日和~日、なごやかなり~

後編

※このお話は、「説教将軍シリーズ(?)」の続きでありますが、独立した中篇としてもお楽しみいただけます。そして、「椒聊よ、遠き条よ」のプロローグ的作品でもあります。
蒋琬と休昭は、連れ立って夜の街に繰り出した。
粗末な衣を纏い、髪も、わざとだらしなく結いなおした休昭は、飄然とあるく蒋琬のあとに続きながら、きょろきょろと周囲を見回した。
成都を故郷としながらも、休昭の行動範囲はせまい。
なぜならば、かつて少年であった頃、父の幼宰より、成都の地図を前にして、
「ここからここまでは、行ってよし。ここから、この先は行ってはならぬ」
と教えられたのを、いまでも律儀に守っていたからである。

よく整備された中心街とちがい、あばら家のならぶ、うらぶれた通りを行く。
すすき野のあいだにいまにも潰れそうな家が点在しているのであるが、廃屋かと思えばそうではなく、薄暗い闇のなかに、朽ちかけた戸板のすきまから白い煙がこぼれ、銀の三日月の下に漂っている。人がいるのだ。
「このあたりに来るのは初めてか」
蒋琬に問われて、休昭は大きくうなずいた。そうして、ふと、人の気配をおぼえて気をとられて足をとめると、蒋琬は言った。
「おい、あんまりわたしから離れるなよ。このあたりは、特に物騒な地域でな、人をひとりぐらいなら、あっというまに呑みこんでしまう」
先に言ってください、といいつつ、あわてて休昭は蒋琬のうしろに戻った。
「公琰どのは、どちらに向かわれているのですか?」
「賭場だ」
ものめずらしい光景に気を取られ、そうですかと流しそうになった休昭であるが、はっとして、蒋琬の横に並ぶ。
「賭場?」
「そうだよ、賭場だ。行ったことはないのか」
「ございませぬ。官が博打に興じるのは禁止されております。もしや、公琰殿まで文偉と一緒になって、博打に耽っておられるのですか?」
「いいや。わたしは博打の類いはせんよ」
ではなぜ、と問おうとするより早く、闇の向こう側より、わあわあと大勢が騒ぎあっている。
蒋琬はやれやれ、とつぶやきつつ、休昭に言った。
「急いだほうがよさそうだな。すこし走るぞ」
いいざま、蒋琬が意外に俊足なところを見せて走り出したため、休昭も、あわててそれにならって走り出した。

枯れ草が波のように揺れる草原を、頼りない三日月の明かりの下、懸命に走れば、やがて前方に、ちいさな掘っ立て小屋があり、そこで、まるで蜂の巣をつついたような大騒ぎが起こっているのが見えた。
怒号と悲鳴が響き渡るなか、蒋琬はぴたりと足を止めると、小屋から逃げ出す二対の影と、それを追う、狼のようにしなやかな影を見る。
二対の影は、懸命に走るのであるが、地面がぬかるんででもいたのか、途中で滑るようにして身が崩れた。
それを逃さず、狼のような影が、二つの影のうち、一つに背後からとびかかると、遠目からはっきりわかるほどに激しく殴り始めた。
それを見て、蒋琬は、あきれたようにつぶやいた。
「おいおい、殺す気か」
そして身をかがめると、足元にある小石を拾い上げ、影めがけて狙いよく投げつけた。
石は、ひゅっ、と風を切ると、ちょうどよく、影の頭にぶつかったようである。
影は殴る手を止め、興奮したかなきり声で、怒鳴ってきた。
「だれだ!」
「わたしだ、わたし」
「わたしもわたしだ! 名乗れ!」
「だれだかわかっているくせに、名乗らせるなよ。気づいているのだろう、偉度。そこまでにして、文偉を許してやれ」
「文偉?」
休昭はおどろいて、影のほうに駆け寄った。
そうして、さざなみのように揺れるすすき野の向こうに見れば、いつになく凶暴な姿を見せている偉度が、文偉にまたがっているのである。
文偉は、ほとんど応戦していならしく、目を回してしまっている。
二人の傍らには、昼間に会った、逆三角形の顔をした、目つきのおそろしい男が、突然の暴力に泡を食っている様子だ。
「ひどいではないか、偉度! 灸を据えるとは、こういうことだったのか?」
偉度は、最初、休昭がわからなかったようである。
しばし、闇に目を凝らして、それから大きく舌打ちをすると、さくさくと枯れ草を踏み分けて近づいてくる蒋琬を振り返った。
「公琰、なぜ休昭を連れてきた!」
「そうキンキンと騒ぐこともなかろう。そこいらで文偉を許してやれ。本当に殺してしまう」
「許す? なにを許せというのだ、腹のたつ! 金が足りぬからといって、あろうことか、毎夜のように禁止されている賭場に出入りし、職を解かれようとしているばか者を叱りつけて、なにが悪い! 
わたしは、こういう、周囲に恵まれているくせに、それと気づかず平気で莫迦をするやつが、大嫌いなのだ! このばか者めが、これで、費家の再興なんぞ、果たせるか!」
「まあまあ、落ち着け。おまえは何事に付け、やたらと情熱的でいかん。文偉とて、事情があったにちがいない。なぜにそれを聞いてやろうとしないのだ」
「事情? どんな事情であれ、なぜ賭場なんかに! 金が欲しけりゃ、貸してやるってのに!」
「え? 偉度、貸すほどにお金があるんだ? 主簿って、そんなに俸禄が高いのだっけ?」

