● おまけの広場 ●
本文へジャンプ XX月XX日 

 

2007年6月26日(火)
流砂の絶佳 八十六

「おとなしく降伏せよ、アモン! でもってわれらを『下宿先』へ帰せ!」
「帰りたけりゃ、勝手に帰ればいいでしょ! ちっとも引き止めてないわよ、はいはい、おつかれさま!」

そんなやりとりをしているあいだにも、村人たちは、こりゃたまらん、とばかりに、広場から一斉に逃げていく。
そしてあれだけ人が群がっていた羊皮紙には、ひっかき傷のような線ばかりが書かれている。
村の一部の裕福で読み書きをおぼえる余裕のある家はのぞき、みな、自分の名前を書けなかったのである。

「あっ、これじゃいくらなんでも、牧場に連れて行けないわ! 
チィイ! 岩壁に追い詰められた二時間ドラマの犯人みたいに、ぺらぺらとしゃべりすぎたのも敗因かしら! 
けれど、どうして岩壁に追いつめられた犯人は、ああも気持ちよく白状しちゃうのかしら、マイナスイオンのせいなの? 
だったら、あたしは岩壁には行かないわ!」
「ここがたとえ岩壁でなくても、おまえはもう終わりだ! おとなしくわれらに降伏せよ」
「降伏したら、どうなるっての」
「最高府へおまえを引き渡す。引き渡されたあと、おまえがどうなるかは、われらにもわからん。上級悪魔ともなれば、それなりの場所に連れて行かれるのだろうな」
「ふん、行き先はコキュートスかしらね。あんな寒いところお断り。
知ってる? コキュートスの平均気温が、地上ではもっとも寒い温度をたたき出す南極のマイナス六十度よりも低いのは、あんたたちが『創造主』と呼んでいるものを眠らせておかなくちゃいけないからだって。
そしてコキュートスに、あたし並みに強い化け者がうようよしている理由も、『創造主』を守るためよ。
あんたたちが『罪をおかした堕天使が、身を変えられて化け者になった』と信じている化け者たちは、そうではなくて、自分たちの手で『創造主』を守るために、怪物になったもの。
さあて、ここで謎々を出してあげる。なんだって、本来ならば永遠の玉座に座るべき『創造主』が氷付けにされているの? 
そして、いま、永遠の玉座に座っているのは、だれなのかしら?」

「なにぃ! それは初耳! ほんとうか、それは」
灰色うさぎが、両の耳を器用にぴくぴくとうごかしながらたずねると、アモンは甲高い声で笑いながら、答えた。
「ほほほー、だ。あんたが堕天するなら、教えてあげる。答えは三十秒後!」
「諸葛亮、いまの話、知っておるか! 永遠の玉座とは、神々すべての祖といわれる存在が座るものであろう。それが空席だというのか!」
興奮して、ぴょんぴょんと飛び跳ねながらやってくる仲達に、孔明はこたえた。
「落ち着け、悪魔がアトラ・ハシースを誘惑するために、もっとも興味をひきやすい謎を提供して、心を揺さぶる『蛇の罠』だ」
「なんと、罠か! でも気になる!」
「落ち着け、われらアトラ・ハシースは、永遠の玉座なるものが、実在するものかも知ることはできないし、コキュートスが伝えられているとおりの氷の地獄なのかも、知ることはできない。
真実は、わたしたちには届かぬところにある。つまり、悪魔は、嘘はつきたい放題、ということだ。エヴァのように、蛇に誘惑されてはならぬ」
「なるほど、さすが悪魔、うまく口車に乗せられてしまうところであった。にしても、りんごを食べただけで知恵がつく、というのも、奇妙な話よのう」
「聖書には『りんご』という記載はない。噂によれば、アダムとエヴァの食べた知恵の実は、りんごではなくて、『コラの実』だった、という説もある。
コカ・コーラの原料のひとつで、覚醒作用と強壮作用をもつ実だから、『知恵の実』と呼ぶにふさわしかろう。
ただ、この『知恵の実』のエピソードは、ギリシア神話の『黄金のりんご』のエピソードと同起源だとする説もあり、そうなると、やはり『知恵の実』は、りんごだということだな。
眠いときには、珈琲より、りんごをまるごと食べたほうが、目が覚めるそうな」
「ほー。さすが諸葛亮。だてに年はとっておらぬな」

「二十八、二十九、三十……ちっ! 三十秒、きっかり待ったら、そのあいだに説得されちゃったわね! 仕方ない、攻撃といくわ! さあみんな! 総攻撃よ!」
「まだ力が残っていたのか!」
舌打ちする孔明に、仲達は、その前に立つと、ぱっと両手を大きくひろげて、言った。
「ここはわたしに任せろ! ゆくぞ、新必殺技! バニー・フラッシュ!」


