09年改訂版
孤月的陣
第五章 タイヨウ 太陽
⑪
※
板の隙間から漏れる光の加減から、おおよそ二日は経ったであろうことがしれた。
そろそろ義陽に着く頃合だ。
その間、ずっと身柄を拘束された状態で、趙雲は不自由な体を持て余し、ときに子供達におのれの経験したさまざまなことがらを教えながら、なんとかおのれの正気を保たせていた。
たまに播天流は、気が向いたときにやってきた。趙雲を嘲弄し、それから、理不尽な理由を持ち出して、思うまま殴りつけて、去って行った。
そのあいだ、趙雲の見張りとして付けられていた子供たちは、船倉の隅にみなで固まって、耳をふさぎ、目を閉じて、震えながら、播天流が去っていくのを待っていた。
おのれに対する振る舞いよりも、子供たちに暴虐を見せつけて平然としている播天流に怒りをおぼえた。この男の中には、芯から他者というものがない。どんな者であろうと、播天流には器物と同じくらいの価値しかもたないのだ。
播天流が去っていくと、子供のうち、少女が水にひたした手ぬぐいで、趙雲の血で汚れた顔をぬぐう。
食事を食べさせてくれるのも、この少女であり、用を足すとき、目隠しをして外へ連れ出す係も、この少女であった。
子供たちは、趙雲の話に、真剣に耳を傾けるようになっていた。
当初は、懐疑的で、趙雲の言葉をなかなか信じようとはしなかったけれど、がんじがらめに縛られた趙雲を、なぶるようにして殴り去る播天流の、狂気じみた姿が、何よりも雄弁な証言者となり、子供たちは黙っているだけではなく、趙雲にいろいろと質問をするようになっていた。
村とはなんなのか。自分たちは、どうしてここにいるのか。
この村を出たら、どうなるのか、どうしたらよいのか。
二日は経ったころ、船の揺れが収まった。
外からもれ聞こえる人夫たちの掛け声や、波音から察するに、接岸作業に入っているようだ。これから陸路で義陽に向かうらしい。
ふと、船倉の扉が開き、趙雲の見張りの少女がやってきた。
少女は、こころもち蒼い顔をして、じっと腫れあがり、かつての面差しのわからなくなっているほどの趙雲の顔を見つめていたが、やがて、とことことそばによってきて、趙雲の横にぺたりと座ると、膝をかかえた。
少女は、それまで、問わねば口を開こうとしなかった。それも、信号のように短いことばで、ぽつり、ぽつりとしか答えない。
それが、膝をかかえたまま、ちいさな声で言った。
「わたし、九つになります」
「そうか」
まだそんなに幼かったのか、と趙雲は暗然とした。
「みんなで、貴方のお話を考えました。いっしょうけんめい、考えました」
少女は、膝をかかえ、じっと暗い瞳をして船倉の、どこともしれぬ空間を見つめている。
「わたしは、大きくなったら、娼妓のように、好きでもない男のひとの相手をしなくてはいけない、というのはほんとうでしょうか」
九つの子供の口から出る言葉ではない。腸が煮えくり返る思いを抑えつつ、趙雲は冷徹に答えた。
「そうだ」
「ほかの子たちは、悪い人が得をするために、ほかの人を殺す仕事をするというのも、ほんとうですか」
「そうだ」
「播天流さまのおっしゃっていることが、うそだというのもほんとうですか。わたしたちは、故郷をまもるために戦っているのではないの?」
「ちがう。もはや播天流は荊州を捨てる。その準備をするために、義陽に人をあつめているのだ」
「わたしたちは、もう故郷にかえることはできないのですね」
「播天流についていけば、そうなるであろう」
「船を下りたら、貴方は馬車に乗せられます。そのまままっすぐ義陽の隠し村について、そこで罰を与えるそうです」
罰か、いまさらだな。
趙雲は、播天流の陰湿なやり方に、うんざりしつつ思った。
罰を与えると脅しをかけておき、こちらを悩ませ、苦しめるつもりか…
「わたし、名前を召春といいます。父さんがつけてくれたの」
と、少女は唐突に自分の名前を語った。
「父さんは、母さんが死ぬまでは、司隷で農家をしていたの。けれど、盗賊に村を襲われて、家がめちゃくちゃになってしまった。母さんもそのときに死んで、父さんは土地を捨てて、わたしと一緒に荊州に逃げてきたの。でも土地をすてた農民はドレイになるしかないのでしょう?
