09年改訂版

孤月的陣
第五章 タイヨウ  太陽

「首をはねられた人は、みんな、悪い人だったの?」
召春の問いに、趙雲は正直に首を振った。
「わからないな。ただ、俺たちの邪魔をしたから、斬るのだ」
趙雲の言葉に、子供たちは、理解しかねているのか、顔を見合わせる。
「相手が善い人か、悪い人かもわからないのに、斬ってしまうの?」
「物事に、善悪だけで処理できることはひどく少ないのだ。残念だが。世の中がもっとわかりやすければ、だれも悩んだり苦しんだりしない。いま、この世の中の皆が…おまえやおまえの家族たちも含めて苦しんでいるのは、世の中がわかりにくいからだ。
では、ここで質問をしようか。おまえたち、お腹が空いてどうしようもなくなった、畑はみな焼かれたか、掠奪されたかして、雑草しか生えておらぬ。だが、武器になりそうな鍬だけがあり、どうやら隣の村には食糧があるようだ。さて、どうする」
「隣の村に、食糧をわけてもらいに行くよ」
年長の恵開のことばに、ほかの子供たちも、その意見に、うんうん、と肯いた。
「だが、隣の村も人がたくさんいて、自分たちの食べる分しかもう食糧がない、と断られた。こちらは、一口も口にできるものがなにもない、村では、大人も子供も餓死寸前だ。さて、次にどうする」
「どうしても、っておねがいする」
「駄目だといわれたら? そして、お前の手には鍬があるぞ。それを振り上げれば、相手を倒して、食糧を奪うことができる。村には、自分の帰りを待つ家族がいるのだ。どうする」

子供たちは顔を見合わせ、それから困ったような顔をし、ついで、どうしてこんな意地悪な問いをするのだ、というふうに趙雲を見た。
「答えられまい。だが、たいがいのものはそこで、己を救うために鍬を揮い、敵でもない者を殺して、食糧を得て生き延びた。そして、殺された者の一族は、復讐を誓い、また食糧を得た者の一族を殺しに行く。そうしてどんどん血の輪がひろがった。さて、どこに悪者がいる?」
「最初に食糧をわ分けてくれなかった村人かな」
「ちがうよ。頼み方が悪かったんだよ」
と、子玲少年が恵開に反駁した。
「ゆっくりたのんでいる時間がなかったんだ、やっぱりわけてくれなかった人が悪い」
子供たちが意見を戦わせているのを、趙雲はしばらく耳を傾けていたが、やがて口をひらいた。
「分けてくれなかった者にも事情があった。分けてしまったなら、自分たちが飢えてしまうからだ」
「それなら」
だれが悪いのだ、というふうに、子供たちは困りきって趙雲を見る。
「もはや善と悪のふたつだけでは分けきれないことが、世の中にはたくさんあるのだ。死ぬかもしれないから、他者の命を奪って生きようとすることが悪だというのならば、善とはなんなのだろう。ひとのために餓死すればよかったのか? その者に、なにも否がないのに?」
「わかりませぬ」
子供たちは膝をかかえ、じっと趙雲の話に耳を傾けていた。
召春が、かなしそうに言う。
「子龍さまも、そういうことをしたことがあるの?」
「ある。食糧をたとえに出したが、それが武器であったり、もっと大きな場合には土地であったりする。世に悪も善もなく、すべてが混沌とあるのが現状なのだ。わかるだろうか」
「子龍さまも、わたしたちも、悪人であったり、善人であったりする、ということですか」
「そうだ」
飲み込みの早い子供達に、趙雲は笑みを浮かべたが、顔がはれ上がっているために、期待していたほど優しい効果は挙げられなかったらしい。
痛ましそうに、子供たちが顔をひそめる。

「俺は弱い者。そしておまえたちも」
「播天流さまも?」
「そうだ。己を強い、などと嘯く者に、ろくなものはおらぬぞ。己が弱いと知っているからこそ、考える。危機に際して、どうしたら切り抜ければよいか、だれも傷つけずにすむか、真剣に考える。
なまじ、強いなどとうぬぼれている者は、力だけで切り抜けようとする。それでも、勢いと運があれば、なんとかなろう。しかし、いずれは弱者の知恵のまえに圧倒される」
「播天流さまは、ともかく体を鍛え、技を身につけ、老師たちの言うことを聞いていれば強くなれるとおっしゃいました」
「己の頭で考えよと、いわれたことはあるか」
子供たちは、一斉に、ない、と首を振る。

