09年改訂版

孤月的陣
第五章 タイヨウ  太陽



薬倉庫に首尾よく潜入した孔明と胡偉度であるが、整然と並べられた壷、そして甕を前に、すっかりことばをなくしていた。
「…どれがどれだ?」
胡偉度は、以前に義陽の村に訪れたとき、この倉庫に何度か入ったことがあるという。
そして、役に立ちそうな薬(主に媚薬や眠り薬であったが)をくすねて、樊城に持ち帰っていた。
だからこそ、薬の配置、なにがあるかはわかっていると、思い込んでいたというのだが…

「漢語ではありませんね。だれかが、あとからここの整理をしたらしい。蛮族を雇ったのか?」
壷や甕には、それぞれ紙が貼り付けられており、そこには孔明や胡偉度が馴染んでいる
漢語の類いは一切なく、子供が戯れに書いたような絵がそこにあるばかりである。
「壷中の子供が悪戯をしたのだろうか」
と苛立つ偉度に、冷静に孔明は壷の一つを取り出すと、言った。
「ちがうな。これはちゃんとした文字だ。暗号の代わり使っている様子だが、コレは恐ろしく由緒正しい古い文字だぞ。『巴蜀文字』というのだ」
「読めるのですか」
「いいや。文字だということはわかるが、意味となると、さっぱりわからぬ。だが、薬の類いは、においでたいがいの判別はつく。しびれ薬を探すぞ、片っ端から蓋を開けてみるしかない」
「薬にもお詳しいようですね」

言いつつ、偉度は、ほとんど記憶と勘を頼りに、毒と、そうでないものを判別させていく。
孔明はというと、几帳面な性格もそのままに、棚にずらりと並べられた小瓶を、ひとつひとつ開けてみては、においを嗅いだり、色を確かめたりしている。

「教えてもらったのだよ」
「司馬徳操の私塾で? そんな勉強までするのですか」
「いいや、そこではしない。せいぜいが薬草の作り方とか使い方くらいかな。わたしは妻に教わったのだ。まあ、知っていて損はないし」
へえ、と気のないような返事をするわりに、興味が有りそうにちらちらと孔明を見る偉度に、孔明は目を合わせないまま、意識しているわけではないが、早口になりながら、説明した。
「おまえは結婚というものをしたことがないだろう。わたしは、周囲に勧められ、押し切られる形で結婚したのだ。まあ、崔州平や、均のように、想い想われ、などというのは、やはり稀な例なのだよ」
「知っていますよ、程子聞が話していましたもの。かわいそうに、諸葛亮は、黄家の醜女を押し付けられた、本人が煌びやかで、妻が醜女、世の中よく出来ている、今度あったなら、新婚生活はどんな味がするか、聞いてやるのだって」
「聞かれたよ」
答えながらも、瓶や甕を手早く探る。
孔明は、偉度がなんとか孔明から、程子聞について聞きだそうとしているのに気づいていた。
偉度は、自分の知らない故人の姿を、孔明の記憶の中に、なんとか掴もうとしているのだ。
孔明自身に興味があるからなのではない。
断袖の間柄とはいえ、偉度の気持ちのひたむきさを思えば、孔明もむげにはできない。
まして程子聞のことも知っている孔明にとっては、偉度の気持ちが哀れであった。
薬を探しながら、決めた。
偉度の満足するようにさせ、答えられるところは、答えようではないか。

