藍の儀礼

厳しい寒さの日がつづき、降り積もった雪が、まだ融けきらないうちから、またさらにあたらしい雪が降って、成都のほとんどの場所は真っ白に染まった。
こうなると、左将軍府の仕事のもっぱらは、雪かきと、その手配に当てられる。
劉備の入蜀の成功によって、三国鼎立がかたちの上では成ったいまは、それぞれの地方で安定した治政が行われており、かつて中原に血風が吹き荒れていたころにくらべれば、厳冬を越せずに命を落としてしまう者の数も減ってきた。
もともと成都は、ながく戦火にまみれたことのない都市であったうえに、孔明や法正の政治の努力がみのって、洛陽や鄴といった大都市に引けをとらないほどの、かつてない活気にあふれつつある。

その活力は、大量の雪でも消すことができなかったらしく、あちこちの市では、だれが率先してそうしたのやら、すでに雪かきが行われていて、いつものとおりに市が立っていた。
雪が降ろうと生活はつづいているわけで、市が立てば、人があつまる。
そして、あつまった人の活気によって、雪は解ける。

「あの日陰に積んである雪は崩れそうだな。事故がおこるまえに、おまえたちの長に言って、あの雪山を早く崩すように伝えよ」
胡偉度がいうと、日陰にどっさりと積み上げられた雪の小山のまえで商売をしていた店の主は、わかりました、と頭を下げた。
数日間、降りつづけた雪は、今朝になって、ようやくその勢いを止めた。
風が強くなかったのが幸いで、町のあちこちに大きな被害はなかったようである。
偉度は、左将軍府に出仕するまえに、諸葛孔明の主簿として、すこし大回りをして、成都の様子を見ることにしていた。
そして、いつものとおり市を抜けようとしたときに、ぽつぽつと水滴を垂らして、融けかかっている雪山を見つけた、というわけである。

偉度は、その直属の上役にあたる孔明によく似て、細かい性格をしており、なにかとよく気がついた。
市を通りがかるたびに、やれ、そこに店を出すと通行の邪魔だの、やれ、これは禁制の品ではないか、どういうことだ、だの、この値段は高すぎる、だの、細かく口を出すので、市の商人たちからは、敬遠されている。
本人もちゃんとそのことをわかっている。
憎まれることがわたしの役目だ、などと思うが、一方で、自分の立場は、あくまで孔明の主簿なのであって、だいぶ立場を超えていることをしているな、という自覚もある。
偉度は、そうすることで孔明にゴマを摺って、出世を狙っているのだと、口の悪い人間は言う。
しかし、そんな憶測は見当外れもよいところで、偉度にはそんなつもりはさらさらない。
主簿から出世して、だいたい何になるというのか。
孔明が、ほんとうは文官ではなくて、偉度を武将にしたいと思っていることは知っている。
だが、偉度からすれば、そうなったら、だれが孔明の面倒を見るのかと思う。

口に出したことはなかったが、偉度にとっては、おのれの主君は、あくまで劉備ではなく孔明なのだ。
それは、偉度と同じように孔明に仕えている、ほかの兄弟たちも同じように考えているはずである。
偉度にとっては、自分が蜀の役人だという感覚は薄く、どちらかというと、孔明そのものに仕えている私人である、という感覚のほうがつよい。
この感覚は、劉備をはじめとするほかの蜀の役人からすれば厄介なものであろうし、孔明にとっても迷惑なものだということはわかっていた。
しかし、だからといって、これを改めて、孔明から自立し、思うどおりに生きたいとも思えない。
要するに、偉度は孔明のそばを離れたくないのであった。
孔明はそのことを許してくれているし、周りも、そんなものだろうというふうに思っており、偉度の立場をおかしいと指摘してきた者はない。
偉度自身も、これから先も、孔明の主簿として生き、そして運がよければ、そのまま生涯を閉じることになるだろうと考えていた。
だが、最近、すこしばかりその考えが揺らぎつつある。
その原因は、偉度ではなく、孔明にあった。

