孤月的陣
第四章 ナミダ  涙

「父上」
紙燭の揺れる部屋に、耳に馴染んだ青年の、心細そうな声が聞こえる。
弱気を示すように震えているが、それでいてどこか単調で気を引かない、独特の調子である。
おそらくこれが最後になるだろうと思ったが、なんの感慨も浮かばない。
鬱陶しさが、親愛の情をはるかに上回るようになってから久しい。
あの怯えるような、それでいて面貌にはなんの感情すら浮かばない、気のきかない鈍感な女に、長子はそっくりに成長した。
声こそ、男と女の差があるが、だれが教えたはずでもなかろうに、あの喋り方はそのままではないか。
泣き喚くでもなく、責めるでもなく、ただ黙ってそこにいて、いつの間にかいなくなっていた女。
それでいて、どこかこの城に、澱のようにうずくまっていた、目障りな女。

「父上」
今度は、声はすぐそばでして、顔を向けようとすると、それより先に干からびた大きな手の上に、ちいさなたおやかな手が重ねられた。
そうして、覗き込むようにして若々しくみずみずしい少年の顔があらわれて、影を作る。
「よろしいのですか、捨て置いて」
「かまわぬ」
なんのためらいもなしに言い切ると、傍らにいる少年を抱き寄せた。
少年は、くすぐったそうにちいさな笑い声をあげると、たちまちぴたりと身を寄せてくる。
「諸葛孔明が戻ってきたらしい」
「伯父上が、いま出迎えているようですよ」
「一族そろって、どうしようもない輩ばかりだ、あれは…」
諸葛玄は使える男であった。
もともと徐州の人間である。早くこの土地に馴染もうと、それなりに必死だったのだろう。
優秀な頭脳と指導力を活かし、何事にも率先してことに当たった。
ただ、あまりに優秀すぎた。弁が立ちすぎた。
そしてなにより、感傷的に過ぎた。わけのわからぬ価値観に振り回されている愚か者であった。
「どうなさるのです?」
と、少年は、帯飾りの玉を弄びつつ、笑いを含んだ声で言う。
「いつもの如くだ。そなたの伯父に任せる」
「新野が黙っていないでしょう?」
その言葉に、笑みをこぼすと、少年は不思議そうに顔を上げる。
その瑞々しい、傷一つないやわらかな白い頬をなでると、少年は合点がいったように笑った。
「おまえが賢く生まれついたおかげで、儂も安心していられる」
「わたしが望んで賢く生まれたのではありません。賢く生んでくださった母上にその言葉を差し上げてください」
「孝行息子だな」
声をたてて笑いながら、ふたたび少年の体をきつく抱きしめると、少年もまた、声をたてて笑った。
だれが焚いたのであろうか。甘い香の香りが鼻腔を刺激する。
そして扉は開かれることがないまま、たゆんだ世界はゆっくり閉じていった。

「父上」
廊下に膝をつき、扉の開くことを待っていた劉琦であるが、何度目か呼びかけて、それでも返事がないので、あきらめて立ち上がった。
扉の前には宿衛の兵士ではなく、武装した宦官が立っている。
そのどれもが年若く、仮面のような表情のなさ、それがゆえの神秘的な風貌をしている。
劉琦は彼らと顔をあわせたくなかったので、うつむき加減に廊下をゆく。
父親に無視されたことを、宦官ごときに同情されてたまるか、という意地のためではない。
父親から無視される、などというのは日常茶飯事であったし、劉琦のように家臣たちから傅かれて育った青年にとって、宦官や奴婢のような身分のものは、そこいらの柱や扉と同等で、意思を示すことのないものであり、こちらも心を打ち明けることはない。

父のそばにはべる宦官は、いつも面子が変わる。
年老いた者たちはわずかで、いつも若くて綺麗な宦官ばかりだ。
老いた者たちの消息や、交替となったそのほかの宦官たちの消息は、ついぞ耳にしたことがない。むしろ知りたくない、というところである。
劉琦がうつむいているのは、彼らの隠された裏の事情を、見つけてしまうようなきっかけを作りたくなかったからと、父親に無視されたことに、憤りや悲しみを感じるよりは、ほっとしていることを隠したかったからである。
この鋭敏な気性の青年は、他人のごくわずかな変化も見逃さず、そこから妄想にも近いくらいに想像をたくましくして、理論ではなく直感で真実を導き出す。
その結論の出し方が飛躍的なために、他者から見れば、掴み所のない青年であり、担ぎ上げるのに不安を感じさせてしまうのであるが、それをあらためよ、というのは、劉琦として生きるのをやめよ、と言っているようなものだ。
その性質は諸葛孔明にも共通するもので、それがゆえに、孔明の妻が蔡瑁の血族に連なることを知りつつも、劉琦は孔明の智恵に縋ろうとしたのである。
他人にはわからない葛藤を、孔明は、言葉で説明しなくても、わかってくれるところがあった。
どうやら、おなじ気質であるがゆえに、かえって見えすぎるので、疎ましく思っているところもあるようだが、そういうところをあっさり水に流して、孔明の美質だけを見て、立てることができる。それが劉琦の長所でもある。
程子聞の手紙を読むなり、顔色をかえて、趙子龍とともに、どこぞへと飛んでいった孔明は、いまだ戻ってこない。
もっとも、劉琦は、早朝に孔明から授かった策を実行するため、休む間もなく準備に追われていたので、孔明がどうしたかを、あまり気にしていられなかったのであるが。

長子ともあろうものが、伴もつれず、ひとりで夜闇の廊下を歩いていると、向こう側から、ぱたぱたと伊籍が走ってくるのが見えた。
「こちらにおられましたか、公子」
と、劉琦が知る限り、いつも大げさに顔をしかめている伊籍は言った。
その限りなく人の好い顔を見ているとほっとする。
「江夏行きの件、お父上はなんと?」
「宦官を通してご承諾くだされた。しかし、ご本人にお会いすることは叶わなかった」
なんと、と伊籍は悲痛そうに顔をしかめる。それを宥めるように、劉琦は伊籍の手を取った。
「よいではないか。わたしは父上を説得するのがいちばん難しいと思っていたのだからね。生きてこの城を出ること。わたしたちがまず考えなければならぬのはそこであろう」
「おいたわしや。実の父子でありながら、他人よりも冷たい扱いを受けねばならぬとは。
しかもこの樊城は公子のふるさと。なんの非もない公子が、なにゆえに追放されるように城を出なければならぬのでしょうか」
「嘆いている暇があったら、一つでも多くの荷造りをするがいいと、孔明殿ならおっしゃるだろう。
それにしても機伯、いますぐにでも出発ができるという話ではないか。おまえはまるで、今日のことを予想していたようだな」
からかうようにそう言うと、伊籍は最初、内気でおのれの本心を表に出したがらない劉琦が、そんな軽口を口にしたのにおどろいていたが、やがて顔をほころばせ、力強く言った。
「実を申しますと、孔明殿の策を授かる以前に、万が一のことを考え、いつでも樊城から出ることができるように心積もりをしておけと、みなに申し付けておりました。
しかしそのとき考えておりました行き先は、新野であったのですが」
「新野にも寄りたいところであるが、みなも突然のことに戸惑っているだろう。いまはまず、夏口に向かい、みなを落ち着かせねばならぬ。
夏口へ発てるのはいつごろになりそうだね」
伊籍は、嬉しそうに眼を細めると、軽く握られたその手を、つよく握り返した。
「お強くなられましたな、公子。まるで見違えるようだ」
「この強さを、もうすこし前に出せていたらと申し訳なく思っている。いままでわたしは、貴方や程子聞、そしてほかの者たちに頼りすぎていた。
それでね、機伯、お願いがあるのだが」
「なんなりと」
「それでもわたしは弱い男なのだ。こうしている間でも、以前の臆病なわたしに戻ってしまいそうで恐ろしい。そうならないように、わたしを助けてはくれないだろうか」
たちまち機伯の顔は泣いてよいのやら笑ってよいのやらわからないようなくしゃくしゃな顔になった。
「この機伯、いつでも公子のために命を投げ打ちましょうぞ」
ありがとう、と答えつつ、それもわずかな間になるだろうが、と劉琦は心のなかで付け足した。
病魔は確実に、日々、おのれの体を蝕んでいる。さまざまな薬を程子聞が取り寄せて、煎じてくれたが、気休めにしかなっていないようだ。
劉琦は、伊籍が劉備の家臣になりたがっていることを知っていた。
おなじ思いを抱いている家臣が、ほかにもいることも知っていた。
わたしが死んだら、ようやく彼らを解放することができる。
病魔はわたしの命を削るけれど、そのかわり、彼らの人生が喜ばしいものになるのであれば、それはよいことなのだろう、と劉琦は考えた。
悲しみはなく、清清しい思いで、心からそう思っていた。

