孤月的陣
第四章 ナミダ  涙


夕暮れどきの新野の市は、台所を預かる女たちの姿で、にぎわっている。
そんな女たちを目当てに、売れ残りを安くする商人もいて、いっそう市場を盛り上げている。

「これくれ」
と、陳到は、小銭を取り出して、行商人の親父に声をかける。
めずらしく、背後に部下をひきつれた陳到の姿に、親父さんは、特に選んだ大きな梨を取り出しつつ、おもしろそうな顔をして、からかうように言った。
「おや、陳さま、ご出世なされたのですか。たいそうな行列ではございませんか」
「冗談ではない、仕事だ、仕事」
「ご苦労さまでございます。こんなお時間までお仕事とは」
「まったくだ。親父、ほかの連中にも、見たことのない怪しいやつがウロウロしていたら、すぐに屯所に報せるようにと、伝えておいてくれ」
「もちろんでございますとも。ところで、趙将軍は、いつごろお帰りになられますか?」
口をおおきく開けて、梨にかぶりつこうとしていた陳到は、ぴたりと止まって、訝しそうに親父に目を戻す。
 「なんだって、そんなことを聞いてくる?」
 「市場の女どもの代わりですよ。趙将軍が最近、お見えにならないので、女どもが、お風邪でもめされたのでは、と大騒ぎしやがってしょうがないんでさ」
 「趙将軍は、仕事で樊城へ行っておられる」
 「ああ、そうでしたか。ははん、女たちに教えたら、きっとがっかりするでしょうなぁ。陳さま、賭けてもいい。明日から、紅をさしてる市場の女が半分に減りますぜ」
 「あの人は方々でもてるな。まあ、近々戻られると思うから、女たちによろしく伝えてくれ」
わかりました、今後もごひいきに、と親父さんは笑いながら言った。
 しゃり、と心地よい音をさせながら、梨をむしゃむしゃと食べる陳到のうしろからは、さきほどから、剣呑な目線を向けてくる、二人の新兵がついてくる。
糜竺が、趙雲の部下に組み入れてくれ、と孔明にたのんだ、二人の息子であった。
 「叔至さま、お仕事をなさらずともよろしいのでございますか?」
 「仕事なら、現にしているだろうが」
と、陳到は、足を止めて、自宅のあるほうを見る。
市場を右にまがって、しばらくいった路地をさらに行くと、陳到の屋敷だ。
 「ああ、家に帰りてぇなぁ…」
 「市場でうろうろするのが仕事なのですか?」
と、どうしてこんなに熱心なのか、陳到がよくわからないほどに、仕事に真面目な少年と青年は、顔を赤くして言う。
 「おい、おれは、遊んでいるのではないぞ。これは巡回だ、じゅ・ん・か・い。おまえらも、おればっかり見張ってないで、ちゃんとあたりを見張っておれ」
 「皆さま方より、叔至さまが、途中で家に逃げないように見張れ、と念を押されました」
 「ったく、信用ないねぇ」
 とぼやきつつ、陳到は空をあおいだ。

西の空に溶けていく夕陽の上を、カラスの群が羽ばたいているのが見える。
おそらくあれは、いまから古巣へ帰るのだろう。
 「カラスになりてぇなあ…」
 「叔至さま、軍師より、今朝ほど何通も書状が届いていたようでございましたが、なにもなさらずによいのですか?」
 「うん? 書状か? あれは軍師の主簿や、孫乾どのが処理なされるからよいのだ。おれはただの伝達だからな。それにおれなんぞより、役に立つ人間が、ほかにもたくさんいるからいいのだよ」
 はあ、と糜竺の養子兄弟は、納得がいかない顔をしている。

 孔明の書状は三つあった。
斐仁の守っていた東の蔵を、徹底的に調査しなおすこと。
壁になにか塗りこめられていないか、床板もすべて剥がす。
もちろん、目録にもすべて目を通し、数があっているかどうか、合わない余剰品がないかどうかを確認すべし

あとからつづいて届いたのが、二番目。
劉州牧の夫人、蔡氏の実家の所在をあきらかにすること。
そのうえで、家族構成を聞きだすこと
そして三つ目は…

 陳到は、ちらりと息子たちを振り返り、そうして訪ねた。
 「おまえたちも、いまからそんなカチコチでどうする。たまには家に帰って、家族に囲まれてゆっくりしたいとか思わんのか」
 するとふたりのうち、少年のほうはあきらかにしょんぼりし、兄に当たる青年のほうが、怒りもあらわに返答した。
 「わたしたちの家は糜家です。しかし父上のおられぬあの家に戻っても意味がございません」
 「なんだ、継子いじめにでも遭っているのか」
 「叔父上がいらっしゃいますので」
と、弟がぼそりとつぶやくのを、兄がきびしくたしなめる。
 「これ、余計なことを言うな!」
 「それじゃあ、糜家じゃなくて、昔の家に戻ればいいではないか。『壷中』にあるのだろう、おまえたちの家は」
 陳到はさりげなく、しかしするどく息子たちの反応をうかがった。
しかし、かれらはきょとんとして、逆に鸚鵡返ししてくる。
 「コチュウ?」
 「ちがいます、叔至さま。わたしは河内、弟は南陽の出自です」
 「おう、そうであったか、だれかと間違えてしまったようだ、ゆるせ」
言いつつ、陳到は、
 『これはちがうであろうな』 
と、検討をつけた。
このとぼけっぷりが、実は演技だとしたら、兄弟揃って、とんでもない曲者ということになる。

 孔明の三つ目の書状には、こうあった。
糜竺に、主公への裏切りの疑惑あり。
かれらに気付かれないように、その真意をさぐれ。
また、『壷中』という村の出自ではないか、あるいはその村のことを知らないかどうかを、これも気付かれないように探れ。
もし関係がないのであれば、新野から逃さぬように、見張りを絶やさぬこと。

あの糜竺にかぎって、まさか、と、書状を読んだ者はみな思った。
弟の糜芳ならば、みな、まさかと口で言いつつも、どこかで納得したであろう。だが、糜竺は、まさか、であった。
新野中の人間に、「だれからも好かれる人間はだれか?」と問えば、最初に出てくるのは、劉備ではなく糜竺の名前であろう。
それほどに、人々から慕われている、気配りの行き届いた、優しい男である。
どちらかといえば、任侠の漢がおおい新野の面々が、七年間、流血沙汰を一度もおこさずに、民衆ともよい関係をつくれてこられたのは、糜竺の心配りがあればこそだ。
孔明があらわれるまでの新野を保たせてきたのは、糜竺だ、と言い切ってもよいくらいである。