偉度が左将軍府に到着すると、おなじく孔明に仕えている主簿のひとりが、呼ばれているから、執務室に行くようにと伝えてきた。
朝からすぐに呼び出されるとなると、なにか厄介ごとでも持ち上がったのか。
気持ちを引き締めつつ、孔明の執務室へ向かうと、朝のあいさつもそこそこに、孔明は、机のうえの文具をあれこれいじりながら、目を合わせることなく、切り出した。
「偉度、今日はこちらのほうはよいので、いまから叔至の屋敷へ行くように」
「叔至どののお屋敷でございますか」
意外な場所であったため、偉度が鸚鵡返しにすると、ようやく孔明は顔をあげてこちらを向いたが、気まずそうに一瞬、眉をひそめると、それからすぐに顔をそむけて、言った。
「そうだ。昨日、聞いたのだが、叔至は屋根につもった雪を下ろす作業をしていたとき、あやまって屋根から落ちて、腰を痛めてしまったのだそうだ」
「はあ」
「知っているだろうが、あの屋敷は男手がすくない。子供もまだちいさいし、しかし屋敷そのものは古いしで、いつ雪で屋敷が押しつぶされてもおかしくないそうな」
「はあ」
「そういうわけで、向こうの雪かきが落ち着くまで、おまえに陳家への出向を命ずる。いますぐ行くように」

目を合わせないまま、孔明はとうとう、ほかの事務仕事をはじめた。
雪よりなお白い、という言葉は、美女に向けての言葉になるだろうが、そうした表現がぴったりくる肌の白さを持つ人だな、と偉度は思う。
ただ白いのではなくて、透き通るような傷ひとつない肌だ。
見ていると、さして丁寧に手入れをしていないようなのだが、これも一種の体質なのだろう。
荊州三郡を治めていたときは、あちこち動き回っていたので、多少は日に焼けていたが、晴れ間のすくない成都にやってきてからは、その色も褪せて、十代の少年のころと変わらぬ白さに戻った。
ふつう、孔明と同じくらいの年になると、重ねてきた経験や苦労などが風貌にもあらわれて、みなそれなりの男の顔になるわけであるが、孔明に関しては、これも例外で、偉度がはじめて会ったときと同じように、男とも女ともすぐに断じることのむずかしい、中性的な風貌を保っている。
全体の容姿に共通している瑞々しさは、年齢などを考えると異常としか形容のできないものなのであるが、孔明に関しては、そうした異常さも含めて、どこか、『こういうものなのだ』と疑問を差し挟ませぬ雰囲気があって、だれもそれを不思議に思わないことも事実だ。

孔明が頑なに目を会わせようとしないのを見て、偉度は、今日もこれか、と思いながら、抗議をする。
「お待ちくだされ、なぜわたしなのでございますか」
「叔至の娘らは、なぜかおまえにとてもよく懐いているからな。子守りもかねての仕事だ。賄い、昼寝つきの好待遇だぞ」
「わたしひとりなのでしょうか」
「そうだ。どちらにしろ、こちらの手は十分に足りている。この大雪のせいで、陳情者もこちらに足を運べず、ここ数日は静かなものだ。
なにせ自宅の雪かきを優先させて、出仕しない者すらいるくらいだからな」
たしかに孔明の言うとおりで、左将軍府のあちこちにずらりと並べられた机には、雪が降ってから空席が目立っていた。
もちろん、雪かきを理由にして、ここぞとばかりに家でぬくぬくと過ごしている者もなかにはいるのだろう。
「いますぐに発てと」
「うむ、いますぐだ」

孔明は答えながらも、うるしを墨のようにして、鉄筆でがりがりと竹簡に文字をつづっている。
孔明がこなしているのは、普段ならば、もっと下位のものがする事務仕事のようであったが、どうやらなにかしていないと落ち着かないので、わざわざ自分のところへ持ってきて作業をしているようであった。
つまりは、孔明も暇なのである。
暇であるのに、顔をあげて、目をあわせることを避けている。
こんなことは、いままでになかったことだ。

孔明が急にそうなったのは、雪が降り始めてからである。
孔明の弟の均の様子がおかしいということと、そして趙雲がめずらしくも落馬をして怪我をしたという、そのふたつのことがあって以降、孔明はなぜだか偉度と目を合わせることを避けるようになった。
『わたしには関係ないところで、なにかあったのだ。そして、それを知られたくない』
そこまでは判断がついたが、さて、具体的になにがあったのかと推測するのはむつかしい。
孔明は、目を合わせないようにすることで、偉度と活発に会話するきっかけを作らないようにしている。
つまりは問答無用ということであろう。

