藍の儀礼
2
日が落ちてきたので、偉度は家令に呼ばれた。
夕餉を食べていってほしいというのである。
雪かきは、やはり男手が二人だけ、という状態では、一日で終わらなかった。
やれやれと、自分が脇によせた雪の山を振り返る。
あとおなじ大きさの山をいくつ作れば終わるのか、それも見当がつかなかった。
陳到は、ひきこもり宣言を実行し、家族団欒のときにも顔を出さない。
偉度はといえば、頂華をのぞく娘たちに囲まれて、火鉢に当たって暖をとった。
さて、軍師には、雪かきを終えるまで帰ってこなくていいといわれたわけだが、明日はどうしようか。
引き受けた以上は完璧にやりとおしてしまいたいが、しかし左将軍府のほうも気にかかる。
「ひどい寒さでございますねぇ。こう寒くては、病人など、たまったものではないでしょう」
と、夕飯の支度をしながら、家令の妻が偉度に話しかけてきた。
偉度の両脇には、三女と四女のそれぞれが、ぴったりとくっついて、あれこれと甘えて擦り寄ってくる。
偉度はもともと面倒見がよいし、子供の世話には慣れていた。
気を引こうと、偉度の衣をひっぱったり、腕を振り回したりする妹たちを一方でうまく相手しながら、家令の妻にたずねた。
「その口ぶりだと、知り合いに不幸でもあったのか」
「いえ、この近くなのですけれどね、あまりお付き合いはなかったのですが、偉度さまはご存知ではありませぬか、襄陽の馬家の奥様が亡くなられたそうです」
馬という姓はそう珍しいものではなく、偉度も顔がひろいほうなので、思い当たる家はいくつかあった。
だが、そこに『襄陽の』とつけば、それはひとつしかない。
「白まゆげの君の奥方が亡くなられた?」
偉度はおどろいた。
というのも、馬良は左将軍府に今朝もふつうに出仕していて、いつものとおりに仕事をこなしていたからである。
それに馬良の妻が病床にあるという話があれば、孔明にも話が伝わっているはずであるが、そういった様子もなかった。
馬良の妻と、孔明の弟の均の妻は、姉妹なので、馬家と諸葛家は親戚になるのだ。
偉度がおどろいていると、家令の妻は、そうじゃない、というふうに、あわてて手を振った。
「いえいえ、季常さまではないのですよ。ご次男の馬叔常さまの奥方さまです。ご存知ありませんでしたか」
馬家には男ばかり五人の兄弟がいて、それぞれ字に『常』の字がついている。
本来ならば、家は長男である伯常を中心に動くところであるが、弟である季常のほうが優秀で、さらにはいちばん出世をしているために、一族はかれを中心に動いていた。
馬良が入蜀したのにあわせ、一族のほとんどが、なにかと争いのつづく襄陽から成都に移住してきたのだ。
ただし正式に劉備に仕官しているのは季常と、その末弟の幼常のふたりだけだ。
のこりの三人は、慎重に劉備との距離を置いている。
そのあたりは、長年にわたり家門を守ってきた士大夫の家の、生き残るための知恵であろう。
いまだ世情が定まらぬなか、安易に一人の君主に兄弟全員が仕えるのは、早計だろうという判断である。
馬良の二番目の兄の名を、偉度はこれまで聞いたことがなかった。
一番うえの兄という人物は、それなりに優秀であるが、性質が柔和過ぎるので、老父の面倒をみながら、一族の財産管理を主に担当しているということは知っている。
長男ということで、馬家の代表として、樊城に姿をあらわしたこともあり、そのときに顔をあわせたことがあったのだ。
だが、二番目の兄という人物は、評判すら聞いたことがない。
「襄陽から成都に移ってきていたとは知らなかった。それにこのあたりに住んでいるって? 白まゆげの君のお屋敷とは、ずいぶん離れているじゃないか」
偉度がいうと、おしゃべりが大好きな家令の妻は、膳に器用に料理の入った器をてきぱきとのせながら、答えた。
「いま、季常さまは、一番上のお兄様といっしょに、ご両親の面倒を見ておられるのはご存知でしょう」