曹操に寝返った、というのならばわかる。
しかし孔明の書状はそれを否定し、『壷中』という、樊城を根城にする、危険な組織の一派かもしれない、ということが書かれてあった。
 斐仁のことといい、糜竺のことといい、今回のことは、なにやら暗く重たい秘密の気配がする。
陳到は、すぐれた武人特有の直感でそう思いつつ、夕闇にしずむ新野の町を巡回している。

糜竺の息子たちに答えたことばは、半分は冗談であるが、半分は本当だ。
朱季南の消息は、あれからさっぱりわからないし、人買いどもの行方も杳として知れない。
屯所でじっとしていても、焦れるばかりであるし、家に帰りたくてたまらなくなってしまうので、気晴らしに外へ出て見たのである。
 糜竺の息子たちを伴として連れ出したのは、孔明からの命令を実行するためもあるが、それとは別に、かれらを守ってやる意味もあった。
 糜竺の出奔と、孔明からの書状は、劉備によって厳しく口止めをされているにもかかわらず、どこからか漏れていたからである。
出先は、ほかならぬ、糜竺の弟、糜芳であることはまちがいない。
兄とは似ても似つかぬこの愚か者は、兄の罪に連座するのはまっぴら、とばかりに、いまから、責任転嫁の対象を、懸命にさがしているのである。
 糜竺もおらず、頼りにすべき趙雲も孔明も不在のいま、寄る辺のないかれらが、いちばん危うい。
だれに命令されたわけでもないが、陳到は、かれらを守らねば、と判断した。
孔明たちが樊城から戻るのが遅くなればなるほど、噂には尾ひれがついて、膨らむであろう。
その間に、糜竺がわざわざ孔明を通じて、趙雲に託した子供たちが、遭難してしまったら、孔明も趙雲も面目丸つぶれになってしまう。

今日は、こいつらを泊めてやるか、布団はあったっけ、などといろいろ考えつつ、陳到は歩いていたが、ふと、市場の、服を売っている店に、目が止まった。
 店主が、客とにぎやかに値引きの相談をしている。
店は、天幕の下に、商品をひろげただけの簡素なもの。
ご婦人方の領巾のかけてある衝立に、一緒に、北方のめずらしい毛皮がかけてあるのだが、店主が客に熱中しているあいだに、それが、ちょうど店主の反対側のほうに、するすると引きずられていく。
 「おい!」
と、陳到が店主に注意をうながすべく声をかけると、途端に声にはじかれるようにして、衝立の向こうの影が往来へ飛び出した。
そのうしろ姿は、十歳くらいの子供であった。
「その子供を捕まえてくれ!」
陳到は叫びつつ、見た目からは想像がつかない瞬発力を発揮して、子供を追いかけた。
おどろきつつも、糜竺の養子兄弟が、あとからそれにつづく。
 子供は、逃げることに慣れているらしい。
往来をじぐざぐにすばしこく動き、相手をまこうと必死である。
しかし、相手が悪かった。
新野でも一、二を争う武術の達人、陳到の動体視力は、黄昏時の往来でさえ、ちいさな影を見失うことはない。
たとえそれが蠅のようにすばしこくちいさなものでも、陳到は見つけることができただろう。

 『うちの銀と同じくらいだな』
と、暗澹たる思いで陳到は走った。
器用に、往来を行く人々をすりぬけて追いかけていく。
陳到につづく二人のほうは、人にぶつかって怒鳴られたり、市場の商品を蹴り倒してしまったりと、なかなかにぎやかである。
 子供の背中が、路地を曲がるのが見えた。
陳到もそれを追う。
しかし、路地は行き止まりにもかかわらず、子供の姿はなかった。
 舌打ちし、周囲を見回す陳到に、だいぶ経ってから、糜竺の兄弟が追いついた。
陳到がすこし汗をかいているだけなのに対し、兄弟たちは息も絶え絶えである。
 「叔至さま、子供は?」
 「それはおれが聞きたいよ」
 道は行き止まり。薄暗闇に星がまたたきつつあるとはいえ、すれ違いで抜け出されたとは思えない。
行き止まりの前には壁があり、どんなにすばしこい子供であろうと、これを越えることはむずかしいであろう、という高さ。
 すると、兄のほうが、前に進み出て、左手の、屋敷の垣根を無造作にかきわけた。
すると、ちょうど子供がひとり、くぐりぬけることができるほどの大きさの、隠れた通路があらわれた。
 「こういう子供しか知らぬ抜け道ならば、わたくしも以前、あのくらいのときによく利用しておりましたので、町はちがえど、だいたい見当がつきまする」
と、兄のほうは、すこし寂しそうに笑いながら言った。
 「やんちゃであったのだな」
陳到が言うと、兄は首を横に振る。
 「わたしもいまの子供のように、盗みで食いつないでいたときが、ございましたので」
 「叔至さま、わたくしもでございます。糜の父上に拾われるまでは、伯亮兄上と同じでございました」
 「左様であったか……うん? 伯亮? おまえの名は、伯亮、というのか」
 はい、と伯亮はうなずく。
陳到は、この兄弟の字を、まだ覚えていなかったのだ。
つづいて、弟のほうも口を挟んだ。
 「わたくしの字は叔亮でございます」
 「世の光となるように、そして、生命力に満ち溢れた、賢い男になるようにと、父上が、わたくしたちに下さった字でございます」
 「軍師のお名前と一緒だな」
 「ええ、父上は軍師の名を、無断ではございますが、一字だけ拝領した、とおっしゃっておりました」
 陳到は、その話を違和感とともに聞いた。
孔明が新野に迎えられたばかりのとき、孔明への風当たりはつよく、武人も文官も、孔明に対しては、無視するか、とげとげしく接するかのどちらかであった。
 しかし、糜竺だけはちがった。
最初から、まるで自分の子供を迎えるようにして親しげにし、孔明に不便がないように、あれこれと便宜をはかっていた。
さらに加えて、自分の養子に、『敵』にあたる孔明の名をそれぞれ一字、与えたという。
 それほどまでに孔明に対し、愛情にも近い心を寄せている糜竺が、ほんとうに裏切りなどするものであろうか?
 『なにか裏があるにちがいない。長年苦労をともにした主公のもとを離れて、単独で解決しなければならないような、面倒な裏が』
そう推理する陳到の頭上では、早くも天狼星が、まばゆいばかりの光を放っていた。


