七夕フェスタ リクエスト企画 第十七弾 WINEさまからのリクエスト
姜維の来訪
後編
「ほ、本日はお日柄もよく」
ぽかんとしたまま、うわの空で言う休昭を、文偉はあわてて目で制した。外はあいにくの天気で、遠方より雷鳴が聞こえてきつつあったからだ。
こほん、と咳払いをして、休昭は言いなおす。
「あいにくの天候となりましたが、ようこそ拙宅へ。遠慮なく食されよ」
と、卓には、休昭が用意できうるかぎりの食材が、ずらりと並べられている。客が来ない限り、滅多に食べないものばかりである。
「お心遣い、ありがとうございます」
答える姜維の言葉には、一切の淀みがなく、蒋琬が言ったとおり、通辞は必要がない。
文偉も休昭も、にこやかにしようと笑みを浮かべるものの、この青年、どうやら暗雲を一緒に家に連れてきたらしく、空気が重い。
そして偉度が言ったとおり、たしかに『むかしの軍師』によく似ていた。
ただし、不機嫌なときの。
長い睫毛を伏せがちにして、遠慮しているのか、ゆっくりと箸を動かすが、槍の名手というその指先が、文人のそれのように細く白く、繊細なのが意外であった。
繊細といえば、面貌もそうで、孔明相手に、うろたえ、降参を急ぐ仲間たちを励まして、抗戦をつづけたという話を忘れるほどに、豪胆さを表面からは読み取ることができない。
孔明はいつも『向かうところ敵なし』といった風を吹かせて、嵐のように周囲を圧倒させていたが、この青年には、そこまでの威圧感はない。
若いから、というのもあるだろうが、やはり、面差しの所為だろう。
偉度も文偉も、それぞれに人生経験を経て、おのれの容姿に、ある程度の自信を持っていた。
だが、姜維の美貌というのは、顔が整っているという程度のものではない。質がちがう、とでもいおうか。
長い睫毛、高い鼻梁、引き締まった唇と、秀でた額から顎にかけて、見事に整った線を描き、それが首に落ちていく。まるで最高の陶工がつくった人形のようになめらかな線を持っている。黒目がちの、憂いを含んだ瞳は、ぞっとするほど澄んでおり、かえって考えが読めない。
これが武人だというのだ。趙雲と対峙して、一歩も引けを取らないほどの腕の持ち主だというのだ。
姜維にまつわる噂のなかには、蜀に降ってきたのは、魏にいるよりは、出世が早いと計算したためだろうという中傷もすくなからずあったが、本人を目にすれば、無責任な噂に呆れたことだろう。
この青年、生臭い空気がまるでなく、損得づくで動くとはとうてい思えない。
とはいえ、これをよき後輩、友として扱えるかと問われたなら、文偉も休昭も、
「保留します」
と答えただろう。
なんとも判断がつけられない。
二人とも、先行した情報が多すぎて、どこが本当で、本人とどう結び付けてよいのか、混乱したのである。
姜維がこちらをどう見たかも、二人には判断しかねた。
丞相の美貌に、趙将軍の無愛想を足したような青年。
それが姜維だな、と、とりあえず文偉は頭の中で整理してみせた。
趙雲が、出会ったばかりの頃は、「怖いひと」という印象ばかりが先立って、なかなか近づくことすら難しかったのと同じように、いまの姜維も、どこか近づき難い。
やはりこれは、優れた武人特有の、呼吸というものであろうか。
互いに馴染むのに、時間をかけねばならないかな。
どんな相手ともすぐに仲良くなれる自信がある文偉であるが、そう判断せざるを得なかった。
ゆっくり丁寧に箸を動かし、愛想よく、しかし声は上ずった状態で話しかける休昭に、姜維はひとつひとつ、的確に答えを返していく。
「成都には慣れましたか。太陽が滅多に出ないので、驚かれたでしょう」
「ええ。わたしの故郷は乾いた土地でした。うんざりするほど、毎日太陽を見上げておりましたので、これはこれで、新鮮に思えます。
こちらは、羌族だけではなく、ほかのいろんな民族がいるのですね。天水は田舎でしたから、この町ほど、交易商人は集まってきませんでした」
「交易商人の数ならば、魏にも呉にも負けませぬぞ。いいえ、おそらく一番でしょう。これも丞相の、異民族への宥和策が功を奏した結果」
