09年改訂版

孤月的陣
第五章 タイヨウ  太陽

策を練り、ことを具体的に詰めていく崔州平の前に、訪問者があらわれた。
それは、思いもかけない相手であった。村で一緒だった女だったのである。
女は一人ではなく、品のよい、初老の男を伴っていた。とはいえ、親子というふうでもない。
初老の男のほうは、崔州平は見たことがなかった。崔州平が知っているのは、村に出入りしていた大人たちだけで、村の外で動いている壷中は、名前は把握していたけれど、顔と一致していなかった。
女のほうは、よく知っていた。
女の姿を見たときに、崔州平は、壷中におのれの動きが知れたのかと怖じたほどである。

その女は、かつては壷中の村におり、崔州平と同様に、ある名家から差し出された少女であった。
面差しに生まれ持った品があり、双眸が群を抜いて美しいというので、あえて色をつけず、年頃になったなら、とくべつな仕事につかせようというので、例外的に清い身のまま、十五まで、さしたる訓練をうけることなく過ごしていた少女であった。
ところが、老師たちの思惑がはずれたことには、その少女は十二を越えたあたりから、ぐんぐんと杉の木のように背が高くなり、並みの男たちは普通に見下ろすまでになってしまった。
これは使えないということで、ふつうならば、ほかの子供たちの訓練に戻されるところなのであるが、少女はちがった。
彼女は、他の子供たちが血を吐くような訓練をつづけている傍ら、書院にこもって、難解な書物を何冊も読破し、知識を身につけていた。
その主な知識は医学に関するもので、実際、少女は、舞や筝の稽古が終わると、壷中の医術をこころえる老師の手伝いをしていた。少女の聡明さや、度胸のよさは、医者に向いている、というので、少女はそのまま、医術を専門にまなび、敵方に盛る毒を調合したり、あるいは、女たちの堕胎の手伝いをしたりすることになった。
村での自由な色事は一切禁じられている。
だが、その裏で、過酷な労働のはけ口を求めるかのように、長じて、大人たちの監視がゆるくなった壷中の青年たちは、かつての復讐をするかのように、子供たちを毒牙にかける。そのため、少女たちは特に受難を蒙る。また、外での任務に連れ出されたさいに、意に添わぬ形で男を相手にしなければならない少女も多かった。
腕のよい堕胎医は重宝された。少女が仲間の少女たちから、特別に尊敬のまなざしを受けるようになるまでに、時間はそうかからなかった。
運がよいと、崔州平は、わずかに妬ましく思ったが、仲間の少女の堕胎を手伝う彼女は、いつもつらそうであったし、体を治癒するということで、ほかの仲間たちよりも、ずっとみなに深入りする形となって、その分、重荷を背負っていることに気づくと、やがて少女に同情するようになっていった。
とはいえ、壷中では、男女は別々の宿舎で眠り、訓練時以外では口をきくことも禁じられていたから、村で言葉をかわしたことはない。
少女は、崔州平とほぼ同時期に、実家の跡取りの弟が病死したので、村から出ることになった。
それからしばらく会ったことがなかったが、意外なところでその姿を見ることとなった。
少女はすっかり女になっていた。
女をそこで見たときに、崔州平は、壷中がどれほどに諸葛玄のことを過剰に恐れていたかを知ったのであるが、それはさておき…

崔州平は、屋敷にやってきた女に、かつての名で呼んだ。すると、女は首を振り、どこか悲しそうな目をして言った。
「もはやその名は捨てました。わたしの名は嫦娥。夜の闇を照らす、月の女神からあやかって頂戴したものです」
かたわらの初老の男も名乗り、それが、新野にいる劉備の股肱の臣、糜竺だと知って、崔州平は、さらに驚いた。
この二人の共通の知り合いといえば、そして自分にも繋がる者といえば、孔明しかいない。
いや、もうひとつ、繋がりがある。
壷中だ。
さては、この二人は、劉備側から壷中の動きを封じるために送られてきたものか? いや、あるいは劉表に指示された劉備が、この二人を俺のところによこしたのかもしれぬ。
構える崔州平に、嫦娥は言った。
ひとつひとつの言葉が、選ばれぬいた言葉に聞こえた。
「壷中を潰したいのです。たとえあなたが、曹操の幕下の者でもかまわない。わたしは、壷中の命令に従って、多くのちいさな命を殺しつづけてきた。そうしなければ生き残れなかったとはいえ、わたしは自分を呪います。その償いをしないかぎり、死んでも死にきれない。壷中を潰せるものならば、ともに戦います」
それがはじまりとなり、崔州平は嫦娥や糜竺らと連動して動くことになったのだ。

