孤月的陣
第四章 ナミダ 涙
②
後漢帝国を、そもそも揺るがすきっかけになったのは、農民の流動である。
政治の悪化とともに、借財や税のとりたてで、土地を離れざるを得なかった農民たちは、一族単位で安住の地を求めて流浪した。
ときに一族の数は、数千戸にまで及んだという。
黄巾党がそもそも力を伸ばした背景には、生活が疲弊した、漢帝国のほぼ九割を占める、彼ら農民たちの悲惨な状況があった。
農民たちは、現世で得られない安息を、宗教…黄巾党の説く理想郷に求めたのだ。
農民の不平不満を糧に、黄巾党の党首・張角は蜂起をした。
蜂起を促された農民側とて、ためらいがなかったわけではない。
しかし、いつ果てるともない飢餓にさらされた人間が、たとえ相手が無辜の民だとわかっていても、相手から食糧を奪わねば、自分が死ぬかもしれない、という状況に置かれたら、たいがいの者は武器を手にしただろう。
己のためだけではない、家族のためにも。
そうして、さらに戦禍はひろがっていく。
農地を賊に何度も襲われれば、どんなにその土地が先祖代々のものであろうと、立ち去ることを余儀なくされる。
奪われるのは物品だけではない。
賊は、あわれな農民たちから、気力さえも削いでいった。
かくて、漢帝国のはじめには、洛陽周辺に集中して居住していた農民たちは、後漢末には、なんと人口の半分までが、荊州や益州などに流出していった。
その数、およそ一千万。
彼らのすべてが、新天地を得ることができたわけではない。
中には、苦しい生活に耐えかねて、一族こぞって流賊に身を落とす者もいた。
逆に賊に襲われ、一族が離散してしまった者もいた。
流賊になることをよしとせず、武装し、一族を率いて、見所のある英雄に合流する者もいた。
そのなかでも、ついぞ安住の生活を得られなかった者は、どうなったのであろうか?
趙雲はしばし、絶句した。
冷たい風が木立をゆらし、その音で、ようやく我に返る。
「ばかな。もともと、親を失くした子どもを救うためのものが、親から子を引き離すものに変わった、というのか」
「子龍、そこで問題が発生するのだよ。
いまさら言うまでもないが、荊州の領民たちから子どもを奪ったなら、たびたび騒ぎになったはずだ。
人攫いの話は稀にあるが、子供がひとり、いなくなっただけで騒ぎが起こる。
しかし、十三年前、大々的に子供を大量に攫った連中は、親たちから騒がれることがなかった。
もし親たちが子供を求めて声を挙げていたのなら、なにがしかの話が残っているはずだ。
一人や二人の話ではない。わたしは、河原でたくさんの子供たちを見た。
彼らとて、集められた子供の一部でしかないのならば、全体の数はどれくらいになると思う?
しかも『壷中』は、その名前を知られることすらなく、十余年も存在をつづけていた」
「だから、そもそも親のない子供たちが集められたのではないのか」
「そうではない。むしろそうであったほうが、まだ救われるのだがね。
程子聞は、もともと徐州の農民の子であったそうだよ。
曹操の虐殺のために村を焼かれ、やむなく一族そろって荊州を目指したのだそうだ。わたしとおなじ境遇だったのだ」
流れてくる民を、受け止める側にも確執があった。
この時代、未開拓の土地は多くある。
しかし、利権の問題がからみ、ときに争いが発生するのはやむを得ないことであった。
その争いが激しさを増し、血で血を洗うものになるのも止めようのないことである。
乱世の爪あとは、平和な土地にさえ、その残酷なしるしを刻む。
人口の大半が戦禍によって失われた時代には、人は資源である。
しかし、受け入れる側…つまりは豪族たちにとって、つぎつぎとあらわれ、そして問題を起こしていく流浪の民の処遇問題は、頭の痛いものであった。
人の命の値段は、とびきり安くなる。
安定した暮らしをもとめて、かつては自作農だった者が、みずから奴隷になることもあった。
流浪の民が合流し、豪族たちの私兵とぶつかり合うことも稀ではない。
自分たちの土地を守るため、豪族たちは刃をふるう。
築かれていく死体の山、山…
やがて、死が日常茶飯事となった日々のなかで、人間としての最後の矜持がうしなわれてしまったのだろう。
襲われる前に襲う。攻撃は最大の防御なり、といわんばかりに、豪族の私兵が暴走をはじめた。
そうして、徒手空拳の流民に襲い掛かった。
自分たちの土地を、襲ってくるかもしれない者への、戒めも籠めて。
虐殺がおわったあとに、吾にかえった豪族のうち、だれかがこんなことを言い出す。
「そうだ、大人は殺すにしても、子供はもったいない。『壷中』に連れて行けばよいではないか」
「人は動物のように狩られ、子供だけが残された。大人たちはみな殺しにされ、物品はすべて奪われたそうだ。
掠奪された物は、ある物はそのまま豪族の屋敷を飾り、ある物は、『壷中』の資金となった。
子供たちは集められて、『壷中』のある村へ連れて行かれる。
そこで待っているのは、刺客になるための激しい訓練だ。
ありとあらゆる学問、武術、房中術に至るまで、徹底的に仕込まれる。
成人するころには、村の主たる樊城を中心とする豪族たちに絶対服従するように、教育されている。
彼らは、命じられるまま忠実に動く。
わたしも細作を使うようになって思ったのだが、彼らの忠誠が、敵方の説得かなにかで失われてしまったらと、想像しただけで、とても怖くなる。
逆に、絶対無比の忠誠をささげてくれる人間を細作に使えたら、それは心強いだろうと思うよ。
皮肉なものではないか、別天地の楽園を指す『壷中』の名を冠する村でありながら、その実態は、死を司るおそろしい子供たちを産み出す場所なのだ」
「わからぬ。親の仇である人間に育てられ、それでもなお、忠誠を尽くせるものなのか?」
「そこが教育の恐ろしさというものだろう。
もしわたしもあのとき攫われて、それでも毎日、きちんと食べさせてもらったうえに、それなりに仲間もできたなら、だんだんと心境が変化していっただろうと思う。
家族のことを忘れることはないかもしれないが、人というのは、やはり過去の思い出より、現在の己の環境のほうを優先するのではないのかな」
「しかし、俺たちが新野に居住するようになってから、七年間、人買いなんて、出たことがなかった。斐仁のことといい、なぜ今になって、連中は大胆に動き回っているのだ?