「南蛮が叛乱を起こした際は、丞相自らが征伐に行かれたとか」
「わたしは成都を守る役目を授かりましたが、文偉は同行したのですよ。そうだろう、文偉」
話を向けられ、文偉は顔を上げた。
「風光明媚な美しい土地であったよ。われら漢族というのは、常日頃から、蛮地などと呼んで蔑んでいるから、ついつい不毛の地を想像しがちだが、行ってみておどろいた。
たしかに整備された道も少なく、町並みも成都とは比べ物にならぬが、自然の美しさや風物の豊富さには、正直、認識をあらためさせられたな。さすがに南蛮へはむずかしかろううが、成都の近隣にも、中原や北にはない美しい土地がたくさんある。是非、足を向けられよ」
「そうですね、わたしの第二の故郷となるわけですから」
と、姜維は愛想のないまま、淡々と答えた。
ソツがなさ過ぎる。頭の回転が速いのは判ったが、本音がわからない。
会話のお手本集でも開いているような、面白みのない会話だな、と思いつつ、文偉は、ここですこし、意地悪な質問をしてみることにした。
「ときに、ご母堂はいまだ天水におられるとか。こちらに迎えることを、考えてはいらっしゃらないのですか?」
姜維は、蜀に降るさい、たった一人の母親と生き別れになっている。天水でも評判の孝行息子だったという姜維が、母親のことを気にしていないわけがなかった。
「母をこちらに迎えるつもりはありません。あちらも、母を人質に取るという気はないでしょう。おそらく、わたしという人間に、あちらは重きを置いていないので、世人のそしりを受ける真似をわざわざしようとは思わない」
「ほう」
おのれを過大評価せず、率直に言う態度に、文偉は、ここで、すこし好感を持った。
が、姜維のほうは、意地悪が利きすぎたのか、強ばった顔が、さらに強ばってきている。
「母を保護したいのであれば、わたしがあちらにとって、脅威を与える人間になるまでに、天水を、蜀の地に併合してしまえばよいだけのこと。それだけです」
そう言って、姜維は、ぐいっと杯をあおった。
※
「莫迦文偉。あんな意地悪を言う奴があるか。かわいそうに」
「仕方なかろう、たしかに頭の回転早いが、ソツがなさ過ぎて、気が置けぬ。本音を聞きだそうと思ったのだ」
しかし、文偉が母親のことを口にした途端、姜維の酒量がぐっと増えたのも事実であった。
休昭は、文偉が重たくした空気をなんとか和らげようと、懸命に姜維に話しかけたが、姜維は、やはり、ありきたりの言葉を返すばかりで、話は弾まず、時間だけが流れていいった。
そして、更衣のために姜維は席を立ち、休昭と文偉は、ちいさな反省会をしているのであった。
「おまえ、江東に行ってから、すこし性格がひねくれたのじゃないか? むかしは、そんないやらしい小細工を平気でする男じゃなかっただろう」
「すまないな。はっきり言っておくが休昭、わたしとて、能天気な博愛主義者というわけではない。どうでもよい者になら、如何様でも太鼓もちの真似をして見せようさ。
だが、相手は丞相の後を継ぐかも知れぬ者なのであろう。つまり、いずれは我らと共に蜀を担っていくことになる、ということだ。だのに、本音を隠し、愛想ばかりよく、真意がつかめぬ相手を仲間として迎え入れることはできぬ」
「それはそうだけれども」
休昭は、姜維とおなじく孝行息子なので、そのあたり共感するところがあるらしい。文偉が、母親のことを口にして、姜維を試したのが気に入らないのだ。
文偉は、すこしばかり反省しながらも、口をとがらせて、休昭に尋ねた。
「ではおまえ、姜伯約をどう見た?」
「よい青年に見えたが」
「だが、なにを考えているかは、おまえにも読めなかった。ちがうか。たしかに類い稀な美貌で、観相家に見せれば、大喜びで、あれやこれやと美辞麗句を並べ立てるであろうよ。だが、わたしが恐れているのは、あれが第二の馬謖にならないか、ということだ」
「使命感は立派であるが、割り引いて考えてやれ。二対一だからな。緊張したのであろうよ。そのあたりを汲んでやらねば、かわいそうだ」
