09年改訂版

孤月的陣
第五章 タイヨウ  太陽


起き抜けに、身なりもととのえず馬を駆って飛び出していったかと思えば、出奔したはずの糜竺をともなって戻ってきた劉備に、新野城のものたちは、唖然とした。
しかも城門には、新野中の娼妓たちがあつまって、じっと息を殺して、なにかを待っている様子である。
劉備が従えているのも、いつもの関羽をはじめ、趙雲の副将・陳到、糜竺、そして男装の背の高い女という奇妙なとりあわせ。しかも、その面差しは、みなどれもひどく緊張したものなのである。
それでも怯えているのでも、不安を隠して虚勢を張っているのでもなく、どの顔も、いまにも噴出しそうな怒りを抑えているような、それを互いに牽制しあっているような顔であった。
何事かあったらしいと、たいして知恵をめぐらす必要もなく、だれもがそう感づいた。

東の蔵へと足を向けようとする陳到に、糜竺が声をかけてくる。その後ろには、例の養子兄弟がぴったりくっついている。
だれも押し黙っているなか、糜竺がちょうど沈黙を破ったかたちになる。
「そちらではない」
陳到は、どこか納得できない思いで、向かおうとしていた東の蔵を見た。あれだけさんざん暗い噂が流れ続けた蔵だ。かならずなにかあるにちがいない、それを見つけられなかっただけだ、と思っていたのだ。
陳到の顔に浮かんだ表情で、察しの良い糜竺はそうとわかったのか、東の蔵に痛ましい目を向けていう。
「むかしは、そこがそうだった」
まるで、そこに誰かが立っていて、じっとこちらを見ているような気配をおぼえ、陳到は思わず振り向くが、糜竺の視線の先には、やはり無人の東の蔵が、事態の雰囲気にまるでそぐわぬ晴天の下、いつものように不気味な存在感を見せ付けているだけであった。
いや。

やれやれ、と陳到は、向こう側より、元気よく飛んでくる武将の姿を見て、うんざりした。
糜芳である。
陳到と関羽の横槍に腹をたて、劉備に注進すべく、さきに城にやってきた糜芳であるが、このところ、身を守れといわんばかりに、逐電した(と思われていた)糜竺の悪口を四方に叩き、俺は無関係なのだと騒ぎすぎたがため、逆に劉備に避けられていた。
糜竺と糜芳は、年が離れている、というのもあるが、顔立ちは似ているのに、そこに浮かぶ表情が、まるで逆、という兄弟であった。糜芳は、糜竺が母親の腹のなかに忘れていったものを全部持って生まれたために、あんなふうなのだ、と陰口をたたかれることすらある。
「兄上! いままで、いったい、どこに隠れておったのだ!」
糜竺が、めずらしくあからさまに、不機嫌そうに、つい、と目をそらす。
「あとで話す。そなたは黙っているがいい」
「なぜだ! 理由を言ってくれ。兄上のいないあいだ、俺がどれだけの迷惑を蒙ったと思う?」
むしろ迷惑を蒙ったのは、そっくりそのまま新野に残されていた、糜竺の家族のほうなのだが。
「俺には兄上の話をいちばん先に聞く権利があるぞ! いったい、この騒ぎはなんだ? 主公まで引っ張り出して、なにがはじまる、というのだ?」
泡を飛ばしてまくしたてる糜芳であるが、その、事情もなにもわからず混乱する気持ちはわかるものの、まるで雰囲気を察していない。
斐仁のこともあり、ぐっと拳をにぎりしめ、一歩、足をすすめて口を開こうとする関羽を、手でやんわりと押し留め、劉備が言った。
「すまねぇが、おまえは、ちょいと引っ込んでいてくれ」
「しかし、主公」
食い下がろうとする糜芳に、劉備はきびしく叱るように言った。
「頼むから、引っ込んでいてくれ。いまは、おまえの愚痴に耳を傾けていられる余裕のあるやつぁ、このなかには誰もいないのだ」
糜芳はまだなにか言おうとしたが、劉備は機制を先して、くるりと背を向けると、糜竺にたずねた。
「で、儂たちはどこへ行けばよい?」

