09年改訂版
孤月的陣
第五章 タイヨウ 太陽
④
朱季南が覗き見たところでは、男の年は五十を越えた老年で、髪は品よく白くなっており、乱れはあるものの、物腰、言葉遣い、笑い方などから、貴門の士であろうと想像がついた。
顔には笑い皺が刻まれており、温厚篤実を絵に描いたような雰囲気だ。
このような父上がいたらよいなと、戦場ばかりを駆けてきて、家族というものにとんと縁のなかった朱季南さえ、そう思った。
じっと見つめていると、男のほうが朱季南に気づいたようだ。無礼を責めるような目を向けるでもなく、やさしい、どこかいたずらっぽい目を向けて、言った。
「あなたが、このお嬢さんがたを助けてくださった好漢かね」
「いや、俺は何もしておらぬ」
実際、壷中の男の凶刃から子供を助けたのは陳到で、朱季南は、どちらかというと頭数でそこにいたようなものだ。
正直にそう言うと、男は、またも愉快そうに、ゆったりと笑った。
「子龍の友だけあって、正直でたいへんよろしい」
「子龍をご存知か」
「よく知っておるよ。十年も同じ主に仕えてきたのだからね。どうだろう、せっかくだから、貴殿も曹操の小役人など辞めてしまって、ともに劉予州にお仕えする、というのは。子龍も喜ぶと思うが」
男は、もぐらのように穴倉から顔だけを出して、にこにこ笑いながら、とんでもないことを、さらりと言った。その毒のない様子に、朱季南のほうが、かえって恐縮してしまう。
「いや、曹公には多大な恩を蒙っておる。この単独行とて、わが意を汲んで、こころよくお許しくださったもの。それを途中で投げ出したうえに、敵に寝返ることなどできぬ」
「その割には、妓楼などで阿片に溺れていたではないか」
嫦娥の呆れた声に、朱季南は苛立ちを抑えつつ、反駁した。
「妓楼にいたのは、情報をひとつでも多く得るためだ。阿片に関しては、どうも記憶がない。しこたま飲んだので、もしかしたら妓楼の主人か、あるいは妓女が、たわむれに杯に阿片を混ぜたのかもしれぬ」
「阿片は高価な媚薬だ。おまえのようにあからさまに流れ者の風体をして、金のなさそうなやつに、そんな大盤振る舞いをする者は、新野にはおらぬぞ」
「そもそも、妓楼でなくても情報は集められますわ」
と、これは女のほうが口を挟んだ。
その言葉に、嫦娥も大きくうなずく。
「公費をつかって、妓楼で遊興にふけっていた、ということがばれたなら、おまえの役人人生はそこで終わりだな」
「俺を脅すつもりか?」
うろたえる朱季南の様子に、男は、愉快そうに明るい声で笑った。
「朱季南殿、このお嬢さん方は、とびきり頭がよいのだ。並みの男なんぞ、束になっても敵わないくらいなのだよ」
言いつつ、男は穴倉の階段を上ってくる。
頭だけしか見ていなかったので、小柄な男だろうと想像していた朱季南であるが、男は意外に上背があった。しかも穏やかな風貌に見合わず、肩幅もずいぶんがっしりしており、いまもって鍛え続けていると知れる。
男は、うろたえる朱季南の手を取って、礼をとる代わりに、何度も親しげに手をやさしく揺すった。人と人の心の距離を縮めることに長けた男だな、と朱季南は思った。
「すまないがね、いまから城門へ行って、なにが起こっているのか、見に行ってくれないか。この子たちならば大丈夫。わたしが付いていよう」
なるほど、大丈夫であろうな、と握られた手の力強い感触をたしかめつつ、朱季南は思った。
外貌は、いかにも晴耕雨読を常とする隠士ふうであるが、その手には、朱季南の手にもある、弓馬の調練を続けたもの特有のマメがしっかりあった。
「ではお任せしよう。しかし、すまぬが、俺は貴殿の名を知らぬ。名も知らぬ者に、女たちを任せるわけにはいかん」
朱季南がそう言うと、男は、驚いた顔をして、嫦娥のほうを見た。
「おや、私は、最初に名乗らなかったかな?」
「名乗られておりませんわ。でも、名乗られるべきではないかと」
「いやいや、それはいかん。敵地にいる方に対して、斥候の真似事をお願いするのだから。名乗らせていただこう。わたしは左将軍中郎将、糜子仲」
「貴殿が、あの高名な糜竺さまか」
朱季南は新野の内情を知らないので、糜竺が出奔し、失踪したままだということを知らない。