そんなとき、荊州には、子供たちばかりをあつめて、学問や礼儀作法を修めさせてくれる学校がある、って教えてもらったの。おとのさまの慈悲で、お金はひつようないのです。父さんは、わたしだけでもいい暮らしをしてほしいといって、学校につれていってくれるおじさんにわたしを預けたの。それが、播天流さまだった」
少女は、膝を抱える指を、ぐっと強く組み合わせた。
「わたしたちが、父さんに会いたいといったら、播天流さまは、家に戻れば、おまえたちはどうせ家畜以下の暮らしをするだけだから、ここにいたほうが、ずっとましなのだといいました」
趙雲は、それには答えられなかった。播天流の言葉は、その点のみは、残酷なほど現実を正気に述べていた。
「でも、わたしは、父さんにもう一度、会いたいのです」
召春は、澄明な眼差しを、じっと趙雲に向けてきた。
「わたしを助けてくださいますか」
「ああ」
かならず、と趙雲は深く肯いた。
決して見捨てはしない。子供たちはいまや、同じ男に苦しめられ、行き場を失っている、弟妹であった。
「これ」
と、召春は、船倉の入り口を気にしながら、趙雲に服の袖に隠したものを見せる。それは、どこから拾ってきたのか、鍛冶屋の使うような、小さな鋸状のものであった。
「みんなで、武器庫から盗んできたの。これで手枷を外せるかもしれません」
「やみくもに切るのは駄目だ。鎖の結び目があるだろう。そこを外してくれ」
召春は、こくりと肯くと、船倉の入り口を注意しながら、がりがりと手枷を削りはじめた。
船倉の入り口の内側では、少年二人が、そして表には、年長の少年が、召春の作業が大人たちにばれないように、見張りをしていたのであった。
手枷が単純に外れることはなかった。
召春がけんめいに手枷に取り組んでいるあいだ、大人たちは、趙雲がおとなしくしているかどうかを確かめにきた。
だが幸いだったことに、彼らは、まず趙雲がいることだけを確かめて去った。子供たちの機転により、切れかけた手枷や、生じるおがくずは、布でとっさに隠されたのもさいわいした。
作業がばれることはなかった。
船から降ろされるさいには目隠しをされたが、移動は召春が手伝ってくれた。
そうして馬車に乗せられ、義陽の隠し村へ向かうのであるが、そのあいだも、子供たちは大人の目を盗み、懸命に趙雲の手枷を外す作業をつづけていた。
※
沈黙の多い行軍であった。陳到と関羽は、互いに交替して、嫦娥の見張りについていた。
これは、嫦娥が逃げ出す恐れがあったからではなく、嫦娥を狙う壷中を警戒してのことだった。
何者かが、ついてきているようだ。それはわかっていたけれども捨て置いた、正体は判っていたからだ。
熟練の兵士でも根をあげるような強行軍であったが、嫦娥は愚痴ひとつ言わなかった。それどころか、馬に揺られ続けて具合の悪くなった兵士たちの様子を、休みの合間に見てやったりしている。
新野城から出て行く際には、新野じゅうの妓女、そして糜竺たちが嫦娥を見送った。嫦娥の人望のたしかさがそこにあらわれているだろう。
陳到の見るところ、嫦娥は休みなく働いていた。すこしでも行軍を早めるべく努力をしているのだ。
