33333HIT御礼企画 WINEさまからのリクエスト
黒棗の実
前編
わたしたちのご先祖は、とおく巴郡の江州に住んでおられたのだ、と董和は息子の允に言った。
だから、わたしたちは、このたび主公のご命令で、成都を出て巴東に行かねばならないが、これは悪いことではない。
そもそも、なぜか我が一族は、土地を移動するということに、あまり抵抗のないのだ。ご先祖さまのお墓と一緒に、西へ東へ、幾代も経て、さまざまな血を一族の中にいれて、つづいてきた。
思うに、先祖代々、だれよりもつよい好奇心を受け継いできたせいかもしれない。
県境の豪族たちににらまれて、左遷をされるのだ、などと言うものもいるが、気にしてはならない。
楽しみではないか、ご先祖の生まれた土地、われらの故郷を見ることができるのだから。
さまざまな血、と説明されても、まだ世間をしらない允にはピンとこないのであるが、父の董和は、暗に、自分たちの根源たる血は、純然たる漢族ではないと示唆していたのである。
巴には、巴民族という夏王朝時代にまで遡る古い歴史をもつ人々が、多く住んでいる。
彼らは華陽国志によれば、勇猛な民族で、周とともに戦い、長く独自の文化を育んだ。
秦の司馬錯によってほろぼされ、以来、巴の地にも、漢族が大量に移民してくることとなる。
董一族の先祖も、そのあたりに根源をもっており、土地に馴染む際に、巴族の血と交じり合うこともあったのである。
だから、漢族にありがちな、異民族へのひどい差別意識は、董和のなかにはまったくなかった。
一人息子の允は、父親が大好きであったから、そのあたりはしっかり受け継いで、ほかの大人が蛮と蔑む彼らの、どこが蛮なのかわからないと、不思議に思うくらいであった。
巴族の独自の文化は、長いあいだ、漢族を受け入れ続けてきたために、すっかり独自性がうすれてしまってはいたけれど、彼らが信仰する白虎や蛇には、ふしぎと父子も敬虔な気持ちになった。
骨董として扱われる、ふしぎな動物の絵のついた土器や、巴独特の、槍のように投擲してつかう剣などには、驚くよりも、なつかしささえ覚えるのであった。
さて、成都の令としておおいに活躍し、財産家の過剰にすぎる奢侈を取締り、豪族たちの身分低い者たちに対するむごい扱い、不正、そのほか、さまざまな不正義を糾しに糾しつづけた董和、字は幼宰であるが、真面目に職務にうちこむあまり、敵も多くつくりすぎた。
民は、真面目で公平で、芯から優しいこの役人を、とても好いていたが、位の高い人々は、逆に、煙たいやつよと、嫌っていた。
そして、董幼宰について、なんやかやと劉璋に訴えて、とうとう巴東に属国都尉として追放することに成功したのであった。
幼宰のひとり息子である允は、十歳になっていたが、子供の耳にいろいろ聞こえてくる話が、大好きな父親にたいして同情半分、冷笑半分というものばかりであったので、太守の劉璋さまという方は、なんだって頑張った者に冷たくあたるのだろうと、子供心に恨みに思った。
その心の動きを読み取ったのか、それとも、大切な子供に、早くからいじけた心を持って欲しくないと思ったのか、董和は、自分たちのご先祖の話をして、しょげる子供を励ましたのであった。
属国都尉とは、乱暴に説明してしまえば、巴郡一帯の警察の長である。
蛮地とはいえ、巴は塩の重要な産地であった。
漢族の視点からすれば、国を治め、国力を安定させるためには、巴の管理は必須だったのである。
もちろん、その周囲に住まう蛮族たちを抑えることも、重要であった。
左遷という形になったとはいえ、董和という人物は、役目にぴったりであったといえよう。
董和は、さっそく任地に赴くと、それまでの漢族の士大夫たちとはちがい、土地の者たちを、分け隔てなく、自分たちの遠い兄弟のように接した。
そもそも、董和は鳴り物入りでの着任である。
