孤月的陣
夢の章 三
2009年改訂版
ふと、崔州平の顔を見て、過った言葉がある。
いつわりの誇りは、人を傷つけるものだ、と。
そう言ったのは徐庶であった。
徐庶は、おのれの過去について、多くを語る男ではなかった。
無口で、いつもなにかと戦っているように、厳しいまなざしで虚空をにらんでいた。
人と対峙するときには、嘘偽りなく、まっすぐな気持ちで対峙した。
徐庶は、孔明の中にある、世間知らずで危うい部分を心配し、たびたび諌めてくれていた。
その裏に、どれほどの痛みがあったのか、当時は想像すらしなかった。
いまならば、徐庶の言葉のひとつひとつを、重みをもって思い出せる。
できることならば、一度で良いから、ふたたび会って、おのれのつたなさ、幼さを謝りたい。
わたしと共に、徐庶の言葉を聞いていたはずのこの男は、いったい、どうして、これほどまでにずれてしまったのだろう。
いや、ちがう。
わたしのなかにいま生まれている嫌悪は、州平に向けてのものではない。
おなじように偏見と、いつわりの誇りのなかにいた、過去の自分の姿を州平に重ねて、苛立っているに過ぎない。
以前のように、むやみやたらに、ひとに棘を突き刺すわたしであってはならない。
孔明は、おのれの中に沸きあがった思いを鎮めるべく、大きく息を吐いた。
「州平、きみは、なぜわたしを呼び出したのだね?」
「おお、そうであった、徐庶からの手紙を渡そうと思ったのだ」
「手紙? 徐兄の? ほんとうに?」
「本当だとも。さすがにおまえに直接送るのは、まずいと思ったのだろう。俺を通して寄越したのだ。見てみるがいい」
そういうと、崔州平は、はるばる中原より旅をしてきた書簡を、孔明に差し出した。
徐兄から。
そう思っただけで、孔明の手は震え、慕わしさのあまり、子供のように泣きそうになった。
共にいた歳月の、さまざまなよき思い出が、一瞬にして駆け抜ける。
よかった、彼だけは、わたしを忘れていなかった。
それを崔州平に悟られないように、書簡を受け取り、はやる気持ちを抑えて、中身を開いた。
なつかしい文字が、まず眼を射た。
蝉の声が響いている。
突き刺すような夏の日ざしに、崔州平は、ひっきりなしに手ぬぐいで汗を拭いている。
たまに森をぬける、すずしい風が吹いてきて、さわさわとあたりの草木を、やさしく揺らした。
よく自分は、声をあげないものだと、孔明は、どこか冷めた心地で思っていた。
そして、よく、書簡を投げ捨てないものだ、と。
書簡には、いかに曹操のもとで、自分が厚遇されているか、母と共に安穏と暮らしているかが、長々と書かれていた。
そして、曹操のもとに降れば、よい暮らしができるし、以前のような往来も可能なのだから、こちらへ来ないか、と誘っていた。
劉備のもとで、孔明がどんなふうに過ごしているのか、それを心配する言葉はひとつもなかった。
孔明に対し、ひとことでも、芯から訴えることばはなかった。
どれも、陳腐な自慢話にしか読み取れない。
徐兄は変わった。
いいや、変えられてしまったのだ。
ひとごろしの流れ者だと蔑まれ、だれからも相手にされなくても、いつも毅然として、堂々と胸を張っていた。
その揺るぎないまなざしと、凛とした矜持が好きだった。
叔父を失い、姉弟と、必死になって荊州で生きてきた。
心が張り詰めて、裂けてしまいそうだったとき、助けてくれたのが、徐庶だった。
本当の意味での優しい男だったと思う。
うわべだけの優しさではない。時には真剣に叱ってくれたし、おなじように、真剣に心配し、つまずいたら、立ちあがるまで、そばにいて励ましてくれるような男だった。
この書簡を書いた男は誰だ。
こんな男は知らない。
こんな俗物は、徐兄であるはずがない。
劉備の軍師になったのも、徐庶が見込んだ人物だと思ったのもおおきな要因なのだ。
それなのに、その徐庶が、曹操への帰順を訴えている?