「わが妻はどうやら世間では、醜女として有名なようであるが、だがな、醜い、醜いというが、あれは醜くはないぞ」
「あばたもえくぼ」
「そうではなくて…偉度、ちゃんと真面目に探せ。時間がない」
偉度はというと、倉庫の大きな蓋のしてある甕の上に座って、もはや手を動かそうとせず、孔明のすることをじっと見つめている。
「おまえは、胡家の、自分の家族を助けたいとは思わないのか?」
「べつに…胡家で、わたしだけが苦労するのもおかしな話ではありませんか。第一、弟たちは、わたしの名前はもちろん、顔すら知らない。どこでなにをしているのかもね。たぶん、あなたが江東の兄上に抱いてらっしゃるのと同じ感覚ですよ」
「おまえはその話に持っていくのが好きだな。たしかに兄上がどうなろうと、こちらに累が及ばぬかぎり、わたしもどうでもいい」
偉度は、声を立てて笑った。
「わたしはね、あなたのタテマエだけじゃない、ときおり見せる、容赦ない本音を言うところが好きなのです。もう、諦めませんか」
なにをいうか、と思いつつ、孔明は偉度を見た。偉度はもはやすっかりやる気をなくし、膝をぶらぶらさせて、うろたえる孔明を面白そうに見ている。
「必死になったところで、あなたの救おうとしているのは他人ではありませんか。彼らは自分たちが苦境にいることすら知らない愚者。世の敗残者なのですよ。そんな連中は、さっさと冥府に送ってやるべきだ。そのほうがよっぽど親切というものです。あとで残った人間で、荊州は仲良くわけてしまえばいい。
荊州が、ただひたすら曹操に侵攻されるがままになっているこの現状は、いま表で輜重にむらがっている、目先しか見ない莫迦な連中が作り出した状況だ。それはあなたも思ってらっしゃるのでしょう?」
やれやれ、と息をつきつつ、孔明は花安英、こと胡偉度に言う。
「おまえの悪い癖が出たな。本当にそう思っているのなら、どうしてここまでついてきた。面倒くさくなったのではあるまい。おまえは気づいているだろうか。お前のなかには二つの人間がいるのだよ」
「へえ?」
「そう。素直で正義感にあふれ、不正を許すことの出来ない潔癖な少年と、意に反し、身も心も汚して生きねばならず、世を恨んでなんとか己を保たせている少年。その二つをうまく整合させることができず、お前は苦しんでいるのだ。ちがうか。だから他者に縋らずにはおられない」
「なんだかピンと来ませんね。外れておりますよ、それ」
「そうだろうか。最初、わたしはおまえに似ていると思った。わたしの中にも二つの『諸葛孔明』がいて、復讐に猛る心をおさえきれない凶悪な心を持っているくせに、ちょっとしたことにも感動し、泣き、大はしゃぎする人間と、世のすべてを冷たく睥睨し、どんな非道な出来事も、無感動に眺めることの出来る人間の二つ。
だが、この一連の出来事で、この二つとうまく折り合いが付けられるようになってきた。そして、わたしがおまえに似ていると思ったのは、思い違いではないかと思うようになった」
「では、なんです」
「おまえは、わたしより、おそらく子龍に似ているよ。偉度よ、おまえの中にある憎しみはいつか必ず表に出さねばならぬもの。だが、一方のお前の清くあろうとする心が、憎しみが外にあふれるのを留めてしまう。このままではおまえ、狂ってしまうぞ。そう、播天流のようにな」
「わたしは、あんな男に」
「ならないと言い切れるか? わたしは、わたしがお前に対する公孫瓚にならないだろうと、言い切れる自信がない。他者に縋り、判断を委ねる癖をあらためよ。己を確立したうえで、他者を愛せ。そうしなければ、おまえはいつまでたっても、誰かの従属物でありつづける」
「昔だったら、そして傷が治っていたら、この毒のどれかを盛ってやるところだけれど」
「そのまえに解毒剤を探すさ。さあ、おしゃべりは中断だ。表がなにやら騒がしいぞ。急げ、崔州平というのは、本当にやるといったら、かならずやる男なのだ。火の海になるまえに、ともかくしびれ薬だ。おや、これなんぞどうであろう」

と、孔明は、三角円錐の紫色の瓶を取り出した。
そこにはちいさな紙が貼ってあり、牛が目をぱっちりと開いたまま、横になって震えている絵が描かれていた。
「わたしには毒に見えます」
「匂いはないか。舐めてみるか」
「およしなさい、ここで死んだらどうなさるのです」

「まったくそのとおり。ちゃんと教えて差し上げたのに、どうして毒に関する知識は、そんなに覚えが遅いのですか」

第三者の、そして、女の声に、孔明も偉度もおどろき、思わず、手から瓶を落としそうになる。
それを慌てて偉度が拾うのであるが、はずみで傷を捻ったらしく、痛みに顔をしかめて、蹲ってしまった。
それを見て、薬草庫に入ってきた、面貌こそ白い玉のようにうつくしいものの、杉の木のように背の高い、男装をした女は、あきれ果てた、といわんばかりの顔を孔明に向けた。
「しかも、これほど重傷の子供を連れてきて、軽蔑いたしますわ、郎君」
「うん、すまない」
としか答えようがない。
いまのおのれの顔は、よほど間抜けであろうな、と孔明は思いつつ、ひっくり返りそうになる声を励まして、目の前に立つ、男装をした女に尋ねた。
「月英、そなた、なぜここにいる?」