「おや」
と、伊籍が人の気配に気づき、振り返る。
伊籍が気にする方向へ、劉琦も眼を向けると、庭を挟んで向かい側の棟の廊下に、ものものしい姿でのしのしと歩く蔡瑁と、その後ろで、宦官や女官たちに四方を囲まれるようにして、孔明がつづいているのが見えた。
「軍師は帰られていたのか」
と、一行に近づこうとする劉琦であるが、伊籍はそれを止めると、手近な人気のない部屋へと、劉琦を押し込めた。
「お静かに。様子がおかしゅうございます」
伊籍の緊張した声に、劉琦も言葉を発するのを止める。
一行は、だれひとり口をきくことなく、足音ばかりを響かせて通り過ぎていく。
行き先はおそらく、劉表の部屋である。
隙間からのぞくと、蔡瑁の表情は固く、うしろに続く孔明にいたっては、顔面蒼白でありながらも、眼だけがきつく光っている、という尋常ではない様子。
周囲にしたがっている女官や宦官も、畏まっている様子ではあるが、ひどく緊張しているようであったし、さらにおかしなことに、一行の最後列には、花安英の従者がとことこと付いて歩いているのである。
例の、程子聞の遺体を最初に見つけた、片腕のわるい男だ。
しかし、その主人の花安英の姿はない。

「おかしい。趙将軍はどちらに?」
小声で伊籍にたずねると、伊籍は強ばった顔を劉琦に向けた。
「公子、いますぐ夏口へ発ちましょう。ご準備くだされ!」
「待て。どういうことなのだ。まさか、軍師は蔡瑁たちに囚われたというのか。なんのために?」
「それは、わたくしが探ってまいります。新野から軍師に随行してきた従者たちの行方も気になりますゆえ。ただし、半刻が過ぎてもわたくしが戻らぬ場合は、わたしを捨てて、樊城を出発してくださいませ」
「貴方を置いて行けると思うのかね? 他の者も、貴方がいなければ、出発を渋る」
「問答をしている暇もございません。これは由々しき事態ですぞ、公子。蔡瑁は、かねてより、劉予州や軍師をよく思っておりませぬ。
隙あらばと、命すら狙っている男。そんな男に軍師が囚われたのですぞ。おそらくは」
「いかん、お助けねば。自らは命を長らえる策を授けられながら、恩人を目の前で見捨てたとあっては、この劉琦、死んでも死に切れぬ」
「趙子龍がいない理由を考えてくださいませ。もしかしたら、彼はすでにこの世の人ではないかもしれませぬ」
そこまで言って、伊籍は現実を振り払おう、とでもいうように、つよく頭を振った。
「なんということでしょう。これではいかに劉予州とて黙っているはずがない。
曹操が南下してくるというこの事態のさなかに、まさか州牧と劉予州との間に諍いが起ころうとは。荊州は、血の海になりますぞ」
「ならぬ。そのような事態を止めるためにも、せめて軍師だけでもお助けせねば」
部屋から飛び出そうとする劉琦を、伊籍は必死で留める。
「そのお心、伊籍がお預かりいたします。公子は早く城を出てくださいませ。あとはお任せを」
しかし、と渋る劉琦であるが、伊籍は重々しく言う。
「公子、わたくしを信じてくださいませ」
「策でもあるのか」
「それはいまから考えます」
心もとない返事に、劉琦が不安そうに眉をしかめると、伊籍はそれを振り払うように、手を大きく不って見せた。
「いえ、火事場の馬鹿力という言葉もございます。その場その場でなんとかするのは、わたくしのもっとも得意とするところですぞ。
公子はまず樊城を出て、それから船に乗り換えてくださいませ」
「船の準備もしてあるのか」
おどろく劉琦に、伊籍は顔をよせると、これこれこうで…とおのれの頭に閃いた策を劉琦に語りはじめた。

なにもかもが違って見える。
おのれの観察眼に自信を持っていた孔明であるが、いま、それが揺らぎつつあった。
夜風にからたちの花の、つよい香りが混ざっている。
ふと、つられるようにしてにおいの漂ってくるほうに眼をやると、歩みの遅くなった孔明に、四方を囲うようにしている女官たちが、いっせい振り返った。
その表情は一様に固く、心のうちをうかがい知ることができない。
孔明が口を開こうと唇をうごかすと、途端に彼女たちはふい、と顔をそむけてしまう。
「ムダだ」
と、孔明を取り囲む一行の最後尾にいる播天流が口をはさんだ。
尋ねるまでもなく、彼女らが『壷中』の人間であることは、自信にあふれた播天流の表情で知れた。
「おまえの言葉はなにも聞かない。そのように申し伝えてある」
「これでわたしを動揺させようというのならば、あまり効果は無いな」
孔明のことばを、播天流は鼻で笑う。
「それが、強がりでないことを祈るばかりであるな」
孔明が睨むようなそぶりを見せると、播天流は肩を揺らして、声を立てずに笑った。
「なにを考えているのかは知らぬが、おまえは甘い。虎の口に飛び込んだ兎がどうなるか、身を以て証明するのだな」

ぱちぱちと篝火の火の粉が燃える音と、兵卒たちが行きかうさいの、ふれあう甲冑の音。
さらさらと、流れるような音を絶えずさせている絹ずれ。
さやかに聞こえる女官たちの髪飾りの銀の音。
ひどく神経が冴えている孔明には、それらの音がひとつひとつ、手に取るように感じられた。
この状況にあって、とりあえず自分を失っていないことについて、孔明はまず、自分を誉めた。冷静になるためには、とことんまでおのれを突き放し、客観視する必要があった。
そうでなければふとした瞬間に、叔父の死のことに気持ちをさらわれてしまう。
怒り、悲しみ、悔しさ、そしてなにより、殺人者を目の前に置きながら、見過ごしていた自分への怒り。
樊城が。樊城に住まうすべての人間が憎かった。
燃え盛る炎のようなはげしいものではなかった。
腹の底に、ありとあらゆる憎悪と呪詛をくべたどす黒い感情の泉が、火山の火口のごとくぐつぐつと不気味に煮え立っている。
抑制されているからこそ、かえって怒りが怒りを呼び起こし、いつまでも消えない。
そういった、厄介な類いのものであった。

昔、故郷を炎で荒らされたとき、こんな災禍を生み出した、曹操という男を憎いと思った。
しかしそれは対象が巨大なだけに、純粋に燃焼させることのできる怒り、悲しみであったと思う。
だが、今回、身に刻まれた痛みは、生半可なことでは消えないだろう。
生ある限り、ふとした瞬間に思い出しては、呪詛の対象をはげしく憎む。そういった生活を送るようになるだろう。
世間ずれしていなかった青年は、この日、完全に消えた。
これを成長というのであれば、残酷な通過儀礼ではないか。
人を腹の底から憎むことを覚えることが、そして、世に救いがたいほど醜い心根をもつ人間が存在することを知ることが、世を知ることだったというのか。
むしろ孔明は、つい先日までの、不吉な予兆をおぼえつつも、それを、まさか、のひと言で、なんとか信じまいと考えていた自分が、哀れに思えた。
人間が、それほどまでに醜悪になれるなどと、信じたくなかったのだ。
たとえどんな人間であろうと、かならず胸の奥底に、きらめくものが眠っていると、そう信じていたかった。
かつて叔父を亡くしたことで心が歪み、人をおそれ、その恐れを察知されたくないがために、一人で意地を張って暮らしていたころ、人というものの善き可能性を教えてくれたのが徐庶であった。
その徐庶が、身を以て示してくれた可能性を、否定したくなかったのだ。
だが、孔明は、自分が重大なことを忘れていたことを、いまになって苦々しく思い出す。