怒りのあまり、ながく沈黙する孔明に、崔州平が言った。
「どうだ、おまえも徐庶とともに、中原に行く気はないのか」
「くだらない冗談は、よしてくれ」
書簡に眼を落としたまま、孔明は、自分でもぎょっとするほどのつめたい声で、きっぱりと否定した。
「孔明、顔を上げてくれ」
さきほどまでの、倣岸なまでの嘲弄が、崔州平の顔から消えている。
その眼はまっすぐに、こわばったままの孔明を見ていた。
「おれは冗談で言っているのではないのだ。曹操がいやなら、どこかほかの土地でもかまわん。おまえ、このままでは死ぬぞ」
「死ぬ? なぜだ」
「子供でもわかる理屈だぞ。曹操は今度は本気だ。脅威だった袁家は完全に滅んだ。背後はなにも気にしなくていい。馬家の動きだって、いまの曹操なら、簡単に止められるさ。
それに、馬家がもし、機会に乗じて暴れだしたとしても、先に南を制覇し、返す刀で馬家を制圧したほうが、曹操にとっては楽な方法だ。
馬家の勢力というのは、蛮族の連合だからな。それに、連合しなくちゃいけないもの同士が、実はたがいにいがみ合っていることも、曹操はお見通しだ。
官渡を勝ち抜いた曹操にとっちゃ、赤ん坊みたいに見えるだろうよ。これは、何度となく、おまえとも話したことじゃないか。
今度の曹操の軍は、何十万という規模になろう。それに対して、劉備はどうだ? 付け焼刃で徴兵したところで、数万にも満たないであろう。おれは親友の二人が、敵味方に分かれて、争って死ぬのを見たくないのだ」
「死ぬと決めつけないでくれ。策はある」
「おまえの言う策とて、もともとは徐庶のものを継承したのだろう。わからぬか、徐庶は曹操に降ったのだ。手土産に、まちがいなく新野城の情報を曹操に渡している。新野城のことは、曹操に筒抜けなのだ。勝ち目はない」
孔明は、眦をつよくして、崔州平を睨みつけた。
「州平、おまえはわたしに、裏切り者になれ、というのか」
「たしかに裏切るカタチにはなるが、世人はだれもおまえを責めぬ。劉備の命運は、とうの昔に風前の灯火であったのだ。一介の書生が努力したところで、運命は変えようがない」
「一介の書生、か」
新野城の人間が、その言葉を口にしなくなったと思ったら、今度は同窓の親友が、その言葉を口にする。
孔明は声を立てずに、わらった。
「たしかにわたしは一介の書生に過ぎないよ。だがな、もう事はすでに動き出している。
きみのいう侠客集団も、自分たちの志をつらぬくために、いま必死になって、それぞれに戦っている。もしそれを見捨てたら、わたしは、わたしを一生、ゆるすことはできないだろう」
「妙に生真面目なことを言うな。おまえ、奥方のことを考えたことがあるのか。気の毒に、蔡家からは相当に圧力がかかっているそうだぞ。
おまえは身内を巻き添えにして、心が痛まないのか。烈士を気取るのもよいが、まわりのことを考えろ」
「州平、わたしは劉玄徳の軍師なのだ。ひとたび軍師という役目を拝命した以上、いかなるものを犠牲にしても、やむを得ないという覚悟はできている。
変節漢をあれだけ嘲っていたきみが、友と呼ぶこのわたしに、世人より卑しまれる者になれ、というのか?」
崔州平は、顔をあからめ、孔明をにらみ、孔明は、冴えたまなざしで、それを受け止めた。
初夏の風が駆けぬけ、後れ毛をなぶる。
さきに口を開いたのは、崔州平のほうであった。
「愚かしいことだ。叔父と甥とでそろって、道理を通すためだけに死を選ぶとはな」
一瞬、すべての音と光景が、世界から消えた。
崔州平が、跳ね飛ばされ、黄色い地面に突っ伏していく。
それだけが見えた。
頬を切ったらしい。
唇から血が垂れて、砂によごれた髯を、さらによごした。