焦っているようにさえ見えた。
背が高くさえなければ、かなりの美女と言ってもよい。男装をしているのは、動きやすいというのもあるであろうが、嫦娥の女らしさを隠すための鎧なのかもしれない。
熱中症にかかった兵卒のため、川に水を汲みに行く、というので、陳到は嫦娥についていった。
しばらく沈黙のまま、作業をこなしていたのであるが、ふと興味をおぼえ、嫦娥に尋ねる。
「失礼だが、お身内はどうなされている?」
「父と夫がおりましたが、いまはそれぞれ別に暮らしておりますわ。なぜです」
答えて、嫦娥はまっすぐに陳到の目を見た。
その容赦のない澄明さに、陳到は詮索好きを咎められたような気になり、恥ずかしくなった。そのうろたえぶりに気づいたが、嫦娥はふっ、と唇に笑みをはく。
「申し訳ございません、いつも注意をされるのですが、直すことができなくて」
「注意?」
「ええ、人をじっと見据えるときの眼差しが、強すぎて、まるで心の奥底まで覗き込もうとしているように見える、そなたは貪婪だ、と。だから、たいていの殿方は、わたくしを嫌います」
「いや、わしはいやだとは思わなかったが、たしかに落ち着かないな」
「わたくしと毎日顔をあわせていると、我慢がならなくなるそうです。でも、これは生まれ持ったものなので、どうしようもないものなのですわ。貪婪というのはたしかにそうでしょう。わたしは、天地のすべてのものをこの目で見たいのです。ずっと男に生まれればよかったのにと願っておりました。天は、わたくしの願いを半分だけ聞き届けてくださったようですね。これほど背が高い女はめずらしい。まるで男のようですもの」
たしかに嫦娥は、陳到よりも背が高い。遠目から見ると、嫦娥の姿はまるで衣を纏った鶴のようであった。
「叔至どの、提案がございます」
「ふむ?」
水を休憩所に運びがてら、嫦娥は口を開いた。
両手にぶらさげた水桶に、それぞれ水をたっぷり入れて、細い山道を踏みしだく。陳到がなれぬ道に四苦八苦し、たまに水をこぼしてしまうくらいなのに対し、嫦娥のもつ水桶はめったに揺れない。まるで平坦な道を歩いているかのようである。背ばかりではない。この女、かなりの腕力の持ち主だ。
「義陽の隠し村に着いてからの算段は、すでについてらっしゃるのですか?」
「いいや、そなたには打ち明けるが、なにせ義陽の村の陣容がわからぬ。それに、義陽に豪族たちが集っているのであれば、私兵の数も考慮せねばなるまい」
「私兵に関しては、畏るるに足りませぬ。彼らはおりませぬ」
「なに、いない?」
ええ、とうなずいて、嫦娥は陳到の前方を、てくてくと歩いた。
「荊州の豪族たちは、壷中の実力を信じているのです。奇妙に思われるかもしれませんが、豪族と壷中のあいだには、絶対的な信頼関係があるのです。それに、義陽の村は狭い。私兵を入れる余裕はないでしょう。豪族たちは、裸の状態で村に入るのです」
陳到の脳裏に、新野城にずらりと並べられた、新旧取り混ぜた白骨死体の山が浮かんだ。
壷中は荊州を守る組織であったはず。それが、まさか?