こちらへ、と糜竺が指し示す先は、調練場のもうひとつの邪魔者、中央にどんと鎮座する楠木であった。
早朝の調練がおわり、木陰で休んでいただろう兵士の忘れ物の手ぬぐいが、木の枝に下げられたままになっていて、それがひらひらと風に舞い、まるでおいでおいでをされているような錯覚をおぼえる。
陳到は、糜竺が、自分の養子たちに、東の蔵と同様に、この木にも近づくな、と申し付けていたことを思い出した。
「この樹は、わたくしを笑っていることでしょう」
糜竺は見事な枝振りを見せる楠木を見上げ、嘆息する。
「おぼえてらっしゃるか、みなさま方。この樹は、かつてはほんの小さな若木に過ぎなかった。わたくしが、この蛮行を忘れぬよう、そして眠れる者たちのせめてもの慰めになるようにと、植えたものでございました」
「この下に、わたくしの同胞(はらから)の、ほんとうの親兄弟が眠っているのです」
深い悲しみを湛えた目を、嫦娥は楠木の根元に向ける。
皮肉なことに、楠木は春から夏にかけて、太陽の光をさんさんと浴びてさらに成長し、根元には、新芽がみずみずしい姿をみせていた。
劉備は、じっとそれを見つめていたが、あつめられた人夫たちに言った。
「やってくれ」

合図とともに、人夫たちはいっせいに楠木の根元を掘り返した。
調練が中止となり、兵舎にあつまっていた兵卒たちが、なにごとがあったのかと集ってくるのを、陳到と関羽で押し留め、それぞれの士卒長に命じて、兵舎で下知があるまで大人しくしているよう告げた。
「主公、おぼえておられるか」
ざっ、ざっ、と土の掘り返される活気のある音をよそに、糜竺は遠い目をして、つぶやくように言った。
「わたくしがあなたさまに付いていく決意をしたのは、陶謙のやりように、どうしても我慢がならなかったのがきっかけでした。あの男は臆病で、保身のことばかりを考えていた。そうして、時局をわきまえず、あろうことか、曹操の父親を誤って死なせてしまい、多くの無辜な領民を虐殺させる事態を招いた」
「覚えているとも。あんときのことは、忘れたくっても、忘れられるものじゃねぇ。陶謙の悲鳴に行ってみりゃあ、徐州は、ひでぇ光景だったな。そこいらじゅう、見回すかぎり死体だらけ、食べ物はぜんぶ腐っちまって、水も汚臭がして飲めたものじゃない。死体に群がる蠅の羽音だけが、ぶんぶんと耳にまとわりついていやがるのだ」
「わたくしは、徐州の民に責任のある身でありながら、彼らを守ってやることができませんでした。そのことを悔いるばかりで、気持ちが晴れたことがございませぬ」

ああ、と劉備は沈痛な面持ちでうなずいた。劉備にも、徐州に関連して、なにかつらい思い出があるのだろう。
「ですが、勝手なものでございますな、軍師が、徐州の琅邪のご出自で、あの惨禍にみまわれた一人と知り、それでもあのように立派に成人されているのを目にしましたとき、それこそまるで生き別れた親族が、ひょっこり元気に顔をだし、なにも大事はなかったのだと言ってくれたような気がしたのでございます」
「それはわかるなあ、儂だって、もしあれが徐州の出じゃあなかったら、これほどまで入れ込んだか、わからねぇもの」
「あの方を見ていると、まるでわたくしの罪は許されたような気がいたしました。しかしそれは、やはり錯覚であったのです。あの方は、わたくしの罪を、二重にも代わりに背負っていた」

土を掘る音がぴたりと止まり、人夫のひとりが、悲鳴にも似た声をあげた。
穴から逃げようとする人夫と入れ替わりに、陳到が掘りたての穴を覗くと、そこには、はっきりとそれとわかる、白い骨の一部があった。
陳到は、人夫が置いていった工具を取って、骨の周囲の土を除いていく。
そうして、徐々に骨の全体が明らかになるにつれ、それが一体やニ体ではないことがわかってきた。
真上にあるものは、まだ頭髪に毛のはっきりと残る新しいものであった。
だが、どんどん下に向かうにつれ、積み重ね方も雑多になり、古いものと新しいものが交互にあらわれてくる。

陳到を中心に、あまりの光景に、かえって気力をふるいたたせた人夫や、関羽までもが参加して、楠木のしたのうずもれた人骨を掘り返しつづけた。
当初は、おそろしい光景に肝をつぶし、生娘のように騒いでいた兵卒や人夫も、調練場に掘り出された骨が並べられ、その列がどんどん増えてくるにつれ、やがてぴたりとなにもいわなくなり、晴れ上がった空の下、大勢の人があつまりうごめているというのに、だれもひと言も言わない、という奇妙な状況がつづいた。

