日和~日、なごやかなり~

中編

※このお話は、「説教将軍シリーズ(?)」の続きでありますが、独立した中篇としてもお楽しみいただけます。そして、「椒聊よ、遠き条よ」のプロローグ的作品でもあります。
ともかく、祝賀の品である。
文偉がだめだというので、休昭はふたたび、祝いの品を用意するために、ひとりで市場にやってきた。
しかし、世間知らずなうえに、祝いの品を一人で選ぶなどということをしたことがないので、何を用意すべきか、さっぱりわからない。
石榴を枝つきで贈るものなのかしらん。それとも反物のほうが、実用品として、よろこばれるものなのかな?
董家には女手がまったくないために、そういった手筈を整えられる、ちょうどいい者がいないのであった。
『ああ、こういうときに、一緒に考えてくれる女人が家にいたらなあ』
と、心に掛けている女人のことをふっと思い出して、休昭は、自分の空想に照れて、思わず顔を伏せてしまう。

前をよく見ないで歩いていたために、いつの間にやら、往来の端っこに追いやられており、市場の、とある店の柱に、ごつんと額をぶつける羽目になった。
「なにをしているのだか、この薄ぼんやり」
辛辣かつ涼やかな声に顔をあげれば、それは、休昭より三つほど年上の、若輩ながらも諸葛孔明の主簿をしている、胡偉度であった。
あいかわらず、清潔であるが地味な色目の衣をまとっている。しかし、冠の下の顔は、休昭が知るだれよりも(某軍師将軍を除き)凛々しく華やかなものである。
その点で、偉度の上役である孔明とは、親子のようだと休昭は思っているのだが、本人に言うと怒るので、黙っている。
「見ていたのなら、声を掛けてくれてもいいではないか」
額をさすりながら、気まずさを誤魔化すために、休昭が文句を言うと、偉度は目を細めて答えた。
「あのな、さっきから、わたしはずっとおまえに手を振っていたのに、おまえは一人で、にやにやとして、まるでこちらに気づかなかった。呆れてみていれば、柱にごつん、だ。春はまだ遠いというのに、もう陽気にやられたか」
この辛辣さ、偉度だな、やはり自分は成都に戻ってきたようだと、額の痛さをかみしめつつ、休昭は思った。
「一人か? 文偉はどうした?」
「文偉、は、えーと、勉強会だとか言って、どこかへ行ったようだよ」
と、何となく思いついた適当なことを言うと、さりげなくしていたはずなのに、偉度は、またさらに目をほそめて、こちらを意味ありげに見ている。
「まだまだだな」
「なにが?」
「嘘の付きかた。幼宰さまはうまいぞ。おまえの嘘なんて、ちょっと経験のある刑吏であれば、すぐに見破ってしまうだろうな」
「刑吏だなんて、そんな、縁がないよ」
しどろもどろに反論する休昭をよそに、偉度はおのれの顎をさすりつつ、つぶやいた。
「ふうん、すると、今夜か」
「今夜って? もしかして偉度、文偉に会いに行くの?」
「行くが、それがどうした」

休昭の脳裏には、賭場に行くと笑いながら言っていた文偉の顔がある。
いかん。偉度を止めねば。
偉度は、孔明以上に、規律にきびしいところがある。
文偉が賭場に出入りしていることを知ったら、すかさず上役に報告しかねない。

