孤月的陣
夢の章 四

2009年改訂版

孔明は、屈んで、水をすくい取った。
崔州平を殴った、利き手が、いまになって痛む。
徐庶の言葉を思い出し、孔明は苦笑した。
おまえは莫迦だ。
そう言われてから、孔明は、片っ端から喧嘩を買うことをやめた。
人からなにを言われようと、泰然とした態度を貫いた。
ときには挑発に応じることもあったが、それは度を越えてひどいときだけに限った。

徐元直という話し相手ができたことで、孔明のなかにあった人間不信、理不尽な世の中への怒り、叔父を奪った者への怨みは、徐々にやわらいでいった。
なくなることはない。
しかし、それが周囲に雑然とある物、人に、安易に結び付けられて爆発することはなくなった。
あらためて心が平安をとりもどせば、余裕ができて、叔父の身に怒った悲劇を、冷静に見つめることができるようになった。
何故、死なねばならなかったのか。
叔父は敗者だったのか? 
どう戦えば勝てたのか。
自身のことと結びつけて考える兵法は、ただ字句を追って意味を頭に収めるよりも、ずっと実践的な知識として身についた。
もしも、叔父が朱皓に勝ち、いまも予章に太守として暮らしていたら、叔父の補佐として領地をおさめていただろう。
叔父の名を高めるために、どんなふうに振る舞うべきか。領民のためにどうすればよいかそれだけを考えていたことだろう。
襄陽にやってきてからも、懐かしい思い出を基礎に、叔父を英雄の一人にするためには、どうしたらよかったかと、孔明は空想の過去に遊んで考えた。
それは、たわいのない空想には終わらなかった。
学問を進めれば進めるほどに、空想の王国は充実していった。
数々の書物につづられた、過去のさまざまな出来事を、自分の頭のなかにある空想の王国に重ねて、どうすればよいかを考える。
そこには、空想とはいえ、生きた人物がいて、苦しんだり、悲しんだり、憤ったり、思わぬ失敗を重ねたりする。
かれらが、なぜ失敗をしたのか、どうすれば良かったのか、楽しみながら考えれば、ただ故事を暗記して考えるよりも、ずっと身に付く。
だから、孔明は、暗誦はまるでできなかったけれど、どこの書物にどんなことが書かれていたのか、その内容を、ほぼ正確に掴んでいた。
ただ読むだけでは意味がない。読書の数をこなしたからといって、それは賢者への道とは限らない。
ある程度の位に昇れるだけの知識はつくだろう。
問題は、読書の数ではなく、どんなふうに籠められた意味を読んだかなのだ。
司馬徳操の門弟のなかには、そのあたりを勘違いしている者が多かった。
あたりかまわず、ただ読むことだけを目的にするよりも、ひとつの良書を徹底的に読み返したほうがよいときもある。
孔明の学習態度がほかと違うので、やはり変わらず、変わり者よとのけ者にされつづけたが、孔明は一人にされるほうが、むしろよかった。その分、邪魔されずに自分の内なる世界で遊ぶことができる。
孔明にとって、学問は将来食べるために必要なものではなく、楽しみを増やしてくれるものであったのだ。

そのうち、龐徳公より号が与えられた。
孔明自身も、おのれの中で重ねた学問の成果が、世の中に通じるものであることに気づき始めていた。
やがて、どうせならば、世の中を変えようと思うようになる。
本当に力があるのならば、たとえ、叔父と同じような最期を遂げることになったとしても、怯えて縮こまり、恨み言ばかりを口にして生きるよりはいい。
まだ力は足りない。もっと学ばねば。今度は、書物から得るものばかりではなく、いま目の前にある、世の中から。
そうして、徐庶たちと共に、国中を旅してまわった。
それは、一人だけで蓄えた知識を是正する旅であり、偏見を崩し、世の中への愛着と、自分への自信を深める旅でもあった。
それは、徐庶という理解者が同行していたからこそ、充実したものとなった。
孔明は徐庶にすっかり頼りきるようになっていた。
徐庶の言葉は、孔明によって玉条に等しい。
徐庶がよいといえば、それはよいものであったし、だめだと言ったら、それはわるいものであった。
徐庶が曹操のもとに降らねばならなくなったあと、劉備のもとに仕えることになったのも、徐庶がそこにいたからだという理由が大きかったのだ。