「ああ。大所帯だな。だから大きい屋敷を接収して、そこに住んでいる」
「二番目の兄上さまが一緒にお暮らしにならなかったのは、亡くなられた奥方が原因なのでございますよ。
まだ荊州にいたころの話なのですけれど、二番目の兄上さまはご結婚が早くて、十五の年に、お母様のお決めになった女人と結婚なさったのです。
けれど、これが最初からうまくいかなかったようで、お子様も生まれず、二番目の兄上さまは、奥方さまを避けるように、旅にばかり出ていたそうでございます」
「へえ」
どこかで聞いたことのあるような、というよりも、よくある話、というべきか。
「で、何度目かの旅のとき、二番目の兄上さまは女人をひとり伴って帰ってきたのでございますよ。
まあ、馬家といいますと名門でございますし、殿方に妻は複数あるのがふつうなのでございましょうから、そう大騒ぎすることではないのかもしれませんけれど、問題は、その女人のご出自が、お母様の気に入らなかったとかでございまして。
その女は屋敷には入れさせないというので、仕方なく、二番目の兄上さまは、その女人とふたりで、別宅で暮らすようになったのでございますよ」
「それはそれで、かえって、追い出してもらったほうがよかったのではないか。その二番目の妻とて、姑のいびりにあわずにすんだのだからな」
「まあ、そういう見方もできますかしら。けれど、残された最初の奥様のほうはたまったものではありませんよ。すっかり見向きもされなくなって、しかも石女なんて悪い評判もつけられて、お里に帰されてしまったのですからね。
最初の奥様がとてもよく出来た御方で、二番目の御方というのは、お生まれがどう、とかいう話を差し引いても、あまり評判のよい御方ではなかったそうでございますよ。
二番目の兄上さまも、とくに働こうともしないで、上の兄上さまや、季常さまのお世話になっている状態だったそうで、お屋敷はいつも喧嘩の声が絶えなかったそうでございます」
「へえ、なかなかうまくいかないものだね」
偉度が答えていると、奥で米を炊いていた家令が、顔をしかめて妻を振り返った。
「これ、くだらぬ話を偉度さまにするでない」
「だって、ご近所の噂だもの」
いいじゃない、と家令の妻は不貞腐れる。
偉度としては、こうした市井の噂話から、思いもよらぬ情報をあつめることができるので、すこしも苦ではない。
「この雪で、しかもお葬式でございましょう。重なるときは重なるものですわね。いま、うちの奥様が、あちらに手伝いに行っているのですよ」
それで余計に陳家では人手が足りないのだった。
「偉度さまが来てくださいまして、ほんとうに助かりました。
偉度さまのお屋敷のほうはよろしいのでございますか。もしご用がありましたなら、今度はわたくしどもがお手伝いに参ります」
と、家令が、竈から離れて、偉度に言う。
「わたしの家は問題ない。いま世話をしている若いのがいて、そいつらが雪かきをしているはずだから」
「若いの、とおっしゃいますと?」
聞き捨てならぬものを聞いた、というふうに真剣な顔をして、身を屈ませたままの姿勢で家令はにじりよってくる。
偉度は憮然として答えた。
「荊州にいたころに面倒を見ていた連中だ。商人で、仕入れのために成都にやってきたのだが、この雪で閉じこめられてしまっている」
「男の方?」
「無論」
偉度の返事を聞くと、家令は、ようございました、ようございました、とくりかえして、うんうんと頷きながら、竈の前へ戻った。
陳家での偉度の評判は、本人ですら、なぜだと首をひねりたくなるほどに良い。
そして、家令夫婦を中心に、おそろしくも、陳家の長女の銀輪を、ゆくゆくは偉度に嫁がせようという運動がおこりつつある。
これに協賛しているのが、厄介なことに孔明なのだ。
偉度は、孔明にならって、終生を独身を貫こうと決めていた。
