虚舟の埋葬


秋の気配をおぼえるようになってから、文偉は空をよく眺めるようになった。
しかし、成都の空は、五丈原で見た、無慈悲なほどにうつくしく澄み渡っていた青空とはちがい、無粋な曇り空である。
冬になれば、晴れ間も増えるのであるが。

孔明が死んでからの、混乱を極めた数日間は、すでに一年前の記憶となり、忙しさに流されて、いまは夢の残滓のように、ときおりふと思い出されるばかりである。
費文偉は後軍師に昇進し、尚書令となったを蒋琬の片腕として、孔明亡きあとの蜀の建て直しに追われている。
孔明が一手に引き受けていた仕事の量は、膨大としか表現ができないほどの量でだけではなく、文偉や姜維、休昭までも翻弄した。
ようやく慣れてはきたものの、自分が不安定な砂礫の上で踏ん張っているような感覚は抜けない。
これは蒋琬や休昭も同じであるらしく、ふたりとも、この一年でずいぶん面変わりをした。
三人集れば、まず話題にのぼるのが、それぞれの容姿のことだ。
老けた、やつれた、痩せた。
中年太りが気になる年代に入っているはずなのに、だれひとりとして太らない。
孔明もずいぶん痩せていた。もともとの体質もあったのだろうが、仕事の量に、文字通り身を削られていたということもあったのだろう。
最初は、孔明のことを思い出すと、しんみりと目に涙を溜めてばかりいた休昭も、一年経って、ようやく笑って話せるようになった。
逆に、蒋琬は話したがらない。
それぞれに、さまざまな想いがあるのだ。



庭に出て、とりとめのない思索に耽っていると、家人が、客がやってきたと告げた。
庭には、文偉の子と、引き取って養育している亡き従兄の子らが、一緒になって土だんごを作って遊んでいたが、文偉はこれを部屋に下がらせると、客を通すように命じた。
季節外れの蝉が、庭木に止まって鳴いている。
一瞬、薄曇の空が晴れ、文偉はまぶしさに目を庇い、それから、転じて、薄暗い屋敷を見た。
客がこちらにやってくる。
家人に案内され、廊下をやってきた男を見て、文偉は、心臓を突かれたような思いがした。
その衣擦れの音も、歩みも、颯爽たる雰囲気も、まさにそのもの。
孔明が、こちらに向かって歩いている。

思わず声をなくしていると、孔明は、怪訝そうに首をひねって、尋ねてきた。
「どうなされたのです、幽霊でも見たような顔をして」
「姜伯約か?」
よほど奇妙な顔つきをしていたのだろう。廊下の姜維は、心配そうに文偉の顔をのぞきこむ。
その華やかで凛々しい風貌は、孔明ではなく、姜維のものであった。
「お加減でもわるいのですか? ならば、改めますが」
「いや、大丈夫だ。急に陽が出たので、おどろいてしまったのだ」
文偉が言うと、犬じゃあるまいし、と姜維は呆れた。
この口調、この態度、まぎれもなく姜維である。
孔明の挙搓とはまったく違うのであるが、武装を解き、洒落た平服に身をつつんだ姜維の風貌だけ見れば、華のある顔立ちや鼻筋の通りぐあい、もっとも印象的な澄明な双眸など、よく似ていた。
それに、姜維が纏っている服に、見覚えがあった。

「その服はどうした」
「これですか。豪華すぎると辞退したのですが、丞相の家人より、形見だからといって押し付けられたものなのです。当節、絹も高いので、仕方なく纏っているのですが、やはり似合わないでしょう」
「いいや、よく似合っておる」
「そうですか? しかし、あらためて気づいたのですが、丞相は背の高いお方だったのですね。わたしでは、どうしても袖や裾が余ってしまうので、だいぶ詰めました」
と、口ぶりとはうらはらに、どこか嬉しそうに、姜維は言った。