もしも、播天流の暴走がなかったなら、ことはもっと容易にいくはずだった。
糜竺は嫦娥の毒を劉表に盛り、まず壷中の頭をつぶしたあと、つづいて壷中の村のひとつひとつを解放していく。それが計画であった。
播天流が、かつての部下であった趙子龍を、異常なほどに憎んでおり、その存在を社会から抹殺するために、奇妙な行動に走るということがなければ、ことはもうすでに終わっていたかもしれない。
嫦娥と糜竺の案により、もし自分たちがうまくいかなかった場合、孔明に後事を託そうと、わざと意味ありげに『壷中』の名を告げ、印象を刻ませた。徐庶の手紙のニセモノをつくって、わざと孔明を怒らせもした。
だが、糜竺が樊城より、手ぶらで戻ってきたあとに、立て続けに起こった出来事に、崔州平は身動きがとれなくなった。
とりあえず、糜竺を新野に返し、情勢が落ち着くまで隠れさせたあと、樊城の様子を伺いつづけた。
劉琦の学友が趙子龍の部下によって暗殺され、どうやら家督争いに一石を投じるために、諸葛孔明が裏で糸を引いているらしいと、樊城の文官たちが噂していると知り、ますます混乱した。
孔明は、別の意図で糜竺が告げた『壷中』のことばを鍵にして、思わぬ早さで樊城に巣食う闇の存在に気づいていった。
だが、同時に崔州平も、すべての行動の練り直しを余儀なくされたわけである。






ぱちぱちと音をたてて闇に浮かび上がる赤い炎の、その神秘的な動きと揺らぎを、眺めるともなしに眺めて、崔州平は今後のことについて頭をめぐらせていた。
荊州の各地にあった村々に放った部下たちは、それぞれ、村がすでにも抜けの空になり、どうやら義陽に集りつつあるという報告をしてきていた。
崔州平たちは、播天流が劉表を裏切っていることなど夢にも知らなかったので、かれらの動きを察知できなかったことを悔しく思った。と、同時に、安堵もしていた。
もし、播天流という男の狂気が、諸葛孔明と趙子龍という存在によってあらわれていなければ、壷中が分裂していることもわからず、とかげの尾だけを捕まえて満足している状態になったかもしれない。

もうすこしだ。もうすこし。
長年味わった苦痛を、悲しみを、屈辱を晴らすときが近づいている。
これが終わったなら、妻と子供たちを追いかけて都へ向かおう。高位はいらぬ。家族で平凡に暮らしていければそれでよい。
自分は、あまりに早く老いすぎた。そしてあまりに醜いものを見つめすぎた。平凡であることが、いちばんの望みだ。単調でもいいから、平和で穏やかな生活をしてみたかった。
ふと、妻の杏の顔を思い出し、そして子供たちの顔を思い出して、崔州平は、思いもかけずこみ上げてきた不安と恐怖に動揺した。
壷中の実力は、自分がよく知っている。義陽に総員が集っているというのならば、これだけの手勢で、立ち向かえるものなのか。妻子とは、二度と遭えなくなるかも知れぬ。
いやだ、死にたくはない。