董和が属国都尉として、巴に行かねばならなぬという話を聞いた民が、何千人と集って、劉璋に留任を願い出た、という話は、いまどき珍しい美談であったから、巴郡にも聞こえていた。
かといって、漢族の役人というものに、悪い印象しか持っていなかった土地の者たちは、やってきた董和に対し、警戒心を解かないでいた。
しかし、ほどなく、これはどうも、噂どおりの男らしいと言うことに気づいてきた。
さらに董和を追いかけてくるように、成都での活躍の噂も耳に入り、時間をかけることなく、董和は、まるでもともと土地のものであったかのように、人々に受け入れられ、慕われるようになった。
さて、父親が土地に早くに馴染めたのに対し、おとなしい允のほうは、なかなかうまく行かなかった。
もともとからだがあまり丈夫でなく、成都でも、外にでて遊ぶということをしなかった。
くわえて、内気で引っ込み思案な子供であったから、友達の作り方もうまくない。
最初は、内気とはいえ、先祖代々から伝えられている好奇心は、允のなかにもしっかり受け継がれていたから、珍しい土地の風俗に心をうばわれて、探検をするような気持ちで、外に出て行ったのである。
しかし、允の住まう屋敷の周囲には、董和が着任するより前にやってきていた、武官の息子が、ガキ大将として子供たちを仕切っていた。
このガキ大将、ともかく理不尽に威張り散らし、暴力も辞さぬうえに、誹謗中傷なんでもござれ、嫌がらせも平気でするような、ちいさな暴君であったから、不正義をきらう允と、合うはずがなかった。
ガキ大将は、新米の、細くて小さくて色白な少年に、仲間に入るための条件として、おもちゃを上納せよと命じてきた。
允は、父親より、「みんなと一緒に遊べるように」と、いくつかおもちゃを貰っていた。
とはいえ、ガキ大将は、奪ったおもちゃを自分のものにして、自分より小さな子供のいうことを聞かせるのが目的であったから、允はそれを察すると、いやだと断った。
ガキ大将は、何をこいつ、生意気な、とぽかりと允を殴ったけれど、允の父親は属国都尉、つまりはガキ大将の父親より高位であったから、計算高いところを見せて、それ以上のことはしなかった。
けれど、允は、その一回きりですっかり懲りてしまって、近所の子供たちとは遊ばなくなってしまった。
一人だけ、県令の子供に安という男の子がいた。
年頃も近いし、気性も似ているうえ、ガキ大将が嫌い、というところが、たがいの気に入り、やがて允は、この少年と遊ぶようになった。
安の父は、王恵という男であった。
巴に赴任して五年、土地の財産家の娘を娶り、安という子供に恵まれていたものの、土地に慣れることもなく、土地の者を、田舎もの、蛮族と蔑むことを隠さなかったから、土地の者とも、董和とも、あまりうまく行っていなかった。
美しい瓦ぶきの屋根をもつ、豪勢な屋敷に住んでいたが、ある日のこと、允がこの屋敷に安を訪れると、なんとも困りきった顔をした、年配の女が顔を出した。
その女は、王家に仕える家令の妻であった。
やってきたのが允であるとわかると、家令の妻は、正直者らしく、さて、子供になんと説明したものか、と弱ったふうに、そわそわとするのであった。
怪訝に思いながらも、允は、
「成都の伯母上に、あたらしいおもちゃを贈っていただきましたので、安君と一緒に遊ぼうと思ったのですけれど、おばあさん、安君は、まだ風邪で寝付いてらっしゃるのですか」
と尋ねた。
允は、ここ数日、安の顔を見ていなかった。
応対に出てくる家令の話では、風邪を引いて養生しているから、表では遊べないということであった。
もうそろそろ、よいであろうとやってきたのに、まだ寝込んでいるのなら、相当に悪いのだろう。
合点した允は、また参りますとぺこりと頭をさげて、自邸へ帰ることにした。
その様子が、なんとも殊勝なのが家令の妻の気を引いたのか、允が去り際、こんなことを言った。