「おそらく、義陽の村に豪族とその家族をあつめているのは、新野に並べられた白骨死体。あれと同じ運命を辿らせるためなのでしょう」
「莫迦な」
仲間ではないのか、という言葉が咽喉まで出掛かったが、裏の世界に生きるひとびとの非情さを思い出し、声にするのはやめた。
かつても陳到は、そうした闇のなかに身をおいていたのだ。
仲間。脆弱な言葉である。
新野の人間が特別なのだ。
「豪族の私財を掠め取り、役立たずの豪族は殺し、自分たちは新天地へ異動する。そのために播天流は使えるものを先に義陽の村へあつめ、いまだ劉州牧に心服している者たちの多くを樊城へ送ったのです」
「まて、豪族たちとて、愚か者ばかりではない。私兵を取り上げられたところで、不信には思わぬのか」
「そこはそれ、十年のあいだの壷中の実績を、なによりも知っているのがかれらですし、それに、村は小さいので、私兵たちまで連れていったら、たちまち兵糧が絶えてしまうことがわかっているからです。
壷中は豪族たちに、麓の砦にて私兵を集めて守らせ、曹操が攻めてきたら、村に籠城するのだと説明をしております。すこし知恵をはたらかせれば、本当に曹操があらわれた場合、あっというまに兵糧攻めをされて干からびてしまうことは想像がつきそうなものですが」
「非常時ゆえ、正常な判断がつかなくなっているのであろう。で、貴女の策というのは、なんだ?」
「もちろん、壷中の攻略でございます」
あっさり嫦娥は言う。
「義陽の村の管理をしているのは、義陽に限っては、壷中では有りません。胡家という、蔡瑁とつながりの深い豪族です」
「うむ…」
陳到の返事に、嫦娥は笑みをこぼした。
「もうすでに、調べをつけてらっしゃるようですね。胡家の主はたいそうな曲者です。なにせ、おのれの家門を守り立てるために、妻を蔡瑁に渡し、子を壷中へ差し出した男なのですから」
「蔡瑁が胡家の主と結託し、胡家の主の妻を、蔡瑁の妹と偽り、劉表へ献上した、という話は調べておる。子供もか。娘?」
「いいえ、息子。まだ字すらつけていなかった少年でございます。哀れなこと」
「子供まで」
許せぬ。陳到は暗い怒りを胸に灯した。
分別のつかない子供を、そうと知りながら修羅へ突き落とした男が理解できない。
もし、たとえ劉備に、天下のために子供を差し出せと言われても、陳到の場合は、そうするくらいならば、劉備を殺して、地の果てまで逃げていただろう。
「胡家は、義陽の村に、三日おきに輜重を派遣しております。これは、横流しのためです。本来ならば劉表に行くはずの収益は、播天流をつうじて胡家に流れています。あまりものが、壷中のための輜重になっているのです」
「その輜重を襲い、兵糧攻めにせよ、と?」
いいえ、と嫦娥は長い睫毛を伏せて、静かに首を振った。
「それでは時間が掛かりすぎます。こちらの兵員は二百あまり。おそらく義陽の隠し村に集められた壷中の人数も、ほぼ同数でございましょう。見たところ、こちらの集めた兵卒たちは、おもに趙将軍の部隊の者とお見受けしましたが」
「そのとおり。趙将軍の部隊が三分の二、のこりが関将軍の精鋭たちだ」
「その精鋭も、相手がおのれと同等の大人なれば、実力も振るうことができましょう。ただ、相手が子供であったなら如何でございますか? 慈悲深き関将軍。その世評が高いがゆえに、関将軍とその部下たちは、子供と戦うことができなくなってしまうのでは?」
「む…」
子供とはいえ、十五も過ぎてしまえば立派な成年とみなされる。
相手にとって不足はないが、しかし相手が十二、三の子供であったらどうであろう。
戦になれば、とことんまで冷徹になれる陳到であったが、指摘されれば、その自信も揺らいだ。
さらに、関羽の気性も、嫦娥の言うとおりである。
相手が子供と知りながら、関羽はその豪腕をいつものとおり揮うことができるであろうか。
おそらく出来ないであろう。