「州平、眠れぬのか」
この青年の声は、なぜだか人を安心させる。
まぶしいまでの美貌と、周囲に守られた幸福な生活。崔州平の嫉妬をかきたてる姿そのままなのに、一度も本気で憎めたことがない。
あてがった馬車の幌から身を出して、孔明は、火の番をする崔州平のそばにやってくる。
両腕には、しっかりと、徐庶の剣が抱えられている。
まるでかの人が剣に宿っていると思っているかのように、義陽への道のりで、孔明は片時たりとも剣を手放そうとしなかった。
生暖かい幌の中と、山中の空気はちがうのだろう。初夏でありながら、孔明はぶるりと身を震わせると、足早に炎の前にやってきた。
火にあらたに小枝をのべながら、崔州平はたずねる。
「あの少年は落ち着いているのかね」
「花安英かい。ああ、熱も引いてきた。おどろいた体力だ。よほど鍛えていたのだな。体をゆったりめの衣で隠していたので、とてもそうは見えなかった。華奢な子供に見えていたのだが」
と、ここで不意に孔明は、なにかを思い出したらしく、その唇に笑みをはいた。
「だが、わたしの主騎は、なにかがおかしいと気づいていたというのだよ。たいしたものではないかね。わたしは武人というものは、みな愚鈍で残酷で、情緒などさっぱり解さぬ獣のように思っていたフシがあるが、あの男に会ってから、自分の思い込みや小ささを思い知った。人とは奥深いものだな。わたしなんぞ、まだまだ世間知らずだよ」
孔明がおのれをそんなふうに卑下して、他者を褒め上げるとは。
興味をそそられた崔州平は、斜め向かいに座った孔明の顔を見る。
さらに驚いたことには、孔明は、口元にうっすらと笑みをはきつつも、これまで見たこともないほど思いつめた眼差して、炎を見つめていた。
「州平、播天流という男は、君から見て、どんな男だろう」
親友の親友たる所以で、崔州平はすぐさま、孔明がなにをほんとうに聞きたいのか、気がついた。
「あれは狂人だ」
一瞬、孔明の表情に翳が差した。
「虜を平気で拷問にかける男か」
「覚悟はしておけ。無事ではあるまい。生きていれば、それだけで幸運だ」
赤い炎に照らされる孔明の表情から、血の気が失せた。仮面のように見える。
もともと体が丈夫ではない。貧血を起こしているのではないか。配給した食べ物はきちんと食べたのだろうか。
崔州平は、孔明が、なにかひとつの気にかかることがあると、食欲がまったくなくなってしまう性質であることを知っていた。
孔明は、抱えている剣をさらにぎゅっと抱きしめるようにして、尋ねてくる。
「嫌なことを質問させてもらう。君は、わたしを憎いと思ったことはないか」
「ない」
即答した。これは自信をもって答えられる事柄であったからだ。
「わたしは、君らを苦境に追い込んだ組織の礎を作った男の甥だ。それなのにわたしだけは、ずっと安全なところにいて、みなに守られてこの年まで生きてきた。わたしが本来味あわなければならなかった痛みのすべてを、まるで君たちが代わりに受けてくれたようにも思う。
崔州平、道中ずっと考えていたのだが、わたしはこのまま、おのれの道を進んでよいものだろうか。償いはなんでもする。言ってくれ」
「なんでも?」
「ああ。なんでもだ」
剣を掴む手が白い。
この莫迦、みょうに見当違いの思いつめ方をするのだ。
自分ではおのれを複雑な人間だと思っているらしいが、傍から見れば単純極まりない。
その単純さゆえに、新野の人間と気が合うのだろう。
すこしばかり意地悪な気持ちになり、崔州平は言った。
「では、俺と共に曹公の前に膝を折るか」
「それが君の望みなのか」
孔明は暗い瞳をして言い、それから、目線を落として、言った。
「そういえば、いつであったか、君は天子を輔佐する宰相になりたいと言っていたね。それが君の望みであるなら、わたしはその手伝いをするよ」
「宰相? そんなこと、言ったかな」
記憶にない。言ったとしても、ずいぶん遠い過去のことだろう。