「申し訳ございません、お坊ちゃま。あたくしは、もう表に遊んでもよいだろうと思うのですけれど、奥様が、まだまだ熱が下がったばっかりなのだから、表には出せないとおっしゃるのですよ。
どうも、物の怪が安坊ちゃまに取り憑いたのではないかと、奥様は気にしてらっしゃるのです。先日も、巫を呼んで、お祓いをしていただいたくらいですからね」
「巫にお祓いをしてもらったのに、よくならないの?」
「こういうものは、しばらく…なんとおっしゃっていたかしら、後に残るのですって。坊ちゃんにも、物の怪が移ったら大変ですからね、奥様がよしとおっしゃるまで、やはりご一緒に遊ばないほうがよろしいでしょう。あたしたちでさえ、安坊ちゃんに会わせていただけないくらいなのですから」
王の妻は、美貌で有名な女であったが、同時に、たいへんに迷信深いということでも有名であった。
しかし、王のほうは、妻の迷信深さを嫌っており、夫婦仲は、あまりよくないという噂である。
そんな話を、十歳になる允ですら知っているほど、あたりでは有名な話ではあった。
実際に、安が、
「ぼくの父上は、母上をぶつから、嫌いだ」
とこぼしているのを、允は耳にしている。
片親の允は、両方そろっている安をうらやましく思っていたが、揃っていても、父上が母上をぶつところなんか見たくないな、と思った。
遊んでくれる友達は、安だけであったから、手持ち無沙汰になった允は、すこしばかりお小遣いがあったので、市場へ顔を出すことにした。
田舎の市場であるから、賑やかではあるけれど、物騒なことはすくなく、いるのはみな顔見知りで、允は大人しい、行儀の良い子供であったから、市場の顔見知りの大人たちにも可愛がられていた。
成都では買えないような、めずらしい動物の毛皮を触らせてもらったり、売り物の果物をちょっとだけ分けてもらったりしながら暇を潰していると、人ごみのなかに、ふと、子供の姿があるのを見つけた。
まぎれもない、安である。
手かごに山菜をたくさんつめて、市場を歩いていた。
風邪がよくなったのだろうと、允は喜んで声をかけた。
そのわりに、財産家でもある王の、安にいつも付けているお供がいないことが気にかかったが。
「安くん、よかったね、風邪は治ったのだね」
すると、とたんに安の顔はこわばり、手にしていた籠をどさりと落としてしまうと、おどろく允をよそに、くるりと背を向け、走り出した。
走れるほどによくなったのかと、人の良い允は思ったが、しかし、なぜに逃げられてしまうのかがわからない。悪いことをしたのかしらと焦って、允は、走り去った安を追いかけた。
安の足は、存外おそく、あまり足の速くない允でも、追いかけるのにたやすかった。
安は、どこへ行こうとしているのか、ときどき衣に足を取られつつ、懸命に前に進む。允は、走りながら、懸命に、名前を呼んで、止まってもらおうとするのであるが、安の足は止まることがない。
やがて、安は、市場も集落も抜けて、山のほうに入っていく。
山には虎だの熊だの猿だのがいて、あぶないから入ってはいけないと、じいやにきつく言われていたが、安が入ってしまったのだから、仕方ない。
允はためらわず、安の入っていった細い道を、さらに追いかけた。
道は、細く狭く、集落の者たちが使っている道とはちがって、人ひとりがやっと通れるくらいであった。
ときどき躓いて倒れたが、草が褥のようにやわらかく受け止めてくれるので、怪我をすることもなかった。
それでも、手と膝を泥だらけにしつつ、允は息を切らしつつ、安を追いかけた。
道は一本道である。
一緒に、山で遊んだことはなかったから、なぜ、安が山に入っていくのかがわからない。
わからないながらも、安を捕まえないことには、答えも出ないので、父親に似て、こうと決めたら頑固な允は、追いかけ続けた。
やがて、ちいさな道は、とうとつに、ぽかんと青空につきぬけた、広場のような野原に出た。
