孤月的陣
第四章 ナミダ 涙
③
「『壷中』か?」
趙雲は、孔明を守るようにしてその前に立ち、薄闇につつまれはじめた周囲を睥睨する。
しかし、前方にだけではなく、兵士たちは孔明たちの背後にまで配置されていた。
のんびりとおしゃべりをしている間に、機を失したな、と孔明は思ったが、さほど苛立ちはしなかった。
花安英の動きを見ていれば、『その男』の行動もだいたい読めた。
そいつが、趙雲から目を離すわけがないのだ。
すでに東の空には、一番星が輝き始めている。
兵士たちの姿は、もはや輪郭でしかなく、個々を識別するのがむずかしい。
あの中に、蛾が焔にみずから巻かれるように、いずれは自らを滅ぼすと知りながら、嫉妬の炎に身を焦がす男がいる。
趙雲は、孔明を庇うようにして両手をひろげ、そして振り返らずに、緊張した声色で言った。
「馬に乗れ」
ああ、と返事をすると、趙雲はさらに周囲を睥睨しつつ、加えた。
「俺から離れるな」
孔明は、これにも、ああ、と返事をした。
孔明が馬に乗るまで、自分たちを取り巻く兵士たちが、おかしな振る舞いをしないように見張っているつもりなのだろう。
緊張に強ばる背中は頼もしく、趙雲ならば、相手がたとえ千騎もの軍勢だったとしても、なんとかなりそうに思える。
孔明は思わず、微笑をもらした。
もし、生まれ変われるとして、誰になりたいかと問われれば、ほとんどの男が、趙雲のような男になりたいと答えるだろう。
男としての、すべての天分に恵まれた男。それが趙雲である。
強く、美しく、聡明で、男気にあふれた気質を持っている。こんなふうに、凛とした生き方をしてみたいと思うだろう。
自分のように自負心のつよい人間が、これほど完璧に近い人間をとなりに置いて、それでもなお平静でいられるのは、立場がちがうからにほかならない。
もしも、自分も武将として、趙雲と轡をならべる立場であったなら、おそらく嫉妬どころの話ではないだろう。
糜芳が理由なく趙雲を憎む理由が、孔明には、なんとなく理解ができる。
完全なものには、隙がない。
完全なものを前にしたとき、人はただぼう然と、不完全なおのれを持て余し、立ち尽くすしかない。
孔明は、目を閉じ、息をついた。
おのれの覚悟を固めるためであった。
この期に及んでも、まだ迷っている。趙雲たちと共に、新野に逃げること。
いまやすっかり馴染み、わずか数日間、離れていただけで、これほど仲間たちを恋しく思う自分におどろきつつ、彼らと合流し、ともに襲い来る波に対抗することができたなら、どれだけ心強いだろうと、心から思う。
だが、いま、新野に帰ってはだめだ。
なにも解決できないまま、争いだけを新野に持ち帰るような真似はできない。
孔明は、目を開き、さらに濃くなる地平の闇と、それから、手を伸ばせば届く距離にいる趙雲を見、そしてきらきらと星の瞬く空を見あげた。
『叔父上、貴方が命に替えてお守りくださった者は、けしてともがらを見捨てるような、臆病者には育ちませんでした』
心の中でつぶやくと、もう怖じまい、と決めた。
「亮さま、お早く」
老人にうながされ、孔明は手綱を持つ。そして、趙雲とおなじように、周囲を警戒する老人に言った。
「じいや、貴方の忠誠を、わたしは信じてもよいだろうか」
「もちろんでございますとも。なんなりと、それがしにお命じ下さいませ。亮さまのご命令であれば、この爺は、あんな兵卒どもも、紙を千切るようにして薙ぎ払ってご覧に入れましょう」
孔明は、ふたたび微笑を浮かべる。
叔父の遺してくれたものは、なんと素晴らしいものばかりであったのだろうか。
老人が、ほかならぬ叔父の部下であった武人だ、と知ったとき、孔明は子供のように飛びついて、喜びを示したいほどであった。
趙雲の手前、そうはしなかったけれども。
「ありがとう。それでは、さっそくお願いしたいことが、あるのだけれどね。わたしはこれから、やはり樊城へ行こうと思うのだよ」
「判り申した。それがしは、不遜なあの石頭とは違いますぞ。亮さまの命令とあれば、火の中、水の中まで共に参りましょう」
「共に行ってほしいのは、その石頭と一緒に、なのだよ。子龍を守ってやってはくれぬか」
「なんですと? それでは、亮さまは、だれが守るというのです?」
「わたしは大丈夫だ。だれもわたしには手を出せない。叔父上と一緒にはならないよ」
ですが、と反駁しようとする老人に、孔明は、じっと、その冴えた眼差しを当てる。
弁舌の術を学んで悟ったことは、言葉はただの道具にすぎないという、至極あたりまえの真理であった。
本当に伝えたいことがあるときは、相手の目を真剣に見据えるのだ。
邪推も疑念もすべて突き抜けて、こちらの本音をひたすら訴えるのである。
やがて、老人は、つと目を逸らし、首をちいさく振った。
「こうと決められたら、けして譲られぬところは、叔父君にそっくりだ。判り申した、従いましょう。しかし、お約束くだされ、かならず生きて戻る、と」
「わかった。かならず」
孔明が騎乗したのを見て、趙雲も素早く、おのれの愛馬にまたがった。
老人と斐仁も、草むらに隠していた馬に飛び乗る。
趙雲と轡をならべると、孔明は、そのまたがる赤い馬を見た。
馬も孔明の心がわかっているのか、大きな眼をきょろりと動かす。
「子龍、許せよ」
孔明はそう言うと、騎乗したまま、足を伸ばすと、真隣りにならぶ、趙雲の馬の腹を思いきり蹴り飛ばした。
