孤月的陣
夢の章 二
2009年改訂版
「軍師どの、お目覚めでしたか」
自分では、あまり寝過ごしたという自覚がなかったのであるが、どうやらそうではなかったらしい。
やってきたのは糜竺、字を子仲である。
足音を立てずに、竹簡をかかえて、しずしずとこちらにやってくる。
そろそろ五十になる男であるが、荒くれ者の多い劉備陣営のなかでも、気品のある、清潔な雰囲気をまとった人物だ。
実際に徐州でも指折りの名家の出で、教養も人脈もあり、なにかと他者にきびしい関羽でさえ、糜竺には気をつかっている。
しかし孔明にとっては、糜竺、というのは、どう付き合ってよいのか、その対処の仕方のわからない人物の一人であった。
おなじ徐州の出身、というせいもあるのか、ほかの家臣が敵意をむき出しにして孔明に当たるのに対し、糜竺だけは、最初から穏やかに接してくれている。
その向けてくる温かみのある笑顔も、同情や計算によって作られたものではなく、芯から、孔明をこころよく思っている様子である。
とはいえ、その温かな感情も、軍師として尊敬している、というのではなく、遠来の親戚の子に、久しぶりに会えてうれしい、といったふうな類のものに感じられるのだ。
当然のことながら、遠い親戚でもなんでもない。
孔明としては、一面識もなかった人物から、そこまで好意を示されることは初めてであったので、糜竺との距離感を測りかねているのである。
「申し訳ございませぬ。寝過ごしてしまったようで」
と孔明が言うと、糜竺は、白皙のおだやかな顔に、やわらかな笑みを浮かべた。
「いいえ、わたくしが早起きをしたまでのこと」
と、糜竺はわらい、ふと、頭をめぐらせて、調練場のほうを見やった。
「おお、ここまで兵たちの声が聞こえてきますな。しばらく雨がつづいておりましたので、皆、なまった身体を動かしたくて、うずうずしていることでしょう。
此度の調練は、皆さま、気合がちがう様子。兵たちもはりきって励んでおるようで、関羽どのが、此度あつめた兵は、面構えがちがう、と喜んでおられましたぞ」
「それは良かった。して、急なご用件ですかな」
「いえ、出立の前にお会いしたいと思いまして」
「出立?」
と、鸚鵡返しにして、孔明は、ハテ、と首をかしげた。
劉備から、新野のあらゆる仕事の采配をまかされた孔明であるが、糜竺には、その人脈を活かし、対外的な仕事…商人との交渉、荊州人士との連絡など…をまかせていた。
しかし、今日の予定に、遠出はなかったはずである。
怪訝に思っている孔明に、糜竺は言った。
「突然で申しあげにくいのですが、主公におねがいし、わたくし、しばらくお暇をいただくことと相成りました」
孔明は、とっさに言葉の意味を理解できず、呆けてぽかんとした。
糜竺のほうは、言葉の重さに気づいていないかのように、あきれるほどに、その穏やかな顔な笑みを動かさない。
その顔を眺めつつ、徐々に頭がまわりはじめる。
「主公の危機を前に、お見捨てになる、というのか」
思わず孔明の声がかすれた。
劉備の夫人のひとりは、糜竺の妹である。
糜一族は、私財を投げ打って、劉備に忠誠を誓ってきた一族である。
まず裏切りはないだろうと思われていた人物からの、意外な申し出であった。
「まことに、主公のご了解をいただいたのですか?」
「主公はよし、と」
「まさか」
怒りより、驚きが先に立って、感情が麻痺している。
最初に浮かんだのは、この男も、徐庶のように、去っていってしまうのか、ということであったが、孔明は、すぐにその感傷的な思いを打ち消した。
いや、対外的なことのほうが問題だ。
徐州の名家・糜家の名があればこそ、劉玄徳のいまはある。
それが去ってしまうとなれば、糜竺を信頼してあつまってきた人々も、ともにいなくなる、ということだ。
それほどに、糜竺の吸引力というものはつよい。
めずらしく狼狽を隠さない孔明に、糜竺は、仮面のような笑顔で、答えた。
「軍師、すぐにはおわかりいただけないものということは、十分に判っておりますが、そこを曲げてお願い申し上げる。お暇をいただくのは、荊州での、私自身の決着をつけるためでございます。これに蹴りをつけなければ、わたくしは、主公のお側にはべる資格のない者に成り下がってしまいます」
「どういう意味です?」