「かわいそうは、人物を見極めてからだ。おまえとてわかっているだろう。もしもその器でもないのに、重責を負わされてしまったら、そのほうがよほど可哀相だ」
「そうはいっても、家族のことを持ち出すのはどうだろうな」
文偉は面白くなさそうに、休昭をちらりと見る。
「なんだ、休昭、ずいぶんと、姜伯約の肩を持つのだな」
むっとした文偉を見て、休昭は、声を立てて笑った。
「むくれるな。おまえが嫌いになったのじゃない」
「ふん」
「父上のことを思い出すな。父上も、丞相と初めてお会いになったときは、しばし対応に戸惑ったそうだ。いまのわたしのようだったのかなと思うと、おかしくてな」
「幼宰さまも、はじめは軍師に反発されていたと?」
「いまならば笑い話だろうが、丞相があまりにソツがなく、面貌もそうだが、挙搓もなにもかもが綺麗すぎて、圧倒されてしまって、ややもすると、自分の考えが飛んでしまう感覚が、しばらく抜けなかったそうだ。
だから、あえて心を頑なにして、丞相のことばのひとつひとつを反証し、吟味して、従うようにしていたそうだよ」
「いまのわたしと一緒だ」
「父上は、おまえのように、真正面から家族のことを切り出して、様子見をされるような真似はなさらなかったぞ」
「これも付き合いの一種だ。しかし、幼宰さまと丞相の話は参考になるな。わたしなぞは、丞相のような容姿に恵まれていたら、さぞ幸福であろうと思っていたが、やはり過ぎたるは及ばざるが如しということか」
「丞相は自覚して、己の容姿を徹底して武器にしておられるが、そのあたり、姜伯約は、己の容姿が、世間にどんな印象を与えるか、その自覚がないのではないか」
「そういうことなのかな…しかし、休昭よ、更衣にしては、遅すぎやしないか」
「言われてしまえばそうだな。具合でも悪くしているのであろうか」
休昭は、家人に命じて、姜維の様子を探らせに行った。
だが、ほどなく、家人は帰ってきて、姜将軍は更衣を済ませている様子です、と言う。
姜維を厠まで案内した家人は、たしかに案内したけれど、途中で、あとはわかったから独りにしてほしいと言われ、てっきりもう戻っていたのかと思った、と答えた。
もしや、帰ってしまったのかと、あわてて厩を見れば、ちゃんと乗ってきた馬はそのまま繋いである。
もともと、迷うほど広い屋敷ではない。しかも、雷鳴はどんどん近づき、重苦しく垂れ込める雨雲からは、大粒の雨がざあざあと落ちてきた。
この雷雨のなか、馬を置いて出て行くわけもあるまいし、さて、どうしたものかと考えていると、家人のひとりが、いらっしゃいました、と言う。
言われた言葉がひっかかり、腹を立てて、頭を冷しているのだろうかと文偉は危ぶんだ。
だれであろうと、人を怒らせるのは好きではない。
たしかに、休昭の言うとおり、すこし言葉でいじめすぎたか。
しかし、これしきでへこたれてしまうならば、遠慮なく悪意の塊をぶつけてくる者も、ほかには沢山いるわけだし、やはり、姜伯約という青年、器が小さいのではないだろうか。
さまざまに考えていると、休昭が、立て、と言う。
「なぜに」
「なぜにもなにもないだろう。おまえが怒らせたのだ。おまえが迎えに行け」
「わたしが行くよりは、おまえが行ったほうが、安心すると思うが」
「いいや、おまえが行くのだ。ここはわたしの屋敷で、屋敷の主人はこのわたしだぞ」
「そしてこのわたしは、おまえの客だが」
「いつも入り浸っているようなやつは客ではない。さあ、行って、酒の続きでも呑みましょうと誘って来い。やさしくな」
文偉は気が進まなかったが、休昭は、劉禅の相談役を勤めるようになってから、人を使うのがうまくなった。こうなると、文偉としても、休昭の言うとおりにせざるを得ない。
やれやれと席を立ち、姜維を迎えに行った。
※
ぼたぼたと、無粋な音をたてて落ちる雨音を耳にしながら、姜維は必死で考えていた。
なにかわたしは不興を買うようなことをしただろうか。
姜維は、屋敷に入ってから、更衣のために席を立つまでのあいだのことをあれやこれやと思い返していたが、やはり思いつくことはない。