崔州平は、自身の唇を拭いつつ、その掌についた血を見て、鼻で笑った。
「短気も治ってないな。徐庶が見たら泣くぜ」
「黙れ!」
孔明は、おのれが、たとえ護身用でも武器を持っていなかったことに安堵した。
そうでなければ、この場でこの男に斬りつけていたかもしれない。
それほどにつよい怒りであった。体の震えをおさめるのがやっとであった。
崔州平は、孔明を、軽蔑の籠もった目で睨め上げる。
「おまえが新野城の人間に感化されてしまったのかと心配していたが、そうじゃないな。
おまえは、もともと、連中と同じなのさ。武を好み、血を好む。人を足元に踏みつけて、戦いを求めて生きているのさ。それがおまえなのだ」
「なんとでもいえ。きみが口ばかりの人間だと言うことが、よくわかったよ。いままでのわたしは馬鹿だった。きみのことを、真から友人だと信じていたのだからな!
わたしが変わったのではない。きみが変われなかったのだ! そして徐兄の志は死んだ。そういうことなのだ。
わたしはちがう。きみたちと交わした論議は、きみたちにとっては、遊戯であったのかもしれないが、わたしにとっては、玉条に等しいものだった。
きみたちがわたしを裏切るというのなら、それでいい。しかし、わたしは、きみたちが、一度は本心から語った言葉を自分の志にして生きていくだろう」
崔州平は、口に含んだ砂を吐きだして、言った。
「おまえは、もう俺たちとは、ちがうというのか」
「ちがう。わたしは、きみたちのようには、決してならない」
「ふん。ずいぶんとえらくなったものだな、軍師殿」
崔州平は、服に付いた埃をはたきつつ、冷笑をうかべて言った。
「せいぜい、軍師、軍師とかつがれて、お山の大将を気取っているがいいさ。徐庶にもおまえのことを伝えておく。おそらく、手紙もこれきりになるだろう。
おれは一族を率いて東へ行く予定だ。おまえのように、昔の仲間をないがしろにしたり、妻子を冷たく切りはなすような薄情なまねはできないのでね。もしふたたび荊州に戻ることがあるならば、墓参りくらいはしてやるよ」
「その気遣いは無用だ。わたしはかならず、きみよりも長生きをする。死ぬために戦うのではない。生きるために戦うのだ。どのような状況にあれ、わたしは生きるための策を練り続けるぞ。どのような恥を受けても、かならず生き残って、最後には勝つ。
ありがとう、州平。わたしも迷いが吹っ飛んだ。もう、きみになにを言われようと、なにも思わない。きみが首尾よく東へ逃げおおせて、心が変わるようなことがあったなら、わたしを訪ねてくるといい」
「いいや、二度と会うまい」
「そうか。ではさらばだ」
その二人の姿を見たら、だれが、これが旧友同士の対面であったと思うだろうか。
崔州平は、怒りを抑えかねた顔で、じっと孔明をにらみつけていた。
その眼差しを、眼をそらさず、孔明は受け止める。
崔州平は、やがておおきく鼻を鳴らし、腫れてきた頬をおさえながら、無言のまま、背をむけて立ち去った。
二度と振り向くことはなかった。
わたしはたったいま、拳で過去を叩きこわしたのだな、と、その背中を見送りつつ、孔明は思った。
もっと要領がよくて、もっと思いやりがあって、もっと度量があれば、一度は親友と見なしていた男と、こんなぶざまな別れをしなくて済んだのだろうか。
しかし、叔父のことを言われてしまうと、だめであった。
叔父を失って、どれだけ孔明が衝撃を受けたか、その衝撃は、心ばかりではなく、世のすべての人に対する恐れという、極端な形で残されてしまっていることを、崔州平は知っているのだ。
知っていて、あんなふうに蔑んでみせた。
おのれのことだけならばいい。