しかし糜竺は笑みを崩さぬまま、追求は無用、と首を横にふった。
「もしこの決着がついたなら、わたくしはかならずや、ふたたび、主公の前に戻ってまいります」
そのような、と口にしようとした途端、孔明は、拱手した糜竺の袖のむこうに隠れた、真摯でするどい眼光にぶつかり、沈黙した。
普段の好々爺然とした糜竺とはかけはなれた、心に強い意志を秘めた男がここにいる。巌のように、その意志は翻るまい。
なにか深い事情がある、ということは理解した。
しかし、それがなんであるかは、孔明にはわからない。
主公でさえ、このまなざしの前にあっては無力であったろう。
孔明は観念した。
劉備にできなかったのであれば、ほかの誰にも、糜竺の心を動かすことはできない。
「妹君はどうされる」
「あれはすでに主公に嫁いだ身。わたしと共に出て行くことはございませぬ」
「弟君は」
「あれも同じく、主公の元に留まります」
「かならず、お戻りくださるか」
それを聞くと、糜竺はむろん、というふうに、つよくうなずいた。
「お約束いたします。なにより、主公と、貴殿のために戻ってまいります」
「わたくしの?」
またも理由のわからない贔屓である。
おのれでも知らないあいだに、この敬愛すべき先輩文官に、なにか感謝されるようなことをしたのだろうか。
「もしわたくしに何事かあって、戻らぬときでも、ここにいる息子たちが、しっかり代わりを勤めてくれましょう」
糜竺の背後には、まだ十五をわずかに過ぎたばかりの少年と、孔明よりいくらか年下の、二十半ばの青年がいた。
どちらもまっ黒に日焼けして、鍛えられた肉体をしていた。
しかしその二人は、どちらも糜竺と似通っていなかった。
兄弟でもない様子で、少年と青年に、共通する部分もない。
「たしか、ご子息はお一人とうかがっておりましたが?」
「ええ、この子たちは糜姓ではございませぬ。わけあって、わが子として迎えることになった子たちなのです。
いままでは、主公のご厚情により、ほかの兵卒とともに鍛錬に参加することもなく、気ままに過ごして参りましたが、この度は、そうはまいりませぬ。そこでお許しを戴いて、将として加えていただくことになりました。
とはいえ、世間知らずなものですから、まずは新兵として扱っていただきたいと主公にお願いしましたところ、それでは、ということで、趙子龍の軍に加えていただくことになったのです」
「子龍の? 糜芳どのではなく?」
思わず孔明は口にしていた。
糜竺には、糜芳という、弓馬に長けた弟があり、これがりっぱに一軍を率いている。
しかし、この糜芳、どういうわけなのか、趙雲をきらっている。
趙雲、字は子龍は、孔明の主騎をつとめている男だ。
不思議な男で、人の評価がまっ二つに分かれる男でもある。
よいほうに評価する者は、寡黙で沈着、信頼できる男だと言い、わるいほうに評価する者は、なにを考えているかつかめず、どこか得体が知れない、と言う。
後者の意見を、だれよりもつよく持っているのが糜芳であった。
あれは和に欠ける男だ、物腰は丁寧であるが、どこか無礼だ、と公言してはばからない。
血が繋がらないとはいえ、甥にあたる人物が、きらいな武将の軍に配属されたら、叔父たる糜芳としては、おもしろくないのでは当然だ。
曹操の南下に対して、いまは全軍がまとまらねばならない時期なのだ。
いらざる混乱は無用である。
それは糜竺とて知らないはずはない。
なのに、どうしてわざわざ趙雲に養子を託すのであろうか。
孔明の戸惑いを読んだか、糜竺は、悲しそうに首をふった。
「弟は駄目だ。武勇と家名に恃むばかりで、人と協調することを知らぬ。兄であるわたしの言うことさえも、まるで耳に入れようとしない。貴殿の御宅がうらやましい」
「わたしの? 弟に会われたことがあるのですか?」
不意を付かれて、孔明は鸚鵡返しにした。
糜竺は、均を知らないはずである。
江東にいる兄の謹のことかと思ったが、糜竺は、孔明の質問には答えず、あいまいな笑みを浮かべるだけだ。
そして、手にしていた書簡をかかげ、いつものように穏やかに言った。
「そうそう、もうひとつ、大事な用件がございました。今朝、こちらの書簡が軍師どの宛てに届いておりました。よい報せだとよいですな」
そういうと、糜竺はこれから趙雲のところへ挨拶に行くのだ、といって、息子二人をつれて、背をむけた。