声を立てて笑う崔州平に、孔明は目をぱちくりとさせる。
その表情が、出会ったときの紅顔の美少年そのままであったので、懐かしさをおぼえ、また笑いが出てくる。しかし二度目の笑いは、どこか憂いの含まれたものだった。
「なあ、孔明、俺は、とっくの昔にそんな夢を見ることをやめてしまっているのさ。水鏡先生は、門下生に大望を抱かせるのがお上手であった。俺も、一時は、そんな途方もない夢をみたことがあったが」
「君ならば、果たせるだろう」
「おい、よせ。おまえが言うのは嫌味だぞ」
戸惑う表情を見せる孔明に、崔州平は妙にほがらかな気持ちになって、つづけた。
「なあ、なぜ俺が、身の丈に合わぬ夢を見ることをやめたのだと思う?」
「曹操に会ったからか?」
「ちがう。たしかに曹公も怪物じみたお方だが、その前に、俺は夢をあきらめていた。あきらめていたからこそ、曹公の配下になることに、迷いがなかったのだ」
「では、なぜ?」
神妙な面持ちの孔明をからかいたくなり、崔州平は、ふふん、と鼻を鳴らしながら、つづけた。
「すこし遠回りになるが説明させてくれ。俺は壷中にいたころ、細作として、各地を放浪していた。袁紹を打ち破った曹公の実力がどれほどのものなのかを知りたかったし、西涼の羌族をたばねる馬氏の動向、公孫氏が南下するかどうか、小覇者亡きあとの江東の動き、蜀に閉じこもる劉璋の今後の対策、すべてを知りたかった。知った上で、俺の力を存分に生かせる君主を求めていたのだ。
ほんとうに、ありとあらゆるものを見たぞ。ただの書生であれば、見ることもかなわなかったような世の中の裏側を見ることもできた。壷中もまんざら捨てたものではない。そんな顔をするな。冗談だ」
『そんな顔』の孔明は、まるで負ったばかりの火傷にうっかり触れられた人のように、痛ましい表情をしていた。それが嫌味にならないところが、この青年の得なところである。
「東西南北どこへも足を向けた。貴賎を問わず、さまざまな者と出会った。ところでね、おまえは人を量るときに、なにを基準にして量る? やはり、だれか見知った者、あるいは書物やこれまで得た知識で作り上げた、もうひとつのおのれ、あるいは、理想と仰ぐ古の英雄と比較するものだろう。俺も、最初はそうしていたのだよ。
ところがだ、ある時期から、自分が奇妙なことをしていることに気づいた。俺は、いつも知ったやつと、よその人間を比較している。そして、困ったことに、どんな人間と比べても、俺の知っているそいつは、格段に優れているのだ。そして俺は、襄陽で毎日のように顔をあわせていた親友が、じつはとんでもないやつだ、ということに気がついた。
間抜けな話だよ。何年も行動を供にして、離れてようやくその事実に気づく。俺はその程度の眼力しか備えていない、凡人なのだ。おまえのことを、理解するのが遅かった」
「わたし?」
「そうさ」
とたん、孔明の白い顔に、朱が差した。素直な反応が楽しい。こいつは人がまっすぐ出来ているのだ。真面目で、ことばでもなんでも、そのまま受け取る。
「だから、曹操の元へ?」
「俺は、あくせくと組織の天辺にのぼるより、安穏と人の指図を受けて暮らしたほうが似合っていると気づいたのさ。お前のように、理想のために重荷を背負って、仲間たちと苦労をしながら前に突き進むような生き方はできない。
俺は子供の時分に、私というものを一切ゆるされなかった。だから、いま与えられた私…家族を守りぬきたいのだ。
おまえは、俺とはまったくちがう生き方をしていくだろう。孔明。おまえはその名のとおり、明るく輝くもの。唯一無二の太陽なのだ。太陽に裏側があってはならない。おまえは与えられた運命を行け。俺は別の道を行く」