「それは無理だと思う。風邪気味だと言っていたから、きっと今日は早く休むと思うよ!」
「風邪気味か。それはよくないな。では、薬を持って、見舞いに行こう」
「いや、だから、移ったら悪いから、文偉のことだもの、会わないって言うよ。きっと言うよ!」
「それは行って見なければわからないだろう。おまえは見舞いに行かないのか? 一緒に行こうではないか。文偉は賑やかなのを好むから、きっと喜ぶだろう」
「どうだろう。あまり喜ばないと思うよ」
「なぜ」
「なぜって」
『なぜ』の理由を、懸命に頭をひねって考えていた休昭であるが、不意に、偉度が、声をたててわらいはじめた。
「ほうら、だから下手だというのだ。嘘がもう破綻してしまった。破綻しない嘘をつきたいのなら、八割方は真実を混ぜておくものさ。
そうだな、『文偉は、勉強会に行く』、ではなく、『友達と飲みに行くようだ、夜は戻らないらしい』、とかな。
しかし文偉にも呆れたな。おまえに口止めをしてまで賭場へ行くとは。やはり灸を据えてやらねばならん」
「賭場って…あれ? 偉度、もしや、文偉の賭博のことを知っているのか?」
休昭が問うと、偉度は肩をすくめて答えた。
「ということは、やはりおまえに口止めしているというのは事実か。まったく、呆れたやつ」
休昭は、あわてて自分の口を塞いだが、もう遅い。
偉度は、心底、呆れたというふうに、深くため息をついた。
「あのな、文偉がよからぬところに出入りしていることは、わたしはとっくの昔に把握しているのだ。
このところ、賭場を中心に面倒が続発している。そこで取締りをすることになったので、あちこちの賭場を調べさせていたのだが、そのなかに、品が良さそうなのに、やたらと酒飲みで、場に馴染んでいる妙な若者がいる、というので、正体を調べさせたら、呆れたことに文偉だったのさ」
「文偉はどこでも目立つのだな。ある意味、才能かもしれぬ」
「莫迦、感心している場合か。部下に、『例の博徒は、主簿のお友達の費文偉さまでした』と報告を受けたときの気まずさったらなかった。わたしの気持ちも汲んでくれ」
「汲みたいけれど……でも、偉度、お灸って、なにをするつもりなの? 友達なのだから、すこし様子を見てくれてもいいじゃないか」
とたん、偉度は、柳眉を大きくひろげて、いささかおおげさに鸚鵡返しにした。
「『友達なのだから』? よく言ってくれるじゃないか。おまえの言う『友達』とはなんだ? お互いに、都合の悪いところはあえて見ないフリをして、いい所だけをやたらと誇張して誉めあうのが、友達だなんて思っていないだろうな、気味の悪い」
「いや、そんなことは思っていないよ。というより、極端だよ、偉度」
「極端なものか。もしおまえが、『友』というものを、なにかしらの利便のために使っているものと定義しているのなら、わたしはそこから外してくれ」
「また理屈を言う。そんなこと、思っていやしないよ。わたしに友達が少ないことは、偉度は知っているだろう。本当に利用するつもりで付き合っているなら、浅く広く知り合いがいる状態になっていると思わないか?」
「ふん、長旅の効果か、それとも公琰のよい影響が出たか、ずいぶん言えるようになったじゃないか。なら、こちらもはっきり言うが、邪魔するなよ、休昭。文偉の博打好きを矯正するには、荒療治が必要なのだ。おまえも友ならば、奴のために黙っていろ」
「どうするのさ。まさか、賭場に踏み込むつもりなのか? というよりも、偉度にそんな権限があるなどと、初耳だ」
「妙なところに気づいて、突っ込むんじゃないよ。これは脅しじゃなくて言うが、わたしの行動をあまり詮索するな。
おまえは薄ぼんやりだからと思って、こちらも油断していたのが悪いが、あまりあれこれと詮索するのであれば、付き合いはこれまでになるからな」
偉度のきつい言葉に、休昭は思い切り顔をゆがめた。
「なんだって、そんな寂しいことを言うのさ」
「寂しい人間になりたくなかったら、あえて沈黙しろということだ。文偉は、そのあたりを察するのがうまいぞ……って、なぜ涙目になっているのだ。もう絶交だと言ったわけではないのだぞ!」
「偉度がわたしを無視するようになったところを想像したら、泣けてきた」
それを聞いて、偉度は、肩から力を抜いて、肺の底から、おもいきり空気を吐いた。
「脱力するヤツ。まったく、いつもはどんな言葉も右から左へ流してしまうくせに、どうして今日は、そんなに敏感になっているのだ」
「敏感というか、友達のことで、悩んでいるのだ」

