09年改訂版
孤月的陣
第五章 タイヨウ 太陽
⑦
孔明は、崔州平に向き直ると、言った。
「そういうわけだ。逆に言いたいのだが、州平、きみこそ、こちらへ来ないか。主公はきっと君を歓迎するよ」
「あいにくと、俺もニ君に仕える男じゃない。残念だ」
「そうだな。わたしが、もっと早くに壷中の存在に気づいていたら、事情は変わっていただろうか」
崔州平は、薄く目をつぶり、孔明の言葉に頭を振って答えた。
「いいや。そもそも、この一連の騒ぎも、俺たちの、最後の復讐の烽火のようなものなのだ。逆に、おまえを巻き込んですまなかったと思っている。まさか、播天流が、趙子龍をこれほどまでに憎んでいるとは計算外だった」
「壷中の分裂は、君たちが企んだことだったと?」
「これ以上は俺の口からは言えぬ。さて、これから俺は義陽へ向かう。仕事の最後の仕上げをせねばならぬからな。おまえはどうする」
「むろん、同行させてもらおう」
「だと思った。だが、これだけは約束してくれ。俺が曹公に命じられたことは、これからの仕事のほうが重要なのだ。おまえは俺の邪魔をしない。俺もおまえが趙子龍を救うのを邪魔しない。俺たちは同行するだけ。いいな?」
「わかった」
孔明が肯くと、崔州平は、手にしている長剣とは別の、腰に差した剣を取り外し、孔明に差し出した。
「得物がなにもないヤツを連れてはいけない。これを」
ありがとう、といって孔明は剣を受けとったが、その手触り、装飾、大きさ、ひどく懐かしく、見覚えのある剣である。まさか、と思い柄を見ると、そこにはたしかに、昔施されていた仕掛けの痕が、はっきり残っていた。
「これは、徐兄の?」
「餞別だとさ」
「会ったのか? いつ?」
「ゆっくり話してやりたいが、あまり時間がない。馬を用意する。さて、公子、たいへん図々しいお願いをしなければなりませぬが、そこのぬれねずみのために、衣裳を用意してやってはいただけないでしょうか。それと、そこの老将はもう戦えませぬ。介抱してさしあげていただきたい」
「お安い御用だ。食糧と水も分けて進ぜよう。ほかに、できることはないか」
敵の細作の長にかけるべき言葉ではないが、人柄のよい劉琦は、そのことをすっかり忘れて、孔明の友として崔州平に接している。
崔州平の方が苦笑いを浮かべ、つづけて言った。
「それと、ここからさらに行った先に、城から逃げ出した子供たちが集まっております。みな、孔明を慕って、新野に向かうことを望んでおります。どうぞ、願いをかなえてやっていただきたい」
「それも相判った。子供達は任せてくだされ。ところで、琮もそこにいるのでしょうか?」
劉琦の問いに、孔明は心の臓を突かれたような思いがした。劉琮は、風狗として、趙雲と戦い、そして兄である花安英に討たれて死んだのだ。なんと説明すべきかと迷っていると、意外なことばが崔州平から飛び出した。
「いいえ、あの中にはおりませんでした。おそらく、播天流と共に船に乗ったのでございましょう」
「船に? 待て、崔州平、劉琮どのは、中庭に倒れておられなかったか?」
「いいや。俺が見たのは、死にかけている蔡瑁が、兵卒に威張り散らして、劉州牧をどこかに運んでいく最中であったところだけさ」
と、劉琦に聞こえないように、声をひそめて孔明に言う。
「劉表は死んでいた。おそらくその死を隠すつもりであろう。だが、劉表の死は、曹公への早馬が飛んでいるので、隠しても意味がない」
「曹操は、じきにやってくる、ということか。ありがとう」
「いちいち礼を言うな。隠したところですぐばれるから、先に言っておくだけの話だ。劉琮がどうした」