「関将軍は誇り高いお方。このお話をすれば、おそらくかえって頑なになり、わたくしの言に耳を傾けてくださらなくなるでしょう」
「そうであろうな。そなたの慧眼はたいしたものだ」
それは嫌味でもなんでもなく、本心からの言葉であった。医者という職業柄、相手の心を見抜くのに長けているのであろうか。
「おそらく、このまま足を早めれば、じきに義陽の隠し村にある胡家にたどり着くことができます。村につく前に、輜重を奪うのです。そして、輜重の列のフリをして、壷中の村に侵入する。
壷中の村は、外敵にそなえ、四方に哨戒を配した要害の地。ですが、内側に入り込んでしまえば、あとは脆いもの。叔至さまより関将軍へ、この作戦をお伝えいただけませぬか」
「なぜ貴女がいかぬ?」
嫦娥は、諦めきったような、どこか見るものを落ち着かせなくする笑みを浮かべた。
この女は、あまりに聡すぎて、人の三つくらい先を読んでしまう、損な性質らしい。
「女のわたしが口を出せば、関将軍は喜ばれますまい。いいえ、たとえ関将軍がよしとおっしゃっても、ほかの部将方が納得してくださらなければ、作戦は破綻します。いまはひとりひとりを説得している時間がない」
「わかった。貴女の言うとおりに進言してみよう。輜重の規模や、胡家の様子はわかるか」
「何度か往診に足を運んだことがございます」
陳到は、さっそく嫦娥の言葉に従い、関羽のもとへと行くべく足を向けたが、途中、嫦娥に声をかけられた。
「わたくしたちの記憶違いでなければ、叔至さまは、かつては袁紹のもとにおられたとか」
「うむ。糜子仲どのから聞いたか」
「はい。なれば、伝国の玉璽について、なにかご存知ではありませぬか」
唐突な問いに、陳到は戸惑った。
伝国の玉璽。秦の始皇帝が最初に見出し、ついで漢の高祖から、えんえんと皇室に、御世の繁栄の証しとして伝えられてきたものである。
「袁術が横死した時点で、行方が知れなくなったと聞いている」
陳到が答えると、嫦娥は、じっと黙ったまま、その鋭くも済んだ眼差しを、陳到に据えた。
いかん、この女にはとことんごまかしが利かぬ。
「わかった、答えよう。実を言えば、この玉璽を捜すため、われらも袁紹より命をうけ、方々探し回ったのだ。ある官女がそれを持って逃げたことだけはつかめたが、その後の行方がとんとわからぬ。
そのうち、わたしは袁紹のもとを離れ、劉予州の配下となったため、それから先は知らぬのだ。玉璽は曹操も捜していたそうだな」
「それだけでございますか」
「それだけだ。そんなものが、どうしたという」
いいえ、と短く答え、嫦娥はそれ以上答えなかった。
気にはなったものの、日が落ちるまえに胡家に向かわねばならぬということもあり、陳到は関羽のもとへ行き、策を説明した。
子供が犠牲になっているという話に怒りをおぼえていた陳到の熱心な説得もあり、嫦娥の言うとおりの作戦が決行される段となった。
※
兵卒たちの様子をひととおり見回ってから、嫦娥は、山道に湧け入ると、だれも付いてきていないことを確かめた。
そして、青葉しげれる森の中の精霊に呼びかけるようにして声をあげた。
「ついて来ているのだろう。突き出したりはせぬ、出て来い」
嫦娥の凛とした声に応じて、ほどなく、がさがさと茂みのなかから、禿頭の男がひょっこりと顔をあらわした。朱季南である。
「気づいていたか」
「あたりまえだ。陳叔至も気づいていたようであるが、あれはなかなか懐が広い。おまえを見逃していたのだぞ」
ばれていた、と知って、朱季南は自信があったらしく、不機嫌そうな顔になったが、嫦娥は頓着せずに言った。
「これから、わたしたちは義陽の胡家を襲い、輜重のフリをして村に潜入する。おまえは大人しくあとからついてこい」
「しかし」
朱季南がことばを継ごうとするのを、嫦娥はゆるさなかった。
「武人の誇りが云々などと、くだらぬ話はよせ。よいか、おまえは我らが輜重に成りすますさいに、まぎれて村に入れ」
「よいのか」