であるから、かれらの『親切』は迷惑以外の何物でもない。
とはいえ、そんな思惑があると知りながらも、いそいそと陳家にやってきてしまう自分はなんなのだろうと思うことも、しばしばだ。
夕餉のしたくがそろそろ終わりにさしかかると、それまで、引きこもり宣言を守って、奥の居室でじっとしていた(宣言を守っていた、というよりも、どうやら痛み止めの薬の副作用で、ずっと眠っていた、というところが本当であるらしい)陳到が、のっそりと起きてきた。
そして、「めしだ、めしだ」といいながら、不機嫌そうに火鉢にあたる偉度からよく見えるところにある、卓の上座に腰かけた
偉度のそばにぴったりとくっついていた娘たちは、やはり父親のほうがいいらしく、じゃれるようにして陳到のところへ向かう。
陳到の妻は葬式の手伝いで不在なので、この場にいないのは、次女の頂華と、その侍女である蓮華だけ、ということになる。
「頂華は部屋で食べるそうだ。すこし風邪気味らしい」
と、陳到は、厨にいる銀輪に声をかけた。
すると、銀輪は厨から顔をだして、またなの、というふうに顔をしかめて、口をとがらせた。
「風邪じゃありません、父上。どうせ不貞腐れているのよ。
お客様に失礼だから、すこしでいいから顔を見せなさいって叱って!」
銀輪の口調は、日に日に、その母親にそっくりになる。
陳到も、いちばん可愛がっている長女の強いことばに、困惑して、答えた。
「けれどね、かわいそうじゃないか。あの子の体が弱いのはほんとうなのだし、無理をさせて熱が高くなったら、わたしも心が痛んでしまう」
「父上も母上も、どうしていつも頂華ばっかり甘やかすの!」
むくれて、銀輪は、ふたたび厨での作業に戻った。
そのやりとりを見ていて、偉度は思った。
銀輪の言うとおりで、頂華に対して、陳到は甘すぎると思う。
体が弱いからという理由をこさえて、生活水準に見合わぬ贅沢に、すっかり慣れさせてしまっている。
陳到が思っている以上に、娘の成長というものは早い。
頭が柔らかく、まだ修正の利くうちに、もっと厳しく躾なおさないと、これから先、辛いことになるだろう。
本人にとっても、甘やかし放題の状況は、いいことではないのだ。
要領がいいので、うまく甘えられる相手を見つけるだろうが、世の中は要領だけで渡っていけるほど、甘くはない。
蓄積した努力がない者に、世間は突然に牙を剥く。
苦労は、しているうちは辛いが、それをしのぎ、耐えつづけると、今度はその積み重なった経験が、運命がもたらす苦難から身を守る盾となってくれる。
苦労は若いうちにしろという言葉は、当たっているのだ。
とはいえ、偉度は、この家の人間ではないから、黙るしかない。
「おまえは明日も来るのか」
唐突に、陳到が声をかけてきた。
目を合わさず、家令の妻が先に用意した杯に、ゆっくりと酒を継いでいる。
四番目の娘が、おもしろがって指先を杯に入れようとしたので、陳到はぴしゃりとその手を叩いてやめさせた。
「軍師のご命令でございますれば」
「ふん、頼んでいないものを、軍師はどうしてそのようなご命令を出されたのか」
「わたくしとて、迷惑でございます。暇な身ではございませんので」
「ああ、まったく酒が不味い。屋根から転げ落ちたばかりに、おまえの顔をみながら晩酌をせねばならぬとは」
「いま気づきましたが、酒を飲んでしまっては、薬の効果が薄れてしまうのではありませぬか」
「大事ない。酒のおかげで痛みが薄れる。軍師から薬をいただいたとき、酒を飲んではならぬとは言われなかった。
銀輪や、食事ができるのは、あとどれくらいかね」
厨のほうから、あとちょっとー、という銀輪の元気な声が聞こえてきた。
「いちいち往復するのも面倒であろう。部屋は用意させてあるので、今日は泊まっていくといい。
でもって、明日も朝からせっせと雪かきをして、早くいなくなるように」