馬は、それが合図といわんばかりに棹立ちになり、夜闇に高らかに泣きさけぶと、猛然と駆けだした。
「行け!」
孔明が合図すると、同時に、老人と斐仁も、疾駆する趙雲の愛馬を追った。
愛馬は、矢のように、兵卒たちのど真ん中めがけてかけていく。
突然の馬の暴走に、兵士たちがうろたえ、整列が崩れたのが見えた。
しかし、さすがは訓練された兵卒である。
うろたえから素早く立ち直ると、おのおの、槍をつがえて立ち向かわんとする。
だが、趙雲らの勢いのほうが、はるかに早かった。
彼らが槍をつきたて、行く手を阻むよりはやく、趙雲の馬は翼が生えたように地面を蹴りあげ、兵卒の列をおおきく飛び越していった。
つづいて、老人と斐仁の馬が、あわてふためく兵卒たちの隙間をつくようにして駆け抜けていく。
「弓兵用意! 奴らを逃がすな!」
と、兵卒の長が怒鳴るのが聞こえた。
それに負けじと、ひとり残った孔明は、声を張り上げる。
「樊城の兵士たちよ、『壷中』の者よ! 諸葛孔明はどこにも逃げはせぬ! 諸葛孔明はここにいるぞ!」
雷鳴のようにひびくその声に、趙雲たちに気を取られていた兵士たちは、一斉に孔明のほうを見た。
弓兵たちが、混乱のあまり、孔明に向かって弓を番える。
まずい、と孔明は思ったが、身じろぎもせず、敢然と兵士たちを見据えた。
おのれを取り囲む兵士たちの我が、徐々に縮まっていく。
「兵士たちよ、弓槍をおさめよ! その者を傷つけてはならぬ!」
兵卒の壁の背後から、低音の、よく通る男の声がした。
その声に、兵卒たちが、さあっと、潮が引くように道を開ける。
兵卒のともした篝火のなかに浮かび上がるその男は、小ぶりな馬に乗っていた。
想像以上にちいさな男であった。
そして、想像以上に、優しげな、誠実そうな顔をしていた。
孔明は、兵士たちが男に向ける眼差しに、恐怖と戸惑いが混じっていることに気づき、気をゆるしてはならぬと、おのれを戒めた。
この男の前では、人の命の価値はおどろくほど安い。
だれよりも正義感にあふれ、だれよりもおのれを信じ、そして、だれよりも残酷な男。
この男の内側にひそむ、溶岩にも似た、負の感情の流れを読むことができなければ、孔明はきっと、いまもって事態を把握できず、趙雲とともに新野に逃げ帰っていただろうと思う。
この男の存在に気づいたのは、なぜ、斐仁の口封じに失敗した男が、一転し、斐仁をつかって、程子聞を暗殺させようとしたのか、という疑問からであった。
そして、斐仁が『風狗』に襲われたときに、趙雲が聞いたという、民謡。
曹操が南下してくる、という情報は、荊州のありとあらゆる階層の人々とを揺るがした。
その衝撃は『壷中』にも走ったはずである。彼らはどうすべきかの指示を、樊城に仰いだにちがいない。
それがどんな指示であったのか、孔明にはわからない。
ただ、無比の忠誠を誇るはずの『壷中』が、動揺するほどに、納得の行かない指示であったのはまちがいないのだ。
刺客という過酷な職業に耐えうるには、高額の報酬か、信仰にも似た理念が必要だ。
それが揺らいでしまえば、刺客の、その切っ先は鈍くなる。
お家騒動に明け暮れる樊城の様子を見て、『壷中』は…いや、『壷中』の一部は決断をする。
すなわち、樊城の指揮をはなれ、独自に動くこと。
この時期に、糜竺が新野を動かざるを得なかったのも、舅の黄承元が失踪したまま行方がしれぬのも、おそらく『壷中』内で争いが発生したからだ。
それを止めるために、糜竺は樊城から『壷中』の隠れ里へと向かった。
糜竺が『仇讐は壷中にあり』という言葉をのこしたのは、叔父の玄の死の真相をしっていた糜竺が、おのれが戻らぬとき、孔明がその言葉をたどり、『壷中』の存在に行き当たれるようにと考えたからだ。
事実、孔明が『壷中』の存在を知ったのは、糜竺の言葉ゆえであった。
糜竺がどうなったかはわからない。
おそらく、『壷中』のなかでも、糜竺はそこでも穏健派であったにちがいないのだ。
その糜竺が新野に帰れない状況にあるということは、『壷中』のなかで反乱が成立しつつある、という証拠である。
反乱に成功した『壷中』は、曹操と対立するよりも、その傘下に組み込まれるか、あるいは他勢力に組み込まれることを、選んだのではないか。
そこで、自分たちの仲間を増やすべく、混乱に乗じて、子供たちを攫った。
もし忠実に荊州を守るためならば、いまさら仲間を増やし、教育したところで、とうてい曹操の南下には間に合わない。
むしろその労力を、曹操側の内情をしるための密偵に使うべきだ。
そうしなかったのは、反乱『壷中』にとって、曹操は目下の敵ではなくなったことを意味する。
子供たちを攫ったはいいが、それを迂闊にも、斐仁に見られてしまう。
斐仁は、『壷中』の外に七年間いた男だ。
まだ『壷中』のなかで反乱がおきたということを知らない。
斐仁がそれを知り、樊城の『壷中』…豪族たちに報告すると厄介だ。
そこで、斐仁を暗殺することにした。
そして、斐仁の抱える秘密を暴露し、世間の目を樊城の『壷中』にむけさせ、そのあいだに、自分たちは独立をする。その予定であった。
『風狗』はその意向を受けて、斐仁を襲う。
しかし、そこへ『風狗』を捕縛せんと追って来た許都の役人、朱季南に邪魔され、果たせなった。
ここで、いちばんの大番狂わせが発生するのだ。
その現場に、趙雲があらわれた。
反乱『壷中』の中枢を為す『この男』は、久方ぶりに見た趙子龍の、以前とかわらぬ勇姿をどう見たか。