と、休昭は、かくかくしかじか、と事情を説明した。
偉度は、休昭をあやうく泣かせかけたことに負い目を感じているのか、休昭と文偉の同僚である楊賢俊の話を、腕を組み、黙って聞いていたが、話が進むにつれ、偉度の顔は、文偉と同じように、渋いものになっていった。
そして最後に、貰った手紙を見せろというので、休昭は、懐にしまっていた、楊賢俊からの紙片を偉度に渡したのだが、ますます偉度の表情は渋くなり、頬から耳にかけて、白乳色の肌が赤くなっていくのが横からよく見えた。

「呆れたものだな。これは、なにかの書き損じの、無事な部分を千切って、手紙に転用したものだぞ。しかも上手く千切れていないので、書き損じの一部が判読できるくらいではないか!」
独り言のようにして吐き捨てると、偉度は、まるで休昭が楊本人であるかのように眼差しを厳しくして、言った。
「休昭、おまえ、そろそろ付き合う人間を選んだほうがよいぞ」
「いきなり、なんだろう。どういう意味?」
「どういう意味もなにも、言葉のままだ。おまえ、自分の立場がわかっておらぬな」
「立場って」
と、休昭はしばらく思案してから、ちらりと偉度の、なぜだか怒りの含まれた顔をうかがいつつ、答えた。
「立場は書生」
「莫迦。おまえがただの書生か。おまえは董中郎将の一人息子なのだぞ。いまはただの書生に過ぎぬかもしれぬが、世間は、いずれ父上の後を継ぐであろうと見做しておる」
「父上の後継なぞ、まだまだ」
「余計な謙遜はしなくていい。現実にそうだろう」
「なにやら照れてしまうけれど、父上のことと、付き合う者を選ぶことと、どう繋がるのだよ」
困ったように首をかしげる休昭に、偉度はこれみよがしの深いため息をついた。
「あのな、幼宰さまの後を継ぐということは、おまえは、いずれはこの蜀の、表舞台に立つ人間になる、ということだよ。いいか、まずはここを押さえておけ」
「ええ? 立てるかな」
「立てるかどうかは、立つことになったときに考えろ。よいか、あえて世智辛い話をすれば、人は出世をするたびに、付き合う人間を選んでいくものなのだ。
裏を返せば、出世する都度に、人を見る目を養い、周囲の力を得て、己を有利に導ける人間でなければ、上になどとうてい、昇ることができぬ、ということなのだよ」
「厳しいなあ」
「なにを他人事のように。おまえは、否が応でもその出世の道を歩くことになるのだぞ。それなのに、あまりに無防備ではないか。
その、楊賢俊とかいったか? そんな奴と付き合っていると、己まで愚者と見做されるぞ」

休昭はもともと大人しい性質であるけれど、偉度の言葉に、さすがにカチンと来るものがあった。
文偉が、楊賢俊を遠ざける理由はわかる。
休昭も、楊賢俊の性格をよく知っていたし、振る舞いに、たしかに責められても仕方のないところがあったからだ。
しかし、偉度は楊とは面識がない。
面識がないものを、そこまで一刀両断にされては、付き合いのある自分までも責められているように思えて、なにやら気持ちがよろしくない。

