種類の人間しか存在しないのだ。
自分の役に立つか、立たないか。それだけ。
子龍は逆らったから、役に立たない人間として憎まれた。
殺された公孫瓚も、同様だったのだろう。
その気質は、花安英にゆがめられて押し付けられている。
残酷な気性ゆえ、情人であったはずの程子聞さえ、残忍に殺害したのだ。

孔明は、おのれの気を落ち着かせるために、軽く息をついた。
いまにも地下につづく扉が開いて、だれかが助けにきてくれないだろうかという、甘い幻想を抱いたが、当然、扉を叩くものはない。
どころか、地上では、消えた自分を捜して、樊城の兵士たちが、右往左往していることだろう。

「先に聞くぞ。頼みを聞いて、それで君の宿願が果たされたあと、君はどうなる?」
「おや、わたしの願いがわかっているとでも?」
揶揄するように、顎をつんとそらして花安英が聞いてくる。
陳到に問い合わせていた件は、当然のことながらまだ返答がない。時間が不足すぎた。
だが賭けだ。ここで止めなければ、この少年は、錨のはずれた船のようになって、闇の海にあてどもなく飲み込まれてしまうだろう。
樊城の門前での反応からすれば、推測は当たっているはずだ。
そうして、さきほどの花安英の言葉からたぐれば、なぜ『それ』を、趙雲に見せたのかも理解できる。
孔明は、つとめて平然と言った。

「わたしには、君の仇を殺す手伝いはできない」
孔明の言葉に、花安英は、意味の読み取りにくい、自嘲の笑みを浮かべた。
「そういうと思った。まあ、構いませんよ。最初から、あなたの助力なんて当てにしちゃいなかったのだし。ただ、ちょっとくらいは協力してくださってもよいでしょう」
おや、と孔明は思った。樊城に戻ってきたときに門の前でかわした、孔明の意味ありげな言葉を、花安英は、孔明の都合のいいように拡大解釈してくれているようである。
つまり、孔明が花安英の『仇』を知っている、と思っている様子なのだ。
孔明が次の手を考えていると、花安英のほうが先に口を開いた。

「程子聞から聞いたのですけれど、あなたもわたしと同じなのですって? だから、はっきりと断らずに、協力くらいなら、と思って迷ってらっしゃるのですか?」
同じ?
その言葉にますます孔明は戸惑う。『仇』と表現できる相手ならば、それはおそらく蔡瑁にちがいないと思っていたのだが。
程子聞が、自分の特徴について、花安英に話してやりそうなのはどこだ?

叔父のことか。妻のことか。舅のことか。弟のことか。それとも徐庶?

叔父の殺害を指示したのは劉表だ。
弟のことを話したことはあるが、ちゃんと壮健で、問題はない。
徐庶は曹操のもとへ行ってしまったが、その件についての仇を決めるならば、これはやはり、曹操だろう。
となると、蔡瑁に関わりがあるのは、妻か舅だが、黄家と孔明の関係が、婚姻という形で結びついてもなお、良好でなかったことは周知の事実だ。
だいたい、黄家は、『壷中』側の人間ではないか。

ほかにはだれがいる? 

主公や子龍ではない。
程子聞が二人のことを話題にすることは、まずなかっただろう。
新野の人間は除外される。

答えあぐねている孔明を、花安英はおもしろそうに見ている。
いやな笑みを浮かべるものだ。
さきほどは同情に流されかけたが、この笑みを見れば、それも思いとどまる。
挑発しているのか。
それほどに、花安英に協力する、ということは、世の倫理に反することだというのか。
世の倫理にもっとも反すること。それはなんだ?
花安英のやってきたことはなんだ? 
娼妓殺し、情人殺し、それから?