円形の野原には、草木が生い茂り、そのうえを、ちいさな薄い羽根をもつ蝶々が、ひらひらと優美に舞っていた。
允がおどろいたことには、そこにいたのは、安ではなかった。
白い装束を纏い、頭に同じように白い巾を巻いた、男か、女か、判然としない者が立っていた。
なぜ判らなかったかといえば、その者の顔立ちは、允が知る限りの男のひとのように、髯がなかったうえ、顎がごつごつしていなかった。とはいえ、女にしては、線が固いのである。
宦官というものを、允は見たことがなかったけれど、噂に聞く、男でも女でもない、哀れな生き者は、こんなふうではないかと允は思った。
宦官も、山の精も、允の頭のなかでは、同列に不可思議な世界の者である。
それだけ、その者は、唐突に、見知らぬ世界から、允の目の前に現われたように見えた。
唖然としている允に、白装束の、何者かわからぬ誰かは、妖艶に微笑みかけた。
少年の允でさえ、背筋がぞくりとするほど、妖しげな笑みであった。
目は、化粧なのか、入墨なのか、朱で濃い縁取りがされている。唇は、棗の実のように赤く、ぱっと開いたら、獣のような牙が並んでいても、允は納得しただろう。
しかし允が現実に引き戻されたのは、その者の持っていた籠であった。
それは、市場で安が持っていたものとはちがうけれど、中には、山菜がたくさん、入っていたのである。
「こんにちは」
と、允は声をかけた。
目は、その者の微笑から離せないでいた。
人を惹きつけてやまない、不思議な魔力が、目に込められているように思える。
この者の持つ空気は、允が知る、どの大人にもないものであった。
「こんにちは。里の子が、こんなところに来るとはめずらしい」
声を聞いても、なお、男か女かはわからなかった。
声の高い男かもしれないし、見た目より老けた女の声にも聞こえる。
「なぜ、ここにやって来たのだね。いってご覧なさい、坊や」
「安くんを追いかけてきた」
素直に允は答えた。
人見知りする允にしては、この者を前にして、言葉を口にだすのに、ためらいはなかった。
允の答えを聞くと、その者は、すこしだけ眉をひそめた。
とはいえ、それもわずかなことである。
唇には笑みを浮かべたまま、木漏れ日に透けて、かすかに体の線を浮かび上がらせる白装束は、なんの派手な装飾もない、地味なものなのに、なぜだか允はどぎまぎした。
「安くんは、ここにこなかった?」
「来たかもしれない。けれど、どうして、坊やは、安という子を追いかけているの?」
「安くんは病気なのに、一人で表にでて、大丈夫なのかと思って。それに、病気が治ったのなら、よかったねって言ってあげたかったし、それに、また一緒に遊びたかったのだよ」
「そうかい。でも残念だね。ここに来た子は、安という子ではなかったよ」
「本当に? でも、わたしはちゃんと見た。安くんじゃないのなら、どうして逃げてしまったのだろう」
「知らない子にいきなり声をかけられて、びっくりしてしまったのじゃないかね。あれは、わたしと同じ、獣子だから」
「けもの、ご?」
耳慣れない言葉に、允は首をかしげた。
「ところで、坊やは、何処の子なの?」
「わたしは属国都尉の董幼宰の子、董允と申します」
允は、躾けられたどおり、丁寧に拱手して見せた。
白装束の者は、なにがおかしいのか、鈴のようにころころと、声を立てて笑った。
笑われて、傷ついた允は、顔をしかめて、尋ねる。
「貴方はだれですか。なぜ、こんなところにいるのですか」
「わたしは、この一帯に住まう巫だよ。名乗れないのは許しておくれ。長旅をすることになったので、用心のために薬草を摘んでいたところだ」
巫、と聞いて、允の脳裏をかすめたのは、やはり安のことであった。
安の母親が、安の病気の平癒のため、巫を呼んだと話をしていなかったか。
それに、允には、巫が、医者を兼ねているという話に気を引かれた。