かつての趙雲もそうであった。公孫瓚のもとへいたとき、言われつづけたのである。ただひたすら、上長の命令を聞け、他の言葉に耳をかたむけるな、それこそが主公に対する忠義の証しである、と。
しかし成長し、公孫?の、見かけよりもずっと弱気な性質や、播天流の妄執的な性格が見えてくるにつれ、そこにひそむ落とし穴に気づけたから、まだよかったのだ。
嘘も技術なのである。公孫瓚時代の播天流は、少年であった趙雲に見抜ける程度の『嘘』しかつけないでいた(自分ではもとより嘘などとは信じていないのだが)。
だが、嘘を重ねているうちに、その技術が磨かれて、もっともらしい『真実』に聞こえるように説得できるようになってしまった。相手が子供ならば、騙すのはたやすかろう。
これまで、どれだけ多くの子供たちが、その嘘をよすがに、死んでいったのだろう。
連日のように播天流に嘲弄され、殴られているうちに、趙雲の内側は、確実に変化し始めいた。
まだわずかにあった、播天流に対する負い目は、すっかり無くなっていた。
そのかわり、いま、胸のうちに、いまにも噴き出しそうな感情がくすぶっている。

「俺の話と、播天流の話、どちらがほんとうか、おまえたち自身のあたまで、ゆっくりでいい、義陽の村に着くまでに考えるのだ。心の声に耳をすませろ。嫌だと思うことを誤魔化さず、なぜに嫌なのか、そしてなぜそう感じるのか、考えるのだ。そして、どちらかを選べ」
「選べ、って? それでは、もしわたしが播天流さまの言うことを信じたら?」
と、恵開が不安そうに言うと、他の子どもたちが抗議の眼差しを向ける。
しかし、趙雲は笑みをうかべ、決まり悪そうに、それでもつよい眼差しを持つ恵開を見た。
よい目をしている。自分で考えることの責任に気づきはじめた、意志を持つ目だ。
「その質問が出るということは、おまえの中で、すでに答が出来上がっている、ということではないのかな」
「うん…でも、子龍さまのおはなしは、すこしむずかしいです」
「俺は口下手だからな。あいつなら、もっと優しく判りやすいことばで、おまえたちに説明できるのだが」
「諸葛孔明という方?」
子供たちは、しょっちゅう、趙雲が孔明の名を持ち出すので、その珍しい姓名もあいまって、会ったこともないうちから、すっかりその存在に慣れていた。
「そうだ。あいつは口から生まれたようなやつだからな」
「その方が、わたしたちを助けてくれるのでしょう? そして、その方のところに、子龍さまは連れて行って下さるのでしょう? ですから、わたくしは子龍さまを信じます」
そういって、召春は、九歳の少女らしい純真な笑みを浮かべて言った。
子供を持たぬ趙雲は、真っ直ぐな信頼を受け止めるのに照れてしまう。