休昭が首をひねるのを、偉度は気まずそうに顔をしかめるが、ちょうど運悪く、文偉がうめき声を上げた。
とたん、偉度は怒りが再燃したのか、ふたたび拳を振り上げる。
すると、それまですすき野の影で震えていた男が、ぱっと飛び出してきて、偉度の拳にすがりついてきた。
「待ってくだせぇ!」
「何奴ぞ! 離せ!」
「いいや、離すわけにはいかねぇ。文偉どんを殴るなら、俺を殴ってくれ! 文偉どんは、俺のために賭場に通っていたんだ!」
と、逆三角形のカマキリのような風貌をしていた秦は、意外にも、ぽろぽろと涙を流して言うのであった。
思わぬなりゆきに、偉度は殴る手を止め、文偉から離れる。
文偉は、胸の上に乗っかっていた偉度の重さがなくなったので、弱弱しく声をあげた。そ
れを見て、秦は、亀のように地面にうずくまって、おいおいと、声をあげて泣いた。
そのさまが、見るからに哀れであったので、偉度も、さきほどの凶悪な形相は消して、なにやら戸惑っているふうである。
「文偉は、生活費を得るために賭場に通っていたのではないのか?」
「ちがいます、とんでもねえ!」

そして、秦から、涙ながらに語られた話はこうである。
秦は成都の下町に暮らす、腕のよい桶職人であった。
秦は早くに親をなくし、身寄りがなかったのであるが、たった一人の妹と一緒に、なんとか毎日を暮らしていた。
ところが、その妹が、どういう因果か悪い男にひっかかり、こつこつと兄妹で貯めていた金を、すべて貢いでしまった。
そればかりではなく、秦の商売道具も、かってに質草にしてしまい、さいごには、相手と一緒に行方をくらませてしまった。
いまもって連絡はなく、生死も知れない。
残された秦は困り果てていた。
というのも、妹によって一文無しになってしまったのはもちろんであるが、少年のころにひどい熱病に罹っており、そのおり、ほとんどの視力を失ってしまっていたのである。
視力の低下が、妹が出て行ってしまったことの衝撃も影響したのであろうが、急にひどくなっていったのである。
悪いことは重なるもので、視力が足りない分を、見よう、見ようと必死になるために人相が悪くなり、理不尽に人から嫌われ、悪い噂をながされて、ほとんど追い出されるように、住んでいた町を離れざるをえなくなった。
もう死んでしまおうかと、つくねんと、橋のたもとで川の流れをみつめていたら、どうした、若者、と上機嫌で声をかけてきたのが、文偉だったのである。
文偉は、秦の身の上を聞くと、たいそう同情し、ようし、死ぬくらいならば、一世一代の賭けに乗ったほうが、よほど楽しかろう、なあに、わたしは最近、いろいろついている、それ行くぞ、と言い切って、賭場に向かった、というのだ。

