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昔の恋
その6

「美雲さまをお守りできなかった趙子龍さま、わたしとの約束を破った方。だから」
「苦しめてやろうと思ったのか」
孔明が先制してたずねると、黄蘭は、なじるような目を向けた。
「苦しめられたのはわたくしのほうでございます。趙将軍はわたしに気づかなかったばかりか、わたくしの貞操を汚したのでございますよ」
「それはちがうな。蘭々…黄蘭。子龍は芯からやさしい男だ。意志も強い。いくら動揺していようと、情欲に簡単に屈することはない。かれがどんな機会があろうと、主君の妻を汚さなかったように」
黄蘭の顔にはじめて朱が入った。
「ですから、趙将軍は、わたくしを身分の低い女だと侮って」
「それもちがう。子龍はおどろくほど人に対して平等な男だ。そなたは身を汚されてなどいない。実際は、子龍に飲ませた茶のなかに、眠り薬を入れたのだ。そして寝入った子龍を裸に剥いて寝台に横たわらせ、自分もそのとなりに寝そべった」
「ちがいます。そんな莫迦なこと、だれがしますの」
「そうだ、莫迦なことだ。だが実行した。もちろん、そなたのような細腕で子龍を寝台に運び入れることはできない。暇をやったという老夫婦に手伝わせたのだろう。かれらに聞けば、その日なにがあったか、はっきりわかるはずだ」
「聞けばいい。かれらもわたしと同じことを言うはずです」
「黄蘭、金で沈黙は買えないよ。ましてはした金なら尚更だ。そなたの懐から出せた金だけで、人が黙ると思うのか」
「ひどいことをおっしゃるのね」
「事実だからだ。真実を語ってほしい。その日にほんとうはなにがあったのか。そして、子ができたというのはほんとうなのか。そなたの目的が子龍を苦しめることであったとは、わたしは思えないのだよ」
「苦しめる?」
はじめて聞いたことばのように、黄蘭はそのことばを一音、一音、くりかえした。
「そうだよ。そなたは子龍を苦しめているのだ。現実に立ち返れ。そなたの嘘は罪が重い。みなを傷つけている。このまま嘘をつき続けるというのなら、わたしも本気にならなくてはならない」
「どうなさるの」
「不倫は罪だ。そなたも子龍も獄につながねばならぬ」
「怖くありませんわ」
「ほんとうか。指がこんなに白くなって、震えているではないか」
門扉を掴んでいた黄蘭の指は、指摘したとおり、蝋のように真っ白であった。
孔明は黄蘭の顔を覗き込み、畳み掛けるようにいう。
「子龍をこれ以上苦しめるな。蘭々、そなたの遊戯は終わったのだよ」
「遊戯?」
女は、なにか孔明ではないものを疑うような顔つきで鸚鵡返しにした。
「遊戯ですって?」
「そうだ、そなたの遊戯はこれでもうおしまいにしなければならない。でなければ、みんなが傷つく。わたしも、子龍も、海龍も、そなたもだ」
いいながら孔明は、一歩、また一歩と黄蘭に迫っていく。
そのたび黄蘭はあとずさりする。
止める物がなくなった扉は閉ざされようとしたが、孔明が力づくで指を入れるようにしてこじあけた。
貝のくちをこじあけるような、荒々しい仕草で。
黄蘭の表情には深い戸惑いと恐怖とがいりまじっていた。
まるできらいな男の相手を無理にしなければならないうぶな妓女のようだった。

うぶな妓女。
奇妙な連想を抱いたのは、彼女がそのときとても美しく自分を飾っていたからだ。
玳瑁のかんざしを頭に挿して、髪を完璧なまでになまめかしく結い、躑躅の花のように唇を赤く染めて、それらが映えるように、黄色い衣をまとっていた。
その姿は花嫁そのものだった。
彼女は待っていたのだ。
趙子龍を。
かれがどんな答えを出すのか期待しながら。
それがいまは怯えている。
その大きな目で孔明を野獣のように見ている。
たしかに彼女の心のなかに押し入っていく孔明は獣に等しくみえた。
趙雲は後悔した。
どうして孔明を連れてきてしまったのか、自分で解決するべきだったのだ。
黄蘭…蘭々。
小さな少女。
母親に守られていた幸福な娘。
あのひとゆかりの、柑橘の香りのする女。

「君は子龍を空想の伴侶に仕立てた。そして家のあちこちに本物の子龍を置いて、空想を楽しんでいた。君は子龍を置物かなにかのように扱ったのだ。ほら、それだけでもう罪ではないか。天下の趙子龍を君は架空の罪で脅し、もてあそんだのだ」
「ちがう」
「いいやちがわぬ。そのうえ、子龍が自分から離れていくのがわかると、今度は子ができたといって脅した」
「ちがうわ」
「どうちがう。もし子のことが本当だとしても、その腹の子は子龍の子ではあるまい」
「ちがうわ、そんなことはない」
「いいや、そうなのだ。現実にかえれ」
「ちがうっ」
黄蘭が叫ぶと、それに共鳴するかのように家中の木々がざわめき、それにおどろいた鳥たちが天空に飛び立って言った。
真っ青で、ぴんと絹を張ったような空。
あの日もそうだった。
土ぼこりで煙った黄色い大気のうえを、いつものような晴れ晴れとした青空が広がっていた。
天はあまりに無情にすぎる。
自分がどんな悲しみを胸につまらせているのか知らないのか。