だが、叔父のことは別だ。
もうなにがあっても、許すことはないだろう。
つめたい、といった崔州平の言葉が、痛みとともに思い出される。
過去をないがしろにして、家族をも切り捨てて、つめたい。薄情だ、と。
それもまた、自分の一面なのだろう。
志のためならば、妻を捨て、友も捨て、おのれのためだけに生き残る。
こんなおそろしい身勝手な部分に、徐庶は気づいていたのかもしれない。
だから、捨てられてしまったのかもしれない。
崔州平のうしろ姿が、完全に見えなくなったとき、孔明は、確実に、自分の一時代に、幕がおりたことを悟った。
乾いた笑いが唇から漏れる。
なんとむなしい幕切れ。
しかし、冷血なおのれには、ふさわしいものかもしれぬ。
そのまますぐに新野城に帰ることが、どうしても辛かったので、孔明は牛のようにゆっくりと、どんどんきつくなる夏の陽射しを受けながら、歩いた。
地面に投じる、おのれの影が、濃い。
当然のことだ。強い光を浴びれば浴びるほど、影はどんどん濃くなってゆく。
孔明が、司馬徳操の門下にくわわったばかりのときは、まだ背も、いまほど高くなかった。
当時は、飛びぬけて色が白く、少女のようなはかなげな面差しをしているのに、外見を裏切って、ずいぶんと生意気だ、というので、先輩たちと喧嘩になることが絶えなかった。
律儀な性格が裏目に出て、孔明は、売られた喧嘩はすべて買った。
負けることが最初から判っていても、逃げずに買った。
喧嘩を売られる理由は『生意気』だとか『えらそう』『目つきが人を馬鹿にしている』『うぬぼれや』そのほかもろもろ。
『汚らしい』と『卑怯』がなかったのだけは、孔明の自慢である。
一度などは、数人で顔ばかり集中して殴られて、顔が倍に腫れあがったこともある。
それを見た姉が激怒して、相手の家長へ直談判をしにいく、とまで言ったが、孔明は頑として、姉が出て行くことをゆるさなかった。
眼だって満足に開かないほどに顔が腫れていても、孔明は気にせずに、司馬徳操の塾へ行った。
最初は、孔明に友と呼べる人物が、ひとりもいなかった。
ありとあらゆる兄弟子たちにきらわれ、無視されている徐州の(よそものの)新入りなどに、わざわざ近づく者はいない。厄介ごとを抱える余裕のある者は、どこにもいなかった。
それに孔明のほうにも問題があった。
叔父を失ったばかりで人間不信に陥っており、めったなことでは笑顔を見せず、しかも口を開けば辛辣な嫌味と知ったかぶり、という状態なのだから、反発を買っても仕方のないところがあったのだ。
いつものように、塾の休み時間に、腫れた顔を近くの小川で冷していると、めずらしく声をかけてくる者があった。
だれかが嘲いに来たのかな、と構えた孔明であるが、そうではなかった。
「おまえ、見かけによらず、意外に喧嘩早いのだな」
と、その男は言った。
声をかけてきた男の顔をみて、孔明は意外に思った。
荊州豪族の子弟が多い司馬徳操の塾のなかで、その男だけは、雰囲気がちがっていた。
まず、着ている服がボロである。
だれよりも遜った態度を取っているが、どこか硬質で近寄りがたい。
かつて剣客だったという、特異な前身を持っている。
友達が石広元という偏屈者だけ。
たしか、徐庶、というのではなかったかな、と孔明は、どう答えたものかつかみかね、返事もせず、判る範囲での徐庶のことを思い出していた。
以前から、徐庶には、おなじ嫌われ者同志、ということで、親近感は多少あったけれども、いままで言葉を交わしたことはない。
長身で、けもののようにしなやかな体躯をしている。
質素な着物をぞろりと着流しており、その世間慣れした雰囲気が、世間知らずの良家の子弟の中ににあって、独特の存在感を放っている。