天水の無作法者と言われないように、衣裳は新調してきたし、ここに来る前に、あらためて礼記をさらに噛み砕いた作法の書を読んで、おさらいをしてきた。
特に、不味いことはしなかったはずである。
なのに、なぜお二人の顔は強ばっておられたのか。会話もまともに弾まなかった。そこで酒に逃げてしまったのだが、もともと、酒はあまりたしなまない。飲みすぎたようで、気持ちが悪くなってきた。
そして、中庭に面した廊下の片隅で、ざあざあと降りしきる雨と、屋根から滝のように落ちていく雫をぼんやり眺めつつ、酔いを覚ましているのである。
最初からして、雨、というところで躓いたのだ。
せっかく用意してきた虎の巻が、雨に濡れて、判読不能になってしまった。
姜維は、錦の袋を開くと、ため息をついて、雨の雫で字がにじんだ紙をひろげて見る。
跳ねる龍のような力強い文字が、本来ならばそこに並んでいるはずなのであるが、いまは文字も雨で崩れ、黒い染みと化している。
そこには、費文偉と董休昭の特長や、家族のこと、好きなもの、嫌いなものが丁寧に書き込まれていなければならなかった。
せっかくの虎の巻が読めなくなっていたことが、姜維の緊張を高めてしまった。
姜維は、孔明から聞いた話をもとに、虎の巻を作って、すぐに暗記するほどにそれを読み込んだ。頭の中には、情報がしっかり入っている。
だから、本来ならば慌てることなどないはずなのだが、姜維にとっては、この虎の巻は、お守りのようなものであった。
まず董家に着いたなら、もういちど虎の巻を読み返そうと考えていた。
ところが開いて見たとたん、雨でにじんで何も見えない。
もし、敵陣にひとり入り込み、将兵をなぎ倒す、ということであれば、姜維は怖じることなく、ふてぶてしいまでの豪胆さをみせて、めざましい働きをしたことだろう。
だが、姜維は、文人相手の堅苦しい席に慣れていなかった。
こんなときに、むかしのツケが戻ってくるのだな、と姜維はため息をつき、考えた。
席に戻ったなら、世間話ではなく、もうすこし互いの家族について話をしてみようか。
費参軍は、母のことをおっしゃったが、やはり触れられると辛い。となると、相手の家族のことになるわけだな。
虎の巻にはなんとあったかな。董侍中は、父上が健在だが、めずらしくも別の屋敷に住んでらっしゃるのだっけ。たしか、理由が、郊外でゆっくり自然をながめて暮らしたい、と父上がおっしゃったから、だったかな。
費参軍は、身内はすでになく、奥方とお子のみ。
うん? そうであったかな。母上がご健在なのであったっけ?
いかん、緊張したときに、覚えた知識の一部がはじけてしまったようだ。
小細工無用とおっしゃっていた、趙将軍の言いつけを守らなかった罰かな、と姜維はちらりと考えた。
が、迷信や占いを嫌う実際家の姜維は、すぐさま気弱になっている己を叱った。
丞相に見込まれた将が、気弱にしているのを見て、お二人はがっかりなさったにちがいない。もっと武人らしく、そう、趙将軍のように威厳をもたねば。
と、ぐっと顔に力を入れる。よし。これでよかろう。
「姜維どの、そこでなにをしておられる」
その声に、威厳、と顔にぐっと力を入れて、姜維が首をめぐらせると、ほかでもない文偉が、おもわず呻いて、後ずさるのがわかった。
う、こいつ、いま睨んだな、と文偉はうろたえた。
同じ美貌でも、やわらかな美貌というものもあるが、姜維のように硬質な美貌というのもある。
姜維自身に自覚がないが、姜維の表情が強ばっているのもあるが、その内面の性質に拠る鋭さが宿っているために、ちょっとした仕草が、恐ろしげに見えてしまうのである。
だから姜維はまったく睨んだつもりはないが、文偉には睨まれたように見えた。
姜維は、文偉が顔を強ばらせたのをみて、
『だいぶ嫌われてしまったようだ。丞相のご期待に、もう添えなくなったとは』
と、落ち込み、文偉は文偉で、
『いきなり睨みつけるとはたいした奴だな。そんなに母上のことを言われるのが嫌だったのか。うむ、休昭の機嫌も斜めなことだし、謝るか。しかし、どんな言葉が良いかな。あの顔は、かなり怒っているぞ』