が。
気になる。

しかし、孔明があからさまに避けるような素振りを見せるのは、初めてのことであったから、偉度も慎重になっていた。
「わかり申した、ではさっそく行ってまいります。
もしなにかございましたら、そばに控えております兄弟に言付けをしてくださいますように。すぐに駆けつけますゆえ」
「うむ、気をつけていくのだぞ」
そう言って、ようやく孔明は顔をあげて、偉度と目を合わせると、ひどくすまなさそうに笑った。
そうした笑顔も、ここ数日のあいだによく見られるようになったもので、孔明が、こちらに隠し事をしていることを、引け目に思っていることを証明していた。
この笑顔を見てしまうと、偉度もつよく原因を探る気になれないのだ。

左将軍府を出る際に、孔明のそばに残る兄弟たちに、自分の行き先を教えて、なにかあったら、すぐに連絡するようにと伝えた。
「ところで、昨夜の軍師の随行の当番は、だれであったか」
偉度がたずねると、自分だ、と言って、青年のひとりが挙手をする。
「軍師はまっすぐとご自宅へ戻られたか」
「いいえ、昨夜も趙将軍のお見舞いに行かれました。そのあとはもうよいと言われましたので、深夜番と交代したのですが、お泊まりにはならず、夜更けにご自宅へ帰られたそうでございます」
「ふん、それでは屋敷で待っていた者も寝不足であろうな。趙将軍のお加減はそれほど悪いのか」
「怪我のせいかどうかはわかりませぬが、微熱がつづいているとか」
「だれから聞いた」
「趙将軍のお屋敷の家令のじいさまが、そう申しておりました」

ああ、あのじいさんか、と偉度は、趙雲の屋敷の家事のいっさいを取り仕切っている老爺の、品のよい風貌を思い出していた。
人がよさそうな好々爺であるが、偉度は騙されない。
かつては兵卒だったとは言っているが、あの老爺は、たまに気が抜けたときに、むかしとおなじ立ち居振る舞いにもどる。
歳のわりにはしなやかな足取りをしており、身のこなしにまったく隙がない。
普段は、いかにも年寄り、といったふうに、わざと腰を曲げてみたり、身を屈ませたまま歩いていたり、などしているが、そうした年寄り然とした姿のほうがいつわりなのだ。
おそらくその前身は、ただの兵卒などではないだろう。
「で、おまえたちは、趙将軍のお屋敷の中に入れたか」
偉度がたずねると、青年は気まずそうに顔をしかめて、首を横に振った。
「申し訳ございませぬ。じいさまに、またもうまく言いくるめられてしまいまして、母屋のほうではなく、別棟のほうで軍師を待っておりました」

大きさのわりに人のすくない趙雲の屋敷であるが、その要所要所には、侵入者を撃退するための細工が、さまざまにほどこされていた。
そして、それを管理しているのは、趙雲ではなく、老爺なのだ。
趙雲がそうしろと命じたのではない。
偉度が観察したところ、老爺は、どうやら趙雲に心服しており、趙雲に盲目的に仕えることに快感すらおぼえているふしがある。
趙雲がした『こちらのことには、一切、詮索してはならぬし、また、こちらのことを外に漏らしてもならない。また、不用意に近づいて来る者は、うまくあしらって追い出せ』という指示を、的確、かつ完璧に守っているのであった。
こうした献身的、ともいえる仕え方にしても、どうも自分と同じ立場の人間であったにおいがしているのだが。

それはともかくとして、そんなわけで、偉度たちですら、趙雲の屋敷の内部には入れたことがない。
駄目だといわれると、かえって気になる、というわけで、偉度たちのあいだでは、趙雲の屋敷の母屋に侵入できた者は、おそらく自分たち兄弟のうちで、いちばんの腕利きと認められるだろうという、妙な認識が出来つつあった。
そして、その目的を果たせた者は、いまだかつていない。
「軍師はおまえたちに、なにか指示を出すか」
「いいえ、いつものご指示以外はなにも」
そうか、と返事をしつつ、偉度は、孔明が、ここでも公平に、みなに隠し事をしているのだとわかり、すこし安堵した。
ここへきて、自分ばかりが仲間外れにされていては、たまらない。