すべてのものには陰と陽が存在する。

徐庶が、人を殺したおたずねもの、という前身を克服し、あらゆる努力で以て、光あるところへと努力したように、その逆で、播天流のように、立派な前身を持ちながら、余人には理解しがたい嫉妬心に突き動かされ、周囲の人々をともに闇への道連れにせんとする人間もいる。

それまで、孔明の人生に、これほど黒い影を纏った人物は存在しなかった。
襄陽に暮らしていた頃、いや、新野にいる頃でさえ、おのれがどれだけ人との縁に恵まれていたか、孔明は身に沁みて理解した。
新野の人間にしても、善き人ばかりである。腹の立つ思いをさせられたこともあったけれど、いまは大切な仲間であった。
おそらく、彼らもそう思っている。わずかな時間に、これほどの絆を作れたのは、けしておのれの雅量が素晴らしいからではない。
孔明を理解しようとつとめ、その美質を見ようとしてくれた、彼らの度量が大きかったのである。
努力して心服させたのではない。彼らが努力をして、心服してくれたのだ。
孔明は、いつも隣にいる男を振り返り、
「わたしは思い上がっていたようだよ」
と伝えたかったが、もちろん、そこには誰もいない。
いるのは、播天流と、『壷中』の息のかかった者たちばかりである。
ここには、いつものように孔明を無条件に信じ、庇ってくれる者はいなかった。

劉州牧の部屋まで来たとき、先頭にいた蔡瑁は、ぴたりと足を止めると、孔明を振り返った。

「貴殿とこのような再会になるとは残念だ」
と蔡瑁はいい、孔明はなにも返さなかった。
脂の乗った中年、という印象のつよい男である。もともと人目をひく風貌であったのが、中年になってほどよく肉がつき、貫禄がついたのである。
つねに笑みをたたえる厚めの唇の横には、油で整えられた泥鰌髯がある。
彫りの深い顔立ちの、いかにも大将然とした男だ。
この人にならば、すべてを委ねても悪くはないと思わせる、懐の深さが蔡瑁にはあった。
長子である劉琦を差し置いて、次子の劉琮を後継に、と推す人間が多いのは、劉琮を推しているのではななく、蔡瑁を推しているのである。

蔡瑁は、孔明にとっては妻の叔父にあたる人物だ。
劉備の軍師になる前に、黄承元によって引き合わされ、直接にではないが、遠まわしに、その下で働いてみないか、という話をもらったことがある。
いま思えば、それとて『壷中』の人間による、孔明の取り込み工作であったのだが。

もちろん、当時の孔明はそんなことは知らない。想像すらしていない。
黄承元の娘を娶ってからというもの、孔明が気の進まない外出を断る理由である、
「弟の看病」
が使えなくなってしまったので、しぶしぶ舅に従ったのである。

蔡瑁の評判は、樊城の外、司馬徳操の私塾でもわるくない。
黄承元の婿だというので、蔡瑁は孔明を雇うにあたり、好条件をしめしてくれた。
だが、孔明の心はまったく動かされなかった。

蔡瑁はおそらく、仕えれば、もしかしたら劉備よりも仕えやすい主になるかもしれない。
蔡瑁は世事に長けている。要領がいいのだ。
四方に目配りが行き届いているので、下の者は蔡瑁に感謝し、おのずとさまざまな情報を蔡瑁に知らせるようになる。
おかげで蔡瑁の智恵と知識は増していく。そうして成長した男である。魅力があるのだ。
その下にいたならば、世間がうらやむようなよい思いができるだろう。
金も、権力も、女も、思いのままだ。

しかし、それがなんであろう。
もともと、報酬には惹かれない。
叔父の遺してくれた財産は、兄弟で分けても、おつりがくるほどのものであったし、孔明は稼げるからといって、つまらぬ仕事に手を出して、己の名を安く売り出すつもりはまったくなかった。
たとえどんなに世間に笑われようと、心から納得できる主に仕えたい、というのが孔明の夢であったし、卑屈な仕事で満足するより、損をしてでも大きな仕事に取り組むほうが、孔明にはよろこびであった。
なにより、蔡瑁や舅や妻だけが喜ぶ立場の者になるのは、世の光たれと、期待をこめて己に字を授けた、亡き叔父の望みに反すると思ったのだ。

さらに、孔明の心が動かなかったのは、謙虚で笑みの絶えない蔡瑁の態度の底のほうに、ひどく冷酷で、身勝手な計算が隠れているような気がしたからだ。
蔡瑁は、親子ほど年の離れた孔明を、「先生」と呼んで持ち上げたが、それも、孔明自身を尊敬しているのではなく、『若輩の者にもへりくだることのできる、度量のある男』を演じたいがためのように思えた。

蔡瑁に沁みついているわざとらしさが、なんのためなのか。
単純なことである。
蔡瑁は、荊州を乗っ取る人員がほしいのだ。
孔明は、そんな愚挙に加担するつもりはない。
黄承元の思惑としては、諸葛玄にまつわるうしろめたさを解消するため、そして婿を蔡瑁の配下にすることで家門の安定を得るために、どうしても話をまとめたかったようであるが、最後に蔡瑁にあったのをきっかけに、孔明は舅と樊城、どちらとも距離を置くようになった。

「まったくもって残念だ」
と、蔡瑁はくりかえす。
しかしそれは、捕虜となった男を慮る言葉などではない。
むしろ、彼らが用意している孔明への罰の苛烈さを、暗に臭わせたものである。
殺すつもりか。
孔明は構えたが、蔡瑁はなにも手を出してくる様子はない。
「儂は、これでも貴殿のその目が好きであったよ。
人を見下しているような眼だ、と評する者もいるようであるが、儂はそうは思わぬ。
貴殿の目は、龍の名にふさわしい物だ。恐ろしく澄明で、尊大で、容赦がない。
これほどの若者を手元に置くことができたなら、と思ったこともあったのだが」
と蔡瑁は口元に笑みを浮かべたまま、しかし顔の上半分は悲しそうな顔をする、というむずかしい表情を浮かべつつ、なげかわしい、というふうに首を降る。
そうして、三度目の
「残念だ」
を口にした。

蔡瑁の様子を怪訝に思う隙をあたえず、播天流らは孔明を押し込むようにして劉表の部屋へと入れた。
孔明は、たった一人にされたことにうろ たえつつも、部屋を見回した。

奇妙な部屋であった。
天井から大きな布が、船の帆のようにふくらみをもたせて、幾重にも吊り下げられている。
それぞれが淡い色彩をもつ布は、白波のように、交互に吊り下げられているために、 部屋の全体を見渡すことが難しい。
それどころか、ふと手伸ばした先さえも、すぐに布に邪魔をされてしまうので、向かう先になにがあるのか、行って見なければわからない、といった有り様だ。
そしてこの空気。
甘ったるい、爛れた果実のような、深く吸い込むと、吐き気を催すような、嫌な空気だ。
おそらく、ろくに換気をしていないのだろう。そのうえ、幾重にも吊り下げられた布が、かえって通風を邪魔しているのである。

