09年改訂版
孤月的陣
第五章 タイヨウ 太陽
⑧
※
「おまえとこうして、二人で対峙するのは何年ぶりであろうかな」
趙雲は答えず、ただ播天流をきびしく睨みつけた。
孔明の言ったとおり、視力は、時間がたてばたつほどに回復した。
しかしその代わり、体を鉄の鎖でぐるぐるに縛られ、まったく身動きのできない状態となっている。
そんななか、見上げる播天流の顔は、薄気味わるいほど、優しい顔をしていた。
この男は、袁紹の軍に最初に入って、古参兵から与える凄惨なしごきに、心身ともに磨耗していた俺のところへ、同じ顔をしてやってきた。
俺だけではない、ほかの子供たちも、みんなみんな、この笑顔に光明を見て、その背後に崇高なあるものがあると信じ、ついていったのだ。その果てに、奈落があると知ったなら、だれも足を前へ進めなかっただろう。
「いくつになった、子龍。おまえと初めて会ったときは、まだ十五か、そこいらであったな」
沈黙をつづけていると、播天流の片腕が伸びてきて、無理に顎を掴み上げられた。
そうして、息もかかるほど間近にある顔を見て、腹の底から怖気がこみあげてきた。
孔明は、これを狂人といったが、まさにそうとしか表現のしようのない、理解を超えた顔をしていた。陽気と陰気、独りよがりな前向きさと、ありとあらゆるものに対する悪意が内側に凝縮されて、爆発するのを待っているかのような顔。
こいつは、以前からこんなに狂った顔をしていただろうか。それに気づかなかったのは、本当に若さゆえだったのか?
「怯えているのか、子龍? まさか、おまえがそんな可愛らしいことを思うはずがない」
と、播天流は、にやりと笑った。
「なぜ沈黙をしている。自分がこれからどうなるのか、不安ではないのか」
「聞いても答えまい」
すると、播天流は顎から手を離し、声をたてて笑った。
船の揺れる振動が、体に思いのほかこたえる。胸はむかつくし、殴られたあとは痛いし、両手は縛られて思うようにならないし、下手に動けば、鉄の鎖に肉がはさまってしまう。
趙雲は最悪な気分のなか、播天流の嘲弄を聞いた。
水の湿った匂いが流れ込んでいる。
船倉にはほかに、さまざまな品物が積まれているようだが、中身まではわからない。自分の見張りをするために、あどけない面差しをした壷中の子供たちが数名、配置されており、さきほどから、播天流と趙雲のやりとりを、表情ひとつ変えずに、じっと見守っている。
「子龍、いま天下は存亡に瀕している。まさに世の終りがきているのだよ。このままでは、不埒な漢賊曹操が、血に穢れた手で天下をその手に治めてしまうであろう。そうなる前に、おのれを犠牲にし、世を救う者が必要なのだ」
「たわ言を。守っているのは、荊州だけであろう」
播天流は、また声をたてて笑った。
「いままでは、そうであった。われらの力はあまりに微弱で、劉表の庇護がなければ存在できないほどであった。だが、いまはちがう。劉表は死に、われらは自由となった。おまえたちがうまく劉表を始末してくれたおかげだ。感謝せねばなるまい」
「俺たちが劉表を殺したわけではないとわかっているくせに、なにゆえそのような決め付けを言う」
「おまえと、諸葛孔明がさんざん樊城を荒らしまわってくれたおかげで、あれの寿命はおおいに縮まったのだ。だからやはり『殺した』のだよ。
ふん、劉備に名誉が傷つくことを恐れているのか。あの鉄面皮なぞ、おまえが劉表を殺したという風聞が世にひろく伝われば、儂は関係ないと言い放ち、おまえとの関係を絶とうとするであろうよ。お前には、もう帰るところがなくなる、ということだ。
残念だったな子龍。せっかく助けてやったというのに、もう、あの軍師とも会うことは叶わぬ。あきらめろ」
得意そうに言い放つ播天流の姿に、趙雲は思わず笑みをこぼす。子供が思いこみを得意そうに語っているのを、憐憫から静かに聞いているのと同じ気持ちであった。
趙雲の笑みを見咎め、播天流は声を荒げた。
「なにを笑う」
「七年も俺を見ていた割には、まわりはなにも見ていなかったようだな。主公も軍師も、俺を見捨てたりはしない。絶対にだ。もし、すぐさま俺を見捨てるような男たちならば、そもそも樊城には、おまえののぞみどおり、縄につながれた状態の俺が届けられていたはずだぞ」