「ではお言葉に甘えましょう。でもって、早々にいなくなりますので、そこはご安心くだされ」
「まったくだ。おまえが一つ屋根の下にいると思うと、おちおち寝てもおられぬ」
という陳到の髭には、引きこもり宣言からいままで、ぐっすり眠っていた証拠として、寝癖がしっかりついていた。
熟睡していたのらしい。
夕餉を摂りおわり、その片付けも終わると、陳到はすぐに大あくびをして、自分の居室へ戻ってしまった。
陳到は、あれこれと嫌味を言ったが、結局のところ、偉度を信用している。
信用していなかったなら、偉度が眠るまで、自分も眠気をこらえて、じっと横で張り付いていただろう。
ふたたび火鉢のそばには、偉度と、客が来ていてめずらしいのか、興奮して、寝る気配のない、下の妹たちがいる。
銀輪は、やはり働きつづけていて、いまは風呂の準備に忙しいらしかった。
偉度が見るかぎり、銀輪はそうせざるをえないから、我慢をして働いているのではなく、単に仕事が好きなのだろう。
なにかしていないと落ち着かない性分なのだ。
「偉度さん、なにか面白いお話してみて」
と、三番目の妹が、偉度の袖を振って、せがんできた。
偉度は壷中にいたころから、幼い子供たちの面倒も見ていたので、さしてひるまず、答える。
「どんな話がよい。大地をつくった巨人の話でもするか」
「そういうのじゃなくて、もっと珍しいお話がいい。父上みたいな格好いい武将が出てきて、最後はめでたしめでたしなの」
父上みたいな格好いい武将、という要求に、偉度は思わず笑ってしまった。
なるほど、幼い子供らにとっては、父親は英雄というわけだ。
笑って、ふと、偉度は笑みを引っ込めた。
どこを基準にするかで、笑う、笑わないはちがってくるだろう。
陳到は家族をしっかり守りぬき、苦労をかけさせることもなく食べさせてやっている。
一方で、家庭そのものを作ろうとしない人間もいて、そうしたかれらは、世間では英雄と讃えられながらも、その内側では深い孤独を抱えて生きている。
わたしも、じきに、どちらかの人生を選ばねばならないのだな、と偉度は、唐突に思った。
それは、ほんとうに唐突に湧きあがってきた考えだった。
それまで迷うことなく、孔明や趙雲のように生きるのだと考えていた。
だが、いま、ここに至って、それは単に悩むことを放棄して、安直に身近にある憧憬の対象を模倣しようとしていただけではないのか、という疑問が眼前にせまってきたのである。
それは、もともとは、偉度とおなじく細作であった陳到が作り上げた、ちいさな居心地のよい空間のなかだからこそ、そんなふうに思ったのかもしれない。
自分は孔明という人間には似ていない。
必死に同じようになりたいと願っているわけだが、同じではない。
本質がちがっている。
孔明の性質は矛盾だらけのものだ。
当代きっての智者と噂されながらも、無垢にして無欲。
自制して、無理におのれに強いて欲望と距離を置いているのではなく、端から欲望に興味がない。
孔明とて苦しんでいるときもあるが、偉度が見る限り、たいがいは楽しそうだ。
それはどんな局面でもそうで、孔明の楽天的で前向きな性格が、これまでのさまざまな苦難を突破させてきた。
あの名前どおりの、決して失せることのない明るさは、自分にはとうてい真似できないものである。
趙雲ともちがう。
自分はあれほど孤独に対してつよくなれない。
証拠に、ひとりで行動するよりも、兄弟らといたほうが安心するし、うまく動ける。
強烈な執着心と忠誠心とが、破滅に傾くことなくうまく融合して、かれを忠臣の位置にとどめている。
その心の均衡のありようも、偉度には真似できないものだ。
かれらのいまは、かれらの生き方が導き出している結果の積み重ねなのだ。
それをそっくりそのまま望むことは、他者にはできない。
とすれば、自分に見合った、もっとも理想にちかい生き方とは、なんだろう。