「おまえは名前のとおりの子だな」
思わず言うと、召春は首をかしげる。
「おまえの父は、おまえのことをとても慈しんでいたのであろう。おまえの父にとって、おまえはすべてが萌えいずる希望の季節、春に等しかった。だから春を招く娘、という名前をつけたのであろう」
他の子供たちは、親からもらった字の意味を聞く暇もなく攫われたもの、あるいは、だまされてつれて来られたものがほとんどであったので、紅一点の召春を見て、いいなぁ、とつぶやく。
趙雲としては、純粋に名前の美しさを誉めたつもりであったのだが、それを聞くや、召春は涙をぽろぽろこぼして泣き出した。
「父さんに会いたい。文字もなにも覚えなくていい。父さんにもう一度会いたい」
ああ、しまった。だから俺は配慮が足りぬ、と己を叱りつつ、後ろでがりがりと手枷を削り続ける少年に、手を止めるように言って、それから涙をこぼす召春に言った。
「泣くな。かならず、俺はおまえを父親のもとへ連れて行ってやろう。だから、それまで泣いてはならぬ。泣くと力が削がれるからな。笑っておれ」
「笑う?」
少女は怪訝そうに、しゃくりあげながら趙雲を見上げる。その痛ましい泣き顔に、己をさらに責めつつ、趙雲は大きく肯いた。
「そうだ、笑うと力が湧いてくるからな。俺のよく知っているやつも、なにがおかしいのやら、よく笑っておった。誰からも無視されても、いつも笑っていたよ。
そうだ、さっきの食糧のたとえに話をもどすか。手元に食糧はない。家族はみな飢えている。隣の村には食糧があるが、頼んでもどうしても分けてもらえなかった。そのようなとき、その男は変わっている。ありとあらゆる方法をつかって、食糧を分けてもらう方法を考えるのだ。凡人ならば、十の方法を試して諦めて武器を取る。賢人ならば、百の方法を試して諦める。
だが、そいつは千も万も、だれもが納得するまで、とことん考えて、だれもできやしないとおもっていたことを実行してしまうのだ。それがあまりに当たりまえの顔をしているので、最初は、あいつでなくっても、自然とこうなったのさと、だれもが思う。
だが、後になって考えると、やはりそいつがそこにいなければ、だれも助からなかったということが知れてくる。なのに、そいつはすこしも威張ったりしない。ちょっと人より、変わった方法を見つけるのがうまいのだといって、人を救ったことを威張るのではなく、見つけることがうまいことを威張るのだ」
「そのお方も諸葛孔明さま? へんなひと」
召春は泣きやんで、笑みをこぼした。
「そうだ。おもしろいやつだ。きっとおまえたちに会わせてやろう。そいつは俺の」
あなたは、ほかのだれでもない、この孔明の主騎なのだ。
新野で言った孔明の、柔らかな笑顔が浮かんだ。主騎か。それでもいい。俺はおまえを、こう思おう。
「俺のいちばんの友だ」
「でも、男は闘うべきときがある、って、うちの父ちゃんは言っていたよ」
と、少年たちのなかでも器用なニキビ面の安沈が、鋸をごりごりと動かしながら、趙雲の背後で口を尖らせた。
「それも一理ある。でも、人殺しなんて、しないほうがいい。おまえたちは、人が死ぬさまというものを見たことはあるか?」
「ない…殴られているのをみたことは、あるけれど」
と、子供たちは、毎日のように播天流に殴られる趙雲に気を使ってか、声を落として言った。
「殺すのを見るのも、実際に手を下すのも、いいものではないぞ、すこしも。人は、一人でも死なないほうがいい。敵が味方になるほうがいい」
「わたしもそう思います」
と、泣くのをやめた召春が、さらに趙雲に身を摺り寄せるようにしてことばを合わせた。そして、真っ直ぐ趙雲を見て、たずねる。
「子龍さまにはご家族がいるの? わたしたちのような子がいる?」
「いない。妻もない。そうだな、新野の連中が、おれの家族なのだ。俺は、いままであまりに多くの死を作り出しすぎた。その点だけは、いまいましいことに、あの播天流のことばは当たっているのだ。
武人であり続けるかぎり、俺は人としてなにも生まず、破壊することのみを義務として、これからも生きていくのであろう」
しかし、それは、だれの意志でもない。俺はおまえの命令によって動く。
趙雲は、ここにはいない龍に呼びかけるようにして思った。
だから、俺は、きっとお前以外の何者をも、内に入れることはないだろう。
「俺は、だれかの親にならない代わりに、おまえたちのように、寄る辺ない者たちの親となるのだ。おまえたちが、ほんとうの父上、母上のもとに戻れるまで、俺はおまえたちの親となろう」
だれと限ったものではなく、皆を救う。孔明が尊大なまでに明るく笑っていられるその心意気を、趙雲はこのとき、真の意味で理解した。

ふと、表ががやがやと騒がしく、馬車が、がくりと止まった。
ひといきついた馬のいななきが聞こえてくる。義陽についたのかもしれない。
板の隙間から、あふれんばかりの蝉の声が四方八方から、攻め入ってくるかのように聞こえてきた。
蛙の声が聞こえないところからして、水場が遠い。山中なのであろう。
馬車の小窓を除いていた恵開が、声を強ばらせ、振り返った。
「義陽の村についたみたいだ。だれか、こちらへくるよ」
趙雲の手枷を、懸命に、あとすこし、あとすこしとつぶやきながら削っていた安沈が、顔をあげる。
「たいへんだ」
といいつつ、安沈は、機転をきかせて、あと親指ほどの長さを切りさえすれば、完全に外れてしまうであろう手枷に、汗をふくために首にまいていた手ぬぐいをまきつけ、おがくずをあたりに散らした。
そうして、やってくる大人たちを待った。






村は、思った以上に疲弊していた。
それは、始めてこの場所にやってきた崔州平、そして孔明の第一印象であった。
村は狭かった。
崖の淵にあり、まだ若い木々があたりに植えられていて、いかにも出来立ての場所だというふうである。
中央には大きな井戸があり、その井戸を中心に、家財道具一式を積んで、道のあちこちに、さまざまな人々がつかれきって座っていた。