「このひとは、大したお方でございます。俺みたいに目つきの悪い嫌われ者を友だと呼んでくれたばかりか、毎日、賭場に通っては、かならず元手よりも多く稼いで帰ってきて、儲けた分は、ぜんぶ俺にくださるんでさ。
さすがに、半分こにしましょうとお願いしたのですが、それでは、自分のために禁じられている賭場に通っていることになってしまう。友のための賭場通いだからこそ、免官になるかもしれないという恐怖に克てるのだ、などとおっしゃいまして」
それを聞いて、偉度はすっかり呆れて言った。
「たしかに、儲けのために通っていたのではなかろう」
「そうだよ、なのに、偉度ったら!」
と、文偉を介抱しながら休昭が抗議すると、偉度は、闇の中に立って、傲然と言った。
「儲けるためだけではなく、こいつは、博打で味わうことのできる緊迫感を、味わいかっただけさ」
「それはたしかにあるが」
秦の身の上話がつづいているなか、気絶していた文偉が、気が付いて、むっくりと起き上がってきた。
そうして、殴りつけられて腫れあがった顔や、あちこち痛む体をさすって確かめる。
「大丈夫か?」
休昭が尋ねると、文偉は、うー、と犬のように短く唸ってから、大きく息を吐いた。
「ああ、ひどい目にあった」
「命があるだけ、ありがたく思え」
偉度が言うのを、文偉は意外にも怒ることなく、へいへい、と流す。
休昭は、この反応の鈍さは、偉度があんなに殴りつけたせいだと思った。
唇は切れ、頬は腫れあがり、手足にも擦り傷があり、衣は裂けている。
いくらなんでもひどすぎる。
偉度は謝るべきだと思っていたので、休昭は口を出した。
「なにも、こんなに殴ることはなかっただろう。すこしひどすぎるぞ、偉度!」
偉度は、ちらりと鋭い目線を休昭に送ったが、答えることはなく、そのまま、面白くなさそうに顔をそむけてしまった。
それを見て、蒋琬が言った。
「しかし文偉よ、おまえはどうして抵抗しなかった。殴られっぱなしであったというのも、おまえらしくないような」
「反撃しようと思ったさ。けれど、偉度が泣いているようであったから」
「へ?」
休昭がおどろいて偉度を見ると、偉度は顔を険しくして、怒鳴った。
「泣いてなんぞおらぬ! 勝手な話をするな。あれは汗だ、汗!」
「汗って、目からも出るものだったろうか」
「やかましい! わたしの夢は、没落した費家を再興することだ、などと格好つけたことを言っていたくせに、現実では賭場通いなんぞしているおまえがいけないのだ! 事情があるとはいえ、わたしにわかりにくいという時点で、罪だ、罰だ、いけないことなのだ! ともかく、このわたしがおまえを捕らえたのだ、ただで済むと思うなよ!」
「まだあるの! これだけ殴ったのだし、もう許してあげなよ、偉度!」
「ふん、許す、許さないの話ではないのだ。文偉のことは、わたしだけではなく、ほかの者にも知れている。処分をせねば、かえって、なにかあったと妙な噂が流されてしまうぞ。公正な裁きを受けるのだな」
それを聞いて、青くなる休昭であるが、当の文偉は飄々としたもので、
「ああ、やっぱりそうなるか」
などと、裂けて、妙な具合に絡まっている衣を、手探りで元に戻しながら言う。

そのうしろで、蒋琬が休昭に呼びかけた。
「なあ、休昭、さっきの話なのだが」
「さっき? ああ、もしや楊賢俊のことでございますか」
「うむ、わたしは、さっき、おまえに楊のことをきつくこき下ろしたが、これは、あくまでわたしの意見だと思う程度に留めてくれぬか。おまえは、きちんと、自分の頭で考えて、結論を出さねばならぬぞ」
「急に、なぜでございますか?」
「いま、おまえたちを見ていたら、わかってしまったのさ。楊は、人になにかをしてもらうことに喜びを感じる人間であるが、わたしや偉度や文偉というのは、人のために尽くすことに喜びを感じるのだ。
楊には、なにかをしてもらうことが喜びで、そして当たり前のことだと思っているから、自然と、周囲に無頓着になる。われらは、人のためになにかをすることが喜びで、見返りは求めぬ。だが、自分を満足させるために、つねに人に気を配り、いまの偉度のように、気遣いが過剰になってしまうこともあるな。
つまり、どちらが良い、悪いではないのだよ。楊のような人間と似た者から見れば、楊の態度は普通の態度であるが、逆の我らから見れば、楊の態度は許せぬものであった。だが、許す、許さないと判断するのは間違っている」
「わたしは、どちらなのでしょう?」
「それは、自分で考えなくてはならぬ。おまえは、われらのなかでもっとも年少で、世間を知らぬ。
自分というものがどんな性格で、世間からどう見られており、どういう意志をもってこれからを生きようとしているのかが、明確ではないのだ。楊のことにしても、ゆっくり自分の頭のなかで考えるのだ。よいな?」
そう言うと、蒋琬は、もう落ち着いたようであるし、帰る、といって、静かな夜道を、蕭然として戻って行った。