※思うに、ずんだシリーズは、どうしたって設定の説明が長くなるので、いつもの連載と同じ調子で書いていると、書いている方としてはいいにしても、読んでくださっている方は混乱することがあるかな、と気づきました…もしかしたら、このニッキこそ、『リクエストにする』というのはどうでしょう、みなさま。
リクエストしたら、だれか答えてくれるかなあ…。もし企画が立ち上がりましたら、救いの手をさしのべてやってくださいましm(__)m 流砂の絶佳、まだまだお話はつづきます。

2007年6月27日(水)
流砂の絶佳 八十七

仲達の必殺技 バニー・フラッシュ。
特徴 うさぎが光る。
光るだけ。

光るだけなのであるが、しかしその眩しさは、闇を突き破る朝陽よりもはげしいものである。
あまりのまぶしさに顔を伏せる悪魔たちに、仲達は、孔明に叫んだ。
「いまぞ! 攻撃を!」
よし、とうなずき、孔明は聖剣・湧天剣を召喚する。
召喚された湧天剣は、そのまま杖のようになって、孔明の額のあたりまでふわふわと浮かび上がると、その剣身を中心として、巨大な魔法陣を空中に描き始めた。
それに呼応するようにして、光るうさぎに顔をふせたままの悪魔たちが、魔法陣に取り込まれていく。
アトラ・ハシースの文字と数字によって構成される神秘的な魔法陣は、どんどん広がっていき、悪魔たちが光のまぶしさから視界を回復したときには、魔法陣の力によって、その場から身動きができなくなっていた。

アモンは上級悪魔なので、ほかの下っ端の悪魔とちがい、完全に身動きがとれないことはなかったが、もともとエウゲニー・バルエフスキーの浴びせた聖水のせいで霊力を大幅に失っていることもあり、せいぜい上半身をばたつかせることしかできないようである。

魔法陣を構築するための呪文を唱えながら、孔明はこれは大金星をあげられるかもしれないな、と思った。
上級悪魔を捕縛できるアトラ・ハシースは、それこそアトラ・ハシースとしての経験年数が三千年以上であることがおおく、たった二千年に満たない経験しかもっていない孔明たちと同世代には、存在していない。
記録が塗り替えられるか?
そんなことを考えながら、魔法陣の構築呪文をすべて唱え終えた孔明は、そのまま、残る霊力でもって、悪魔たちを一斉に浄化させてしまう作戦に出た。
魔法陣の構築が終わると、孔明の思惑通り、地に浮かび上がった光の円陣は、ぐるぐるとまわりはじめて、悪魔たちの霊力をどんどん搾り取っていく。

霊力が0になったなら、かれらの本来の姿があらわになる。
本来の姿を見られた悪魔は無力化するので、それを捕らえるのは、霊力がなくても問題ないのだ。
力のない低級悪魔の場合は、すでに霊力を搾り取られて、早々と正体をあらわにした者もいる。
アモンのほうも、なんとか魔法陣から逃れようとしているのであるが、足が完全に縛り付けられて、動けない。

よし、と会心の笑みを浮かべる孔明であるが、アモンもまた、鬼の仮面の下で、甲高い声をたてて笑った。
「こうなっちゃ、仕方ないわね、いったん、この世界から引くしかないわ! 
まあったく、ムカつくアトラ・ハシースだこと! 最後に、これでもくらうがいいわ!」
「なに?」
アモンの伸ばした手が光り、孔明と仲達に向かって放たれる。
光は空中で、大きな人の顔となり、それは口をぱっくりと開けると、地の底から響くような声でなにごとか呻いた。
ぞっとするようなその声に、おもわず目をつぶってしまった孔明と仲達であるが、ふたたび目を開けたとき、すでにそこにはアモンたちの姿はなく、破壊された魔法陣と、正体があきらかになって逃げ遅れた悪魔たちだけが残されていた。


※ずんだのアンケートにぽつぽつと票が入っておりまして、ほっとしている管理人です(^_^;)ご協力くださった方、ありがとうございました。さあて、本日はアップの日であります。いまのところ順調なわけですが、このペースが守れたらなと思います(^^♪