                               ※          ※
 
あまたある星のなかでも、天狼星の輝きは、人の目を奪う。
その神秘的なまたたきは、傲然と天空に君臨するあばた面の女神…月よりも、気性のはげしい一途な美女のようだ。
 妓楼の窓からながめる夜空は、おそろしく澄明で美しかった。
しばらく、こんなふうにしげしげと、夜空を見上げることがなかったのだ。
許都から新野に至るまでの道程では、どす黒い怒りと殺意をたぎらせていた。
もちろん、怒りも、殺意も消えてはいない。
しかし、先日までたしかに抱えていた毒のようなものが、体から抜けてしまったような感覚はある。

朱季南は、天狼星をながめつつ、あれもこんなふうに、一人で懸命に生きている女だった、と悲しみとともに思う。
佳い女だった。
娼妓でありながら、気品も教養もあり、けして自分を貶めるようなことを口にしなかった。
いつか、この泥沼からかならず這い上がれると、信じていたのだろう。
辛いことばかりの人生であったはずなのに、愚痴ひとつこぼさず、母親が子供を労わるように、疲れ果てた朱季南の体も心も癒してくれた。
もとは、良家の子女であった、というのも、本当であったかもしれない。
董卓が幼帝をつれて無理に遷都を実行したときに、むりやり転居をさせられたのであるが、そのときに流賊におそわれて攫われ、親兄弟とはぐれてしまったのだという。
その後、品物のように売り買いされ、まだ子供といっていい少女の頃から、客を取らされていた。
あまりの無残な過去に、言葉を失った朱季南に、この時代、よくあることだもの、命があるだけましではないの、と女は笑った。
けして美人ではなかったが、あの気品は一朝一夕で身につくものではない。
金で買える女であったが、たやすく手に入れられることに、罪悪感を抱かせる女であった。
だから、朱季南は時間をかけて女のもとに通い、普通の女にするように、言葉をかけ、贈り物をし、想いを告げ、そうして結ばれた。
公孫瓚が滅亡したあと、曹操のもとに仕官をしたのも、許都で、女とともに暮らすためであった。
女と築く家庭のために、安定した収入がほしかったのである。
女は仕官を喜んだ。あばら家であったが、家を借りてやると、泣いて朱季南に抱きついてきた。
これで、ほんとうに泥沼から抜け出せると思ったにちがいない。
流れ者であった朱季南は、出仕するのによい服を持っていなかった。
それを知った女は、これで最後だと言って、夜の街へと出かけていった。

もし朱季南が、女が商売に出たことを知っていたら、絶対に止めていただろう。しかし運悪く、その夜、朱季南は出仕先の歓迎を受けて、宴席に出ていたのである。
女は帰ってこなかった。
翌朝、心配して町へ探しにいった朱季南の耳に届いたのは、許都の歓楽街をさわがす娼妓殺しの話であった。
以前から、娼妓をつぎつぎと殺害していたが、昨夜もまた、出たらしい。
嫌な予感に朱季南が屯所へ行くと、無残な女の死体が横たわっていた。
ほとんど、見分けもつかないほどに切り裂かれた、それはもはや、かつて女の姿を形作っていた、女の体の一部であった。

 朱季南はその日より、一切を捨てた。

そうして、一つのことだけに集中するようになった。
娼妓殺しの下手人を、巷では『風狗』と呼ぶらしい。
当初は、他勢力の狗ではないか、という噂があったためと、風のように、まるで正体が掴めないからである。
朱季南は、『風狗』を見つけ、殺すためだけの人生を歩むのだと、心に決めた。
 「元気そうね」
と、商売から抜け出てきた、今朝ほど看病をしてくれた娼妓がやってきた。
酒の臭いがかすかにするが、本人は飲んでいないらしい。
 はじめて娼妓を真正面から見た朱季南は、いささかうろたえた。
片田舎の妓楼にはめずらしい器量の持ち主であった。
かなり年がいっているにもかかわらず、追い出されずに妓楼にいられるのは、その器量のせいであろう。
豊かな黒髪を簡単に結っただけの、だらしないとさえとれる髪型をして、眠そうな、だるそうなふうであるが、それが厭味でない。
ふしぎと相対する者を、落ち着かせる女である。
おそらく、それは女自身に気負いがまるでないからだ。
 「阿片はもうやめたほうがいいわよ」
と、女は付け足しのように言う。
なつかしい、北方訛りの混じった声。
 「すまぬ、おまえには世話になったな」
そうね、といって、女は気だるそうに、豊かに流れ落ちる黒髪をかきあげた。
 「あなたについていたので、一晩分の稼ぎがなくなったのが、残念だけれど」
む、と朱季南はことばにつまった。
彼女たちが、どれだけ金というものを気にしているか知っているだけに、よけいに女に済まないと思った。
 「ほんとうにすまぬ。しかし俺には、おまえに代わりにやれるものがない」
 「あら、あるじゃないの。その耳飾り」
と、女は、朱季南の片耳にある、女物の耳飾りを指さした。
すぐさま朱季南は首を横に振る。
 「これは駄目だ。大切なものなのでな」
この片方は、許都に眠る、妻になったかもしれなかった女の棺のなかにある。
「それは、『紅彩』という女のもの?」
朱季南はぎょっとした。紅彩こそ、許都で無残に風狗の手にかかった女の名前であったからだ。
どうして、と言いかけて、思いつく。
「俺はうなされていたのだな。しかし、おまえはうなされていなかったと言わなかったか?」
「目が覚めた男が、うなされていなかったか、と聞いてきたときは、どんなに奥方の名前を呼んでうなされていようと、うなされていなかった、と答えることにしているの。ごめんなさいね」
女は悪びれずに言う。
「紅彩は、許都で待っている奥方の名前なのね?」
「いいや、もう死んだ」
女は、それを聞くと、何の感慨もなく、そう、とだけ言って、つづけてこう言った。
「それでは、その名前がほしいわ」
「名前?」
「そうよ。きれいな名前だもの。いまのあたしの五番目の名前より、ずっといいわよ。嫌なら、こだわらないけれど」
「五番目?」
「そう。最初は、親元から離れて売られたときに付けられた名前。二番目が、あたしを身請けした男がつけた名前。三番目は、二番目の名前をつけた男が金を持って逃げてしまったので、また妓楼に戻ったときに貰った名前、四番目は、堅気になろうと思って自分で付けた名前、五番目は、やっぱり妓楼に戻ってきて、そのときに付けられた名前。いまのあたしの名前、『五娘』というの。ひどくいい加減だと思わない?」
女は淡々というのであるが、自分の名前が気に入っていないのは本当らしく、自分のいまの名前を名乗るときは、眉をきゅっと寄せて見せた。
「紅彩は、駄目だ」
「駄目なの。なら、仕方ないわね」
「いや、でも俺でよければ、よい名前を考えよう。今すぐには無理だが、かならず良い名を準備する。それで詫びの代わりにしてくれぬか」
「良い名前だったら、そうするわ」
と、はじめて女は、気だるそうな顔に、笑みをわずかに浮かべた。