「播天流だ!」
物陰にひそみ、孔明の首尾を待っていた崔州平は、山道を登ってくる播天流の車列を見て、大きく舌打ちをした。
崔州平は、孔明には、村をいつでも焼く準備がある、と言い切っていたが、それでも、ためらいがあった。
まだ、孔明に期待をかけていた部分があったのである。
だが、思った以上に播天流の動きが早すぎた。
そして、輜重をめぐる、このあきれたお祭り騒ぎ。
この状態で播天流があらわれたなら、やつは、すぐさま容赦せず、輜重に群がる豪族たち難民を切り伏せにかかるであろう。
そのほうが、食糧も物資も無駄にならぬと計算するであろうから。

部下たちは、どうするべきかと、崔州平に視線をあつめてくる。
落ち着け。いまが考え時だ。ここで、運命の舵を手放してはならぬ。

そのとき、村の中心、ちょうど輜重の集っていたところで、ひときわ大きな声が挙がった。
まさか、配給がままならぬために、豪族どもが暴徒と化したのか。
だが、風に乗って流れてきた声に、崔州平は愕然とする。
「いま、なんと聞こえた?」
同じく茂みに隠れる部下たちも、蝉の声を縫うように聞こえる声に、じっと耳をすます。
それは、はっきりとこう呼ばわっていた。
「劉予州の義弟、関雲長、ただいま見参! 闇に巣食う者どもよ、おのが非道を恥じ、大人しく冥府への旅路につくがよいぞ、この関羽が死出の見送りをしてやるほどに!」
「関羽だと? まさか!」
崔州平は茂みから身をかがめたまま飛び出し、そして、村の中央を見渡せる土手にまで駆け寄った。
ちょうど、櫓の上から、関羽めがけて矢を番えた兵士が、関羽の隣で長弓を番えている兵士に、射抜かれて地面にもんどりうつところが見えた。
「劉備の軍が動いた…」
孔明を助けるために。趙子龍を助けるために。
信じられない、と崔州平は愕然とした。
こんなことをして、劉備に何の得が? 
劉表…いや、劉表の残党たる荊州豪族と矛を交えるつもりなのか。
あんな弱小勢力のくせに?

「いかがなさいますか、長?」
部下の声に、我に返り、崔州平は、みなに命じた。
「ここまできて、遅れを取るわけにはいかん! いまこそ雌雄を決するとき! 者ども、新野の者たちに遅れを取るな! 村を制圧し、そして播天流に火矢を射掛けるのだ!」

終末が近づいている。



目の前にいる女を見間違える、などということはありえない。
孔明は、ありとあらゆる感覚を動員して、さらには素早く頭を働かせたのであるが、しかし、どうしても、謎を解決することができなかった。なぜ、ここに黄月英がいるのか?
劉備の軍師になると決めたとたんに、だまって隆中の家から去ってしまった妻女。
うろたえる孔明に、まるで慈母のようにやさしく微笑んで、月英は言った。
「月英という名前は、もうやめましたの」
「やめた?」

月英は、底の高い靴を履けば、ほとんど孔明にならぶほどの高さになる。
年も孔明より上である。孔明としては、月英というのは、姉の明鳴の代わりにやってきた、しっかり者。
おのれを支配し、管理する者、というふうに見ていた。
彼女を尊敬はしているが、それは女人にたいするやさしい情愛とはまたちがったものである。
目の前にいるだけで、孔明は落ち着かなくなる。
姉の前にいるのと同じくらい、緊張してしまうのだ。
もちろん、月英は、うるさく小言を言ったり、癇癪を起こしたり、物を投げたりはしてこない。そんな粗野な真似をする女性ではない。
しかし、孔明が知る限り、彼女以上に多くの分野において知識のある人間はいない。
彼女に対してだけは、どうあろうと対抗できず、ただ赤子のように、はいはいと、言うことを聞くしか、できなくなってしまうのである。