「腐肉でも隠しているのではないか」

孔明はだれも見えない部屋に向かって、憎まれ口を叩いてみる。
あくまで平素の高慢な態度を崩さずにいるが、じつは怖くてたまらないのだ。
ふと気を抜いた瞬間に、弱気に崩れて、扉にすがって、開けてくれと懇願してしまうかもしれない。
冷静な矜持を保っていられるのは、意地と怒りゆえである。

趙雲と老爺を逃がし、たったひとり、ふたたび樊城へ戻ってきたのは、いまここに、こうしているためであった。
たとえどんな目に遭おうとも、『壷中』の総元締めたる人物に会わねばならない。
暴力でも、策謀でもなく、真正面から堂々と、叔父がそうしたように、自分もおなじく、たとえ周囲に味方がいなかろうと、たった一人でも義を通すのだ。
『壷中』は当初、戦乱に巻き込まれ、親を亡くした子供たちを育てるために作られたものであった。
叔父はその意義に賛同し、『壷中』の設立に力を貸した。
しかし『壷中』は変貌してしまった。叔父は後悔したにちがいない。
だれも味方がいない中で、たった一人、殺されるかもしれないと判っていながら、それでも異議を唱えたのは、なぜだったのか。

孔明は慎重に歩みを進めたが、数歩もいかないうちに、やはり天井から吊り下がっている、てのひらほどの大きさの光沢のある貝が、形と大きさを整えられて数珠繋ぎになっている、飾り物にぶつかった。
それは触れると、からからと乾いた音を立てる仕組みになっている。
見ると、それは布と同じく、あちらこちらにぶら下げられているらしい。
貝を手に取ると、玉にも勝る美しさゆえに、高値で取引される白蝶貝のなかでも、かなり上等なものだと知れた。

それにしても数が多すぎる。
布の大きさはそれぞれ小船の帆ほどはあるのだが、その両端に、それぞれ白蝶貝の 飾りがぶらさげられており、布を避けるのも、飾りを鳴らさずに歩くのも、かなりの注意を要するのである。

人から見えない部屋。
つまり、人から隠れることができる部屋。
誰から? 曹操か? 
播天流が、樊城の、この部屋の主に知られずに、叛乱に成功しているのは、そもそも、『壷中』の総元締めたる人物が、こんなところに隠れて、外界から孤絶しているからだ。
しかし奇妙な話ではある。
『壷中』は暗殺者集団であると同時に、情報収集を司る。
情報は常に、開けたところに集うのだ。
この部屋の主は、そんなことにも気付かないばか者ではなかったはずだ。

何か、隠れねばならない理由が、ほかにあるのか?

音もなく、孔明はすぐそばに少女が立っていることに気づいて、思わず退いた。
傍らの白蝶貝の飾りにぶつかり、からからと音が鳴る。
十五、六歳ほどの、小柄な少女であった。
おそらく蜀から仕入れたであろう色鮮やかな錦を身にまとい、複雑に編みこんだ黒髪には、銀と輝石が惜しみなくふんだんに使われた、精巧な簪が、にぶい輝きを放っている。
テンのような大きな眼をした、青白い肌の美少女である。
少女は何も言わずに、じっとその大きな黒目がちの瞳で孔明を見上げている。
勝気な姉に、きびしくしつけられた孔明は、女性全般に弱い。
とりあえず、安心させるために微笑もうと、反射的に頬を弛ませたのであるが、それは途中で強ばった。
色鮮やかな錦に包まれたその体の首。
鶴のようにほっそりとはしているものの、その首には、自分とおなじ特徴、咽喉仏があった。
少女ではない。小柄な少年なのだ。
宦官か。
それにしては妙である。
樊城にも宦官はいるが、どれもみな、樊城のばかばかしいほどやかましい禁欲的な風潮に従って、宦官はみな、お決まりの出で立ちをしている。

ふと、後方で、からからと、白蝶貝の飾り物が鳴る音がした。
ほかにもだれかいる。
はっとして振り返ると、目の前にいた女装の少女が、くすくすと、それこそ咽喉仏さえ見ていなければ、完全に少女と錯覚したであろう高い声でもって、笑いながら、孔明の前から去っていく。
「待て」
手を伸ばすと、すぐに布と白蝶貝が邪魔をする。
いっそ天井から引き落としてやろうかと強く引っ張ったが、びくともしない。
あちこちに灯された行灯の明かりが交差して、帆に幾重もの影を生み出す。
からからと鳴りつづける白蝶貝の飾り物の乾いた音と、それにかぶさるように、女装の少年たちの妖しげな笑い声。
人は、見えない相手に怒鳴られるよりも、笑われるほうが、不快感をつよく催す生き物だ。
孔明のように、自負心の強い青年には、なおさらであった。

もはや白蝶貝の飾り物が、どれだけ音をたてようと、構わず、絹の海のようになっている部屋を、乱暴にかき分け、孔明は前に進んだ。
罠かもしれない。
足を踏み入れるたびに、最初に嗅ぎ取った、あの甘ったるい、むせ返るような匂いは濃くなっていく。
まるで花弁の奥へ、奥へと誘い込まれているようだ。
樊城に入る前に、隠し持っていた武器のたぐいは、すべて奪われていた。
もはや頼れるのは、おのれの耳目のみ。
孔明は正常な判断をうしなうことを恐れ、なるべく匂いを嗅がないように、口で息をつくことにして、わざわざ向こうの意図どおりに癇癪を起こしたおのれを戒め、足を止め、おのれをかく乱せんとする、少年たちを追うことをやめた。
おのれと、少年たちのそれが交差して、帆と天井には影の行列ができている。
孔明はそれを見上げる。
見あげながら、おのれに注がれる視線を、肌に感じ取る。
一人や二人の数ではない。
いったい、この奇妙な装飾に隠れて、どれだけの人が隠れているのだろうか。

たん

不意に、琴の弦がはじかれた。
音のした方向を見ると、行灯の明かりが起こす風に揺れた布の下に、琴の弦を叩く 人物がいた。
その人物も、さきほどの少年と同様に、贅をつくした色鮮やかな蜀錦を身にまとっているのであるが、奇妙なことに、男か女かを、断定することができなかった。
若いのか、老いているのかさえ、わからない。
髪は老婆のように真っ白で、病のためか、その見開かれ、虚空をみつめる双眸は白乳色ににごっている。
だが、肌はなめらかで、老いをしめす染みや皺の類いは一切ない。
顔に関しては、いくらでも白粉で誤魔化せるかもしれないが、琴を叩く手のたおやかさは、まちがいなく若い者のそれである。
かといって、髪が染めたものなのかと見れば、それにしては色が鮮やかすぎるのである。

たん

と、その人物は、先ほどからおなじ弦ばかりを叩いている。
そこには楽曲を奏でようとする意志がない。
人に聞かせようとするつもりも、まったくない様子だ。
武器などなにもない。盲目だ。
おのれよりはるかに脆弱に見えるし、事実そうであろう。
なのに、孔明はその姿に戦慄した。
その人物は奇妙であった。見ているだけで、胸のあたりをかきむしりたくなるような違和感を湛えていた。
男でも女でもないもの。
若者とも老人とも違うもの。
宦官にもっとも近い。
しかしそれよりなお、性質の悪い意志が、その人物の内側に凝り固まって隠れているような気配がある。
まるで動きを見せない眼球は、内面の感情がすべて動きをとめて、うつろであるままに任せていることを証ししている。
しかし、いかな異形であろうと、意志がない、などということがあるだろうか。
その人物には、異形に生まれついた人物が、共通して持ち合わせる、ある種の天真爛漫さ、たくましい覚悟が欠落していた。

たん

ふたたびその透けるように白い手が、弦を打ち鳴らす。
同時に、部屋にぶら下げられた、白蝶貝の飾り物すべてがいっせいにからからと揺れて、しゅるしゅる、という小気味良い音とともに、浪のようにうねっていた布の一部が取り払われた。