孔明は沈黙した。
打てば響く、といった性質の、この友からすれば、めずらしい反応であった。冷徹そうな顔をして、実際には、情に脆い親友が、君も一緒に同じ道を行こうと赤子のように泣き出さないうちに、話題を変えてしまうのがいいだろう。
こちらとて、このまま言葉をつむいでいたら、自分のことばに押し流されて、泣きそうになってしまう。
できることならば、襄陽で過ごしていたときのように、気心の知れた親友と連れ立って、道を歩いていきたいと思っていた。
だが、もう遅い。道は別たれた。
いつか見た草原の轍のように、もはや道は交わることはない。
ただ目の前にある道を、ひたすら前に進むしかほかにないのだ。
出来ることといえば、たまに横を向いて、お互いの行路が安全かどうかをを確かめること。
そうして別の道を行きながら、たがいに励ましあうことが、三人の選んだ道の歩き方であった。

「さて、湿っぽい話はこれで打ち切りにして、重要な話をしよう。義陽の隠し村であるが、どんな容をしているのか、大方の予想はつく」
と、崔州平は、枝をひろって、火のそばの地面に大きな円を描いて見せた。
「これが、播天流が好む村の陣容だ。荊州の方々にあった壷中の隠れ村は、みんなこの容(かたち)をしている。あいつは、かつて袁紹に攻められたときのことを覚えていて、いつ攻め手がやってきてもすぐわかるように、四方八方に見張りを置いている」
「周囲をぐるりと取り囲めたら、容易いな」
地面をじっと睨んで言う孔明の声は、わずかに震えている。やれやれ。
「ところが、あいつも莫迦ではない。村の位置はいつも険阻な山間か、あるいは崖っぷちなのだ。つまり、村自体は円を描いているが、攻める側としては、側面しか攻めることしか出来ないようになっている。しかも村の中には、縦横に地下の抜け穴があって、万が一の時には、間道に脱け出して、逃げられるようになっているのだ」
「その間道を、いまわれわれが逆に伝っている、というわけか」
「だが、村の規模はそれほど大きくはない。村を作るに当たっては、劉表は惜しみなく人夫を播天流に与えた。たいがいが、あとで始末してもあとくされのない囚人ばかりだった。だが、あの花安英の話からすれば、今回は、播天流は、義陽の村を作るに当たり、劉表には内密で作業をしたらしい。
だから、人夫もさほど動員することができず、村は小さい。それなのに、壷中の全員を集めているどころか、壷中に関わりのある豪族たちをも村に集めている。あきらかに、村は人口過密だ」
「山間に村を築いているとなると、水や食糧はどうしているのだろう」
「そこだ。井戸を掘ってはいるだろうが、たかが知れている。そも、播天流は、なんのために豪族の家族たちまで村に集めていると思う?」

孔明は、しばし考え、それからさあっと顔から血の気を引かせた。
「まさか、豪族たちを抹殺し、その金品を奪うためか?」
「おそらくな。そも、壷中はそういった蛮行を繰り返して続いてきた組織だ。いまさら豪族たちと宥和して、曹操と対抗しましょう、などと言い出すとは思えない。とはいえ、集ってきた連中は、みな後ろ暗いところがあるやつばっかりだ。いまさら、そいつらを助けてやることもないとは思うが」
ぱちぱちと小さな音をたてて燃え続ける炎越しに、孔明の責めるような視線が刺さってくる。
「いままでは、君の皮肉な物言いは、君の性格から来ているものだとばかり思っていた。だが、そうではない。君も花安英も、同じように他者をあっさり突き放す。そうやって、人との距離をとらなければ、君たちは生きてはこられなかったのだな。でも、そうした態度を続けるかぎり、君たちはずっと、壷中に捕らわれているのだ。ちがうか」
「かもしれぬ」
「州平、繰り返しになるが、わたしに出来ることがあるならば言って欲しい。叔父の償いは、わたしがする。それとも、わたしでは力不足だろうか」
崔州平は、ふうっと大きなため息をつき、それから気を紛らせるべく、頭を掻いた。
「ならば言う。俺は、正直、壷中の村に集った連中は、すべて見殺しにしてもいいと思っている。俺の作戦はこうだ。村に着いたなら、夜になるのを待ち、村を取り囲んで、火矢を射掛ける。あらかじめ、退路に兵卒たちを配置しておき、逃げてきた者たちをすべて抹殺する。降伏すればよし、降伏しなければ容赦はせぬ。まあ、壷中のことであるから、降伏なんぞしないであろう」
「莫迦な。そのような策をとれば」
「そうだな、おまえの捕らわれの趙子龍も、火に巻かれて死ぬ。運が良ければ助かるかもしれぬが、もともと趙子龍は劉備の家臣。曹公の敵ぞ。そしておまえもだ」
「州平、本気か?」
「本気だ。俺の願いを言う。俺のやることに手を出すな。もし、気に食わぬというのであれば、俺の策を上回る手段をなにか立てるといい。止めてみろ」