2007年6月28日(木)
流砂の絶佳 八十八

地上には、アモンに見捨てられ、本来の姿が明らかになった動物たちが、魔法陣からまだ逃れることができず、助けをもとめて、悲しげな声をあげている。
本来の姿に戻ってしまったため、人語を話すことができないのだ。
低級悪魔は『下宿先』に送還し、あとは最高府の判断にゆだねればいい。
最高府が低級悪魔たちをどうあつかうかは不明であるが、アトラ・ハシースに捕縛されることを、悪魔たちは本気でおそれているから、おそらくは想像以上のおそろしい未来が待っているのだろう。
もっとも、それ相応のことをしているからのことで、たとえいま、元の姿に戻ってしまった悪魔たちが、哀れに見えても、下手に同情するのはまちがっているのである。

やれやれ、ひと仕事終わった。あとは、馬超と主公を仲直りさせればよい。
それには、尚書令の力を借りよう。
上手におだてれば、あの男のことだから、きっと喜んで仕事をするだろう。
癖のつよい男であったが、仕事ぶりに関しては、超一流であったことはまちがいない。
馬超と主公が仲直りしたあとは、潜入者の世界へ行き、この世界の『わたし』と交替で戻ってくればよい。
気になるのは、アモンの行く先であるが。

「アモンめ、どこへ逃げたか……ヨイヨイ♪」
しかし、奇妙なことだ、と孔明は思う。
どうもさきほどから視界が落ち着かない。
そして、かたわらにいる仲達が、ぶるぶると震えている。
おかしいな、こやつに魔法陣の効力は発揮できないはずだ。
なにか影響があったのだろうか。

孔明が怪訝に思っていると、垂れ耳うさぎは、おのれの両手を頬にあてて(おそらく毛皮がなければ、その顔色が真っ青であったのがわかったはずである)震える声で言った。
「なんたることだ!」
「なにがだ……ヨイヨイ♪」
そして孔明の視界は、やはりさきほどから定まらない。
というよりも、孔明は、自分の身体が、自分の意思とはまったく関係なく、勝手に動き回っていることに気がついた。
「あれ、どうしたことだ……ヨイヨイ♪」
さらには、物の見え方が、どうもおかしい。
仲達の顔がちょうどよく真正面にあるし、ぶれる視界のはしはしに、なんだか白とグレーのブチが見えるような??

そこまできて、孔明は、はっとなった。
おかしいどころの話ではない。
このなつかしい低い目線。
うさぎのもなかの時の目線ではないか!

「仲達! わたしはもしや! ヨイヨイ♪ うさぎに戻っておらぬか! なぜだ、あのときの呪詛の解除は期限付きであったのか? 
というより、なんだってわたしは、さきほどから、ヨイヨイ ヨイヨイ 言っているのだ! ヨイヨイ♪」
孔明の問いに答えられず、仲達は、ぶるぶる震えながら、つぶやいた。
「諸葛亮が、またうさぎになっておる! うさぎになって、なぜだか踊りまくっておる!」
「やっぱり! おのれ、アモンめ! ヨイヨイ♪」

すると、どこからか風に乗って、アモンの声が聞こえてきた。
『ほほほー、あたしのラスト・プレゼント、『ザ・レッドシューズ』の味わいはいかが? 
足元を御覧なさい、素敵な赤い靴が見えるでしょ? それは履いている人間が死なない限り、活動を終えないのろいの靴よー。
大天使ミカエルでさえ、その靴ののろいを解くため、被術者の両足を切り取らなくちゃいけなかった、超強力呪詛! 死ぬまで踊ってなさい! アディオス、アミーゴ!』

「油断したか! 上級悪魔を舐めていたか……ヨイヨイ♪ このまま踊っていても仕方ない、一度成都にもどって、アイオーンの乙女と合流しよう! ヨイヨイ♪」
「どうやって接触するのだ」
「わからぬ。とりあえず、このままではつかれるばかりだ! ヨイヨイ♪ 飛廉! わたしたちを成都に運んでくれ! ヨイヨイ♪」
孔明に召喚されて、空気の中から浮かび上がるようにしてあらわれた飛廉は、孔明と仲達を器用にくちばしでもちあげて、自分の背中に乗せると、ばさり、ばさりと大きな羽音をさせて、東の成都へと向かった。


※梅雨…にしては、今年は雨が少ないですね。いまからお米の心配をするわたし。そういえば、スイカがもう店頭に出ていますね。そろそろ買ってこようかな~(^^♪ そうそう、昨日のアップに起こしくださった方、ありがとうございました!皆さん、お時間ありましたら日曜日もいらしてくださいね(^^ゞ

2007年6月29日(金)
流砂の絶佳 八十九

成都に残った趙雲は、孔明の残した、なんともネーミングのとぼけた霊具・悪魔よく見えル~ペによって、つぎからつぎへと悪魔を狩っていた。
アモンの部下たちは、人間になりすまして、文偉や黄忠にしたように、酔客をうまくおびきよせて魂を狩ろうとしている。