「風狗を討ちたいのであろう」
「そうだ。しかし、なぜ知る」
「今後の教訓のひとつにするのだな。妓女に秘密は漏らすな。特に新野の妓女たちは、ただ単に男を楽しませるための女たちではない」
朱季南の脳裏には、阿片を抜く薬の後遺症に苦しむ女の、気だるそうな、どこか寂しげな面貌が過った。
名前が欲しいと言っていた女だ。
あの女が、朱季南が寝言でつぶやいたことを、嫦娥にすべてしゃべってしまったのか。
「壷中か?」
「そうではない。単に気がいいだけだ。あいにくと、おまえよりもわたしのほうがずっと信頼されている。朱季南、播天流が樊城を捨て、あっさり義陽にいったことは、わたしにとっては驚きなのだよ」
「どういうことだ?」
「よいか、壷中は細作集団。それに反し、風狗というのは、闇に潜み、無辜の娼妓を殺しまわる殺人鬼。両者は似て非なる存在だ」
「たしかに。俺の妻は、細作や、裏の人間とは、まるで関わりがなかった」
痛ましい表情を見せる朱季南に、嫦娥は、ふと顔をそらせた。
朱季南は、この賢しすぎる女が嫌いではない。
言葉は辛辣極まりないが、心根が優しいからである。
「おまえの妻は、闇に身は落としていたけれど、けして心は穢れていなかった。かつては、貴門の娘であったということだったな?」
「そうだ。だからなんだ。董卓が洛陽を焼き払ったおり、盗賊まがいの兵卒たちによって、貴門の娘たちが多数さらわれたという話は知っているだろう。わが妻もその一人であったのだ」
「それは本当だったのかな?」
「なんだと?」
「おまえの妻は、ひとつだけ沈黙を守っていたことがある。それは、自分が貴門の娘で、董卓にさらわれた娘であったのではなく、袁術に仕える女であった、ということだ。朱季南、おまえはおまえの妻だけではなく、ほかの殺された娼妓たちも調べるべきであったな。さすれば、娼妓たちはみな、おまえの妻と同じ前身を持っていたことが知れたであろうに」
「なんだと?」
「こんな噂は聞いたことはないかね。消失後の洛陽に入った江東の虎・孫堅は、たまたま通りがかった井戸より、伝国の玉璽をもつ官女の死体を見つけた。その後、玉璽は息子の小覇王の手に渡る。
しかし孫堅はほどなく死去。まだ少年であった長子の孫策は、やがて頃合を見て、袁術に、玉璽を担保に兵を借りた。玉璽を得た袁術は新帝を名乗り、ここでまた天下の乱れを増長する。まったく呪われた品物だ」
「その話ならば、赤子とて知っている。なにがいいたい」
と、朱季南は、さわさわと風の流れる木立の向こうで、兵卒たちに見つからないかと気を配りながら嫦娥の話をうながした。
「やがて袁術は呂布や曹操に追われる途中で、野垂れ死にした。そのさい、玉璽を砕いた」
「砕いた? 勿体無い!」
「そう。そして信頼できる官女たちに、それぞれの破片を渡して逃がしたのだ。欠片だけでは用が為さぬ。しかし、その欠片が集い、一つになれば、ふたたび玉璽は機能を取り戻す。
さて、逃がされた官女は、玉璽を手に、方々へ散ったが、中には、捕らえられ、悲惨な目に遭う物もすくなくなかった。袁家が曹操によって滅ぼされてしまったがゆえに、頼れるものもなく、ながれながれて、いつしか娼妓にまで身を落としていた者がいたとしても、おかしくはなかろう」
「まさか?」
「そう。風狗が狙ったのは、まさにその娼妓となった、かつての官女たちであったのだ。いいや、目的は二つあった。曹操の治下にある都の治安を揺るがすことと、方々に散った玉璽をあつめること。播天流は、『ある人物』の命令を受け、それを実行した。
都を不安に陥れるため、女たちはとくに残酷に殺される必要があった。そこで、なかば狂いはじめていた『風狗』という刺客をつかって、実行をした。それが真相だ」
朱季南は、しばらくことばを口にすることができなかった。
山のあちこちから聞こえてくる蝉の声が、耳障りに脳髄を冒していく。
「だが、俺の妻は、なにも持っていなかった」