ふと、孔明は、おのれの背後にある不気味な祭壇を振りかえり、それから花安英を見た。
程子聞を殺したのには、ちゃんと理由がある。
殺害方法は異常きわまりないが、程子聞は敵であった。
劉表の部屋を守っていた衛士にしても、同様。
娼妓たちも敵だったのではないか。花安英の目から見た、敵。
はからずも、趙雲が言っていたではないか。
切り刻まれた体からは、激情が感じられた、と。
男に媚を売り、身体を売る、女という存在。
彼女たちから切り取った、女を象徴する肉体の欠片。
そこからなにを復活させようとしているのか。
乳房。子宮。どちらも子を育むもの。
母親。

まさか? いや、始めから二者択一だ。
片方がちがうのであれば、もう一方だ。

孔明は、けしておそるおそる、というふうにならないように気をつけながら、花安英に尋ねた。

「母親を殺して、そして君の心は晴れるのか」

花安英の目が、見開らかれる。
安堵すると同時に、孔明はふたたび花安英に同情を深めた。
蔡瑁ではない。花安英の仇とは、蔡夫人だ。
自分にも母がいた。本当の母親は、すぐに死んでしまって、顔もわからない。
もう一人の母親は、徐州から脱出するおり、弟の養育や家人への采配を投げ捨てて、兄と一緒に、一足先に江東へ逃げた。
血は繋がっていなかったし、共に暮らしていたときから、半端な愛情すらかけてもらっていなかったし、母親代わりの姉がずっとそばにいてくれたから、無視するだけで気が済んでいたが、もしもこれが実母だったら、どれほど憎しみの対象になっていただろうか。
血が繋がっていなかろうと、もしも姉や叔父といった、自分に十分な愛情をかけてくれる存在がいなかったならば、どれだけ憎しみに囚われた人間になっていたことだろう。
母親。
あらゆる人間にとって、これ以上強い存在はない。

「心が晴れるか、ですって?」
しばしの間を置いてから、花安英は口を開いた。
「あなただって、母親に捨てられたことがあるのだから、判るでしょう? 子供を捨てた母親は、死ななければならない。捨てられた子供には、母親を殺す権利がある!」
「聞いたことのない論理だな。ならばわたしも鎌でも持って、江東の義母を殺しに行かねばならぬわけか」
花安英は、かつてないほど大きく口をゆがめて、鼻を鳴らす。
「混ぜっ返してうやむやにしようなんて考えてもムダですよ。これはずうっと考えてきたことなんだ。
母は、豪族の妾腹の娘だった。この乱世のおかげで家門が傾き、借金のカタに取られるようにして、十四で義陽の家に嫁いできた。そうして生まれたのがわたしです。
ところがね、あるとき蔡瑁が、狩の途中にわが家に寄った。そこで応対した母に目をつけて、無理やり攫って行ったのです。自分の妹として、劉表に差し出すためにね」
「ならば、君の母上に、咎はないではないか」
「最初はね、わたしも同情しましたよ。母を樊城から救ってやるのだと、ずっとそう思っていました。
わたしは程子聞やほかの子供とはちがって、自分から『壷中』に入ったのです。樊城に入るには、いちばんの近道だと教えられたから。
わたしの父は、すぐに再婚して、母のことを忘れて、わたしに見向きもしなくなったので、あなたの叔父さんのように、守ってくれる大人がそばにいなかった。『壷中』がどんな場所か、どんなことをしなければならないのか、なにもわからなかったけれど、母親にあいたい一心だったんだ。
でもどんなつらいことでも、母に会うためだと思えば、我慢ができた。そうして、我慢に我慢をかさねて、やっと樊城に入ることができた。わたしは母に会いに行きました」

と、ここで花安英は言葉を切る。

「ねえ、軍師。あなたがもし今すぐ江東に行ったとして、そうしたら、あなたの母上は、何年も会っていないあなたを、すぐに自分の義理の息子であると見抜けるでしょうか?」
「ムリであろうな」
と、我ながら薄情すぎるな、と思いつつも、孔明は即答した。
子供心にも、義母という人は、娘くささのぬけない、ぼんやりとした人だった。年数が経ったところで、自分以外のことに、まるで興味のなさげな様子が、変わっているとは思えない。

「母もそうでした。赤ん坊のころに別れたきりで、わたしが何者かがわからなかった。それだけなら、まだ許せたかもしれない。
あの女は、完全に色狂いになっていた。情人の蔡瑁におぼれるあまり、夫である劉表に、肌を触れられることを嫌がっていた。
そのために、何をしたと思います? 
あなたも見たでしょう、劉州牧の部屋にいた、かわいそうな弟たちを。あの女は、十五歳前後の少年をあつめて、自分そっくりの格好をさせて、あの病気持ちの相手をさせていたのですよ。それだけじゃない。自分の息子、わたしの本当の弟まで、同じ目に遭わせていたんだ!
あの女がわたしを見たときに、最初に言ったのは、『わたしの息子のくせに、似ていなくて残念だ』ですよ! これでもあの女を殺すことが誤りだと?」