「今日はどうした」
「いえ、董中郎将より、楊威公の件以来、費軍師がふさいでおられるようなので、様子を見てきて欲しいと頼まれたのです」
休昭らしい配慮である。休昭とて、孔明という押さえがなくなったせいで、とみにわがままを言うようになった劉禅を諌めるのに、相当な神経をつかっているのである。
「おまえが大人しくお使いとは、めずらしいな」
「ええ。わたし自身も、費軍師にお尋ねしたいことがございまして」
「なんであろう」
文偉が尋ねると、姜維は、にっこりと、艶やかに笑ってみせた。よくない兆候だ。
「ほかならぬ、楊威公の件で」
怖じたわけではないが、文偉は思わず顔を逸らせる。
「どのような件だ」
「楊威公は、たしかに狂い始めていたかもしれない。しかし、成都に帰還するまでは、まだまともでありました」
「あれがまともだと言うのか」
「ええ。狂っているとはいえないでしょう。本当におかしくなってしまったのは、中軍師になってからだ。お聞きしたいのですが、蒋尚書令に、楊威公は病を患っているようだから、仕事はしばらく与えないほうがいいと進言したのは、貴方ですね」
「なにを言い出すか」
「誤魔化しても駄目です。董中郎将も同席の場所で、進言したのはまずかったですね。あの方は、貴方を信じきっているから、まったく普通にわたしに教えてくださいましたよ」
「進言したのがわたしだとして、だからなんだという」
姜維は、孔明の服を纏い、よく似た顔から笑みを閉ざし、文偉を真っ直ぐ見据えて、口を開いた
「なぜ楊威公を殺したのですか」

それは、姜維の本音であっただろう。
残暑のなか、庭の茂みから、のどかな虫の声が響いている。
庭の様子を、並ぶ部屋の扉の隙間から、子供たちが、こわごわと覗いているのが見えた。
どうしたものかと困っていると、奥から家人があらわれて、子供たちは遠ざけられ、扉は閉ざされた。

「わたしが楊威公を殺したと思うか」
「はい」
「殺す理由はなんだ?」
「わからない。だから、お聞きしているのです」
「伯約、聞いたとして、おまえはどうする。このことを上訴し、わたしに楊威公と同じ運命を辿らせるか」
「お話によります」
「おまえの心に叶う理由であったら?」
「生涯、沈黙を守ります」
「よろしい」

文偉は、息をつくと、一瞬だけ、まぶたを閉じた。
薄く閉ざされた闇の向こうに、亡き孔明の姿を思い出す。
貴方は偉大な方だった。すべての苦しみを引き受けていこうとした。
しかし、貴方は偉大だけれども、神ではなかった。
我らはやはり、貴方の抱えていた苦しみを、同じように抱えていくのだ。
そして、いま、貴方がもっとも心を残していった、貴方の志を受け継ぐ遺児に、同じものを背負わせようとする、このわたしをお許しください。

文偉はふたたび目を開き、姜維をまっすぐ見据えて、口を開く。
「蒋琬を守るためだ」
その言葉に、姜維はますます怪訝そうに眉をしかめた。
反論しそうなところを無視して、文偉は先を進めた。
「ある者がいる」
と、文偉は、慎重に言葉を選びながら話をつづけた。
「その者は、戦を拒む。国が疲弊すれば、己の地位が危うくなる…そう信じているからだ。だからこそ、戦を止めさせたいのであるが、しかし丞相が健在のあいだは、まちがってもそんなことを口にはできなかった。その者にとって、丞相は、実父より近しく、そして恐ろしい存在であったからだ。
しかし、丞相が病み、寿命が尽きかけていると知るや、その者は、丞相の志を継がない者を、つぎの後継に据えようと考えた。つまり、自分の意のままにできる人間だ。そこで、選ばれたのが楊威公だった。魏文長では駄目だった。かれは戦を好むからな。
そこで、その者は、楊威公とひそかに誼を通じ、その旨を伝えるのであるが、丞相がそれに気づかぬはずがない。すかさず密書を送り、つぎの後継は蒋琬が適任であることを伝え…丞相は多くは語られなかったが、もしかしたら、なんらかの策を必要として、やっと認められたのかもしれぬ…蒋琬は選ばれた。
しかし、丞相が亡くなれば、状況はひっくり返せると、その者は思っていたのかもしれぬ。楊威公の、丞相が亡くなられたときにみせた、奇妙な自信や言動は、その者の存在があったからこそなのだ。
蒋琬は、丞相より、後継を指名されていたから、丞相が亡くなったさい、早急に軍をととのえ、北上せんとした。しかし、結局、出発が遅れたのは、その者が、蒋琬を後継と、正式に認めるのをためらったからにほかならない。それが、蒋琬が、急使にもたせた、わたし宛の密書に書いてあったことだ」