「しかし、此度の相手は劉州牧だ。いかに劉備とて、平然と構えていられるはずがない」
ムキになり、鼻息を荒くする播天流に対し、趙雲は静かに首を横に振った。
「いいや。裏切らない。たとえ、俺が帝を殺したとしてもな」
播天流は、しばらく苛立ちを鎮めるためか、狭い船倉を行ったり来たりしていたが、やがてぽつりとつぶやいた。
「帝か」
神妙な表情をして、目に暗いものを宿らせる播天流に、趙雲は、直感的に、なにか隠し事があることを感じた。
「子龍よ、帝に会ったことはあるか」
唐突な質問に、趙雲は内心はうろたえつつも、播天流から目を逸らさないように気をつけて、首を振った。
「いいや、ない」
「そうか。陛下は、おまえの軍師と同年であらせられる」
だから、なんだ、と思いつつ趙雲は聞いていたが、播天流は、そこで口をぴたりととざしてしまい、それから思いついたように、いきなり拳を振り上げると、縛られた趙雲の横面を、思い切り殴りとばした。
ごき、と鈍い音が、船倉に響く。
「忘れていたぞ、城門で、わしに向けて矢を放ったのはおまえだろう。いまのはその分だ」
口の中に、血の味が広がる。どこかを切ったらしい。
額に床をつけて、起点にして起き上がろうとする趙雲の腹を、播天流は容赦なく蹴りつけた。
「そうして、これは、樊城の我が部下たちを殺めた礼ぞ。裏切り者めが!」
腹の痛みをこらえつつ、うめき声をあげないように注意しながら、趙雲は、裏切り者、のことばに、思わず笑った。
何に対しての裏切りというのだろう。
「あとの分は、義陽についたなら、返してくれよう。楽しみにしているがいい」
冗談ではない、と思いつつ、ふと、体を両脇から押さえられ、起き上がらせる。見ると、壷中の子供たちが、趙雲が起きる手助けをしているのだ。殺すな、とでも命令されているのだろうか。
家庭を持ったことがないし、また興味もなかったので、子供の年齢を言い当てることができない。
さすがに十は越えているだろう。
十五より下か。俺が故郷の村を出たのと、あまり変わらない年頃かな、と趙雲は、ぼんやり思った。
ふと、頬につめたい感触をおぼえ、見ると、壷中の子供のひとりが、趙雲の頬に、濡れた布巾をあてがっていた。
無表情ながらも、あどけない面差しに、澄明な双眸をした、可憐な少女であった。
まだ十歳にもなっていないのではないか。親からはぐれたのか、それとも攫われたのかわからない。
ほっとしたことには、その表情には媚びがない。無垢な純粋さがまだ残っているのがわかる。
少女は、ちいさな手で、無言のまま、血のこびりついた趙雲の顔をぬぐっていく。
「名前は?」
尋ねると、少女はぴくりと手を震わせたが、目線を合わせることもなく、ふたたび顔をぬぐう作業をつづけた。
趙雲は、根気強く、少女にむけて、恐れさせないよう、なるべく優しく聞こえるように気をつけながら、尋ねた。
「壷中にきてから、どれくらいになる」
少女は、今度は趙雲の顔から布を離すと、困ったように、ほかの少年たちのほうを振り向いた。子供たちは四人いて、うち、少女がもっとも年少のようだ。
「答えることは出来ませぬ」
と、少年のひとりが答えるが、それは懸命に、外界からの声を突き放そうとしている者のそれであった。
これほどいとけない子供たちを動員しなければ手が回らないほど、壷中は人が少なくなっているのか。だから、樊城を捨て、義陽に集結しようとしているのだろう。
樊城の壷中の子らは、すでに年も重ねており、壷中という物のおそろしさ、おぞましさを目の当たりにしていたから、壷中を裏切ることに抵抗がなかった。
しかし、かれらはまだなにも知らないがゆえに、周囲の動きにうろたえるばかりで、強い命令を与えてくるものに従うしかないのだろう。
板張りからうっすらと陽光が差し込む船倉のなかに浮かぶ、よっつの子供たちの顔には、どれもはっきりとおびえと不安が宿っていた。
もしかしたら、自分でもそうと気付かなかっただけで、俺もかつては公孫?のもとではこんな顔をしていたのかもしれないな、と趙雲は思った。