「偉度は楊賢俊を知らぬのに、どうして愚者などと、こき下ろすことができるのだよ?」
休昭が口を尖らすと、偉度は、妙に上機嫌そうに、にっこりと笑うと、妙にあだっぽく首をかしげた。
「わからぬか?」
「う。そんなふうに笑ったってダメだ。わからぬ」
とたん、偉度は笑みを引っ込め、小さく鼻を鳴らすと、突き放すように言った。
「おまえと付き合っていると、たまにイライラするよ。文偉のほうがまだ大人だな。あいつのほうが、人を見る目が出来ているぞ。人の好いのと、人を見ないのとは、決定的な違いがあるぞ、休昭」
自分でもちゃんと理解してはいるものの、文偉より下、とはっきり評価されて、休昭は、いたく傷ついた。
「文偉のほうが、よく出来るやつだということはわかっているけれど、どうしてそこまで言われなくちゃいけないのだ? 泣くに泣けぬぞ、ちゃんと教えてくれ!」
「ヤダ」
「ええ?」
うろたえる休昭に、偉度は自分の後れ毛を、指先でくるくると弄びながら、言った。
「あのな、おまえにはイライラさせられるが、嫌いではない。だから言ってやっているのだ。たしかにわたしは楊賢俊なる者を知らぬが、知っていたとしても、付き合いはしないであろうな」
「それはよくないぞ。人には分け隔てなく接しなくては」
「だれが言った?」
「父上だ」
「ふん、おまえは言葉を素直に受け止めすぎるのさ。幼宰さまの言ったことばは間違ってはおらぬが、おまえの解釈は単純すぎる。
人には分け隔てなく接する。うむ、大変結構。だが、おまえは人から与えられた言葉をあまりに鵜呑みにしすぎて、現実と照らし合わせることを忘れちゃいないか。それでは白痴と変わらぬ」
「ハクチ!」
「おまえは周りに恵まれているのだ。父親といい、父親の上役といい、親友といい、わたしといい、人材は揃っている」
「さりげなく、自分を混ぜるところが偉度だね」
「混ぜっ返すな。いいか、こういう周りの人間をよく観察するがいい。人との付き合い方がうまい連中ばかりだ。ここから学べぬようでは、おまえの未来はないぞ」
「未来って、出世するということかい?」
「出世を例に取ったのが気に食わぬなら、それを省いてもかまわぬ。どんな道を行くにしろ、人付き合いは基本だ。おまえのように、ろくに相手も観察せずに付き合っているようでは、いずれ大きな落とし穴にはまるぞ。
さて、思わぬ長話になってしまったな。わたしはもう行く。休昭、祝いの品を買うのもよいが、すこし考えたほうがよいぞ。わたしならば、買わぬ」
そう言って、ときに上役たる孔明そっくりの挙搓を見せる胡偉度は、やはりそっくりに颯爽と踵を返して、人ごみに消えて行った。



その後、休昭は、すっかり気分がくじけてしまって、祝いの品を選ぶ気分にもなれず、しょんぼりと市場を離れた。
自邸に帰って、父親とじいやに、ことの顛末を相談したい気分にもなったのであるが、なんとなく、それも躊躇われる。
そこで、成都のすこし郊外にぽつんとある、蒋琬の家へ、市場で買った手土産持参で、足を運ぶことにした。

蒋琬は、かつては役人であったのだが、どういう事情からか、公務中に居眠りしているところを運悪く劉備の視察中に見つかってしまい、免官になってしまった。
それを庇ったのが孔明であったのだが、劉備の勘気は解けず、現在も復職がかなわないでいるという。
しかし、本人にまるで悲壮感はなく、裕福そうでもないのに、どこか飄々として、風雅にのんびりと暮らしている。
むしろ、役所づとめで毎日をきりきりと過ごしているおのれが、愚かしく見えるほどだ。
蒋琬の自邸は、往来からはずれた、緑深い田舎のなかの、きれいに整えられた柴垣のなかにぽつんと建つ、ちいさな古い家である。
しかし、そこに出入りするのは、夢占いを生業としているという趙直といった人物をはじめとする、どこか不可思議な雰囲気をまとった人々ばかりだ。
本人はみずからを無官の遊人(ゆうじん)と呼ぶが、世間で思うところの遊人とはちがい、自堕落な印象は、そこにはない。
長い旅をともにしたことで、休昭は蒋琬にすっかり頼るようになっていた。
文偉にはない落ち着きと、偉度にはない、判りやすいやさしさが、蒋琬にはある。