孔明の顔に、さきほどまでなかった怒気があらわれた。
崔州平の感覚からすれば、主騎という者は、主を守ってこその盾。使い捨ての人材である。
だが、孔明はそうは思っていないらしい。
趙子龍の話題になると、孔明は、らしくもなく、感情的になる。
どうやら新野で、孔明は、真の友を見つけたらしい。
ちがう道を、確実に歩いて行っている。
一人、置いてきぼりにされたような、さびしい気持ちになったものの、それは言葉にせず、炎のそばに孔明を残し、崔州平は仮眠をとるために立ち去った。





崔州平と交替の火兵がやってきたため、孔明はおのれにあてがわれた馬車の中へと戻っていった。
幌を掻き分けると同時に、中で横になっていた花安英が声をかけてくる。
「なにかございましたか」
なぜわかる、という愚問はしないでおいた。
花安英は、他者のありとあらゆる挙搓に敏感だ。おそろしく記憶力に長けており、他者の声の調子、足音、ちょっとした動作のちがいで、本心をするどく見抜く。
「薬が切れたか。痛みはあるか」
「熱も下がりましたし、たいして痛みもございませぬ。それよりも、わたしの質問にお応え下さい」
やれやれ、と孔明は一息つき、花安英の隣に座った。
初対面から、この煌びやかな少年が苦手であったが、いまは弟に対する感情のようなもの…いや、これまでの日々のなかで、知らずに切り離されていたおのれと再会したような、不思議な親近感を抱いている。
「花安英、そなたは義陽の村に行ったことはあるのか」
「ございます」
ない、という答を想定していた。なぜなら、花安英の実家に近すぎるからだ。
家門を守るために、妻と子を修羅に突き落とした、いまいましい男の守る家。
どんな男だかは知らないが、確実にろくなものではない。
父と顔をあわせていたのだろうか。
その質問をするのは酷だろう。

