09年改訂版

孤月的陣
第五章 タイヨウ  太陽

もう何人を斬ったかわからない。
劉表のもとに留まり、黄忠に協力をつづけてくれていた男、かつて同じく諸葛玄の部下だった男、そして樊城の東の門を趙雲のために空にしてくれた男が、混乱をついて、黄忠とともに参加して戦ってくれたが、多勢に無勢。
雲霞のごとく次から次へとあらわれる敵に、さすがに疲れを覚え始めていた。
最後は、おのれが敵というわけか。
戦え、死ぬまで戦うのだ。
そう励ましながら、もはやしびれて感覚のなくなってきた手足を、機械的に動かし続ける。
視界の隅に、懸命に戦ってきた男が、背後から襲ってきた刃によって、打ち倒されたのが見えた。
ああ、おまえは先に逝くのだな。
どうやら、いつも一人だけ、取り残されるのが、儂の天命らしい。

敵の数は、途中から少なくなったものの、それは、引き受けるべき敵が、城内にいる趙雲に向かったということを意味していた。黄忠としては喜ばしい話ではない。
なにより、亮のことが気になった。
捕らえられたあの方は、ご無事だろうか。もしもここで死んだなら、魂はすぐにお側に駆けつけて、あの方をお守りしよう。そう決めた。
城門から飛び出してきた兵卒が、ほかの兵卒とは様子がちがって、狂ったように喚き散らしながら、剣を掲げて向かってくるのが見えた。
その憎しみに燃えた目は、単に味方の仇を討つために燃えているのではない。おそらく、黄忠が倒した中に、その男の親しい者がいたのだろう。
もはや手足は動かない。黄忠はいさぎよく死を覚悟した。
首を刎ねるであろう剣が、中空に振りかざされる。篝火に不気味に赤く刀身が光っている。
死が下りてくる。
ところが、刃は期待したどおりの動きをしなかった。
どす、どす、と鈍い音と共に、男の体は、黄忠の背後より射掛けられた弓で持って、射抜かれていたのである。
断末魔の声を響かせて、男はその場に崩れ落ちた。