「なぜ出来ない。そう言われたからか」
子供たちは、なんと答えたものか、というふうに顔を見合わせる。
かつてのおのれと似ていたかもしれない、と思った時点で、趙雲には、いままで抱いたことのない、優しい甘い気持ちを子供達に持った。
「播天流は、おまえたちには優しいか」
意外な問いに、ますます困惑し、子供たちは、そわそわと、互いの袖を引いて、なんて答えたらよいのだろうと相談をはじめた。
「おまえたちは、壷中で、どんなことをしている?」
これなら答えられる、と判断したのだろう。仲間たちと相談していた一人が、趙雲のほうを向いて、答えた。
「剣術を習っております」
「そうか。楽しいか」
「厳しいので、あまり好きではありません」
「なんのために剣を習う」
「荊州を守るため、天下を安寧に導くためのお手伝いをするためです」
拙いながらも、むずかしい言葉を懸命に述べる姿に、趙雲は笑みをこぼした。
「そうか。だが、おまえは、本当は、なぜ剣を習うのだ?」
それは、と子供は一瞬口ごもる。
質問が難しすぎたかな、と思い、問い直そうとすると、やがて、真剣な面持ちで、子供は答えた。
「故郷のみなを守るためです」
「おい、家族のことは、喋ったらだめなのだぞ。壷中の者だけが、われらの家族なのだ」
子供の返答を、するどく別の少年がたしなめる。
すると子供は、しまった、というふうに顔をしかめるのであるが、どこか理解を求めるような、つい同情したくなるような眼差しで、趙雲を見るのであった。
おそらく、程子聞の手紙にもあったように、壷中の村でうっかり故郷のことに触れると、年長者に折檻をされるのだろう。
不安そうな子供に、安心させるように笑みを見せて、趙雲は、だめだとたしなめた少年のほうを見て、尋ねた。
「なぜ駄目なのだ? 故郷を大切にすることは、よいことだ。おまえたちは、郷里をなつかしく思うことはないのか? なぜ駄目だと言われる」
「故郷を思い出すような者は、臆病者だからでございます」
「なぜ。俺は故郷をたまに思い出すが、やはり懐かしいと思う。だが、自分が臆病者だとは思わない。俺は一人で樊城の、大勢いるおまえたちの仲間と戦ったが、臆病者に、そんな真似が出来ると思うか?」
子供たちは、またまた顔をしかめて、互いに顔を見合わせた。
そうして、最初に問いに答えた少年は、理解を得られたのがうれしいのか、顔を明るくして、すこしだけ趙雲のそばに寄ってきた。
「強くなるのは、自分を守るためでよい。大仰な大義名分などなしに、自分を守り、そして余裕があったら、他者を守れ。俺は新野の兵卒たちにそう教えている。戦って生き残り、そして家族のもとに帰ってくることが出来る者が、いちばん立派な兵士なのだ。
己の強さを誇るために蛮勇をくりかえしたり、何も考えずに言われるがまま、命令のためだといって自ら命を捧げたりするような兵卒になってはならぬし、そのような命令を容易く下す者についていってはならない。俺の言うことはわかるだろうか?」
子供たちは、困惑した顔をくずさないが、それでも懸命に、趙雲の言葉を追っているようである。
「なにより高い志を持ち、理念に違わぬ実行力をもつ者についていくがいい。そう頭を捻らずとも、そういった者は、まるで太陽のようにはっきりと、そこにいるとわかる。その者は、おまえたちを本当に救い出してくれる者だ」
子供たちは、もしかしたら目の前のこのひとが、というふうに、期待をこめて視線を送ってくる。
やんわりとそれを笑みで否定し、趙雲はつづけた。
「その者は諸葛孔明という。おまえたちも、あの播天流から、名前くらいは聞いたことがあるだろう。諸葛孔明は壷中のことをよく知っているし、なにより強運と真の知恵に恵まれている。おまえたちが親を恋しがれば、ちゃんと故郷へ帰してくれるし、ひもじい思いをしたなら、食事を与えてくれるし、やりたくない人の道に外れたようなことをさせることも、決してない」
「どうしてその諸葛孔明という方は、我らを助けて下さるのですか?」
いちばん年長の少年が、まっすぐと趙雲を見て、問いかけてくる。