趙雲が尋ねると、木の幹を背に、膝を抱えるようにして座っていた孔明は、その姿勢のまま、なんとも形容しがたい、笑っているような、困っているような表情を浮かべた。
「だから、新野に帰ってほしいと、わたしは言っているのだがね」
「なにが『だから』だ」
「子龍、いまは憶測に過ぎないから話せない」
「俺には理解できない、とでもいうのか」
「そうではない。あなたは、おそらく、わたしよりも多くのものを見た。そしてすべてが、わたしではなく、あなたに対して向かっているのだ」
趙雲は、わけがわからず、どこか慈愛めいた笑みを浮かべる孔明に苛立ちつつ、尋ねる。
「俺は『壷中』と、どういう関わりがある、というのだ」
「よいか、『壷中』は、二回にわたり、分裂をしている。
一度目は、みなしごを育てるための村であったものが、刺客を養成する隠れ里になったとき。
そのときのあおりをうけて、叔父は暗殺されたのだ。
二度目は、いまだ」
「いま?」
「そうだ。わたしたちは、自分たちが相手にしているものが、『壷中』という一つの組織である、と思い込んでいた。
しかし、そうして見ると、『壷中』の動きは、じつに整合性がないと思わないか。図らずも、あなたはずばり言ってのけたではないか。
親を殺された者が…あるいは親から引き離された者が、親の仇に心服することができるのか、と。
『壷中』は刺客を作る村であるが、同時に、非常に優秀な人間を作っている村でもある。
そんな彼らが、いつまでも、愚かで淫蕩で怠惰な豪族たちに、唯々諾々と従っていると思うか?」
と、孔明は、懐から、ずっと大事そうに抱えていた、程子聞の書簡を趙雲に突き出して見せた。
「読むがいい。わたしが千の言葉を尽くすよりも、ずっと説得力があるから」
趙雲は、不承不承に受け取りつつ、書簡を開いた。
そこには、男らしい、勢いのある、達筆な文字で、こんなことが綴られていた。
『是がおまえさんの手に渡ったということは、今頃吾の亡骸は、『壷中』の連中によってズタズタにされていることだろう。
泣いてはいないと思うが、とりあえず、泣いてくれるなとだけは先に言っておく。
吾はおまえさんに、いろいろ嘘をついたので、泣くに値しない男なのだ。
まず、吾は樊城で会ったのが、初対面ではない。
おまえさんとは十三年前、南昌へ向かう道の途中で、出会っている。
河原で会った子ども、といえば思い出すだろうか。
つづいて、吾は、漢津の出自ではない。もとはおまえさんと同じ、徐州の貧乏な農家の出だ。
どうして徐州から荊州にまで流れてきたのか、その理由はおまえさんとて肌で知っているだろうから、あえて書かない。
吾の一族は、荊州に行けば、なんとかなると信じていたようだ。
いま思うと目出度い考え方だが、当時の流民は、みな似たり寄ったりではなかったかな…』
そのあと、手紙は、一族が、突如として兵士たちに襲われたこと、大人たちはすべて殺され、程子聞のような、子供だけが集められたことが綴られていた。
連れて行かれた先は、山深いところにある隠れ里『壷中』。
そこで程子聞は、『程子聞』の名を与えられ、刺客としての教育を受けた。
優秀ではあったが、ムラ気のおおい程子聞は、品行の悪さもあって、一線(つまりここでは、中原に派遣されている仲間たちのこと)から外され、劉公子の監視役として、樊城に配置された。
『壷中』が危ぶんだのは、劉公子の人柄であった。
心優しく、正義感あふれる公子は、『壷中』の存在を知ったなら、おそらく潰しにかかるにちがいない。
劉公子が跡を継ぐよりも、おなじ『壷中』の仲間である、蔡瑁とつながる劉琮が跡を継いだほうが都合がよい。
そのための監視役として、二人が派遣された。
二人…つまり、程子聞と、花安英である。
「やはり…」
うめくように低くつぶやいた趙雲に、孔明が声をかける。
「思い当たるところがあったようだな」
花安英に、直感的に嫌悪感を抱いた。
馴れ馴れしいから、男らしからぬ振る舞いをするから、というだけではない。
それはあとから付け足された情報だ。
花安英といると、ひどく緊張した。
その緊張感は、可憐な見た目を大きく裏切るほどにつよいものであった。
そう、張飛や関羽などの、相当な手練れと対峙したときと、まったくおなじ緊張感だった。
だから、蔡氏と蔡瑁の密会現場から逃げる途中で、右肘を切っていたことにも気づかなかった。
相手に隙を見せないよう、反射的に、ずっと身構えていたのである。
右肘の傷にあとから気づいたとき、同時にそのことに思い至り、趙雲は、花安英が『壷中』の人間ではないかと考えた。
百戦錬磨を自負する趙雲すら緊張させるほどの少年が、なぜ道化のような真似をして、おのれの本分を隠そうとするのか。
後ろ暗いところがないのであれば、武将として堂々と振る舞えばいい。
樊城の独特の、文を重んじ、武を軽んずる雰囲気を厭うがゆえ、などというふうでもない。
武人であることを公に出来ない者、それをしてならない者とは、どんな種類の者か。
間諜。
あるいは、刺客。
読みはずばり、当たっていたわけである。
花安英の、ときおり見せるあどけなさの残る、ふてくされた顔を思い出すと、その疑問が揺らぐことすらあった。
趙雲は、疑問が外れていたらよいのにと、真実が判明したいま、はじめて思った。
身の上を知れば、あわれであった。
十六、七といえば立派な成人であるが、その重ねてきた歳月の中に、どれほどの酷い傷跡が、あの少年の身に刻まれているのだろう。
ふつうの子弟ならば、まだ人生のはじめ、これから花を咲かせるときである。
花安英の身に、離れず付きまとう印象。爛熟した果実。
あれは、薄汚い仕事をこなすために、少年の時をゆがめて、早成をうながした結果によるものなのか。
「奴が『壷中』ならば、なぜ蔡瑁や蔡氏の密会のことをわれらに教えたのだ?」
「わからぬ」
身も蓋もない否定のことばに、思わず趙雲の言葉はつまる。
孔明は、おのれの頭髪のほつれた部分を、指先で弄びつつ、絶句する趙雲を見る。
「花安英のことは、さっぱりわからぬ。あれのどこが、わたしと似ていると?