その後、休昭によって事情をしった父の董幼宰が、幅広く顔のきくところを見せて、秦のために、あたらしい仕事と、住処をみつけてやった。
そして秦のことは一件落着したのであるが、問題の文偉は、賭場通いの現場をおさえられたとして、自宅謹慎処分となった。
免官にならずに済んだのは、賭場に通っていた事情を汲まれてのことである。
処分が軽くなるように口ぞえをしたのは、もちろん偉度であった。

「偉度に泣かれるとはな、正直なところ、すごく済まない気がしたよ」
「今回のことで、よく理解したよ。偉度は、とてもやさしいのに、判りにくいのだ」
「やさしさの種類が、軍師に似ている気がする」
言いつつ、文偉は、偉度に殴られて、腫れたままの頬をさすった。
いつもの倍は顔がふくれあがっているために、宮城で、謹慎処分にむけて、身の回りの品をまとめている文偉に、周囲の者は、奇妙なものを見るような目を向けてくる。
「まだ痛むのか?」
「だいぶマシになったよ。これでも加減をしたのだと。歯が折れないようにしてやったのは、軍師が、『文偉は使者に向いている』と言っていたから、顔を壊したらまずかろうと考えてのことだった、とか言っていたっけ。まったく、昨夜はあまりに痛くて、ろくに寝付けなかったのだぞ。泣けてくるよ」
「わたしとて泣けるさ。文偉がいなければ、一人になってしまうもの。
そうそう、あの秦さん、折をみて、ご挨拶に参りますって言っていたよ。父上とも懇意にしている卸問屋が、口を利いてくれてね、ちょうどよい住処もみつかったそうだ」
「そりゃあ、よかった。秦は、腕がいいから、目がほとんど見えないといっても、わかるひとが見れば、すぐに雇ってもらえると思っていたよ。
なにせ子供のころに、ほとんどの技術は習得しているから、目をつぶっていても、手の感触だけで桶を作れるというのだからな」
その言葉に、休昭はおどろいて尋ねた。
「秦さんを前から知っていたの?」
「正しくは、秦の桶を知っていたのだ。秦が身投げを考えていた日、ちょうどうちの桶が壊れてね、ふしぎととても使い勝手のよい丈夫な桶であったから、また同じ職人に作ってもらおうと探していたのだ。
そうしたら、秦が、妹のために職と住処を失ったということを知ったのさ」
「だから、助けようとしたのかい?」
「話をしてみたら、これがとてもよい男だったのでな。それに腕もいい職人なのだ。これを身の上話を聞いたきり、ほいそうですか、頑張ってくださいよと放り出すわけにはいかなかったのだよ」
「だったら、せめてうちの父上に相談するか、それこそ偉度に借金を申し出ればよかったのに」
すると、文偉は、照れたように、ははは、と声を立てて笑った。
「今にして思えばまったくそのとおりなのだが、わたしも気負っていたのだ。だれの力も借りず、だれかを助けてみたいなどと思ってしまったのだよ。結果的に、だめだったけれど」
「だめであったとは思わないよ。もしも、文偉がそこで秦さんを助けようとしていなかったら、父上が動くこともなかったのだ」
「そう言ってもらえると、すこしうれしいか。焦っていたというのもあるのだ。なにせ、おまえに、急に好きな人ができて、結婚したいなんて言い出すのだからな。一足先におまえに大人になられてしまうようで、ちと怖かったのだよ」
「わたしを見て焦っていたのか? 変だよ、文偉」
「変なものか。しかし、焦るなんて、どうかしていたな。真に友ならば、おまえの支えにならねばいけなかったのに」
「十分に支えになっているよ。謹慎処分、すぐに解けるといいね」
頼りないことをいう休昭に、文偉は困ったような顔を向ける。
「しっかりしろよ、それが結婚したい女のいる男の言葉か。おまえのいいところは素直なところだけれど、よろしくないところは、自信というものが、あまりに欠けているところだ。これ、前にも言わなかったかな」
「聞いた気がする。公琰殿にも偉度にも、似たようなことを言われた」
「自信を持てよ。おまえを幼宰さまと比べてあれこれ言うやつもいるが」
「ええ? いるんだ!」
「あのな、知らなかったのか……まあ、そういうことは、知らないのなら、知らないままでいいさ。おまえには、幼宰さまとはちがう、良いところがたくさんあるのだ。ないものを無理して増やすよりも、いま持っているものを大切に育てていけばいいのだよ。そうすれば、宋家の令嬢も、おまえのよさに気づくだろう」
「そうだろうか。そうだといいが…」
「そこで、『そうなるさ』と答えられるようにしなければな。さて、荷物もまとめたし」
と、文偉は、おのれの身の回りの私物をまとめると、立ち上がった。