成都も、まじないや巫女に頼る気風があったけれど、医者は医者として、ちゃんと別に存在しており、巫女の煎じる薬は、士大夫の階級では軽んじられる傾向にあった。
古い書物には、巫は山に入って薬草を採ると記述がある。
古来より、巫は医術をも心得え、生と死のふたつの世界の知識をもつ、神秘の存在であったのだ。
「薬って、その山菜がそうなの? そんなにたくさん摘んで、どこまで行くの?」
允はすこしだけ巫に近づいた。沓で踏みしだく青草のやわらかい感触が心地よい。
巫は、允に籠の中を見せて、相変わらず笑みを浮かべながら答えた。
「どこへ行ったものかね。まだ決めていないのだけれど、きっと南に行くことになるだろうね。この薬は、自分たちで飲むためだけじゃなく、途中で旅人に売って、こちらの路銀を稼ぐためのものでもあるのだよ」
籠の中には、さまざまな種類の草が入っていたが、どれがどんな効能があるのかは、允にはさっぱりわからなかった。
「あ、棗だ。これなら知っている。うちの家にも生えているもの。好物なんだ」
棗は食べると甘酸っぱい。小腹がすいた時にもいで食べられるし、干したものは、薬にもなるし、おなかを壊した時にも役に立つ。
「あげてもよいけれど、これはまだ青いから、酸っぱいよ。ほら、こっちをあげよう」
と、白装束の巫は、懐から、棗の実を干したものを允にくれた。その手は、節くれだっていたが、不思議とじいやのように手荒れがなかった。
「ありがとう。干したものを黒棗というのだよね」
「さすが董都尉のお子だ。よく知ってなさる」
「父上を知っているの」
父が有名なのは、允にとって、誇りである。
顔を輝かせた少年に、巫は、優しい笑みを向けた。
「お父上が好きなのだね。可愛がってもらっているかい?」
「もちろんだよ。普通はそうだろう」
「おやおや、簡単に『普通は』、などと口にしないといい。幸せに育った者は、どうも無頓着でいけない。世の中にはね、子が親に、可愛がってもらえないことが普通な家だって、たくさんあるのだから」
「ごめんなさい……むつかしくて、よくわからないけれど」
「素直なお子だ。董都尉の評判はすこぶるよいようだけれど、坊やを見る限り、人物も確かなようだ。よい父上に育てられたのだから、ちゃんと孝行なさいよ」
「うん、そうする。父上のように立派な人になって、父上が自慢できるような子供になるのが、わたしの夢なのだ」
「立派な人とは恐れいる。坊や、このあたりに暮らしていると、どうもピンと来ないけれど、中原のあたりでは、毎日黄巾賊とやらが、村々を荒らしまわって、天子様の言うことを聞かなくなっているそうだよ。その隙に、有象無象の輩が、我こそはと名乗りをあげて、天子様の御位を狙っているそうな」
「その話は聞いているよ。父上も、天下が悪くなったので、荊州から巴蜀に来たのだから。巴蜀はだいじょうぶだよ。父上が、だいじょうぶだと思ったのだから、だいじょうぶなのだ」
允はそう言って、むん、と胸を張って威張った。
允にとっては、父親の言葉や判断は、すべて福音なのである。
「お父上は、いつか司馬相如のごとく、巴蜀を出て、天子様にお仕えするようにと言わないかい?」
允は、沈思熟考な性格をみせて、しばらく考えてから、答えた。
「ううん、言わない。父上が言う立派な人というのは、お金がある人や、地位の高い人ではないよ。だから、天子様のお側に仕えられる人間になれ、なんていわない」
「では、どんな人間が立派だと?」
「自分の為すべきことをきちんとやって、正直に生きる人、人を弾劾しない人、欲張らない人。お天道さまにいつでも顔向けのできる人が、立派なのだって。
大きな功績を残したとか、お金をたくさん持っているひとも、たしかに立派かもしれないけれど、本当に立派なのは、毎日をこつこつと真面目に暮らして、不平も不満もいわないで、家族をたいせつにする人なのだって」