「暇そうだな、季南」
部屋に、ずかずかと、男装の女老師が入ってきた。
朝に、堕胎の手伝いがいくつもある、と言っていたとおり、疲れ切っているようであった。
無表情なのはあいかわらずであるが、機嫌が悪いのは声の調子でわかる。
「空を眺めていたか。なにが見える?」
「星だ。星と、月。だが俺は、あいにく天文官ではないので、星は読めぬ」
「月の明るい夜だ。こういうときには、奴らが出る」
「奴ら?」
その言葉に、思わず朱季南は身構える。風狗かもしれない、と思ったのだ。
「五娘ではないが、わたしもおまえにかなりの労力を使っているのだよ。恩返しの意味も含めて、わたしを手伝うつもりはないか?」
朱季南がいぶかしげに眉根を寄せると、女老師は、ほつれ落ちる前髪を掻き分けつつ、言った。
「人助けだ。いまこうしている間にも、闇に落ちる子供がいるかもしれない。それを救うのだ」
 

                     ※                 ※


市場であのテンの毛皮を見たときから、触れてみたいと思っていたのだ。
ただ触るだけならば、と手を伸ばしたことがあったが、店の主に見つかって、罵倒とともに殴られた。
そのときの痛みを、斂(レン)は忘れなかった。
二度と近づくまい、と敬遠するどころか、復讐心をたぎらせるのが、斂という子供である。
いつか必ず、きっと盗んでやると狙っていた。
兵士に見つかったのは厄介だったけれど、うまく逃げおおせたわけだし、結果として、テンの毛皮は手に入った。
斂は、初めて子供らしく顔をほころばせ、握りしめていた毛皮を首に巻き、うっとりと、その肌触りを楽しんだ。
毛皮の端っこを付かんで、頬ずりする。

おくさまの手を思い出す。

斂は、おくさまが大好きであった。
母親の手は、水仕事で痛めつけられてが、さがさでアカギレだらけであったが、おくさまの手は、白くてやわらかだった。
いつか物語で聞いた、仙女さまの手は、こんなふうではないかとさえ思った。
なかなか子宝にめぐまれなかったご主人夫婦は、奴婢の子である斂をかわいがって、いろいろと面倒をみてくれた。
斂、という名前をつけてくれたのもおくさまである。
ずっと、おくさまがいてくれたならよかった。
しかしおくさまは、ウマズメだというので、ご主人から離縁をされてしまった。
あとからやってきた後妻とかいう女は、おくさまとはちがって気取った女で、斂は大嫌いだった。
斂をけして名前で呼ばず、奴婢の子、と呼び、けなした。
近づくと、汚いのはあっちへ、と行って犬のように追い払う。
あるとき、その女が、斂という名前は、奴婢の子に似合わないから、ほかの名前に変えてしまおう、と言い出した。
おくさまがつけてくれた、大事な名前を、とりあげてはたまらない、と斂は思った。
その女は、豊かな美しい黒髪が自慢であった。
女が、母親に髪を梳かせながら、髪は命とおなじくらいに大切だ、と言っていたのをおぼえていた。
自分が大切なものを盗られたら、どんな思いがするか、実際におなじ目に遭ってみたら、斂の名前を変えてしまおう、などと言わないだろうと、子供の浅知恵で、斂は考えた。
そこで、女が寝ているところに忍び込んで、寝ているうちに、黒髪を根元からばっさり切ってしまった。

とたん、大騒ぎになった。

女は狂ったようになり、黒髪を切った犯人を、かならず捕らえて復讐してほしい、とご主人に訴えた。
ご主人も、おのれの妻が、寝ている間に髪を切られる、などという屈辱を受けたのだから、黙ってはいない。
髪を切られるということは、死罪を受けたというのにも等しい。
罪を得た女囚人が、髪を切られて雑役に従事しているのは、その罪がかなり重い、という意味でもある。
斂が思っていた以上に、事態は深刻であった。
だが、斂の仕業とは、だれも気づいていないようであった。
最初はおもしろがって、しらばくれていた斂であるが、おもしろがっていられたのも、最初のうちだけであった。
父母をふくめた奴婢や、下男下女がひとりひとり呼び出され、いろいろ話を聞かれた。
それを目の当たりにして、いまは、子供であるからこそ、まさかそんな大胆な真似はすまい、と思われている状況であるが、これほど細かく詮議されるのであれば、そのうちにばれるのではないか、という不安をおぼえた。
そうして、自分から目が逸れているかわりに、関係のないだれかが、犯人にしたてあげられてしまうのではないか、という恐ろしい可能性に突き当たる。
もしかしたら、八つ裂きにされてしまうかもしれない。
それは、自分が犯人だと名乗った場合でも、おなじ結果になりそうな予感がした。
斂はおそろしくなり、ひとり、屋敷から逃げ出した。

それから数ヶ月が経った。
はじめ、斂はおくさまのところへ行こうと考えたのだが、家を飛び出してすぐに、おくさまの実家がどこにあるのか、知らないことに気づいた。
そして仕方なく、新野に留まっている。
もともとの気性のはげしさと、だれにも負けない俊足が味方して、斂は飢えずに生きている。
盗んでやろうと狙ったものは、かならず盗みおおせた。
日々の糧を得るうえで、盗みの技術もどんどん向上していった。
お屋敷で働く父母が恋しくならない、といったら嘘になる。
しかし、父母には、ほかにたくさんの兄弟がいて、はしこい斂はどちらかというと、あまり構ってもらえない存在であったし、なにより、おくさまがいないのであれば、屋敷であろうと路上であろうと、どこだろうとおなじであった。