「それもあとで説明しよう。それより、義陽へ急ごう。道中、話す」
そうして出立の準備に入ろうとした孔明であるが、劉琦の腕の中にいた花安英が、傷を抑えつつ、起き上がった。
「お待ちなさい。義陽への道と仰るが、まともに街道を抜けて行くおつもりか」
「ほかに道はあるのか。あの里は、壷中の里のなかでも、いちばん新しい。抜け道の類いがあるという話は聞いておらぬが」
それを聞いて、花安英は、独特の皮肉げな笑みを浮かべた。崔州平といい、花安英といい、壷中の出身者は、どうも冷笑的な態度を取りたがる。
「播天流は慎重な男。だれにも知られぬよう、抜け道を用意してございます。その道は、わたしと弟、播天流と側近しか知りませぬ。人夫はみな、殺してしまいましたから」
「まことか!」
崔州平が身を乗り出すが、花安英は、脂汗のにじむ顔に、冷たい笑みを浮かばせたまま、つづけた。
「あんたに目的があるように、わたしにも目的がある。義陽への街道の道には、おそらく壷中のものが待ち伏せしているだろう。でも、抜け道はおそらく素通りできるはずだ。連中は、わたしがもう死んだものと決め付けているからね。道を教えてやってもいい。だが、条件が二つある。ひとつは、わたしは軍師にしかこれを教えない」
崔州平は、むっとした顔をしつつ、孔明をちらりと見た。
「好かれたな。おまえはこの手合いに、なぜだかやたら愛される」
「茶化すな。花安英、もうひとつの条件は?」
「義陽にわたしも連れて行くこと」
孔明が反駁しようとすると、花安英は、手振りでそれを止めた。
「おっと、駄目ですよ、反対なさっても。あなたが処方してくれた薬のお陰で、痛みも和らいできた。どうせ、劉公子の船に担ぎこまれたところで、痛みに耐えながら唸ってなくちゃいけないのは同じなんだ。だったら、義陽へ向かう馬車にでも乗せてもらって、そのなかで唸っているよ」
「莫迦者! おまえが追った怪我は、かすり傷や虫刺されの傷とはちがうのだぞ!」
「怒鳴ったところで無駄ですよ、軍師。わたしを連れて行かない限り、義陽への抜け道はわからない。そうして街道で足止めを食らっているうちに、あんたの主騎はきっとボロボロにされている」
「わかった、おまえの言うとおりにしよう。ただし、わたしにも条件があるぞ」
孔明は言うと、きょとんとしている花安英のところへ行って、その側に屈むと、ぎゅっとその頬を抓った。
「城で言ったはずだな、わたしはおまえを必ず更正させると。まずは手始めに、その口の利き方から更正させる! 今度、意味もなく人を不安にさせるような言葉を吐いたら、頬を抓るだけではすまさぬぞ」
「どうするのさ」
「怪我が治ったら、おまえを新野に連れ帰る。そこで一ヶ月、兵舎の厠の掃除をするのだ」
「……あんた、つくづく能天気だね。生きて帰れると思っているわけだ?」
「当然だ。そのために義陽へ行くのだからな。さて、厠の掃除がいやならば、すこし大人しくしているがいい。さあ、州平、出立の用意をしようか」
※
近づけば近づくほど、門における騒ぎはひどくなっていくようである。
夜明けが近い、ということもあり、近隣の住民たちも起き出して、迷惑そうに、眠そうな目をこすりながら、なにごとかと外に出てきている。
闇の帳がなくなれば、だれかに姿を見られてしまうかもしれない。
朱季南は足を早めつつ、門へと急いだ。そうしてたどり着いたとき、ちょうど門から、立派な黒馬にまたがった武将が、怒りのにじんだ表情を隠さず、それこそ火の玉のような勢いで、新野城へと馬を走らせるのが見えた。
そのあとを、兵卒の一団が、必死で追いかけていく。
「糜将軍、お待ちくだされ!」