初夏の風が、汗の流れ落ちる体をいたわるように駆けていく。
寒気を催したのは、意外につめたい風のせいだけではあるまい。
戦場で、多くの屍を見た。なかには、おのれの殺めたものの屍もあった。
陳到は、それでも、これほどに恐ろしい、おぞましいとは思わなかった。
この屍を産んだ者たちは、人を人として扱っていない。
ずらりと並べられた骸骨を前にして、糜竺は顔を両手で覆うようにして、うつむいている。
糜竺を人格者だと思い、尊敬する仲間のひとりと思っていた陳到でさえ、その場では、糜竺をはっきりと軽蔑した。糜竺が殺し、埋めさせたというわけではないことは、本人や嫦娥の話からわかっている。
だが、新野に眠るこの屍の存在を、七年も沈黙し、隠してきたことは理解ができない。糜竺は孔明とちがって、関羽すら驚嘆するほどの見事な弓名人であり、財力も家名もある、いわば、戦える立場にいる人間だった。

「仕方なかったのだ」
だれに責められたわけでもない。だが、重くつづく沈黙に耐えかねたのか、糜竺が弱弱しく口を開いた。
「劉表が、主公に新野をまかす条件がこれであった。わたしを壷中に入れ、子供たちを人質に差し出さなくてよい代わりに、荊州からあつめられてくる子供たちの親兄弟の屍を始末すること。
樊城にあつめられた難民をいっせいに虐殺し、その屍を焼いて、東の蔵の真下に埋めた。屍を埋めた位置に、斐仁が見張るのがたやすいよう、ムリに蔵を建てたので、あんな奇妙な配置になっている」
「東の蔵からこの楠木に屍を移動させたのか」
「そうだ。わたしも斐仁も沈黙を守り続けた。それなのに、幽鬼が懸命に無念を訴えているとでもいうのか、東の蔵を中心に、怪談話があとを絶たなかった。兵卒のなかには、肝試しをするのだといって、夜中に蔵に入り込もうとする者もいた。
このままでは、屍のことが公になってしまう。そこで、斐仁と相談をし、壷中のものを呼んで、主公が城外に出られており、城内が手薄な夜のうちに、何日もかけて移動させたのだ」
「七年前のものとは思えぬほど、新しいものもあるようだが」
「壷中の人狩りは、七年の間、ずっと絶えることはなかった」
と、糜竺と同じく、物言わぬ骸骨の列をじっと眺めていた嫦娥が、ぽっかり開いた眼窩をまっすぐ見据えたまま、言った。
「最初は、難民対策のために、子供だけを残して、あとは殺していた。だが、次第に子供を狩るために流民を襲うようになった。黄巾賊の残党だといいがかりをつけて、まともな武器すらもたない難民たちを襲うのだ。
だが、世情が落ち着いてくると、流民の数も減る。それに比して、壷中での厳しい暮らしに耐え切れなくなった子供たちは、どんどん数が減っていった」
「なぜだ。子供を刺客に育てるということに、なぜそこまで劉表は力を入れたのだ?」
子供好きの関羽は、話を聞いているだけで、怒りで震えてくるようである。顔を赤くしつつ、嫦娥に、怒りを押し殺した声で尋ねる。
「村の子どものうち、刺客になれる才能のある者は、ごくわずか。才能のない者は、村では死んだことにされているけれど、そうではない。売っていたのです」
「売った? どこへ?」
「どこへでも。それなりに芸もでき、閨房術も仕込まれている子供です。子供というところに価値があった。腐った世の中にふさわしく腐った連中に、彼らは品物のように高値で買われていきました。それが劉表の懐に入り」
嫦娥はそこで言葉を切り、怒りをこめた視線を向ける関羽を、まっすぐに見た。
「あなたがた食客を養うための費用になっていたのだ。荊州を守るために!」
「莫迦な! そのようなこと、天は許さぬ!」
関羽のことばに、嫦娥は、屯所で劉備にみせたような、皮肉げな笑みをうかべた。
「天? 天ですって? 壷中という組織が生まれ、たった一人の防波堤であった諸葛玄が殺されてから、いったい何年経っていると思うのです? そのあいだ、だれもわたしたちを助けてはくれなかった。
そして卑怯にも、劉表は、貴方がたに北方の最前線を防衛させておきながら、居候をさせてやっているのだと言って、子仲さまに、攫ってきた子供の親兄弟の屍の始末を強要していた。嫌がれば、新野へ軍を動かすと、ずっと脅し続けてね。
劉表が、この城の秘密をどうしても守りたかったのは、自分の非道な所業があきらかになれば、諸侯は、格好の理由を得て、荊州に侵攻してくる懸念があったからです。いや、それもちがうか」
嫦娥は、一人合点して、陰惨な笑みを浮かべた。その横顔には、この女の抱える、めまいがするほどの深い孤独が垣間見え、傍で見ていた陳到はぞっとした。
「劉表は、表向きの『清流派』の顔を、崩したくなかった。ほんとうは、ただそれだけなのだ。
諸葛玄という、諸葛孔明の叔父は、あまりに聡明で、遠慮がなさすぎた。あれは劉表に鏡を突きつけた。突きつけられた鏡に映る、おのれの醜い姿を真正面から見ることに我慢がならなかったので、劉表は諸葛玄を殺した。
甥の孔明に目をつけていたから、どうしても欲しかったけれど、諸葛玄は、孔明を守るための策を残していた。それを利用して、諸葛家の人間は、なんとか劉表の手から孔明は守った。
だが、諸葛玄の印象というのは、壷中にとっては強烈だった。いつか、成長した孔明が、叔父の死の真実を知って、自分たちに刃向かってくるかもしれない。根拠もなく、それを恐れたのだ。かれらは、ずっと孔明を見張ることにした」