孔明が次の言葉をためらっていると、花安英は、ちいさく声をたてて笑った。
血色はだいぶよくなり、頬に赤みがもどってきている。
若いというのもあるだろうが、この少年が、思いもかけず、勤勉に体を鍛えていた証左であった。
「義陽の村は、播天流が谷の間に無理につくった円形の村。向こうは四方を常に見張り、外敵の侵入をいち早く気づくことが出来る。しかし、近づくほうは、真正面から切り込むしかない」
「この間道は、どこへつづいているのだ?」
「村の地下に走る道に続いております。道、とはいってもただの穴です。人夫の手が足りなかったので、構造が脆い。播天流は自分たちが脱出することばかりを優先して、村の地下のあちこちに道を走らせた。そして、谷間には、村と並行するように小川がございます。これを堰き止め、流れを変えて、村の地下を走る穴に流してやれば、おそらく村の地面は陥没し」
「みな死ぬ。おまえもか、安英。みな死んでしまえばよいと? おまえの弟たちもそこにいるのだぞ」
「崔州平は、なんと作戦を立てたのです。わたしが水なら、向こうは火でしょう」
「そのとおりだ」
「どちらにしろ、みなを助けようなどという甘い考えは捨てることです。樊城の弟たちを救っただけで及第点ですよ」
「莫迦な。数ではないぞ」
「数ではないというのなら、なんです」
花安英の突っかかる物言いはさておき、孔明はしばし沈黙し、考えをめぐらせた。
「安英、おおよそでかまわぬ。村に集っている者の数は、どれほどになるであろう」
「村はそれぞれ八十八人をひと括りにして構成されておりました。ですから、老師たちも含めて、壷中の者だけで四百人。うち、樊城に配置されていたのが半数近くございましたから、二百人ほどでございましょうか」
「となると、それだけの数の食糧を、どうしているかという話だな」
「用意しているのは、胡家でございましょう」
そうか、と孔明は答えて、それからまた沈黙した。
花安英にとって、残酷な考えが浮かんだのであるが、とてもではないが口にできない。
甘いとはわかっているが、さて、どうしたものか。さらに考えていると、花安英が孔明に言った。
「義陽の胡家から、村へ運ばれる輜重(しちょう)を襲いなさい。兵糧を絶ち、飢えて弱った壷中を攻撃すれば、あるいは降伏させることも可能かもしれない」
「下策だな。時間がかかりすぎる」
「しかし、いっぺんに炎だの水だので崩壊するよりは、あなたの求めるように、多くの子供たちを救うことができる。子供と戦いたくないのでしょう。ならば、この策がいちばんです。崔州平が納得するかどうかは別ですが」

納得はむずかしかろう、と孔明は思った。
二百の子供たちのうち、どれだけが戦力として数えてよいものなのか、敵のことが把握できていないうえに、こちらの兵力は五十あまり。輜重をうまく襲ったとして、村の中にどれだけの備蓄があるかどうかでも変わってくる。だめだ。
樊城の子供たちは、ほんの一部しか救えなかった。
ほかにも、助けを求めている子供たちはたくさんいるはずなのだ。
なにより、趙雲が捕らわれている状態で、敵の殲滅を前提とした策に乗るわけにはいかない。

「軍師、あとひとつ、わたくしの策がございますが」
そういって、安英はにっ、と不敵な笑みを孔明に向けた。
「なんだ」
「間道をこのまま抜けて、村に入り込むのです。村は狭い。しかし人ばかり多い。壷中の精鋭中の精鋭は、樊城であらかた死んでしまったか、播天流と行動を共にしているかのどちらか。人は多くても、兵力的には手薄、ということです。
そして、食糧に薬を盛る。動きを封じたところで、村を占拠する。わたしたちは陸路を抜けておりますので、水路の播天流は迂回する道をとっているはず。わたしたちの方が、一日は早く義陽に着きます。そして、なにも知らぬ播天流たちがやってきたところを、攻撃するのです」
「なるほど、それならば時間も食わぬし、確実だ。しかし、薬の類いはどこで手に入れる」
「ほかならぬ、壷中から手に入れるのですよ。壷中の得意とするところは、潜入と毒による暗殺。毒ならば、必ず専用の倉においてございます。それを盗み出し、壷中に盛るのです。よいしびれ薬がたくさんございますよ。拷問用のも」
「薬ならば、教えてもらったので、わたしにも知識がある。倉の位置を教えてくれ」
「いやです」
「安英、連れてくことはできぬ。足手まといだ。それとも、死にたいか」
「でも、あなたはわたしを連れて行かなくちゃならない。でなければ、倉の位置はわからないのだから」
孔明は、闇になれた目に見える、強情な少年の眼差しをじっと見据えた。
この少年もまた、孔明と同様に、決着をつけに義陽に向かっているのだ。ほかならぬ、おのれの故郷である土地へ。
「わたしが連れて行く。だが、期待するなよ。見ての通り、力の弱いわたしは文官ゆえ。そなたを担ぐのにも限度がある」
「ほかの者に頼めばよろしいでしょう。なぜ自分というところにこだわりなさる」
「ほかの者では手に余るからだ」
答えつつ、趙雲の自分に対する気持ちが、なんとなくわかった孔明であった。

太陽の章11へつづく
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