趙雲の役目は、黄忠と文偉の案内にしたがって町を移動し、人の中に混じっている悪魔をルーペで見分けることである。
悪魔同士の、横の連絡がうまくいっていないらしく、何時間経とうと、悪魔はおもしろいくらいに長星橋にあつまってきて、あっさりと捕まった。
罠ではないか、とすら疑ったが、捕まる悪魔の悲痛そうな様子からして、そういうことではないらしい。
アモンの身体が、潜入者の聖水のために弱っているので、部下の下級悪魔たちを統率できないでいるのが、この混乱の原因のようだ。
かれらは、自分たちが最高府に引き渡されると知っているから、趙雲に倒されて正体があきらかになると、もう悪さはしませんと、泣きながら訴えるのであるが、もちろん、悪魔なのですべて嘘である。
黄忠と文偉は、知り合いの店から、大きな籠を持ってきて、そのなかに、元の姿にもどった悪魔たち……ニワトリだの、イタチだの、カエルだの…を閉じこめた。

「時の社で教えを受けたとき、悪魔というものは、この世が生まれたときから存在する者と聞いておりましたが、ちがうのですね」
と、文偉が言う。
その言葉に、ルーペを覗き込んで、群集のなかから悪魔を探していた趙雲が、作業をつづけながら、答えた。

「悪魔にもいろいろ種類があって、時の社でいう悪魔とは、おそらく魔王とか、魔神と呼ばれている者たちのことだろう。
さすがに、それほどの大物となると、俺も姿すら見たことがない。いや、見たら、そのときは完全消滅の時であろうな。
アモンやマモンといった、上級悪魔は、いわば悪魔のなかの貴族で、かなり古い時代に、魔王に忠誠を誓った低位の神や、アトラ・ハシースたちだと言う。
その上級悪魔が、おのれの手足として使役するため、つよい負の心をもつ生物をえらび、その魂を得るかわりに、悪魔としての身分を与えた。
そう言う手順をふんで悪魔と呼ばれるようになったものを、俺たちは下級悪魔、あるいは低級悪魔、と呼んでいる。
下手にそいつらに同情するなよ、文偉。見たところ、さすがアモンの部下たちだけあって、みなだいぶ悪事に手を染めているようだ。動物が悪魔になる場合は、たいがいが人間につよい恨みをもっている。
その籠をうっかり解放したら、おまえはバラバラにされちまうだろうな」
趙雲のことばに、強ばった笑みを浮かべつつ、気をまぎらせるためなのか、文偉はたずねた。

「しかし、そういう悪魔を、趙将軍はあっさり一撃で倒してしまわれる。
われらの趙将軍もすばらしいお方ですが、よその世界の趙将軍もすさまじいものがございますな」
その言葉に、となりで、遊び人の顔から一転、軍務にとりかかっている老将軍の顔をとりもどし、きっちりと籠を見張っている黄忠がうなずいた。
「たしかに。われら側の趙子龍は、たしかに武芸にも秀でているが、どちらかというと、文官に近い働きをしておる。
こちらの趙子龍は、見たところ、技の冴えがちがう」
「ま、俺はアストラルであるしな」
「それだけではなかろう。目の動きや身のこなし、全体をつつむ雰囲気、すべてがちがう。髪の毛の先からつま先まで、すべてが猛々しい。
生半可な経験では、この気をまとうことはできまい。貴君の世界というものは、われらのこの世界とだいぶちがうということであるが、どうちがうのだ」
「それには答えられぬ。だが、じいさんにしても、文偉にしても、この世界じゃ、ずいぶんと楽しそうで、幸せそうだ」
「そうでしょうか」
と、ふしぎそうに相槌をうつ文偉のかたわらで、黄忠は察したのか、渋い表情を浮かべている。
そして趙雲は、言った。
「いまのことばで、だいたい察してくれ。ところで、新手が来たぞ。化け錦鯉だ」

※雨が少ない、と思っていたら、今日はざんざか降りだった仙台です。いまになって晴れ間が見えます。室内がとんでもなく蒸し暑くなったので、すこしクーラーも入れました。気温調節がむずかしい季節ですので、身体には気をつけなくっちゃと思います(^.^)

2007年6月30日(土)
流砂の絶佳 九十

化け錦鯉は、ほかの仲間が狩りをしていないかと伺いながら、あたりを物色していた。
目当ての妓女のためにおめかしして遊びに来ている男もいれば、奇妙な扮装のまま、店のお遣いで往来を移動する者、楽しそうに歌をうたいながら、仲間うちで移動するもの、そうした賑やかな者たちとは相反して、気むずかしそうな顔をして、背をまるめて足早に過ぎ行く者など、さまざまだ。