「見張りをつけたことで、壷中は安心したのです」
と、嫦娥のことばを、糜竺が継いだ。
「まさか、諸葛孔明が、劉予州の軍師になるとは思っていなかった。劉予州は荊州を最前線で守る将。壷中も、なりたちはゆがみきっているが、荊州を守っているという共通の目的を持っている。いわば、軍師が主公の軍師になった時点で、壷中は軍師を敵対視する理由がなくなった。
軍師に何事かがあれば、主公、貴方様が動かれる。それは壷中にとっては好ましくない事柄だった。主公と壷中、つまり劉表が争えば、得をするのは曹操なのですから。荊州は危機に見舞われる」

糜竺のことばに、劉備は腕を組み、首をひねった。
「儂を怒らせたくないというのなら、なぜ子龍の部下の斐仁は、劉公子の学友を殺したのだ。壷中ってのは、播天流が組織しているのじゃねぇのかい」
劉備の問いに、こんどは嫦娥が答える。
「播天流は、劉表の意を受けて、ちょうど七年前から壷中を取り仕切るようになった男です。この男は、ひそかに劉表を裏切り、自分たちの部下を組織して、叛逆を企てたのでしょう。だから、荊州中にある壷中の村から、仲間たちを義陽に呼び寄せているのです。
播天流が趙将軍を狙うのは、おそらく私怨を晴らすためでしょう。曹操南下の気配が濃厚となり、このままでは復讐の機会を失してしまう。そう焦ったのかもしれません」
劉備はぼりぼりと頭を掻いて、うなる。
「ややこしい話だな。つまり壷中ってのは、最初劉表だけのものだったが、播天流がよこからひっさらって、二つに分かれている。乱暴に分けると、孔明の仇は劉表で、子龍の敵は播天流。コレでいいかい、嫦娥さん」
嫦娥はうなずくと、不意に劉備の前にぱっと跪き、拱手した。
「わたくしは壷中に身をおく立場なれど、子仲さまと同じく、ずっと壷中をつぶす機会を狙っておりました。まさにいまがこの時。義陽に至る間道を知っております。劉予州、諸葛孔明と趙将軍を助けるためにも、わたくしに兵をお貸し下さい」
「その言やよし、といいたいところだがな、どうもあんたは引っかかる。いや、あんただけじゃねぇ。子仲さんもだ。劉表の腹の中が、毒虫よりも真っ黒だっていうのはよくわかった。播天流が子龍を狙っているのもわかったよ。
だが、あんたたちの動きがわからねぇ。子仲さん、子仲さんが樊城に行ったのは、劉表の病状を見るためだけかい?」
とたん、糜竺の顔は真っ青になり、倒れんばかりとなった。
「お許しを、主公」
「儂は、なにを許せばよいのだ」
「すべては、わたくしの独断でございます。わたくしが樊城へ参りましたのは、劉表を暗殺するためでございました。ですが、すでに劉表は鴉片に侵されており、もはや昔日の面影もない哀れな有様でございました。
ひと思いに殺すより、行きながら屍をさらす惨めないまのほうが、よほど劉表にとっては恥であろうと判断し、暗殺をやめて新野へ戻ってきたのです」