おなじ荊州にいたのだ。噂くらいは耳にしていただろうが、実物を目の前にするその衝撃というのは、噂程度で感じたものを、はるかに上回るものであったろう。
孔明には想像がつく。
おそらく、胸を焼き焦がすような、はげしい苛立ちと嫉妬だ。
それなりに才能があればこそ、趙雲のすごさは見抜くことができる。
かつての趙雲と、まるでかわらぬ颯爽とした姿を前にして、『その男』は動揺し、冷静さを失った。
そして、大きく道を踏み外す。
さらに悪いことに、朱季南までが新野にあらわれた。男の脳裏に浮かんだのは、なんであっただろうか。
斐仁の暗殺にも失敗した。その斐仁も、趙雲の部下。
そして趙雲は、かつて『壷中』に暗殺された男を叔父にもつ、諸葛孔明の主騎である。
『その男』は、本来の目的である、『壷中』の独立を忘れ、私憤を晴らすことを主眼にしてうごきはじめる。
そして貪欲にも、すべての決着をつけることを考えた。
おのれの胸の嵐と、『壷中』の過去の清算、そして裏切り者の粛清のすべてに、一気に決着をつけようと。
斐仁が、おのれを襲ってきた『風狗』の顔を見ていないことをよいことに、『その男』は朱季南こそが『壷中』の刺客であると嘘をおしえ、朱季南にはこっそりと阿片を盛る。
斐仁が朱季南を片づけているあいだ、『その男』は斐仁の家族を無残にも惨殺する。
そして、斐仁が逆上し、樊城へやってくることを読み越して、樊城に先回りをし、『風狗』とともに、裏切り者の程子聞を始末したのだ。
そして、あらわれた斐仁に、程子聞の殺害の罪をなすりつける。
最初に発見者となって、花安英に騒がせ、そして捕らえさせた。
劉琦の側近となっていた程子聞が、趙雲の部下に殺されたとなっては、新野の劉備は、筋を通すために、趙雲を樊城に差し出すだろうというのが、『その男』の計算だった。
そうして、罪人としてあらわれた趙雲を、堂々と殺すつもりであったのだろう。
ところが、そうはできなかった。
ほかならぬ、劉備と趙雲の信頼関係、孔明と趙雲の信頼関係、劉琦と程子聞の信頼関係、程子聞と孔明の信頼関係、劉備と劉琦の信頼関係……七年間のあいだに、この地ではぐくまれてきた、ありとあらゆる絆が、男の思惑を崩したのだ。
孔明の機知により、趙雲は樊城にやってくることになったのだが、『その男』はそのお陰で、かえって趙雲に手が出せなくなってしまった。
下手に動けば、樊城の、一部の仲間が叛乱を企てているということをしらない『壷中』に、反乱の事実を嗅ぎつけられてしまうからだ。
樊城の人間は、斐仁を殺さなかった。
このことから、樊城に残っている『壷中』が、前線を担当していると思われる反乱『壷中』の動向に、気づいていないことがわかる。
斐仁を殺してしまえば、『壷中』のいちばん守りたい秘密とやらは守られるが、劉備の信頼は失われる。
樊城の『壷中』からすれば、前線を防衛する劉備は大事なのだ。
反乱『壷中』のほうも、いま、反乱を気づかれるわけにはいかず、斐仁を生かした。
そこで仕方なく、花安英を趙雲の監視につけた。
だが、趙雲には隙がなく、斐仁の証言や、程子聞の手紙、孔明の少年時の記憶などがきっかけで、男が思っていた以上に早く、孔明は真相に近づいてしまった。
『その男』は、すべてが後手になってしまったので、焦っている。もうなりふりを構わなくなっている。
『その男』にとって、諸葛孔明はどうでもよいのだ。
狙いはただひとり。
おのれの暗い部分を、えんえんと刺激し続ける、趙子龍。
「お初にお目にかかる。諸葛孔明殿か」
そうしていま、『その男』を、孔明ははじめて目の前にしている。
おだやかで、淀みのない話し方をする男だ。
人をまっすぐと見据える目線は力強い。
どっしりした大樹を思わせる風格すらある。
「左様。わたしもあなたに直に会うのは初めてではあるが、よく話はうかがっていたので、初対面ではないような気がする」
男は、鷹揚な笑みを浮かべて、尋ねた。
「ほう、それがしの話をだれから?」
「子龍から」
その名を出すと、案の定、『その男』の落ち着いた矜持が、ほんの一瞬、ぐらついた。
垣間見える、はげしい憎悪。
ふしぎと孔明は、そこに嫌悪を抱かなかった。
哀れだと思った。
おのれを他者と比較しないで生きていられる人間がいるだろうか。
嫉妬や憧れが成長の起爆剤になり、人はそれぞれ生きていく。
この男には、どうしてもそれができなかったのだ。
憎悪があまりに膨らみすぎてしまい、おのれで抑えることすら、できなかったのだろう。
そこに、始め、『その男』が、趙雲にどれだけの愛情を注いでいたかがわかる。
可愛さ余って憎さ百倍。おのれが庇護した少年は、目を見張るほどの成長を見せて、おのれをはるかに凌駕した。
その成長を止めようがなかった。
留めておくこともできず、捨てられたという、屈辱的な思いだけが残されたのだ。
趙雲に他意はなかった。人の気持ちに鈍感であったわけでもない。
ただ、この男の求めるものに、趙雲が応じることはできなかったのだ。
その性が、趙雲とこの男ではあまりに違いすぎた。
不意に、闇を薙ぎ払うようにして、『その男』が笑い出した。
周囲の兵士たちは怖じて『その男』を盗み見、孔明の騎乗した馬が、驚いてたたらを踏む。
「おさすが。すでに慧眼にて、すべてを見破られたというのか。その口ぶりが強がりなどでなければ、それがしの名も、すでにお分かりのはず」
「播天流」
「そのとおり」
『その男』…播天流は、おもしろそうに目を細め、孔明を見る。