「ええい、愚図どもめ、とっとと付いて来るがいい! 此度のこと、かならず主公に注進し、叔至めに、ぎゃふんと言わせてくれようぞ!」
いきり立ち、糜一族の者らしい男は、さらに馬足を早めて城内へと向かっていった。
兜に隠れて顔をはっきり見ることはできなかったが、糜将軍ということは、糜竺の一族なのだろう。そういえば、弟がいる、という話を聞いたことがある。
叔至とは、さきほど、不気味なほどの武芸の才を見せ付けてくれた、子龍の部下。いかにも子龍の部下らしい、飄々とした男であったから、さきほどの男が目論むように『ぎゃふん』などとは絶対に言いそうにない。
それはともかく、やはり尋常ではない騒ぎだ。
まだ夜が明け切っていないというのに、門が開かれている。
朱季南が眠気もなんのそので駆けつけてきた野次馬にまじって見ると、門の外から、陳到を先頭にして、板塀に乗せられた男が、運び込まれるのが見えた。
陳到は、何度も何度も板塀をふり返り、板に載せられた男を励ましている。
そうして、城門に早くも民が集っているのを見ると、朗々と告げた。
「医者だ! 医者はおらぬか! 壷中の患者がここにおる! 壷中の医者は屯所に来るように!」
朱季南の周囲の者たちが、聞きなれぬことばに互いに顔を見合わせている。陳到は、しばらく民の様子をじっと見ていたが、やはり同じことを兵卒たちに告げ、兵卒たちは、陳到の叫んだ言葉をくりかえし、町中に告げるために去っていった。
陳到に見られぬように姿を隠しつつ、朱季南はすばやく頭をはたらかせた。
これは罠だろうか? あきらかに陳到は嫦娥を捜している。
壷中とは、子供を攫って刺客として育てている組織、ということはわかった。
嫦娥はそれに所属している様子だが、しかし裏切っているのか、その活動を妨害している。新野城内に仲間の女をこっそりしのばせ、なにかを狙っているらしい。糜竺は嫦娥に匿われている?
全体がつかめず、朱季南は苛立った。
くそっ、なんだって、この俺がこんなことに頭を悩まさなければならんのだ。俺が追っているのは、壷中なんかじゃなく、風狗だというのに。
ともかく、嫦娥のもとに帰って、このことを告げなければならない。
朱季南は兵卒たちに見つからないように気をつけながら、徐々に人が集まりつつ城門を、人の流れに逆らうようにして動いた。
東の空に暁をしらせる鳥の影が浮かび、朱色の光が、放射線状の光を大地に注ぐ。
いつものように、はじまりを告げる、うつくしい朝の景色であった。
※
屯所に斐仁を担ぎいれ、陳到は、すでに虫の息で、言葉を発することができなくなった斐仁の手当てをしつつ、なにか手掛かりになりそうなものはないか、体を探らせた。
矢傷も鋲の傷も、どちらも深く斐仁に食い込んでおり、斐仁はもはやひとことも明瞭な言葉を発することができず、苦しげにうめくばかりである。
裏切り者だとわかっているとはいえ、陳到も、ほかの部将たちも、かつての仲間の無残な姿に衝撃を受けているようである。
斐仁は路銀すら持っておらず、武器も長剣一本きりであった。胸元から、一片の木片が見つかり、そこにはだれが彫り付けたのか、『信じよ』とあった。
「信じよ、か」
皮肉なことばに、関羽が憐憫のまなざしで斐仁を見下ろす。
血に塗れたその姿には、はっきりと死相が浮かび上がっていた。
陳到は、糜芳を追って城内へ行かなかった関羽に感謝していた。
関羽のどっしりした巨体が屯所に堂々とあるので、兵卒たちは不思議と落ち着いている。関羽という男には、人を信頼させ、安心させるなにかを持っていた。一見すると厳めしいのであるが、心のなかは温かい。四角四面ではない芯からの優しさがある。