程子聞め、生きていたなら、きっと問い詰めてやったのに」
こいつも、程子聞のことは、まるで、いまでも生きているように語るのだな、といささか気味悪く思っていると、孔明は、ふと、その眼差しを趙雲に向けた。
「似ているか?」
「見た目の派手さは似ているかもしれぬが、中身はどうだろうな。俺は、花安英と深く付き合ったわけではないし」
「深くなんて付き合ってみろ、主騎は解任だ」
「…よほど、花安英と一緒にされるのがいやなようだな。向こうも毛嫌いしていたようだが。そういうところが似ているといわれる所以ではないのか。」
「なんだろうな。わたしとて、あまり人を好き嫌いで分ける性質ではないのだが、あの少年だけはだめなのだ。うまく表現できないのであるが、『見たくない』のだ」
「なんだそれは」
「体調が悪いときや、なにかが噛みあわず、思うとおりに身なりを整えることができなかったときは、鏡を見たくないだろう。ああいう、心の奥底を素手でかきむしられているような、なんともいやな心境になるのだ」
近親憎悪、という言葉が頭をちらりとかすめたが、孔明がふて腐れる可能性があったので、趙雲は黙っておくことにした。
まだ聞かねばならないことがある。
趙雲が、花安英が刺客ではないかと思い切るのに、ためらった理由のひとつに、喋りすぎる、ということがあった。
何かから目を逸らさせるために、口からでまかせを連呼していたのではない。
あとから思い返せば、花安英の言葉は、すべて真実なのである。
敵と見なす孔明の代理ともいうべき自分に、なぜ真実を語ったのか。
そして疑問がある。
花安英と程子聞が『壷中』だとすると、なぜ、程子聞だけが殺されねばならなかったのか…?
趙雲はふたたび、程子聞の手紙に目をおとした。
『劉公子のお守りは、退屈極まりないものであったが、よいこともあった。
それはおまえさんと再会できたことだ。これは厭味ではない。
正直、吾はもう人生がどうでもよくなっていた。
『壷中』にはうんざりしていたし、かといって、連中から逃れることはできない。
連中は、自分たちの秘密が外部に漏れることを恐れていたからな。
もっとも、恐れているのは、『壷中』の成り立ちに関することであったがね。
信じられぬかもしれないが、吾たちはみな、父と母、という言葉を使うことも禁じられていた。
連中は、吾に食事と、寝床さえ与えておけば、親のことなんぞ忘れてしまうだろうと考えていたようだが、実は大人になって、親の年に近づいていくと、かえって親のことを思い出すようになるものだということを、計算していなかったらしい。
劉公子の側にいる間は、じつに暇であったから、考える時間もたっぷりあった。
何度も、いっそ曹操や江東、あるいは益州…そうでなければ涼州へ逃げようと考えた。
だが、とうとう果たせなかった。
どんな方法を考えてみても、頭の中で、吾は連中に追いかけられて捕らわれる。
連中の優秀さは、仲間である吾がいちばんよく知っている。どう考えても、駄目なのだ。
やがて吾は、どうやって死ぬか、そればかり考える人間になっていたのだ。
花安英の奴は、そんな吾が不満だったらしい。あいつは『壷中』のなかでもずば抜けて優秀だった。
もとは、吾とちがって、ちゃんとした家の息子だったらしいから、そもそもが違うのだろう。
これは気づいていたかも知れないが、吾は花安英と断袖の契りを交わした仲だった。
奴は熱心に『壷中』の任務に励んでいたから、やる気をなくした吾が歯がゆかったのだろう。
喧嘩ばかりするようになって、これがまた吾の倦怠感に拍車をかけてくれた。
おまえさんと会ったのは、まさにそんな時だった。
吾には、まさに天の配剤のように思えた。
おまえさんは、あのとき『壷中』に連れていかれていなけりゃ、そうだったかもしれない『吾』だったからだ』
以降、程子聞の、孔明に対する思い入れが、長々と綴られていた。
正直なところ、それを目にすることは趙雲にとっては苦痛であった。
すでに生の灯火の消えた者の、心の内に、土足で入り込んでいるような、居心地のわるさをおぼえたからである。
そこに展開していたのは、単なる友情だけではない。
憧れと、嫉妬と、激しい愛着の入り混じった、複雑きわまる心情であった。
断袖の男のたわ言、というだけではなかった。程子聞の心の動きのなかに、自分によく似た部分を見つけ、趙雲はうろたえた。
程子聞は、孔明と再会し、その誇り高く、明快で、孤独と誤解をおそれない生き様に圧倒された。
もしかしたら、こんなふうになっていたかもしれない自分として、程子聞は孔明に己の欠片を見出そうとする。
しかし孔明の放つ光輝は、程子聞の想像をしのぐほどに、大きく深いものであった。
やがて嫉妬はなくなり、純然たる憧れだけに淘汰されていく。
一方で、程子聞という男は、他者に愛情をかけることで、己を保たせようとする類いの男であった。
孔明が、理想の人物の域にまで高められてしまったので、愛情を向ける相手を探す。
そして、あらたに愛情を向けることになったのが、劉公子であった。
劉公子は、程子聞の性癖を知りながらも、全幅の信頼を置いてくれる、稀な器量の持ち主であった(その下りを読んだとき、趙雲は、劉琦を見直した)。
程子聞の、劉公子に寄せる思いは、むしろ子を守ろうとする親のように温かく、つよいものであった。
程子聞は、劉琦のために尽くすようになる。
同時に、おのれを縛り付けていた『壷中』との対立を明確にする。
劉公子と、劉琮の対立が激しく表面化するにつれ、『壷中』の劉琦に対する攻撃の激化も予想されたからである。
程子聞は、孤立無援のまま、戦った。
やがて待ち受けるのが、死そのものであると知りながら、それでも戦うことを止めなかった。
『おっとりとしていて気弱だと思われがちの劉公子だが、意外に頑固なところがある。『壷中』の存在を劉公子が知ったなら、あの御仁は、『壷中』を潰しにかかるだろう。
陰険なのとはまるで縁のないお方だから、攫われた子供たちを解放し、豪族どもを糾弾するだろう。
しかしそれでは豪族どもが困る。
いや、もっと『壷中』で美味しい思いをしている奴が、いちばん困ることになる。吾が劉公子から守らねばならない最大の敵、戦わねばならない敵は、そいつであった。
もうだいたい判っているだろう。
だが、あえてここには書かないで置く。
なにかの拍子で、これが劉公子の目に触れることも在りうるからな。
おれは目立ちすぎた。
劉公子から連中の目を逸らすためならなんでもやったからな。
そろそろ限界だろう。
だが、不思議と心は落ち着いている』
程子聞、という男を、趙雲は知らない。
しかし孔明や劉琦、花安英らの様子を見ると、後進から慕われる男であったようだ。
断袖という、悪癖を持っていてもなお、この類い稀な気質を持つ青年軍師に存在感を見せる男。
ふしぎと人を惹きつける、魅力的な男であったのだろう。
たとえその素行は乱れていても、他者に向ける想いは、本物であったのだ。
だが、ひとつの可能性が、頭をかすめる。
「程子聞が、実は生きている、ということはないか?