長い夢を見ているとよいのだが、と思いつつ、そのうしろ姿を、複雑な思いで見送っていた孔明であるが、ふと、糜竺が足をとめて、いかん、いかん、と言いながら、真剣な顔をして戻ってきた。
「言い忘れておりました。軍師、もしも、わたくしが戻らぬときは、この言葉をお忘れなきように」
「は?」
「『仇讐は壷中にあり』。よろしいか?」
「キュウシュウハ、コチュウニアリ?」
「さよう。けしてお忘れめさるな。もしわたしが戻らねば、かならずこの言葉を思い出していただきたい」
よろしいですな、と、糜竺は、真摯なまなざしで孔明の眼を見つめる。
その迫力に押され、孔明はうなずいた。
「わかり申した。忘れませぬ」
「これで安心して出立できまする」
糜竺は、ふたたび辞すときに、まるで息子にするように、孔明の手をつかんで、やさしく労わるように、掌をかるく叩くと、名残惜しそうに、はなれていった。
これからが大変だ。
糜竺は名声ばかりが先行している無能な男ではなく、実際に有能な文官であった。
糜竺の抜けた穴を、だれが埋めるべきか。
もともと、新野には文官がすくない。いまいる文官たちは、どれもすでに抱えている仕事で手一杯のはずである。
良い知恵が浮かばぬ。
孔明は竹簡を文机にならべ、差出人を声に出して読みあげた。
気持ちを切り替えるためである。
「龐家の姉君と、隆中の均から…」
つづいて、べつの竹簡を見たとき、孔明の顔はこわばった。
舅の黄承元からであった。
孔明は、姉や弟からの竹簡は卓に置き、舅からのものを、べつによけた。
これはあとで、燃きすててしまおう。
そう思ったのだ。
舅からの手紙の内容はきまっている。
なぜにわが娘を娶りながら、劉表ではなく、劉表の食客である、劉備の軍師となったのか、わが家の立場をかんがえたことがあるのか、娘は劉表の妻の姪であるのにと、一族中から責められておるぞ、というもの。
当の妻からは、いままで一度も、たよりがない。
舅が止めさせているのか、それとも単に書く気がないのか…前者であると信じたいが、後者であろうなと、孔明は暗く思う。
とはいえ、孔明に、妻を責める気はない。
結婚したのは、叔父の諸葛玄を亡くし、確たるうしろ盾を失くした諸葛家のためだ。
有力者である黄家の娘を娶れば、劉表との繋がりもできる。
妻は聡い女だから、そのあたりのことは心得ていて、やはり、夫である孔明に、芯から心を開こうとしなかった。
ほんとうに、また共に暮らしたいか、と問われれば、孔明は悩む間もなく、否、と答えるだろう。
独り身の気楽さに慣れてしまったいまとなっては、妻の機嫌をうかがいつつ、つめたい仮面劇を演じていた自分には戻りたくない。
舅が怒り狂おうと、もはやおのれは劉備の軍師。
その事実は変えられないのだ。
とはいえ、黄承元はおさまらないらしく、ほとんど毎日のように激烈な文面の竹簡を送りつけてきていた。
孔明はそれを無視しつづけているので、日々内容が過激になっているようである。
孔明は、気を取りなおして、姉弟からの竹簡に目をとおした。
姉のたよりには、小言にも似た言葉がならんでいた。
身体に気をつけるように、いろいろ噂は聞いておりますが、どこへ勤めても、似たようなことはあるのです、つらいことがあっても、簡単に音をあげてはなりませんよ、といった、実に姉らしい、はげましの言葉がならんでいる。
姉はやはり、孔明にとっては、ずっと母親代わりである。
そして姉のほうも、孔明はいつまでたっても子供のままなのであろう。
今朝見た夢の、馬上の姉の姿を思い出し、孔明は思わず微笑んでいた。
姉の夫である龐徳は、姉に惚れこんで求婚してきた男である。
互いに遅い結婚であったが、その仲のよさは、新婚当初とかわらない。
自分のことで、もしかしたら黄家や蔡家から、嫌がらせを受けることもあるかもしれないが、姉の手紙からは、そんな気配を探ることはできなかった。
均のたよりには、家の近況にくわえて、司馬徳操の私塾のことも書かれていた。
孔明は、隆中を出るにあたり、玄から譲り受けた財産の管理を、すべて均に委ねていた。
玄はなかなかな財産家であったから、孔明が受継いだものもかなりのものである。
孔明は、弟に、管理するばかりではなく、おまえがよいと思うように使っても良い、と言い残していた。