嫌でも徐州での出来事を思い出し、孔明はぞっとした。
昨日より暑さが増したため、水がどうしても欲しくなる。
木陰がほしくなる。おそらく、だれもが、ちゃんとした屋根のある建物のなかでくつろぎたいと願っているにちがいない。
しかし村が体裁だけを整えるために急ごしらえでつくられたものであることは、ひと目で知れた。
人数と建物の数がまるで合っていない。
そのために、建物の中に入ることのできなかった人々は、仕方がなく、乞食のように表にでて、ぐったりと、暑さにかまけて身を横たえているのであった。
中には乳飲み子の姿もあれば、うら若い娘の姿もある。
曹操がやってくる、と誇大に人々が恐れた結果が、これであった。
荊州の人間にも、曹操がおこなった徐州の大虐殺の記憶が鮮明なのである。

孔明たちが顔を出した枯れ井戸は、ちょうど木々に隠れる位置にあり、崔州平と部下、そして花安英を抱える孔明は、難なく村に潜入することが出来た。
人々が輜重の隊列に群がっていたお陰である。
四方を外部にむけて目を向けている哨兵たちすら、あふれる難民じみた豪族たちに手を焼いていたのだろう。
群がる人々を輜重から引き離す作業に追われ、孔明たちに気づかない。

「この機を逃してはなりませぬ。あちらに」
と、花安英がすばやく孔明に言う。
花安英の指す方角には、小さな高床式の倉が有り、歩哨がいたのだが、輜重の列を守るために持ち場をちょうど、離れている。
負ぶっていくとかえって目立つというので、孔明は花安英を下ろし、倉に向かうべく足を進めたのであるが、その背に崔州平のことばをかけてきた。
「孔明、俺は、おまえの作戦に乗ったわけじゃない。水や食糧にうまく薬を入れたとして、それでもなお戦意を失わぬのが壷中。おまえも花安英も甘い。おまえたちに、すこしでもしくじりが会ったときは、外に待機させている俺の部下は、容赦なく火矢をかけ、俺たちは中にいる壷中の殲滅にかかる。それを忘れるな」
「わかっている」
孔明は肯くと、崔州平とわかれ、徐庶の剣をしっかりと片手で掴み、花安英に肩を貸しながら、薬倉庫へと向かう。

十台ほどの大きな車に、それこそ小山のように大量の物資を運んだ輜重のほうでは、荷台の上に乗った兵卒が、
「慌てるな、順番、順番。ちゃんと配る!」
と呑気に人々を諌めている。
どこにでも、叔至のように、動じない男がいるものだな、と孔明は思いつつ、だれもこちらを見ていないし、邪魔で仕方がないので、目を覆っていた仮面を脱いだ。
「ばれますよ」
花安英がたしなめるが、孔明は頓着せず、言う。
「わたしの顔を知る者は少ない。名前ばかりが先行している人間なのでね」
「そうじゃなく、あなた、ときどき自分の顔に対して、ひどく鈍感ですよね。わたしはあまり人さまの顔を誉めたりしませんが、あなたは特別です。あなたみたいな睫毛の長い男は見たことがない。程子聞が、あなたに夢中になった理由がわかる気がしますよ。あなたには、なんというか性別がないのだ。男でもない、女でもない。だから、どちらの気も引いてしまう」
「大丈夫。わたしと会話をした時点で、たいがいの者の夢は破れる。第一、睫毛ならば、お前も長いではないか。それに、すれ違いざまに見た男の睫毛の長さなんぞ、だれが気にするものか。それより、おまえであろう。知った顔がいたらどうする。お前こそ仮面をかぶれ」
「わたしが播天流に逆らったことは、まだこの村のものは知らないはずです。ですから、余計な心配はご無用。わたしがここに来ると言ったのは、私自身のケリをつけるためだけではありません。わたしはそこまで感傷的な人間じゃないんだ。あなたがへまをして、取り囲まれた場合、わたしが助けるためですよ」
「そうであったか、すまないな」
花安英、と名前を言いかけて、孔明はちらりと、わあわあとひっきりなしに人の群がり続ける輜重の列をちらりと見た。
人々に物資を配っているのは、胡家の雇われた人間だろうか。花安英の家族がいてもおかしくない。
薬を皆に盛って、村を占拠する作戦がうまくいかなければ、崔州平は容赦なく村を焼く。焦っていることだろう。
「いまさらですまぬが、この期におよび、花安英と呼ぶのもどうかと思う。本名を教えてくれぬか。わたしは真のお前とともにこの難局を乗り切りたいのだ」
「ほんとうにいまさらですね。字など、どちらでもよろしい。程子聞は、花安英のほうが、わたしにふさわしいと」
「そうか? たしかにそなたは花の顔(かんばせ)の持ち主では在るが、花のようにたおやかでもはかなげでもなく、ずっと剛毅だ」
風狗によって刺された傷を軽く押さえながら、花安英は、呆れたように孔明に言う。
「どうでもいいところに気を使われる方だ。では言いましょう。わたしに字はないのです」
「ない?」
鸚鵡返しにする孔明に、花安英は、独特の、皮肉げな笑みを口はしに浮かべた。
「花安英なんていうのは、響きがいいから、勝手に名乗っただけのもの。程子聞が、それがとても似合うといったから、捨てられなかっただけの話なんだ。だから、わたしに真の字なんぞないのですよ」
花安英の名の響きはたしかに典雅で、いかにも程子聞がの好みであった。