「偉度さん、どうしたの? お話は?」
気遣わしげに自分を見上げてくる子供らに、偉度は困ったようにほほ笑んで見せる。
「眠いの?」
「いや、そうではない、すこし考えごとがあったのだ。そうだ、お話だったな」
「むかしのお話がいい」
むかし、か。
偉度は、世間で知られているような寓話ではなく、いま、思いついた話を口にしはじめた。
「むかし、といっても、それほどにむかしではない話なのだが」
「うん」
「あるところに、何でもできてしまう男がいた」
「すごい」
「そう、すごい男なのだ。ともかくなんでも一人で不足なく出来てしまうので、仲間が必要ない。
だから男はいつも自由に、ひとりで大地を放浪していた。
けれどほんとうは、世の中にある家族や仲間同士でいっしょにいる人間たちを、うらやましいなと思って見ていたのだが、男は生まれてこのかた、たいがい一人だったから、仲間をうまく作ることができなかった。方法がわからなかったのだ」
「その人には、家族はいなかったの?」
「いたけれど、仲が良くなかった」
「家族なのに、仲が良くないの?」
「この家はみんなが仲良しだけれど、そうじゃない家もあるのだよ。男は家族と喧嘩をして家を飛び出したのだ。
男には戻るところがなかったので、あちこち気の向くままに旅をして、あるとき、一人のお殿様の家来になることにした。
そのお殿様は、なんでも家来の自由にさせてくれる、度量の大きい方だったのだ。それにその男も、ずっと一人だったので疲れていた。仲間がほしいと思ったのだ」
「へえ」
「男は努力して、仲間をつくろうとがんばった。そうして何年か経ち、たしかに仲間はできた。たが、男は人の中にいても、どこか自分がまわりから浮いているような気持ちが取れなかった。
男はやはり何でもできてしまうので、だれかに助けてもらう必要もなく、頼ることもなかった。だから、ほかの仲間同士よりも、密な付き合いになることがなかったのだ。
外から見ていると、仲間というものは、とても楽しそうに見えたけれど、実際はこんなものかなと男は思いはじめていた。そんなとき、男は」
「うん」
「ええと、そうだな」
「どうしたの?」
「うむ、一匹の、白い、それはうつくしい龍を見つけた」
「どこにいたの?」
「襄陽の山奥」
「行ってみたい!」
「あたしも!」
偉度は思いつきで話をしていたのだが、銀輪の妹たちには好評なようである。
しかし語り手である偉度のほうは、マズイ話をはじめてしまったなと、すでに後悔をはじめていた。
「いま襄陽に行っても、もう龍はいない。里に下りてきて、人間に化けているのだ」
「会ってみたい!」
「あたしも!」
「だめだ。龍は人間であることを見破られたら、天に帰らねばならぬ」
「それじゃあ、我慢する」
「あたしも」
「よろしい。よい子だ、お話のつづきをしよう。その龍は、誇り高い、たいへんかしこい龍で、男はたちまちその龍の虜になった」
「トリコってなあに?」
「夢中になる、ということだ」
「お嫁さんにしたいと思ったの?」
「う」
「う?」
「ええと、まあ、そんなふうな感じだ。似たようなことを考えた。そう思っておけ。
ともかくその龍のことが、男の頭の中から片時たりとも離れなくなった。なにかと世話をしたり、悪い人間が近づくのを阻止したりした。
そして、何でもできるという自分の力を、はじめて誇りに思った。なんでもできるから、ひとりで龍が守れるし、龍の望むことのたいはんを、かなえてやれることができたからだ」
「それからどうなったの」
「けれど、どんなに懸命に尽くしたとしても、相手は龍だ。人間ではない。そのことに気がついて、男はとてもがっかりした。
人間には人間の道義があるように、龍には龍の道義があって、それは合致しないものだったのだ。
でも、がっかりしたけれど、男はそれでも龍のそばから離れることはできなかった」