「やめたとは、なぜ」
「父の名づけた名だからですわ。いまの名は嫦娥と」
「嫦娥。月の女神の名だね」
「郎君の『孔明』に対応させてみましたの。もちろん、だからなんだというわけではないのですけれど」
「うん、でもよいのではないかな」
「わたくしも気に入っております。さて、それは牛殺しの毒です。食糧にするための牛を、穏やかに殺すための薬。その肉を食べても、人にはなんの害もないという優れものですわ。ただし、毒自体を舐めたら死にますわよ」
孔明は、あわてて手にしていた毒入りの瓶を元に戻した。
「月英…いや、嫦娥、ここは、きみの薬倉庫なのか?」
「ええ」
ここが君の席かと問われたくらいの軽さで嫦娥は答えると、傷の痛みに耐える偉度のもとへと向かい、床に仰向けにした。そして、手馴れたふうに、腹の傷の具合をたしかめた。
「あなたにしては、よい処置ができましたこと。腕を上げましたわね。誉めて差し上げますわ」
「ありがとう。うん、君に言われるならば、鼻が高いよ」
まるで小僧に戻ったようだな、と自分に呆れつつ、孔明は答えた。
嫦娥は、棚から、清潔な布や、塗り薬などを取り出し、あざやかな手並みで、偉度の傷を手当てしていく。

そのとき、倉庫の外でただらなぬ声が起こった。
それも一つや二つではない。
あわてて孔明が窓から外をのぞくと、またもや、思いもかけない人物が大暴れをしているのが見えた。
関羽である。陳到である。
ほかにも見知った部将、兵卒たちが、壷中の兵卒を相手に大暴れをしている。
そして、村の四方にある櫓を中心に、崔州平の黒づくめの兵士たちが、歩哨たちとはげしく小競り合いをしていた。

櫓を制圧した兵士が、かんかん、と鐘を勝ち誇ったように鳴らし、さらには、弓兵が、村の外に向けて、長弓を射掛けている。
外に向けて攻撃している。
その行動の意味は、たったひとつ。
播天流があらわれたのだ。

もはや、薬をひそかに井戸に盛って村を制圧、などという悠長な作戦は取っていられない。
関羽に、そして陳到に、自分が無事なことを知らせなければ。
外へ飛び出そうとした孔明であるが、背後の月英の存在に気づき、足を止めた。
「月英…いや嫦娥。ここは、きみの薬倉庫であったのか?」
孔明の問いに、嫦娥は悲しそうに瞑目したまま、答えない。
答えないことこそが、彼女の答えであった。
なんということか。
この人までもが。
怒りと悲しみが、足元を揺さぶっていく。

そもそも、『壷中』の名を自分に教えてくれたのは、だれだ? 
糜竺と、そして舅の黄承元ではないか。
そこからすれば、その娘、そして自分の妻である月英も、なんらかの関わりがあると考えてもよかった。
だが、まさか、と思っていたのだ。
いや、考えたくなかった。
たしかに、結婚生活は、けして人並みの幸福を得られるものではなかった。
しかし、それでも数年にわたり毎日ひとつ屋根のしたに暮らし、ときには苦しみも分かち合い、共に笑いもした相手である。
孔明は、残念ながら、嫦娥をけっして女人としてはみることはできなかった。
彼女があまりに賢女でありすぎたから、妻として従わせるどころか、人として対等に並び立つこともむずかしいほどに、彼女が優れていたから、できなかった。
だが、よき友だと見なしていた。
彼女の知識は尽きることがない。
まるで、それこそ世のすべてを静かに照らす月のようにすべてを見ているようで、なんでも知っていた。
いま、孔明のもつ知識の大半は、彼女に拠るところが大きいのだ。
夫婦という容に抑えられてしまえば、これほど息苦しい相手はいなかった。
だからこそ、解放された新野では、どれだけのびのびできたかしれない。
それでも、憎んではない。
畏れてもいない。
やはり彼女は特別なのである。

黄家の醜女…そう呼ばれたのは、背の高さゆえではない。
彼女は、たいていの男にとって、あまりに賢すぎる、『都合の悪い』女であった。だからこそ、敬遠されたのだ。
彼女を前にすると、眠れる龍と呼ばれながらも、おのれの狭量を見せ付けられるのがつらかった。
あまりに子供じみていたと思う。