おまえは、まだ莫迦で、幼いのだ。
孔明は、水面に映るおのれの顔に、心で呼びかけた。
白皙の顔はさらに蒼ざめてやつれ、眼は輝きを失くし、まるで病身の男のように見えた。
ただでさえ、曹操の南下に向けて、ひとびとの心は張り詰めている。
そこへきて、みなの要(かなめ)となるべき軍師が、心の拠りどころであった人々を失ったからといって、こんな暗い顔で城に帰ったなら、みな動揺するにちがいない。
だれもが、それぞれに、痛みを抱えて必死になっている。
おのればかりが嘆いている暇はないのだ。

すくい取った水で顔を洗い、気持ちをなんとか押し上げようとする。
そうして顔を上げたとき、不意に視界の端に、手ぬぐいが見えた。だれかが側に立っている。
徐兄? まさか。
おどろいて、顔を上げると、行商人らしい老人が、孔明に手ぬぐいを差し出していたのだった。
「ここの水は、気持ちがよいでしょう」
と、老人は、手ぬぐいを受け取った孔明に、やさしい目をして言った。
見ると、道から泉に下りるけもの道の入り口に、台車が置かれていて、瓜が積まれている。老人の売り物らしい。
「道から逸れたところにある泉ですから、地元の者しか知りません。心地よい場所でございましょう。ここを見つけられた貴方さまは、運がよい」
そういって、老人は孔明の隣に座った。
図々しさは感じなかった。
むしろ、話をしてみたくなるような、物柔らかな雰囲気をもった老人であった。
山羊のような白い髯を蓄え、顔には、年輪のように深い皺が刻まれている。
服にはところどころツギが当たっていたが、どれも丁寧に刺繍つきでつくろわれており、この老人の家族の人柄がしのばれた。


「失礼ですが、お手前は、徐州の方ではありませんか?」
老人に問われて、孔明は頷いた。
「ええ、たしかに。よくわかりますね」
「知り合いに徐州の人間がおりましてな。あちらの人間は、みな背が高くて、すらりとしている。やはり、そうでありましたか」
「失礼だが、そのお知り合いというのは?」
「ああ、もうだいぶ前に亡くなりました。いや、失礼いたした。亡くなった者と比べるとは。どうも貴方さまくらいの年頃の者を見ると、息子を思い出してしまいましてなあ」
「ご子息はどちらに?」
「いやいや、失敬。じつは、息子も死んでしもうた。貴方さまはご存知か、新野のはずれにある、急流の堰。何度も工事をしたのに、治水がまるでうまくいかなくて、何度も商船が難破したところです。
息子もそこで事故に遭いましてなあ。妻とそれがしの二人が残されてしまいました。最近は、新野城の劉予州さまに仕官なされた諸葛孔明さまが、堰の工事に成功なされたとか。よろこばしいことではありませんか、もうあんな悲惨な事故があってはなりませぬ」
「まこと、そのとおりですな」
少々、くすぐったい思いをしつつ、孔明は頷いた。
同時に、老人に感謝した。
沈んでいた心が、だいぶ浮かび上がることができた。
声なき声の民を安んじることができたなら、高位も褒美もいらない。
それでもう、孔明は満足なのである。

「曹操が南下する、ということですが、それがしのような老体では、どこへ行くことも出来ませぬ。最近は、これでもう新野の見納めになるかもしれぬと思いながら、荷を運んでおります」
「ほかに、ご親戚などはないのですか? 失礼だが…さきほどからお話をお伺いしていると、どうも貴方は、ただの行商人ではないような」
すると、老人は、皺だらけの顔をくしゃっ、とさせて笑った。
「ほお、おわかりになりますか。貴方さまは、なかなかよい眼をお持ちだ。じつは、それがしは、太守さまにおつかえする武人でありました。十数年まえに官を辞去して、いまは瓜を売って暮らしております。
おお、そうだ。お急ぎではありませんかな?」
いいえと孔明が答えると、老人はうれしそうに、それならば、と坂をのぼっていって、台車から、瓜を一個、持ってきた。
そして、小刀でそれを割る。
たちまち、果汁をほとばらせながら、みずみずしい果肉があらわれた。
老人は、遊んでいた子どもたちも手招きして呼び寄せて、瓜を分けてやった。
瓜をこんなふうに、屋外で食べるというのも久しぶりだ、と孔明は思った。
老人は、瓜にかぶりつく子どもたちを、うれしそうに、にこにこと見守っている。
この、当たり前だが、このうえなく美しい光景を、しばらく目にしていなかった。
ありふれているが大切なもの、隣人愛とか、そういったささやかな美しいものが、世の中にある、ということすら忘れていた。
なるほど、これでは、お山の大将とけなされても文句は言えない。
孔明は瓜を食べ終わると、新野城へ戻ることを決めた。
のんびりしていた分、仕事がたまっているだろうなと、思いながら。