陳到も関羽も、温和な印象がつよい糜竺の意外なことばに、思わず顔を見合わせる。だが、劉備は、だいたいの予想をつけていたようで、顔にあらわさず、さらに尋ねた。
「それだけじゃねぇな。あんたは、なんだって孔明に意味ありげに壷中の名だけを教えたのだ。もし自分が失敗して、帰らないようなことがあったら、壷中という言葉を手繰って、孔明に壷中を潰してもらおうっていう魂胆があったのじゃないかい」
糜竺は、悲痛な面持ちでうつむき、搾り出すように言った。
「ご慧眼でございます」
さらに劉備が口を開こうとするのを、横からするどく嫦娥が割って入ってきた。
「ご無礼をお許しください、主公。ただ、この計画は、子仲さまだけが練ったものではございませぬ。わたくしと、襄陽の崔州平と、ほかの壷中に恨みのある者たちが集ってはじめたことなのです。
結局は、諸葛亮にすべてを背負わせる形となってしまいましたが、壷中はかの者にとっても仇。これは必然だったのでございます」
「必然、か。好きな言葉じゃねぇな。だが、あんたたちの立てた計画は、播天流が妙な動きをしたせいで、ぜんぜんおかしな方向に行っちまった。で、これで孔明や子龍が帰ってこなかったら、俺にとっての仇は、あんただったり、子仲さんだったりしちまうわけか」
「覚悟はしております。ただ、最後にせめて壷中を潰すお手伝いをさせてくださいませ!」
食い下がる嫦娥と劉備は、しばらく無言で視線を戦わせていたが、やがて、劉備はうなずいた。
「よし。そこまでいうなら、あんたを信じよう」
「兄者! よいのか。この女こそが壷中の罠かも知れぬぞ」
関羽が抗議をあげるが、劉備はいつになく厳しい顔をして、義弟に言った。
「だから、兵を分けるのよ。壷中ってのも二つに分かれているのだろう? まず、俺は張飛をつれて樊城に向かう。劉表の様子をこの目で確かめるためだ。
おまえと陳到は、嫦娥さんと一緒に義陽へ向かえ。ただし、なるべく身軽にして、一日でも早く義陽へ行けるように、人数も最低限に抑えるのだ。人選は任せる。義陽で壷中ってのを見つけたら、それもおまえの判断に任せるぜ。ただ、子供はあんまり殺すなよ」
「わかった。すぐに手はずを整える」
言葉どおり、関羽はくるりとせを向けて、のしのしと兵舎のほうへと向かっていく。
その背中を頼もしそうに見ていた劉備であったが、ふたたび顔を戻して、糜竺を見た。
「子仲さんは、新野で留守番だ」
「蟄居では軽いという者もおりましょう」
「なに言ってやがる。孔明もあんたもいない状況で、新野の文官は全員、青色吐息だ。仕事は山のようにあるぜ。眠れないほどにな。そいつをひとりで片づけてくれって話さ。ある意味、どんな罰より重いと思うが」
「ありがとうございまする」
深々と糜竺が頭を下げると、後ろで養父をささえるように佇んでいた養子兄弟も、同じように深々と劉備に拝跪した。
「まだなにも終わっちゃいねぇよ。全部終わってから、またちゃんと話そうや。そうだな、孔明が樊城からもどってきてからな」
はい、と返事をする糜竺の声は、感激の涙で震えていた。そ
の声を背に、さて、いそがしくなるぜ、とつぶやきつつ、劉備は出立の支度をするため城内へ向かい、陳到は、関羽を追いかけて、自分もまた、出立の準備に入るのであった。





壷中の隠れ村のある義陽への間道はすぐに見つかった。案内人が優秀なのもあり、これまでさしたる混乱もなく、旅路はつづいている。
明日には義陽に到着するであろう。
崔州平の胸に、さまざまな想いが去来する。
見上げると、夜空には、煌々とかがやくほの白い月が、地上の寝静まるありとあらゆるものを監視するかのように、冷たく君臨していた。
月があまりに大きく明るいために、ほかの星たちは闇にかすんでいるようにすら見える。
炎番を自ら買って出て、崔州平は、みなの寝静まった陣のなか、ひとり、空を見上げていた。
明日は、修羅の中に身を置くことになるであろう。だが、いまは嵐の前のように静かで穏やかな時間が流れている。
そして、ふと、かつての村での出来事が頭をよぎる。