と、考えた。
互いにすれ違った思いのまま、奇妙な沈黙が流れる。
『いや、このままではよろしくない。休昭も心配して待っているであろうし、ここは年長者である、こちらが胸襟をひらくべきであろう』
文偉はそう決めると、一歩だけ姜維に近づいた。とたん、姜維は、
「そのまま!」
と言った。
文偉は、ぎくりとして足を止める。
『近づくな、ということか? これはいかん。近づけば、斬ってしまいかねないくらいに怒っているということか』
姜維は、というと、だれもいないと思っていた屋敷を闊歩していたら、いきなり家人が出てきておどろいているネズミのような顔をした文偉を見て、はっとする。
『いかん、言葉が足りなかったようだ。こちらが行きます、という意味であったのに。費参軍は、お顔を強ばらせているではないか。なんという無作法ものだと呆れたにちがいない』
たがいに、身を固くしたまま、ふたたび緊張が流れる。
空を、ごろごろと、大きな雷が駆け抜けて行った。
薄暗い廊下で、一定の距離を保ち、たがいに目を逸らすこともできずに動けない二人。
これで若い男女というのならば、将来に甘い期待がもてようが、若いとはいえ、男同士で、しかもそれぞれ悲しいくらいに考えがすれ違っている二人には、塩辛い予感しか芽生えてこない。
『すまなかった、気が済んだら戻ってきてくれと、何食わぬ顔をして言うのがよかろうな。しかし、なんたる殺気。武芸には疎いわたしでも、これは危険とわかるほどだ。動いたら、いきなりばっさりやられるのではなかろうな』
と、文偉は考え、一方の姜維は、
『どうして費参軍は、なにもおっしゃらないのだろう。嫌味でも良いから、なにかおっしゃってくれれば、こちらとしても気が楽なのに。おっと、顔がゆるんでしまう。威厳。威厳』
と、また、ぐっと顔をしかめた。
そんな姜維を見て、文偉は、ぞくりと背筋を震わせる。
『なんと恐ろしい形相ぞ。というか、何千人も斬っています、まだ足りません、としか読み取れぬ顔だ。ぬう、ここで新たな犠牲者となるのは嫌だ。背中を見せたらいかん。徐々にこの姿勢のまま、後退しよう』
文偉は、姜維を見たまま、全身に冷や汗をかきつつ、抜き足差し足で、ゆっくりと後退していく。
その奇妙な動きに、姜維はうろたえた。
『費参軍はなにをされるおつもりなのか? あれは、客人の前から去ろうとするときの、蜀独特の作法なのか?』
こういう場合は、相手の動きにあわせるべきだろう。
姜維は、徐々に下がっていく文偉にあわせて、自分もゆっくり足を進めた。
『付いてくる!』
と、悲鳴にも似た声を、脳内で発しつつ、文偉はあわてた。
『なにゆえ己の家より慣れ親しんだ友の家で、遭難しなければならぬのだ! 来るな、姜伯約! わたしを斬っても、なんの得にもならぬぞ。あえていえば、呉にいる、丞相の生意気な甥っ子が喜ぶくらいだ』
文偉の頭に、使者に出向けば、我先にと飛び出してきて、人のことをからかい半分に窮地に落としいれ、あがくさまを見て喜ぶ、ともかく趣味の悪い諸葛瞻の顔がよぎった。
『冗談ではない。あいつを片時でも喜ばせてなるものか』
文偉はぴたりと足を止めると、動きにあわせて、足を止めた姜維をしっかり見据えて、言った。
「わたしの言葉が、過ぎていたことは謝罪しよう。だが、短慮に走り、おのれの未来を無駄にするな、姜将軍」
文偉の突然の言葉に、姜維は首をひねった。
「なにをおっしゃっているのですか。未来を無駄にするつもりはありませぬ」
「む、そう思うのであれば、尚更だ。ふたたび魏へ戻ったところで、我が首は手土産にもならぬ粗末なしろもの。たいした功績にもならぬゆえ、冷遇されるのは目に見えておるぞ」
「魏には戻りませぬ。蜀こそが第二の我が故郷と決めております。それに、なぜ参軍の首を手土産にせねばならぬのです」
と、姜維は、困惑と悲しみの混じった顔を浮かべた。そして、ようやく、文偉は、おや、と思う。
「貴殿、怒っているのではないのか」
