孤月的陣
夢の章 一
2009年改訂版
「いらしたかしら」
「いいえ、お姿は見えません」
部曲の者の答えに、諸葛亮の姉と、家人たちの顔色は、不安に蒼ざめた。
「場所をまちがえたのかしら。ここでよいのよね?」
と、亮の姉は馬上で地図を広げ、周囲の地形と合っているかどうか、確かめる。
その横から、ずっと付き従っている家令が口を挟んだ。その笠の下の顔は、長い道中のために黒く焼けている。
「このあたりは安豊のはず。迷ったとしても、荊州であることはまちがいありませぬ」
「街道に沿って南下したはずだわ。それとも、西に来すぎてしまったのかしら」
「叔父君は、ここで待っているとおっしゃったのですね?」
「ええ、このあたりは、最近、劉表と孫策の抗争で治安が悪くなっているから、街道を通らずに、別な道を使えとおっしゃってきたのよ。叔父上の地図どおりに来たのに、どこかでまちがえたのかしら」
亮の姉は、琅邪から荊州にいたるまでの危険な道中で、無用な災難を逃れるために、髪を切り、男装をして、剣を腰からさげていた。
遠目から見れば、すこし華奢な少年のようにしか見えなかったであろう。
姉を、古くから仕えている諸葛家の家人と、亡父の代から顔見知りの部曲(私兵)たちが取り囲む。
「手紙は何度も見たわ。ここでまちがいないのに。玄叔父様は、どうしていらっしゃらないのかしら。なにか事情があったのかしら」
亮と弟の均は、その様子を馬車の幌のなかで、やはり不安な面持ちで見つめた。
道をまちがえたのか?
また、あのおそろしい道を戻らなければならないのか?
街道は死屍累々のありさまだった。
徐州から逃れてきた民が、やっと荊州までたどりついたはよいが、そのまま行き倒れてしまった姿もあったし、流賊に殺されて、無残な屍を晒している姿もあった。
すると、亮にぴったりと身を寄せていた末弟の均が、幌から顔を出して姉に訴えた。
「姉上、姉上、長兄のところへ帰りましょう。どうして、わたしたちばかり、叔父上のところへ行かねばならないのですか?」
「何度も言ったでしょう、兄上のところには、戻ることはできないの。大丈夫、わたくしが、かならず叔父上に会わせてあげますからね」
姉は気丈に末弟をはげましてはいるが、地図を開く手は、緊張と不安のためか、小刻みに震えている。亮はそれを見て、均を馬車に戻した。
「姉上を信じるのだよ。大丈夫、きっと叔父上に会える」
均は、不安に顔を曇らせながらも、姉と兄のふたりにいさめられ、とりあえずは頷いてみせる。しかし、幌の中から、ふたたび地図に目を落す姉の姿に、不安が昂じたのか、均が苦しそうに胸をおさえた。
「姉上、均が、また駄目みたいだ」
息苦しそうに、浅い呼吸をくりかえし、目じりに涙を溜めた少年は、なんとも痛々しい。
亮の姉が戸惑っていると、部曲の男のひとりが進み出た。
「お嬢さま、この先に、小川がございます。見たところ、このあたりは怪しい者もおりません。皆様も疲れておいでだ。ここはひとまず休んで、叔父君をお探しになるべきかと存じます」
進み出てきた部曲の男は、亮が幼いころから知っている男だ。父が健在なときから、諸葛家をまもってくれていた。
亮の姉はうなずくと、馬車の幌のなかで、じっと大人たちの様子をうかがっている、ふたりの弟に言った。
「聞こえたわね。わたくしたちは、叔父上を探しに行ってきます。ふたりとも、それまで、おとなしくしているようにね。きっともうすこしだから、我慢してちょうだい」
亮は弟を介抱しながらうなずき、弟のほうは、すまなさそうに、笑顔を無理につくって、うなずいた。
それでも、荊州に入ってから、ようやく弟の咳がすくなくなってきたと亮は思う。
顔色も良くなってきて、笑顔もふえた。
道が良くなり、追いはぎだの、行き倒れの屍だのがぐっと減って、目に見える恐怖が少なくなったからであろう。