孔明の前に、ひろびろとした空間が現れた。
布の浪が巻き上げられると、そこに、かの少年と同じように着飾った人物たちが、等間隔で並んでいる。
年齢はまちまちであるが、背格好が実によく似ている。
顔立ちがもともと似ているのに加えて、さらに似せて化粧をさせられているのだ。
その顔は、だれかを思い出させたが、孔明は誰であったかを、探ることには集中することはできなかった。

たん

ふたたび弦が打ち鳴らされると、それが合図となって、少年たちは一斉に孔明に向かって、無言で拱手した。
孔明はそれには応じない。
まだ余裕があるのだ、というふうに虚勢を張るつもりはなかった。
孔明が、樊城の構造を知り尽くしているように、向こうも孔明のことを知っている。
暗殺したかつての仲間・諸葛玄の甥として、ずっと観察をしてきたのだから。

そうして、目の前にあらわれた人物にまっすぐ視線を投げる。
玉座に、劉表が座っていた。
この男こそが『壷中』の総元締めたる男である。
そして、叔父を殺した男。
だが、劉備の軍師になる前に、司馬徳操の使いで会見したときとは、様子がまるでちがっていた。
枯れ枝のように痩せほそり、玉座がひどく大きく見えた。
知らない間に、たった一人で、十年は老けてしまったように見える。
神経質そうな面差しは、どこか劉琦を思わせたが、劉琦のもつ柔和さが、この老人にはない。
髪は白くなり、頬はこけ、豪奢な衣裳をまとっているのが、かえって哀れさを醸し出している。
袖から出ている腕は骨と皮ばかり。それがぶるぶると、小刻みに痙攣をしている。
かつての威厳はそこにはなく、口も締まりなく開いているため、痴呆にすら見える。
それでいて、劉表の眼は、異様に煌々と輝いていた。
敵中にあっても傲然と胸を張って立っている孔明を、穴が開くほどに凝視している。
孔明は、動揺しつつも、つとめてそれが表に出ないように注意しながら、劉表を見返した。

本来ならば、拝跪しなければならないのは判っていたが、無作法者よと謗られるよりも、この状況で、隙を見せることのほうが危ない、と判断した。
孔明は、らしくもなく、おのれの鼓動が早まっていくのを感じていた。

誤算であった。

劉表の体調が思わしくない、という噂は耳にしていたが、これほどとは思わなかった。
遠目でも、病がかなり進行していることがわかる。
そういえば、劉備は、孔明を連れて樊城を訪れようとしたことがあったのだが、来意を伝えると、樊城のほうから、来訪は不要なりと、断られたことがあった。
この病の状態を隠すためであったのか。
そして、この部屋の奇妙な装飾の理由も、そのためだ。
帆は、姿を隠すため、白蝶貝の飾りは、人の動きを音で報せるため。

ただの病ではない。
豪奢な衣裳をまといながらも、袖口は汚れ、襟元ははだけ、それを直そうとも思わない様子だ。
いや、出来ないのだろう。
玉座に腰かけたその足は無造作に投げ出され、衣裳に、すぐそれとわかる無残な染みを作っていた。
足首まで衣裳で隠れているのであるが、その指先と同様に、足も痙攣が止まらないのだろう。
そして、立つことすらできないのだ。
だからその場で用を足している。
その染みであった。
玉座の周囲には、香炉がいくつも焚かれ、せっかくの良香が混ざり合い、耐え難い悪臭になっている。
それでも、彼らが隠そうとしている匂いよりは強いので、意図は果たされている、と見るべきだろうか。

梅毒。

孔明は暗澹たる思いに襲われた。
潜伏期間は長く、感染してから十年後にはげしく症状があらわれる病。
手足の痙攣、眩暈、無気力、誇大妄想、被害妄想、神経を侵されるために、歩行困難になり、膀胱異常がはっせいし、失禁をくりかえす。
人間の尊厳を根こそぎ剥いでいくように、徐々に徐々に進行し、ついには無残な死に至る病。
劉表が梅毒に感染したと思われる十年前といえば、諸葛玄が暗殺された時期とほぼ重なる。
これは天誅かもしれぬ。
荊州のため、とお題目を唱えながら、狩りだすようにして集められた『壷中』の子供たちの受けた残酷な扱いに、荊州牧みずから加わっていたのならば、いま、こうして病のために苦しんでいるのは、抵抗できずに恥辱に耐えるしかなかった子供たちの復讐といえるだろう。
なんと哀れな。どこまで救われないのか。
河原で出会ったあの子供たち、程子聞と仲間たちは、こんな肉塊の欲望のために犠牲となり、死んでいったというのか。

「諸葛亮、無礼であろう。なぜ劉州牧に拝跪せぬ」

凛とした、すこし高めの声が部屋にひびき、ふたたび、ずらりと並ぶ少年たちが拱手する。
玉座の裏の衝立から、劉琮があらわれた。
それでも孔明は立ったまま、きつくねめつける少年を、孔明は、やはり傲然と見返した。
そうして気づいた。化粧をした少年たちが誰に似ているのか。
少年たちは、みな蔡夫人に似ていた。
当然、息子である劉琮は、もっともよく似ている。
「拝跪せよ、諸葛亮!」
と、金切り声をたてて劉琮は叫んだ。
こめかみにぴりぴりくる。
昼間、中庭で文官たちとあそんでいた少年とは、まるで様子がちがい、その少女のような面差しには、残忍な表情が浮かんでいる。
この少年と、兄である劉琦は、容姿はまるで似ていない。
「拝跪せよ、と申したのだ! それともそれが新野の作法なのか! 山猿の軍師め 」
劉備を持ち出されたことに、孔明は一瞬、怒りで我を忘れかけたが、あわてて自制して、おのれを抑えた。
敢然と劉琮を見つめる。

劉琮は、何度かおなじ命令を孔明にしたが、孔明がまるで動こうとしないので、地団駄を踏み、無言の父親を振り返る。
「父上、言うことを聞きませぬ!」
劉表は、もういい、というふうに何度か肯くと、座ったまま、劉琮に手を伸ばす。
劉琮はそれに答えるようにして、甘えるような仕草をして父親に抱きついた。
劉表の手は、あたりまえのように劉琮の腰を抱き、その花の茎のように細く頼りなさげな体を絡めとる。
ざわり、と孔明の背筋が粟立った。
さきほどから、耐え難い悪臭に耐えていたのだが、この光景を見たあとはなおさら、吐き気をこらえるのが辛かった。
尋常な親子関係ではない。
孔明は、劉表を見る眼差しを、いっそう強くした。
病のせいで狂ったか。
息子を宦官のように扱うなど。
「近う」
と、劉琮を片腕に抱いたまま、手招きするように空いた手を伸ばし、劉表は言った 。

劉表が言葉を発するや、それまで、柱や白蝶貝の飾り物と同様に、静かで、気配すら感じさせなかった少年たちが、劉表の言葉を無視しようとしている孔明に呼応するように、その纏う空気を一変させた。
ぴりりと肌を刺すような敵意。
見た目に惑わされてはならない。過度の同情も禁物だ。
彼らもまた、『壷中』の者 、激しい訓練を積んだ兵士なのだ。
背中に、見えない刃を突きたてられたような感覚をおぼえ、それに押されるように、孔明は歩を進めた。
一歩、さらに一歩。

「もっと」
と、手短に劉表は言う。
屠殺場に引き立てられた牛だな、とおのれの様子を笑って、なんとか思考をまぜっかえして正気を保たせつつ、孔明は、ゆっくりと劉表に近づいていった。
これが、かつては、英雄のひとりとまで目されていた男なのか。
『壷中』のこと、叔父のことを抜かして考えてみても、やはりこの哀れな姿には、憤りすらおぼえる。
堪えがたいほどの吐き気が襲ってきたとき、劉表はさらに言った。
「似ておるな」
「父上、だれに?」
甘えた、少女のような甲高い声をだして、劉琮は父に尋ねる。
「諸葛玄という、愚か者だ。孔明よ、お前がいままで生きておられたのは、その面差しが、玄のヤツめに似ていなかったからだ。
だが、儂は考えを変えたぞ。
おまえのその傲慢な目は、おのれの主張が正しいと信じて譲らなかった、あの無礼者にそっくりだ」
「とっとと殺してしまえばよかったのに、なんでいままで生かしておいたの?」
「やつめ、殺されることがわかっていたのよ。甥に手をだしたなら、即座に『壷中』のことを、曹操に仕えている親族にばらす手筈を整えている、と言いおった。
当時、儂は江東の孫氏と荊南で争っている最中であったので、曹操に『壷中』のことがばれれば面倒になると思い、手をだせなかったのだ」