蒋琬は、いつも旅に出ているのであるが、休昭がほっとしたことに、その夜は、在宅していた。
軽いあいさつをかわしたあと、休昭は、楊賢俊のことを、その人となりから、手紙をもらったこと、文偉の話、偉度の話、すべて話して聞かせ、偉度にしたように、貰った紙片も見せた。
すべてを聞き終わったあと、蒋琬は座の上に胡坐をかき、尋ねてきた。
「で、おまえさんは、なにを一番不安に思っているのだ?」
「不安でございますか?」
「そうだ。おまえがもし、断固として楊賢俊とやらとの友情を守りたいと思っているのなら、文偉や偉度がなんといおうと、とっくの昔に祝いの品を買って、相手に届けているはずだろう」
それはそうだ、と当たり前のことを指摘されながら、休昭は素直に頭をひねる。
そして、答えた。
「実を申しますと、すっかり混乱してしまいました。楊賢俊は、たしかに友なのですが、音信が絶えて久しく、文偉や偉度ほどに付き合いも深くありません。もし、どちらかを選べといわれたなら、ためらわずに文偉たちを選びますが、それはこういう話ではないわけですし」
「まあ、そうだな。あいつらは、おまえが祝いの品を贈って、楊賢俊との付き合いをやめなかったとしても、おまえを嫌ったりはしないだろうよ」
「文偉はそうかもしれませんが、偉度はどうでしょう」
すると、蒋琬は、声をたてて笑った。

蒋琬は、堅苦しい服を嫌い、いつも侠客のようなざっくばらんな服装をして、このあいだの長旅で手に入れた竹扇が気に入ったらしく、それを成都にも持って帰って、手慰みにしている。

「相当に偉度にやっつけられたらしいな。しかし、偉度の言うとおりの面もある。おまえはいささか、観察力というものが足りんよ」
「そうでしょうか」
「言葉を額面どおりに受け取りすぎるのだ。偉度はあれで、なかなか情に厚い男だぞ。口から出る言葉と行動が、いい意味で違っているのだ。一度、友と決めた者を、くだらぬ理由で切り捨てたりはせぬ」
そういわれると、たしかにそうだと思う面もある。
偉度は、口はきついが、理不尽なことでは、本気で怒らない。
もし怒ったとしても、過ちをただせば、すぐに許してくれるところがある。
友をそしるようなことを口にしてしまったと、恥ずかしくなってうつむいていると、蒋琬は、片手で扇をひらひらと動かしつつ、言った。
「おまえを見ていると、柔軟であることの難しさがわかるな。おまえは素直に過ぎるのだ。その素直さは、多くの人を惹きつけるだろうが、そのなかには、おまえを利用しようとする者や、悪に誘惑しようとする者も含まれているのだということを、自覚せねばならぬ」
「偉度が言いたかったことも、それでしょうか」
「そうだと思うぞ。世の中には、おどろくほど利己的な理由で、人を簡単に罠にかけたり、利用しようとしたりする者がいる。たとえ普段は善人のようであっても、状況が変われば、とたんに本性をむき出しにする者もいる。それも自覚がないままであるから性質がわるい、ということもあるのだよ。悲しいことだが」
「はあ」

普段は善人のようであっても、状況次第によってはがらりと変わる者と聞いて、休昭の脳裏に浮かぶのは、宋珪麗を捨て、僻村の娘を死においやった男のことである。
休昭から見れば、ああいう手合いは悪なのであるが、しかし本人は自覚がないだろう。
あの男に運命を弄ばれた娘たちとて、男を悪とは見ていないのだ。
悪とはなんだろう……おや、そんな話であったかしらん。