「貴方様こそ、わたくしにお腹立ちでは」
「いいや、わたしは腹を立ててはおらぬが、心の臓のほうは止まりそうな気配だ。貴殿こそ、なにゆえさきほどから、わたしを睨みつけている」
「睨んでなどおりませぬ」
「眉をしかめて、口をヘの字にして、目に力を入れるのを、睨むというのだ」
「これは…威厳の表情です。将たるもの、常に凛々しくあらねば、と」
「威圧しすぎぞ。本当に怒っていないのか」
「怒っておりませぬ。参軍こそ、お腹立ちではないのですね?」
「ちがう。貴殿が、わたしを斬っても惜しくないと思うほどに、怒っているのではないかと心配している。それだけだ」
「ならば、その心配はご無用でございます。姜維はすこしも怒ってなどおりませぬ」
「よし、それが本意ならば、笑ってみせよ。わたしも笑う」
文偉の申し出に、姜維は戸惑いつつ、答えた。
「笑うのは苦手です」
「照れ屋なのか。気にするな」
「いいえ、そうではありませぬ。笑うと、女のようだと、よくからかわれるのです。女のような将には、兵卒たちもついては来ませぬ。ですから、なるべく笑わぬように気をつけておりました」
「なんと」
文偉は、すとんと肩を落とし、顔の力を抜いて、素顔をのぞかせつつある姜維を、まじまじと見た。
丞相も、若かりし頃は、女のような顔だとさんざん言われていたっけ(特に魏将軍に。あの方は、本当に困った方だ。丞相は、いまだにそれを根に持っておられるフシがある)。
なるほど、世人の『顔で選んだ』説は、あながち間違いではなかった、ということか。
「丞相も同じようなことを言われておったが、いつも笑い飛ばしておられた。あの方には敵が多かったが、それらをことごとく蹴飛ばして、文武の頂点たる丞相の地位におられるのは、己の弱点をも笑いにしてしまう精神の強靭さがあったからこそだ。
それに、いざとなれば、蘭陵王のように仮面をかぶって戦場に赴くという手もあるぞ」
「仮面…ですか」
「しかし視界も狭くなろうし、蒸れそうだ。あせもができるぞ。そんなのは嫌だろう。女のようだというその笑顔を見せてみるがいい。先輩として、判断をくだしてやろうほどに」
「笑えといわれて、笑うのは難しゅうございます」
「難しいこともあるまい。口端にぎゅっと力をこめて、こうだ!」
と、文偉はにいっ、と笑って見せた。
が、目が笑っていないので、顔の上と下とでちぐはぐな、詐欺師のような怪しげな笑みになってしまった。
「怖いですよ」
「む。呉ではこれで通用したのだが。よし、それでは冗談を言うので、笑うように。
『蜀犬が太陽を見てびっくりして転んだって』『それは、いたいよう』」
またまた沈黙が流れる。
「どこが面白いのでしょう」
「はっきり言う奴だな。つまり、蜀の犬というのは、太陽を見慣れていないから、たまに太陽がでると、びっくりするわけだ。びっくりして転んだ犬は、痛いだろうな、という意味だ」
「はあ」
「生返事か。うむ、待っておれ、いまとっておきの冗談を思い出す」
そうして、頭をひねっていると、文偉も遅いことを心配して迎えにやってきた。
降りしきる雨をよそに、姜維を前にして、うんうんと唸っている文偉を見て、呆れて言った。
「なにを悩んでいるのだ、文偉」
と、休昭が呆れ顔で姿をあらわしたとたん、文偉は言った。
「おお、よいところへ。休昭、おまえ、冗談を言ってみろ」
「冗談? なぜに冗談?」
「姜将軍を笑わせるのだ。それいけ!」
「それいけって…うむ、『蜀犬が太陽を見てびっくりして転んだって』『それは、いたいよう』」
文偉と休昭は、声を立てて笑った。
が、文偉は、ひとしきり笑うと、肩を落して言う。
「我らの笑いとは、こんなものか…」
「こんなもの、とはなんだ! これはとっておきの冗談だぞ」
「おまえの持ちネタだったか。すまぬ、実は先に使ってしまった。ほかのはないか」
「それこそ冗談ではない。わたしの唯一にして最高のネタだぞ。使った分は使用料を払え」
「使用料どころか、悲しい報せだ、休昭。おまえの最高のネタは、てんで受けなかった」
