虚舟の埋葬


楊儀たちは、さほど進んでいなかった。
故郷に向かう兵卒たちの表情は、みな怪訝そうで、自分立ちを追い越していく、固い表情の姜維や文偉の姿を見ると、首をひねりながら、ひそひそとやっている。
とはいえ、一部の兵卒たちのなかには、帰国できることを素直によろこび、仲間うちでのんきに歌を唄っている者すらいるほどだ。
主だった武将と、その側近である部将たちくらいしか、まだ孔明の死をしらない。
そのため、末端の兵卒や、それを束ねる士卒長、将兵たちは、どうも上の様子がおかしいとは思いつつも、黙って従っている、というふうだ。

ふとしたことで、士気は一気に弛む。
帰国できる喜びが勝って、戦意の失せたこの状況で、魏延に先回りされ、攻撃を受けたなら、大混乱になりかねない。
さらに、そこを司馬仲達に襲われたらと想像すると、恐ろしいどころの話ではない。
それだけは、なんとしても防がねばならなかった。

一人でも多くの士卒を、無事に帰してやりたい。
それは、よく事情を飲み込めないまま、魏延に従っている部隊の士卒も同じである。
魏延と楊儀の、生臭くもくだらない争いに、これ以上、ひとりでも巻き込みたくなかった。

楊儀は、孔明の棺を、その近衛兵に守らせ、自分は輜車のなかにいた。
姜維と文偉が、先頭を行く楊儀に追いつき、孔明の死をみなに報せるべきだと提案すると、楊儀は、それを渋った。
「兵卒たちが、かえって絶望し、統制が取れなくなるのではないか」
というのが、楊儀の言い分である。
しかし文偉はかぶりを振った。
「いいえ、ほとんどが、夜が明ける前までは、敵を目の前にして過ごしていた者たちばかりでございますし、みな、亡き丞相への恩を忘れておりませぬ。
いま丞相の死を報せれば、かえってみな奮い立ち、緩んでいた士気もすぐに回復します。じき現われるであろう魏延に立ち向かうのも、追ってくる司馬仲達を迎え撃つのも、力を発揮出来ることでしょう」
筋が通った話であるし、楊儀は頷くであろうと思っていたのだが、しかし、これがうまくいかない。
「丞相が亡くなられたと聞けば、兵卒は、我らが逃げ帰るのだと誤解し、きっと怖じて動かなくなる。
逆に、丞相は生きておられると偽の情報を流し、われらの指示を丞相からの指示であるとして、軍を動かしたほうがよいのではないか」
「なりませぬ。魏将軍が現われれば、かならずや丞相がお亡くなりになったことを兵に告げ、我らがそれを隠しているのは、後継となるべき己を騙そうという、こちらの思惑があるからだと主張することでしょう。
それは、司馬仲達も同じこと。あの男のことです、おそらく、われらが急に撤退したことで、丞相の身に異変があったとすでに察していることでしょう」
とたん、楊儀の顔が険しくなった。
「なぜ仲達が、こちらの動きをそこまで読めるのだ。もしや、おまえは、司馬仲達の細作の存在を知りながら、野放しにしていたということか?」

野放しにしていたわけではない。
おそらく仲達に事態を知らせるのは、どこかに潜んでいるであろう細作ではなく、地元の民だ。
仲達は老練で抜け目がない。
地元の民を手懐け、こちらの動きを探らせていることは、文偉ばかりではなく、ほかの将も知っていた。
もちろん、敵と接触しないように注意をしていたが、それとて、完璧には防ぐことはできない。
ふたつの勢力に挟まれた場合、時勢に応じて、態度を変える。
それが民の知恵というものだ。
孔明が兵に厳命していたために、おなじ土地で、蜀の兵と地元の民が一緒に畑を耕せるほど、うまくは行っていたが、民とて、生きていくために、蜀に通じていたと疑われないようにしなければならない。
いまごろ仲達のもとに、異変をしらせに行っているはずだ。
これを止めることなど出来はしない。
それに、細作の存在云々は、この状況で問題にすべき話ではない。

「いまは、その話を論じている場合ではございませぬ」
「わたしに意見をするつもりか! それに、魏延が、自分が後継になるべきであると思い込んでいるとは、どういうことだ?」
話がまったく進まない。
文偉は焦れて、言った。
「それは、丞相が、己の後継は、魏将軍とも楊長史だとも、明言されておらぬからでございます!」
とたん、楊儀の顔に、朱が差した。
膝の上の握りしめた手に、ぐっと力が入る。
「おまえは、わたしが後継を僭称しているものとのたまうつもりか!」
「そうではありませぬ。しかし、魏将軍の行動を予測するに」
「黙れ! おまえはわたしが後継ということに、不満があるのであろう! おまえは、丞相の生前より、魏将軍とも懇意にしていた。あちらで、なにか言いくるめられたのではあるまいな!」