振り返ると、そこに、黒装束の細作たちを従えた、その場に似合わぬ隠士風の男が立っていた。
その手には、長剣が握られているが、腰には、もう一振り剣がある。
「獅子奮迅の働き、まこと感服いたします。それゆえ微力ながらお助け参らせたこと、お許しねがいたい」
と、男は淡々と言った。聡明な黒い瞳をした、四角い顔の男である。年は亮より少し上だろう。黒装束の男たちは弓を射つづけ、黄忠が退避するのを援護しつづけてくれた。
城門から離れたところに来ると、城の狂乱が嘘のように静かであった。そろそろ夜明けが近いのが、闇の薄さで感じ取れる。
黄忠は男に尋ねた。
「貴殿の名は?」
「崔州平。黄漢升どのとお見受けいたしましたが」
黄忠は、思いもかけない助っ人の、思いもかけない名前に驚いた。崔州平といえば、亮の学友ではないか。徐庶とかいう男がむかし剣客だったという話は聞いていたが、崔州平もそうであったのか? しかし崔家といえば、名の知れた家のはず。
と、そこまで考えて、勘のよいところで黄忠は気づいた。
そうか、この青年もまた…
「亮様をお助け下さるのか」
端的に尋ねてきた黄忠に対し、崔州平は、どこか親しげな笑みを返してきた。
しかし、返事はなく、別な言葉が述べられる。
「肩がはずれてもなお、戦いを止められなかった。貴方様はここで死ぬ覚悟でございましょうが、それでは犬死となりましょう」
「どういうことか?」
「孔明は無事です。ただしふたたび播天流の虜となっております」
「なんじゃと?」
「趙子龍殿と合流し、壷中の者を助けるために、ふたたび城内に戻ったのです。しかし、そこを播天流に捕らわれた様子。樊城には、壷中のためにいくつもの抜け道がございます。播天流は、そのひとつをつかって、二人を連れ出すつもりでしょう。
やがて、ここには、ようやく重い腰をあげた将軍たちが、兵舎より兵卒を引き連れて押しかけてまいります」
「ずいぶんごゆっくりじゃな」
黄忠の皮肉に、崔州平も唇をゆがめてみせる。
「蔡瑁の人徳の結果でございましょうな。どうやら、かの御仁は、想像以上に恨みを買っているらしい。将軍たちはみな、城内の混乱が収まるのをまって、この責任を蔡瑁に押し付け、その地位から引き摺り下ろそうと考えておる様子」
「腐っておる」
「左様。貴方様の敵は、一般の兵卒たちではないはず。ここで死んではなりませぬ」
「ご助力かたじけなく存ずる。しかし、貴殿はなにゆえわしをお助けくださったのじゃ?」
「貴方様が、わたしたちをずっと捜していたことを知っていたからです。貴方様のような方がもっとたくさんいたなら、わたしたちも救われたかもしれない。
いままで姿を現さなかったのは、時が来ていなかったからです。わたしたちは、樊城が落ちるのを待っていた。曹公が来られる前に、樊城は壊滅したのです」
崔州平は、いささか狂気すら伺わせる、歓喜に満ちた笑顔を、燃える樊城に向けた。
黄忠はそれを不気味に思うより、なにより悲しく思った。この青年は生きつづけることを選択した。だが、受けた傷は一生癒えまい。
「貴殿は曹操の?」
「左様。樊城を混乱に落としいれ、曹公の南下を内側からお助けするのがわたくしの仕事でございました。貴方様と孔明のおかげで、務めは果たされた」
「曹操の狗だというのなら、わしは敵というわけじゃな」
「いいえ、貴方様と刃を交えるつもりはございません。それに、まだ重要な仕事が残っておりまする。
黄漢升殿、貴方様はもう戦うことはできない。わたしたちに恩を感じる必要はありませぬ。わたしたちが貴方様をお助けしたのは、わたしたちのためなのですから。お逃げなされ。じきに兵卒どもに取り囲まれてしまいますぞ」
「貴殿らはどうするのじゃ」
「城外へ逃れる播天流を止めに参ります」
「待て。亮様が捕らわれているのならば、わしも共に参ろうぞ。わしは、単なる瓜売りの爺じゃ。劉表でも劉備でもない。それならば、曹操に詮議を受けることもなかろう」
黄忠が言うと、崔州平は予想をしていたのか、驚きもせず、困惑することもなく、ただ笑みを浮かべた。
「そのような、外れた肩でなにをなさるおつもりか」
「外れたのは片側だけじゃ。もう片方があれば、十分に戦えようぞ」
「よろしい、では共に参りましょう。ただし、これからはもう助けませぬ。わたくしは曹公の配下。劉備の軍師である孔明を助けるために行くのではありませぬ。そこをお間違えなきよう」
黄忠が、承知、と肯くと、崔州平は、背後にいた配下に合図をして、音もたてずに薄闇のなかを走り出した。
黄忠は、すでにバラバラになりそうな手足を、それでも必死に動かして、そのあとを付いていった。