遺体は、見分けがつかないほどにズタズタにされていて、程子聞だと確認したのは花安英だったというではないか。死体を最初に見つけたのも花安英だ」
「正確には、花安英の片輪の従者だ」
「どちらでもよい。劉公子の話では、従者は花安英に心服しているのだということだ。ならば、嘘の証言はいくらでもするだろう。
それに、樊城の連中もいい加減なもので、流血沙汰をおこすのは、新野の人間に決まっていると、決め付けていたそうではないか。
殺されたのは別の男で、程子聞は、おのれの死を道具に、斐仁に罠をかける。
そうして、さも自分が殺されたように、樊城の人間に錯覚させ、斐仁に己を殺した罪をかぶせ、斐仁の上役たる俺、俺の守るおまえ、というふうに、間接的な罠を展開させたのではないか?」
「それはないな。あなたは、程子聞という男を知らないから、そういう可能性が出るのだ」
その言葉に、なぜだか趙雲はムッとした。
「ありとあらゆる可能性を考えるべきであろう。『壷中』の正体はわかった。だが、われらが対峙すべきは、『壷中』を操る者どもだ。
しかし、程子聞といい、おまえといい、さっきから、『豪族』とその名をひとくくりにして、具体的な名前を挙げることを避けている。庇っているやつでもいるのか」
すると孔明は、器用に片側の眉だけをつりあげて、趙雲を睨むように見る。
「わたしが、豪族のだれかを庇っている、とでもいうのか。わたしが、龐家や、黄家とつながりがあるから、具体的な名前を挙げることを避けていると」
「ちがうのか。ならば、なぜ、先ほど、俺に新野に一人で帰れ、などと言ったのだ」
すると、それまでおとなしく木陰に座っていた孔明は、思い切り揶揄するような眼差しで、しばらくの間、趙雲を見つめていた。
じいっ、と、瞬きもせずに、まじまじと見ていた。
最初は、敢然とその眼差しを受け止めていた趙雲が、だんだんと居心地がわるくなり、たじろぐまで、じいっ、と見つめ続けた。
わかった、なんだか判らぬが悪かった、と言いかけたとき、ようやく孔明の唇が動いた。
「莫迦」
「莫迦?」
「あなたはときどき、ひどくおつむの調子が悪くなる。乱世の弊害か?」
「頭のよしあしと、乱世が関係あるのか?」
憮然と趙雲が言うと、孔明は、仕方がない、というふうにため息をひとつつくと、言った。
「まあいい。とりあえず、時代のせいにしておこう。
では、はじめの問いから答えるか。
わたしがさきほどから『豪族』と百把一絡に呼んでいるのは、具体的な名前なんぞ、いまの時点ではわからぬからだ。わたしとて、千里眼を持つ仙人ではないのだ。情報が少なすぎる。
つぎに、わたしが誰かを庇っているのかという問いに答えよう。
わたしが庇っているのはあなただ。
得心はいったか? いかぬであろうな。
さらに答えよう。わたしがなぜ、あなたに一人で新野に帰れ、と言ったのか?
わたしと一緒だと、殺される可能性が高いからだ」
「殺されるだと? それは、俺がおまえを守りきれずに、命を落とすかもしれない、ということか。ならば、余計に一人でなんぞ帰れるか。俺はおまえの主騎だぞ。主騎が、守護の対象を見捨てて、おめおめと主公もとへ帰れるわけがなかろうが」
「いいや、わたしは殺されない。『壷中』にとって、わたしは敵ではないからだ」
「…なんだと?」
その疑問の言葉が出るまで、ずいぶんと時間がかかった。
そのあいだ、孔明は、木陰に座り、うろたえる趙雲を凝視していた。
その眼差しは、責めるようなきびしいものではなく、趙雲の様子をさぐっているような、冷静なものであった。
趙雲は、その視線を受け止めて、かえって不安をおぼえつつ、孔明のことばをなぞった。
「つまり、俺たちの敵は『壷中』ではない、と?」
「そうではない。わたしの…諸葛孔明の『敵』ではない、ということだ」
とたん、趙雲は肩の力がぬけた。そういうことか?