「貴殿は、かつて子龍を、袁紹の義勇軍から公孫瓚のもとに導いた人物、そして公孫瓚の滅亡後、『壷中』に加わり、いま、その理想を叶えるために、樊城の人間を裏切り、独自にあたらしい『壷中』を組織している人物」
「そのとおり。黄家の爺ぃが、貴殿を警戒する理由がよくわかる。貴殿は聡すぎるのだ。『壷中』にいれてしまえばよかった、などと樊城の人間は嘯いていたがね、それがしは、貴殿のような男が『壷中』にいたら、分裂は、曹操の南下なぞ待たずに起こったのではと思う」
「思いもかけない高い評価をありがとう。ところで、わたしは樊城へ行きたいのだが、あなた方は、わたしを案内してくれるために、出向いてくれたとみてよいのかな?」
孔明の言葉に、播天流は、面白そうに鼻を鳴らした。
「樊城に向かい、それでどうされる? それがしの反乱を報告するのかね?」
「もしそうだとしても、あなたに喋ると思うか? 正直なところ、わたしはあなたと口を利きたくない。叔父のことを思えば、復讐の心がもたげてくるのも事実なのだ」
「それがしは、貴殿の叔父君とは関係ない。その頃はまだ、片輪になったこの身をもてあまし、天下を流浪していた頃だ」
「それでも『壷中』にはちがいない。あまたある農民たちの声を聞いたつもりになって、その代表として、正義の味方を気取っている男に、用はないのだ」
「辛辣だな」
「そうかな? 所詮おまえは士人であるから、農民のことは他人事なのだ、などと思っているのならば間違いだ。大局を見ずに、砂上の楼閣を築き、人の運命を翻弄しているのはあなただ。
曹操の南下を知らせる狼煙は、明日にでも上がってもおかしくないというこの状況にあって、あなたは、人を混乱させることしかしていない」
それまで、鷹揚な笑みを崩さず、余裕の面持ちをみせていた播天流の顔が、はじめて濁った。
「ならば、貴殿はなにをするつもりなのだ?」
「農民も士人も豪族も関係ない。わたしは荊州人のすべてを救いたい。
豪族だけしか見ていない樊城の『壷中』と、農民だけしか見ていないあなたの『壷中』は邪魔だ。道を開けてもらいにゆく」
「なんと不遜な! 口ばかりならば、なんとでも唱えることができようぞ、小僧!」
「黙れ。二度と言わせるな。わたしはおまえと口を利くことすら、いとわしいと思っているのだ。おまえはわたしの友を傷つけた。
さらにまだ、わが行く手を阻むというのであれば、もう容赦はせぬぞ」
「たった一人で武器ももたぬ貴殿に、なにができると?」
「人を殺すために必要なのは、武器ばかりではなかろう。それに、いまのおまえは、わたしに、髪の毛ひとすじほどの傷を付けることもできぬはず。
樊城の『壷中』に、おまえの反乱がばれてしまうからな」
「そこまで読み通しての言葉か。子龍は、良いともがらを持ったものだな」
「ムダ口は利かぬ。さあ、樊城へ参るぞ」
播天流の目に、苛立ちと殺気を読み取りつつ、孔明は傲然と頭をあげて、兵士たちに囲まれるようにして、樊城への道を向かいだした。
※ ※
「止まれ、赫曄! 止まれ!」
咽喉が涸れるのではないかと思うくらいに、なんども同じ言葉を愛馬に命じたが、赫曄は狂ったように、めちゃくちゃに闇のなかをかけ続け、追っ手を巻いてもなお、速度をゆるめずに駆け続けた。
気づくと、もうあたりはすっかり夜の帳につつまれていた。
さすがの赫曄もへばったのか、途中でぴたりと足を止めてしまった。
潰れなかっただけでも幸いだろう。
俊足をほこる赫曄に、大きく引き離された老人と斐仁の馬が、ようやく追いついたのが、月明かりに浮かび上がる、その影でわかった。
趙雲が、いま駆けてきた道を戻ろうと、ふたたび馬首をめぐらせると、老人が、手を伸ばし、趙雲の手綱を横から奪い、叫ぶ。
「この莫迦め! どこへ行くつもりだ!」
「どこへ、だと? 決まっている、樊城だ!」
「落ち着け、それでも主騎か!」
「主騎だからこそ戻るのだ! その手を離してもらおうか!」
「どこまで莫迦なのだ! 亮さまが、なんとしても貴殿を逃がすために、こうまでしたのがわからぬか!
いまおめおめとおまえが戻れば、亮さまのご配慮も無駄になってしまうわ!」
「俺を逃がすためだと? いったい何故だ!」
しかし、その問いに答えられる人間は、この場にいない。
自らを陰謀の道具につかった播天流に、面識のある斐仁でさえ、播天流の名を知らないのだ。
「さいわい、この道は新野へつづいている。このまま夜通し駆ければ、昼には新野へ着くであろう。
亮さまの言うとおり、劉予州のもとへゆき、兵を連れて樊城へ戻るのだ」
「戻って、それでどうする? 新野の人間にあれこれと事情を説明しているあいだに、軍師の身に何事かが起こったらどうするのだ!
あいつは、人の性の恐ろしさと言うものを判っておらぬ! 人に対して、楽観的に過ぎるのだ。二十八になるまで、五体満足に生きてこられたのは、つねにおのれを庇護してくる人間に、恵まれていたからに過ぎぬ!」
「亮さまは、そのことを忘れているのではない。
判っているからこそ、おのれを守ってくれた者に恩義を返すためにも、一人残られたのだ」
「莫迦な…『壷中』が、いま軍師がいうとおりに、二つに割れているというのであれば、樊城の『壷中』はたしかに軍師を殺さぬかもしれぬが、もう一方の『壷中』は、軍師に何をしてもおかしくない、ということだぞ」
「いいや、連中が狙っているのは亮さまではない。おまえだ!