その眼差しは懐疑的で、真剣に趙雲の言葉に聞き入っている、ほかの三人より大人びた印象がある。
「おまえたちが、壷中に攫われた子供たちだからだ」
「攫われたのではありませぬ。俺は、自分で播天流さまに付いて行きました」
「播天流は、おまえに何と言った。荊州を守る手伝いをしろと? 荊州、つまりおまえたちの故郷を守るためという意味ではないか。それなのに、なぜ故郷を思い出してはならぬと言う?」
「それは、故郷を恋しがって、心が弱くなるからです」
「いいや。故郷を守ろうと懸命になるのが普通だ。壷中、そして播天流は、おまえたちから故郷を奪おうとしているのだ。樊城を守っていたおまえたちの先輩のうち、何名かは諸葛孔明を頼って壷中を裏切った。
それに、荊州は、じきに南下してくる曹操によって制圧されるのはまちがいない。百万ともいわれる曹操の軍を、おまえたちだけで守れるとでも?」
「百万?」
想像すら拒む、大きな数字に、少年は絶句した。
残酷なことをしているのだろうな、と思いつつも、ここで真実を教えてやらなければ、彼らの行く末は暗いものとなると思いなおし、趙雲は言葉をつづけた。
「そうだ。おまえたちが思うより、世は途方もなく大きい。そして激しく動いている。播天流は、それを知り、荊州を捨て、どこか別天地へ移動しようとしているのだ。おまえたちは、故郷から遠く離れたところに連れて行かれてしまうのだぞ」
「そんなことはありません」
「なぜわかる。義陽に集って、そこで曹操軍と対峙するつもりだとでもいうのか。おまえたちは騙されているのだ。あの男は、おのれの狂った理想を果たすためならば、平気で人を殺める男だ。おまえたちも、いままで犠牲になってきた子供と同じ運命を辿るのだぞ」
「貴方様が、嘘をついているのかもしれない」
「たしかに、鎖でつながれた状態の俺の言葉は、なかなか信じがたいものがあるかもしれぬな。だが、俺は、おそらくこの船のだれより、播天流という男を知っている。俺の話をしてやろう。義陽まで、まだ道は遠いのだ」
そうして、趙雲は、四人の子供たちに、なるべく平易な言葉をえらびながら、自分がなぜ義勇軍に入って故郷を離れたか、袁紹軍に参加したあと、どんな目に遭ったか、播天流に会って公孫瓚に仕えるようになったこと、やがて心が離れていき、播天流とどのような形で道が分かれたのかということを、嘘偽りなく、すべてを語った。
それは、心のうちのすべてをほぐして分析し、あきらかにする作業でもあった。
※
劉備は、関羽からの使者によって起こされ、髪を結う暇もなく、そこいらにあった衣をてきとうにひっかけて、みずから馬を引いて、屯所へと走ってやってきた。
「子仲さんが、無事だったって!」
髪もざんばらに、息をきらせて屯所へやってきた劉備に、糜竺は立ち上がると、劉備の手を取り、それから、まるで崩れ落ちるように、その場に拝跪した。
「申し訳ございませぬ」
劉備は、その手を包むようにして、がっしりと掴み、泣きそうなほど嬉しそうな顔をした。これはなにも、大げさな劉備流の感情表現ではなく、糜竺という人物が、劉備にとって、そのものずばり、恩人だからである。
徐州でも著名な財産家であった糜竺が、私財を投じて劉備に仕えることがなければ、その後の劉備の運命は大きく変わっていたはずである。そして劉備は、糜竺への恩義を、片時たりとも忘れないのであった。
「なにを謝るのだ。謝らなくちゃならねぇのは、こっちだぜ。すこしでも、あんたを疑ったおれを許してくれな」
「いいえ、本来ならば、蹴り飛ばされて唾棄されてもおかしくない身でございます。七年も主公や、ほかの方々を騙してまいりました。この咎はかならず受けまする」
「騙すたぁ、穏やかじゃねぇが、それが壷中とかいうのと繋がっているのかい? 孔明はどうして樊城から戻らない。子龍はどうなってしまったのだ」
「子仲さまに咎はございませぬ、劉予州。むしろ、新野にとってのいちばんの功臣は、この方でございます。なにもかもお話いたしますので、どうぞこのお方を罰することはなさらないでください」
と、劉備が来るまで、糜芳のとなりで、じっと沈黙を守っていた嫦娥が、蹲ったままの糜竺をかばうように、そっと隣に座った。