「君は、君も壷中だったのか」
「手紙、読みまして?」
と、器用に偉度の包帯を巻きながら、孔明に目を向けず、嫦娥は言う。
孔明はその真珠のように白い手を、まるで魔法をつむぐ指のようだと感心して見ながら、答えた。
「義父上のもののことか」
「『忘れるな、旧讐は壷中にあり』。あれは、わたしが、偽手紙の男についでに書かせたものですの。元直さまの手紙を書いた、あの男です。張飛殿が捕らえたのですって」
「あれは、君がわたしに壷中のことを知らせるために? 義父上はどうされている?」
「生きておりますわ。信頼のできる者に、山中に隠させております。本人は、監禁だといって、怒ってらっしゃいましたけど」
そういって、嫦娥は笑った。
その孤独すら乗り越えた、覚悟に満ちた力強い笑みに、かえって孔明は胸が締め付けられた。

彼女の婚礼はひどいものであった。
あるとき、黄承元がやってきて、うちに娘がいて、とても賢いから、あんたにぴったりだ、と言う。
孔明は冗談だと思って、それならばいただきましょうと言った。
どこかでまさかと思っていた。
大事な娘を、そんな冗談のような会話のうえで寄越すはずがない。
しかし、その日のうちに、ほんとうに月英はやってきた。
まるで花嫁を積んでいるとは思えない、ごくごく普通の馬車がやってきて、これからわたくしがあなたの妻になります、といって頭を下げた。
孔明はこれに呆れ、怒った。
しかし、権勢家であり、蔡瑁ともつながりのある黄家に気を遣って、追い返すことはできなかった。
そのときは、侮辱されたのは自分だと思ったものだが、今思えば、そんな屈辱的な婚儀しか父親に用意してもらえなかった、この女性の胸のうちはどんなものであっただろう。

「元気ならば、よいよ」
孔明が言うと、嫦娥は、悲しそうにちいさく首を振った。
「正直におっしゃってくださっても構いません。わが父は、あなたさまの叔父の仇にあたる人間。あなたさまがそうしろとおっしゃるのであれば、父には、二度と日を拝ませませぬ」

壷中は、諸葛家の長子である孔明を、仲間に組み入れようと狙っていた。
大切な跡取り息子を奪われてはならないと、叔父の玄は、偽の手紙をでっちあげ、中原や江東にそれぞれ非難した諸葛家に、壷中の存在をばらすと脅した。
もちろん、手紙はもとから存在していなかったわけだが、お陰で孔明は守られた。
だが、手紙がある、と信じていた壷中は、孔明を放っておくことができなかったのである。
だから、何度も劉表の手元で、壷中としてではなく、家臣として遇しようともしたが、これはばあやの機転で免れていた。
そこで、壷中は、もっと身近に見張りを置くことにしたのだ。
壷中の女を、孔明の妻にあてがうことで。

「新野の人間だって、そんな言葉はつかわないよ。父上は、大切にしたまえ」
「おやさしいのね。代わりに、わたくしを殺しても構いませぬ」
「きみには…なにも、ないよ」
残酷な言葉を言っているな、とわかっていたが、嘘をつくことはできなかった。
「それに、君が死んでしまったら、困る者がたくさんいるのではないかい。きみの医術は、たくさんの人に必要とされている。わたしは軍師として人を殺す命令をし、君は医者として人を助ける。相談してそうなったというわけではないが、よく出来ているとは思うよ」
孔明が思わず笑みをこぼすと、偉度の手当てを終わった嫦娥もまた、穏やかな笑みを浮かべた。
「実は、もう二度とお目にかからないつもりで、あの隆中の家を出ました。たとえ縁あって妻となったとはいえ、わたくしはやはり、壷中の女。父の命令で、郎君を見張るため、諸葛家に入り込んだ、いわば細作でございます。正体の知れた細作は、もはや用は立たない。ですから、お別れを言いに参りましたの」
「別れ?」
嫦娥はすっくと立つと、ほぼ孔明とならぶ双眸を、つよくして、言う。
「郎君、最後のお願いでございます。ほかならぬ、貴方様の手で、壷中を潰してくださいまし」
「わたしが」
嫦娥は、大きくうなずいた。
「わたしには、どうしても兄弟姉妹を殺すことはできない。どんなに怨みがあろうと、やはりわたしは医者だから、人を殺すことができないのです。たとえ正義のためとはいえ、人を殺してしまったなら、明日から、わたしはどうして生きて行けばよいのでしょう。
ひどい我侭を口にしていることはわかっております。でも、わたしには、どうしてもできない。崔州平も、糜子仲殿も、やはり似たような理由で、壷中を潰すことが出来ないのです。
わたしたちは、あまりに多くの年月を壷中に奪われてしまった。過去を人質に取られているようなものなのです。わたしたちだけではない、ここにいる、花安英も、程子聞も、風狗も、蔡瑁も、蔡夫人、斐仁…播天流もそのあわれな一人。
壷中という組織は、多くの人の命を喰らい続け、いつしか、巨大な化け物のようになってしまった。人を助けるためでも、欲望を満たすためだけでもない。ただ、人の命をひたすらに消費するだけの、奈落の穴なのです。
これを潰すには、壷中の人間にはできない。多くの手から守られ、いままで壷中から逃げ切っていた、貴方様にならばできるはず。どうか、わたくしたちのこの苦しみを断ち切ってくださいまし。過去から解放して!」
「過去から」