ふと気づけば、楊儀付きの部隊の将兵が、こちらを鋭く見つめているのに気づいた。
囲まれている。
楊儀のひとことで、拘束されかねない。

「費司馬は、言葉が足りぬだけでございます、楊長史」
と、激昂する楊儀をなだめるように、じつにやんわりと、優しい声音で姜維が口を挟んだ。
場違いなほど冷静な姜維に、楊儀も毒気を抜かれたのか、落ち着きを取り戻し、尋ねてくる。
「おまえの考えはどうだ」
「いまはっきりと判っていることは、魏将軍と司馬仲達、両者は、かならずわれらを襲ってくるということです。兵卒は、みな楊長史を認めております。
わたくしが危ぶみますのは、丞相の恩を忘れ、いまや賊と成り果てた魏将軍の口より、丞相の死が告げられること。兵卒は、たとえ楊長史に従っていても、なぜに丞相の死を黙っていたのかと、怪しみ出すことでしょう。
もとより、兵卒たちのほとんどは、純真な田舎育ち。中には、くだらぬ流言に乗せられ、魏将軍の言葉を鵜呑みにする輩も出てくるかもしれませぬ。司馬仲達が追ってきた場合にも、同じことが言えましょう。
悲しいことでございますが、たとえ信義はべつなところにあっても、命惜しさのあまり、容易に裏切る面が兵卒たちにはあるということを、頭に入れねばなりませぬ」
姜維のことばと文偉のことば、内容はまったく同じなのであるが、楊儀は、素直に感心して、頷いた。
「なるほど、おまえの言葉には筋が通る。兵卒たちをまとめるためにも、あえて正しい後継たるわたしが、正しい告知をせねばならぬ、ということだな」
激昂した己を恥じているのか、楊儀は、声をたてて笑った。
「すまぬな、わたしはどうも軍事には暗い。姜維、文偉と協力し、丞相がお亡くなりになったことをみなに伝える手筈を整えてくれ」
「お任せくださいませ。魏将軍は、いつ襲ってくるかわかりませぬ。かれの狙いは、貴方さまの首でございます。われらが命に替えてもお守りいたしますゆえ、どうぞ輜車に籠もり、丞相の棺をお守りください。あとは、わたくしどもがいたします」
楊儀は、すっかり気をよくし、大いに頷いた。
「うむ、では、一切はおまえたちに任せよう。わたしはここより指示を出す。くれぐれも、ぬかりのないようにな」
「そこはお任せを」
拱手しながら、姜維は、艶やかと評してもかまわないほど、人を惹きつける笑顔で応じた。

そして、孔明の死を全軍に報せるべく、伝令をあつめる作業にかかったのであるが、ふと、姜維が、文偉の隣に轡を並べながら、ぼそりとつぶやいた。
「貴方は、ひねりが足りないのだ。わたしがいなければ、あの場で捕らえられておりましたよ。丞相の棺の前で首を刎ねられて、旗印に首を括りつけられての帰国など、お嫌でしょう」
「感謝しておる」
憮然と言うと、姜維は、ちろりと横目で視線を投げてきた。
「丞相は、あなたが正直な方だと評価しておられましたが、その正直さも、場合によりけりですね」
「おまえのほうは、ずいぶんと慣れておったな。兵は楊長史を認めている、の言葉で、長史はお心を治めた。だが、『後継として』認めている、とは、おまえは一言も言っていない」
「それが策士というものです。功名心にとらわれ、大事を見失った者は、おとなしく輜車のなかで震えておればよいのだ」
憎しみを隠さず、吐き捨てるように言う姜維であるが、前方より、斥候として派遣していた騎兵が、こちらに向かってくるのを見て、柳眉をしかめた。
「動きがあったようですな」
つぶやくと、騎兵のほうに馬首をめぐらせる。

騎兵は、相当にあわてて飛んできたらしく、息をぜいぜいと切らしながら、馬上で倒れこまんばかりになりつつ、汗だくの顔を上げて、言った。
「申し上げます、これより先の橋が燃やされ、谷を越えることが出来ませぬ!」
その声に、姜維と文偉の周囲にあつまっていた将兵、そしてそばにいた士卒たちが、大きくどよめいた。

前方の橋が燃やされたとなると、司馬仲達ではあるまい。
行動があまりに早すぎる。
魏延が先回りをしたのだ。

周囲への動揺が広がらぬように注意しながら、文偉は落ち着いて尋ねた。
「それだけか。賊の姿は見えたか」
斥候は、わずかに言い淀み、それから慎重に頷いた。
「岸壁の向こうに、魏将軍の部隊がおりました。それがしの姿を見るや、魏将軍みずから駒を進め、帰国することまかりならぬ、これより先は、丞相に代わり、この自分が指揮を執る、勝手な行動はつつしみ、早々に戻れと」
「ほかには」
「反逆者の楊威公に従うものは、今後、だれであれ厳罰に処すと」

反逆者との言葉に、さらに周囲のざわめきは強くなった。
魏延の行動力には、賞賛すらしたくなる。
急がねばなるまい。

文偉は、ひと呼吸おくと、厳しい声で、周囲にあつまった将兵に命じた。
「みな聞け! ただちに各部隊の将は、わが元へ集合せよ! そして、司馬の費文偉より全軍に通達する! 諸葛公は昨夜、息を引き取られた! これより、全軍は公の棺を守り、すみやかに漢中へ撤退する!」
文偉の声は大きく谷にひびき、こだまをともなって、静まり返った軍列のうえを通りぬけていった。
だれも声をたてるものは無かった。
さらに告げる。
「公が逝去されたことを受け、征西大将軍は反逆の意をあきらかにした! われらはこれを迎撃する! ただちに全軍南進、魏文長を討て!」

長い時間であった。
費文偉は、馬上より、自分にそそがれる目という目、顔という顔を、すべて見渡した。
伝令を束ねる将が、まっ先に我に返り、文偉の言葉をあまさず伝えるべく、それぞれに通達を命令しはじめた。
それをきっかけに、ふたたび波のようにざわめきが広がり、やがてそれは、おおきな潮となって、全軍に広がっていった。

谷にこだまする兵卒たちの声を、風の唸り声とともに聞きながら、文偉は、将たちを集めるために駒を進めた。
伝令が、馬を走らせながら、叫ぶ。
「丞相逝去! 征西大将軍が反逆! 全軍はただちに武装を整えよ!」
後ろより、姜維が追いかけてくる。
「討てとおっしゃるか。捕らえよ、ではなく」
「そうだ」
短く答え、文偉は沈黙した。
もはや迷いはなかった。

7につづく
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