しかし、孔明は、この少年の内側にある強さを知っている。
花安英。華やかで賢い、というだけではこの少年にふさわしくない。
「なんです」
「わたしは名づけるのが下手だが、『偉度』というのはどうであろう」
しかし、花安英は、孔明の意に反し、鼻を鳴らすと、よたよたと、輜重へむらがる難民たちとすれ違うようにして、薬倉庫のほうへと歩いて行ってしまう。
「だめか。『並外れた才覚・器』という意味をこめたのだが。そなたの優れているのは、なにも美貌だけではない。武芸も、画才もあるし、それに、わたしを緊張させるほどに弁舌の才もあるのだ」
「緊張? へぇ? わたしに緊張などなさっていたのですか」
「していたとも。だいぶことばを選んでいたのだぞ。気に入らぬか」
「偉度なんて、野暮ったい」
「だめか。それでは仕方ない『飛剣』というのはどうだ」
「よい名前を考えられるではありませんか」
「うむ、昔わたしが戯れに、山で拾って飼っていた、針ねずみと同じ名前なのだが」
「…ねずみ?」
「うん。いつしかいなくなってしまったが、やつのことだ。野犬に負けることもなく、いまも元気で山の中で毛を尖らせていると信じているが」
「…偉度でいいです。返事をするかどうか、わかりませんが」
「うむ、ではそなたは今日から偉度と名乗るがよいぞ。胡偉度。響きもよいし、そなたにぴったりではないか。さて、それを祝すかのように、薬倉庫の前には誰もおらぬ」
その場に似合わず、うきうきした様子の孔明を、花安英あらため胡偉度は、あきれて言う。
「あなた、どうでもいいことで、ものすごく機嫌がよくなるのですね」
「得な性分なのだよ。ほら、まさに天の配剤」
孔明は、さっそく戸口に手をかけるのであるが、扉が開かない。
南京錠が差されている。
「あっさり運が費えたようですね」
偉度の嫌味にも、孔明はまるでへこたれない。
懐に隠し持っていた、小さな針のような金具を持ち出し、南京錠に差し入れる。
「あなた、軍師、ですよね?」
と、倉にしつらえられた階段にもたれつつ、見張りもかねている偉度は、南京錠を器用にかちゃかちゃとやりはじめた孔明を呆れてみている。
「なにを呆れているのだね。よいか、ひとつよきことを教えてやろう。もしも罪人の詮議をするときには、たかが咎人と軽くあしらわず、注意深く彼らのことばに耳を傾けているといい。
わたしは、先だってつかまえた新野の泥棒の意見に従って、外出時には、こうしてかならず、鍵を開けるための金具を持ち歩いているのだ。なかなか重宝するのだぞ。ほら」
ほどなく、がちゃり、という音がして、南京錠は開いた。
「軍師を辞められても、泥棒という手段がありますね」
「大泥棒から英雄になった例もある。世に、ありとあらゆる機会は転がっているのさ。そなたが刺客から、世人に崇められるような聖人になる可能性もな。
さて、しびれ薬はどこだ? 教えてくれないか、偉度」


馬車にやってきた男は二人。
趙雲よりも、ひと回り若い青年二人であった。
てっきり目隠しをするようにという指示を与えるためか、あるいはそして子供たちと交代するためにやってきたのかと思った趙雲であるが、青年二人の目つきを見て、暗い予感が胸をよぎった。

馬車の扉が開く前に、子供たちは趙雲から離れ、それぞれ緊張した面持ちで、青年たちを迎え入れる。
そのなかに、播天流の姿がないのを見て、子供たちは安心しているようだ。
だが、趙雲は、最悪の、そして想像していなかった事態を、青年たちの双眸のなかに見つけた。
こいつら。
立ち上がり、青年らを追い返せたら。
趙雲は、片方の足で床をけり、なんとか立ち上がろうとしたが、できなかった。もどかしさで苛立ちが増す。

開かれた扉の向こうには、船から出された荷車や馬車が止まっていた。
そこでは、兵卒や、あるいは宦官ふうのもの、召春や恵開のようにちいさな子供たちが、壷中の大人の指示に従って動いている。
黒塗りの板塀や土塁が見えたので、おそらくその内側が義陽の隠し村なのだろう。
わんわんと責めるように聞こえてくる蝉の声と、さわやかな山風が、妙に平和で、そぐわない。
いや、そぐわないのは、本来ならば静寂に包まれているはずの山中に、これほどの人間が集まっている、この事実なわけであるが。