密書には、すぐにでも孔明の元に参じたいが、ままならない現状に対する悔しさが綴られていた。
忘恩の徒とはいえ、長年の苦労をともにしてきた勇将を、狼のように狩りたてて殺すのは忍びないとも、蒋琬は書いていた。
もしも、蒋琬の出発が早く、南谷口に到着するのに間に合っていたなら、魏延は、自分が後継ではないことを認め、降伏した可能性がある。
蒋琬が後継だと知ったなら、魏延は態度を変えたかもしれないのだ。
魏延は、楊儀が許せなかったのだから。
反逆した事実は動かないから、やはり死を迎える結果になったであろう。
だが、その後の、楊儀の狼藉を許すような状態には、ならなかったはずである。

「楊威公が後継になれなかった理由は、単純なことだ。魏文長が死に、ただ帰国するだけならばよかったのだが、魏文長の遺体に楊威公が狼藉を働いたことは、みなの目には奇行としか映らなかった。
それゆえ、その者も、丞相のご遺志を曲げて、楊威公を後継に指名することはかなわなくなり、蒋琬が正式に後継となったのだ」
「では、楊威公を公務から遠ざけるように進言したのは、再び力をつけて、貴方のおっしゃる『その者』と結託することを防ぐため?」
「そうだ。今後のために、どうしても楊威公を失脚させる必要があった。伯約、わたしは丞相を苦しめた楊威公を、魏文長と同等に憎んだ。そのことは認めよう。
しかし、丞相は、楊威公を憐れみ、なるべくならば殺したくないとおっしゃった。成都に帰還してからの楊威公の態度が目に余るものであったのは、おまえも知っているだろう。過去の功績のことなど持ち出さず、そのまま刑場に送ることも可能であった。すくなくとも、わたしはそのつもりであった」

しかし、思いとどまったのは、最後に幕舎で聞いた、孔明の愁嘆が心の中にあったからである。
懐かしい時代を知る者だからこそ、つい甘やかしてしまったのだと、孔明は自戒もこめて悲しんでいた。
自分の甘さは、孔明の棺と共に葬ったつもりであった。
しかし、考えを変え、上奏し、庶民に落すことを進言したのは、自分を裏切っていると知りながら、それでも長生きをしてほしいと願っていた、孔明のためである。
楊威公に心があるならば、それが通じるだろうと、文偉は思っていた。
しかし、庶民に落とされた楊威公は、成都から遠く離れたことで、かえって、自分が利用されたことに気づいてしまったのである。

嘘は通じまい。
文偉は、似た面差しを持ちながらも、あまりに純粋で、真っ正直にすぎる姜維の眼差しを受けながら、静かに言った。
「丞相のご遺志だ」
姜維は柳眉をしかめた。
「まさか」
「丞相は、二人を連れて行くと言い切った。その志にわたしは従ったまでのこと。おまえは勘違いを起こしているかもしれぬが、わたしは楊威公の狂気を煽り立ててはおらぬ。公務から外すように進言したのも、蜀の未来のためだ」
とたん、姜維は、秀麗な顔を険しくして、怒鳴った。
「未来? 未来ですって? どのような未来なのですか! 丞相がいなくなった途端、魏文長は叛き、楊威公は狂い、貴方は陰湿な陰謀に耽っている! だれも、丞相のお心ざしを引き継いでいない! どういうことなのです!」

「楊威公が庶民に落とされて、蒋琬は守られたが、それでは済まなかったのが、楊威公その人だ。自分が零落した原因は、蒋琬などではなく、都合が悪くなると見捨てた『その者』にあるのだと気づいてしまった。
そこで、庶民に落ちてからは、蒋琬ではなく、『その者』への激烈な誹謗文を書きはじめた。こうなると、もはやわたしでも手を出せぬ。楊威公は真に狂っていたのかもしれぬ。だから逮捕されることになった」
「それがまことであるというのなら、牢内での自害は、ほんとうに自害なのですか?」
「わからぬ。いまとなっては、そうであったらよいと思うばかりだ。だが、突き詰めれば、結局、わたしが楊威公を死に追いやったのかもしれぬ」