「しかし、楊賢俊は、悪人ではありませぬ。言葉が足りず、世間知らずなだけでございます」
「そうであるらしいな。わたしも、楊という男が悪人だとは思えない」
「ならば、やはり、いままでどおりの付き合いをつづけるべきでしょうか」
「さて、そこはおまえが決めねばならぬ。ただ、わたしも頼られたわけであるから、それなりのことを述べねばなるまい。
もしも、わたしがおまえであったなら、楊には祝いの品を贈るだろうが、しかし、付き合いは控えるだろうな」
「なぜでございますか」
「男子たるもの、世に出た以上は、それなりの礼を身に付け、世に示し、おのれという存在を、社会の中で確固たるものにせねばならん。
いくら内気とはいえ、それを理由に、同期に会ってもあいさつをせず、結婚の報せも、どこぞの書付の切れ端で寄越す。
そのうえ、それまで避けていた友に対し、金持ちの娘と結婚したからと言って、急に態度を強くして、金の力を見せびらかすなど、士人の態度ではあるまい。なんという不様さであろうと思うが」
「公琰どの、偉度よりきついお言葉」
休昭が顔をしかめると、公琰は、軽く肩をそびやかせて見せた。
「そうか? わたしなんぞはおまえたちと違って、楊というやつと同じく妻をもっているから、余計に厳しく考えてしまうぞ。
わたしは気ままに過ごしてはいるが、これでも場はわきまえているつもりだ。
野放図にしたほうが、よほど楽なのは決まっているが、そうしないのは、世人の評判がおそろしいからではなく、わたしがみっともなく振る舞うことで、恥をかくのは、わたしだけではなく、妻もそうだということが頭にあるからさ。
ただの私信ならばともかく、婚儀の報告にしても、いくら事情があって簡略にあげたものだとしても、その報告くらいは、きちんと礼にかなった方法でするべきだ。
未婚の男と妻帯者とでは、周囲は扱いを変える。自分を立派に見せるためではなく、きちんと報告をすることで、周囲の者が動きやすくするために必要なことなのだよ。
現に、おまえは、わたしに妻がいると知っているから、干し魚を手土産に持って来てくれたのだろう」
「たしかに、奥方の分も考えて、数をそろえて買ってきました」
「これは想像なのだが、楊という男は、幸運なのだろう。そういった知恵もなく、状況に流されるまま、金持ちの妻と結びつくことができた。
しかし、本人の器と状況が不釣合いなために、さっそくボロが出ているのだよ。それが、文偉に対する態度や、おまえへの手紙に出ているのだ」
「ああ、なるほど」
「きつい言葉をあえて言うが、自覚のない愚者ほど厄介な者はない。偉度が言いたかったのは、そこだよ。しかもおまえは、高名な董中郎将の一人息子だ。将来は父親につづき、軍師将軍の片腕になるのではとさえ、見られているのであるから」
「は? わたしが?」
心の底からびっくりして、素っ頓狂な声をあげると、さすがに蒋琬もあきれた表情になった。
「おいおい、おのれについても無頓着にすぎるぞ。常日頃、父上、父上と、親父殿を慕っているくせに、親父殿の評判が、そのまま息子の自分にも反映していると、どうして自覚がないのかね。偉度が心配するはずだな」
「反映というと、もしや、わたしが父上と同じように振る舞えるだろうと、世間では思われている?」
「それはそうだろう。わたしもそう思っているくらいだからな」
とたん、休昭は、ぶんぶんと大きく首を振った。
「無理でございますよ、父上のようになど!」
「なんだ、ずいぶん腰が引けているのだな。おまえは、見た目は親父殿には似ておらぬが、気性は似ていると思っているが。
それはともかくだ、話に戻るが、おまえは親父殿の威光があるから、ほかの士大夫たちよりも、注目を受けやすい立場にいるのだ。親父殿の上役である軍師将軍が失脚でもしないかぎり、おまえが世間から無視されるようなことはないだろう。
そうなると、おまえのまわりには、よいもの、わるいもの、有象無象が集ってくる。そのすべてを受け入れることは不可能だ。
朱に交われば赤くなるの言葉どおり、わるいものを引き寄せれば、本人にそのつもりはなくとも、悪い影響が出てしまうものだ。
出世だ何だということよりも、人としてまっとうな人生をいきたいというのであれば、人にたいする厳しい目を持たねばなるまい。そうせねば、休昭、おまえ、宋家の令嬢とうまく行ったとして、このまま無頓着に過ごしていれば、相手を不幸せにしてしまうぞ」