「おまえ、強気なのもほどほどにしろ」
趙雲が眉をしかめて、大真面目にそういうと、孔明は、苦笑いを浮かべる。
「ああ、ちがう。そういう意味ではない」
「ちがうのか」
「逆に言おうか。『壷中』にとって、諸葛孔明は敵ではない、ということだ」
ふたたび、趙雲は、まじまじと、端正であるがゆえに、いまは、ひどく取っつきのわるい、目の前の青年軍師を凝視する。
涼しい顔で、なんという悪い冗談を飛ばすのだろう。
「その根拠はなんだ?」
孔明は、趙雲の戸惑いに、逆に、なぜ判らないのかがわからない、といったふうに肩をすくめると言った。
「よいかね、『壷中』とは、荊州に居住する豪族が組織する、荊州を守るための刺客集団なのだ。われらが曹操勢と通じている、というのならばともかく、おなじく荊州を守る者同士、いがみ合わねばならない理由はどこにもない。
わたしは劉玄徳の軍師。そしてわたしに何かあれば、それは同時に劉玄徳を敵に回すことになる。
母親を人質にとられ、やむなく曹操の軍門にくだった徐庶とは、色合いがまったくちがうしな。
豪族たちにとっても、荊州を前線で守っている劉玄徳という存在を失うことは痛いはずだ。
曹操にとって、われらが主公は天敵。
その天敵が、真っ向から曹操の歯止めになっていてくれている、という安心感は、われらの想像以上に、かれらの中にあるのだ。
もっとも、樊城の連中は、そのありがたさをあまり感じていないようだが。
ともかく、そんなわけで、『壷中』は、むしろ、わたしに手が出せないくらいなのだよ。
劉玄徳の軍師になる以前のわたしならば、目障りな存在であっただろうが、いまは間接的に、ともに荊州を守る『仲間』になったのだから。
それにわたしに害を為した場合、主公は動く。
いまの時期、荊州に内紛を起こすことの危険を、『壷中』とてわかっているだろう。
たしかに以前は、叔父を暗殺したことに関して、わたしが報復に出る可能性を警戒していただろうから、わたしを監視し、不穏な動きがないかと、狙っていたことはあるだろう。
斐仁のいう、『壷中』はわたしを恐れている、という言葉は、そこから生じたのだ。
『壷中』にとっては、誤解にひとしい見方であったのだ。斐仁は、『壷中』の真ん中にいた男ではない。
七年間も、『壷中』の外に派遣されていた男なのだよ。
『壷中』の中枢と、見解がくいちがってもおかしくない。
よって、いまのわたしを『壷中』が狙うことはない。
つまり敵は『壷中』ではない」
「だが『壷中』は、刺客の集団なのであろう?」
「そうだな。だが、黄巾賊のように、狂信的な集団ではない。彼らは、きちんと彼らなりの戦略をもって動いているのだ。
すなわち、荊州を外敵より守る、というね。
その発端はたしかに忌まわしいものだが、皮肉なことに、その行動によって、荊州が戦乱の危機から救われてきたことは、何度もあったはずなのだ」
「では、俺たちは、いったい、何と戦っているのだ?」
それは、と孔明が言いかけたところで、ふと言葉をとめて、双眸だけを動かす。
趙雲も、その視線の先のほうへと、首を向けた。
一陣の風が吹き、木々の枝をいっせいに揺らす。
趙雲は、孔明の目線の先にいた人間に、おどろいた。
たしか、この人物は、孔明が樊城に到着した際にあらわれた、行商人の瓜売りの老人ではなかったか。
老人は、孔明に向かってかしこまり、片膝だけを立てて、道の上から拱手をしている。
おどろいたことに、老人の身にまとうものは、昨日までの、行商の旅程でよごれた服ではなく、いささか年代を感じさせるが、なかなか立派なつくりの鎧装束であった。
老人は、孔明から声をかけられるのを待っている。
趙雲が孔明のほうに目をやると、孔明にとっても思いもかけないことであったらしく、立ち上がると、かしこまる老人の前に立った。
長身の孔明の影が、片膝を立てる老人の頭上に落ちる。
そうして、顔を上げぬまま、老人は言った。
「ご恩に報いるために、参上つかまつりました」
「ご恩?」
怪訝そうに、鸚鵡返しにする孔明に、老人は言う。
「はい。それがしは以前、貴方さまの叔父君の諸葛玄さまの下で働いていたものでございます」
それを聞き、聡い孔明は、すぐに思い当たったようだ。愁眉をひらいて感嘆する。
「そうか、あなたは以前に、太守に仕えていた武人であったと申されていたな。叔父の玄のことであったか」
「はい。それがしは、幼少の貴方さまとも顔を合わせておりまする。
徐州から難を逃れていらっしゃった貴方さまがたをお迎えするために、随行したのがそれがしでございます。
以前に新野の泉でお会いしたときには、貴方さまがあまりにご立派に成長されておりましたので、玄さまの甥御の亮さまであると気づかず、たいへんご無礼をいたしました」
そうして、はじめて老人は、片膝をついたままの姿勢で、目の前に立つ孔明を見上げた。
雪のように白い、手入れの行き届いた髯を持つ、とても先日まで売り瓜をしていたとは思われぬ、独特の風格をもつ老人であった。
深く皺の刻まれた、品のよい顔をくしゃりとさせ、老人は言う。
「なんとご立派になられましたことか。貴方さまが劉予州の軍師になられたことは、耳にしておりました。何度、お会いしたいと思ったことでしょう。
しかし、それがしのようなつまらぬ老いぼれが、いまさらのこのこと現れたところで、亮さまはお喜びになるまい、かえってご迷惑であろうと思いとどまっておりました。
そうして迷う気持ちを日々抑えつつ、瓜売りにはげんでおりましたが、荒くれ者のおおい劉予州の陣中で、貴方さまがご苦労を重ねていらっしゃるという噂も聞きました。
それを聞いたときは、新野のばか者どもを、のこらずまとめてひねり潰してやろうと思ったものでございます」
冗談でもなんでもなく、実際にそうしかねない、一本気そうな老人である。
たのむからそれはやめてくれと、趙雲はその光景を見ながら思った。
孔明のほうは、戸惑いつつも、記憶の残滓に老人のことがあったのか、なみだ目でおのれを見上げるその顔に、そっと手を触れる。
「昨日、ばあやのところにやってきた、むかし一緒に叔父上に仕えていた人、というのはあなたのことだったのだね」
「はい。斐仁のやつめが、樊城の、劉公子の側近を殺した、という話を聞きまして、これはいよいよ『壷中』が動き出したのだと思い、こうして参上したわけでございます」
「『壷中』のことを知っているのかね?」
「はい。それがしが、貴方さまにお会いすることをためらいましたのも、そのことがあったからでございます。
叔父君は、『壷中』が当初の理念を大きくはずれ、浅ましい刺客を養成する隠れ里に成り下がったことに、たいへんお腹立ちでございました。
そのことをほかの豪族たちに抗議したがゆえに、おのが命を縮めているであろうことも、自覚なさっておいででした。