「そんなわけはあるまい。ほら、見ろ、姜将軍は、笑っているではないか」
文偉が見れば、姜維は、たしかに声をたてて、愉快そうに笑っていた。
その顔は、本人が気にしているほど、『女のよう』ではない。すこし照れが混じっているが、少年のように素直な笑みを浮かべている。
いや、もしかしたら、もっと以前の、二十歳前後であったなら、男くささもなく、女のような印象を与えたのかもしれないが。
文偉は納得した。
この青年は、見た目がたしかに派手だけれども、性格は内気なのだ。なるほど、趙将軍というよりは、やはり丞相に近い。偉度があまりぶうぶう言わないのも、そのあたりが原因なのかもしれぬ。
「お二人は、とても仲がよろしいのですね」
「わたしが蜀に来てから、今日まで、ほとんど毎日のように顔を合わせているからな。もはや親友と言うよりは兄弟のようなものだ。それより、ぜんぜん『女のよう』ではないぞ、姜将軍。笑っていたほうが良い。まったく印象がちがうぞ。空を覆っていた雨雲が、一気に晴れたようだ」
そう言うと、明らかに姜維は照れて、顔を赤くした。
「そうでしょうか。そのように言われたのは初めてです」
「威厳の顔、と貴殿は称していたが、あれはやはり、怒って睨んでいるようにしか見えぬ」
「趙将軍のお顔を真似してみたのですが」
「趙将軍は、あの顔があの方の本質であるから、浮いて見えぬのだ。おまえは、笑った顔のほうが、その本質に似合うのだろう。それに貴殿、もしかすると、いや、もしかしないでも、もっと、ずばりはっきり物を言う性格ではないのか。遠慮していただろう」
「直言が過ぎると、よく年長の方に叱られますので、気をつけておりました」
「口下手というわけではないが、たしかに論客には向いていなさそうだな。しかし素直な性格というのは良いと思う。休昭、やはりおまえと気が合うかもしれぬ」
話を向けると、なぜだか休昭のほうも照れて、言った。
「おまえこそ、ずばりはっきり物を言うその癖、すこし改めろ。呆れたであろう、姜将軍。しかしこいつに害意はないのだ。許してやってくれ」
そう言うと、姜維は、それはもちろん、と言って、なんとも晴れやかな笑みを見せた。
そして、三人はにこやかに歓談しながら、こんどは打ち解けて言葉を交わしあい、ふたたび、ささやかな宴へと戻って行った。
その後、姜維はさまざまな苦労をしながらも蜀になじみ、異郷の地において、その落日まで、国を懸命に支えつづけることとなる。
これは、彼がまだ孤独ではなかった時代の、語られることのない、ささやかな話である。
おしまい。
※あとがき※
陳寿が『三国志』の筆を執ったとき、姜維は人々の記憶の中に強く残る『亡国の将』であったと思います。
孔明が賛美の嵐を受けまくっているのに対し、蒋琬伝・費褘伝と続けて読むと、姜維は酷な書かれ方をされているような印象が抜けません。特に、費褘が姜維を抑えていた、という部分が引っかかる点であります。
はさみのとしては、費褘は孔明死後、ひたすら守りに入ってしまったので、そのあたり、仲違いするほどではなかったけれど、蒋琬・姜維ラインと意見の対立があった気がします。
費褘が姜維に軍を与えなかったのも、魏延と楊儀の諍いを目の当たりにした苦い経験からのことではないか、しかも頼みにしていた蒋琬、つづいて董允までも同時期に亡くしてしまい、ますます守りに入らざるを得なかった。さらに皇太子の義父として、蜀を支えねばならないという重圧もあったことでしょう。
費褘は降将にも分け隔てなく接した、ということですが、ここはあえて、同じ降将だった姜維への気遣いだったと思いたいところです。って、あや? 費褘の話になってしまった…
さてはて、ずんだとはんせいかい以外で、姜維初登場となりましたが、姜維の書き方についてはまだ迷いがございまして、この姜維は試作品的姜維(なんだそりゃーって、スミマセヌ…)と思っていただければと思います。
リクエストくださったWINEさま、ありがとうございました&ご読了多謝! です。
(C)Hasamino Nakama 2005.09.02