「おやおや、董都尉は、家もそっちのけで、仕事に打ち込む御仁だと聞いているよ」
揶揄された允は、むっとして反論する。
「そんなことはない。父上は、立派な人だよ。みんな言っているもの」
「そうだろうか。だれがそう言っているのだい」
允は、考えて、それから答えた。
「ええと、じいやとか、じいやとか、じいやとか……」
「じいやという人は、何人もいるのかね」
「だって、だれ、って聞かれても、その人の名前がわからないのだもの。答えられないよ。でも、父上が成都の令をやめてこちらに来るときに、たくさんの見送りの人たちが集まって、かならず帰ってきてくださいと、みんな泣いていたよ。立派な証拠じゃないか」
「その人たちは、たまたま、董都尉にうまく助けてもらえた人なのだろう」
「たまたま、って、なにさ」
「たまたまは、たまたまだよ。人助けというのはね、なまじな覚悟ではできないものだよ。助ける相手のすべてを引き受ける覚悟で手を差し伸べるのが、ほんとうの人助けさ。
董都尉は、たまたま仕事で人を助けているだけで、仕事の範囲ではない人は、助けないお人ではないのかい? 世間でよくいう義人とやらには、多いのだよ、そういうエセ義人が」
「父上は、エセ義人なんかじゃないぞ! ニセモノは、自分のことを偉いとか、賢いとか宣伝するものだけれど、父上は、逆に、いっつも、わたしは莫迦だ、莫迦だ、って嘆いてらっしゃるもの」
「なぜ、董都尉は、自分を責めなさる?」
「ええと、ええと、よくわからないけれど、父上は神さまではないから、目の前の、いちばん近くにいる人しか助けることができないからだって。一人を助けていると、そのあいだに、ほかの困っているひとは、後回しになってしまう。
助ける相手を選んでいる自分は、天を恐れぬ愚か者だ、天下の乱れを直さねば、困っている人が減らないとわかっているのに、どうしたらよいのか、手立ても浮かばない、って嘆いてらっしゃるもの。そういうのを、エセ義人とは言わないでしょう? 山奥に住んでいる貴方なんかに、父上のことがわかるものか」
「言ってくれるものだね。わたしたち巫というのは、たがいに繋がりがあってね、おまえたちの知らないような情報も、いろいろと握っているのだよ」
「ふうん。よくわからないけれど、なら、ほかのお山に住んでいる巫にも、父上はエセ義人なんかじゃないと伝えておくれね。悪い嘘がたって、このまま成都に帰れなくなったら悲しいから」
「成都に帰りたいのかい。なぜ」
「父上はなにも言わないけれど、じいやが、父上は天下に必要なお方だから、このまま巴郡に埋もれてはいけないと、いつもそう言っているもの」
「ふうん、じいやさんがね。じいやさんは、ご主人の気持ちを代弁しているだけかもしれないよ」
「そうではないというのに。わたしの父上は、安くんのお父上とはちがうのだ。成都に帰りたい、帰りたいと愚痴ばかり言うくせに、ろくに仕事をしない大人とはちがうのだから」
すると、とたんに巫は愉快そうに笑った。
「そうかい、坊やにも、あの男は、ろくでなしに見えるのかい」
允は、素直にうなずいた。
「自分の奥方をぶつなんて、最低だよ」
「うん、最低だね。まったくだ。面白いお子だね。素直かと思えば、なかなか毒舌を揮うじゃないか。安は、坊やと仲良くできて、楽しかっただろうね」
巫の言葉に、允は怪訝に思ってたずねた。
「これからも仲良くするよ。だって、わたしのたった一人の友達なのだから」
「ああ、そうだね。そうだといい。ところで坊や、つい長話をしてしまったけれど、わたしはそろそろ出立の準備をしなければならない。ここで坊やとはお別れだ。
帰りは、いま通ってきた小道をおゆき。野うさぎが使っている獣道だけれど、坊やならば難なく通れるだろう。
さて、約束をしてほしいのだけれど、わたしと会ったことを、誰にも言ってはいけないよ。お父上にも言ってはならない。約束できるかい? 約束できるなら、ほら、黒棗をもうすこしあげよう」