「どうなさいましたか、兄上、なにか気になることでも」
たずねられて、偉度は、なんでもない、というふうに手を振ってみせた。
「なに、たいしたことではないのだ。おまえたちが気づかなかったというのなら、それでよい。
おまえたちも命じられたとおりに動け。いままでどおりにな」
それが、いまは一番よいことなのだろうと、偉度は思う。
もし、孔明がなんらかの苦境に立たされていたら、それは表情にあらわれるはずだ。
それを見逃さない自信が、偉度にはあった。
苦境とはちがうことで、隠したいことがある。
『もしあの方以外のことで、ふつうならば、女のことであろうと見当がつくのだが』
では、なにか、と深く考え出したおのれを叱り、偉度は孔明のことを頭から追い払って、陳到の屋敷に向かった。

陳到は、趙雲の副将である。
袁紹と曹操が官渡にて対峙したおり、隙をねらって、劉備は袁紹の庇護下から、南は荊州へ逃げ出した。
その逃避行のおりに仲間にした、元は袁紹に仕えていた男である。
ひどく印象のうすい、ごくごくありふれた風貌をしていて、よほど気をつけないと忘れてしまいがちな男なのであるが、ところがこうした平凡な男のなかに、蜀軍随一といっていい武芸の才能が眠っている。
とはいえ、これも天のいたずらか、溢れんばかりの才能に恵まれた男であるが、本人は出世にも蓄財にもとんと興味がなく、ただ愛妻と愛娘たちと、のんびり過ごせればよいと考えている。
位が高くなったら、仕事に追われて家に帰る時間がおそくなってしまうから、出世はしたくない、財産があったら、その管理がめんどうで家族といる時間が減るから、食べていけるだけあればいい。
そういう考えの持ち主なのである。
こうしたおかしな癖のある男だが、ここまで極端ではないものの、野望には縁のない趙雲とはウマが会い、互いに協力しあってうまく軍を切り盛りしている。

陳到は愛妻とのあいだに四人のこどもに恵まれていた。
あいにくと男の子は授からず、女の子ばかり四人である。
その姉妹のうち、長女の銀輪は、入蜀したばかりのころ、偉度に命を助けられたことをきっかけに、とくに偉度になついていた。
銀輪は、歳の離れた三女と四女の子守りもしているので、当然のことながら、そちらにも偉度はなつかれている。
なついていないのは次女の頂華で、これは偉度のもっとも苦手とする係累の娘で、顔を合わせるたびに嫌味の応酬になってしまう。

陳家に到着してみると、陳到をのぞいては、唯一の男手である家令が、その妻子とともに、せっせと道につもった雪をけんめいによけていた。
陳家は、無駄に庭がひろい。
これは陳到が、子供たちがたくさん遊べるようにと考えてそうしたのであるが、雪の日には仇である。
ちらりと裏にまわって見ると、三女と四女が犬ころのように雪の上を転がって遊んでいるのが見えた。
屋根のうえの雪は半端におろされているのだが、雪が積もったままになっている部分のあたりで、陳到は屋根から落ちたものらしい。
趙雲といい、この陳到といい、もしかして雪に弱いのじゃなかろうな、などと偉度は考える。
ふたりとも北方の、しかも内陸の出身なので、雪には慣れっこになっているはずなのだが。
付き合いがいいというか、なんというか。
いま、趙雲の軍は、主将と副将のふたりがいないので、てんてこまいだろうな、と偉度は想像し、あまりよく知らない趙雲の部隊の部将たちに同情した。

偉度が顔を出すと、頂華をのぞく娘たちは、すぐに顔をぱあっと輝かせて偉度のところへやってきた。
事前に連絡はいっていたらしく、庭の隅っこに、真新しい、木杴(農作業用のスコップ)が立てかけてあった。
「ほんとうに来てくれた、ありがとう、偉度さん」
と、偉度が手にしたのと同じ道具を持って、雪まみれの銀輪が駆け寄ってきた。

銀輪は働き者の娘で、長女だという自負がつよいせいか、いつも洒落っ気のない格好をして、家の中を忙しそうに動き回っている。
今日もそうで、温かそうな布をほっかむり、首にも幾重にも布を巻き、手袋と、男物の服を着て、その裾から寒風が入り込まぬようにと足首のあたりでぐるぐると紐でもって縛っている。
発育がよいため、妙齢の娘に見られることも多いが、実際はまだ十三になったばかりだ。