「子龍、出立ぞ」
その声が聞こえた途端、孔明は怒りで体が熱くなった。
姿を見ることすらいとわしい、播天流であった。格子に手をかけ、得意そうに笑っている。一見しただけでは、やはり狂人であることは見抜けない。孔明や趙雲からすれば、播天流から発せられる悪意は、受け止めかねる行き違いの固まりなのであるが、播天流は、自分が狂っていると思っていないために、両者は永遠に平行線をたどりつづけるのである。
「どこへ向かう」
趙雲がうめくように、暗い瞳をして言った。こんな目をした子龍はいやだな、と孔明は思いつつ、あいかわらず趙雲の体に頭をもたれさせた形で、播天流の返事を待つ。
播天流の体は、戦いのためにあちこち血で汚れていた。日に焼けた肌をして、目だけがらんらんと歓喜に輝いている。そうして厚めの唇から白い歯がのぞくのであるが、並びのよい歯の白さが奇妙に印象に残った。
「義陽だ。そこでわれらの子供たちが待っている」
「義陽…そこが壷中の村か」
孔明が口を挟むと、播天流は声をたてて笑った。
「軍師、せっかくなので教えてさしあげよう。壷中の村というのは、そもそも一箇所ではないのだよ」
「なんだと?」
「隠れ里は荊州に何箇所かある。しかし事態が急転したからな、これから全員を義陽へ集める。義陽は特別な場所でな、そこにいる、花安英の実家が里を管理しているのだ」
「どういうことだ? 花安英は、生母を捜すために、自ら壷中へ入ったのだろう?」
「そう信じているだけの話だ。豪族たちは、劉表への忠誠の証しとして、一族の子弟をひとり、かならず壷中へ差し出すことになっている。例外は諸葛家と、なにも知らない新野の劉予州の家臣たちだけだ。胡家も同じ要求を受けたのだ。だが、胡家の夫人は、自分の腹を痛めた子を差し出すことをいやがり、そこでなさぬ仲の長男を騙して、壷中へ追いやったのだ。妻と子の両方を差し出した胡家は、それまで没落寸前であったのだが、このことで家門をふたたび盛り上げた」
「蔡瑁が、蔡夫人を奪ったという話も、あれは仕組まれたことだったのか?」
「いかな相手が将軍とはいえ、ふつう妻を奪われた男が、黙っていると思うか。しかも貴門の胡家の主なのだぞ。胡家は妻子を売ったのだ。どうしたのだ、よくある話ではないか」
孔明は、返事をすることができなかった。怒りのあまり、体が震え、涙が出てきた。自分の血を分けた子供、そして娶った妻を、守るどころか家門を盛り立てるための人身御供にしたというのか。
「国のために姫を蛮族に嫁がせる王族と、どうちがうというのだ。貴殿はどうも世の中に夢を見ているようだな」
「だまれ」
涙まじりの震えた孔明の声に、播天流は満足したように、鼻で笑った。
「まあ、よろしい。それより軍師、臭わないかね」
「臭う?」
「花安英だよ。そろそろ腐ってくるのではないか。生きながら腐っていた子供であったからな、死ねばなお、腐るのが早かろう。花安英を籠絡させるとは天晴れであったが、死んでしまっては意味がない」
「生きている。死なせはせぬぞ。花安英も、子龍もだ」
「斯様に獣のように鎖につながれた状態で、いったいどうされると言うのか。義陽についたなら、さっそくその美しいお顔より、耳障りな言葉ばかり吐く舌を引き抜いてさしあげるゆえ、いまのうちに子龍と別れの言葉を交わしておくがよいぞ」
「そのようなことにはならぬ」
孔明の言葉に、播天流は大きく鼻を鳴らすと、周囲のものたちに、出立を命令した。その立ち去る姿をはげしく睨みつけながら、孔明は胸の中で身動きひとつしない花安英の体を、母親が赤子にするように、胸に包んだ。
嫌でも江東の兄のことが思い浮かぶ。決して売られたわけではなかったが、兄と義母をめぐる、世間にはとても公表できない厭わしい事実と、そのために見捨てられ、姉と弟と家人たちとで、必死になって南を目指した避難行のことが思い出された。
自分には姉がいて、父に忠誠を誓った家人たちがいて、待っていてくれる叔父がいた。
しかし、誰もいなかったら、花安英や、程子聞とおなじ運命を辿っていただろう。
荊州についてから叔父の死まで、そしてその後に起こった、兄との家督をめぐる諍いなどは、花安英の陥った運命や、受けた苦しみを思えば、実に小さなことであった。
花安英を見るのが嫌だった。なぜかは分からないが、勘に触った。自分のいちばん触れられたくない部分を、わざわざ形にして見せられているような感覚があった。
どこかで、花安英のもつ暗さと、その背後にあるものに、自分と似たものを感じ取っていたのかもしれない。花安英の引きずる底知れない闇を覗き込むのが恐ろしかったのかもしれない。

