● こうせいニッキ●
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2006年10月28日(土)
実験連載 塔 51
「ほら見ろ、マメがこんなにできて、しかも潰れている。割れかけている爪もあるではないか。なんだっていままで黙っていた」
「早いところ出立したかったからな」
「しかしこの足の肉付きからして、あんた、普段からあんまり動いていないな。だからこんなに白いわけだな」
「なにやら不穏な気配をおぼえなくもない発言だが、あえて流そう。わたしの足から手を離せ。軟膏を塗るくらい、自分でする」
「妙な意味はないぞ。ほら、その軟膏の壷を貸せ。膿んだらやっかいだ。
あまり無理しないほうがいいな。この山道を越えたら、また集落があるそうだ。そこで馬を借りることにしよう。
それまでは、そうだな、あと少しのようだし、負ぶってやってもよいが」
「却下」
「なんだ、歩いたら痛いぞ」
「だからといって、まったく歩けないわけではない。足のマメなんて、そんなもの、歩いているうちに自然と治る」
「急いでいるのに、よちよち歩きでどれだけ進めると思う。あの女のほうがよっぽど早く先に進んでいるぞ。
そうだな、あんたをここに置いて、俺が先に馬を連れて戻ってくるというのもあるが、さっきのような連中がまた出ると厄介だ。やはりここはおぶって」
「だから却下。ほら、歩ける」
「見ていて痛々しいのだが」
「見なければよかろう。さあ、前だけを見て歩け、東へ帰る予定の男! と、言っている端から、なぜわたしの手を取る。わたしは子供か、離せ!」
「急いでいるのだろう」
「急いでいるが、それとこれとは別だ」
「一緒だろう。まったく、ほんとうにわがままだな。肩書きは軍師将軍といったか? そんな重役を、よく勤めているな。周囲はきっと疲れ果てているだろうよ」
「ほーお、わたしにそんな嫌味を言えるまで余裕が出てきたか」
「なんだか、記憶をなくす前の俺の苦労が、判ってきた気がする」
「なにか言ったか?」
「べつに」
「言っただろう」
「あんたの真似さ」
2006年10月29日(日)
実験連載 塔 52
「宿の主に完全にかん違いされているぞ。ほかにも部屋は空いているのに相部屋だし、なにやら意味ありげににやにや笑っているし、わたしの顔をじっと見て、嫌味にも『なるほど』と言った。
それもこれも、あなたがわたしの手を引きつづけたあげくに、宿につくなり、湯を用意させてわたしの足を洗ったのがいけない! 普通はそこまでしないぞ、このお節介!」
「親切にしたのになぜ怒るかね。かん違いとは、どういう類いのかん違いだ」
「と言いながら、指を鳴らすな、指を! ああ、もしかしたら反動は、わたしの身に起こっているのかもしれないな」
「なんだ、この程度なら、俺は東に帰らなくてもよいのでは」
「帰れ。さようなら」
「冷たいやつだな」
「そうさ。わたしは、あなたの屋敷の氷室の氷よりも、なお冷たい嫌なやつなのだよ。だから、あれこれ世話を焼く価値もないのだ。放っておいてくれ」
「ほう、俺の成都の屋敷には、氷室があるのか。めずらしいな」
「感心するな。ちゃんと聞こえたか?」
「聞いた。ところで馬だがな」
「聞いてないだろう」
「聞いているとも。というよりも、あんたの言葉の聞き方がわかってきた。『話半分』だ」
「なんだそれは」
「憎まれ口のほとんどが、本音じゃないからさ。いまここで俺が東に帰ったら、いちばん困るのはあんただろう。その足では石も取り戻せないだろうし、旅人を狙うろくでなしどもを振り切ることもむずかしい。つまり、俺はあんたと、もうしばらく一緒にいなくちゃいけないということさ。
あんただって、それがわかっているのだろう。わかっていてわあわあと俺に当り散らす。あんたは、わざと俺を怒らせたいのだ」
「そんなことはない。そんなことはあるものか。わたしはほんとうに怒っているし、あなたにも我慢ならない。鈍感で、お節介で、そのうえ、えーと、えーと、ともかく、なんだ、いろいろ面倒!」
「ほらみろ、やっぱりわざとだ。それで、馬なのだが」
「ちゃんと聞いているか? わたしは常に本音を喋っている!」
「はいはい。で、馬だが、天水までなら貸してやってもいいという商人がいる。その代わりに、荷物を一緒に運ばねばならないが、徒歩よりもよかろう。
というわけで、明日からは楽になるぞ、よかったな」
「ああ、嬉しくて涙が出そうだよ。早いところあなたと手を切って、石を取り戻し、一人でのんびりゆったり塔へ向かいたいものだ。