行商人の老人と、よもやま話をしながら新野城へ帰ってくると、ちょうど市場にさしかかったところで、前方から、上衣一枚だけで、申し訳程度に帯を腰に巻きつけているだけの裸同然の男が、素足のまま、猛然と駆けてくるのが見えた。
そのうしろを、やはり猪のように追いかけてくる大男を先頭にした、兵卒の一団が、足音も荒くやってくる。
張飛であった。
「待て、待て! 待ちやがれこの野郎!」
と、張飛は、市場の者たちが、いっせいに怖じて、口を閉ざしてしまうほどの大音声で吼えた。
男のほうは、孔明と老人と老人の台車が邪魔なので、
「爺ぃ、どけどけ! どけ、と言ってるんだ!」
と、わめく。
男は、必死の形相だ。

張飛は、孔明と、その横の荷車が、ちょうどよく男を塞ぐ形で立っているのに気づくと、ぴたり、と足を止めて、手にしていた弓を構えた。
それに倣い、張飛に付き従う兵卒たちも、おなじく弓を構える。
「軍師! そこを動くなよ!」
張飛がなにをしようとしているかを察し、孔明はわずかに庇うように、手を老人の前に広げたが、足は一歩も動かさなかった。
「射かけよ!」
張飛の号令とともに、一斉に弓が放たれた。
ひゅん、と弓を放たれた矢は、まず、いくつかは男のからだを掠め、そのために勢いをなくして、地へ落ちた。
懸命に駆ける男であるが、怪我をしたものと勘違いしたのか、均衡を失って、地面に倒れこんだ。
さらに後発の矢が追いかけてきて、地に倒れてもなお、まだ逃げようと、肘の力でみみずのように這いつくばる男の着物の裾を、土に縫いとめる。
いくつかが、風によって逸れて、孔明たちのもとへ運ばれてきたが、どれも当たらず、瓜に何本か刺さっただけであった。
「よっしゃあ! 捕らえろ!」
張飛の号令に、兵卒たちが、てきぱきと男を引っ立てにかかる。
無精ひげに、怠惰な生活をしている者特有の、どんよりした表情を浮かべた、小汚い男であった。
男は目をまわしており、焦点の定まらない目をして、引きずられるようにして運ばれていった。

「何事ですか」
孔明が声をかけると、張飛が、得意そうに、呵呵大笑しながら答えた。
「いや、なに。つまらん小悪党でな。詐欺師ってやつだ。新兵に、『家族が怪我をして、いま金に困っている。なんとか金を工面して送ってくれ』とかいう内容の手紙を送りつけて、あちこちから小金を集めていやがった」

孔明は柳眉をしかめた。
ずいぶん単純な手であるが、効果は高い。
故郷から引き離された新兵の心は、ただでさえ不安に満ちている。そこへ、故郷の家族の危機を知らされれば、動揺するのは当然だ。
悪辣なことをするものである。