「変わった耳飾りをしているな、季南」
その言葉に、朱季南は、はっとして手を片耳にあてた。これの対になるべきものは、都に眠る妻が見につけている。だが…
「おそらく、風狗どもはとっくの昔に墓を暴き、その片割れを奪ったであろう。よいか、阿片に潰れたおまえを風狗が襲ったのは、単に気まぐれでも、趙子龍を罠にかけるためだけでもなかった。おまえのその耳にある、玉璽の欠片を奪うためであったのさ」
「ば、莫迦な! こんな石の欠片ごときで、我妻は、紅彩は、あのように二目と見られぬ、無残な姿になりはてて殺されたというのか! このようなものならば、くれてやろう、いますぐだ!」
耳輪を引きちぎるようにしてもぎ取り、地面に叩きつけようとする朱季南を、嫦娥は叱った。
「たわけ!」
嫦娥は、するどく朱季南を見据えた。
「おまえにとっては、ささやかな幸福を奪った石かもしれぬ。しかし、おまえの妻にとっては、その石は、命にかえても守らねばならぬ大切なものであった。すくなくとも、そう信じていたのだ。だからこそ守り抜いた。
闇夜であったし、『風狗』もなかば狂気にとらわれていたから、耳輪に加工されていた石を見落とした。このことは、まだおそらく、風狗と、風狗を操った播天流、そしてわたししか気づいておらぬ事実ぞ」
汗が流れ落ちたのは、けして暑いからではあるまい。
体の表面は熱を帯びているというのに、内側は凍りに包まれたようにつめたい。
亡き妻の、これから新しい生活がはじまるのだと告げたときの、嬉しそうな笑顔を思い出し、朱季南は涙をこぼした。
石ではないか。
ただの、ちょっと綺麗な石。
なんの力も秘めていない、ただの壊れた石の欠片。
こんなもののために、どうして自分たちは理不尽に引き離されなければならなかったのだ?
「『風狗』は、村にいるのか」
乾いた声はまるで自分のものとも思えぬほど凄惨な色を帯びていた。
「ああ。『風狗』の存在は、播天流にとって、新天地での活動になくてはならぬ存在であるからな。樊城をあっさり捨てたことから、ともに村に向かっているのではないかと思うが」
「樊城の、子龍か、あるいはほかの者にすでに討たれた可能性は?」
「わからぬよ。わたしは千里眼の持ち主ではない。だが、忘れるな、風狗がたとえ死んでいたとしても、あの怪物を動かしたのは播天流だ。おまえがもし、これから先も、わたしたちに付いてくるというのであれば、もはや曹操も劉備も関係ない。ただ、播天流を狙え。それが約束できるか」
蝉の音が他人事のように天空に響き渡っている。
地面に落ちる葉陰の鮮やかな形だけが、ふしぎと朱季南の目に映った。
「わかった。俺の仇は播天流だ」
「よろしい。では、ついて参れ」
「すまぬ」
朱季南は、はじめて、この嫦娥が、自分を助けてくれた理由がわかった。
壷中と戦う女。
壷中の思惑によって、ささやかな幸福を目前に踏み潰された男として、朱季南に同情し、手を差し伸べてくれたのであった。
あらたな決意を胸に、朱季南は、義陽への道を進み始めた。
※
胡家の主は、名を叔世といい、ごく平凡な男であったが、なぜか面貌の真ん中に、立派な鼻を持っていた。
この相を見た観相家に、将来は、思いもかけぬところから財産を得るであろうと予言されたことがある。
そのときは半信半疑であったけれど、没落寸前の貴族の家より若く美しい娘を妻にもらってから、彼の運命は大きくかわった。
その娘とは、まったく気性が合わず、夫婦生活はまったくもって退屈なものであった。
ほどなく子が生まれた。
これは父ゆずりの立派な鼻を持っていたが、そのほかは、似通ったところがなかった。
気品ある鼻梁に、整った愛らしい顔立ちをしていたので、『済』と名づけた。
これは美しく立派、という意味をこめてある。
妻とともに家にやってきた老女は、この済は、母方の、やはり美貌で知られた祖母に瓜二つだといった。
賢い子であったから、きっとお父様の助けになりましょうと。