青年らは壷中の古株であろう。片方は背がひょろりと高く、目ばかりが大きい不恰好な男で、もうひとりは固太りした、丸い鼻がひどく目立つ、これまた不恰好な男であった。
趙雲が、捕らえられてから、はじめて見る顔である。
そして、かれらは馬車の中央に鎮座する趙雲を見、かしこまる子供たちを見回す。
俺のろくでもない直感よ、外れてくれ、と、このときばかり趙雲は思ったが、やはり研ぎ澄まされた戦士の勘は、悲しいくらいに的確に事態を予測していた。
趙雲は、かれらが現れるまで、義陽の村に着いたら、自分は、やはり播天流によって監禁され、やつの思いついた『罰』とやらを受けるのであろうと漠然と思っていた。
片目を潰されるか、両手足をもがれるかにしても、命だけは取らないであろう、と考えていた。
播天流の残酷な性格が、一思いに命を奪うことよりも、生殺しの目に遭わせることを選択するだろうことは予想できたのである。
それにしても、播天流は、やはり並みの狂人ではなかった。
最悪の狂人であった。

青年たちは、子供たちを見回し、最後に召春に目をつけると、後ろ手で、ぱたりと馬車の扉を閉めた。
背の高いほうが丸い鼻のほうに尋ねる。
「ほかの餓鬼どもは、外にださなくていいのかい」
「べつにいいだろう。なんにも出来やしないさ」
「だって、騒ぐよ。五月蠅いのは嫌いなのだ」
「だったら、俺がやっている間に、おまえが剣でもって、そいつらを脅しておけばいいじゃないか」
そうか、と愚鈍そうな男は、そういうと、やおら剣を抜き、恵開と子玲、それから安沈を、一箇所にあつまるように指示し、それから召春の前に立つ。
「なんだか臭うな」
「仕方ない、こいつのせいだもの」
と、いいざま、背の高いほうが、後ろ手に枷をはめられている趙雲の肩を、軽くこついた。
それを合図にして、趙雲は尋ねる。
「なにをするつもりだ」
「口が利けるのか」
あたりまえのことを、青年ふたりは驚いて言う。
「てっきり、とっくの昔に咽喉を潰していたかと思ったよ。やっぱり、播天流さまは、こいつが特別なのだろうな」
「色小姓にしてやろうと思っていたのに、寸前で逃げられたって話だよ」
初耳だ。趙雲は青年たちの会話に、つい笑みを漏らしてしまう。
なるほど、事情がまったくわからない者たちからすれば、趙雲と播天流の間にあるつめたいいざこざは、つまらぬ痴情のもつれと誤解されるものなのかもしれない。まして、これほど倫理が狂っているところでは。

「俺の質問に答えよ。その娘をどうする」
「威張ったやつだな。新野じゃ将軍だったらしいけれど、いまはただの捕虜だろう」
いいつつ、丸い鼻の巨漢は、趙雲を拳で、ごつんと殴りつけた。反動で、体が床に倒れる。
それを見て、召春が小さな悲鳴をあげた。
「おい、そいつは気絶させていちゃだめなのだ」
と、妙に呑気に背の高いほうが、丸い鼻をたしなめる。
「播天流さまが言っていたじゃないか。あの男の世話を、どうして同じ娘にさせるのか、理由は簡単、あいつに情を移させるためだ」
口調が似ている、といって、下卑た笑いをして、丸い鼻は、同じように丸い腹を震わせる。
「情が移ったところで、あいつの目の前で、娘を犯してしまえ。自分が心をかけた者がどうなるか、その結果をとっくりみせてやれ。そう言った」
「そうか。それじゃあ、気絶させちゃあ、駄目なのか」

予感していたとはいえ、趙雲は、播天流のもつ底知れぬ邪悪さに、全身が震えるほどの怒りをおぼえた。
趙雲が打たれ強いことは、播天流はよく知っている。
自身が引き裂かれるよりも、他者が引き裂かれることに痛みをおぼえる性格だということも。
だから、趙雲の気にかける者を引き裂いてしまえばよいと、そう考えたのだ。
播天流は、樊城においても、同じことをしようとした。
すなわち、孔明を捕らえ、そして劉表に差し出そうとしたではないか。だが、ほかならぬ子飼いの刺客であったはずの花安英に裏切られ、果たせなかった。
だから、孔明に代わるものを、わざと作り上げる状況を作ったのだ。
ひたすら、苦しめるために。
無力さを思い知らせるために。最悪の後悔を味あわせるために。