樊城でなにが起こっているのか、孔明と趙雲はどうしてしまったのか、様子がまるでつかめず、屯所には不安な空気が広がっていた。
「医者はくるかな」
関羽の呟きに、陳到は大丈夫でございましょう、と答えることはできなかった。さきほどから傍らに控える細作の長と、ちらりと視線を交わす。
七年間。長きにわたって沈黙と、平和を謳歌してきた劉備軍であるが、その平和が終わろうとしている。
これは破滅の兆しか、それともあらたな胎動か。判断がつきかねて、陳到は臓腑のあたりに石を抱えたような気分になっていた。
こんな気分になりたくないから、がんばれば大将になれるとわかっちゃいるが、趙雲の副将をやっているのだ。
趙雲もそれをわかったうえで、ちょうどよく使ってくれる。
じつに心地よい関係なのだ(もっとも、最初に袁紹から劉備のところへと主君を替えるにあたり、そういう契約をしたのであるが)。
盾になってくれる将軍がいないので、こんな苦労を背負い込まなければならない。早く帰ってきてくれないだろうか。責任ある行動、なんていうものは、悪いが、ちっともガラじゃないのだ。
とはいえ、そんな愚痴をいま口にしたら、袋叩きはまちがいないので、黙っていたけれど。
「軍師が壷中に捕らわれた、となると捨て置けぬ。子龍のことであるから、軍師を取り戻すために壷中とやらと対峙したであろう。
しかし、壷中などという名を聞いたことがないのだが、おまえが袁紹の元にいた際に使っていた者たちは、そう名乗っていなかったか」
「いいえ、記憶にございませぬ。ただ、いま探させております嫦娥という女医が、壷中について教えてくれました。親のない子を攫い、刺客として仕立てる組織である、と」
「なんと忌まわしきことよ」
と、関羽は怒りをもって低くうめいた。
この峻厳な武将は、ひとたび目にしたら忘れられぬ特徴ある風貌にあわせて、華々しい逸話の持ち主であるので、子供達に好かれている。
本人も、もともと子供が好きな様子で、なついてくる子供たちには、身分の貴賎をとわず、やさしい笑顔を向けるのである。
「人買いの壷中が、なにゆえ軍師を攫うのかがわからぬ。軍師は、なにか恨みでも買うことをしたのか。おまえたち、心当たりはあるか?」
「あいにくと、思い当たりませぬ」
陳到は、細作の長にも目で合図したが、細作の長のほうも、心当たりがないらしく、首を振った。
「どうも不気味でならぬ。そも、軍師は、劉琦の部下を殺したこいつの真意をたしかめるために、樊城へ向かったのだ。ところが、軍師は戻らず、下手人とされていた男だけが、こうして戻ってきた。
この事実だけを付き合せれば、糜芳が申すとおり、さも軍師が、おのが姻戚の蔡瑁のために策謀をめぐらし、われらを利用して、劉州牧のお家騒動に、なんらかの工作をしたかのような印象を与える。それが破綻して、軍師が捕らわれ、斐仁だけが戻ってきた、と」
「軍師がそのように振る舞われる理由がございませぬぞ」
「わかっておる。それに、子龍も一緒なのだ。軍師の人柄からして、子龍を裏切り、犠牲にするなどと、考えられぬ」
陳到は、意外な関羽のことばに驚いた。
この朴訥とした将軍、その澄明ながらも細い双眸で、意外なほど人の挙動をよく見ている。
顔に出ていたのだろう。陳到と目が合うと、関羽は言った。
「軍師の主騎となってからの子龍は変わった。若いのにどこか世捨て人のような空気さえあった。それが、いまは外界にしっかり目を向けて、ちゃんと己の為すべき事を見据えている。
子龍はあれで、なかなかに人を見る目がある。自分を簡単に切り捨てるような真似のできる薄情な人間のために、自分を変える男ではない」