おまえがのこのこ戻り、殺されてしまったならば、亮さまのお心遣いもすべてムダとなってしまう。それだけはさせぬぞ!」
老人は、手綱をふたたび強く持ち、趙雲をはげしく真正面から睨みつける。
「なぜ、俺なのだ。俺は『壷中』なぞ知らぬ!」
「おまえが知らんと思っていても、向こうがよく知っているのではないか。
われら武人は、いくたの命を蹴散らしてゆく、この世でもっとも呪われやすい立場にある人間だ。
そのなかで、はげしい恨みを買ったとしても、いたし方あるまい。それが嫌だというのならば、戦うことを止めるしかないのだ」
「ならば、こんな薄汚い手を使わずとも、直接、俺の目の前に現れればよいではないか!」
「苛立つな! 冷静さを欠けば、それだけ事態は悪くなる。亮さまは、おまえがすべてを見ている、とおっしゃっていた。
冷静に思い出せ。心当たりはあるはずだぞ」
老人の言葉に、趙雲は息をつき、額に手を当てる。
「わからぬ…荊州に来てからの話なのか? 斐仁、おまえが新野で見たというその男、俺のことを話していたことはないか」
「ございませぬが…新野の様子を知りたいと言って、いろいろ話して聞かせてやったことはございます。
ただ、特別にあなたさまのことばかり聞かれた、ということもありませんでした」
「ほかに、なにか無いか。さきほど語ったことでもよい」
「偽名をたくさん持っていて、本名はだれにも明かしていないのです。
片輪なのは、以前に仕えていた家が滅んだときに、敵に捕らえられ、そのときに負ったものだと言っておりました。
それと、幽州の漁村の出自とかいう話も耳にしました」
荒い息を吐きつつも、淡々と答える斐仁の、のっぺりした顔を見つつ、趙雲は不意に、朱季南と再会した夜のことを思い出していた。
空屋敷に目が行ったそもそものきっかけは、斐仁の姿を見かけたからではない。
歌が聞こえたからだ。
いまでも鮮やかに覚えている。
袁紹のもとから、公孫瓚の居住する薊へ向かうまでの道のり。
そのなかで、ほかに同じように見出された少年たちとともに、あの男が歌っていた歌だ。
ぞおっと、怖気が立った。
「播天流か?」
そんな莫迦な、と趙雲はすぐさま打ち消したが、しかしそうだと考えると、偽名を使っているのも納得がいく。
ともに公孫瓚のもとに身を寄せていた劉備たちも、播天流の名前を知っている。
彼らや趙雲に、その名が漏れるのを恐れているのだ。
孔明は、それに気づいたのだ。播天流のことは、新野の自室で語っている。
空屋敷で播天流の歌が聞こえたこと、程子聞の遺体をはじめに見つけた片輪の男、斐仁が偶然に新野で再会した片輪の男。
斐仁をめぐる陰謀の、ゆがみきった動機。
敵の本当の標的はだれなのか。
それらを重ねあわせて、播天流の存在を導き出したにちがいない。
そして、趙雲を逃がした。
「あの莫迦が!」
武人を捨て駒にして、自分たちは家財道具一切を持って逃げていく。そういう連中は山ほどいる。
自分たちの読みが浅いくせに、作戦の失敗をすべて武人のせいにして、処断を下して、生き延びた奴もいた。
生と死のやりとりを、実感として受け止めていないから、人の命の尊さが、口ばかりで、ほんとうにわかっていない者もいる。
いったい、どこまでひねくれているのか。
あの軍師は、おのれの盾を守るために、わざわざ自分が敵の前に立った。
叔父の復讐を果たすためではない。いま現実にある、いわれない悪意に対抗するためだ。
それが自分に向けられているわけではないのに、身を投げ打って、助けようとしている。
ほかならぬ、自分を。この趙子龍を。
「どうやら、解答が得られたようだな。で、どうするのだ」
あくまで冷徹な老人が問う。
「樊城へ戻る」
老人が、またなにか言わんとしたが、それを制するようにして、趙雲は先んじて言った。
「俺はこのうえなく冷静だ。播天流のことは、軍師より俺のほうがよく知っている。あれは、ひどく身勝手な男なのだ。全体の利害などよりも、おのれの感情を優先にする。下手をすれば、やはり軍師の身があぶない」
「どうしてもか」
「どうしてもだ。こうしている間にも、軍師の言葉に刺激され、播天流が心変わりをして、軍師に害を為しているかもしれぬ。急がねば」
「む…命がけで止める、と言いたいところであるが、それでは本末転倒。もし戻る、というのであれば、それがしも共に参ろう」
「樊城には『壷中』しかいないわけではない。伊籍や劉公子に連絡し、かれらと連動して軍師を助けるのだ」
「なるほど、冷静だという言葉は信じてよいようじゃ。しかし、新野への連絡はどうする」
「それは、わたくしめにお任せを」
と、斐仁が趙雲の前に進み出た。
ためらいを見せる趙雲に、斐仁は鋭い眼差しを向けてくる。
「七年間、皆様方を騙してきたわたくしを、信じられぬというのも無理はないこと。しかしそこを曲げてお願い申し上げます。どうぞ、わたくしめにこの役目を。
わが一族を無慈悲に惨殺した『壷中』を潰すためならば、わたくしは犬馬の労をいといませぬ」
賭けである。
斐仁をつれて樊城へ向かったほうがよいのは決まっている。
しかし、新野への連絡に、新野のだれとも誼のない老人が向かって、劉備にまで報告が届くのに、時間がかかるようでは駄目なのだ。
斐仁が戻れば、新野の人間はおどろくであろう。
おどろくであろうが、かえってその言葉に耳目をあつめやすい。
しばらく悩んだすえ、趙雲は決断した。
「わかった。おまえが新野へゆけ。ただし、まず向かう先は屯所ではだめだ。
陳到のもとへゆけ。あれならば、軍師からの直接の指示を受けているから、おまえの話も飲み込みやすいはず」
待て、といって、趙雲は、近くにあった木から素早く木片を削り取ると、そこに、
「信じよ」