なぜ笑っている。本気だぞ!」
2006年10月30日(月)
実験連載 塔 53
「いい天気だな。このあたりの気候はずいぶんと成都とちがう。晴れとなると、からっと晴れる。心地よいものだ」
「成都の天気はおぼえていないが、たしかろくに太陽のささない薄曇りばかりがつづく土地だと聞いた。そんなふうで、住み心地はいいのか」
「これが、慣れると、あまり気にならない。わたしは蜀の地が好きだ。民は素直な気質で、義理堅く一本気。迷信深いのがたまに傷だが、あの土地には、たしかになにかがいるかもしれないと思わせる、神秘的な空気がある」
「俺はどんなふうに過ごしていた?」
「さてね、よくは知らない。馬の世話ばかりしていたのではなかったかな」
「俺はいい年だと思うが、妻帯していなかった理由はなんなのだろうな?」
「それも知らない。たぶん、流浪生活のときに、必要なものは最低限でいいという規則を自分のなかにこさえたからではないのか。
それよりも、女の足取りだが、どうやら、ろくろく休みもせず、ひたすら西へ向かっているものらしい。やつれた身なりの女が、なにかに追われているように西に走っていたのを何人も見ているそうだ」
「身づくろいも構わなくなっているのか。かえって目立ってしまうだろうに、どうしてそうも急いで西へ向かっているのだろう」
「わたしが話を聞いた農婦のひとりが、女の様子があまりにおかしいので、声をかけたそうだ。どこからか逃げてきたのかい、とね。すると女は、これ以上なにも起こらないように、早く西の塔へ行かなくちゃいけないと言っていたそうだ」
「これ以上なにも? それは、反動のことだろうか」
「どうとでも取れる発言だが、そうではない気がするよ。女の評判はどこへ行ってもいい。どんな病人であろうと、真心をこめて助けようと懸命に尽くしたそうだ。
そういった女を支えていたのが夫だったのに、その夫が石のために死んだ。もしもわたしがその女だったら、こう思うだろう。『石が世にもたらす災禍を止めねばならない』と」
「おのれ一人ですべてを背負おうというのか」
「夫を亡くし、自暴自棄になっている可能性もある。哀れだと思わないか。本当に仲のよい夫婦だったそうだよ。石に出会いさえしていなければ、苦難はあっても、かれらなりの幸せをつかんで生きていけたかもしれないのに。
やはり、石は塔に戻すべきだ。けれど、その役目はわたしがする。
女は石を使い続けることによって、みずからの身を滅ぼそうとしているのかもしれない。
だとしたら、あまりに哀れだ。止めなければならないよ。恨まれるとしてもだ」
「そうか」
「なんだ」
「いや、いまのが、あんたの本音であり、本質なのだろうと思っただけさ」

2006年10月31日(火)
実験連載 塔 54
「女の足には翼でも生えているのかな。それとも、もしかしたら四番目の石に、一日千里を駆ける足がほしいとでも願ったか」
「いや、そうではなかろう。ときどき、女を見たという証言が途切れて、そのあとしばらく行くと、また証言が得られる。
おそらく、女は、このあたりの地理に習熟しているのだよ。地図にも載っていないような道をいくつも知っているのだ。だから、ひたすら街道を行くわれわれよりも常に先行している」
「なるほど、それならば、女一人であろうと、無事に通れる道を知っているのかもしれない。関所があろうと、そこを通過しなくてすむ道を知っている可能性もあるわけだ」
「それに、土地のものは、女に恩義がある。山賊すら、女には目こぼしをしているのかもしれないぞ」
「孔明、最初の関所は、あんたが用意よく持ってきていた偽の通行手形でやり過ごしたが」
「馬平元」
「うん? 元平ではなかったか」
「む、そうであったかな。ともかく、孔明はだめだ。ここはもはや、完全に敵地だ。陳倉にたどり着くまで、その名を口にしてはならぬ」
「陳倉で部曲を雇うという、その気は変わらないのか」
「変わらない。陳倉で、あなたは東に向かえ。街道沿いに、ひたすら東へ行くのだ」
「俺は、どうしても、常山真定に向かわねばならないかな」
「どうしてもさ。家族に逢いたいとは思わないのか? 言っていたではないか。どんな顔をしているのか見たいと」
「言ったし、たしかにそう思うが、俺ひとりで行くのか」
「あたりまえだ。わたしが同行してどうする。このあたりは辺境といっていい土地
であるから、わたしがこうして堂々としていられるが、常山真定ともなるといくつも大きな街を通過せねばならぬ。わたしの顔を知っている者も出てくるかもしれない。