生まれ故郷である徐州の琅邪から、戦火を逃れて荊州の叔父のもとへ、南へ、と一行はむかっている。
叔父の居住する南昌までは、もうすこしである。
徐州から、街道沿いに揚州に入り、そこで途中、兄たちの一行と別れた。
そして、街道沿いにユを抜けた途中で、叔父の指示で、荊州側に深く入り込む間道へ抜けた。
そこからさらに南下すれば、叔父が新太守として入る予定となっている南昌である。
叔父の指示は正しかった様子で、往来ににぎわいはあるものの、どこか荒んだ空気のあった街道とはちがい、間道は平和そのものだ。
諸葛家では不幸がつづいていた。
徐州が激しい戦乱に巻き込まれたこと。
さらにかねてより病の床に伏していた姉弟たちの父が死んだことが重なってしまった。
そのため一家は、袁術に仕える叔父を頼って南下している。
追いはぎや流賊を警戒しながらの旅である。
琅邪から、叔父のいる揚州は南昌へ至る道は、緊張の連続であった。
姉は髪を切り、男装をして、腰に剣をたずさえ、盗賊や、黄巾賊の残党にねらわれるのを避けた。
古くから諸葛家につかえる家人たちは、流民をねらって徘徊する、詐欺師まがいの商人から財産を守った。
亮も均も、粗末な服を着て、ときには顔に泥を塗って、名家の子であることを隠した。
天下の混乱に乗じ、すこしでも儲けてやろうと考える輩はあちこちにいて、ときには、良家の子弟を誘拐し、身代金を要求してくる輩もいたのである。
叔父は、先に派遣した使者により、亮たちがあらわれるのを、街道からほど近い、そして比較的平和な荊州の安豊で待っていると伝えてきていた。
そうして、一行は叔父が待っていると伝えてきた場所までやってきたのだが、その姿は、すぐには見つからなかった。
行き違いがあったのかもしれない。
姉は、周辺を探るため、亮たちに、じっとしているようにと言い置いて、家人たち数名を連れて、出かけて行った。
残されたのは、亮と均と、耳の遠い老人と、部曲(私兵)の数名だけである。
兄弟は、最初はおとなしくしていた。
しびれを切らしたのは、均のほうであった。
発作のおさまった弟は、ゆっくりと顔をあげ、小声でそっと、より添うように兄に近づいて、言う。
「兄上、水の音が聞こえます」
どうれ、と亮は耳をすまし、均も、つぶらな小豆のような目をつむって、兄にならった。
初夏の風にまざって、さわさわとこずえの揺れる音、早く目が覚めた蝉の鳴き声、木陰でやすむ馬にたかる蠅の羽音、そして、縫うようにして、かすかに、やさしいせせらぎが聞こえてくる。
「川だな」
「川でございますね」
「どこにあるのだろうな」
と、亮が言うと、均は桃のように頬を紅潮させ、にいっ、と笑った。
子供同士だけにつうじる、笑みだけの会話である。
亮がちらりと盗み見ると、耳の遠い老人は、荷車によりかかって、うつらうつらと舟を漕いでいる。
初夏のだるい空気のなか、もうすこしで、南昌の太守である諸葛玄と合流できるという安心が、警護をする部曲の兵卒たちにも、気の弛みを生んでいるのだろう。
木陰の下で、部曲の兵卒らが、寝ぼけ眼で、地べたに座り込み、ぼんやりとしているのが見てとれた。
「いまなら大丈夫だ。すこし離れるだけだもの。すぐに戻れば、心配はないさ」
そう言って、亮は、弟と一緒に、木陰からはなれた。
弟は、思いもかけない小さな冒険に、目をきらきらさせている。
姉の言いつけを破るうしろめたさはあったものの、それよりも、長兄や義母たちから別れて、ずっと元気がなかった弟が、笑顔を見せているのがうれしかった。
この笑顔を長く見たかった。
兄弟は、はしゃぎながら、手をつないで、小川を目指して駆け出した。
小川を目指して草むらに入ると、青臭いにおいがむわっと全身をつつんだ。