双眸に力のある若者で、口に黒々と髯をたくわえているのだが、不潔な印象はない。
その学生らしからぬ風体にくわえて、だれよりも朝一番に塾にあらわれて、ひとりで教室の掃除をしているので、口のわるい者などは、
「あれはうちの塾の小間使いだ」
といって馬鹿にした。
孔明も同じように考えていたわけではないが、あえて無視をして、顔を清水でぬぐった。
人と関わるのはまっぴらだと思っていたのである。
しかし、顔だけではなく、手も腫れているため、思うように水を掬えない。
見かねたのか、徐庶が近寄ってきて、孔明に手ぬぐいを差し出した。
孔明が戸惑い、受け取らないでいると、徐庶は苦笑を浮かべて言った。
「汚れてはおらぬぞ」
貧乏人は汚れていて臭い、と公言してはばからないばか者も、中にはいる。
徐庶も、家柄を鼻にかけていて威張っている者たちに、同じように悪口を叩かれているのを孔明は知っていた。
ここで受け取らねば連中の仲間のように思われる。それは我慢ならないことであったから、孔明は、手ぬぐいを受け取った。
「ありがとう」
「お、喋れるのだな」
やはりからかいにきたのかと、孔明は、人間不信に満ちた、くらい眼差しでもって徐庶をにらみつけた。
しかし、徐庶のほうは、その視線を和らげようとでもしているように、手をひらひらと振って、言った。
「おっと、そんな恐ろしい目で睨むな。おまえをからかいに来たのではない」
「では、なぜわたしに声をかけてきた」
「困っているやつを見たら助けるものだろう」
「べつに困ってなんかいない」
「しかし、満足に顔を冷せないでいたではないか」
そちらの「困る」か、と思いつつ、孔明は特に腫れて、黒くなっている部分に、冷えた手ぬぐいを当てた。
「おまえは名前のとおりだな」
と、痛みと腫れのために震えている孔明の手から手ぬぐいをとると、徐庶は、自分で清水に手ぬぐいをさらして、ゆるく絞り、孔明の顔に当てようと、手を伸ばしてきた。
孔明は、とっさに身を引いて、徐庶の手を逃れる。
空振りの手をおさめつつ、徐庶は戸惑って孔明を見た。
怒るかと思えば、そうではなく、孔明の表情に、むしろすまなさそうに口を曲げてみせる。
孔明は、自分の顔に、恐怖の色が浮かんでいたことを悟り、あわてて顔をそむけた。
「急にすまなかった。悪かった」
「べつに。あまり、人に触れられるのは好きじゃない」
「そうみたいだな。おまえを見ていたら、だれかが肩に手をかけてきただけで怒っている。最初は、深窓の姫君ゆえのわがままかと思ったが、ちがうようだな」
「遠慮のない人だな」
苛立って、孔明は小川から離れ、塾のほうに戻ろうとする。
そのうしろから、徐庶が追いかけてきた。
「おい、待てよ。すこしでも冷さないと、もっとひどくなるぜ」
「放っておいてくれ。なぜ、わたしにかまう」
「興味があるから」
端的な言葉に、逆に興味をひかれ、孔明は足を止めて振り返った。
「どういう意味だ?」
「このあいだ、おまえと一緒に市場で買い物をしている姉さんを見たぞ。きれいな方だな」
なんだ、姉上狙いか、と孔明は、むっとして思った。
落ち着いてきてから、孔明が叔父から譲り受けた財産と、姉の美貌に惹かれて寄ってくる男が増えてきた。
きらわれ者の孔明に声をかけてくるのは、孔明自身に興味があるのではなく、孔明の金と、姉に興味があるからなのだ。
徐庶は、孔明の剣呑な目線に気づかないのか、それとも気づかないフリをしているのか。
かつて剣客だった、というのが信じられないほど、ゆったりとした喋り方をする男であった。