「責めりゃ、もっと余罪が出てきそうだぜ。ったく、つまらねぇ悪事を働きやがって。この野郎ときたら、新兵どもから集めた金でもって、妓楼で豪遊していやがった」
「よく捕まりましたな」
「妓楼の亭主が密告してきてな。このご時世に、身なりが悪いくせして、金回りが良すぎる客がいる、とな。こいつ一人じゃねえ。きっと仲間がいるはずだぜ。詮議は刑吏にまかせるとして」
こほん、と張飛は、咳払いして、それから誇らしげに胸を張った。
「どうだい、おれたちの弓の腕前を、目の前で見たご感想は? 調練の成果がばっちりあらわれてんだろう。今度、また模擬戦をやったら、俺の部隊が、兄貴や子龍の部隊を抜いて、きっと一番になるぜ」
「たしかに、見事な腕前ではございましたが」
と、孔明は、市場のそこかしこで、物陰に隠れて、おっかなびっくりとこちらを伺っている民を見回した。
張飛は、それらには目もくれず、となりで、鼻高々である。やれやれ。
「腕前を披露していただくにしても、場所がよろしくございません。このように女子どもも多い場所では、二度としないでいただきたい」
「ちぇっ、お堅いなあ。誉めるだけにしてくれよ」
張飛の屈託のない調子につられて、孔明は、思わず笑みをこぼす。

当初は、それこそ扱いづらく、もっとも感情をむき出しにして反抗する武将だと思っていたが、慣れれば、これほどに素直で、真っすぐな男はいない。
猛々しい外見の中には、童子のような素顔がある。
だから、つめたい現実に触れると、だれより傷ついて、嘆く。そして暴れる。
この男の本質が理解できなければ、なぜこれほどまでに怒り狂うのか理解できないだろう。
しかも目立つ巨漢である。よくいえば華があるのであるが、一度見たら、忘れられない存在感がある。
印象が強すぎるあまり、なにかあると安易に結び付けられてしまい、そのため、実際よりも悪い評判がたてられる。しかも潔い性格をしているので、言い訳をすることがない。
損な男なのだ。

「それよりも、御覧なさい、せっかく、この御仁が遠方から苦労して運んできた売り物の瓜が、矢のせいで、いくつか駄目になってしまった」
「わかった、わかったよ。おう、爺さん、その瓜、台車ごとぜんぶ買ってやる。いくらだ」
老人は恐縮して、おそるおそる張飛に値段を言う。
張飛は、まとめ買いなのだからすこし負けろ、と言ったが、孔明がちらりと目線を送ると、やっぱり言い値でいい、といって、小袋から料金を取り出した。
老人はというと、張飛から金を受け取りながら、孔明のほうを見て、なにか言いたそうにしている。
孔明は、自分が、諸葛孔明その人だ、ということを告げずに別れるつもりであった。
名乗らなかったことに気まずさをおぼえつつ、孔明は、老人に笑みを返した。
落ち込んで、暗い思考にはまっていたおのれを救ってくれたことに対する、感謝の笑みであった。

「お助けください、軍師さま!」
そのとき、引きずられていく男が、なんとも情けない、弱弱しい声をあげた。
「俺の知っていることは、なんだってぜんぶ喋ります。だから、拷問だけはご勘弁を! おれはただ、頼まれただけなのございます!」
「聞き捨てならぬな。ほかに詐欺師がいると申すのか」
孔明が答えると、男は、両手を兵卒に掴まれたまま、大きく頷いた。
「俺はもともと、代書を生業にしているんでさ。読み書き出来ねぇやつのために、文字を綴ってやるんです。
いつもはまっとうなものを書いているんです、本当ですぜ! 
けど、あいつが、偽の手紙を書いたら、たんまり報酬をやる、って言ってきました。それで賭けがうまくいくから、とかなんとか言ってました。
でも料金が後払いで、俺はまだ料金を受け取ってねぇんでさ。
俺は大金が転がり込むと思ってついつい賭場で遊んじまったんだ。そしたら、大負けですよ、本当についてねぇ! 
しかたねぇから、すぐに金をこさえるために、つい同じ手で、詐欺の手紙を書いてしまったのです。俺を引っ立てるなら、最初に俺を悪の道に誘い込んだやつも同罪にしてください。野郎が俺の前に現われなきゃ、俺はこんなことはしなかった!」
それを聞いて、張飛は怒鳴りつけた。
「あほう! つい、という割には、手が込みすぎているんだよ! おまえの手紙を本物だと信じたヤツのなかにはな、盗みまでして、金を工面しようとしたヤツだっているんだからな! おまえなんぞ、アレだ! 全種類の拷問にかけてやる!」
張飛が怒鳴りつけると、小悪党は顔を恐怖でこわばらせ、ぼろぼろと涙をこぼした。
張飛の言うことは、前半はまったくそのとおりである。
後半は、それこそアレだが。