同時に、『壷中』の理想のうつくしさに有頂天になり、このような事態を招くことになったおのれを責めておいででした。
ですから、隠れ里に住まう子供たちのためにも、どうしても黙っていることができなかったのです。
他者のために、見返りをもとめずに手を差し伸べることのできる、ほんとうに、心優しいお方でございました。
しかし、叔父君の言葉に賛同し、ともに立ち上がる者がおりませんでした。
叔父君が徐州の出のよそものであったがゆえに、土着の豪族どもの威光をおそれ、心ある者がいても、声をあげる勇気がなかったのでございます。
『壷中』は…いえ、『壷中』をゆがめた豪族どもは、叔父君の命を助ける代わりに、代償として、甥の一人…つまり、貴方さまか、均さまを差し出せと要求してまいりました」
とたん、孔明の顔色が、傍で見てはっきりわかるほどに、蒼ざめた。
「まことか」
「はい。しかし、斯様な要求を受けるわけには参りませぬ。叔父君が突っぱねたので、『壷中』と豪族たちは、報復と見せしめのために、叔父君を暗殺したのでございます。
ですが、叔父君とて、黙って殺されたわけではございませぬ。
叔父君は、貴方さまを守るために、賭けをされたのです。
もし、自分が殺された場合、『壷中』についての話の一切をつづった書簡が、中原の、貴方さまのご親戚に送られる。それは、決して開いてはならぬものとして預けてあるが、もし貴方さまにすこしでも身の危険が及ぶようなことがあれば、ご一同はその書簡を開き、それを世に公表する、と」
「そんな書簡が? だいたい、あちらの家とは、あまり誼がなかったのに」
「今だから申し上げられますが、すべて策。でまかせであったのです。
ですが、『壷中』はうまくひっかかり、書簡の公表をおそれ、十余年の間、貴方さまがたご兄弟に、手を出せずにいたのです」
「なんと…」
「それがしも、叔父君が亡くなれたあと、不遜ながらその代理として、貴方さまをお守りする所存でございましたが、われらが周囲にいることで、かえって『壷中』を刺激することになる危険がございましたので、泣く泣く、いままでお別れをしていたのでございます」
老人の言葉尻をのがさず、趙雲が口をはさむ。
「軍師、やはり『壷中』はおまえを狙っているのだ」
すると、それまで、ちんまりとウサギの子のように大人しくしていた老将は、きっ、と眼差しをつよくすると、趙雲をきびしく決め付けた。
「なんと、軍師にむかって『おまえ』呼ばわりとは何事か、若造!」
そこでたじろぐ趙雲ではない。傲然と胸を張り、答える。
「呼び方の問題ではなかろう。俺はそれなりに、こいつに敬意を払っているが」
「『こいつ』だと! まったくなんたる無礼な態度であろうか。最近の若造はなっておらぬ! 亮さま、こやつが主騎の趙子龍ということは存じております。槍の名手とかいわれて、新野ではちやほやされているようですが、斯様な人品の卑しい男をおそばに置かれては、朱に交わるとなんとやら、あなたさまの品性までも疑われてしまいます」
孔明は、ちらりと趙雲を見ると、笑いを噛み殺しつつ、顔を真っ赤にしていきり立つ老人を、やんわりとなだめる。
「まあ、そう怒らないでやってくれないか。子龍はこれでなかなかよい男なのだよ。正直すぎて口が過ぎるうえに、たまにとんちんかんなことを言って、わたしをまごつかせてくれるが、おおむね、信頼できる男だ」
誉められているのか、けなされているのか。
判断に迷う趙雲に、老人は、菜っ葉についた毛虫をみるような眼差しを、送ってよこす。
知己の危機におよんで逃げ出す者もいれば、知己の危機を察知して、駆けつけてくる者もいる。
この老人は、後者であるようだ。忠義者という点では好意がもてるが、いささか一本気にすぎる。
変わり者は変わり者を呼び寄せやすいということだろうか。
自分のことを棚に挙げて、そんなことを考えていると、ふと、肌がざわざわと粟立つような感覚をおぼえた。
そして、目だけを動かすようにして、周辺をもうひとつ、草むらに隠れるようにして、じっとしている影に気が付いた。
孔明を追ってきた、『壷中』の間者か。
趙雲はだまって袖に隠していた鏢(ひょう)をこっそりと抜き出し、ぎりぎりまで草むらを見ないように注意しながら、さっと振り向きざまに、鏢を投げた。
月光をそのまま形にしたようなその武器は、草むらの影にめがけて、燕のようにまっすぐ飛んだ。
不意をついたはず。仕留めたか、と趙雲が身構えると同時に、きん、と鏢をなぎ払う音がした。
つづけて、影が躍り出る。
舌打ちをし、孔明を庇うようにしてその前に移動すると、剣を抜き、向かってくる相手を迎えた。
だが、影は、ざっ、と地面を蹴るようにして前へ躍り出ると、片手に剣を持ったまま、いきなり趙雲の目の前で、がばり、と平伏して見せた。
「趙将軍、どうぞそれがしをお許しくださいませ!」
その声。
ひさしぶりに陽光のもとで見た、数日の間にひどくやつれたその姿に、趙雲は絶句した。
「斐仁! おまえ、どうやってここに?」
「それがしが、牢から連れ出したのだ」
と、老人は得意げに言う。
趙雲は、自分の血が一斉に引くのをおぼえた。
「莫迦な! 斯様なことをしたら、かえって樊城の人間を刺激するだけではないか!」
「だまれ、小童。その男があのまま樊城におれば、そのうち、こっそりとくびり殺されでもするのがオチ。亮さま、この斐仁めは、『壷中』を操る人間が、もっともおそれる秘密を持っている男なのでございます」
「秘密、とな」
孔明の顔がけわしくなり、目の前の平伏する斐仁を見る。
斐仁はというと、平伏したまま、ぴくりとも動かない。
その姿は哀れにも見えたが、しかし、さきほど感じた、殺意にも似た視線を浴びていた趙雲は、気をゆるせない。
しおらしい態度にだまされてはならない。
斐仁は、想像以上にしたたかな男だ。
七年間も、周囲の人間を騙してきた男なのだから。
趙雲は、孔明に目配せすると、孔明も、心得た、というふうに小さくうなずいた。
そして、平服する斐仁に、いささか居丈高に問う。
「斐仁、聞きたいことがある。正直に答えよ。答えねば、そなたの家族のあとを追わせてやることになる。よいな、子龍」
「いた仕方あるまい」
孔明のきびしい声に、斐仁はすこしだけ顔をあげたが、孔明や趙雲の顔を見ようとはしなかった。
「おまえは『壷中』の人間だな?」
「左様でございます」
「七年間、新野に隠された『壷中』の秘密を守るために、新野に派遣されていた男に相違あるまい」
「まちがいございませぬ」
「おまえは、娼妓を買って、空き屋敷に入ったところを、『風狗』に襲われた。その『風狗』も、『壷中』の人間ではないのか」
斐仁は答えず、平伏したまま、黙っている。
「斐仁、答えよ。いまさら、以前の仲間を庇うのか」