関羽の言葉に、深く肯きつつ、陳到は言った。
「趙将軍のお人柄からすれば、むしろ斐仁は趙将軍によって逃がされ、新野に戻ってきたように思えるのでございますが」
と、陳到は、ちらりと、斐仁の持っていた『信じよ』ときざまれた木片を見た。
いったい、斐仁はなにを告げるために戻って、なにを信じさせたかったのか。
かえすがえすも、糜芳が最初に城門に駆けつけたという巡りあわせの悪さを恨むしかない。
屯所には、医者、という言葉だけを聞いて、自分が入用であろうと思ってやってきた、人の良い医者たちが集ってきていた。
彼らを怒らせないように丁重に引き取ってもらいつつ、陳到は、たった一人、医者だと名乗った嫦娥の姿を探していた。
そうして太陽がはっきりと、その全貌を東の空から現したとき、部将のひとりが、息をきらせて屯所へ駆け込んできた。何事かと問いただすと、こんなことを言った。
「女たちが、群をなして、こちらにやってまいります!」
わけがわからぬ陳到は屯所を出て、往路を見遣った。すでに城門でおこった騒ぎをよそに、いつもの朝の顔を取り戻しつつある町に、まるで似つかわしくない一群が、夜の街の一角から、ぞろぞろとやってくるのが見えた。
あけぼのの中にあって、その派手な姿が、むしろ哀れを誘う夜の女たちである。
とはいえ、単体ならば哀れと見えようが、それが数十人の行列ともなると、哀れどころではなく、昼と夜がひっくり返ったような錯覚がある。女たちはみな、流行の服や髪型で全身を装っており、陳到がほっとしたことには、手に武器の類いはなにも持っていなかった。
しかし奇妙なことには、彩りも派手で、赤、黄色、緑、青と目にも鮮やかに、白粉の匂いをぷんぷんさせているにもかかわらず、賑やかにおしゃべりするでもなく、怒号をあげるでもなし、むしろ夜の商売用の陽気さをしまって、全員が全員、よそ行きの顔で、屯所へやってくるのであった。
徐々にやってくる女たちの一行の中の顔ぶれを見て、陳到は、おのれの策があたったことに、満足の笑みを浮かべた。
女たちは、衆目を一身にあつめつつも、堂々と大路を歩いてきて、そうして、屯所の前でぴたりと足を止めた。
だれかが「一斉に集金か?」と冗談を飛ばしたが、笑うものはひとりもいなかった。女たちの目はどれも真剣であった。その眼差しをすべて受け止めて、言葉をなくしていた陳到であるが、やがて、女たちの輪から、紺の衣裳に身をつつんだ、背の高い白皙の女が進み出た。
その目は緊張と決意に満ちている。
嫦娥である。
月光に浮かんで神秘的に見えていた面貌は、太陽の光のしたでは、意外なほどに地味に見えた。
「医者をお探しとか。壷中の医者をとのことであるが、まことでしょうか」
陳到は、何事をも見逃すまいとするその強い双眸を受け止めて、うなずいた。
「まことである。昨夜は世話になった。貴女に診てもらわねばならぬ患者がいるのだ」
それを聞いて、嫦娥は意志の強そうな眉をきゅっとしかめた。
「あの女は、命を絶とうとしたのですか」
暗に陳到が、しっかり管理をしていなかったことを責めるような口ぶりである。陳到はそこで感情的にならず、首を振った。
「いいや、あの女はすこぶる健勝で、いまもって口を閉ざしたままだ。診ていただきたいのは、別の男だ」
と、陳到が嫦娥を守るようにして立っている女たちの輪から、嫦娥だけを連れて行こうとすると、女たちが一斉に騒ぎ始めた。
「そのひとを、どこへ連れて行きなさる!」
「わずらいびとがいるなどと言って、ほんとうは、このひとを罠にかけるつもりだったのだろう!」
「あたしたちを無償で診てくださる方を捕らえてどうしようというのだ!」