糜竺は、なにもかも明らかにすると関羽と陳到に言ったのだが、それは嫦娥が一緒ではないと駄目だという。
糜竺が嫦娥の身を案じているのはあきらかで、しかし、その嫦娥も、瀕死の怪我人を置いて、屯所から出ることはできないと頑張った。
斐仁の命はあきらかに消えかけていた。
もはやうめくことすらできず、刻一刻と、その顔色が、土気色に変わっていくのがわかる。
糜竺と斐仁という、思いもよらない組み合わせに、陳到も関羽もおどろいたが、しかし、両者に共通するものが、まったくないことに戸惑っていた。
あえていえば、斐仁は軍の官品の管理をしていたから、そのあたりが文官の糜竺と繋がりができる部分だろうか。
陳到としては、糜竺が、養子兄弟に言った、『東の蔵にはなにがあっても足を踏み入れるな』という言葉が気にかかっていた。
とはいえ、東の蔵は、孔明の命令により、それこそ床板をすべてはがし、壁すら壊してすべてくまなく調べたが、なにも出てこなかったのである。
残ったのは、面倒な片づけ作業。そして、不気味な場所であるから、人夫として借り出した兵卒たちの恨みを買っただけ、というお粗末さ。
しかし、そこにいるだけで、百の目にいっせいに睨みつけられているような、居心地の悪い感覚は、どうしてもぬぐえないのだが。
ともかく、嫦娥が屯所を動かないので、糜竺もやはり動かず、仕方がないので、劉備を呼んで来る、ということになったのだ。
劉備は、糜竺を庇う、鶴のような姿態をもつ嫦娥をみて、はてな、と首をかしげている。
「姐さん、どうもあんた、初対面じゃないね?」
「あいにくと、劉予州とお会いしたことはございませぬ。わが名は嫦娥、医者を生業にする者でございます」
ほう、と驚きつつも、劉備は納得せず、首をひねりつづける。
「おかしいな、俺は人の顔を覚えるのだけは得意なのだ。どこで会ったのだったかな。あんたみたいな別嬪、なかなか忘れられるものじゃないのだが」
意外なことに、容姿を誉められた嫦娥は、喜ぶどころか、皮肉げに唇をゆがめて、目をそらした。
劉備の言葉は、単なるお世辞とわかっていても、たいがいの者の微笑を生むものであったから、このような醒めた反応はめずらしい。
劉備自身も、ちょいと勝手がちがうようだと戸惑っているのが、傍目にもわかった。
そうして、あっとなる。
「思い出したぜ、孔明。孔明の引っ込んでいた草庵で会ったのだ。ただそのときは、ちらりと笠の下の顔を見ただけであったから、すぐに判らなかったのだよ。あんたはたしか、孔明の草庵の外で、なにやら手持ち無沙汰にしていたっけな。俺が何をしているのだと尋ねたら、家の者に用がある、といって、孔明の弟御のところへ行ってしまったのだ。そうかい、あんたは孔明の知り合いかい。おい、俺の記憶力も、まだまだ衰えてないだろう」
と、得意そうに関羽に言う劉備であるが、むっすりした関羽にすぐにたしなめられた。
「兄者の賢いのはよーくわかったから、話を元にもどそうではないか。使者にあらかたの事情は話させたが、兄者はどこまでわかっている?」
「壷中っていう、劉表さんが操っている組織が、妙な動きをしていて、どうやら儂らにとってまずいことになりそうだ、っていうことと、さらに不味いことには、孔明と子龍が樊城の壷中ってのと対決しているのじゃねぇか、ってことと、斐仁が帰って来たが、糜芳のウッカリ者が半死半生の目に遭わせちまって、話が聞けねぇってこと、それから子仲さんが元気で戻ってきたが、恐ろしいことを口にして、屯所のみんなが蒼くなっている、ってことだ」
「概要は掴んでいる、ということだな。細かい事に関しては、子仲どのがお話してくださる」
糜竺が、意を決して、口を開こうと顔をあげたとき、がたり、と大きな物音がした。
みると、驚いたことに、それまでもはや身動きひとつしなかった斐仁が、起き上がり、懸命に劉備になにかを訴えようとしているところであった。
「斐仁、儂になにが言いたい」
勘の良い劉備は、無駄な問いはせず、ずばり、虫の息の斐仁を抱えるようにして、尋ねた。
斐仁は、死に捕らわれながらも、懸命に唇を動かして、劉備に言葉を告げる。