白い息をはずませて銀輪が寄ってくると、それを合図に、雪玉をぶつけあって遊んでいた妹たちも同じく歓声をあげて近づいてきた。
この二人の妹たちは、いちばんうえの姉である銀輪のことが大好きで、なにかと真似をしたがるのである。
その声が聞こえたか、家令の一家が顔をだし、つづけて、偉度としてはありがたくないことに、腰を痛めて寝込んでいるはずの陳到までが顔を出して、偉度を見るなり、長年の仇敵を見るような、なんとも嫌悪感あふれる顔つきをしてみせた。
陳到は、年々、自分より偉度のほうが娘たちに人気になっていくので、それが気に入らないのである。

「左将軍府の悪鬼」
戦場で敵将を見つけたときのように呻く陳到に、銀輪が眉をひそめて注意した。
「父上、偉度さんがせっかくお手伝いに来てくれたのに、どうしてそんなふうに呼ぶの?」
陳到が偉度を嫌っているのとは微妙にちがうが、偉度は偉度で、陳到が嫌がる顔を見るのが好きである。
陳到のほうには見向きもせず、用意された雪かき道具を手に、わざとらしく、晴れ間の下、白銀にかがやく雪を乗せた屋根を見上げて言った。
「おやおや、屋根の雪がずいぶんと半端に残っておるな。屋敷がつぶされては大変だ。家の一大事だというのに、いったい、ここの主はなにをしていたのだろう。まーったく役目を果たせていないではないか。
さて、わたしは最初にあそこをやってしまおうか。銀輪、梯子を持ってきてくれ」
「おまえに手伝ってもらう必要はない! カエレ!」
叫ぶ陳到であるが、だれも言うことを聞かず、偉度のための梯子と、その足場を作ることに忙しい。
陳到は腰をさすりつつも、梯子を持ってきた銀輪に言った。
「銀輪、棹を持ってきなさい、長いやつ! そこの小猿が屋根にのぼったら、下から突いて落としてやる」
すると銀輪は頬をふくらませて、父親に抗議した。
「父上は、どうしていつも偉度さんにいじわるばかり言うの。そんな父上、きらい」
「きらい!」
衝撃を受けて絶句する陳到に、銀輪は容赦なくつづける。
「それほど偉度さんを屋根から落としたければ、父上が自分で棹を持ってくればいいじゃない。わたしはいや」
すると、下の妹たちふたりも、口真似をして、いや、いや、と口々に言う。

孤立無援になった陳到は、偉度の出現で蛸のように顔を赤くしていたのだが、娘たちの反乱に、顔を蒼くさせ、つづいては駄々っ子のように泣きそうな顔になった。
「もういい! もう父は、おまえたちのために雪かきなんぞ金輪際せぬからな! 
雪かきをしたければ、小猿を呼んで手伝ってもらえ!」
「いいけど」
「え」
「父上がそんな意地悪をするのなら、わたしたちも、父上が雪の重みで屋根がつぶれて、その下敷きになっても、助けてあげない」
「ええ! わたしはこの屋敷の主だぞ!」
「でも意地悪はだめだよね」
銀輪が、となりにいる妹たちにいうと、妹たちも容赦なく応じた。
「うん、だめ。父上きらい」
「父上がぺしゃんこになっても知らない」

さすがに娘のうち、三人にまで否定されては、陳到もたまらなかったらしく、やがて涙目になって、腰を痛めている中年とは思えないほど素早く踵をかえして、
「もうよいわ! わたしはしばらく部屋に閉じこもる! 閉じこもるからな!」
と捨て台詞をはいて、奥に引っ込んでしまった。
だれもあとを追わない。
いつものことだからだ。

屋根に上った偉度は、地上でのそんな騒ぎを見下ろして、あいかわらず五月蠅い家だな、と苦笑した。
それでも、命令がなくてもちょくちょく遊びにきてしまう唯一の家が、この陳家なのである。
陳到は、なんだかんだと偉度を追い返そうとするものの、力づくでそうしようとしたことは、一度もない。
実際に腕力で向かってこられたなら、陳到との腕の差には、だいぶ開きがあると偉度もわかっているので、逃げるしかないのだが、陳到もそれをわかっていて、絶対にそうはしてこない。
偉度も陳到も、じつはお互いに、その実力を認め合っているわけだが、それを表に出すのは沽券にかかわるということで、顔を合わせるたびに喧嘩をしているのだ。