楊威公の死は、調べさせたものの、真相は不透明なまま終わった。
調べても、はっきりと陰謀の証拠を見つけることができなかったのである。
自害ともいえるし、陰謀とも疑える状況で、結局、うやむやにせざるを得なかった。
牢内での楊儀の死が、自らの意志による死であったらよいと願う気持ちは、おのれの罪が重くなることを恐れてのものか、それとも、内なる敵の非情さを恐れる気持ちなのか、文偉のなかでは、まだ整理がついていない。

「われらに出来ることは、ともに庶民に落とされていた楊威公の妻子を、ふたたび成都に戻してやることだけであった。それが、真相だ」
姜維の顔色が悪く見えるのは、けして葉陰のせいだけではあるまい。
「では、『その者』は、もう大人しくしているのでしょうか」
「いまはな。しかし、丞相にさえ心を開かなかったその者が、われらに心を開くかどうかは疑問だ。あの休昭さえ、手を焼くことが多くなったそうだからな。しかし、われらは、その者に期待を込めて呼びかけることを止めてはならぬ。これは、そういう戦いなのだ」
とたん、姜維は眦をつよくして、言った。
「なぜです? あの方は、いったいなにが不満だというのですか? この険阻な要害の地の奥にあって、みなに守られ、傅かれ生きている! まともに政務もしようとしない! 一度たりとも前線に出たことのない人間に、われらの苦労のなにが判るというのです! 安全な場所にいる者に、丞相のお気持ちなど、我らの気持ちなど、判るはずがない!」
「それは」

わかる、と言葉をつづけようとして、ふと、文偉は、姜維の言葉に、魏延の言葉と重なる部分を見つけて、思わず口を閉ざした。
こうして、あの男も不平を募らせて行ったのだ。
姜維の毒を引き受けてやって欲しいと、孔明は言った。
姜維は、孔明とはちがい、怖いくらいに純粋だ。
それは美点であり、同時に欠点でもある。
生真面目すぎるのだ……楊儀のように。
あの二人のように、孤立させてはならない。

「伯約よ、おまえの怒りは、わたしや休昭、蒋琬も同じなのだ。だが、怒りをもって人を制することは、やはり出来ないのだよ。それは相手を滅ぼすだけだ。丞相も苦しんでおられた。
しかし、あの方はそれを耐え抜いたぞ。おまえが、丞相の遺志を継ぐというのなら、同じように耐えて見せるがいい。われらもまた、おまえと同じ苦しみを抱えていることを忘れるな」
言うと、姜維は悲しげに目を曇らせて、口はしに苦笑を浮かべた。
「一人が抱えていた苦しみを、四人で苦しもうというのですね」
「そうだ。人を恨み、卑屈になってはならぬ。その服を纏っていた方は、どんな辛苦の中にあろうと、いつも前を見据えておられた。辛いことではあるが、辛さに打ち勝ったからこそ、龍は龍でありえたのだ。おまえもそれに続け」
「丞相の後に続けとおっしゃるか」
「そうだ。おまえならば、出来よう」
力強く文偉が言うと、姜維は、すこし照れくさそうにして、笑った。
その、どこか憂いを帯びたうつくしい笑顔は、かつて青年であったころに見た、諸葛孔明の笑顔によく似ていた。

孔明は、姜維の器を作りきれなかったと言っていた。
どこまで出来るかはわからない。
しかし、文偉は、孔明がやり遂げられなかった事業を、蒋琬が引き継ごうとしているのであれば、自分は、孔明が作ろうとしていた大器を、育ててみようと決意した。
歴史は紡がれゆくが、真実がかならずしも、そこに織り込まれていくとはかぎらない。
この静かなる戦いを、やがて見い出すものはあるだろうか。
龍は死んだ。しかし、まだ志は、われらの中に残っている。
志を守り、戦いに勝つこと。
それが、志なかばで挫折し、不本意な死をむかえた……いや、わたしが殺した、二人への手向けとなればいい。
しかし、わたしの罪は、許されることはないだろうと、文偉は覚悟し、瞑目した。



おわり

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(C)Hasamino Nakama 2009 08 19