ふと脳裏に、樊城で、刺客に襲われた諸葛玄の姿が浮かんだ。
さりげなく近づいてきた男の白刃が、腹に容赦なく深々と突き刺さる。
怯える孔明に、諸葛玄が、安心させようというように、笑った。
大丈夫だ、と。

戦って、きっと勝て。すべての絶望を断ち切るのだ。

声なき声が、いまこそはっきりと、時を越えて聞こえてきたような気がした。
ぎゅっと、傍らに持っていた徐庶の剣を掴む。

亡き叔父君の遺志を受け継ぎ、そしておれの志もついでくれるなら、きっとおまえが、この国のあたらしい主公の軍師として、おれのいる中原にまでやってきてくれることを夢見ている。
おまえの語る天下は、だれの語る天下よりも美しく、力強いものであった。おれはおまえが与えてくれた夢を見て、眠り続けていることにしよう。
かならず起こしに来い…

ああ、そうだ。必ず行くと、決めたのではなかったか。
すべての過去を振り切り、いまこそ、君の待つところへと足を向けよう。

「趙子龍さまは、播天流とともに村の外におります」
子龍。
その名を聞き、孔明は、はっきりと現実に戻ってきた。
「なんと? さすれば、火矢など射掛けたら、子龍まで燃えてしまおうぞ!」
「急ぎ、関将軍と陳将軍と合流し、崔州平との仲立ちをしてくださいませ。そして、みなで力をあわせて壷中を潰すのでございます!」
「わかった」
つよくうなずく孔明に、嫦娥は、その肩を、しっかりと両手で掴んで言う。
「よろしいですか、郎君。貴方様は、もはやわたくしでもない、崔州平でもない、徐元直でもない。まして、叔父上でもない。新野の方々を、劉玄徳と、趙子龍を運命の輩(ともがら)として選ばれたのです。
もう過去を振り返ってはなりませぬ。ただひたすら、前を見て、わたくしのことは忘れておしまいになって。よろしいですね? 司馬先生が希望をこめてそう名づけたように、まことの龍になりなされ。そうすれば」
孔明は、もはや何も言わず、目の前の妻を、万感の思いで抱きしめた。
このひとは、こんなに華奢であっただろうかと、悲しく思いながら。
「そうすれば、わたくしも、救われます」
わたしは君の涙をいままで知らなかったな、と孔明は、口には出さず、その肩に落ちる涙の気配を感じて思った。
「この『弟』はわたくしにお任せを、さあ、早くお行きになって!」
嫦娥は、孔明の肩をつよく押して、薬倉庫の外へと押し出す。

播天流の船で、趙雲に突き飛ばされたことが、どうしても思い浮かんだ。
あの莫迦な、責任感のつよすぎる男を助けに行かなければ。
孔明は、徐庶の剣をしっかりと掴むと、あちこちで修羅の起こっている村を駆け、大音声で、仲間たちの名前を呼んだ。
その声は、風雲を割る雷のような勢いで、あたりに響き渡った。
「関羽! 陳到! わたしだ! 諸葛孔明だ! わたしはここにいる!」



最初に、孔明の姿に気づいたのは、やはり、いかなるときでも冷静さを失わない陳到であった。
関羽はというと、その名望が高すぎるあまり、有象無象がその首を狙って押し寄せてくるため、とてもではないが、黒装束に身を固めた孔明の姿を見分けることができなかったのである。
目の前にいる男を鮮やかな手並みで切り伏せると、陳到は、ほとんど返り血の浴びていない姿で、近寄ってきた。