無償、と聞いて陳到はいささか驚いた。
「ほう、だからこれほどに慕われているわけか」
それがいけなかった。
女たちは感情的になっていたうえに、さらに刺激をされて騒ぎ出した。
「金じゃないんだよ! そのひとは、ほかの医者みたいに、あたしたちの弱みにつけ込んで、薬代や診代に高い金を吹っかけてこない。あたしたちのことを、ほんとうに考えてくださる方なんだ!」
「まさか、ほかの医者が、あたしたちがみんな先生のところへ行ってしまうのに腹を立てて、チクッて来たんじゃないだろうね! なんだか知らないが、この人を罪人に仕立て上げようなんてつもりなら、只じゃおかないよ!」
いまにもその手入れされた爪と、よく動く唇の下の歯で、バラバラにされそうな勢いである。さすがの陳到もうろたえた。
だいたい、嫦娥だけを呼び寄せるつもりであったのに、新野の夜の女がもれなくついてきたことの意味がわからない。
それに、ただの堕胎婆にしては、嫦娥は品がありすぎる。年は三十代前半くらいか。いまは男のなりなどをしているが、ちゃんと白粉を塗って紅をはき、髪を結って簪をさせば、どんな男も思わず振り向くことだろう。
「待て待て、いまのは俺の言葉が足りなかったな。本当に感心したのだ。嫦娥どの、ほかの医者でもだれでもなく、貴女に診てほしい者なのだ」
嫦娥は、またさらに眉をしかめたが、陳到の面貌をじっとみて、それから納得したように、一歩、前に進む。
だが、途端に女たちが手を伸ばし、嫦娥の着物の裾を掴んだ。
「だめだよ、先生。きっとこいつら、先生を罠にかけるつもりだ!」
「先生がいなくなったら、あたしたちは本当に困るんだよ!」
「おい、落ち着け。俺はこの方には決して害を為さぬ。約束しよう」
「本当かい! 最近じゃ、とんと物騒になって、あたしたちの仲間も風狗とかいうのに殺された。なのに、あんたたちは何にもしてくれなかったじゃないか! いまさら信用できやしないよ!」
その言葉に、陳到はぎょっとした。
趙雲の話からすれば、斐仁が空屋敷に連れこみ、そこを風狗によって殺された女は、趙雲が斐仁とともに埋葬してやった、と話していた。
つまり、そのことは、斐仁と趙雲、そして朱季南しか知らないはずである。
朱季南は趙雲の前から姿を消したあと、妓楼に潜んでいた、ということだから、やつが妓女たちに言いふらしたのだろうか…
「おまえたちは、なぜ風狗のことを知っている」
陳到の問いかけに、女の一人が派手に鼻を鳴らし、不健康に青白い肌を陽光にさらして、つんと顎をそらして言った。
「あたしたちが金のことばかり考えていると思っているんじゃないだろうね。あたしたちだって身体を張っているんだ、世の中の動きは知っているよ。許都で何人も娼妓を殺しているヤツがいて、そいつが新野でも暴れたんだ。
そうでしょう、先生。あの阿片でべろんべろんになっていた禿げの男が言っていたもの。なのに、あんたたちは、あたしたちを守ってくれない。それで平時は、兵隊さまよと威張ってみせる。それで信用できると思うのかい?」
「新野で死んだ娘は、ただ、その場に居合わせたから、腹いせに殺められたのだ。だが、ヤツが許都で殺したのは、ただの娼妓じゃない」
ほかならぬ嫦娥が、ぼそりと反駁する。思わぬなりゆきに、雀のように大騒ぎしていた女たちが、静まった。
「陳叔至どの、貴殿はどこまで事態を把握しておられるのか。それをお聞かせ願いたい。もしも壷中について、わたしが昨夜語ったことしか知らぬというのであらば、わたしはここで失礼させていただく」
陳到は、おのれの背後で、嫦娥を無理にでも屯所へ引き込もうと身構える、間牒の男をちらりと見た。そうして目で、乱暴はいけない、と合図をする。