「大事無いか」
ふたたび額に指の触れる感触があり、孔明は目を閉じた。子供のころに、病床の父のところへ遊びに行くと、やはりこのようにして、よく頭を撫ぜてもらったものだと思い出しながら。
がたり、と馬車が揺れて、全体が揺れだす。不安定な体をなんとか落ち着かせつつ、孔明は、あいかわらず眉ひとつ動かさないでいる宦官のほうに言った。
「悲しくはないか」
心がないはずはないのだ。封じ込めているだけだ。涙を流すことすら許されている自分は、まだまだ恵まれている。
「私はとっくに死んでいる」
不意に、それまで沈黙を守っていた宦官が口を開いた。馬車のごとごとと揺れる音にまぎれて、耳を側立たせないと聞こえなくなるほどの声であった。
「子供には子供の仕事があると言われて、親から引き離され、ほかの兄弟たちと共に、家畜のように馬車に乗せられた。そのときに、私は死んだのだ。幽鬼は、どんなことをされても何も感じることはない」
「死んではおらぬ。偽りは捨てよ。生きるがいい」
「生きてどうする。私はもはや、男でも女でもない身に変えられてしまった。あんたの言葉は、子供たちには耳心地がよく響くかもしれないが、私には安全な高みから他人事のように呼びかけてくる虚しいこだまにしか聞こえない」
孔明は沈黙し、宦官も口を閉ざした。彼らの抱える壮絶なまでの悲しみ、苦しみは、たやすく言葉で埋められる類いのものではない。でも、それでも、ほかに手段がないのならば、千でも万でも、自分は言葉を叫び続けるだろう。『こうならねばならぬ』ではない。そのような押しつけではなく、『こうあろう』という呼びかけを。
もっと広い心と、どんな苦しみ、悲しみをも受け止めることのできる、大きな器がほしい。それを手に入れることができるなら、どんな試練も乗り越えよう。
闇には流されない。絶対に。

やがてしばらくすると、馬車に明るい太陽の陽射しが入り込んできた。そうして、水音が近くなってくる。
その段になり、はじめて孔明は、とっくに夜が明けていたこと、自分たちがいままで、地中の間道にいたことを知った。水音をかき分ける船の櫓の音が聞こえる。どうやら川を利用して運ばれる様子だ。
ますます新野から遠くなる。焦りはあったものの、ここから脱け出せる手立てはなかった。
趙雲はすっかり諦めてしまったのか、思いつめた双眸で、霞んで見えない世界の中にひとりでいるし、胸に抱えている花安英の熱は、上がってくる一方だ。応急処置をしたときに、化膿止めの薬を飲ませていたので、傷が膿んだことは考えられないが、風狗より受けた傷が、思いのほか深かったのかもしれない。
樊城から逃げ出した子供たちはどうしただろうか。首尾よく逃げられたならよいが。後から行く、などと言っておきながら、約束を守れなかった。彼らが無事であるといいのだが…