テンの毛皮の、ふんわりした心地よい肌触りにうっとりしつつ、斂は、町の片隅の薄汚い路地のうえに座り込んだ。
空には、青白い月が神秘的な顔を出し、その周囲を、きらきらと星が瞬いている。
雲のない夜だ。
初夏とはいえ、夜はまだ冷えるときがある。テンの毛皮は、すこしでも、寒さをやわらげてくれるだろう。

ふと、足音が近づいてくるのがわかり、斂は体を強ばらせた。

さっきの兵士が追いかけてきたのだろうか。
しかし、身構えた斂の目の前に、月光に照らされて、足音も軽やかにあらわれたのは、さきほどの兵士たちではなかった。 
見たことのない、にこやかな若い、旅装の男女である。
斂の旧知であるように、親しみのこもった笑みを向けて、斂に近づいてくる。
逃げようと腰を浮かせた斂に、女のほうが、やさしい声色で言った。
「大丈夫よ、あなたを捕まえにきたのではないのだから」
女はそう言うと、懐から、餅を取り出し、斂に差し出した。
「食べていないでしょう。遠慮しなくていいのよ」
斂はためらいつつも、大きく咽喉を鳴らした。
女の言うとおり、昨日からロクなものを食べていなかったのだ。
女は、それを見越して、ほら、ともう一度促した。
斂はもう我慢が出来なかった。
奪うようにして餅を取ると、一気に口に突っ込む。
やっぱり返せ、といわれないうちに、そうする必要があった。

餅を腹に詰め込みながら、ちらりと男女を見ると、ふたりとも、意地悪を言いそうではない。
むしろうれしそうに、斂が餅を口にしているところをながめている。
「元気がよいね。男子はそうでなくてはならぬがね」
と、男のほうが、はきはきと明るい口調で言う。
脇にいた女も、それに賛同してうなずいた。
「元気がよくて、頑丈なのが一番だわ。あなたもそう思うでしょう?」
元気がよい、ということと、ご飯をたくさん食べられたので力が出る、というのとは、斂の頭の中では同義である。
だから斂は、女のことばにうなずいた。
「一人では、いろいろと不便が多いでしょうに。家に帰りたいとは思わないの?」
斂は、すぐさま首を横に振った。
斂が、あの女の髪を切ったのだ、ということは、斂が出奔した時点で、ばれたことだろう。
いまさら屋敷に帰るわけにはいかなかった。
「曹操という、おそろしい男が南下してくる、という話は、あなたも知っているでしょう? ここは戦場になるのよ。それなのに、ここにいたら、曹操の兵士に殺されてしまうわよ」
「女子供も容赦なく殺す男だという噂だからね」
曹操という名前は、斂のような浮浪児でさえ知っていた。
その名前が出ると、大人たちの顔が一様に険しくなる。
曹操に関連する事柄は、血なまぐさい話ばかりだ。
自分も殺されてしまうかもしれない。
斂はとたんに食欲がなくなった。
首のテンの毛皮の肌触りが、むしろ悲しく感じられる。
それを見越したのか、女は言った。
「曹操とは無縁の、よい場所を知っているわよ。そこに行ってみたいと思わない?」
「きみとおなじ年くらいの子供もたくさんいる、よい場所だよ。行ってみたいだろう?」
「食べることの心配はしなくていいのよ。家もちゃんとあるわ。あなたのための寝台だって、もう用意してあるの。どう? わたしたちと一緒に来ない?」
「でも…金がないよ」
と、斂は搾り出すように言った。
もとより、屋敷を飛び出したのも、着の身着のままであった。
斂の頭には、その後どうなるか、などという未来図がない。
行き当たりばったりであった。
「金なんていらないさ。われらと一緒に来てみたらいい。きっと気に入るさ。わたしたちは、きみのように賢くて、体力に優れた子供をさがしていたのだ」

「そして頭が悪くて、世間知らずの、まだ無垢な子供。そうだろう?」

あたりに響くような、凛とした声がした。
思わず斂は、背筋を伸ばして、声の主を探す。
そうして、斂は息を呑んだ。
燦々と降る月光のもと、背の高い、男装をした女が立っていた。
その眼差しはきびしいが、冷たいものではない。
斂の心は逸った。
おくさまだ。おくさまに、このひとはそっくりだ。
夜風に衣の裾をなびかせ、あらわれた女は、決然と、男女に言う。
「正直に伝えたらどうだ。食事も寝床も保障する、同じ年の仲間もたしかにいるが、飢えから逃れられる代償は、人殺しだと。
それも戦場で堂々と敵と対峙する方法ではない。闇から闇へ、ありとあらゆる方法で、相手を葬り去る訓練をつむのが仕事なのだと」
「何者だ」
男が、それまでの明朗快活な様子を捨てて、とたんに豹変し、凶悪な容貌を見せる。
だが、男装の女はひるむことなく、つづける。
「おまえたちは、おのれに誇りが持てるのか? 首根っこを掴まれたような生活を強いられることが、ほんとうに真の幸福に繋がると信じているのか?」
「おまえ、われらを知っているのか?」
男の問いかけに、女は答えた。
「知りたくないが、知ってしまった者だ、おとなしく『壷中』に帰れ。でなければ、いますぐ『壷中』を捨てよ。悪いようにはせぬ」

斂に優しげに話しかけていた男女は、女のことばに顔を見合わせた。
対策を練るためではない。彼らの方法として、自分たちの正体を知った者は、すぐに命を奪って、永遠の沈黙を買う。
男女の全身から、肌が粟立つほどの殺気が吐き出される。
「だめか」
と、男装の女は、はじめてその白面に苦渋を浮かべた。

斂の目の前で、風が動いた。
形のない風が、ほんとうに動いたように見えた。
男の行動があまりに素早かったので、その姿が、風の動きに見えたのだ。
ぎらりと、夜闇に、月光を受けた刃が光る。
男は、地面を大きく蹴り上げると、真正面から、佇立する女の額めがけて、隠し持っていた刃を振り下ろした。
女は、襲撃してきた男の目をまっすぐに見て、身動きひとつしない。
すくんで動けない、というのではない。
自らのつむいだ言葉の結果を、そして彼らの行動の始終を、すべて双眸にしまおうという、貪欲で冷徹な顔をしていた。