化け錦鯉としては、やわらかい女の肉が好みなので、往来の人間に声をかけるのではなく、どこかの妓女を丸め込んだほうがよいかな、と算段する。
もともと、馬超への使者として派遣されたこともあり、化け錦鯉の姿は、もとの煌びやかさもあって、ずいぶんと目立った。
時の社を奉じる提灯なども軒先にぶら下がっているのだが、提灯の明かりが、派手な衣をさらに輝かせている。
水中で、陽光のひかりを受けながら、きらきらと鱗をかがやかせて泳いでいたときと、その美しさは変わることがない。

ときおり、強烈に住んでいた池に帰りたい、と思う錦鯉であるが、悪魔に転じてからは、錦鯉であったときの、楽しかった記憶、しあわせだった記憶がなくなってしまっている。
残っているのは、人間にいじめられたこと(礫を池に投げられた)だけで、この心を塞がせる記憶は、思い出せば思い出すほど鮮明になって、錦鯉の怒りに火をつける。
本来なら、しあわせであったこと、楽しかったことの記憶があればこその恨みつらみなのであるが、そこが悪魔に魂を売る、ということの意味で、上級悪魔は下級悪魔をうまく使役するために、あえて幸せな記憶を封印し、負の心をおおいにかきたてるような記憶しか残さない。
そうして心をもがんじがらめにして、奴隷のように扱っているのだ。

化け錦鯉がふと見れば、どうやら妓楼のお遣いでどこかへ行く途中らしい、まだ年端のいかぬ娘が、小走りに往来を行く。
これはよい、わたしのための餌が向こうから姿をあらわしてくれたと、錦鯉は、にんまり笑って、娘のあとをついていく。
娘は、十歳くらいだろうか。おそらく売られてきたものの、まだ客の相手をできない年なので、店の雑用をしているらしい。ゆっくりとあとをつけていると、娘は長星橋の大通りから裏路地に入っていった。
大通りには有名な、そして適法な店が並んでいるのだが、一歩、裏路地に入ると、くもの巣のように道が張り巡らされ、表の明るさは一転、急に暗さが増し、同時に怪しさも増す。
提灯の明かりもぐっと減り、ぽつり、ぽつりと往来に立っている、おぼろな光に浮かび上がる客引きの雰囲気にも、どこか妖怪じみたものがある。
さらに路地の奥には、妓楼では雇えきれなくなった年増の妓楼や、ほかに、わけあって身を落すことになった女が、闇に隠れるようにして、酒瓶片手に、客を物色している。

悪魔にしてみれば、ぞくぞくするような背徳の空気をもつ町である。
娘はというと、慣れたふうに路地をなんども曲がり、やがて、一軒の、ちいさな店にやってきた。
この真夜中に開いている、というところからして、なんとも怪しいが、物陰から錦鯉が確認したかぎりでは、薬屋であるようだ。
しばらく待っていると、娘は、胸にちいさな袋を大事そうにかかえて、また同じように小走りで、自分の店に帰っていこうとする。
錦鯉は、娘が自分の隠れているところまでやってくるのを待って、そして、ちょうど真横を通り過ぎたときに、走り去ろうとする娘の腕を、ぐっと掴んだ。
娘のおどろく顔が、こちらを振り返る。
人間がおどろく顔、恐怖にゆがむ顔が、錦鯉は大好物だ。
にやり、と邪な笑みを浮かべて、錦鯉は、そのまま娘を、有無をいわさず、さらなる路地に連れ込んで、魂を狩ろうとした。

が、間近で見れば、娘はあまりにちっぽけで、たいした霊力になってくれなさそうである。
魂を狩るだけではなく、頭からばりばり食べてしまおうか。そのほうが、腹も満たされる。
そうだ、むかしアモンさまにいただいた宝を使ってみようか、と考えているあいだも、娘は、驚きおびえて、錦鯉から逃げようともがく。
しかし悪魔の腕の力は、おそろしく強く、逃げようとすればするほど、腕に食い込む指先の力は増してくるのだ。
そうして、錦鯉がふところからアモンからもらった宝を取り出したとき、するどい声がかかった。

「化け者め、そこまでだ!」


※第三帝国の滅亡に思いを馳せている場合ではありませんでした(-_-;) いやはや、知らないあいだに、身近なところのある家庭が滅亡していた…今日、突然相談を受けまして、まだちょっと混乱しています。いろんなことが……あるなあ。さすが人生(演歌みたいなつぶやき)。

   つづき→