「やめろ! その娘に手を出すな!」
肩を使って、自力でなんとか起き上がりつつ、趙雲は叫んだ。
召春は、幼すぎるがゆえに、青年たちのことばの意味がつかめないでいる。しかし、自分に恐ろしい出来事が迫っていることは、場のただならぬ空気で察したようだ。
徐々に後退するのであるが、狭い馬車のなか、すぐに追いつめられてしまう。
「その娘が、いくつだと思っているのだ! まだ九つであるぞ! そのようないとけない娘を、おまえたちは毒牙にさらすというのか!」
「九つ? へえ?」
さしたる関心もない、というふうに、丸い鼻のほうが、みずからの顎をさすりながら言った。
「それじゃあ、病気は持っていないな。いい役目だね」
「貴様!」
「うるさいよ!」
ふたたび、殴られた。
しかし趙雲は叫ぶのをやめず、安沈が懸命に削ってくれた手枷を、なんとか自力で外そうともがく。少年たちはというと、二人の青年の姿に、すっかり怯えてすくんでしまっているのだ。
丸い鼻は、背の高いほうに、それこそ道端の花をいかに手折るかの相談をしているかのように、言うのであった。
「あまり乱暴にするなよ。まえに襲った村に、これくらいの女の子がいてさ、押し倒してやったはいいんだが、無理があったみたいで、途中で血がたくさん出て死んじゃったんだ。あのときは気持ちが悪かったな」
「色をつければ高く売れるって。こいつ、刺客になるほど体力ないから、早いところ、色をつけて売ってしまったほうがいいんだ、って播天流さまが言っていたよ。役立たずなんだから、仕方がないよね。さあ、さっさとやっちまおうか」

青年たちは、怯えて声も出せないでいる召春に手を伸ばす。
そして、その手が体に触れた途端、召春は、火がついたように泣き叫びはじめた。
「いや、いやだ、いやだ、いやだ! 助けて、父さん、いやだっ、怖いよう! 父さん、父さん、助けて!」
悲痛な声を糧に、いまや怒り心頭の趙雲は、なんとしても手枷を外そうとするのであるが、とりあえず手ぬぐいは取れたものの、手枷はなかなか外れようとしない。
そうこうしている間にも、青年たちは、召春を引き倒して、のしかかろうと、その着物に手をかけていくのであった。

もしも、この手枷が外れるのであれば、冥府の鬼卒に生きながら食われてしまってもかまわない。
召春の、必死に暴れ、父の名を呼び続ける声を聞きながら、趙雲は四肢ももがれよといわんばかりに、手に力を籠めつづけた。






不測の事態であった。
「不測の事態だな」
ことばにしても変わらない。
やはり不測の事態である。

陳到は、嫦娥の案内で、胡家から奪った輜重を運ぶ兵卒になりすまし、まんまと義陽の隠し村に入り込んだ。
そこまではいいが、まさか集った豪族たちの有り様が、ほとんど難民と呼んでもいいほど無残なものだとは、予想していなかった。
これで戦えるか、と問われれば、かつて細作の長であった陳到ですら、否、と答えたであろう。
非戦闘員が多すぎる。
ここで壷中とぶつかって、戦って勝利したにしろ、巻き込まれて死ぬ民間人はどれだけいるだろう。
しかも、みな、ただ者ではない。荊州の名だたる豪族ばかりなのだ。
あとあと面倒になる可能性が高い。
自分たちはいい。
武将として、職務をまっとうしたのだと胸を張ればよいのだから。
ところが、問題はあとである。
ややこしいいきさつがあるとはいえ、豪族たちが、『劉備』によって殺された、という事実は動かせなくなる。
恐らく、結果がすべてと割り切れれば、さっさと狼煙をあげて、村の制圧にかかったであろうが、陳到と関羽には、それができなかった。
やはり、民を殺したくないのである。
ぎりぎりまで、最悪の状態になるのは避けたいと考えていた。

関羽はというと、目立ちすぎる外貌をしているため、まったく風采が上がらない陳到とは対称的に、輜重の荷物のなかに埋もれるようにして、じっと隠れている。
窒息していなければよいのだが。
しかも、それまで忠実な案内役であった嫦娥も、知らないあいだにどこかへ消えてしまった。
あの女、どうもまだ我らにすべてを語っておらず、胸に秘めたるところがあるような。
勝手な真似をしなければよいが。