「残らず、すべてお話しますから、お助けください! 俺を最初にやとったのは、崔州平とかいう、崔家の若旦那ですよ!」
孔明は、いきなり心臓をわしづかみにされたような衝撃をおぼえた。
「まことか!」
「諸葛孔明とかいう珍しい名前のひと宛ての、徐元直ってひとの偽の手紙を作れと。その手紙を使って、孔明という人を寝返りをさせることができたら、賭けに勝てる、って」
「ド阿呆! 諸葛孔明ってのは、ここにいる、この軍師のことだ!」
それを聞くと、男の顔は、ますます強ばったが、同時に輝きもした。
それならば、直に訴えて、罪を軽くしてもらおうと思ったのであろう。
「もっと詳しく申してみよ。崔州平だと名乗った男の人相は」
「四角い顔をした、若い、貴方さまくらいの歳の男でございます。豪族崔家のお方のわりには、うすよごれた格好だったので、よく覚えております」
「崔州平が言っていた、賭けの相手とは、だれかわかるか」
「曹操だ、と。曹操に、あなたさまを寝返らせることができたなら、一生困らないだけの報酬をやるから、と言われたそうです。
支度金だと言って、俺なんかみたこともないほどの大金を、実際にちらつかせていやがりました! 
なのに、手紙を渡したとたん、ぷっつり連絡を寄越さなくなったのです。詐欺にあったのは、俺も同じですぜ! だからおれは、つい魔がさしたんです」
「なんと」
孔明は絶句した。

この小悪党の話が真実であるならば、崔州平から渡された、寝返りを促す徐庶の手紙は、偽物であったことになる。
崔州平が、大胆にも孔明に語っていた賭けの相手というのは、隆中の学問仲間ではなく、曹操だった、というのか。
賄賂に目がくらむような男ではなかった。
しかし、それも人物の読み違いなのか。
あるいは、崔州平の身に、孔明の知らない、何事かが起こったのか?

孔明は、すぐさま警吏を呼び出して、崔州平を探し出すように命令した。
いやな予感がした。
すでに崔州平が妻子とともに暮らしていた屋敷は、もぬけの殻であった。
近隣の者の話では、曹操の侵攻を避けるために、一家を率いて、夜逃げ同然に出ていったという。
警吏の報告に、孔明は暗然とした。
捕らえた代書屋の言うことが本当ならば、崔州平は曹操との『賭け』に負けたことになる。
曹操は賢い人材が好きだ。
隆中のなかでも名士である崔州平には、むやみに手を出さないだろう。
いや、出さなかっただろう。
いまはちがう。
どのような事情からか、崔州平は、曹操から、孔明の寝返りを請け負った。
しかも、支度金と称した大金をもらっている。
だが任務に失敗し、大金を持ち逃げしたのだ。
これは曹操は黙っていないだろう。面子を潰されてしまったのだから。

それにしても、ほんとうに自分をを寝返らせようとするならば、あの徐庶の手紙は、完全に裏目であった。
あんなもで、本当に心変わりをすると思ったのだろうか。
崔州平もまた、わたしという人物を読み違えていたのか…
徐庶の手紙が偽物だったということで、安堵すると同時に、孔明は、やはり胸が塞がれるような気分になる。
いままで、親友と呼び合い、ともに肩を並べて歩いていたのは、なんだったのであろうか、と。

ゆっくりと溶けるように夕日が西の空へ消えていく。
調練場は、最後に当番の兵士たちに清められ、白い石の敷き詰められた床は、茜色に染め上げられていた。
兵士たちの調練の成果で、ところどころに、足の動きのままに、へこんでいる箇所がある。
孔明は、執務室の窓から、もうだれもいない、だだっ広い空間を眺めた。
戦がはじまる。
この中で、どれだけが生き残れるだろう。
軍は恐ろしいものだ。
たとえどのような高い地位に昇っても、軍を操る者は、将兵に、できるだけ多くの死をもたらしてこいと命令する、残酷な者なのだということを忘れてはならない。
そういったのはだれであったか…そう、叔父だ。叔父が死んだのも、こんなふうに、うつくしい夕陽の溶ける日だった。