「なんだか、かわいそう! それで?」
「うん、それで」
「うん」
二人の妹たちは、次の展開がどうなるのだろうかと、息をつめて待っている。
思いつきでおかしな話をしてしまったが、題材が悪すぎた。
どうしてもこれを『めでたし、めでたし』にできる展開が浮かばない。
「男はいまも龍のそばで暮らしている」
「………」
「………」
気まずい沈黙。
「おしまい?」
「おしまいだ」
とたん、二人の妹たちだけではなく、いつの間に参加していたのか、温めた酒を運んできていた銀輪までもが、不平の声を漏らした。
「つまんないー。ちっともめでたしめでたしじゃない! 偉度さん、めでたしめでたしにして!」
と、妹たちが頬を膨らませるのを見て、銀輪も同じようにうなずいて、抗議をしてきた。
「途中で親切な仙女が出てきて、龍を人間に変えてくれるかと思ったのに。それでおしまいなの?」
「いや、人間になっても駄目だろう。うん、道徳的に問題がある」
「変なの。よくわからないけど、そのお話って、偉度さんが考えたものなの?」
「まあ、そうだな。うん。観察報告ともいうが」
「よくわからないなあ。それじゃあ、こうしよう。偉度さんは、このお話をめでたしめでたしで終わる話にするように考えてよ」
「考えてよ、ってなぜだ。わたしは雪かきが終わったら、すぐに帰るのだぞ」
偉度が冷たく突き放しても、銀輪はまったくひるむことなく、答えた。
「だったら、雪かきが終わるまでに、めでたしめでたしに終わる話を考えてくれればいいよ」
「無理だろう。現状は如何ともしがたく……」
「お話なんじゃないの?」
「いや、お話だとも。妄想、虚構、捏造だ、うむ」
「だったら、簡単じゃない。偉度さんが作ったお話なら、偉度さんがこうだったらいいなあと思うふうに作ればいいんだもの」
「………」
「どうしたの? 顔色が悪いみたい」
銀輪の怪訝そうな表情を見て、偉度はあわてて首を振った。
「いやいや、そうだ、おまえの言うとおりだ。わたしは話を捏造する」
「捏造っていうと、なんだか悪いことをしているみたいだね」
偉度からすれば、こうして『寓話風』に他者に話をしていることも、悪いことをしているような気がしてならないのだが、そこは銀輪たちには、わからない。
この話の結末を『めでたしめでたし』にする?
不可能だろう、それは。
『まあ、でも、こいつらには、龍が雄だとも雌だとも伝えてないからな。まったくちがう話として考えればいいわけだが』
それにしても、くつろぎすぎて、つい口をゆるませてしまった。
恐るべし、陳家の罠。
思うに、自分がこれだけくつろいでしまうのは、陳到やその妻、そして銀輪(の場合はすべてではないが)が、自分のほんとうの姿と、そしてその過去を知っているうえで、ふつうに遇してくれるからだろう。
知られたくない過去を探られるのではないか、あるいは、陰惨な過去からにじみ出るものが、おかしな印象を与えてしまわないかと、かまえなくてよいのだ。
ふと、偉度の脳裏に浮かんだのは、雪が降り始めて以来、目を合わせなくなった孔明のことである。
『すこし、探りを入れてみるか。なにかあったのはまちがいない。わたしは軍師の主簿なのであるから、軍師の様子がおかしいければ、それを調べるのは当然のことであろう。
軍師はいまや成都どころではなく、天下を動かす一人なのだ。これは世のためである、うむ。
そして、陳家のもてなしへの、ちょっとした礼にもなる。わたしが知りたいからではないぞ。『お話』のネタあつめのためだ。
世のため、人のためだ、そうだ、立派な理由ではないか』
風呂の用意はできているという。
まるで自邸にいるように落ち着きながら、さて、探りを入れるにしても、あまりやりすぎると孔明と趙雲を怒らせてしまうだろうし、さてどうしたらよかろうかと思案しながら、偉度は、銀輪の用意してくれた酒を、ちびちびと飲んだ。