それにしても、なにより不測の事態を招いている原因は、この輜重に群がる、人にある。
いったい何百、いや、何千人がいるのだろう。
それが口々に、やれ、服をよこせ、食べ物をよこせ、水をよこせ、里からの便りをよこせと、よこせよこせと要求ばかりしてくる。
輜重隊の持ってきた衣をめぐって、野良犬のようにすさまじい喧嘩をしているのもいるし、食糧の配分をめぐり、殴り合いをはじめたところさえもある。
ああ、こういうとき、張飛どのがいてくれたなら。
『てめぇら、喧嘩をするなら、ぶっ殺す』
のひと言ですべてが治まるだろうに。

その張飛は、劉備と伴に、樊城へと向かっている。
これは壷中の細作を巻くための工作なのであるが。

「服も食糧もたっぷりある! 喧嘩をするな、おなじ荊州の仲間ではないか! 仲良く、仲良く!」
と告げる自分が、ふと、莫迦に思えた。
村は、この多すぎる難民によって、村としての機能をほとんどなくしてしまっていると見てよい。
輜重があらわれるまで、村の見張りをしていた兵卒たちも、難民たちを制するのに手いっぱいである。
もしここを外部から襲われたら、ひとたまりもないだろう…いい機会ではある。

そうして、輜重の荷車の天辺に立ち上がり、彼方をふと見た陳到であるが、その視界に入ってきたものを見て、まさに、肝が跳ねて咽喉から飛び出るかというくらいに驚いた。
山道を、登ってくる馬車と荷車の列がある。
あらたな輜重ではあるまい。
車の周りには、鎧甲冑に身を固めた兵卒たちが、規律正しく配置されていたからだ。
樊城から、播天流が到着したのである。
早すぎる!
陳到は、すばやく荷車から降りると、隠れている大将の関羽に、すばやく事情を説明した。
蒸し風呂の中に閉じ込められている状態となっていた関羽は、だらだらと汗を流しながらも、きつく顔をしかめ、陳到に尋ねる。
「して、播天流の手勢はどれくらいになるか?」
「木々が邪魔をして、全体がよく見えませぬが、おそらく三百はあろうかと」
「三百…こちらの、いますぐに迎撃が可能な人員は?」
「二百もございませぬ。この混乱では、武器を取ることもままなりませぬ」
「叔至、焦ってはならぬ。地の利は我らにある。いそぎ、各武将に伝令。輜重の物品はすべて捨て、武器を取れ。そして、村の中に入る壷中をすべて取り除き、あらわれた播天流を迎え撃て」
「当初の計画どおり、というわけでございますな」
「うむ…汗をかきすぎて、心地よい風がほしかったところぞ。赤兎を引け!」
言いざま、関羽は輜重の山から、勢いよく、物品を払いのけて、ばあっと溶岩のように飛び出した。
それに呼応するように、隊列の奥のほうに、やはりこれも暑いのに布をかけられて、ほかの驢馬や黒馬たちといっしょに、ちんまりしていたい赤兎馬が、主の登場に声援をおくるかのように、おおきくいなないて、飛んでくる。
関羽は、赤兎馬の手綱を取り、大男に見合わぬほど、身軽にひらりとその背に飛び乗ると、あっけにとられる豪族たち、そして壷中の兵卒を睥睨した。
九尺はあろうかという、黒い鎧に身を固めた大男の登場に、だれものが言葉をなくしている。
そうして、周囲の目線が、おのれに集っているのを十分にたしかめてから、関羽は不敵ににやりと笑みを浮かべると、それまで邪魔になろうといって、顎のあたりでまとめていた髯袋を、ぱらりと取り払った。
とたん、流れ落ちるような、見事な長い黒い髯があらわれた。

「か、関羽?」
「関羽だ! 関羽と赤兎馬だ!」

豪族の中に、そして壷中のなかにも、関羽を知る者がいたらしく、恐怖とおののきの声があちこちで聞こえてきた。
姿を現しただけでこの動揺。
ほかの将ではそうはいかない。
もしも自分であったなら、だれだ、おまえは、と誰何されたあげく、答えもいうちから、四方から兵がわあっと寄ってくるにちがいない。
目立つ容姿を持っている者は羨ましいなと思いつつ、陳到も、配下の部将に渡された、得意の得物を、ぶん、と宙で振り回し、関羽の登場に華をそえた。

それが引き金となり、壷中の兵卒たちが、一斉に輜重に化けた関羽と陳到の部隊に襲い掛かってきた。
しかしこうなれば、天下一の荒くれ者集団を自認する劉備の配下である。
まさに水を得た魚。
彼らはそれまで、難民たちへの対応に右往左往していたのがうそのように、めいめいが武器を取り出すと、意気揚々と壷中の兵卒たちに立ち向かっていった。

太陽の章14へつづく
更新履歴へ戻る
本編MAPへ戻る
MAPへ戻る