言葉がでない。
これまで、悲惨な話は風聞で聞いたことはあっても、現実感がなかった。
花安英は、激したおのれを鎮めるように、息をはく。
そうして、言った。
「わかりますか、わたしの気持ちが」
「そうだな」
「わたしは正しいんだ! だからあの女は殺されるべきなんです! 可哀想な弟のためにもね!」
「判っている。だが、逆に聞かせてくれ。それほどまでに憎む相手なのに、どうして、こんな正体のわからぬ神まで作り上げて、母親の復活を願っているのだね」
わめき散らされるか、と予想した孔明であるが、意外にも花安英は理性的に答える。
「復活してほしいのは、あの女じゃなくて、『母親』なのです。うまくいけないけれど」
妙な表現だな、と孔明は怪訝に思ったが、花安英はたずねてくる。
「だけど、どうしてわたしの母のことがわかったのですか? ああ、あなたの奥さんが?」

意外なところで意外な名前がでてきて、むしろ孔明のほうが動揺する。

「妻? あれは関係ない。月英は君らにはいっさい関わりがないぞ。
わたしが君の出自について、もしやと思ったのは、子龍に蔡瑁と蔡夫人の関係を教えたからだ。なぜそんな真似をしたのかわからなかったが、さっきの君の言葉で確信した。
最初は、子龍を誘惑する手段かとも思ったのだが、そうではない。君は、子龍を『兄』だと思っているのだ。共に、播天流の下で訓練を受けた者として。
だからこそ、子龍ならば自分を助けてくれるのではと、期待したのではないかね。だから蔡瑁と蔡氏の最大の秘密を見せてやり、協力を得ようとした。
本来ならば、その役目は程子聞が果たすべきものだったかもしれない。だが、彼は、自分自身を救うことで手一杯で、とても君まで救うことができなかった。
君は程子聞の力量に怒り、離れる。そうしてあろうことか」

殺してしまったのだ、と言葉をつづけるより先に、しゅっと風を斬る音がして、孔明のほほぎりぎりに、花安英の手にしていた、小刀がかすめた。
闇の中に立つ花安英は、激しく震えている。

「黙るがいい、諸葛亮! わたしは、程子聞を殺してない!」
孔明は、その怒りに触れて、うろたえる。
斐仁は、復讐のために樊城へやってきたとき、花安英に案内されて、程子聞の遺体をみつけた、と証言した。
ふつうに考えるならば、花安英は、すでにそこに程子聞の遺体がある、ということを知っていて、斐仁を罠にはめるために、播天流の指示にしたがって、そうしたと推理する。
そうではなく、本当に花安英は知らなかった? 
斐仁と花安英、双方を騙していたのは、播天流だった?

「わたしが程子聞を見つけたとき、どれだけ打ちのめされたか貴様にわかるものか! たしかに仲たがいをしたとも。貴様と彼が再会してからは、顔をあわせれば喧嘩ばかりだった! だからわたしは貴様が憎かった。おまえが程子聞を変えてしまったからだ! 
わたしは程子聞が理解できなかった。『壷中』を裏切ろうとしているのが、なぜなのか、わたしを捨てようとしているのがなぜなのか! でも殺そうなんて、一度だって思ったことはない! 一度たりともだ!」
「では、なぜ斐仁を程子聞の部屋に案内したのだ。播天流はなにも君に教えていなかったのか」
花安英の表情に、暗い影がさす。
「新野から帰ってきた播天流は、いつになく荒れ狂っていたよ。わたしの顔を見るなり言った。
これから『仕事』を片づけなければならない。おまえも協力するようにと。これから新野から客がくる。いまから死体を作るので、そいつを死体のある部屋に案内し、おまえは派手にわめき散らせ、と。
なんだかわからなかったけれど、ああなったときの播天流は手が付けられない。協力するしかないんだ。
でも、その『仕事』が、まさか程子聞を殺すことだったなんて、予想できなかった。知っていたら、あの場であの男を殺していたさ!」
「では、誰が程子聞を殺したのだ?」
「わたしじゃない。あなた方が、『風狗』と呼ぶやつだ」
「なに?」
孔明が柳眉をしかめたのを見て、花安英は、力みを抜いて、顔をあきれさせる。
「なんだ、あなたはわたしを『風狗』だと思っていたのですか」
「ちがうのか? 娼妓を殺したのも?」
「それ以上言ったら、この部屋から一生出しませんよ、軍師。わたしは手ごたえのある者しか斬らない。でなけりゃ腕が鈍る。娼妓なんて殺すものですか。そんな暇があったなら、まっすぐ曹操の首を取りにいったでしょうよ」
「ふむ」