ぐらり、と世界が歪む。

いままさに、女の額に刃を振り下ろさんとしていた男の姿が、ぐらりと揺れた。女の周囲にはりめぐらされた、見えない壁にはじかれたように見えた。
しかし、地面にもんどりうった男の腕には、縄標が巻きついていた。女は、さほど驚くふうでもなく、闇の向こうにむかって、言う。
「はじめて人さまの役に立ったな、季南」
「それが命の恩人にむかっていう言葉かね」
闇のなかから、今度は、いかつい禿げ頭の男があらわれた。
禿げ頭は悪態をつきつつ、ちからまかせに、縄標をひっぱる。
男は、しばらく引きずられるままになっていたが、空いた片側の手に砂をつかむと、それを禿げ頭の顔面めがけてぶつける。
そうして禿げ頭がひるんだ隙に、みごとなバネで、ぴょん、と起き上がって見せた。
片腕に巻かれたままの縄標はそのままに、くるくると駒のように回転をしながら、間髪いれずに拳を打ち込む。
禿げ頭は、片手の剣で、つぎつぎと打ち込まれる拳を縫うように、剣を突き出す。
不意に、禿げ頭のほうが、手に巻いていた縄標をするすると解き、たるませると、はげしくうねらせた。
とたん、男のからだは前につんのめる。
片手の剣で、体勢を崩した相手を刺そうとする禿げ頭であるが、しかしそれは、またもや闇から投げられた石によってさまたげられた。
斂の握りこぶし大の石つぶては、禿げ頭のちょうどてっぺんに、がつん、と命中した。
禿げ頭がひるんだ隙に、男のほうは体勢を立て直し、縄標を剣でもって断ち切った。
そして、その位置からきれいに後方へ宙返りをする。

禿げ頭は舌打ちをし、あらたな敵に目を向ける。
さらにあらわれたその男は、どうみても新野の武将であった。
うしろに、ぜいぜいと息を切らせた、猛暑にへばった野犬のような様子の若者をふたり、従えている。
 
斂と男装の女、男装の女を守る禿げ頭、旅装の男女のなかに、いきなり飛び込んできたのは、じつに冴えない男であった。
ただの兵卒ではないのは、わりと立派なしつらえの鎧でわかる。
しかし、腰に手ぬぐいとお守りを提げて、きょとんと周囲を見回す顔は、殺気や英気とは無縁である。
全体から醸し出される雰囲気は、ひとことで言うならば『生活感』であった。
体つきは引き締まっているものの、顔立ちは精悍さとはほど遠く、新野じゅうの兵卒を並べて、そのなかのどこにでも好きなところにいっていい、と命じて、あとでかくれんぼのように探しても、まず見つからないであろう、というくらいに平凡な顔立ちであった。

「おや?」
と、男は、まず、自分が投げた石を痛がって、頭をさすっている男を見、眉をしかめた。
「朱季南ではないか、なぜこんなところで暴れているのだ? 探したのだぞ。おまえのために、俺は家に帰れないのだ」
男が言うと、禿げ頭の朱季南も、闇からあらわれた相手が、何者であったか思い出したらしい。気まずそうに顔をしかめる。
「貴様、たしか、陳叔至、という御仁であったな?」
「ふむ、俺の名は覚えていたか。我が屋敷に担ぎ込まれたときは、前後不覚でべろんべろんの様子であったからな。いまは壮健そうでなによりだ。樊城の子龍殿も安心されよう」
子龍、と聞いて、禿げ頭の朱季南は、ろこつに迷惑そうな顔をする。

「陳到さま!」

必死な声をかけられて、陳到は、怪訝そうに首をむける。
旅装の男であった。
「貴方様は、新野一の武芸達者と名高い、陳到さまでしょう? どうぞお助けください。わたくしどもが、このあわれな浮浪児に飯をめぐんでやっているところへ、この連中が、いきなり襲ってきたのでございます!」
旅装の男は、縄標を巻かれていた腕をさすり、いまにも泣きそうな顔をして、陳到に訴える。
かたわらの女は、その男をなだめるようにして背中をさすり、哀れっぽさを、さらに増している。
「なんだと…そうなのか、朱季南。だいいち、そこの女人は何者だ?」
「わたしの名は嫦娥。医者だ。ところで陳叔至どの、こいつらの言葉を信じてはならぬ。こやつらは『壷中』にて、人をだます訓練を徹底的につんでいる」
「なに、『壷中』、とな?」
それまで呑気におのれの世界を展開してきた陳到は、嫦娥のことばに、顔をこわばらせた。
周囲のだれもがおどろいたことに、いままで、平凡きわまりない顔をしていた陳到の顔から、平素の顔がすうっ、と消えて、代わりに孤狼のような、冷徹な武人の顔があらわれた。
ただひとり、嫦娥だけは、変わらず無表情のまま、陳到に言う。
「諸葛孔明は、貴殿に指示をしているはずだ。『壷中』…その名にきき覚えがあるだろう。こやつらは、『壷中』から派遣された、人買いなのだよ」
「人買い? 徴兵のどさくさにまぎれて、子供たちを攫っていった連中と、こやつらに繋がりが?」
「なにをおっしゃっておられるのか、わかりませぬ。そのような男のナリをした怪しげな女より、われらの言葉をご信用くださいませ!」
いきなり殺気を全身から発した男と、同一人物とは思えないほどの哀れっぽさで、男は叫ぶ。
「叔至どの、諸葛孔明はこやつらに、目の仇にされて狙われている。当然、貴殿の上役の趙子龍とも対立する立場にある連中だ。いま逃せば、あとあと厄介なことになるぞ」
と、これは嫦娥のことばだ。