馬車が止まり、格子が開かれた。
壷中の兵卒たちがやってきて、表に出るようにと促した。まずは趙雲が引き出され、つづいて孔明が引きずられるようにして引っ張り出された。花安英はというと、そのまま馬車に置き去りである。
振り返ると、さきほどまで監視役として同乗していた宦官が、懐から取り出した短剣でもって、花安英にとどめを刺そうとしているのが見えた。
「やめよ!」
孔明は、両腕を兵卒たちに掴まれていたが、それを振り払い、手枷足枷で思うようにならない体をそれでも懸命に動かしながら、叫んだ。
「その者は、おまえたちの仲間ではないか! なぜ助けてやろうとは思わぬのだ!」
「仲間だからこそ、だ」
と、宦官は、はじめて感情らしいものを、その白皙の顔に浮かばせて、言った。そこにあるのは孔明に対する苛立ちと憎悪であった。
「もうこの者の命はわずか。このまま生きながらえたとしても、裏切り者として厳しい処罰が待っている。なればこそ、ここでとどめを刺してやることが、この者への救済なのだ」
「どうして最初から諦める! 未来は誰にも分からぬもの。おまえたちの未来を決めるのは、おまえたち自身なのだ。おまえに、花安英の未来を断ち切る権利などない!」
宦官は、きつく眉をしかめ、孔明をきびしくにらみつけた。孔明は、その視線を真正面から受け止める。綺麗事のように聞こえてもかまわない。なにもしないで、あきらめてしまうよりはずっといい。
そのとき、銅鑼の音が響き渡った。
「敵襲! 敵襲!」
じゃん、じゃんと銅鑼を叩く音が響き、兵士たちの慌てた声がさらに聞こえてきた。
見ると、渡し場の向こう側から、何船もの軍船に、鎧をまとった兵士たちを乗せて、こちらに向かってくるのだ。銅鑼の音はそこから聞こえてくるのである。船の舳先には軍旗が掲げられており、そこには『劉琦』とあった。
播天流が突如あらわれた船団に、うろたえているのが分かる。
「劉公子? 莫迦な。劉公子にそれほどの手勢が?」
「将軍たちが、手勢をそろえて戻ってきたのでございましょう。いま戦うは得策ではございませぬ。出立すべきかと。お早く!」
播天流は、忌々しそうに船団を睨みつけながら、壷中の部下たちに叫んだ。
「早く船に乗り込め! 出立ぞ!」
その声に呼応して、護送車の前で動かないでいた孔明も、さらに引きずられるように船のほうに連れて行かれる。もともと足枷をされているために歩みが遅くなるが、それも構わず、両側から腕を掴まれ、ずるずると船のほうへ運ばれていく。さぞかし往生際が悪く見えるだろうが、と思いつつも、孔明は叫ぶことをやめなかった。
「花安英! 起きよ! 目を覚ますのだ!」
どんどん遠くなる護送車の中では、宦官が花安英をめがけて刃を振り下ろすのが見えた。
一方、船の上では騒ぎがおこっていた。劉琦の船から、つぎつぎと矢が射掛けられていたのである。船で待ち伏せをされているなどと予想していなかった播天流たちは、体勢を整えることができずに、押されている状態なのだ。
出立を急かす播天流の、甲高い叫びが聞こえてくる。孔明はなおも花安英のほうを気にしていたが、不意に、その頬に掠めるものがある。
正面から矢が降ってきた。
ちょうど船に乗せられる途中の艀で、矢の飛んできた方向を見ると、茂みによって隠されていた間道のちょうど上にあたる岩山より、黒装束の何者かが矢を射掛けているのである。
ちょうど前後より弓攻撃をされた形となり、壷中の船は完全に混乱に陥っていた。
黒装束の者たちが何者かはわからないが、この状況ではありがたい。
さらに、船員たちが、話がちがうといって持ち場を離れ、播天流に詰め寄っているのが見えた。どうやら仲間割れが始まった様子だ。
播天流が、船員たちを突き飛ばし、いきり立った船員たちが一斉に武器を抜き放つ。
それに応じて、播天流の部下たちも、船員を攻撃しはじめた。

孔明は無理やり船に上げられながらも、両腕を掴む男たちが矢を避けるためにひるんだ隙に、振り切って、ふたたび地上に戻ろうとした。
しかし、それを止める者がある。
それは大柄な水夫で、華奢で見栄えのよい者ばかりの壷中の者とは思えぬ巨漢であった。
おそらく、移動のために雇われた水賊の類いであろう。
何を思ったか、そいつがいきなり手にした斧を振り上げてきた。