履いている沓で草を蹴散らすと、飛蝗がおどろいて跳ね飛んでいく。
やがて、しばらくいくと、ささやかなせせらぎが耳を打ってきた。
心をはやらせて足を進めていくと、やがて、流れのはやい清流があらわれた。
兄弟は夢中で、急な沢をくだって、きゅうくつな沓を放り投げ、小川へ足を踏みいれた。
「兄上、蟹がいる!」
均は歓声をあげると、まるい石のうえを、のんびり移動している沢蟹をつかまえた。
亮も河原に靴をぬぎ、そのひんやりとつめたい流れをたのしんだ。
見ると、魚もおおいようである。
「あとで姉上たちにも教えてさしあげよう。今宵は、魚の塩焼きが食べられるかもしれぬ。叔父上に、よい土産ができるな」
「兄上、叔父上という方は、どういう方なのでございますか?」
「わたしも一度しか会ったことがないが、お優しい方だったぞ。父上とちがって、こう、恰幅の良い、体の大きな方だ」
亮たちの父は、やはり徐州の男の例に漏れず、背の高い男であったが、いつも床についていたため、実際よりは小さく見えていた。
亮が、自分の体の倍くらい、手ぶりで横幅を示したので、均は顔をしかめた。
「厳しい方だと嫌だな。厳しいのは、姉上だけで十分だもの」
「おまえが良い子にしていれば、大丈夫だ。手紙にあったけれど、叔父上にはお子がいないので、わたしたちが来るのを、とても楽しみにしているのだって」
「奥方はいるのでしたっけ?」
子供ながらに気を遣って、均は、ちらりと上目遣いに亮に尋ねてきた。
亮は、まだまだ幼い弟が、そんなふうに気を遣うところを見るのが嫌いだ。
弟の母親は、一番上の腹違いの兄と、江東へ逃げてしまった。
均には、兄上は仕官するために江東に留まるのだと説明したが、実際はちがう。
そこに、どんな事情が隠れているのか、すでに亮は気づいている。
諸葛家にいる五人の子供たちのうち、兄と二人の姉の三人は、先妻の子である。
亮の生母は、妻でも妾でもなかった、或る女が生んだ子だという話だが、父はなぜか、生母のことには口を閉ざしたまま亡くなったので、亮は、母親のことはなにも知らない。
弟の均は、後妻に入った女が生んだ子で、これは一番上の姉とほぼ同年の、幼さのぬけきらない、茫洋とした印象の女であった。
病床の父の代わりに家を守っていた姉と、この女……つまり、均の生母とは仲が悪く、琅邪の家は、子供から見ても、あまり居心地の良い場所ではなかった。
姉のことを避けたい、という思いがあったのか、それとも、女として、このまま終わってしまいたくないと思ったのか、そのあたりは、亮にもわからないが、みなが知らないあいだに、まるで家出も同然に、義母は兄とともに江東へ向かってしまったのだ。
「残念だけれど、奥方は、亡くなってしまわれて、叔父上はお一人なのだよ」
亮が答えると、均は、残念そうに、濡れた服の裾を絞った。
「なあんだ。あたらしい母上ができると思ったのに」
均は、まだまだ母親に甘えたい年頃なのだ。
「ごめんよ」
亮が謝ると、均は裾を絞る手を止めて、顔をあげた。
「どうして兄上が謝るのですか」
「なんとなくさ」
「へんなの」
姉の気持ちが移ったわけではないが、亮もまた、幼い弟から母親を奪った、兄の仕打ちを恨んでいた。
世間では、亡父の代わりに、母親に孝行するためだと言い訳しているそうだが、しかし、その『母親』が、兄より年下であることは、ひた隠しにされている。
亮は十三になる。
父が死んでからのわずかなあいだに、子どもの頃には理解できなかった世の中の、光と影の部分を理解できるようになっていた。
なにより、薄々とわかりはじめた兄の『不品行』に、亮は激しい嫌悪をおぼえた。
情欲に屈し、道徳に逆らうことに対する強烈な反発は、ここからはじまったといってもよいだろう。
「叔父上は、釣りはお得意でしょうか?」