陳到は、体ごと嫦娥に向いた。
「軍師が、なぜに『壷中』に狙われると?」
「見てしまったからだ。いや、見られたと思われたから、といったほうが正しいか。『壷中』という組織は、二度にわたり分裂をしている。その始めの分裂のきっかけをつくったのが、連中が、諸葛孔明に姿を見られたことであったのだ。
『壷中』というのは、まだ世間ずれをしていない子供を攫い、人界と孤絶した村で、自分たちの都合の悪い人間を暗殺するための、要員を育てている村の名前なのだ」
「子供を攫って? では、新野にあらわれた、人買いは、自分たちの仲間を増やすために、子供たちを騙してさらっていった、というのか」
「そうだ。『壷中』での訓練は、われらの想像をはるかに絶するもの。そのために、せっかく連れてきた子供たちも、途中で命を落とす者が絶えない。だから、連中は、絶えず子供を攫っていく」
「なんという話だ…。しかし、誰がそのような組織を作っているのだ?」
「それはいえない。いま、貴殿がそれを知ったら、貴殿と、貴殿の家族が危うくなる。いまは駄目だ」
陳到は顔をしかめた。
「む、それは困るな。しかし貴女は、ずいぶんご事情にくわしいようであるが?」
「子供は、産まれてくるとき、家を選べない。名前についてもおなじことだが。ずいぶん悲しい話だ」
「は?」
嫦娥のことばの意味がわからず、小首をかしげる陳到であるが、ふと、その視線の端で、男が動くのが見えた。
あっ、と陳到のうしろで、状況がつかめないで、ぽかんとしていた糜家の養子兄弟が声をあげた。
男は、走りざま、地面に落ちた短剣を足で宙に蹴りざま、それを取る。
そうして、斂に向かって突っ込んでいくところであった。

一瞬のことであった。
月光をうけて、輝くものが二つ。
斂を人質にして逃げんとする男の短剣と、そうして…

光が走った。

その場の誰もが、何が起こったのか、目視することができなかった。

斂は、おのれに向かってくる男の腕だけはわかった。
しかし、それは、光が走った、と思われたつぎの瞬間に、消えうせたのである。
だが男の姿は消えない。
男とて、何事が起こったのか、知覚できなかったのだろう。
斂に向かおうとし、そうして、異変に気づき、顔を強ばらせる。
男の両腕はなかった。
衝撃からわずかに遅れるように、切り離された両腕が地面にぼとりと落ちた音が、ふたつ。
驚愕と衝動に、体の動きを崩す男に、ふたたび光が走る。
今度は、はっきりとわかった。陳到が、正確無比の動きで、男の首をあざやかに跳ね飛ばしたのである。
傍らにいた女の悲鳴が、夜の街にえんえんと響いた。

だれも、しばらく言葉を発しなかった。
糜家の養子兄弟は、兄の伯亮は腰をぬかし、弟の叔亮のほうは、半べそをかきながら吐いている。
朱季南は、目の前で一瞬にして行われた業に驚嘆し、斂もまた、悪い夢でも見ているかのように、身動きをとることができなかった。
「子供をさらって、人殺しの道具にしたてんとは、なんと腐った連中か!」
と、陳到はぷりぷりと怒っているのであるが、すでにその表情からは、さきほどまであった狼のような凶悪さは消えている。
その落差は、さらなる沈黙を呼んだ。
だれも、陳到についてこられないでいる。
だが、陳到はそんなことは、ちっとも気にせずに、伯亮と叔亮に言った。
「さあて、その女を逃すな。屯所へ引っ立てるのだ。『壷中』という村のことをこの女から聞き出し、主公と軍師にご報告せねばならぬ。
しかし、朱季南は見つかるわ、人買いの正体はわかるはで、めでたいことではないか。これも日ごろの行いがよいので、天が吾に褒美をくださったにちがいない。うむ」
一人合点をし、陳到はぼう然とへたりこんでいる女に向かっていく。
そうして、同じくぼう然としている朱季南より、さりげなく縄標を奪うと、それで女をぐるぐる巻きにして、身動きがとれないようにした。
「待て、その女を取り調べるのであれば、男では駄目だ。女にさせろ。『壷中』の女は、捕らえられたことを想定して、さまざまな手練手管で逃げ出す術を心得ている。
それと自害されぬようにな。たとえうまく逃げおおせたとしても、秘密をもらしたカドで仲間から命を狙われるということを、『壷中』の人間はなにより恐れる」
「女に取り調べ、それから自害をせぬように、か。あいわかった。しかし、嫦娥どのとやら、貴女方にもわれらとともに屯所に来ていただきましょう。『壷中』のことをもっと聞かせていただきたい」
「お断りする」
と、きっぱり嫦娥は言い切った。
「なぜ?」
「わるいが、わたしのほうにも色々予定がある。探しているものがあるのだ」
「なんだね。もし俺と一緒に屯所へ来てくれるならば、兵卒を貸してやってもよい。一人で探すよりも、よほど見つけやすくなると思うのだが」
「お心遣いはありがたいが、お断りさせていただく。これは、わたし一人の力で見つけたい」
ふうむ、とうなりつつ、陳到は神妙な顔をして、顎をなぜた。
そうして、ふと目を開く。その目には、ふたたび、優秀な武人の光が宿っている。
「ならば、貴女を無理にでも連れて行かねばならぬ。われらの軍師が、『壷中』に狙われている、とうのであれば、なおのこと」
「やはり、そうなるか」
と、嫦娥は、うんざり、というふうにため息をつく。
そうして、おもむろに袖から、黒く丸い玉を取り出した。それを見て、陳到が顔色を変える。
嫦娥が丸い玉を地面に思い切り叩きつけると、同時に、ぶわっと周囲が厚い煙につつまれた。

斂は煙のなか、不意に手をひっぱられた。
その手の感触は、優しくやわらかで、やはりおくさまの手によく似ていた。
「走りなさい。わたしからはぐれぬように」
と、嫦娥が短くつぶやいたのが聞こえた。
煙の向こうの相手はよく見えなかったけれど、斂は大きくうなずいた。
そうして、陳到たちに捕まらないように、懸命に駆けた。
この白くたおやかな手の主と、ともに行けることがうれしかった。


                             ※ ※

時間は、ここで、すこし巻き戻る。
樊城に戻る途中で、休憩を、と言い出したのは孔明のほうであった。

うねった道の途中には、かたむきかけた陽光を受けて、きらきらと宝石のように輝く水田があり、趙雲は、そこで作業をする農夫たちから清水のある場所を教えてもらった。
農夫のひとりは、立派な風貌の二人連れに驚き、そして趙雲の礼儀正しさによろこんで、スモモの実を分けてくれた。
水筒に水を汲み、そしてスモモを持って行くと、孔明は、趙雲の馬を撫でてやり、まるで友にするように、話かけているところであった。
どんな言葉をかけてやっているかまでは、聞こえない。
趙雲の馬は、平素より乗りなれた、袁紹のもとから連れ出してきた、栗毛の馬である。
名を赫曄(かくよう)という。その名の示すとおり、馬の中でもかなりの美人で、光り輝くような色艶をもっている牝馬なのであるが、これがとんでもないじゃじゃ馬で、だれも乗りこなせず、もてあましていたのを、趙雲が引き受けたのだ。
赫曄は人見知りがはげしく、誇り高くもあるので、気に入らない人間がくると、棹立ちになって、前足をはげしく鳴らす。
しかし、孔明のことは気に入った様子で、孔明に鼻面を撫でられていると、気持ちよさそうに、鼻を鳴らして、尾っぽを振っている。