「軍師! おお、ご無事でございましたか! よろしゅうございました、主公もきっと喜ばれましょう! 詳しく話すことはできかねますが、いま、主公は張飛さまと樊城へ向かっており、我らが、軍師たちをお助けするために此方へ参った次第でございます。して、子龍様は、いずれに?」
「叔至、こちらも詳しく話している暇がない。実はわたしは、一度は劉表の虜になったのであるが、劉表は死に、壷中という樊城の刺客集団の長、播天流に捕らわれた。船で義陽へ連れて行かれるところを、子龍によって逃されたのだ」
「なんと? では、子龍様はどちらに?」
孔明は答えず、崔州平と部下たちが、しきりに火矢を射掛けている村の外へと目をやった。
もちろん、黙っている播天流ではなく、櫓の上にいる崔州平の部下に、応酬せよとばかりに矢を射返している。
地形的には、村のほうが高所にあたるため、此方が有利にはちがいないのであるが、まずいことに、数が不足している。

村の内部では、劉備軍と崔州平が連合しておらず、めいめいで行動しているために防御が系統だっておらず、敵か味方か混乱している状態。
それに対し、不利な場所にいるとはいえ、播天流の側は数も多く、一時の混乱さえ収まってしまえば、あとは見事な調練の結果を見せて、つぎつぎと反撃を繰り出してくるだろう。
崔州平の火矢は効き目があるようであったが、しかし人数は播天流側のほうが多い。そのため、せっかく点った火も、すぐに消されてしまっている。

「このままでは、こちらが制圧されてしまう。陳到、そなた、弓が得意であったな」
「は、それなりには」
「よし、あの櫓にいる、黒装束の男に弓を射かけよ。ただし、決して当ててはならぬ!」
承知、といいざま、陳到は余計なことはなにひとつ言わず、担いでいた弓をきりりと引いた。そして、櫓の上の黒装束の男の目の前を、ぎりぎり掠めるように、ひゅん、と矢を飛ばした。
とたん、男はすばやく矢をのけぞってかわした。
それが村の内側から飛んできたものとしれると、頭を返して、村を睥睨する。
そうして、弓を番えた不届き者を見つけると、はげしく怒鳴った。
「孔明! おまえ、なんのつもりだ!」
「州平、すまぬ、話を聞いてくれ。みなに、弓を収めるように命じてほしい! このままだと、我らは逆に播天流に包囲され、全滅するぞ!」
「莫迦な! おまえ、あそこにいる己の主騎を助けたいがために、俺をたばかっているのではあるまいな!」
櫓から怒鳴る崔州平に、孔明もあらん限りの声で怒鳴り返した。
このあたりの応酬は、襄陽時代、まったく変わらないところである。
「莫迦は君だ! 村をじっくり見ろ。そして、播天流のほうもだ! やつらは確実に前進をしている。それにくらべて、こちらはどうだ! 敵も味方もわからず相打ちをしている者すらおる! 一時だけでよい。わたしに時間をくれ!」
「なんだと?」

怪訝そうにする崔州平。それを尻目に、孔明は、外側からの矢が飛び交うなか、いまだ村の中での小競り合いがつづくなか、みずから輜重の天辺に上った。
「軍師! 的にされてしまいます!」
陳到があわてて止めようとするのであるが、孔明は構わず、みずから輜重の上に立ち、そしてさらに目立つように大きく手を広げると、村の内外に響くように叫んだ。
「みな、鎮まれ! 我が名は諸葛孔明! 新野を守りし劉予州の軍師である!」
村の外から射掛けられた矢が、孔明の頬をかすめ、軽い傷を作って、過ぎ去っていった。山風がそれをさらになぶる。
そうして、ふたたび大量の矢が、村の外から雨のように飛んでくる。これは避けられない。
孔明はひやりとしたものの、孔明の身に突き刺さる前に、矢は、あらわれた関羽の槍がすべてを打ち折って、地面のぼとぼとと落ちて行った。
そうして、関羽が、にやりと、珍しく悪戯小僧のように笑う。
「軍師、無事でなによりだ。さて、貴殿のお得の舌を、存分に揮われよ」
「ありがとう」
孔明は言い、ふたたび周囲を睥睨する。
「みな、鎮まるのだ! 無益な戦いは止めよ! そして共に、真の敵と戦おうではないか!」
真の敵、というあまりに曖昧な表現が、かえって気を引いたのか、鍔迫り合いをしていた兵士たちは、孔明のほうを胡散臭そうに見上げ、その手を止める。

太陽の章15へつづく
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