「さあね。でも父上とは仲が良かったそうだから、一緒に釣りに出かけることもあったかもしれない」
「父上は釣りが得意だっておっしゃっておりました。体がよくなったら、一緒に、海に連れて行ってくれるとおっしゃっておりました。
兄上は、父上と海に行ったことがあるのでしょう? 海とは、どんなものなのですか」
「広かったよ。こんな小川なんか目じゃないほどさ。波音がずーっとしていてね、たくさん貝が打ちあがっていたよ。風が塩辛いのだ」
とたん、均は、目をまん丸にして鸚鵡返しにする。
「風が、塩辛い?」
「そうさ。風も水も塩辛いのだ。漁夫が、みんなで網を引いているところとか、おもしろかったな。いつか、わたしが大人になったら、連れて行ってやるよ」
「その前に、叔父上におねがいして、連れて行っていただきます。優しい方であったら、ですが」
「いたずらとおねしょを直せば大丈夫だ」
からかう亮に、均は子供らしく、ぎゅっと顔をしかめたが、ふと、その顔が、亮の肩の向こう側を向いた。
「兄上、だれかおります」
「いけない、見つかったのかな?」
「ちがうようです。子どもです」
見ると、対岸の崖の上に、複数の子どもたちが立っていた。
おや、このあたりの郷のものだろうか、さっそく仲良くしてみよう、と呑気に考えた亮は、少女に見間違われることのおおい柔和な顔に笑みを浮かべ、手を振ってみた。
だが、反応がない。
子どもたちは、無表情なまま、じいっ、と亮と均を見おろしている。
亮は嫌な予感がした。
琅邪の子供たちのあいだでもそうであったが、もしかしたら、ここは地元の子どもたちの大切な遊び場なのではないだろうか。
気まずく思いつつ、もう一度、手を振るが、やはり反応はない。
亮は、かれらの反応のなさに、違和感をおぼえた。
領域を侵してしまった、というのなら、手を振った時点で、なんらかの変化があって良さそうなものだが、子どもたちは、なにも返してこないのだ。
子どもたちの服装は、みな泥にまみれ、髪はぼさぼさで、かろうじて紐で、邪魔にならない程度に結っているだけだ。
マメだらけの足は、裸足で、沓どころか、草履もはいていない。
みな、亮たち兄弟とおなじ十歳から十三歳くらいの少年少女ばかりである。
じっとこちらを見つめる双眸には、好奇心は感じられない。
いや、ひとつだけ。
無表情さの中に、荊州へやってくる道中で見た、流民を狙う賊の目と、おなじものが見える。
敵意だ。
亮は、振っていた手をゆるゆるとおさめて、失敗したな、と心のなかでつぶやいた。
均は、なにも反応しない子どもたちにすぐに飽きて、つかまえた沢蟹を、あっちの石、こっちの石、と移動させて、あそんでいる。
弟を背後に庇うように、ゆっくり水のなかを移動しながら、亮はどうするべきかと考えた。
子どもたちの目は、放浪の民の、飢えて、疲れはて、人間らしい理性のほとんどを失った、大人たちとおなじ目をしていた。
かれらは、ついさっきまで、兄弟のように親しげに助けあっていたのに、ふとしたきっかけで、突然におたがいを敵と見なして、容赦なく襲いかかるのである。
そこにあらわれる無惨な光景を、亮たちは、さんざんに見てきた。
亮は、水を避けて裾をまくったおのれの姿を見下ろした。
今朝になってから、待ち合わせ場所に近いという油断もあったし、叔父上にみっともない姿を見せられないということもあって、琅邪にいたときとおなじように、身なりのよい、快適な服にもどしていた。
かれらから見れば、兄弟は、おなじ流浪の子ではない。
着心地の良い衣を纏った、たんなる強奪の対象だ。
亮は、気づかれないように、そおっと、いままで自分たちが駆けおりてきた草むらを見る。
均だけで駆け上るとして、どれだけ時間が必要だろう。
どうやって時間を稼ぐ?