ああ、そうかと趙雲は理解した。
黄蘭…蘭々もまた、同じ空の下にいたのだ。
そして彼女は踏みつけにされながら、約束が果たされるのを待っていた。
なのに自分はそんな約束をすぐに忘れて、自らの悲しみに埋没し、二度と彼女を思い出さなかったのだ。
もう死んでしまった過去の人として封印したのだ。
彼女はいくたびもこの名を呼んだかもしれないのに!
成長した黄蘭を見ても、なにも思い出しもしなかった。
遊戯なのか。復讐ではないのか。
おれは昔の恋に復讐されたのではないのか。
あまりにきれいに忘れてしまおうとしたから。
なぜ気づかなかった、趙子龍。
すべては昔の恋から始まったのだ。
そして互いに過去から動けない者同士がぶつかり、その報いを受けた。

子を宿したのはほんとうだろうかとか、自分が一服飲まされた挙句に長くだまされていたことなどは頭から消えた。
うらみはない。
むしろ、こちらが恨まれる側だ。

趙雲は黄蘭の前に進み出ると膝を折り、そして、深々と頭を下げた。
「すまなかった、蘭々」
「なにを謝るの」
「おまえとの約束を守れなかった。だから謝る」
「約束なんて」
黄蘭の顔がみるみるゆがみ出す。
言葉の大雨をくらってなだれをおこしたかのようだった。
大きな見開かれた目から、ぽろぽろと涙が落ちた。
「守れない約束なんて、最初からしなければよかったのよ」
「すまない」
「待っていたのよ、助けに来てくれるのを。ずっと待っていたのに。だから脅してやったの、いじめてやったの」
「すまない」
趙雲は立ち上がると、涙を流す黄蘭をそっとやさしく、身内が少女にするように抱きしめた。
はじめて触れた彼女の体はあまりに小さく、そして細く感じられた。
この体で、親とはぐれて、生死の境をさまよい、それでも懸命に生きてきたのだ。
「よく生きていてくれた、よく生き延びてくれたなあ」
趙雲のことばに、黄蘭は声をあげて泣いた。
そのさまはまるで、十歳の少女そのままだった。





「彼女が本心から脅したとは思っていないよね」
「うむ、わかっている」
孔明と趙雲は、とぼとぼと帰路についていた。
往路には、夕暮れて家に帰る人々、これから花街に出かける若者などでにぎわっている。
急ぎ足の者、ゆっくり思案しながら歩く者、だれかと連れ立っている者、集まって立ち止まっている者、さまざまだ。
そののなかに、じつは秘密の縁で繋がっている人がどこかにいるかもしれないが、いまはわからない。
世のなかに隠されたものを見通す力のある人間になりたいとおもうが、それは不可能な話なのだ。
人の智力など、たかがしれたものである。

「彼女はあなたに恋をしていたのだよ。幼いころからずっとね。だからこそ約束は守られるだろうと固く信じていたし、守られなかったときの失望も大きかった。
彼女は運命が再び自分と趙子龍を結びつけるときをひたすら待っていたんだ。そして、その機会がいつまで待っていても来ないとわかると、自分から動いた。おそらく、小間物屋の古い櫛は、あなたをひっかけるために、あらかじめ手の中に忍ばせていたものだろう」
「子のことはほんとうだろうか」
「ほんとうだとしても海龍の子だ。趙海龍か。年頃といい、あなたに外殻はそっくりだ。彼女はよほどあなたを忘れかねていたのだね」

黄蘭の心が痛かった。
その痛みの深さがわかるだけに、いっそう痛い。
趙雲は固くぎゅっと目をつむり、それから開いた。
世界は何も変わっていなかった。

黄蘭があわれだと思った。
だれからも自分の考えをたずねられないでいる孤独な娘。
彼女の苦しみはつづいていくのだ。
自分を庭や部屋に置いて、なにごとか想像して笑っているときの黄蘭のしあわせそうな顔が浮かんだ。
だれだって、夢を見たいのだ。
それを責めることはできない。

「あの子はどうなるだろう」
「すべては移ろい変わっていくものさ。彼女のまわりも、子が生まれることで変わっていくだろう。
彼女にとっては今日がいいきっかけになったかもしれない」
「そうだといい」

黄蘭が変わるのなら、それで満足だ。
まだこうして過去に縛られて身動きが取れない者もここにいるというのに。

いま、たまらなく美雲に会いたかった。
あのひとの声を聞きたい。
なんでもいいからことばをかけてもらいたい。
いや、ただそばにいてくれるだけでいい。
なつかしい、柑橘のかおりのするあのひとに。
何度も何度も後悔し、何度も何度も忘れようとした。
しかしそれでも胸の中にしっかり刻み込まれているものがある。
悲しみか、後悔か、未練か、せつなさか。
このおれに涙させる、この想いはなんだろう。

「のみに行こうよ」
孔明の優しさの含まれた声にわれにかえって、夕闇の中、趙雲はふたたび歩き出した。






一年後、趙雲はふと気持ちを変えて、二度と行くまいと思っていた例の小間物屋へ足を運んだ。
あいかわらずの繁盛ぶりで、品揃えも洒落ている。
ここで買ったものは喜ばれることだろう。
長いことご無沙汰だったのは、まちがいだったかなと悔いながら、贈り物を選んでいると、視界に、あの女が、黄蘭が入った。
彼女は趙雲のほうには気づかず、店をのんびりひやかしているようであった。
そのうしろには中年女が控えていて、その両腕には丸々と太ったかわいらしい赤ん坊がいた。
赤ん坊は、ときどきぐずって、彼女のひやかしをときどき邪魔していた。
赤ん坊をあやすときの、それまで見たこともないような慈愛にあふれた黄蘭の顔を見て、趙雲はやっと安堵して、彼女がふたたび過去に戻らなくてもよいように、そっと、その場を離れた。
彼女からは、もう柑橘のかおりはしなかった。

おわり
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(C)Hasamino Nakama 2011 05 13