老女はそれなりに心を砕いたものであるが、この妻も、生まれた子も、まるで叔世に心を開こうとしなかった。
叔世はどこにでもいる男、俗物であった。
心の通わぬ妻子とはほどなく心が離れ、やがて叔世は、あらたに迎えた二番目の妻、そして子供達に愛情を注ぐことになる。
だが家門はそのころから傾き、妻を二人も抱えて、やりくりをしていく当てがなくなってきた。
そこへ、幸運が降ってわいた。
蔡瑁が叔世の留守に、狩りの途中に立ち寄った胡家にやってきた。
そして、対応にあらわれた妻に目をつけたのだ。
まるで押し込みの盗人のように奥方を奪われたと、誇りを踏みにじられた家人たちは訴えてきたが、叔世は、かえってこれがわが家の窮状を救うのではないかと考えた。
妻の様子があきらかにおかしいことに、叔世はすぐに気づいた。
叔世は蔡瑁に面会し、それとなく自分の留守にあったことをにおわせ、妻を引き取るように要請した。
当時の叔世としては、妻とは名ばかりになっている女を、財産家であり権勢家である蔡瑁が、引き取ってくれれば、というそれくらいの算段であった。
傍から見れば異常なことであるが、それほどに、叔世の心から妻は離れてしまっていたのである。
妻という名の、同じ屋根の下に住む女、それだけであった。
ほどなく、蔡瑁より、大金を提示され、妻を所望したいといわれたとき、叔世はためらわなかった。
むしろ蔡瑁に感謝し、これでいまの妻子を守れる、この女も、役に立つではないか、とさえ思った。
そうしてしばらくは平穏であった。
樊城では、蔡瑁の『妹』なる女が劉表の第二夫人に納まった、という話が聞こえてきた。
叔世は沈黙した。
領内のものには、妻は盗賊に襲われ、そこで命を落としたと説明した。
蔡家からは、毎年のように多額の金品が届けられた。
沈黙の代償というわけだ。
徐々に胡家はかつての繁栄を取り戻した。
胡叔世に才覚があったのではない。運がよかっただけなのだ。
そのことを自覚していた。
自覚していたがために、大望を抱かなかった。
それが、後ろ暗い大きな秘密をかかえてもなお、長生きができた理由である。
しかし、やがて問題が生じた。蔡瑁に攫われた妻の子、済が長じて、母親の失踪に関し、当然のことながら関心を抱くようになってしまったのである。
最初は誤魔化していたが、この息子は、父親よりもずっと聡明であった。
父の語る嘘の矛盾点をつき、家人たちをひとりひとり締め上げて、やがて母が生きており、蔡瑁に連れ去られたことを知った。
息子は、是非に母を助けたいと言い張った。
叔世は、息子をなにより疎ましく思うようになった。
このままでは、蔡瑁と胡家の関係がばれる。
それどころか、樊城で劉表の夫人におさまっている元の妻の正体がばれてしまう。
胡叔世に、長子に対する愛情がなかったのか、と問えたなら、かれは、しばしのためらいののち、刃向かわなければよかった、という答えを返してきたことだろう。
胡叔世は蔡瑁に事態を説明した。
そうして、母を恋しがる息子に、母親に会えるかもしれぬ、という甘言で釣って、壷中に向かわせたのである。
もちろん、それは、蔡瑁からすれば、いつ裏切るかもしれない胡家に対する、人質の意味もあったのであるが、叔世には、それがわからなかった。
その後、息子と会う機会はあったが、もはや別人のようであった。
胡家では用意できないような立派な衣服を身にまとい、男とも女ともしれない…去勢されてしまったのではと叔世は恐れたが、さすがにそれはまぬがれたようである…妙に世慣れた少年がそこにいた。
目が合うと、不気味なつめたい笑みを向けてくる。
すべてを知ったうえでの、蔑みの笑みであった。
睨まれたり、泣かれたりしたほうがよほどいい。
あれは幽鬼だ。
心の底から、叔世はそう思った。
わが家の長子は死んだのである。
無理にでもそう思うことにして、叔世はそれ以上、妻のことも子のことも、考えるのをやめた。