孔明は、ふと疑問を抱いた。
曹操とて、あれほどの大きな権力を短期間で手に入れたからには、『壷中』に匹敵する、後ろ暗い仕事を引き受けるなんらかの集団を持っているはずである。
なのに、なぜ劉表は『壷中』は、奇妙に曹操に『壷中』の存在が知れることを気にするのだろうか。
斐仁が新野で守っていた秘密と、なにか関わりがあるのだろうか。

「ふうん、それじゃあ、こいつ、殺せないの?」
ぞっとするほど無邪気に、劉琮は尋ねる。
聡明そうな少年公子は、昼間とは打って変わって、父親である男に、まるで娼妓のように媚を売る。
実際の年よりも、幼く見える容姿をしているのだが、なぜだか兄の劉琦よりも、その双眸は色あせて、かつての程子聞のように、生き飽いているように見えた。

「ただ殺すだけではいかん。玄徳を怒らせるのは得策ではあるまい」
「でも、仲間になりそうにもないよ」
劉琮の言葉に、劉表は、痙攣の止まらぬ手で、不器用に子の体を撫でさすりつつ、言った。
「仲間にならざるを得なくしてしまえばよい」
「でもこいつ、金で買えそうにないよ」
「金でも買えぬ。脅しも効かぬ。ならば、芯から屈服させてしまえばよいだけのこと」

はっ、と気づいたときには遅かった。
孔明の背後に、先ほどの少年たちが二人立っており、逃げようとした孔明の腕をあっというまに後ろにひねり上げる。
そうして、乱暴に劉表の前に突き出した。
劉表の手が伸びてきて、枯れた震える手が、顎を掴む。
そうして、まるで花でも愛でているような、人を人とも思わぬ無神経な目で語る。
「もっと若ければのう。成長しすぎじゃ、楽しむ気になれぬ…勿体無いのう、諸葛玄が斯様に脅しをしなければ、お前も『壷中』の一人として、存分にしつけてやれたのに。
まあよいわ。馴らす方法はいくらでもある」
劉表は、そう言って孔明の顔をのぞきこみ、黄色い歯をむき出して、笑った。
醜悪な顔をまっすぐ睨みつけ、後ろ手に両腕をねじられた姿勢のまま、孔明は決め付ける。
「おまえは、いったいどれだけの人間に、こんな真似をしてきたのだ」
温かな感触が、ひとすじ、頬を伝って流れていく。
孔明の双眸から、涙がひとすじ流れ出た。
これからおのれの身に起こることを、嘆いたからではない。
恐怖のためでも、屈辱のためでもない。
おのれを、最悪のかたちで篭絡せんとするその性根が、人を人とも思わず、軽々と命をはかる、その軽率さが、震えがくるほど許せなかった。

十年前、叔父もこうして怒りを爆発させたのだ。
まさかこうなるとは思っていなかったとはいえ、子供たちの残酷な運命を決める手伝いをしてしまったことに、責任を感じていたにちがいない。
孤立無援でも、その果てに死が待っているとわかっていても、過去のあやまちを償うために、声をあげずにはいられなかったのだ。
叔父が果たせなかったことは、甥である自分が果たす。
自分は、諸葛玄の甥であり、ほんの一時期だけでも、息子であったのだから。

「泣いているのか。もっと泣きわめいて跪けば、すこしは許してやってもよい」
「犬畜生にも劣る、汚らわしい恥知らずめ! おまえはこうして我が叔父を殺し、子供たちに酷い傷を与えたのだな!」
「その犬畜生に守られて、お前は十年間、平和を謳歌できたのだ。
ほかの英雄と呼ばれるものたちが、領民の男たちに武器を取らせて多くの死を生み出しているあいだ、儂は少数の子供を鍛え、わずかな手勢で敵を陥弄し、排除し、平和を築き上げてきた。
『壷中』がなければ、荊州にはもっと多くの血が流されていたであろう」
「詭弁だ! 間諜や刺客の効用を貴様と論議するつもりはない。
貴様は戦を理由に、さも天命を与えるが如く平然と、無辜の民から子を、親を奪った。それのどこに大義がある? 正義がどこにあるというのだ!」
「なんとくだらぬ甘い言葉か。
もし儂が『壷中』のことを民に伝えたとしても、民は、それが自分たちのためになっているのであればと、同情はするであろうが、怒ることもなく、それを受け入れるであろう」
「ならば、なぜいままでそうしなかった。『壷中』を隠すために必死になっていたのはなぜだ? 
貴様は、自分のことばにすでに嘘があることを知っているのだ。
表面では儒の教えをかたくなに守る素振りをしつつ、裏ではその荊州の守り手である『壷中』を、貴様たちは欲望のはけ口にし続けた。
まさにその身に沁み込んだ毒が、貴様の下劣さを証ししているようなもの。
すでにそのこと事態が、貴様の穢れた舌の吐き出す言葉を否定しているのだ!
 わたしは貴様に与えられた平和を、なにより恥に思うぞ!」

孔明の言葉に、劉表の顔が蝋のように白くなった。
「お前は、決して殺させぬ」
低くうなるような声で、劉表は言った。
「自害も許さぬ。狂うことも許さぬ。ありとあらゆる方法で引きむしり、人が近づくたびに、怯えて泣き叫ぶ宦官にしてくれよう。それから玄徳に送り返してやる。
恥をしみこませた己が身を新野で晒し、とっくりと、いまの言葉を、儂に向けたことを後悔するがよい」
孔明はそのことばにむしろ、笑顔を見せた。
「やってみるがいい。わたしは龍に喩えられた男だぞ。只人である貴様如きに、わたしを潰せるはずがない」
「強がりを」
「貴様は叔父を殺した。そうしていまは、わたしの心を殺そうとしている。
だが、貴様が如何にわたしを殺そうとしても、わたしの心は、貴様になど手の届かぬ高みにある。
いいや、わたしだけではない、どんな人間の心も、貴様は得ることもできなければ、殺すこともできない。
貴様が他者の命や心の尊さを嘲いつづけるかぎり、貴様は永遠に生き地獄に生きるのだ!」
「黙れ!それほど望むのであれば、いますぐ辱めを与えてくれようぞ! おまえたち、この男の両の目をえぐってしまえ!」

少年たちはその言葉を受けて、無言のまま、孔明を引き立てて、部屋の中央へ引きずり出そうとする。
孔明は、おのれの腕を掴む少年たちに叫んだ。
「君たちは、己の身の上に疑問を感じないのか? なぜ、こんな下劣な男の言うがままになっているのだ!
 家族を奪われ自由を奪われ、誇りすら奪われて死ぬことが、君たちの望みではあるまい!」
しかし返答はない。
少年たちにとっては、劉表の命令は『作業』なのだ。
ひどく事務的に、淡々と孔明を引きずろうとする。
そこにはなんの熱もなく、だからこそ、少年たちの心の底辺に絶望を感じ取り、孔明はさらに憤る。
「なにが君たちを沈黙させているのだ? 恐怖か? それとも絶望なのか?
 外の世界のことを教えてやろう! 中原の曹操が、荊州を奪うべく明日にでも軍を進めてくるかもしれぬ。
なのに見たまえ、この男は州牧という地位にありながら、もはや自ら立ち上がることもできず、君らに守られるばかりなのだ。
こんな男にもはやなにも力なんぞない! 君らが怯える必要など、もうなにもないのだ! 
もはや誰からも救いがないと思っているのならば、それはあやまりだ。
わたしが君たちを救おう! わたしはそのために戻ってきたのだ。
もしも君たちがわずかな希望をまだ胸に残しているのならば、わたしの言葉に返事をするがいい。わたしはかならず君たちに答えよう!」