孔明は、憤りをふくめて答える花安英の言葉に、嘘がないことを感じ取っていた。
花安英の言葉には、優秀な武人たちに共通する、真摯さがある。

「程子聞の遺体は、判別がつかないほどバラバラに刻まれていた。その理由はわかるか?」
花安英は、痛ましいほどにつよく目を瞑って、深く息を吐く。
程子聞の無残な姿が、脳裏から離れないにちがいない。
「見せしめのためですよ。わたしを『壷中』に繋ぎとめるための。さっきも言ったけれど、弟の一人がああいう形で曹操から送り返されてきて、わたしも程子聞を理解できるようになっていた。
もうすこし時間があったら、以前のようにはいかなくても、仲たがいを詫びるくらいはできたかもしれないのに」
花安英の悼みは本物だ。
とすると、花安英は『風狗』ではない。
では、だれが『風狗』なのだ? 
この奇妙な祭壇にささげられた供物を用意したのはだれなのだ?

「軍師、ひとつ聞かせて欲しいのですけれど」
「なんだね」
「あなたが劉公子に、蔡瑁と母のことを告げなかったのは、それはなぜですか?」
「単純なことだよ。そんな話を利用して、うまく樊城を劉公子に継がせることができたとして、めでたいのは一時だけ。曹操はかならずやってくる。劉公子では、曹操に対峙することもできまい。
樊城だけを見れば、樊城を継げないということは不幸に見えるが、全国から見れば、この時期に樊城を継がねばならぬというのは、貧乏くじもよいところだ。その貧乏くじをわざわざ欲しいという連中がいるのだから、くれてやればよい。
つまり、この状況では、君の母上の恥を、世間に公表する必要が、どこにもないのだよ。
男が女にしてはならぬことのひとつは、女の名誉を傷つけるような風聞を、流してはいけないことだぞ。それに、劉公子には、もっとよい働き場所がある」
「詭弁でしょう。よい死に場所が、と正直におっしゃればよいのに。あの方は、いつまでもつのです」
「わたしは医者ではないから正確なところは判らぬ。だが、あの顔色からゆけば、そう長くはなかろうな」
「そうですか。わかりました」
と、花安英は、長い睫毛に縁どられた大きな瞳を閉じた。

花安英が、劉琦をどう思っているのかわからないが、この少年も、程子聞ほどではないにしろ、劉琦を慕っているのだろうか。
さて、と花安英は、手にしていた小刀を懐にしまい、黒染めの衣に着替えて、気分を入れ替えるように、腕をまわす。
「どこへいくのだ」
と、孔明が怪訝そうにすると、花安英は眉をひそめた。
「決まっているでしょう。話は何も変わっておりませぬよ、軍師。母を殺しに行くのです」
「待て。もうすこし話をしよう。だまって見過ごすわけにはいかぬ!」
花安英をとめるべく、孔明は地下室の入り口に立ったが、花安英のほうは、まるで動じず、むしろ孔明の頬に、ふたたび、ぴたりと刃を押しつけてきた。
冷たい感触が頬から全身に伝わっていく。
「あなたのお許しはいりません。わたしはわたしの仕事を片づけに行く。それだけです。
それとも、どうしても止めたいというのであれば、わたしと一緒についていらっしゃい」
そう言って、花安英は秀麗な白い顔に、残酷な笑みをうかべてみせた。