とだけ彫りこみ、下におのれの名前を書いて、斐仁に持たせた。
「これを見せれば叔至も信用するだろう」
「判り申した。それでは、さっそく参ります。趙将軍も、お気をつけて」
斐仁はそれだけ言うと、新野へ向けて、馬を疾駆させた。
残されたのは趙雲と老人だけである。
「さて、樊城へ向かうか。ところで遅まきではあるが、俺は貴殿の名を知らぬ。教えてはもらえぬか」
「おお、そうであったかな。それがしは名乗ったとばかり思っていたが」
と、老人は、カカカ、と笑った。
若い頃は、張飛のような豪快な男だったのでは、と思わせる、明るい雰囲気をもつ老人である。
「では俺からあらためて名乗ろう。常山真定の趙雲。字は子龍だ」
「それがしは南陽の産にて、姓を黄、名を忠、字を漢升と申す」
「黄漢升どのか。では、われらも参るぞ」
そうして、ニ騎は樊城への道を走り出した。
※ ※
まるで王侯貴族の出迎えのような人出であった。
ただし歓迎をあらわすものはなにもなく、代わりにあるのは沈黙と好奇心、そして敵意だ。
門には、樊城の人という人、すべてが集まってきたような錯覚さえおぼえる。
ぱちぱちと火の粉を飛ばす篝火が、集まってきた人々の顔を赤く照らし出す。
その群れのなかに、知り合いの数がすくないことに、孔明は安堵していた。
舅もいなければ、糜竺もいない。やはり、彼らは播天流らに囚われているのか。それとも、もうあの世へと先に逝ってしまったのか。
沈黙し、あるいは近隣の者と、ひそひそ話をする人々の最前列には、ずらりと兵士たちをうしろに並べた、ものものしい鎧姿の蔡瑁がおり、孔明の到着を待ち受けていた。
蔡瑁のかたわらでは兵士たちが、新野から連れてきた従卒たちを後ろ手に縛って、咽喉元に刃をつきたてている。またある者は、孔明がおかしな態度を取らないようにと、弓を構えている。
「文官ひとりに、たいした歓迎ぶりだな」
と、孔明がつぶやくと、傍らにいた播天流が答える。
「貴殿には、次に何をするかわからぬところがあるからな。予測がつかぬ」
皮肉でもなんでもなく、それは播天流の素直な感想であるらしい。
話をしたくない、という孔明の要望を聞いたのか、それとも播天流のほうも、孔明の高飛車な態度にあきれたのか、道中はおたがいに、ひと言も口をきかなかった。
孔明は、隣にならぶ播天流の横顔を盗み見る。
竜髯の立派な、風格のある男である。
公孫瓚の滅亡の際に、袁紹にとらえられ、磔刑を受けたのが原因で、片腕がきかなくなったという。
しかし、馬上にて、手持ち無沙汰にだらりと下がったその片腕さえも、この男の戦歴を想像させる道具となっている。
ゆっくりとおだやかに語る男だ。
そして、言葉に淀みがない。
司馬徳操の私塾で学問をおさめ、それなりに人物鑑定眼をみがいてきた孔明でさえ、本当に、おのれの考えが当たっているのか、不安に覚えるほど、播天流は『まとも』に見える。
眼に妖しい影が差しているわけでもなし、独り言をぶつぶつ言い続けているわけでもなし、なにも知らずに見れば、徳望の厚い大人物にさえ見える。
「なぜだ」
孔明が、正面で待ち受ける蔡瑁を見つめつつ、つぶやくように播天流に尋ねると、播天流もおなじく、孔明のほうを見ないまま、逆に問いかけてきた。
「貴殿こそ、なぜだ」
「おまえの言う、なぜ、の意味は?」
「趙子龍を逃がしたな。奴は貴殿の主騎にすぎぬ。代替のきく人間だろう。それなのに、奴のためにわざわざ死地に戻りさえする。なぜだ」
「子龍は、あれはいずれ、このわたしの片腕となる男だからだ。代替なぞきかぬ」
「貴殿の片腕とは、曹操の…漢賊を成敗するための軍の大将、ということか」
「いいや。だれもが戦に怯えずにすむ、私が生まれるまえの、平和な国に戻すための作業の片腕だ。戦にはかぎらぬ」
隣で、播天流が笑みをこぼしたのがわかった。
「壮大だな。曹操すら、眼中にない、というわけか」
「世にあふれる事物を、ひとつの形にくくってしまえば判りやすかろう。その究極の形が国だ。しかしその国が壊れたのならば、さらに大きな視点に立たないかぎり、世の中は見えてこない。
この世界には漢という国だけが存在するのではない。周辺にはさまざまな国や部族がおり、彼らと連動してこの世は成り立っている。黄巾賊が国を荒らしているだけの時であったなら、漢の中央を直せば治まった話だったかもしれぬ。しかし、すでに争いは全土へ飛び火し、周辺諸国すら巻き込んでの大乱となってしまった。
貴殿、召し物の端がほつれて、糸が寄ってしまい、衣がつってしまったことはないか」
「旅をしていれば、着物にほころびが生じるのはしょっちゅうだ」
「どう直す?」
「寄っている部分を、均(なら)して元に戻す」
「この世の現状も同じことだ。徐々に全体を均していく必要がある。ただし、着物を均すのとは規模がちがう。いまの現状を見るに、その作業を一つの勢力が成し遂げるのは難しかろう。人が足りぬ」
「これほどに殺しまくったあとではそうであろう」
「いいや、人数の話ではない。人材が足りぬ、ということだ。この作業には、志を同じくする人間が大量に必要となる。平和な土地を徐々に広げていく作業なのだ。しっかりした理念が基盤になければ為しえぬ。優秀な人材が必要だ」
「その一人が子龍だと?」
「子龍だけではない。新野の劉玄徳には、損得勘定ぬきで人のために動ける男たちが集まっている。劉玄徳には、そういう性質の男を集めることができる力がある。中でも子龍は際立っているとは思うが」
「どのように?」
孔明は、播天流の短い言葉のなかに、はげしい好奇心と苛立ちを読み取った。
だがそ知らぬふりをして言葉をつづける。
「あの男は損得勘定では動かない。自分は後回しなのだ。