さて、喧嘩といえば、この屋敷には、もうひとつの火種がある。
偉度が屋根の雪を下ろしていると、母屋の部屋から、雪の日に似合わぬ流行最優先の瀟洒な姿をした娘が飛び出してきた。
こちらもいつものことなのであるが、四人の娘のなかで、もっとも母親ゆずりの美貌の持ち主と、弱冠十二ながらもてはやされている、次女の頂華である。
美しいという評判は、たしかにまちがいないのだが、しかし中身が劣悪である。
ともかく働くのがきらいで、病気を理由に、いつも部屋に閉じこもり、専属の侍女(病弱な娘のためにと陳到が特別に雇ったのである)の蓮華とともに、近所のめぼしい男へ恋文を書いたり、日なが一日、効果のあやしい美容法をためしていたりと、銀輪とは対照的な毎日を送っている。
ともかく頭のなかにあるのは玉の輿に乗ることばかりで、自分がありとあらゆる娘のなかで、いちばん綺麗で、いちばん特別あつかいされるべき、と思い込んでいる。
目当ての男の前では小動物のようにしおらしくなるのだが、身内だけを前にすると……
「ちょっと! 言ったでしょう、どうしてあたしの部屋の屋根から先に落としてくれないのよ! 
あたしの部屋が雪で潰れたらどうしてくれるのよ!」
と、頂華が叫ぶ相手は銀輪である。

この頂華、どういうわけかひとつ年上の銀輪を目の仇にしており、なにかと八つ当たりをするのだ。
ときおり、それが目に余ることがあるが、今日もそうらしい。
銀輪がせっせと雪かきをしながら、下の妹たちの面倒を見ているのに対し、頂華はどう見てもなにもしてない。

「おい、そこの自称・病弱娘、ぎゃあぎゃあ騒ぐまえに、すこしは姉上を手伝おうとか考えたらどうだ」
偉度が屋根から呼びかけると、頂華はこの雪のなか、寒くないのか、というくらいの、見栄えはよいけれど寒そうな格好で、振り返った。
こいつの『病弱』の原因は、ここにあるのじゃないのか。
「五月蠅いわね、人の家に遊びに来ているくせして、あたしに指図しないでちょうだい! 
雪かきなんてしたら、霜焼けになってしまうじゃないの! あたしの白魚の指先が、真っ赤に腫れてしまったらどうするの!」
「赤唐辛子の指先と呼ばれるようになるだけだ」
「それが嫌だから、雪かきなんてしないのよ! 莫迦じゃないかしら、最低!」
きんきんと頂華は叫ぶ。
年下の、しかも世間知らずの娘に、いちいち腹を立てるのは、あまりに大人気ないと偉度もわかっているのだが、この頂華は、どうも駄目だ。
偉度にとってはいい記憶のひとつもない、実母をどうしても思い出してしまうからである。
「嗚呼、うるさい女だな。そのきんきん声で雪を解かせるのではないか」
「解かせるわけないでしょう! 姉さま、棹を持ってきて、あの人を屋根から突き落としてやるの!」
「おまえ、病弱じゃないだろう」

呆れて言っているあいだにも、見ていると、銀輪は頂華に、あやまりなさい、と叱っているのだが、頂華は知らん顔をしており、一方で、侍女の蓮華がけなげな(?)働きをみせて、どこからか棹を持ってきた。
そういう力は出せるのだな、と偉度は呆れつつ、頂華に言った。
「おい、要するに、おまえの部屋の上の雪が落ちればよいのだな」
「そうよ! 棹が怖いのね、臆病者!」
「ひと言多いやつだな」

働かざるもの、食うべからず。
そして、雪かきせぬもの、雪を食らうべし。

偉度はちょうど、頂華の真上にあった雪の塊を、屋根にすべらせて、そのまま落下させた。
どさり、と鈍い音がして、青白い塊は、頂華のうえに直撃した。
天罰覿面。
雪にまみれた頂華は、しばし呆然としていたが、やがて、自分が雪を落とされたのだと気づくと、声をあげて、大声で泣きだした。
それを聞いて、蓮華が飛んできて、けんめいに慰めようとするし、銀輪はだから早く謝りなさいって言ったのに、と叱るし、下の妹たちは、「てんばつ! てんばつ!」と、なかなか残酷なことを言って囃し立てるしで、大騒ぎである。

偉度はといえば、頂華がもうそれきりなにも言わなくなったので、そ知らぬ顔をして、せっせと屋根から雪を下ろす作業に専念した。

2へつづく
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