周囲の同僚や先輩官吏は、なにをしているのだか、という冷たい目線を投げてくるが、文偉は気にしない。
気づいていないわけはないのだが、敢えて気にしないでいる文偉の肝の太さを、神経の細かい休昭は、うらやましく思った。

「では、わたしのいないあいだは、しっかりとな。なにかあったら遊びに来るといい。なにせ、屋敷でなにをしたらよいのか、さっぱり思いつかぬから、いつでも相談に乗るぞ」
「なんだか毎日通ってしまいそうだよ」
「しっかりしろというのに。それでは、またいずれ」
そう言って、文偉は言うと、宮城をあとにした。



休昭は、門のところまで文偉を見送ったが、近所に住んでいて、いつでも会えるのはまちがいないというのに、ひどく頼りない気分に襲われた。
職場では、いつも文偉を頼りにばかりしていたからである。
やがて、文偉の姿が見えなくなったあと、どこからか、おお、という素っ頓狂な声がする。
振り向けば、それは久しぶりに会う、楊賢俊そのひとであった。
休昭は、いささか気まずく思った。
それというのも、結局、その後のどたばたに紛れて、祝いの品を贈りそびれていたからである。
謝らねばと思って近づけば、楊賢俊のほうは、気にしていないのか、明るい笑い声をたてて手を振ってくる。
休昭は拱手を仕掛けたのであるが、途中で止めて、近づいてくる楊の手を取った。
「久しぶりだね、まずはおめでとうと言わなくては」
休昭が言うと、楊賢俊は、かつての内気さはどこへやら、早口で、いやいや、と照れて見せるのであった。
どうやら幸せな生活を送っていることには、まちがいない。
「祝いの品を贈れなくてすまない。成都に戻ってきてから、あまりにばたばたしていたので、とうとう今日まで贈れずにいたのだ。決して忘れてしまったわけではないぞ?」
休昭が言うと、楊は、やはり笑顔のまま、答えた。
「それは構わぬ。物ならば、家に溢れかえっているからな」
「そういって貰えると気が楽になるけれど」
「結婚をすると、よいぞ、休昭。どんな無礼も、幸せの前には、小さく見えてしまうから」
楊は、そう言って、屈託なく、からからと笑った。
その一方で、まるで太陽に気圧されて形をなくしていく影のように、休昭は、自分の笑顔が、端のほうから、だんだんとしぼんでいくのを感じていた。
「それはよかったね」
「運が良かったよ。金持ちの女を掴めたのだ。そのうえ、気立ても顔も悪くない。それに、いまの家は、まわりは名のある方々のお屋敷ばかりのところなのだ。気分がいいぞ」
それでも、君が偉くなったわけではないじゃないか、と休昭は思ったが、楊賢俊があまりに幸せそうに笑っているので、あえて口にはしなかった。

「幸せならばよかったけれど、ひとつ聞きたいのだが、きみ、いまの幸せを、どうやって続けていくつもりなのだろうか?」
「幸せを続けさせるって? どういう意味だい。たがいに思いやりをもって労わりあえばよい、ということだろう。それはわかっているさ。
あとは金がなんとかしてくれる。安定した暮らしがあればこそ、心も余裕ができて、人を大事にできるというわけだからな」
「金がすべてを解決してくれるものではないよ」
「いいや、それはちがう。大体、金はわたしに自信を与えてくれた。もしも出世したくなったら言ってくれ。わたしがいくらでも用立てしてやるから」
声も高らかに、興奮して笑う賢俊の手を、休昭は離した。
「悪いけれど、それは頼まないと思うよ。それより、きみは、自分の出世を考えたほうがいいのじゃないかい」
「そうだな、この幸せを長続きさせるためにも、地位を得なくてはならぬ」
「賢俊、もうひとつ尋ねたいのだが、きみのいう思いやりとか、労わりって、どんなもの?」
「どんなって、おかしなことを聞くなあ。よい地位を得て、高い俸禄を稼ぎ、安心させてやることだろう」
「金がなくなったら、どうするつもりだい」
「そんなことがあるものか。嫌なことを言うな。また妻を探せということか」
休昭としては珍しいことに、はっきりときつく眉をしかめた。
しかし楊は気づかず、上機嫌に笑っている。