「正直、うらやましいなと思ったよ。きれいな姉さんと、仲のいい弟。暮らしに困らぬほどの財貨があり、しかも名家。
それにおまえ自身も、稀なほどに綺麗な顔をしている。説客になるならば、この美貌は武器になるぞ。その不遜な態度だって、長じればもっと板についてきて、白を黒と言い含められるくらいの説得力を持つ、堂々としたものになるだろう」
「それはどうも」
腫れた顔をさらにしかめようとして、思わず痛さが走る。
それを見て、徐庶は愉快そうに声を立てて笑った。嫌味な笑いではなく、心底、面白がっているようであった。
「孔明、か。『はなはだ明るい』とは、おまえにぴったりの名前だ」
「父上が、叔父上と相談して考えてくれた字だそうだ」
叔父のことを考えると、孔明の気分はどうしても暗く落ちていく。
血潮のように夕陽に赤く染まった樊城と、黒い影、床と壁に散った、本物の血。
あまりに赤すぎる光景のなかで、血は影のように黒く見えていた。
叔父に男が話しかける。
叔父が足を止め、振り向く。
途端、男が叔父に持たれこむ。
叔父の顔が驚愕に見開かれ、そして、男と叔父のあいだにあるのは、刃であった。
うろたえ、人を呼ぶこともできず、唖然とするだけであった孔明に、叔父は、刺された腹を抱えたまま、微笑みかけてきた。
安心しろとでも言うかのように。
男の正体は判らない。
叔父を刺したあと、飛んできた警吏に捕らえられる直前、逃れられぬと観念したものか、舌を噛んで絶命した。
すぐに人が駆けつけてきて、手当てを施してくれたが、ほどなく叔父は死亡した。
もはや明瞭な言葉を口にすることすらできなくなっていた。
叔父のこぼした血を受けたまま、孔明は、目の前で消えた二人の死を見つめるだけであった。
叔父は、予章をめぐる争いで、朱皓と対立していたから、おそらく朱皓の刺客であろうと、人は言った。
孔明はどうしてもわからなかった。
叔父はとても立派な人物であった。
三人の姪と甥を、実子のように可愛がって育ててくれた。
自身の領民にも、同じように分け隔てなく接して、慕われていた。
叔父の悪口を聞いたことがないほどであった。
それなのに、なぜ、こんな無惨な死を迎えねばならなかったのか。
叔父の死後、諸葛家の家督は孔明が継ぐことになった。
そのまま、叔父の権利を主張しなかったのは、同じく刺客に狙われることを恐れてのことである。
そして、叔父の残してくれた財貨とともに、姉弟とともに、襄陽へ越してきたのであった。
琅邪から荊州への道中でも、多くの死を見てきた。
しかし、それは孔明にとって、風景の一部に過ぎないものであった。
恐ろしい、悲しい風景であったが、そこに心を寄せることはできなかった。いや、してはならないと、頭のどこかで警告が鳴る。見すぎてはならない、と。
それは正常な判断だっただろう。
ひとつひとつに心を寄せていては、感受性のつよすぎる少年の精神はもたなかったはずだ。
だから、必要以上に考えること、同情することを止め、風景として記憶に止めるだけにしてきた。
しかし、叔父の死は、孔明が始めて触れた『意味をもつ死』であった。
暴力と、そのもたらす悲惨な結果を、目の当たりにしたことで、孔明の心に、つよい人間不信と、人間そのものに対する恐怖が生まれたのである。
十六の少年の頭のなかで、叔父が暗殺されたことに対する恐怖、兄と義母の不義への嫌悪は、容易に結びついた。
結果、孔明の心には深い傷が刻まれた。
それは、人から触れられることに対する恐怖に転じていったのだ。
「よい字だ」
と、徐庶は繰り返した。
しつこく、家のことを聞かれるかと構えていた孔明であるが、徐庶はそういうつもりはないらしい。