均は、孔明よりも早くに結婚し、すでに子にも恵まれている。
金があればあるだけ、使いたいにちがいない。
しかし元来、きれいな青空とさわやかな風さえ吹いていれば、一日じゅう機嫌がよいという、慎ましい性格なので、世間の誘惑に乗ることもなく、相変わらず地味な生活をしているようだ。
均は、兄にならって、おなじく司馬徳操の門を叩いていた。
手紙では、塾の様子にも触れていて、いまみなのあいだでは、曹操がいつ南下してくるだろうか、ということと、徐庶はあちらでうまくやっていけるだろうか、ということが話題になっていると触れてあった。
なかでも一番の話題は、あの気位のたかい『深窓の姫君』の孔明が、荒くれ者ばかりの劉備陣営のなかで、どれだけもつか、ということだと、均は皮肉めかして書いていた。
言われっぱなしもくやしいので、出来うる限り反論してやっておりますが、ここはやはり、兄上が、みなが瞠目するような手柄を立てるのが、いちばん効き目があるようです、とも、均は書いてよこしていた。
均の大人しそうでいて、なかなか芯のつよい性格がよくあらわれている手紙に、しらず、孔明の顔はほころんでいた。
だが、徐庶の名前に目が触れたとたん、胸が痛んだ。
曹操によって母親を人質に取られ、やむなく劉備のもとを去っていった兄弟子。
いまはどんな思いをしているだろう。
曹操の元では、ちゃんとしたあつかいを受けているのだろうか。
まるで自分を、本物の弟のようにあつかってくれた、たったひとりの人物だ。
なにかできることがあればよいのだが…
徐庶はすばらしく有能だった。
曹操の南下についても、早くから動きを見抜いていて、下準備を着々と進めていた。
おかげで、後任となった孔明は、徐庶があらかた整えてくれていた体制をさらに補強して、実際に動かすことから始めればよかった。
徐庶が劉備のもとにいたのは、ほんのわずかな期間であったのに、それでも実力を遺憾なく発揮して去った。
鮮やかな男だと、慕わしさとともに、孔明は思う。
いまこそ、いちばんに居て欲しい人物だが、しかし現実には、徐庶はおらず、しかも、糜竺が抜けてしまった。
人材不足で、相当に苦しい。
孔明も、新野城の主だった人々には受け入れられてきているが、それでも、糜竺を通してでないと動かない箇所がいまだに存在する。
孔明は嘆息した。
新野城に入ってから、人前では毅然とした矜持を崩さないでいた。
だが、最近は、この城に慣れてきたせいもあるのか、ひとりになると、こうしてため息をつくことがおおくなった。
劉備とはたしかに気があう。父親のように思えるときすらある。
構えることなく、かといって過度に甘えることもなく、ごくごく自然に仕えることができるのだ。
とはいえ、やはり主公は主公。礼節は守らねばならない。
気を抜けるのは、ひとりのときだけだ。
そして最後の竹簡。
その差出人がだれなのかがわかったとき、孔明は、まるで取りすがるようにして、竹簡を一気に文机の上に開いた。
まさか、と思っていた人物からの書簡であった。
崔州平。
ともに司馬徳操のもとで学んだ学友。そして、徐庶と共に、真に友と呼べる数少ない一人である。
ただし、荊州の名家崔家の長男という出世の約束された地位にいるくせに、自称・根っからの隠士である。
劉表に何度も招聘を受けていたが、頑として首を縦にふらず、いまもってどこにも仕官をしていない。
孔明は、崔州平の人物を見こんで、何度も招聘の手紙を書いていた。
今日、ようやくその返事が来たのだ。
そこには、おおくは書かれていなかった。
ただ、今日の午後に、城外で会えないか、という内容のものであった。
もし駄目だというのなら、あの男のことだ。きっと返事は寄越さない。
返事を与え、そのうえ、会いたいと言っているのだ。
もしかしたら、よい返事をくれるつもりではないのか。
すこし回りくどい気もするが、まだ心がぐらついているから、城外で会おう、と言ってきているのかもしれない。
なつかしい友の、ひねくれた矜持を思い出し、孔明は苦笑した。
同時に、湧きあがる希望を抑えることができない。
たとえしぶられようと、なんとしても説得できる。
崔州平は、おのれの親友なのだ。
何夜と語り明かした友なのである。
孔明はよろこび勇んで、城外へと出かけた。
蝉の声が四方から聞こえてくる。