それまで友として見做していた目の前の男が、いま、ひどく不様に見えて仕方がなかった。
怒りにも似た嫌悪感がこみ上げてくるのであるが、それをあらわにすることを、休昭は思いとどまる。
楊の言う『金』を、『父の力」という言葉に換えてみる。
するとぞっとすることに、休昭が、それまで無頓着に考えていたことに、良く似ているのだ。
あとは父上がなんとかしてくれる。
それは子どもが口にする言葉であるから許されていたことで、もはや、この身は子どもではない。
思うに、楊と友でありえたのは、この未熟さに、互いに安心するところがあったからなのかもしれない。
とはいえ、この友情は、成長のない、惰性だけの付き合いだったろうか。
楽しかったこともあったはずだ。
たとえ相手が、おのれの気に染まぬ姿になってしまったとしても、それを単純に切り捨てるなど、してはならない。
偉度は文偉を見捨てなかったし、世間から見捨てられた、赤の他人の秦を、文偉は助けようとした。
親友たちから学んだことを、ここで使わねば。
それが人と繋がるということの、本当の意味ではないのか。

「なあ、賢俊、たとえ無一文になっても、奥方を大切にするべきだよ。縁があって一緒になったひとじゃないか。どうして金が切れたらもうおしまいだ、などということを言うのだい。冗談にしても笑えないよ。
それに、きみは金の力で地位を得られると信じているようだが、地位というものは、維持することが一番大事なのだとだれかが言っていた。いまのきみに、その力があるだろうか」
休昭が言うと、楊賢俊は、あきらかにむっとした顔になって、言った。
「祝いの品を寄越さないことといい、いまの発言といい、ずいぶん無礼だな、休昭。おまえも文偉と一緒で、わたしのことを妬んでいるのだろう」
「そうではないよ。心配なのだ。きみが友だと思うからこそ、言うのだよ。もしそうではないと思っているのなら、こんなことは言わないよ」
「口ではなんとでも言える。だから、わたしは言葉という物が嫌いなのだ。あちこちに顔が利くようになったなら、おまえのことも引き上げてやれると思っていたのに、もう、おまえは友達じゃない」
頑なに顔をそむける楊であるが、休昭は残念に思いながらも、いままでのように深く傷つき、うろたえることはしなかった。
利己的な発想から出ている言葉ではないという自信があったからだ。
いつか、楊にも、自分の気持ちが伝わるだろうという、確信があった。
楊から目を逸らさず、いたって平静に、休昭は言った。
「残念だね。でも、わたしは友達だと思っているよ。もし、困ることがあったなら、いつでも訪ねてきてくれ。待っているから」
「ありえないね」
そう言って、楊賢俊は、怒りで身を震わせながら、背を向けて立ち去り、二度と休昭を振り返ることはなかった。



その後、休昭はたびたび楊賢俊を宮城で見かけたが、以前のように、親しく口を利くことは、もうなかった。
それから歳月がながれたあと、ふと、かつての友を思い出した休昭は、その行方を調べさせたものの、楊賢俊の名は、すでに役所のどこにも見つからなかった。
楊賢俊が、その後、いかなる人生を歩んだかは、わからない。
しかし休昭は、行方の知れなくなった友であるが、自分を訪れなかったところを見ると、悪い人生を歩いたのではないのだと信じることにして、やがて、その名と存在を、なつかしい時代の記憶とともに、封印した。


※あとがき※
このお話のラストの状況より、「椒聊よ、遠き条よ」は始まります。謹慎になった文偉と。一人残された休昭に、とんでもない災難がつぎつぎ降りかかります。どれだけの災難か? それは読んでのお楽しみ? さて、今回もご読了ありがとうございました(^o^)丿

おしまい
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