「馬の言葉もわかるのか」
と、趙雲が声をかけると、孔明は青白い顔に微笑をうかべて答えた。
「この馬は、あなたのことがとても好きなのだと言っていたよ」
「当然だ。人間の女より大事にしているのだからな」
「スモモを持ってきてくれたのだね、どうもありがとう。ちょうど咽喉が渇いていたのだ」
と、孔明は、趙雲からスモモを受け取った。
顔が青白いだけではなく、その手すら青い。しかも震えている。
趙雲は、スモモを渡すフリをして、孔明の手を掴んだ。
そうしてぞっとする。死人のように冷え切っていた。

初夏である。
太陽も照っている。
馬上で風に殴られ続けた結果のことではない。
その顔をのぞきこむと、孔明は笑いながら、やんわりと、おのれの手を掴む趙雲の手をほどいた。
「なんだ、スモモが惜しくなったか」
「はぐらかすな、熱でもあるのか」
孔明は、おのれの額に手をあてて、寂しそうに、それでも微笑を絶やさず、答えた。
「どうかな。頭がぼおっ、としているのは確かであるよ。そんな顔をされるほど、わたしはひどい顔をしているのか」
「俺は、どんな顔をしている?」
「死者を見送る友のような顔だ。なあ、子龍。相談なのであるが、貴殿、いまから新野に戻らぬか」
「二人でか…しかし、樊城に残してきた者たちはどうする。そういうことになるのであれば、一緒に連れてくるのであったな」
「そうではない。貴殿ひとりで、新野へ戻れ、という話だ」
「俺ひとりで? おまえはどうする?」
「樊城へ戻る。おそらくいまでも、『壷中』は、どこかでわたしを見張っているにちがいない。
わたしは守りとして、あなたを樊城に連れてきたが、やはり間違いであった。
あなたは新野に残り、わたしは叔至を伴にするべきだった。
いまさら言っても詮無いことであるが、わたしたちが伴にいるのは、連中がかえって動きやすくなってしまうのだよ」
「待て。樊城へ向かう前に、俺もたしかめたかったのだ。
『壷中』とはなんだ? なぜおまえを狙う?」
「『壷中』とは、荊州を…正確には樊城を守るために作られた、刺客を養成するための村なのだ。おそらくそれは、徐州や中原の燎火をのがれたものの、親からはぐれた子供たちを集めてつくられたものだ。最初はな」
「最初は?」
「子龍、『壷中』の意味を知っているか。この世とは別天地の、富にあふれた幸福な世界をさす言葉だ。
はじめ、荊州の主だった人士は、難民の子供たちを救うために、一つところにあつめて、鍬を持たせて、開墾をさせた。そうして、子供たちに、自分たちの信奉する思想を教え、成人したあかつきには、ひろく世の役に立つ人間に育てようと、そういう高邁な理想に『壷中』は支えられていた。
叔父の玄は、当初の『壷中』に賛同し、その協力をしていた。親からはぐれた子供たちを食べさせてやれるだけではない。教育まで与えて、立派な人間にしようというのだから、子供好きな叔父はよろこんで協力したことだろうと思う。
だが、途中からそれが歪んだのだ。なにがきっかけかはわからぬ。
叔父はそれを知らなかった。知らなかった、ということは、もしかしたら、樊城の、『壷中』を主催する人間の一部が、暴走したのかもしれぬ。
そんな中、叔父は徐州から逃げてきたわたしたちを引き取り、南昌へ連れて行く道中で、わたしと均を襲おうとしている流民の子と、かれらを隠れ蓑にして、草むらにひそむ人間を、斜面の上から見つけた。
それは程子聞の書簡にあったことだ。わたしに近づいてきた子供は、程子聞だったのだよ。
ぼろぼろで垢まみれであった子供が、あんなに立派になったので、わたしも気づかなかったのだ。
だが、程子聞は、河原で攫おうとしていた子供が、わたしであるとすぐに気づいたそうだがね。
当時は、わたしたちを攫おうとしていた人間は、おそらくわたしたちが諸葛玄の甥ということを知らなかったにちがいない。
叔父は草むらに潜む人間のなかに、きっと見知った顔を見つけたのだ。向こうも、叔父上に気づかれたことに気づいた。
ぼろぼろにすりきれて、汚れた子供たちを率いて、さらに彼らをつかって人攫いまでしようとしていた人間を見て、叔父は、『壷中』の内容がいつのまにか摩り替わり、人買いにも劣る組織に成り下がっていることを知った。
黙っている叔父上ではない。叔父上は、樊城の『壷中』に抗議をした。叔父はあれで、なかなか激しやすい人であったから、このことを公表するとでも言い切ってしまったのかもしれない。
当然、叔父上は邪魔になる。だから、『壷中』は叔父上を暗殺したのだ。わたしを狙うのも、わたしが叔父上から何か重要な遺言を言付かっていないかと警戒したためだ。
むしろ、いままで命があったのが奇跡なのかもしれないな」
「樊城の、どいつが、そんな吐き気のするような組織を作ったと?」
「荊州の豪族たちだ。程子聞の手紙によれば、豪族たちは、視察と称して、よく村にやってきていたそうだよ。そのときに子供たちにどんな振る舞いをしたか、想像に難くないのではないかな」
「ひどい話だ」
「そうだ。最初は高邁な理想からはじまったものであった。美しいものは細心の注意を払わねば作ることができないが、汚いものは一瞬でできあがる。
『壷中』の存在意義は変貌し、やがて刺客を養成するための村に変わっていった。
しかし、すべての子供たちが刺客になれる、というわけではない。刺客と一口にいっても、あれだって特殊技能を必要とする、血のにじむような修練を必要とする職業だ。
きびしい訓練のなかで、子供たちの数人が命を落とすのは当然だろう。
わたしを攫おうとしたのは、すでに、子供の数が減っていたからだ。
子供がいなければ、『壷中』は成り立たない。
そうして、連中は、親からはぐれた難民の子だけではなく、親のいる子も、むりやり親元から引き離して、攫っていったのだ」
 

第四章 涙 2へつづく
MAPへ戻る