そのはげしい合唱が微風を起こして、森全体を揺らしているようにさえ思った。
木陰には、いまだ、連日の雨でできた水たまりが、乾かずに残っていて、その水面に、青空を映しこんでいた。
水面をあめんぼうが器用にわたっていく。
つき刺すような陽射しを受けて、地面には、くっきりと木々の輪郭が落ちていた。
同時に、おのれと、友の影も。
日よけの笠をはずすと、すずしげな風が、汗にぬれる白いほほを、ひやりと撫でていった。
新野城からわずかに離れた、街道から逸れて、農村へつづく、ほそくのどかな道であった。
暑さのためか人気はなく、水場がちかいのか、カエルの鳴き声も絶えない。
「今年は、ほんとうに蝉がおおいな。やはり、なにかの前触れかもしれぬ。おまえ、なにか感じぬか」
と、相変わらずのかるい口調で崔州平は言う。
崔州平は、身なりをかまわぬ青白い肌をした青年であった。
孔明より、ひとつ頭分、背が低く、ぎょろりと大きな眼をし、横に長い顔に、無精ひげを生やしている。
孔明と同様に、荊州の豪族の娘を嫁にもらっていたが、こちらにはすでに三人も子供ができていた。
それを知っているから、というわけではないだろうが、よれた着物を、さらにだらしなく着くずしている崔州平からは、生活臭がにじみ出ている。
浅葱色の上衣に白い下衣をあわせて纏い、初夏の風に裾をはためかせているすがすがしい孔明の姿とは、対照的であった。
「州平、きみ、すこし痩せたか?」
「いいや。むしろ、ふとったくらいだが」
崔州平の返事に、孔明は、ますますとまどった。
じつを言うと、よろこびいさんで城外で落ちあったものの、やってきた友を見た途端、失望したのである。
これほどにちいさく、みすぼらしい風体であっただろうか、と。
崔州平は、はっきり物をいう男で、嘘をもっとも軽蔑する男だ。
太った、というのだから、太ったのだろう。
「おまえは変わっておらぬ。相変わらず、どこに居ても、きらきらしたヤツだな。一里先からも、おまえが近づいてきているのがわかったぞ。
しかし、元気そうだな。俺はてっきり、おまえがげっそりやつれているのではと思っていたよ。これは、賭けは負けかな」
「賭け?」
孔明が言葉尻をとらえて尋ねると、崔州平は、知らなかったのか、というふうに首を動かして続ける。
「そうだ。おまえがいつ音を上げて、劉備のところから逃げ帰ってくるかの賭けをしているのだ。
俺は、もうしばらくしたら、孔明が戻ってくる、というほうに賭けていたのだがな。なあ、俺には正直に打ち明けてくれ。その予定はないか」
と、崔州平が、自分より高い位置にある孔明の肩に手を回そうとする。
孔明はそれを察し、素早く身を引いた。
「なんだ、相変わらず、人から触れられるのが怖いのか。俺は親友だぞ」
「親友だろうと、だれからでも、触られるのは嫌なのだ。知っているだろう」
苛立ち混じりで返すと、崔州平は、小馬鹿にしたように、鼻で笑った。
「おまえがそんなふうだから、嫁さんとうまくいかなかったのだろうさ」
「それも知っているだろう。かの女とは、まったく形だけだったのだ。あのひとも、それを望んでいた」
「変わり者同士、なかなかいい組み合わせだったのにな」
からからと笑う崔州平を横目にして、孔明の戸惑いは、ますます膨らんでいた。
劉備のもとで、苦労を重ねているのは、噂などで知っているはずである。
くわえて、黄家との確執なども見聞きして、きびしい立場なのも知っているはずだ。
それなのに、なぜ賭けの話などを、わざわざ当の本人に向けてくるのであろうか。
黄家のこともそうだ。
冗談にしても、無神経すぎる。
孔明が黙っていると、崔州平はひとり、雀のように、ぺらぺらとしゃべりつづけた。
「なんだ、だんまりか。仕方ない、早々に覚悟を決めて、帰ってこない、に賭けたヤツに送金するか。ぼろ儲けだぜ、そいつ。
となると、俺はそいつに支払いをするために、なにか質草に入れねばならぬということか。女房にまたどやされる。実家に忍び込んで金目の物でも盗ってくるかね」
崔州平は、そういって笑うのだが、それは、さきほどの明るいものとはちがって、どこか陰気なものであった。
意味の捉えがたい表情の変化に、静かに怒りを堪えていた孔明も、怪訝に思う。
「どうした、顔色が悪いようだ」