子どもたちが、無表情のまま、ゆっくりと沢へ降りてくる。
亮は、その動きにあわせて、弟を守るべく、ゆっくりと後退していった。
とたん、均が、素っ頓狂な声をあげた。
「ほら、魚を捕まえた!」
とろい魚もいたもので、均の両手には、ぴちぴちと跳ねる、七色のうろこをもった魚があった。
魚の姿のおかげで、沢におりてきた子どもたちの目に、わずかに表情がやどった。
なにも気づいていない均は、いつのまにか子どもたちが近づいてきたことを知ると、言った。
「あげようか?」
子どもたちは、戸惑った表情になり、たがいに顔を見あわせた。
場の空気がほどけた。
亮は、ほっとした。
そして、和んだ場の空気をこわさぬよう、細心の注意をはらって、子どもたちに話しかけた。
「どこから来たのだい?」
「北から」
子どものなかでも、いちばん強い目をした少年が、仲間たちを見まわすようにしてから、答えた。
どうやらこの少年が、子どもたちのまとめ役であるらしい。
「そうなの? わたしたちも、北から来たのだよ。徐州の琅邪からだ。きみたちは?」
「いろいろ」
別の子どもが答えた。
近くで見る子どもたちは、気の毒なほどよごれきって、ボロボロで、やせ細っていた。
おそらく、ひとつの村や集落から、一緒になって逃げてきたのではない。四方の村々で大人からはぐれた子どもたちが、自然とあつまって、一緒に行動しているのだろう。
「大人はいないの?」
重ねてたずねると、子どもたちの表情の戸惑いが、さらに濃くなった。
大人がいなくて、よく無事にここまで来られたな、と思っての質問であったが…
そのとき。
ひゅん、ひゅん、と風を切る音が頭上を駆けぬけて行った。
亮は仰天して身をすくませる。
矢だ。
矢が、亮たちの背後から、子どもたちめがけて射かけられているのだ。
しかし、それはどれも、掠りもせず、子どもたちと亮をへだてるようにして、沢に落ち、あるいは砂利のなかに突き刺さった。
振りかえると、幼いころに見たままの、恰幅の良い叔父と、その部下たちが、初夏の陽光にきらきらと輝く甲冑をまとい、土手のうえから弓をかまえていた。
「亮、均、はやくこちらへ来い!」
するどい声で叔父が言った。
おぼえている、やさしい叔父とは違うことに戸惑いつつ、亮は、反駁する。
「でも、叔父上、子どもではありませぬか」
亮が抗議する間もなく、叔父に命令された兵卒が、土手を駆けおりると、戸惑う兄弟を、なかば抱えるようにして、沢から引きあげた。
おびえた二人に、沢から登るのを助けてくれた山羊髭の男が、甲冑の下から、安心するようにとでもいうように、にっ、と笑いかけてきた。
それで、すこし強ばりが解けたものの、見れば、亮と均が沢を登るのとすれ違うように、ほかの兵卒たちが、弓を子どもたちに射かけている。
やめてほしいと亮は叔父に訴えようとしたが、見れば、叔父としても、子ども相手に矢を本気で当てる気はないらしい。
兵卒たちの弓の腕はすばらしく、子どもたちに当たらぬよう、その足元、ぎりぎりのところを狙っている。
それでも亮と均にしてみれば、おそろしい光景であった。
なぜ大人である叔父が、子どもたちを、矢でもって追い散らそうとしたのかがわからない。
ただ一喝すれば、よいではないか。
がらがらと石の落ちる音をさせながら、水しぶきをあげて、子どもたちは、一度も亮のほうを振りかえることもなく、追われるようにして、逃げていった。
その子どもたちが、いったい何者であったのか、その疑問も解けないまま、十余年が過ぎる。
がらがらと、石が落ちる音だけが、ずっと耳に残りつづけた。
※
諸葛孔明は、帳から射す日ざしに、目をほそめた。
早起きをして、のこった書類の決裁をしてしまおうと思っていたのだが、どうやら寝過ごしてしまったらしい。
窓からそとをながめると、今日の暑さを予感させる、いつになくまぶしい太陽がのぼっている。
このところ、しばらくつづいていた雨の名残を、朝のうちにすべて乾かしてしまいそうな勢いであった。
新野城の中央にある鍛錬場からは、徴兵したばかりの兵卒たちの調練がはじまっている。
腹の底にひびくような太鼓の音、大将のかけ声、号令にあわせて一斉に動く兵卒たちの足が大地を踏みしめて生まれる地鳴り。
戦がはじまるのだな、と朝がくるたびに孔明は覚悟をする。