戦いを知らない孔明は、思わず両腕でもって、自分の頭を庇ったが、ちょうど斧は、手枷の真ん中をぱっくり割って、孔明の額をぎりぎり掠めて行った。
「いい腕だ!」
思わず誉めて、自由になった腕を確かめると、さらに攻撃を仕掛けてくる男から逃げようとしたが、男はなおも追いかけてくる。孔明の身なりがよいのと、壷中の者のなかでは年嵩なので、上長にみえたのだろう。
男の腕を、背後から掴む者があり、しばらく力比べとなったが、手首を掴んでいる男の方が勝った。巨漢の男が振り向くのと同時に拳が飛んで、男は鼻から血を噴出しながら、その場に崩れ落ちた。
「無事、だな?」
「ありがとう、目は?」
趙雲は、いつもと様子の違う薄い笑いを浮かべて、わずかに頭を振って見た。
「まだぼやけている。頭痛がひどいが、戦えないほどではないな」
「男は斧を持っている。得物を奪って逃げよう」
孔明の指示通りに手探りで屈み、斧を掴んだ趙雲であるが、そこへ、燕のような早さで鋲が飛んできて、趙雲は反射的にそれを素早く斧で交わす。視界が利かないというのにたいしたものだ、と感心する間もなく、播天流があらわれた。
「どこへ行く、子龍。賊はあらかた片づけた。せっかく出立できるというのに、お前は逃げるのか」
趙雲は手探りで周囲をさぐりつつも、孔明を庇うように前に立った。そうして、顔を動かさずに小声で尋ねてくる。
「川はどっちだ?」
「わたしのちょうど後ろだ。あまり下がるな、後がない」
事実、孔明の沓は船の舳先のぎりぎりにあり、気を抜けば、たやすく落ちてしまう位置に立っている。趙雲のことだから、間抜けな真似はすまい、と信じつつ、孔明はちらりと、水上の人間の諍いも知らぬ顔の、朝陽をうけて輝く水面を見下ろした。
「泳げたよな?」
「うん?」
なんのことだ、と尋ね返すまでもなく、趙雲がこちらを振り向いたかと思うと、どんと強い力で押し飛ばされた。ふわりと、心もとない感覚が全身を包み、ほどなく、一斉に水が襲ってきた。


あの莫迦!
思わずそういいかけて、水が口腔に入ってくる。水の帳の向こうにぼやけた光が輪になって輝いている。太陽だ。孔明は仰向けになった状態で、太陽に向かって手をばたつかせたが、突然ある事実を思い出し、絶望に陥った。
そうだ、子龍は視界が回復していない。だから、手枷が取れたのはなんとなくわかったかもしれないが、足枷がそのままなのが分からなかったのだ。
手足をさらにばたつかせ、もがいてみるものの、もともと体力も乏しく、一昼夜休みなく動いていたために、水の力に対抗することができない。身にまとわり付く衣が、水草のようにまとわりついて、さらに体を縛る。
息が苦しくなってきた。冗談じゃない、こんなところで死ぬのか。
徐々に沈み行く体をひっしで励ましつつ、なおも手であがいていると、太陽の輪を打ち破るようにして、救いの手が差し伸べられた。孔明は、必死になって手を伸ばし、助け手を掴んだ。

岸に上げられ、地面に転がる砂利を掴みそして息をしたとき、孔明は、空気という者がこれほどにありがたいものだということを、初めて知った。大地で繰り広げられる惨劇をよそに、天空からそそぎこむ光は温かく、水のつめたさに震える孔明の体を包むかのようであった。
はげしく咳き込みながら、助け手を見ると、それは、自分の正面で、おなじように咳き込み、荒い息を繰り返している、じいやなのであった。
孔明は安堵した。播天流め、みんな死んだといったのは、あれはやはり、こちらをおびき寄せるための嘘だったのか。