「そうか? 実は、今朝、女房と喧嘩しちまってね、最近、俺がいろいろと出歩いているのが気に入らないのだと」
「そうか。出歩いているというのは、なぜだか聞いてよいだろうか?」
「そりゃ、決まっている。賭けのためさ。おまえがいつ戻ってくるかのな。おまえが泣きべそをかきながら帰ってきたときのために、俺は、宴の準備までしているんだぜ。だから、イヤになったら、いつでも声をかけてくれていいんだぜ」
友であるから、孔明も、崔州平が、なかば冗談で言っているのだとわかっていたが、笑えなかった。
徐庶が必死になって行った仕事の続きを孔明がしているのだという事情は、ふたりの共通の友であった崔州平が一番よく知っているはずだ。
それなのに、しつこいほどに孔明をからかってみせる。
その態度に、孔明も、こわばった笑みすら、浮かべることができなかった。
たとえさほど仲が良くなかったとはいえ、かつての学友たちが、おもしろおかしく自分のことを口にのぼらせて、噂話をならべたて、賭けで盛りあがっている、なんともあさましい光景を想像してしまったあとだけに、余計であった。
「きみは、なぜ、わたしが逃げ帰るだろうと思ったのかい」
「うん? そりゃあ、おまえ、おまえのような育ちのいい人間が、侠客ぞろいの新野城で、うまくやれっこないと思ったからさ」
「侠客はたしかにいるが、そういった人間ばかりではないし、それに、新野城の侠客は、ほかの侠客とは、一味ちがうよ」
「どんなふうに?」
「むやみやたらと乱暴はしない。たしかに暴れるときは凄まじいが、ちゃんと理にかなった事情があるから、暴れるのだ」
すると崔州平は、はん、と鼻でわらった。
「そこがほれ、知恵を持たぬ者というか、おまえと肌が合わないのでは、と思ったのだが」
孔明の戸惑いは、ここではっきり苛立ちに変わった。
新野城のひとびとは、困らせてくれることのほうが多いけれど、ほんとうは真面目で気がいい連中ばかりだ。
孔明は、自分が、いかにあたらしい仲間たちに愛着を感じているかを、はじめて自覚した。
「たしかに最初は苛立ったが、いまはそうではない。彼らは、単に、口より先に手が出るのが、癖になっているだけなのだ。癖は矯正できる」
新野城には、さまざまな人間が往来する。
商人をはじめ、流民、侠客、劉表からの使者などだ。
たいがいが、劉備の名声を聞いてあつまってくるのであるが、中には、劉備は食客だと、はなからバカにしてかかってくる人間もいる。
問答無用の殴り合いになれば、孔明は立場上、止めはするけれど、内心では、そんな奴はぶん殴ってしまえ、と思ったことも、実は、たびたびあるのだ。
「癖、ねぇ。おまえ、世間知らずだから、逆にあいつらに丸め込まれたりしていないだろうな。新野城の人間の大半が、卑しいムシロ売りの大将のもとに集まった連中だろう。有象無象で、お尋ね者の人殺しすら混じっている、と聞いたが」
「州平、きみは、いまわたしにしているような問いを、徐兄にもしたのか?」
孔明が、声を強ばらせて問うと、おのれの言葉のうかつさに気づいたのか、州平も笑みを引っ込めて、気まずそうにした。
「まさか。しないさ」
「ならいい。しかし卑しいムシロ売り、という言葉は聞き捨てならないな」
「事実だろう。きみのような名家の出自の人間が、本来なら付き合うべき男じゃないぜ」
「本気で言っているのか?」
孔明の問いに、むしろ崔州平は、目をぱちくりとさせている。
なぜ孔明が問うてくるのかさえも、判らないらしい。
孔明の苛立ちは、瞬時に嫌悪に変わった。
新野城で、さまざまな前身をもつ人々と接した。
そして、良くも悪くも、かれらが、かれらなりに懸命に知恵を出し合って、真剣に劉備のために働いているのを目の当たりにした。
たとえ実が結ばなかったとしても、孔明は、かれらの真摯な態度を、知恵なき者のあがきだと、笑おうとは思わない。
むしろ、驕慢な態度で臨み、当初はみなを見下していたおのれの姿こそ、真に卑しいものであったのだと、いまでは思っている。
ほかならぬ、『卑しい』者たちの助けがなければ、『名家の出』の自分は、なにひとつ事を成せなかった。
三へつづく
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(C)Hasamino Nakama 2003