これから、拷問を受けるとわかっている男のことばではない。
怯えが微塵も感じられない、堂々とした態度に、劉表の言葉どおり、引きむしろうとしていた少年たちも、うろたえているのが判る。
孔明の口を塞ごうと、手が伸ばされてくるが、孔明はそれを振り切り、なお叫ぶ。

「わたしには、この男にはない技術を持っている。それは生き残るための技術だ。こんな男の命令に唯々諾々と従って、死ぬことはない。わたしを信じろ!」

その様子を、なにが可笑しいのか、劉琮は足をばたばたさせて笑い転げて見ており 、劉表は、耳を貸すな、早くしてしまえ、と苛立って叫ぶ。
それを上回る大音声で、孔明は叫んだ。

「わたしは絶望などしない、絶対にしない! もしもわたしが絶望する時が来るとすれば、それはこの世が終わる時だ!」

たん

再び、単調に弦が打ち鳴らされる。
場違いに大きく響いた音に仰天し、一斉にみながそちらのほうを向いた。
それまで、単調に、おなじ弦ばかり打っていた白髪の者は、不意に両手を琴に乗せると、虚空を見つめた無表情のまま、複雑にその指を動かして、見事な旋律を奏ではじめた。
孔明を捕らえていた少年たちの手が止まり、ゆるんだ。

その隙を逃す孔明ではない。
孔明は、おのれを掴む手を、思い切り天井に振りあげるようにして、少年たちの手から逃れ、琴を鳴らす者に眼を奪われている少年を突き飛ばし、つづいていちばんそばにいた少年の髪から、簪をもぎ取ると、それを武器にして、追ってくる少年たちに切りつけ、たじろがせ、そのすきに、帆の浪へと突っ込んでいった。

白蝶貝の飾り物が、いっせいにからからと音を立てて揺れる。
孔明が、風にあおられて揺れる帆のひとつをくぐると、ちょうどそれめがけて、手刀が投げられたのがわかった。

「出口を塞げ! この部屋から出すな!」
劉表の命令が重々しくひびく。
孔明は、後ろを気にしつつ、部屋の入り口に、取りすがるようにしてたどり着いた

しかし、開けようとしても、びくともしない。
外側から錠がされているのだ。
すぐ後ろでたなびく帆のうえに、追ってくる少年たちの影が映りこんでいる。
「だれか! いるのだろう、開けてくれ!」
孔明が叫ぶと、意外なことに、返事がかえってきた。
「開けて差し上げてもよろしいですよ。
しかし、こちらの頼みを聞いてくださるならば」
「出来うる限り聞く!」
「この期に及んで、上手な逃げ言葉ですね。絶対に聞いてやる、という返事は期待してはならないのですか?」
「頼みによるからだ。君は、大事なことを頼む相手が、ろくに用件も聞かずに承諾したら、かえって不安に思わないのかね?」

すると、扉越しの向こうの人間は、まったく場に似合わないことに、朗らかに笑う。
「あんたに喋らせちゃいけない、っていうのは、本当だね。あんたなら、舌を引っこ抜かれても、まだ叫んでいそうだ」
「そんなこと」
どうでもいいから、早く開けてくれ、と言おうと息を吸い込むと、同時に扉がからりと横に開いた。

新鮮な夜気が興奮した頭をほどよく鎮めてくれる。
孔明は深呼吸をし、それから肺に溜まった甘い香のかおりを吐き出すために、何度か咳をした。

扉の向こうには、だれもいなかった。
そんなはずはないのだ。
ここは樊城の主たる劉表の部屋だ、扉の前には衛士がかならず待機しているはずである。
それがだれもいない。

いや。

孔明は、だれもいない、というおのれの判断をすぐに撤回した。
いないのではない。いなくなったのだ。
その証拠に、自分の沓に向かって、赤黒い液体が、ゆるゆると流れて伸びてくる。

眼を遣ると、篝火が倒れて、火の消えた炭が、ぱちぱちとちいさな音を立てていた。
その隣に、絶命した兵士たちが無残に転がっている。
どれもすさまじい切り傷を負っている。
鮮血を吹き出させるために、わざわざそういう、斬り方をしたとしか思えなかった。

兵士たちの足元に、立っている人物が振り返る。
平素の文官の服を着て、鎧姿の兵士たちに、よくこれだけの傷を負わせられたものである。
「さすがだな」
厭味でもなく、孔明は素直にそう言うと、その者は振り返り、にっ、と人懐っこい笑みを浮かべた。
その全身は、返り血を浴びて真紅に染まっていたが、不思議と美しさがあった。
命を救われたことで、孔明が贔屓にして見ているからではない。
それはおそらく、強力な戦士に対する、畏怖の念からくるものであっただろう。
「こんばんは、軍師」
と、その者は、血にぬれた武器を片手に、平然と言ってのける。

花安英であった。


                           ※       ※

あの軍師は今頃、無残な体になって劉表の前に崩れ落ちているだろうなと想像し、播天流は腹の底からわくわくして、声を立てて笑った。

城壁の下には、ぽつぽつと明かりのともる、樊城の民家が、夜の帳のした、眠りを貪っている。
そうして城の中では、眼を覆わんばかりの拷問が、繰り広げられているにちがいない。
劉表という男の性質は、播天流はよくわかっていた。
聖人君子然としている部分はあくまで仮面にすぎず、あれほど残酷で身勝手な男もそうはおるまい。
あの男なら、目の前でどんなに凄惨な光景が繰り広げられようと、平然と、それどころか、笑ってみていられるだろう。
そういった甘さの無い人物の作る組織だからこそ、播天流も『壷中』に加わったのだ。
もう甘い人間には用は無かった。仕える主君に夢は抱かない。
掲げるものが、荊州を守るため、という崇高な理念である、ということも気持ちがよかった(そのために犠牲になる子供たちのことは勘定に入っていない)。
孔明は、劉表が、まさかそれほどに濃い闇を抱える人物だと思っていなかったようだが、やはりあれも甘い、というべきか。
いまごろは、仏土人形のように四肢をもがれたか、あるいはいっそ殺してくれというくらいの屈辱にまみえているか。
想像しただけで、ぞくりと身が震える。
孔明の無残な姿を見たら、あの男はどんな顔をするだろう。

綺麗な男であった。
趙雲が、あたらしく劉備に招かれた軍師の主騎になったと聞いたとき、播天流はこっそり様子をうかがいに、新野まで足を伸ばしたことがある。
孔明に対する、樊城での評判はあまりよいものではなかったが、諸国を放浪し、子供たちを集めている、播天流の人物鑑定眼は濁っておらず、なるほど、その美貌といい、雰囲気といい、『眠れる龍』の異名は伊達ではない、と納得したものだ。
同時に、おもしろくない。
趙雲が、優れた人物の主騎になる、という幸運に恵まれたのがおもしろくない。
播天流は、劉備の配下にいて、七年間も飼い殺しされている趙雲の身を、嘲っていた。
武将が体力的に、もっともその真価を発揮できる二十代の貴重な時間を、無為に過ごしているのだ。これほど焦れることもあるまい。
その心中を思うだけで、播天流は満足できた。
だから、手を出さないでいた。
播天流は、狂人らしい飛躍した妄想で、趙雲が絶望の日々を送っているだろうと勝手に決めていた。
趙雲の忍耐強さや、寡黙な中に秘める前向きさを見ていなかった。
孔明の主騎になったところで、つい最近まで腐っていた人間なのだから、いずれひどい失敗をして、主公からも見向きをされなくなるに決まっている。
そも、孔明自身も、劉備の古参の武将とあまりうまくいっていない、という噂が聞こえてきた。