あの男は、事に当たるときに、まず周囲を見回す。そしてもっとも弱いところに目を向ける。脆弱な部分には敵も目をつける。ふつうならば、全体を助けるためならば、弱いところも已む無く切り捨てなければならぬ。だがあの男はそこを見越して、自らを省みず、弱いものを助けるために走るのだ。
もちろんなぜ自分がそうしなければならないのかと、不平不満もあるだろうに、それを口にしたことなど一度もないよ」
「貴殿はあれと出会ってからまだ日が浅いはず。なぜそんなことがわかるのだ」
「実際に助けられたからだ。劉玄徳の軍師になって間もない頃、わたしは命を狙われた。
おまえは子龍をずっと見ていたようだから知っていたかもしれぬがな、わたしは新野では浮いた存在であった。子龍は主公の采配によって、わが主騎となったわけだが、わたしを守ることにより、わたしと同じく、仲間たちから浮いた存在になってしまった。
不満だらけであったろうに、それでもわたしを守りきってくれた」
「それは貴殿が軍師という立場にあるからではないのか」
「それだけだと思うか? ではおまえは、なぜ子龍がおのれを救ったと思っているのだ」
播天流は沈黙した。孔明が見ると、播天流は動かなくなった片腕をちらりと見遣っている。
「子龍がそれがしを救った理由か」
低く、馬上の播天流はつぶやいた。
この男の中に去来するものはなにか。
それが温かいものであれば、まだ救われるのだが、と孔明は思う。
播天流の横顔は、思いつめたような、空を探るようなものに変わる。
孔明が、馬を止め、じっとその様子を見つめていると、ふと、播天流は顔をあげた。
「そんなことはわかっているのだ」
樊城の城門の周囲を煌々と照らす篝火が、播天流の顔を浮かび上がらせる。
「それがしの誤りを嘲るためだ」
「なんと?」
「己が正しかったことを証明するために、奴はそれがしを助けたのだ」
そうして、播天流は声には出さず、考え続けた問いの答がようやく見つかったとでもいうように、にやりと笑ってみせる。
孔明は、その笑顔を見た瞬間に、背筋を震わせた。
それまで波ひとつなかった湖面が、一斉に荒れ狂いはじめたような変わりようであった。
この笑みこそが、この男の本質なのである。
すべてがはげしく食い違っている人間の、狂気の笑みであった。
理屈や正論など、この男には意味がない。たとえ万人に通じる言葉で語りかけたとしても、この男の耳朶は、ちがう言葉に変えてしまう。
言葉が通じない、つまり、孔明のもっとも得意とする弁舌が、この男には無意味なものだということだ。
「薊で、なにがあった」
孔明の強ばった問いに、播天流は肩をそびやかす。
「ただ戦があっただけだ」
「それだけではないはずだぞ。公孫瓚は袁紹に攻められ、最後は一族をみずから斬り、城に火をかけ、自刃して果てた」
おまえはそれを見たのか、とつづけて問おうとした孔明であるが、播天流の、苛立ちまぎれの声に遮られた。
「みなまで言う必要はない。それがしもその場にいたのだ。あろうことか公孫瓚…そうだ、あの見てくれだけの張子の虎めは、押し寄せる袁紹の大軍を前にして、すっかり怖気づいてしまったのだ。
女子供のようにがたがたと震えて、いまいましいことに、ろくに軍を指揮することさえできなくなってしまった。そしてあろうことか、このまま降伏したほうがましだと、わめきはじめたのだ。我らがまだ、外で必死に戦っているのにだぞ。
負けて虜囚の辱めをうけるよりは、戦で討ち死にしたほうがましだと、それがしは訴えた。だが、聞かなかった」
不意に言葉を切り、播天流は薄く笑う。
「徐州の出だそうだな、軍師。ならば知っているだろう、降伏した一族の、婦女子がいかなる目に遭わせられるのか。それは家臣も同じこと。死よりも恐ろしい辱めをあたえられ、刑場に引っ立てられるより、最期まで戦うべきだとは思わぬか」
「運命は、最期の最期までわからぬ」
「それはあの大軍の波を知らぬから、そういうのだ。地平の彼方までつづく兵士たちの群。どんなに倒しても倒しても、あとからあとから、押し寄せてくる。数が足りないのだ。兵士の数が。我らがどれほど、趙子龍らの帰りを待っていたか、貴殿にわかるか?」
「おまえを慕っていた子龍を、手ひどく突き放しておきながら、ずいぶんとムシの良い期待をしていたのだな」
「黙れ! 弱きものを救うために走るのが趙子龍だと、おまえはそう言ったではないか! だがそれは、結局見せかけのものに過ぎぬ! 子龍は戻らなかった! 兄の葬儀のためなどと嘘をついて、結局我らを見捨てたのだ! すべてが終わってからのこのこ現れて、それがしを嘲うためだけに戻ってきた!
それがしは死など恐れてはいなかった。あのまま薊で死ぬ覚悟であったのだ。なのに奴はそれがしを助けた! それがしを助けたのが、なぜだと思うか、だと? 教えてやろうではないか。奴はすべてを知っていたのだ。
己が主人の血に塗れたそれがしを、生かして苦しめるだけに戻ってきた! 裏切りものめ!」
まるで狂った野犬のように、続けざまに罵声を吐く播天流を、孔明はぼう然と見つめる。
たじろぐ孔明の顔を見て、播天流は満足そうに笑みを浮かべると、つづけた。
「貴殿は、奴についてまだ何も知らぬ。あれは公孫瓚と同じだ。見た目だけは立派で、人を裏切り続ける卑怯者。決してそれがしの思うままにならぬ。なぜそれがしの言葉を聞かぬのか! 正しいのはそれがしではないか!
敵に怯えて、仲間を裏切った臆病者め。薊で死んでいった者たちのために、それがしが公孫瓚と同じように、それがしが、ふさわしい死を与えてやろうというのだ!」
「公孫瓚と同じように、だと? まさか、おまえは、おのが主人を殺したのか?」
「家臣たちを見捨てて、城に火を放ち、間道をつかって、自分たちだけ北平へ逃げようとしたからだ!