「軍師が、趙将軍をお助けするため、壷中にみずから捕らわれ、それをお助けするため、趙将軍も樊城へ戻り…」
「うん、それで?」
声が消え入りそうになるのを、劉備は励ましつつ、促す。
「将軍は、播天流の罠と」
「播天流?」
劉備は、顔をあげ、やはり斐仁の声を必死に聞き逃すまいと側に寄っている関羽と顔を見合わせた。
どちらも公孫?のもとに身を寄せたさい、趙雲を指導していた播天流と面識がある。
「播天流は、壷中の、要で」
「壷中ってのは、どうして軍師を捕らえた?」
「趙将軍を、捕らえるため」
「なんだと、なんだって子龍が狙われる?」
だが、それには答えず、斐仁は、最後の力を振り絞って、劉備の襟元をぐっと掴むと、必死の形相で訴えた。
「仇を、わが一族の仇を」
劉備が肯くのを待たず、斐仁はがくりと力をなくし、七年間、偽りの忠誠を誓い続けてきた男に看取られて、事切れた。
陳到は、斐仁の言葉に、すばやく頭をはたらかせた。
公孫瓚、袁紹、そして劉表。趙雲の移動とほぼ同じくして移動し、形成された組織が壷中。
壷中はいま、荊州の豪族たちを義陽に集めている。
壷中は孔明を、趙雲を捕らえるための人質にとったという。それを助けるため、趙雲が樊城に戻った。
壷中の要は、播天流という男。
だめだ、さっぱりわからん。
首を振り、ふと糜竺と嫦娥のほうを見ると、意外なことに、両者とも顔を蒼くして、どころか小刻みに震えているのであった。
嫦娥と目が合うと、それまで冷静な矜持をたもっていた女丈夫は、涙目になっており、ふいと目を逸らすのであった。
ぴんときた陳到は、嫦娥に詰め寄る。
「貴女には、まだ我らに話をしていないことがあるはずだ。なぜいまの話を聞いて嘆かれる? 斐仁が言った、播天流とは、何者なのだ? なぜ趙将軍が狙われる?」
「播天流とは、袁紹のもとにいた趙雲を、公孫?のところへ連れて行った男だ」
嫦娥の代わりに答えたのは、劉備である。じっと腕を組み、ざんばら頭のまま、むずかしい顔をして考え込んでいる。
「公孫?ってのは、おれの学兄でもあったのだが、残念なことに、見かけは立派だったのだが、天下の英雄を名乗るには、ちょいと度胸と運がなかった。いい奴だったのだがなぁ。そこんところが、趙雲もまだ若かったので、不満だったのだよ。それで、兄貴の葬式を理由に、公孫瓚に暇をもらって、出て行ったのだ」
「いや、待て、兄者。たしか、その前にいろいろ相談に乗っていただろう。たしか播天流のことも話をしていたと思うぞ」
「おお、そうだった、おまえの記憶力もたいしたものだ。うむ、思い出したぜ。播天流ってのは、一見するといかにも善人、頼りがいのある武将ってなふうなんだが、見掛け倒しもいいところで、やたらとおのれの考えを、人に押し付けてくる奴だった。
最初は子龍が気に入りで、なにかと面倒をみていたのだが、子龍もちょうど大人になる頃で、だんだんと播天流の押し付けが嫌になっちまったのだ。それが気にくわねぇ、ってもので、播天流って男は、子龍にひでぇ言葉を浴びせて、すっかりしょげさせてしまったのさ。
で、結局は、子龍は公孫瓚のもとから去ることになった。そのあとのことはよくしらねぇが、公孫?の城が袁紹に落とされたときに、たしか戦死したのじゃなかったのだっけ?」
「いいえ、播天流は生きておりました。袁紹に捕らわれ、晒し者になっているところを、お助けしたのが趙将軍だったのです。ところが、播天流は、助けられたことを、逆に将軍が、おのれを笑うために助けたのだと思い込み、深く恨むようになったのです」
と、嫦娥が、たんたんと言葉を次いだ。
「ものの見事に逆恨みじゃねぇか」
「播天流は、貴方様方が知っている者とは、もう別なものに変わってしまっております。あれは、狂っているのです」
ふむ、と劉備はうなずき、それから嫦娥に体を向けた。
「嫦娥さんとやら、あんたは、どうやら全部を知っているようだ。あんたの知っている、壷中についてのことを、ぜんぶ話しておくれ」
嫦娥は、もはや潤んでいない、つよい眼差しを劉備に向けると、よどみなく、壷中についての説明をはじめた。そのあいだ、口を挟むものは、だれもいなかった。