と、趙雲が横槍を入れると、孔明が言う。
「それはちがう。そのことは、斐仁すら知らないことであったのだ。そうだな?」
孔明が問いかけても、斐仁は、なにも答えない。ただ体を亀のようにして、うずくまっている。
その様子を見て、孔明は、やれやれというふうに、ため息をついた。
「いきなり大当たりだな。ほんとうは、おまえはあの晩、殺されるはずであったのだよ」
「なんと! しかし、『壷中』にとって、この斐仁めは、よい従僕でありました。なぜに、いまさら、斐仁の命を狙うのでしょうか」
と、言ったのは瓜売りの老人である。趙雲は、この老人もまた、孔明の敵は『壷中』である、と断じていることに気づいた。
「斐仁の命を狙ったのが、『壷中』でありながら、『壷中』ではないからだ。
斐仁、なにかきっかけがあったはずだ。思い出せることはないのか」
斐仁は沈黙している。
だが、見ていると、地面に蜘蛛のように這うその手が、わなわなと震えているのがわかった。
なにかを思い出しているのだ。
忍耐づよく待つ孔明にならい、趙雲も、老人も、しばらく斐仁の言葉を待った。
やがて、斐仁は虫の声にまぎれてしまうほどの搾り出すような声で、ようやく言った。
「昔なじみを、見ました」
「どこで?」
「街でございます。あの日の前日、それがしは女を買うために妓楼へむかっておりました。
途中の市場で、昔馴染みと会ったのです。
その男の名前はわかりませぬ。いくつも偽名を持っており、腕の立つ男で、子供たちを教えるのがうまいというので、数年前に『壷中』に招かれた男だということだけは知っておりました。
その男は、子供と一緒におりました。
それがしは、そのときには酒を呑んでいたので、油断したのです。知り合いに会って、懐かしかったというのもございます。
声をかけたところ、男はひどく驚いた様子でした。
結婚したということは知らなかったと言うと、この子は俺の子供ではないが、『壷中』に連れて行くのだと男は言いました。ただ、その日はそれきりでした」
「連れていた子供の数は?」
「ほかにも仲間がいるとかで、十人以上はいるのでは」
「徴兵にまぎれて、騙して攫っていった子供たちであるな」
「大胆な。曹操が南下してくるかもしれぬと浮き足立つなか、子供を攫ってどうするというのだ」
趙雲がうめくと、孔明が答える。
「戦力の補充のためだ。将来に向けての、な」
「将来?」
その問いには答えずに、孔明は斐仁につづける。
「斐仁、そなたはその男と会った翌日に、娼妓といるところを襲われた。
だが、悪運の強いことに、そなたはあわれな娼妓を盾に『風狗』をやりすごす。
『風狗』は、なおもそなたを追って来たが、『風狗』を許都から追って来た役人の朱季南がそこへあらわれ、そなたは、命からがら逃げ延びることができた。
思いもかけない朱季南の登場に、『風狗』は朱季南と対峙することを余儀なくされるが、そこへなんという偶然か、夜警の最中に斐仁の姿をみかけた趙雲があらわれる。
闇夜のことだ。朱季南は闇の中で、『風狗』と趙雲を誤認し、攻撃を仕掛けてくる。
その隙に『風狗』は逃亡したのだ。
斐仁、その後、そなたの周りに何事かが起こったはずだ。そうではないか」
「……夜が明けると、あの男があらわれました。子供を連れていた、『壷中』の男です。
やつは、曹操の南下に向けて、わたしが曹操に寝返ることを恐れた『壷中』が、わたしに刺客を向けたのだ、といいました。それが朱季南である、と」
「そうか、おまえは朱季南が、許都の役人であるということを知らなかったのか」
「はい。男は、わたしに、朱季南のひそむ妓楼を教えてくれました。
しかも、あらかじめ、朱季南に阿片を飲ませて、前後不覚にしてくれていました。
朱季南を襲撃している最中に、またも趙将軍があらわれたのです。
しかも、朱季南と知己の様子。わたしはすっかり動転し、趙将軍もまた、『壷中』であると思い込んだのでございます」
「さらに、帰宅すると、一族郎党がすべて殺されていた。
そなたを追って、先に屋敷に着いていた趙雲を見て、そなたは誤解をさらに深めたのだ。
『壷中』が、おのれの秘密を守るために、斐仁を殺そうとした、そしてその家族をも殺めようとした、と。
そして復讐のために、そなたは一昼夜、馬を飛ばして樊城へ向かった。『壷中』の人間であれば誰でもよかったのか?」
「糜子方が新野を出た、という話を聞きまして、これはまちがいなく樊城へ向かったと思いました。
新野で、わたしの秘密を知るものは、糜子方のみ。
糜子方は、新野にも樊城にも影響力のある豪族でございますれば、あの御仁を殺めれば、十分だと思ったのでございます」
「しかし、そなたは程子聞の部屋へ行き、そしてその遺体を見つけることとなった。
だが、なぜ程子聞の部屋へ?」
「案内をされたからでございます」
「だれに?」
「花安英に…」
そうか、と答えると、孔明は薄く瞑目するような仕草をし、しばらく沈黙した。
夕闇が迫ってきている農道では、作業をおえた農民たちが、道具を片手に、家路に向かう。
鎧姿の老人と、片手に剣を持ったままの、目つきの鋭い文官、平伏する男、その目の前に立つ背の高い、やたらと目立つ風貌の青年。
農民たちは、薄気味悪そうに目線をおくってよこし、しばらく黙って道を行くのであるが、やがて離れてしまうと、すずめのように、ひそひそとやりだすのであった。
「斐仁、重ねて聞きたいのであるが、おまえが新野で会った男というのは、いくつぐらいの男だ」
「四十半ばくらいでございます。くわしくは判りませぬが、北方の漁村の出自と聞きました」
「ほう…その男、片輪ではないか」
すると、はじめて斐仁は顔をあげて、孔明を見た。
栄養状態が悪かったのと、何日も地下牢にいたために、顔色が黄色くなっている。
「左様でございます。ご存知なのですか」
「わたしは直接、会ったことはないのだが。そうか、それではっきりした。ありがとう、斐仁」
孔明は、晴れやかな笑みを斐仁に向けると、くるりと趙雲のほうに向けた。
「そういうわけでこの状況だ。わたしの身は、彼らが守ってくれるから大事無い。あなたは新野に帰り、主公へこのことを報告してくれ」
「なにが、そういうわけ、なのだ! 話を聞けば聞くほど、状況がよくないことが明らかになるだけではないか。
『壷中』の行動は支離滅裂だ。
おまえの言うような、荊州を守るための、冷静な理念を持った組織とはとうてい思えぬ」
いきり立つ趙雲であるが、孔明はまったく動じずに、涼しげにさらりと言ってのけた。
「それはそうだろう。
斐仁の行動から添って物事を見てしまうと、『壷中』というのは行き当たりばったりの、残虐な組織にしか見えない」
「ちがうのか」
「目線を変えるのだ。なぜ、斐仁が殺そうとされなければならなかったのか?