徐州から豫章の叔父のもとへ避難し、ようやく落ち着いたと思った矢先であった。
帝の綸旨を受けた豫章太守を名乗る男が、軍勢を率いて、襲ってきたのである。
玄の側に備えがなかったのもあり、戦らしい戦にもならず、勝敗はすぐに決した。
当時、劉表と孫家は荊州と揚州の境にほど近い、南陽や豫章を巡って争いをつづけており、この間隙を縫う形で起こった小競り合いであった。
孫家からすれば、叔父の玄は、袁術によって豫章太守に命令された、いわば袁術側の人間である。
袁術と孫家は絶縁状態にあったから、孫家を頼ることはできなかった。
そこで、玄は、姪と甥、それから郎党を率いて、かねてから親交のあった劉表を頼ることとなった。
ここからの旅もまた、恐怖に満ちた旅であった。
敵は、叔父が逃亡したのを見ると、すぐにこれに賞金をかけた。
そのため、欲に駆られた者たちが、道中の一行を襲いつづけてきた。
徐州からの避難行とは比べものにならないほどの、危険なものであった。
叔父と、その部曲がついていてもなお、夜もろくに眠れない日が続いた。
なんとか荊州にたどり着き、叔父は劉表と対面した。
劉表は、諸葛一族を庇護することを約束し、新太守に使者を送り、ともかく太守の座をゆずれば、賞金首を取り下げる、という言質をとってくれた。
追い出されて、逃げ出したのであるから、当然、屈辱があるわけだが、玄は、子供たちの手前か、けして、恨み言を口にしなかった。
生きていられるのであれば、それだけで十分だと笑っていた。
周囲は、それを臆病者の強がりだとか、負け犬の遠吠えだ、などといって哂ったが、玄という男は、虚勢ではなく、本当にそう思っていたのだ。
おおよそ、目に見える物に対し、あれほど執着のなかった男はいない。
貧しい者がいれば施したし、同盟を組んだ者から請われれば、兵も兵糧も惜しみなく与えた。
気前がよいというよりは、金や地位に、価値を感じなかったのだ。
少年の孔明でさえ、叔父のやり方を見ていて、やりすぎではないか、だまされているのではと不安になったことがある。
それを訴えると、叔父は、おまえは心配性だと笑った。
真に無邪気というのは、こういう人のことを指すのだと、孔明は呆れた。
それでも叔父が好きであった。
馬鹿にされることもあったし、いつも他人に美味しいところをさらわれてしまい、損ばかりしている男であったが、いざとなれば、雄雄しく、すべてを賭けて自分たちを守ってくれる、芯から優しい、大切な砦であった。
孔明からすれば、たとえ馬鹿にされようと、臆病と罵られようと、生きていてさえくれれば、それだけでほんとうによかったのだ。

劉表は諸葛一族を迎えると、南陽に居住することを許してくれた。
今度こそ、落ち着ける。そうそう悪いことが重なるはずがない。
孔明は信じた。
おそらく、一族の誰もがそう思ったであろう。

玄は、孔明を伴って劉表のいる樊城へ行った。
特に用事があったわけではない。劉表のご機嫌取りをするための表敬訪問であった。
廊下を歩いていた。
すると、不意に男が現れて、玄にもたれかかった。
一瞬だった。
孔明が、男の手にある刃に気づいたときには遅かった。
いまも鮮やかに思い出せる、夕陽を照り返す、茜色の刃。
夕陽よりもなお赤い、血潮。
玄は、腹を割かれていた。
おどろき怯える孔明に、血の滲む腹をおさえながら、それでも、大事無い、と安心させるように笑った。
すぐに人が集まって、刺した男は取り押さえられたが、警吏に渡される前に、刺客は舌を噛んで自害した。
玄は手厚い看護を受けたが、その日のうちに、亡くなった。
刺客が何者であったかはわからなかったが、劉表は、新太守が差し向けてきたものだと言い、結局のところ、いまも正体がわからない。
少年時代は終わった。
十六歳の孔明は、一族を守るために、世間の前に立たなくてはならなくなった。

五へつづく
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(C)Hasamino Nakama 2003