割り切ってはいるものの、やはり軍というものはおそろしい。
孔明は、叔父を亡くしたあとに、管仲や楽毅のように、政をつかさどる者となり、天下を安んじるのだと心に決めた。
高名な司馬徳操の私塾の門をみずから望んでくぐり、そこで、同門の兄弟子の徐庶や、同窓の崔州平らと知り合った。
そしてかれらと、戦場のあちこちを見てまわった。
おかげで、戦そのものに対する嫌悪感は、だいぶ克服できたという自負がある。
剣を取らずに天下に平穏をもたらすことなど、出来はしないのだ。
しかし、軍をおそろしく思う気持ちはなくならない。
諸将の前では、兵士たちを前に、勇壮だのなんだのと褒めあげてみせるが、どこかで、うしろめたさにも似た違和感がつきまとう。
おのれの心だけではなく、目の前にならぶ兵卒たちをも、騙してしまっているように思うのだ。
それが、考えすぎなのか、いまのところ結論は出ていない。
清水で顔をあらい、髪を側仕えの者に結ってもらいながら、孔明は、今日の仕事について考えた。
曹操の南下に備え、たいがいのことは整えた。
軍備、食糧、逃亡時の道、船、馬…足りないのは人だ。
頭のなかで、どれだけ完璧な策が形成されていたとしても、運用するのは、所詮は人。人が足りなくては思うようにままならない。
かといって、間に合わせで、志のちがう者を引き入れてしまえば、かえって策の破綻をまねく。
ともに劉備に仕官することを決めてくれた馬良はずのは、末弟が病気だとかで、なかなか新野に現れない。
ほかの心当たりを片っ端から声をかけてみたのであるが、曹操の南下の噂は、思った以上に広まりがはやく、みな、おのれの家をまもることだけで手一杯の様子だ。
おそらく曹操とまっ先にぶつかることになるであろう新野に、わざわざやってくる者はいないのだ。
むしろ、徐庶や孔明のように『貧乏くじ』を引かぬよう、連中にはちかづかないほうがよい、と嘯いている者すら、いるらしい。
孔明が、妻を捨てた、という話も、すでにあちこちで流されているようだ。
その話を聞いて、劉表と、劉表の後妻である蔡夫人が、激怒している、という話も、孔明の耳に届いていた。
孔明の妻は、蔡夫人の姪にあたるのである。
打算と思惑に満ちた、つめたい政略結婚が、結びつきの意味をうしなって、解消されただけの話だと孔明は割り切るものの、胸の痛みはなくならない。
むしろ、黄家に見捨てられたのだ。
孔明は、妻を何度も新野に呼ぼうとしたが、ことごとく、黄家の人間に阻まれた。
名ばかりで実体のない、劉備などという前身のあやしい男に仕える婿など、いらない、というわけだ。
孤独な沈思にふける孔明をよそに、雷鳴のごとく響く勇壮な兵士たちの掛け声と、早すぎる蝉の声が戦っている。
ふと思い立ち、孔明は席を立ち、部屋から出ると、声をたどり、その存在をがなりたてている蝉のすがたを梁の下に見つけた。
昔は、弟と一緒になって、虫かご片手に、とらえようと追いかけまわしたものだが、この蝉は、長じてよく見るに、なかなか奇怪なすがたをした虫ではないか。
透けた翅のうしろに隠された黒い体は、鎧をまとった兵卒に似ていた。
好奇心につられ、孔明がつかまえようと手をのばすと、蝉は、ぶぶぶぶ、と派手な羽音をさせて飛び立ってしまった。
あとには、耳に蝉の声の余韻がのこるばかりである。
蝉の声。
だから昔の夢をみたのかもしれない。
眠りが浅かったのかもしれないが、ずいぶんあざやかな夢だった。
まるでせせらぎに素足を入れたときの、あのつめたさ、心地よさまでが思い出されるような。
初夏の陽射しのなかで見た、あの感情のうしなわれた目をした子供たち。
いまでも、戦で村を焼かれて、土地を奪われ、さまよう人々はいる。
生きる道を探して、年を徘徊する子供たちを見るたびに、この子たちはどうなるのだろうと、孔明は案じる。
しかし、手を差し伸べることはしない。
ひとりを救ったところで、全体は救えない。
結局、おのれの気休めにしかならないのだから。
もしほんとうに救いたいと思うのであれば、かれらをさまよわせる環境そのものを救ってやるしかない。
そのために志した、政の道である。
二へつづく
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(C)Hasamino Nakama 2003