斐仁の抱えている秘密とやらは、われらはまだ知らぬわけだが、それを知らなくても、理由はわかる。
片輪の男を新野で目撃したからだ。
そもそも、それが発端だったのだよ」
「だが、その片輪の男、『壷中』の仲間であったのだろう?」
「そうだ。片輪の男の役割はわかるか?」
「斐仁に嘘を教えて、程子聞を殺させた…いや、下手人に仕立て上げた」
「目的は?」
「『壷中』の秘密を守るため?」
「逆だよ、子龍。その男は、斐仁に『壷中』を裏切らせ、斐仁の抱えている『壷中』の秘密を、暴露させることが目的だったのだ」
「なんのために?」
「世間の目を『壷中』に向けさせ、自分たちの人買い行為から目を逸らさせるためだ」
「その男が、『壷中』を裏切っていた、ということか」
「そう。われらは『壷中』が一枚岩の組織だと思って、推理していたから、その行動に整合性を見つけられず、混乱したのだ。
もっとも、現状があるのも、混乱と偶然とが、はげしく入り混じった結果だと思っているがね。そこへ加わったのが、嫉妬と憎悪だ」
孔明の言葉に、趙雲はすばやく反応し、眉をしかめる。
「抽象的な言い方はよしてくれ。嫉妬と憎悪だと? だれの、だれに対する嫉妬と憎悪だというのだ? 糜竺のことか? 程子聞か? それとも花安英か?」
「どれもちがう。その男は、姿こそわれらの前に現していないが、わたしなどより、あなたがよく知っている人物だ。
その姿を示す痕跡は、随所にちりばめられていた。あなたも見ていたはずだよ」
そこまで言われても、趙雲には、いったいだれのことを指しているのかがわからない。
新野城の面々を劉備から、下働きにいたるまで、片っ端から思い出してみるのであるが、やはり、これほど大胆な行動を起こせそうな、斐仁ともつながりのある人間を思い出すことができない。
性質が大胆で、斐仁と繋がる、という共通点だけを挙げれば、陳到が浮かぶのであるが、あの家族が大好きで、子供が大好きな男が、とても『壷中』に賛同しているとは思えない。
それに、片輪という、見逃せない特徴があるのだ。
考え込む趙雲の姿に、孔明は、またも、やれやれ、というふうにため息をついた。
「子龍、わたしとしては、思い出してもらいたくないのだ。
その人物が誰であるかを知れば、あなたはきっと、新野に帰りたくないとダダをこねるだろうからね」
「知らなくても、帰るつもりなぞない。こんな病み上がりのような斐仁と、先日まで瓜売りをしていて、体がなまった老人に、おまえのお守りができようはずがないからな」
「どこまで無礼な若造か!」
と、老人は吐き捨てるように言うが、趙雲は、なんとなく、この老人を怒らせるのが面白くなってきた。
「齢も五十を過ぎると、とたんに体は衰えていく。見たところ、貴殿は、六十は過ぎておられるようだが」
すると、老人は鼻を鳴らし、得意そうに、みごとな白髯をなぜると、胸を張った。
「耳をかっぽじって、よく聞け、小僧! それがしは今年で七十になる」
趙雲は、素で絶句した。
しゃんとした足腰、鋭い眼光、光沢のある肌、どれをとっても、七十の老人ではない。
おどろく趙雲を見て、老人はますます得意になった。
「わかったか、それがしはおまえなんぞより、戦場にて、はるかに経験を積んでおる。それに、亮さまが少年のときから知っているのだぞ」
「凡人には、百年かかっても、こいつは理解不能だ」
「それはわたしが、非凡だと言いたいのだろうな、子龍。とりあえず揉めている場合ではない。軍師として、今後の指示を出す。
あなたは新野に帰れ。そして、主公にすべて報告し、信頼できる兵士たちをあつめ、樊城へ来てくれ。ただし、どんなときでも、決して、ひとりになるな」
「武人に対して、ずいぶんな指示だな。軍師はどうする」
「わたしは樊城に戻る」
「なんのために? 樊城にもう用事はあるまい。従者たちを心配しているのならば、俺が樊城へ行き、連中を迎えに行く。軍師こそ、先に新野へ戻り、主公へご報告申し上げよ」
「わたしが樊城に戻らねば意味がないのだ。
樊城へ戻り、『壷中』の主と話をつける」
なにを突飛な、と反論しようと趙雲が口を開くと、地面に平伏したままであった斐仁が、ぴくりと体を震わせた。
「ご一同、なにかが来ます」
その言葉に、武人らしく素早く反応し、身構える趙雲と老人であるが、孔明だけは、予想でもしていたのか、平然とつぶやいた。
「ほら、迎えが来たようだ」
見ると、すでに日の暮れかけた地平の向こうに、数十騎もの兵士たちが、こちらに向かってきていた。