万が一、捕らえられた場合はただでは済まぬ。下手をすれば人質、悪くして見せしめのための処刑だ」
「俺はどうなる。記憶をなくしていようと、名前を変えようと、顔を覚えられているかもしれないぞ」
「だから、あなたは大丈夫だ。ともかく、陳倉に向かうまでに、女に追いつかねばならないな」
2006年11月1日(水)
実験連載 塔 55
「急いでいるのに雨とは。しかもなんだ、この天地を逆さにしたような降りっぷり。まるで海の水が空からこぼれ落ちているようではないか。
途中で廃屋が見つけられてよかった。これがなければ、かなり悲惨なことになっていたぞ」
「海の水が空からこぼれるとはふしぎな喩えをいうものだ。天に海はあるのか?」
「天に行ったことがないからわからぬが、秦(宓)子勅という、古書から引っ張り出したウンチクを引っ張り出してヘ理屈をこねさせたら、右に出る者はないという、口ばかり達者で実のない面倒な使者が来た場合に、追っ払い役をさせるのに最適な男がいるのだが、そいつに聞いたら、なにかわかるかもしれないな。
すごいのだ、いろいろ。ちょっと間違いをすると、すぐ怒るし。だから友達もいないらしい」
「あんたのまわりには、ほかにはだれがいる」
「そうさな、質実剛健を絵に描いたような、友達のすくない董幼宰、いつも顔は笑っているけれど、心はいじけている、友達がみんな魏にいる劉(巴)子初、さぼってばかりだが友達は多い許(靖)文休、ガミガミうるさい、友達はそこそこいるが本人は否定している胡偉度……ほかにもいろいろ取り揃っておる」
「個性的だな。友達がすくないやつが多い気がするが」
「そうさ。だからわたしが友人をしてやっているのだよ」
「逆かもしれないぞ」
「……子龍、ほんとうにわたしに慣れてきたようだな」
「慣れたとも。おい濡れて冷えているだろう。もうすこし火のそばに寄ったらどうだ」
「こんな狭い、しかも雨漏りのひどい小屋しか雨を避ける場所がないとは、これも反動だろうか。あんまりそばに来ないでくれないか。この距離感に慣れていない」
「もうすこしで天水なのにな。まあ、この雨であれば、女のほうも足止めを食らっているだろうよ。しかし、ほんとうにすごい雨だな。海と天が引っくり返ったようだ。あんたは海を見たことがあるか」
「琅邪にいるときに、父上に連れて行ってもらったことがあるな。たしか、叔父上が遊びにいらしたので、三人で、泊りがけで遊びに行ったのだ。
漁師がちょうど網引き漁をしていたので、一緒に手伝って網を引っ張った記憶がある。帰りにきれいな真っ白い貝殻をもらったのだが、白水素女は出てこなかったな」
「白水素女? あの、貝殻から天帝の美人の娘が出てきて、留守のあいだにいろいろと家事をしてくれたという、あれか?」
「なんだ、その笑いは。わたしだって、そういう女人がいたらいいなと、子供心にあこがれた時期があったのさ。
もらった貝はずっと大事にしていたのだが、揚州で叔父上といっしょに南陽へ逃げる際に、どこかへ行ってしまった」
「揚州から南陽へ? またずいぶんな移動だな」
「袁術の力が弱くなったので、孫策が宮廷に根回しをして、揚州を手中にいれるべく、太守を送り込ませたのだ。
あのころの揚州は、孫策と袁術、劉表の三つ巴の対立が起こっていたからな。で、叔父は負けた。戦うことで、民を巻き込みたくなかったのだろう。
けれど、民は無慈悲にも、賞金目当てに叔父と、われらを襲ってきた。
袁術は援軍を送って来なかった。偽帝として即位した頃だったから、忙しかったのだろうさ。
袁術はあてにならないと見切りをつけた叔父は、もともとよしみのあった劉表のもとへと逃げたのだよ。
もらった白い貝殻は、たぶん、どさくさでだれかに盗まれたか、でなければ、つまらぬものとして、割られてしまったかしたのだろう」
「俺は海を知っているのだろうか」
「知っているのではないかな。ああ、でも聞いたことがなかったな」
「もう本当に指摘に飽きたが」
「みなまで言わずともわかる。そこまで知っているのは、仲が良かったのだろうと言いたいのだろう。そんなことはない。わたしはとても聞き上手なのだ」
「常山真定にもどったら、海は見られないであろうな」
「成都にもどったら、もっと見られないぞ。あるのは山、山、山ばかりだ。常山真定のほうが、まだ海にちかい」
「陳倉で、俺は東に行くのだな」
「そうだ」
「では、東に行ったついでに、もしいつか海に行くことがあったなら、あんたがなくしたという白い貝殻をひろって、成都に届けてやろう」
「それは、ありがとう。期待しないで待っているよ」