この女はおそろしく誇り高い。強引に言うことを聞かせようとしたなら、おそらく逆にこちらを侮り、言うことをきかなくなるだろう。
手の内をすっかりみせ、身内のように対すること。誠実に正直にしなければ、この手の女は、口を開かない。
「『壷中』とは、貴女が昨夜語られたとおり、子供を攫って、暗殺者として育てている組織の名前だ。新野に出没した人買い騒ぎも、こいつらが起こしたことなのだ。こいつらの根城は樊城にあり、曹操南下に向けて、荊州の豪族たちと結び、みなで義陽に集っている」
「それだけか」
「あいにくと、それだけだ。しかし問題なことに、我らが軍師が樊城から戻らぬ。これに壷中が絡んでいると見てよいであろう。それゆえ、貴女のお力をお借りしたいのだ」
その言葉に、嫦娥の表情が、わずかにやわらぎ、陳到はむしろ意外に思った。
それっぽっちしか掴んでいないのなら、勝手にしろといって踵を返されることを予想していたからだ。
「諸葛孔明が、樊城にとらわれたと?」
「樊城に人を遣ってはいるが、まだ帰ってこぬ。いや、ひとりだけ帰って来た」
「それは、主騎の趙子龍殿か。わたしが診るべき者とは、趙子龍殿のことなのか?」
この女、こちらのことも把握しているのか、と薄気味悪く思いつつ、陳到はかぶりを振った。
「いいや、趙子龍殿も、いまだ樊城より戻られぬ。戻ってきたのは斐仁という、われらの仲間であった男なのだが」
陳到はそこまで言って、目の前の嫦娥が、はじめて大きく表情を崩したのを見て、おどろいた。
嫦娥は大きく目を見開き、呆気にとられたような、つよく心を揺さぶられ、いまにも泣きそうな顔をして、陳到ではなく、どこか遠くのほうを見ているような眼差しになった。
「龍が、動いたのか」
なんのことだと陳到が尋ねるより先に、聞き覚えのある好々爺の声が、一同を制した。
「嫦娥どの、やはり時が来た。われらが待っていた甲斐があったというもの。叔至、いや、新野の者すべてに、我らの真実を語ろうではないか」
まさか。
陳到は呆気に取られて、女たちの一群の背後から、ゆったりと歩いてくる初老の男を見た。
どこかやつれた風情はあるが、見慣れて馴染んだその顔は、間違えようがない。糜竺であった。
陳到は、思わぬ者の登場にうろたえた。糜竺は壷中の仲間であるはず。劉備のもとを辞去し、樊城へ向かい、以降、行方知れずになっていたはず。それが、どうして新野にいるのだろう。
「糜子仲どの、樊城に行かれたのでは?」
「はは、軍師がそう知らせてきたか。たしかに軍師に先立って樊城へ行ったが、その日のうちに新野に戻ってきたのだよ。誰にも知られぬようにね。皆はわたしが新野から出たものと思い込んでいたようだから、潜むのにこれほど都合のいい町はなかった」
「なにゆえ、そのように回りくどいことをされたのか? みな心配しておりましたぞ!」
「叔至、軍師からの手紙の内容は、だいたい予想がつく。わたしが壷中の仲間かもしれぬと知らせてきたのだろう。だから、貴方はわれらが子供たちから常に離れなかったのだ。ちがうかね」
「そのとおりでございます」
ふと、糜竺の眼差しが、いまだかつて見たことがないほど暗いものに転じ、世の裏にも表にも通じる陳到すら、たじろがせた。
「わたしが壷中の仲間であることはまちがいない。それなのに、子供たちを牢に繋がなかったこと、感謝する。やはり、軍師に子供たちを託して正解であった」
陳到は、さらに混乱し、壷中だと自ら語る糜竺と、壷中に敵対している様子の嫦娥を見比べた。
まったく立場がちがうはずの人間が、なぜ連帯しているのか?