と、巫は、黒棗の実を、さらに允に渡した。
好物でつられたわけではないが、允はもともと律儀な性質であったから、巫の言葉に従うことにした。
そして、貰った黒棗を、錦の袋に入れると、大事に懐にしまった。
錦の袋は、亡き母の形見の衣の一部を使って、伯母がこさえてくれた小物入れである。
「さようなら、坊や。約束を守ってくださいよ」
巫は念を押して、允を見送った。
屋敷に帰ってきた允は、あちこちに草と泥をくっつけて帰ってきたので、じいやにひどく怒られた。
しかし、董和のほうは、允のやんちゃを面白がって、どこへ行ってきたのかと尋ねた。
允は、巫との約束をおぼえていたから、安らしき少年と市場で出会って、山へ追いかけていったことまでは話したが、巫のことは話さなかった。
「ご子息は、まだ具合が悪いのか。長患いにならぬとよいな」
董和が言うと、傍らで、允の汚れた衣の始末をしていたじいやが、口をはさんだ。
「あの王県令は、よろしくないお方でございますね。患っているお子と、身ごもっていなさる奥方を屋敷に残して、ご自分は、妓楼に繰り出して、ドンちゃん騒ぎをなさっているとか」
「お会いしたことはないが、県令の奥方というのは、たいそう美しい方だそうだな。允や、もし奥方にお子が生まれたら、おまえの友達も増えるだろうよ」
そうか、安には兄弟が増えるのだな、と允はうらやましく思った。
「ああ、別なことを考えながら筆を動かしていたら、また損じてしまった。允や、この紙はおまえにあげよう。書き方の練習をするときに使いなさい」
董和は、筆を置いて、机にひろげていた紙を、允に与えた。
それは成都にいる高官に宛てた手紙の下書きで、何度も書き直した後があった。
文字の隙間に、允は自分の字を書くことができる。
父の字が手本にもなり、ちょうど良いのである。
「旦那様は、坊ちゃまに甘い。そのような高級品を与えてしまわれるとは」
「よいではないか。どちらにしろ、ほかに使いようがないのだからな。おや、允、おまえ、誰の顔を書いているのだね」
董和に見咎められ、允はびくりとして筆を止めた。
それこそ、何の気もなしに、允は、昼間にあった、あの不思議な巫のことを思い出し、その顔を描いていたのである。
とはいえ、允には絵心がなかったので、紙の上の顔は、まるで巫に似ていなかった。
允から紙を取り上げ、顔をまじまじとながめた董和であるが、軽くため息をついて、決まり悪そうにしている息子に言った。
「おまえはわたしに似て、絵心がないようだな。これは市場であった人の顔かい」
允は、どぎまぎしながら、こくりと頷いた。
罪悪感がちりりと胸を焦がした。
「今の世に、画才があっても邪魔なだけか。おまえは、わたしと一緒で、天賦の才能とやらがない凡人のようだから、こつこつと、毎日を精進せねばならぬぞ」
「はい。立派な人になります。父上の誉れになります」
「気負うことはない。健やかに暮らしておくれ。そうしたら、父もおまえを誉れに思うだろう」
董和はそんなことを言って笑ったが、允には、父の言葉の意味が、よくわからなかった。
さて、翌朝、王県令の使者が、董家に飛び込んできた。
妓楼から帰ってきた王恵であるが、戻った屋敷には、身重の妻も、病に伏せている子供もおらず、もぬけの殻であったらしい。
あたり一帯を探したけれど、いついなくなったのか、家令もだれもわからない。
そこで、探したところ、安にそっくりな子を連れた者が、川を渡ったということが知れた。
そこで、手配をして追いかけたところ、子供はいなかったが、安に似た子を連れていた者は捕らえることができた。
いま、縄にかけて、連れてきている、さっそく裁いて欲しいというのだ。
父と共に、表に出た允は、それこそ引っくり返りそうになるほど驚いた。
馬上にて、ぐるぐるに縄で縛られていたのは、ほかでもない、昨日の巫であったからである。