                         ※             ※


「小僧、いまなんと言った?」

牛がうなるような低い声で、黄忠は言った。
齢三十を過ぎて、小僧呼ばわりされるのも新鮮なものだな、と妙なところで感心しつつ、趙雲は答えた。

「俺は弓が苦手なのだ」

黄忠は、人目がつかぬように木々を紐でしばりつけて作った茂みのなかで、腕を組み、きびしい顔をしたまま言った。
あまりの渋い空気に、藪蚊も近づくことはない。
「たしかおまえは、亮さまの主騎を拝命していたはず」
「そのとおりだ」
「それで、弓が苦手だと申すのか」
「そうだ」
「たわけ者め!」
びりびりと周囲の空気を怒号がかけぬける。
ぎょっとして趙雲は、老将の口をふさいだ。
「たわけはアンタだろう! 見つかったらどうする!」
「やかましい! この見かけ倒しのバカゾウめ! 武人のくせして、弓が苦手なのだ、で通るか! ええい、ちょっとそこでこれを構えてみろ!」
と、黄忠は、自分の荷物から、年代者の弓を取り出した。
過度の装飾はなにもなく、握りの部分は塗装が禿げているが、掴んだだけで、手に吸い付くようにぴったりとなじむ。
これは相当に腕のよい職人が作ったもの、そして、相当の名人によって使い込まれたものだ、と直感でわかる。

黄忠と趙雲は、樊城のすぐそばの林にいた。茂みから上を望むと、城壁にいる兵士たちの往来が見えるほど側に来ている。
大胆にも、まさかこれほどまで近づいて身をひそめているとは思わないだろうという計算からであった。
趙雲は、自分も大胆な男だと思っているが、老将は、はるかにそれを上回っている。年季によるものか、本来の性格によるものか、それはわからない。
ともかく、黄忠がふたたび咆哮をあげないうちに、趙雲はしぶしぶだが、弓をかまえてみせた。
黄忠は、顎の山羊のように真っ白な髯をさすりながら、ふむ、とつぶやく。
「構えはわるくない。ふん、ちゃんと上手いヤツにおそわったことがわかるわい。その構えができるならば、腕も悪くないはずだぞ。なぜ苦手などという。」
「構えはできているだろうさ。だが、矢を放つ瞬間に手がぶれる」
「迷いがあるからだ」
まさにそのとおり。
たったひと言で両断されて、思わず趙雲は笑みをもらす。
すると、黄忠は怪訝そうに片方の眉を上げた。
「気になる笑い方をするものだな。なんじゃ、言ってみろ」

趙雲は、促されるまま、素直に、播天流との過去のいきさつを語った。
黄忠という老人には、厳しさもあるが、懐の深さもあり、ふしぎと対峙しているうちに、素直な気持ちになってしまう。
趙雲は内気な性質なので、相手がどんなひととなりかをじっくり観察してからでないと、なかなか心を開くことができないのであるが、黄忠に対しては、なんの警戒心もわかなかった。
孔明の身内である、という意識が、どこかにあるからなのかもしれない。
黄忠は、言葉をなにもはさまずに、ふむふむと、じっくり趙雲の話を聞いていた。
そうして話が終わると、ふん、と鼻息をつよくした。
闇の中、黄忠のきびしくも、どこか温かい眼差しが、真正面に据えられる。