こんな夜は、大人たちが眠らないために、子供は息をひそめていたものだ。
だれも自分たちのところに忍んでこないようにと、祈るばかりの夜だった。
早く朝になってほしいと願い、熟睡できたことはまったくない。
どんなに厳しい訓練を積んだあとでも、夜の恐怖のほうが、肉体の疲労にまさっていたのだ。だからまだ幼いというのに、心を狂わせて死んだ子供たちもたくさんいる。
それでも生きていられるのは、子供である、という以外に、とりたてて風采が優れているわけでもない自分が、かれらの好みではなかった、ということだ。
結果的に、おかげで実家へ戻るときも、さほどもめなかった。
親がどれだけの金を劉表や播天流にばらまいて、死んだことにしておいた次男坊を取り戻したかはしらない。
また、興味もなかった。
家を守るために売られた子供を、金で取り戻した。それだけの話だ。

容姿のよい子供の末は悲惨だ。
早くに別の訓練をするために、仲間たちから離される。その訓練の内容は、ほかの子供たちに知らされることはなかったが、彼らの大半が、一度村を出たら、それきり戻ってくることがないために、自分たちより、もっと恐ろしい目に遭っているのは確実だった。
しかし、子供のなかには、かれらが自分たちとはちがって、人殺しのための厳しい訓練を積まされることが少なかったから、きっと贔屓をされているのだといって、うらやましがっていた者もいた。やがて成長すれば、かれらがどんな仕事をするのかわかり、だれもそんなことは言わなくなる。
彼らは潜入先への囮として使われる。その美貌と色を武器に、標的の心を逸らし、その間、ほかの壷中たちが動いて、任務を遂行する。運良く任務が果たされれば、囮ともども引き上げることができたが、たいがいの場合において、囮は見殺しにされる。

昼夜別たず厳しい訓練を積まされているのにもかかわらず、ふしぎと任務に向かった壷中の子供たちが生きて戻ってくる可能性は低かった。
子供たちは村である程度成長するまで、実家のことを口にすることを禁じられる。
そして村での暮らしに慣れてきたころ、ようやく村と、外の社会とのかかわりと仕組みを教えられる。
播天流や、その部下である老師たちは、とにかく劉表が儒の最後の砦であることや、それを守るための壷中の素晴らしさを賛美するのであるが、それを聞く子供たちの内側に芽生えるのは、絶望だけであった。
互いに互いを監視しあって、おのればかりは助かれとあがく村の生活。
かれらはその毎日を、死に向かって生きているようなものだった。

村から出ても、沁み込んだ人間に対する不信感は、消えることがなかった。
やがて、実家に帰された自分の身代わりとなって、庶子であったという理由だけで壷中にやられた弟の身に降りかかった、あまりに悲惨な出来事を知ると、崔州平は、それまで、胸の奥で押し殺していた憎悪が、ふたたび這い上がって表にあらわれたのを感じた。
壷中は倒されなければならぬ。
壷中、つまりはそれを動かす劉表を倒す者。
曹操のほかに、崔州平が思いつく名はなかった。
そして、みずから曹操の前に立ち、自分を、劉表をほろぼすための尖兵に使って欲しいと願い出た。
曹操は崔州平の意気におおいに感じ取るところがあったらしく、協力を約束した。
崔州平は、曹操の細作たちが捕らえてくる壷中の者たちをひとりひとり説得し、仲間に引き入れた。
かつての仲間だった男の言葉は、どんな拷問や脅しにも屈しない壷中の者には、魔法のようによく利いた。
仲間はどんどん増えていき、やがてひとつのまとまった組織にまで成長した。
これならば、壷中と戦える。
そう判断し、崔州平は荊州でことをかまえる準備をはじめた。
荊州の者たちは、この地が十年ちかく、壷中という名の組織に守られてきたことをしらない。
無辜の民を残虐に犠牲にして成り立った平和だ。幾多の子供たちの呪詛を受けて、いまこそ炎に飲まれてしまうがいい。
崔州平のもとにあつめられる情報は、そのまま部下たちによって正確に曹操のもとへ伝えられた。
曹操はいずれ、崔州平がもたらした情報にしたがって、南下してくることだろう。
だが、曹操を迎え入れるだけでは、崔州平の復讐は終わっていない。
壷中を潰すのだ。

太陽の章10へつづく
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