「軍師!」
水上から声がして、見上げると、船団から、勇ましい鎧姿に身を包んだ劉琦と、その後ろで伊籍がしきりに手を振っている。海苔のように肌にまといつく髪を掻き分けつつ、孔明は応じて手を振った。その背後で、すさまじい速さで、どんどん遠ざかる播天流たちの船が見える。
伊籍は、ほかの船に、追いかけよ、と命令をし、自分たちは岸辺に船を寄せた。
孔明は、なおも咳き込み続ける黄忠の側に行き、その背をさすった。
「ありがとう、よかった、生きていてくれて。貴方にはなんと礼を述べたらよいかわからぬ」
「勿体無き仰せにございます。この爺は、生きる価値などなきものを、またも生き残ってしまいました」
「そのようなことを言わないでおくれ。貴方がもし死んでしまったら、姉と弟になんと言い訳をすればよいのだ。特に姉上はわたしを許すまい」
それを聞いて、黄忠はずぶぬれの顔を、くしゃりとさせて、笑った。
「たしかに、姉君ならば、きっと亮様を折檻なさったでしょうな。あいかわらずご健勝であられますか? 家をみごとに切り盛りされているとお伺いしましたが」
「そうだよ。姉上にも会ってほしい。きっと喜ぶだろう。ほんとうに生きていてくれてよかった」
孔明がその手を取ると、黄忠は痛みに顔をしかめて、蹲ってしまう。怪我をしたのか、と尋ねるより先に、声が降ってきた。
「たいした御仁だ。おまえを助けるために、たったひとりで城門の敵と戦いつづけたのだ。そして肩がはずれているというのに、おまえを助けるために水に飛びこんだ。その御仁、大切にしろよ、孔明」
その声に、孔明は顔を上げた。襄陽時代には、ほとんど毎日、飽きるほどに顔をあわせていた親友、崔州平の四角い顔がそこにあった。らしくもなく刀を手にし、背後には黒装束の武装した男たちを従えている。
なつかしい友の姿でもあり、初めて見る友の姿でもあった。孔明は立ち上がって、友に言う。
「州平、いいところに来た! わたしに人と馬と武器を貸してくれ! あの船を追うのだ!」
とたん、崔州平は呆れ顔で孔明を見た。
「人の話も聞かずに、いきなりそれか。変わらぬな、おまえは」
言いながら、崔州平は、ひらりと着物の袖をなびかせて、身軽に孔明のいる岸辺へと下りてくる。
「俺が何者かは、もう気づいているのではないか。それでも頭を下げるのか?」
「君の弟に会ったよ。すまなかった、崔州平」
「なにを謝る」
「長い間、わたしは君のそばにいたのに、君のことをなにひとつわかっちゃいなかった。時にずいぶん嫌な思いもさせたのではないか。それなのに、友でいてくれて、ありがとう」
すると、崔州平は皮肉げに唇をゆがめて、肩をすくめて見せた。傍から見ると、冷たく突き放したようにさえ見える仕草だが、照れ屋の崔州平が、強がるときにする仕草だということを、孔明は知っている。
「おまえのそういう、妙に素直で恥ずかしい言葉を聞くのが嫌だから、俺は黙っていたのだ。弟に会ったのならば、知っているだろう。俺は曹公に忠誠を誓った。おまえの主の不倶戴天の敵のひとりとなったのだ」
「うん、知っている」
「助けてやってもよい。だが、条件がひとつある。俺と共に、曹操のところへ行こう。徐兄もおまえを待っている。三人で手を組めば、天下統一も夢ではなかろう」
「なりませぬ、なりませぬぞ!」
と、割って入ってきたのは、鎧をまとったことで気が大きくなっているのか、興奮した様子の劉琦であった。青白い顔に、ほほだけが朱色に染まっている。
「軍師は劉予州の軍師でなくてはなりませぬ! 曹操へ寝返るなど、とんでもない!」