「おまえも、頭に馬鹿がつく真面目な男だな」

言葉はきついものの、表情からは、責めていることが感じられない。
趙雲が返答に戸惑っていると、黄忠は、胡坐に腕組み、という姿勢のまま、趙雲をまっすぐに見あげる。
「播天流という男、弓が苦手ではなかったか?」
趙雲は、しばし質問の意味が飲み込めなかった。
てっきり、敵への攻撃に対しての話になるだろうと想像していたからだ。
ぽかんとしていると、忍耐づよく、黄忠は聞いてくる。
「どうじゃ?」
「そういえば、そうであったかもしれぬ。播天流が弓を使っているところを、調練では見たことがあるが、実戦では見たことがない」
黄忠は、わが意を得た、とばかりに肩を揺らす。
「おまえも亮さまも若い。そして真面目に過ぎる。そう肩肘はらずに柔らかく、単純に考えるのだ。
人殺しが巧すぎる、などと、ずいぶんな、けなし言葉ではないか。おまえのような性格の若造には、さぞかし効き目があったであろう。
敵に対する態度云々、なんていうのは詭弁じゃよ。おまえが戦場で笑っていたなんていうのも作り話。嘘じゃ。
そいつは、おまえが素直な男だと言うのをよく知っていたので、いちばん嫌がる言葉をつかって、意地悪をしたのだ」
「いじわる?」
「左様。そいつは、おまえに嫉妬をしていただけじゃ。おまえの武芸の才能の伸びがあまりに素晴らしいので、ここで釘を刺さねば自分をあっさり追い越してしまうだろうということが、恐ろしくなったのじゃ」
「なぜだ。俺がたとえ、播天流を追い越したところで、俺は播天流から離れはしなかったのに」
「おまえはそう思っていてもだ、相手にはそうは思えなかったのであろう。それほどにおまえの上達ぶりがめざましかったのと、その男が勘違いをしていることが原因じゃな」
「勘違い?」
「そいつの頭の中での子供を育てるということは、いつまでも手元に置いて、愛玩犬のように可愛がっておくことなのじゃ。
だが、本当はそうではない。子供を鳥のように天下に向けて羽ばたかせること。そこに喜びを見出すべきものなのじゃ。
播天流は、子供を育てることをよろこんでいたのではない。
子供という、自分よりまちがいなく弱い者に対して、絶対者でいられることが心地よかっただけなのであろう」
「子供たちの上にだけ、君主でいられるということが、楽しかったと?」
「そのとおり。そういう卑屈な、いばりたがりの言葉を、おまえは十五年以上も、くよくよと気にしていたことになるな。
どうじゃ、馬鹿馬鹿しくなったであろう?」
黄忠の言葉は、あきれるほどに、わかりやすいものであった。気が抜けてくる。

「まったくだ」

十五年以上も。言いくるめられて、呪縛されて、そんな相手を助けて、また恨まれて。そうして、自分勝手な怨みだか、嫉妬だかのために、命に替えても守らねばならなかった大切なものを人質にとられているのだ。

「くそっ!」
趙雲は、腹立ちまぎれに思い切り、地面を蹴った。どん、と鈍い音がして、茂みに眠っていたであろう鳥が、ばたばたと騒ぎ立つ。
黄忠は、それでも動じず、
「頭がすっきりしたか」
と、平然とたずねてきた。
「ああ」
趙雲は大きく息をついた。
つめたい夜気を肺に吸い込む。
いまの地鳴りで、警備兵に気づかれたかもしれない。
それでも構わない。
いまなら、たとえ百の騎兵があらわれても、負ける気がしない。

「真正面から乗り込むのも悪くないが、おまえの性格をそれほどまで見抜いている男ならば、それなりの罠をしかけて待ち受けていると考えてよい。
播天流はおまえが、弓をつかえないであろうと思いこんでいるのだ。そこを突く。
まず、それがしが正面から兵士を引き付ける。
おまえは、物陰から、城壁にいる弓兵を片付けよ。この高さならば十分に届くはずだ。播天流は、正面からやってきたほうが、おまえであろうと勘違いをして、攻撃をそれがしに集中させるはず。隙をみて、おまえは城内に潜りこめ」
「理にかなっているように聞こえるがな、じいさん、樊城の兵士の集中攻撃をうけて、あんたが耐えられるとは思えないのだが」
「それがしの心配をするよりも、自分の弓の腕を心配するがいい、小僧。もしも弓が一射もあたらぬようなことになれば、我らはともに命を落とすことになろうぞ」
「とはいえ、あんたを囮にして、首尾よく軍師を助けることができたとしても、そこであんたが名誉の戦死、ということにでもなっていたら、やはり軍師は俺を許さぬであろう」
趙雲が言うと、黄忠は、寂しげな笑みを浮かべて、首を横に振った。
「それがしは、ここで死ぬ運命でも恨まぬし、亮さまとて、それがしが犯した七年前の罪を知れば、おまえを恨みはしないであろう。
だから、それがしのことは気にせず、おまえは亮さまをお助けすることだけ考えるがよい」
「罪? なんだ、それは?」
「生きて新野に戻ることがあらば、斐仁に聞くがよい。それがしの命は、ほんとうは玄さまとともに費えていたのかもしれぬ」
そういうと、黄忠は、ゆっくり胡坐をとき、立ち上がった。

「さあ、戦場へ参るとしようか」

第四章 涙 6へつづく
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