なぜ、兄弟子たちと喧嘩が絶えないかといえば、妙になれなれしくしてきたり、あるいは、逆に家のことを根堀り葉堀り、聞いてくるからだ。
目的はわかっている。自分に興味があるのではなく、姉と金、あるいは両方に近づきたいからだ。
聞かれれば、叔父のことにどうしても触れなくてはならなくなる。
口を閉ざせば、お高く止まっていると言われるし、中には年長だからとか、豪族の一門だからとかいう理由で、脅しをかけてくる者もいる。
だから孔明は喧嘩をするのである。
たとえ暴力で打ちのめされることになっても、卑屈な態度をとって、あとで後悔するよりは、ずっとマシだと思ったからだ。
「元直だって悪くはない。貴方は、わたしの字を誉めに来たのか?」
「おまえを見ていると、なぜだか面白い。怒るなよ。俺は正直なところ、おまえみたいに本当の意味で派手なやつを初めて見た」
「どういう意味?」
「見た目がどうとかいう意味じゃないぜ。なんというかな、おまえには光るものがある」
「そう」
さすがに面と向かって言われて、孔明は照れたが、もともと顔が腫れているために、頬が紅潮したことは、徐庶には気づかれなかった。
「明るく輝くがゆえに、出来る影もまた濃い。おまえを気に入らぬという輩は、おまえが妬ましくてしかたがないのだろうな。妬ましいのだが、おのれでもどうしようもないことに気がついている」
「そうだろうか。単に、連中が莫迦だからじゃないのか」
と孔明が言うと、徐庶は同調せずに、言った。
「だがな、いかに優れた素質をもっていたとしても、それを生かすことができるかどうかは、別だぜ。連中とおなじ程度に止まって、いちいち相手にしているのは、利巧なやりかたかな。おまえ、いまのままでは、おのれでおのれを駄目にしてしまうぞ」
「さっきから、なんなのだ。意味ありげなことばかり言って、本当はなにが言いたい?」
苛立った孔明に、徐庶はうしろ頭をかきつつ、答えた。
「だよな。怒るよな」
「怒るとわかっていて、なぜ言う」
「まったくだ。しかし、なぜだか、言ってやらなくちゃいけないような気がしたのさ。俺は口下手なので、どうも人を怒らせる。俺がなにを言いたかったのかといえばだ」
「なんだ」
「おまえは莫迦だ、ということだ。自分で自分の可能性を潰している」
孔明はおどろいた。
喧嘩の相手に罵倒されるのはいつものことであったし、莫迦扱いされるのも日常茶飯事であったが、徐庶の口にした『莫迦』は、いままで聞いた、どの言葉よりも深い意味を持っていた。
それから徐庶は、孔明の人生につよい影響を与える人間になっていく。
ふと、水音がした。
蝉の声、せせらぎ、そして、水の跳ねる音。
道から茂みを見下ろすと、ちょうど小さな泉があって、そこで、近在の村の子どもたちが遊んでいた。
木陰では、子どもたちの母親らしい、恰幅のよい女が、座って刺繍を行っている。
なんと、のどかな風景か。
心がささくれ立っていた孔明は、郷愁さえ感じさせてくれる穏やかな風景にほっとして、引き込まれるように、泉のほうへ下りていった。
孔明が岸辺にあらわれると、子どもと母親は、立派な身なりのひとが、いったいなんだろう、と驚いたようであったが、孔明がにっこりと微笑みかけると、安心したのか、ふたたび子どもは遊びはじめ、母親は手元に目を戻した。
ふつうの農家の一軒分くらいの大きさしかない、ちいさな泉であった。
つづいた雨のせいか、少々、水かさが増しているようである。
底のほうまで澄んだ水には、げんごろうや小魚が泳いでいた。
四へつづく
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(C)Hasamino Nakama 2003