「子仲殿は、壷中を裏切られたのか?」
「もとより、心は一片も壷中にない。わが忠誠は劉玄徳にあり。わたしは主公が荊州に入った際、劉表と取引をし、新野の秘密を守る斐仁を、さらに監視する役目を与えられていた。
拒むことはできなかったのだ。『壷中』という組織がどれほどに濃い闇を引きずっているか、知れば知るほどに、脱け出せなくなっていた。七年間だ」
糜竺はうつろにすら見せる暗い表情をかなたに向ける。
糜竺があらわれた、との報を受け、屯所にいた関羽と、糜竺の養子兄弟が表にあらわれた。
しかし糜竺の表情は晴れない。
まるで別人のような陰鬱な表情にぶつかり、関羽も子供たちもうろたえている。
糜竺は子供たちを見て言った。
「情けないことではないかね。かれらは七年間、秘密裏に子供たちを攫う作業をつづけていた。その後処理は、わたしと斐仁が行っていたのだよ。押し付けられた仕事とはいえ、拒めば、劉表に新野を攻撃すると脅され続けてきた。新野に住まう皆を人質に取られたような状態では、抗いようがない。わたしさえ我慢すればと、言い聞かせて耐えてきた。
わたしに出来ることといえば、出来うる限り、子供たちを救い上げ、自分の手元で育ててやること。それだけであった。それすら、火事場にわずかな水を与えただけに過ぎないのだろう」
「いいえ、子仲さまはよくやってくださいました。貴方様がいたからこそ、わたしは壷中でありながら自由を得ることができたのです」
嫦娥の言葉に、ようやく糜竺の表情に、明るいものが戻ってきた。
「そう言ってくれるとありがたい。この非力な爺にできることは、ほんとうにわずかであった。叔至、そして雲長どの、いまさらとは思うかもしれぬが、わたしに翻意はないのだ。わが主公は劉玄徳のみ。それだけは信じて欲しい」
「我らとしても、兄者の危機に、身を捨てて助けてくださった貴殿を疑うことなどしたくない」
と、関羽が、慌てず騒がず、重々しく口を開く。
「我らのあいだに秘密などなかったはずだ。口を閉ざさねばならなかったというのであれば、その理由を聞かせてくれ。なにゆえ、兄者のもとを去って、樊城へ行くというような、疑いを招く行為をしたのだ?」
「樊城の劉表の病状を知るためだ。壷中が分裂していることは、この嫦娥のおかげでつかめていた。もし、劉表の病状が深刻なものなのであれば、壷中の分裂はまちがいなく起こる。壷中を潰す、またとない好機になろう。
われらは、壷中を潰すために動いていたのだ。劉表の病は重く、わたしと言葉をかわすのもやっとであった。
我らは新野にもどり、軍師に洗いざらいをお話しし、壷中をともに潰そうと持ちかけるはずであった。
ところが、思いもかけず、子龍の部下が樊城の壷中を殺害するという事態が起こってしまった。そして、壷中の分裂はまちがいないが、もっと深いところで別な動きがあることに気づいたのだ。
樊城と、村の壷中のそれぞれのうち、村の壷中の動きがつかめなくなってしまったのだ。そこで、様子を見るために新野に潜んでいたのだよ」
「話はわかった。しかし、なぜ、兄者ではなく、軍師なのだ?」
「軍師にはその資格があるからだよ。わたしには、あの方に二つの負い目があるのだ」
意味ありげな言葉に、関羽と陳到は思わず顔を見合わせる。
そうして、この初老の忠臣が、ほかの文官たちとちがって、孔明が軍師として招かれた当初から、いちばん親しそうにしていたことを思い出した。
自嘲気味な笑みを洩らした糜竺は、ふと深刻な顔を取り戻し、関羽と陳到、そして悲しそうな顔を糜竺に向けている嫦娥に決然と言った。
「新野に眠る、壷中のひみつを教えよう。すまぬが主公に、このことをお伝えしてはくれぬか」