それがしが、各地を放浪して、若者たちを集めたのは、あんな不様な男の盾にするためではなかった!」
絶句する孔明の顔を、播天流は目を細めて笑う。
「それがしが、狂っているとでも言いたげな顔だな、軍師どの。
だが、貴殿が同じ立場に立たされたら、どうする? それがしが主人を裏切ったのではない。主人がそれがしを裏切ったのだ! だから復讐をするのだ。完全に殺さねばならぬ。二度と死魂が迷い出ぬようにな」
公孫瓚という男に対しての、絶対的な忠誠心により、この男は各地から少年たちをあつめて、騎馬軍団を編成し、公孫瓚の名を高めた。
ひたすら盲目的に公孫瓚に仕えていた男が、最後の局面において、見捨てられた。裏切られたのだ。
逆上し、主人を殺害する。
そのあと、公孫瓚の首を持って袁、紹に投降するという道を選ばず、みずから虜囚として、甘んじて磔刑を受けたのは、主人殺しの罪におののいたせいか、それとも、死に対するこの男の、独特の倫理観がそうさせたのだろうか。
いや…もっと単純に、この男は、盲目的に、公孫瓚を己のすべてにしていた。
強烈な愛情を向けていたのだ。
裏切ったので、殺した。
かといって、愛情が消えるわけではない。
播天流は、薊で死にたかったのだ。
だが、公孫瓚滅亡の事情を知らぬ趙雲と朱季南は、かつての恩人を、報恩のために危険を冒して救った。
見事に恩が仇になったのだ。
あれほど待ち望んでいた趙子龍が、いま、おのれの望まぬときに帰ってきて、死を待っていたときに、おのれを助けてしまった。
その頃にはもう、播天流の心は蝕まれていた。
いや、実はもっと以前より、この男の心は壊れていたのかもしれない。
播天流の憎悪のすべては、趙子龍に集中する。
公孫瓚とおなじ、容姿端麗で、一時期は、おのれの期待を一身に集めた男。
しかし徐々に言うことを聞かなくなり、最後には裏切って去っていった者として。
「まあまあ、そう興奮しなさんな」
緊迫したその場に似合わぬ、揶揄を含んだ声がした。
蔡瑁たちのほうから、飄々とした歩き振りで、花安英がにやにやと笑いながらやってくる。
その愛らしい顔立ちが、いまはかえって禍々しい。
「その人に、趙子龍のことを語らせたら駄目ですよ、軍師どの。とたんに正気ではなくなるのだから。さあ、落ち着きなさい。みなが変に思うでしょう」
と、花安英は、最後のことばは、妙に優しい調子で語りかけ、興奮で肩を上下させる播天流の、動かないほうの手を撫でさすった。
播天流は、まるで野の獣のように、うめき声をあげると、自分を落ち着かせるために、大きく夜気を吸い込んでいる。
眼は大きく見開かれ、近くの闇にひそむ、趙雲を見つけ出そうとでもしているようであった。
花安英が、その朱を塗ったような唇に、嫣然とした笑みを浮かべる。
「かわいそうな人だと思いませんか? このひとは、愛した人間にはけして愛されない宿業を持っているのですよ」
だが、孔明はすかさず、ぴしゃりとやり返す。
「論点を摩り替えるのはやめたまえ。この男はおのれのことしか考えていない、狂った子供だ。子供じみた理想を抱えたまま、不幸にも大人になってしまった男なのだ。
いいや、不幸というのもあたらぬであろう。この男は、けしておのれを疑わない。反省のできない男なのだ。同情などできぬ。
この男の描く夢の世界などというのは、結局、おのれだけが満足できる世界ということではないか! この男の思うままの世界など、どこにもありはしない。ありもしない物のために、この男は、多くの子供たちの運命を傷つけ、変えてしまったのだ」
「あいかわらず手厳しいな。そういう情け容赦のないところが、逆に程子聞の気を引いたのでしょうけれどね。わたしには通じませんよ、軍師どの。どんなにあなたが吠えようと、この状況は変わらない。
なぜ、わざわざ戻ってきたのですか? 『壷中』はわたしたちだけではない。たとえ趙子龍を樊城から逃がしたところで、新野にもわたしたちの仲間はいる。おなじことですよ」
「その言葉をそのまま返そう、花安英。きみは毒を吐くのが上手だが、それでわたしを惑わすことなどできぬ。
よいか、子龍はかならず新野へ生きて戻り、そしてまた樊城へ戻ってくる。『壷中』などにたやすく殺されるような男ではない」
「信じているのですね。しかし、趙子龍が樊城に戻ることを恐れ、新野に籠もったらどうなります? 播天流の話を聞いたでしょう?
彼は、一度、主人を偽っているのですよ。また同じことをするかもしれない。裏切られたあなたを見るのも、楽しいかもしれないな」
「子龍はわたしを見捨てない。わたしが子龍を突き放していないからだ。彼は義にはかならず応える。そうであっての趙子龍なのだ。
公孫瓚も播天流も、子龍を突き放したではないか。あれは愚か者ではないから、義を示さぬ男のためには、命を賭けない。無益な復讐もしない。
だから、わたしを彼の、復讐の種にしようなどと考えているのならば、よすがいい。子龍の主人は劉玄徳。わたしではないのだ」
「でも、友のためなら死ぬのでは?」
孔明は、大きく息をつくと、挑戦的な笑みを浮かべて、孔明を苛立たせようとする花安英を、冷たく馬上から見下ろした。
「程子聞は、わたしにこう言ったことがある。花安英は、あれは親に見離されたかわいそうな子供なのだと。
だから、誰も信じないし、愛そうとしないのだと。それでも最初は健気に親に尽くそうと考えた。なのに、裏切られてしまったので、あんなふうに歪んだのだと」
「かわいそう? わたしが? あなた、この状況が判っているのですか? もう気づいているのでしょう。わたしは見かけどおりの人間ではない。わたしを無意味に怒らせて、どういうことになるかわかっているのですか?」
賭けだ。
孔明は、程子聞の名前を出されたことで、素直に苛立ちをあらわにしている花安英の双眸を見つめた。
この少年は、おそろしく聡明だ。そして直感が鋭い。こちらが、まだ半分も状況をつかめていないことを、悟られてはいけない。
今後のために、この少年の切っ先を、自分や趙雲から逸らす必要がある。
そのための、いちかばちかの賭けであった。
孔明は言った。
「わたしを殺したら、きみがもっとも憎む相手は喜ぶだろうね。それでもいいのなら、どうぞご自由に」
「な」
と、花安英は絶句する。
賭けに勝ったことを、孔明は確信した。
同時に、暗澹たる思いに包まれる。
樊城を取り巻く闇は、いったいどこまで深いというのか。
そうして孔明と花安英がにらみ合っていると、ようやく正気を取り戻した播天流が、孔明に、先に進むよう促した。