軍靴で岸辺の砂利を踏みしだきながら、劉琦は崔州平から孔明をかばうようにして立った。
最初は激しく睨みつけていた劉琦であるが、崔州平の顔を見て、おや、という顔をする。
「貴方は、たしか崔家の?」
「左様、お久しゅうございます、劉公子」
「貴方までも曹操の」
相手が顔見知りとしって、毒気が抜かれた様子の劉琦であるが、孔明は、劉琦の姿を見て、はっとなった。
「そうだ、花安英は?」
水を含んで重たくなっている着物の裾を邪魔に思いつつ、孔明は花安英の姿を求めて、護送車へと向かった。護送車の中には、弓を受けて針ねずみのようになっている、あわれな宦官が倒れており、そこから這い出したような形で、花安英が倒れているのが見えた。
「花安英、大丈夫か?」
助け起こしながら、孔明は、その体にまだぬくもりがあるのを感じて、ほっとした。抱き起こされつつも花安英は、孔明の声に応えるようにうめく。
「気づいたか。おまえも生きていてくれたのだな」
花安英は、傷が痛むのか、顔をしかめつつ、血の気の失せた唇を震わせて、言った。
「あんたが、あんまり、起きろ、起きろと、きゃんきゃん喚くものだから、目が覚めてしまった」
「おお、花安英! なんという姿に」
劉琦が後ろからやってきて、花安英に駆け寄っていく。その後ろを、伊籍がやってくるのが見えた。
「軍師、ご無事でなによりでございました! 申し訳ございませぬ、もうすこし早く到着するつもりでありましたが、思いついた仕掛けに夢中になりすぎまして、気づいたら朝になっておったのです。お恥ずかしい」
伊籍が指さす方向を見ると、船の目立つところに、甲冑姿の兵士がずらりと並んでいるが、よくよく見れば、それはみな藁人形なのであった。遠目からあの人形を、本物と誤認して、敵が大挙してやってきたものと勘違いし、壷中の船で、一部が混乱して反旗を翻したのである。
「素晴らしき思いつきでございましたな。お陰で命を救われ申した。この礼は、いずれ必ず」
「いえいえ、我らは軍師の策によって、活路を見い出すことができたのでございます。先ほどの戦いでも、こちらの死者はおらず、負傷者が数名いるばかり。これならば、江夏へも、自信を持って向かうことができまする」
伊籍は人の良さそうな顔に、明るい笑みを浮かべるのだが、ふっと笑みを凍らせて、崔州平のほうを見た。
「軍師、わたくしも劉公子と同じでございます。あなたさまは、劉予州の軍師でなくてはなりませぬ」
「それは、孔明がいなくなったなら、劉備がガッカリする、という程度の話ではありませんか?」
冷たく崔州平が口を挟むと、花安英を、細腕で抱き起こした劉琦が反駁した。
「そうではありませぬ。わたくしは、樊城にて生き残るために、必死で人を見る目を磨いてまいりました。腕にも学にも自信はありませぬが、人を見る目だけは、誰にも負けませぬ。孔明殿のように大人しそうに見えて、実は激しい気性をお持ちの方は、苛烈な曹操とは相容れませぬ。寛容な劉予州とのほうが、相性がよい。たとえ曹操の元に仕官したとしても、やがて曹操と反目しあい、互いに互いを潰しあう結果になりましょう」
「ほう、公子も孔明に関しては、一家言ある口ですな。しかしこうもいえるのではありませぬか。曹公の作った地盤、孔明ならば、それをそのまま引き継ぐことすらできるかも、と」
「それは順序正しいことを好まれる孔明殿の性格からして、出来ることではないでしょう。曹操の下には士人が多すぎる。孔明殿がそこに食い込まれるには時間がかかりすぎます。孔明殿の才を、何年も凡人の下でくすぶらせておくなど、それこそ罰が当たりましょう」
それを聞くと、崔州平は、声をたてて笑った。愚弄したのではなく、天晴れな意見を聞いたときに、崔州平はよくそうやって笑うのである。
「おまえの周囲には、どうしてこう、よき信奉者が集るのだろうな? どうだろう、孔明、おまえ自身はどう思っている」
「なぜわざわざ聞くのだ。分かっているだろう」
「お前自身の言葉で納得したい」
孔明は、花安英を抱きかかえる劉琦と、その傍らに立つ伊籍を見、それからいまは豆粒ほどの大きさになってしまった播天流の船を見た。
「劉公子の言葉がすべてだ。わたしは曹操の元で、何年も下積みで我慢ができるような人間じゃないんだ。それに、劉予州に命を賭けている男がいてね、その男が、本来ならば主公のために捨てねばならぬ命を、わたしを守るために費えさせようとしているのだ。わたしは命を守られたものとして、その心意気に答えねばならない」
「お言葉でございますが」
と、伊籍がいつになく険しい顔をして口を挟む。
「あえて言わせていただきましょう、軍師、趙将軍も武人なれば、斯様な覚悟も常日頃からつけておられたはず。むしろ、主人より守れと命じられた方を守りきったのでございますから、きっと満足されていることでしょう。ここはひとまず、新野にお戻りなさいませ。そうして、劉予州のご判断を仰ぐのです」
「そうかもしれない。いや、おそらく貴方の判断が正しいでしょう。ですが、わたくしはあえて、子龍を助けに参ります。曹操や、ほかの人間の軍師であれば、伊籍殿のような身の処し方をするのでしょうが、わたくしは劉玄徳の軍師。友を見捨て、おめおめと一人、城に帰るわけにはまいりませぬ」
伊籍は、ふうっ、と大きなため息をついて、嘆かわしい、というふうに首を振って見せるが、その口端には、温かい笑みが浮かんでいた。

太陽の章7へつづく
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