これはうまくいくはずがない、哀れな奴。

ところが、播天流の読みは、はずれた。
趙雲が主騎になったことで、古参武将と孔明のあいだに、かえって絆が生じた。
当初は、暮らし向きのことで頭がいっぱいな農民でさえ知っていた、新野の軍師の苦労話は、徐々に、苦労を乗り越えて仲間たちと絆をはぐくむ、義侠の男たちの美談へと変わっていった。
播天流はおおいに戸惑った。
なぜ失敗が聞こえてこないのか。
どんなに耳をすませても、趙雲への悪評はまったくない。
どころか、孔明の主騎ということで、いぜんよりも新野の中で重要な役割を担うようになった様子で、逆によい評判ばかりが聞こえてくる。
こんな馬鹿なことがあるはずがない。
そう思って、子供を『壷中』の村に連れて行く道中で、新野城に寄った。
趙雲の様子をこの目で確かめるためである。
しかし、そこで斐仁に会ってしまったのだ。
子供たちを集めているのは、いまの村を移るにあたり、人が足りないからだ。
とはいえ、斐仁は播天流たちの動きや思惑を知らない。直接に劉表に繋がっている男である。
これは始末してしまわねばならない、ということで、『風狗』に後始末を命令したのだが、趙雲があらわれたことでしくじってしまった。

またも趙雲。趙雲、趙雲、趙雲!

いつだって重要なときにふと現われて、屈辱だけを残していく、最悪の男。
どうしても言うことを聞かない。どうしても思うままにならない。
あれほど眼をかけてやったのに、裏切って、嘘をついて、帰ってこなかった。
そんな卑怯者が幸運に恵まれて、どうして自分だけが片輪の身を抱えて生きねばならない? 

だが、そんな煩悶も、今夜で終わりだ。
守護すべき人物を守りきれなかった、ぶざまな主騎。
この夜が明ければ、ヤツにはそれ相応の評判が与えられる。
世間はあやつの正体にやっと気づくだろう。
騙されたと知って怒り、あやつを残酷な風聞でずたずたに引き裂くだろう。
もちろん、殺しはしない。
死ぬギリギリのところで救ってやり、苦しみの生涯を過ごさせてやる。
あの時ああすればよかった、こうすればよかったと、一生を後悔のままに過ごさせてやるのだ。

「天流さま、花安英の姿が見えませぬ」
と、兵卒のひとりが近づいてきた。
『壷中』で育てた兵卒のひとりであった。
見目良い若者で、気も利くので便利につかっていた。
ただ、『壷中』の人間らしからぬ性質を備えている。非常に出世欲がつよい。
趙雲と程子聞のことがあったので、播天流は、若いうちからあまりに前へ前へと進みたがる者を警戒するようになっていた。
「自室にはいなかったのか」
「おりません。城内をくまなく捜しましたが、影も形もございませぬ。逃げたのでは?」
「それはあるまい。もっとよく捜せ。この樊城には花安英の兄弟がいるのだぞ。それを見捨てて、出奔するはずが無いのだ」
若い兵卒は、承知いたしました、と答えたが、その顔にはありありと、そんな理由だけで花安英を信じてよいのか、という不服の表情が浮かんでいる。

播天流の最大の目の上のコブが趙雲ならば、花安英は頭痛の種であった。
幼少の頃は、なんでも大人しく従うよい子供であったのに、成長してきてからは、おのが技術を鼻にかけ、播天流にすら堂々と悪態をつくようになっていた。
しかもその性分は淫蕩きわまりなく、程子聞だけではなく、ほかにもいろいろな男を誑し込んでいるらしい。
だが、播天流がいままで育てた子供たちの中でも、図抜けた技術を持っているのはたしかだ。
だから、播天流は、花安英が少々、ハメをはずしたところでうるさく言わない。
束縛をなにより嫌う少年なので、口を挟むとヘソを曲げるからだ。
いなくなったのも、単なる気まぐれにすぎないのだろう。
そういうむらっ気さえなくなれば、あいつこそが、いままで見た子供の中で一番になれるというのに。
いまいましいことに、一番は趙雲である。
趙雲ほどに、すさまじいまでの才能と技術を持つ少年には、播天流はいままで出会っていない。
そうして、播天流は舌打ちする。
また趙雲。なにを考えても趙雲なのだ。
いっそこの世から抹殺してしまおうか。
ついでに自分の記憶から趙子龍という男も消してしまえればどんなによいか。

「申し上げます!」
城壁の上で、闇を睨んで歯軋りをする播天流のもとへ、兵卒が飛び込んできた。
「諸葛亮が、逃げました!」
「なんだと! 州牧につけていた『壷中』の者は、なにをしておったのだ!」
播天流がきびしく決め付けると、兵卒は、平伏したまま、それが、と言葉を濁す。
「どうした」
「おりませぬ」
いない、つまり逃げた、ということか? 
その言葉の意味を掴むのに、播天流はしばしの時間を要した。

『壷中』で徹底した訓練を受けた子供たちが、任務を放棄して逃げる、などということは考えられない。
劉表につけていた子供たちは、播天流が特に選び出した子供たちであり、揃って少女のような面差しをしているが、それぞれが腕の立つ刺客でもある。
人殺しの経験すらないであろう諸葛亮が、すべて倒したというわけでもなかろう。

「諸葛亮を追っているのではないのか」
報告をした兵卒は、はあ、と生返事をした。
その調子は、そうであったのならばよいのだが、というためらいが含まれている。
「劉州牧が追わせているのかもしれぬ。劉州牧はなんと?」
「痙攣の発作を起こされまして、口が利けませぬ。いま、劉琮さまと蔡夫人がご看病なさっております」
「樊城に連れてきた時点で、あやつの舌を、切り取ってしまえばよかったのだ」
ぼそり、と、播天流はつぶやく。
諸葛亮。どんな妖術を使ったかはわからぬが、おそらくは、劉表を激昂させ、隙を生じさせ、うまく逃げ出したのだ。
捕虜を得たならば、相手の武器はすべて奪うのは当然の処置。
兵士ならば武器を、論客ならば舌を切ってしまえばよい。
播天流はきつく眉をしかめた。
竜髯が風になぶられて泳ぐ。
深い闇に落ちる樊城の街を眼下におさめつつ、播天流は唸った。

またも思い通りにならない。
播天流は、劉表の気が済んだなら、孔明を引き取って、城壁に吊るしてやるつもりだった。
もちろん、生きたままである。
殺してしまえば、劉備のことだから、すぐさま手勢を引き連れて樊城へやってくる。
さすがの播天流も、理屈や策謀を突き抜けて、感情のみで動く義侠の集団と、まともにぶつかるつもりはなかった。
連中の相手をするのは、冷徹な計算と論理で鍛え上げられた軍団をもつ、曹操がするべきだ。
ともかく、孔明を城壁に晒せば、それを奪還しようと趙雲は必ずやって来る。そこを捕らえるつもりであった。
孔明を守りきれなかったという、不名誉と同等に、孔明とおなじ、あるいはもっと酷い目に遭わせて、生涯消えない傷を負わせてやるつもりであった。
またも切り札は消えた。
しかし、孔明はまだ樊城からは出ていないのだ。
樊城の出入り口は、すべて兵卒たちで固めてある。いくら智恵者でも、これを突破するのは容易ではない。

つづいて、べつの兵卒が、播天流のもとへと飛んでくる。
「申し上げます! 劉州牧のお部屋の衛士たちが、みな殺されておりました」
「なんだと? ばかな!」
播天流の咆哮にも似た声に、兵卒はおそれて縮こまる。
趙雲か? 趙雲がもう来たのか?
「案内せよ、直に確かめる」
そう言うと、播天流は劉表の部屋へと向かった。

第四章 涙 5へつづく
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