公琰の言葉は、めまぐるしい勢いで、休昭の頭のなかを駆け抜けて行った。
そして考える。
もしも自分が楊賢俊であったなら? 
考えてみれば、宋珪麗は、妾腹の娘とはいえ、実家は財産家。
やはり自分は有頂天になり、無頓着に振る舞って、周囲の失笑を買うようなことにならないだろうか。
そうなったらば、宋珪麗も笑いものになってしまう。そんな気の毒なまねはできない。

「自覚のない愚者というのは、わたくしでございました」
しょんぼりと休昭が言うと、思いもかけない言葉であったらしく、蒋琬は、めずらしく姿勢をただして、気遣わしげに言った。
「こら、わたしは、おまえのことを言ったのではないぞ。他者を論じる言葉に、おのれを照らし合わせて反省できる人間は、すくなくとも愚者ではないと思うが」
「励ましに感謝いたします」
「まったく、怖いくらいに素直なやつだな。いいか、いま、わたしは楊をこき下ろしたが、こういう見方もある。おまえが本当に楊という男の友として、これからも付き合いをつづけたいのであれば、そうするべきだ。
ただし、まことに友ならば、楊の振る舞いを……そうだな、偉度のように直言では揉めるが、やんわりとたしなめ、よい方向に導いてやるという道もありだと思うが」
「そうでございますね」

答えつつ、もしも父の幼宰であったなら、どうするであろうと休昭は考えた。
幼宰は、まちがっていると思うことには、はっきりとまちがっていると言うだろう。
しかし、たとえそれで相手に嫌われたとしても、自分は変わらず友として付き合うことをやめないだろう。
そう考えて、ああ、人の身になって考えるということは、こういうことでもあるのだなと、休昭は気が付いた。

考えにふける休昭をどう思ったか、蒋琬は、手にしている扇を、床にとんとんと打ちつけながら、言った。
「本当は、ひとりで行くつもりであったが、こうまで落ち込ませては責任を感じる。休昭、これから出かけるぞ」
「どこへ?」
「行ってからのお楽しみだ。しかし、その格好はまずいな。いかにも良家のお坊ちゃまだ。ほら、うちのが用意してくれた衣がある。それに着替えて、一緒に来い」
振り向けば、いつの間にか、大きく外に開かれた窓のそばに、衣裳箱が部屋の隅に置かれていた。
そのなかには、手土産の干し魚の礼であるのか、休昭の好物である干し棗をつめた瓶も一緒に入っていた。
その気遣いに喜びつつも、休昭は、いまだ姿も名もしらぬ蒋琬の妻が、果たしてどんな女人であろうかと想像した。
なにせ、仲間内では、だれもその姿を見たことのない、幻の妻なのだ。
まちがいなくいる、ということは、足音と気配でわかるのだが。

蒋琬がどこへ行くのかはわからなかったけれども、休昭は、用意された粗末な衣に袖をとおしつつ、窓から見える、銀の弓にも似た月をぼんやりとながめた。
これほど目立つ月であっても、見ようという意思がないかぎりは、その姿は、ただ目の前にあるというだけのものである。
とはいえ、世の中のすべてを眺めようというのは無茶な話であるから、なにを見ようとするかが問題になるわけだ。
人の一生が有意なものになるか、それとも無為なものになるか、それは、人が、世になにを見ようとするかによって、大きく変わってくるものなのかもしれない

後篇につづく
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