朱季南が知っているのは、優柔不断な陶謙のもと、唯一、大富豪の糜一族だけは、その富裕な財産と地位を鼻にかけることもなく、民に篤くあろうとした、ということ。
そして、私財も地位もなげうって劉備に仕えた男である、ということだ。
糜竺のこの行動は、討伐軍あがりの劉玄徳という男の名をおおいに高めた。
それまで、なかなかの器だ、という噂はあったものの、劉姓でありながらその出自は低く、要領がわるいために上にあがることのできなかった劉備に、「あの泰山の糜竺が」すべてを捨てて付いていったということが、劉備の名に大きな付加価値をつけたのである。
しかも財貨だけではない。糜竺は、自分の妹までも劉備に娶せている。
惚れた漢にすべてを捨ててついていく、などという、義侠の男の理想とする生き様を、富裕な階層に属し、清廉な官吏と名高かった糜竺がやってのけたのである。
思わず、驚嘆と尊敬の入り混じったまなざしを向けると、糜竺はこそばゆそうに苦笑した。
「ただの爺だよ。それにしても名乗るのを忘れていたとは、ほんとうにいかんな、年の所為だけではあるまい。このところは、お若い軍師になにもかもお任せして、あまり頭を使ってこなかったからな」
糜竺は自分の頭をこつこつと殴って、笑った。
軍師の名が出て、はじめて朱季南は、奇妙なことに気づいた。
「しかし糜中郎将ともあろうお方が、なにゆえ、こんな廃屋の地下に隠れておられるのか?」
「なあに、ちょっとしたかくれんぼだよ。播いた種が育ちすぎてしまったので、ここで隠れて刈り入れてくれるのを待っているのだ」
嫦娥が、糜竺の言葉に口を挟んだ。
「その種を播くように教えたのは、わたくしでございます。子仲さまに、これほどのご迷惑をおかけすることになるとは」
「よいのだよ。どうしても何かしたかったのだ」
「なにがなにやら、さっぱりわからぬが、問答していてもはじまらぬ。俺は行くぞ」
首をひねりつつ、朱季南は廃屋から外へ飛び出した。
騒ぎはいまもって治まっておらず、寝静まっていた人家にも、ぽつぽつと明かりが灯されている。
その明かりを、ありがたく目印にしながら、朱季南は城門へと急いだ。
※
あとすこし。あとすこしだ。
自分を励ましながら、斐仁は、背中に徐々に広がっていく熱と、肉を引きちぎるような痛みに懸命に耐えた。
歯を食いしばり、向かい風に何度も目を瞬きながら、馬の手綱をさらにぎゅっと掴む。
夜目にも、見慣れた光景が近づいてきた。
夜明けが近くなってきているのが、鳥の羽ばたきでわかる。
黄忠、そして趙雲と別れてから一晩中馬を走らせた。普通ならば一日はかかる旅程を、必死に一晩で縮め、ひたすら樊城をめざした。
汗が流れているのは、決して疲れのためだけではない。
斐仁の背中には、何本もの鋲が突き刺さっている。立ち止まり、手当てをしている暇などなかった。それに、立ち止まれば最後、かれらは容赦なく一斉に攻撃を仕掛けてくるだろう。
斐仁は舌打ちをして、ハエのようにしつこく追いかけてくる壷中の姿を確認した。もはや、かれらは、最初のように姿は隠さず、いまは堂々と後ろを追いかけてくる。
連中め、なかなか優秀ではないか。
姿は確認したものの、斐仁は、その顔を見ようとは思わなかった。
おそらく、自分の子供とほとんど変わらない、あどけなさすら残した若者ばかりであろう。
家を留守にした隙に、風狗によって殺されてしまった、わが子たち。
自邸に出来上がっていた血の海のなかで息絶えていた子供たちの姿を思い浮かべると、怒りがこみ上げ、痛みを忘れることができた。
思い出されるのは、仕事から帰って来たおのれを、嬉しそうに迎えてくれるときの顔、寝入ったときのあどけない顔、はじめて文字を書けたとき、それを見せに来たときの顔ばかり。
斐仁は、子どもたちには武官ではなく、文官になってほしいと思っていた。自分と同じ暮らしをさせたくなかったのだ。自分の収入がつづくかぎり、最高の学問を身につけさせてやりたかった。豪族の子弟も多く通うという、司馬徳操の塾へ入れることすら考えていた。あそこは、貴門、賎門の別なく、向学心をもつ若者を受け入れてくれる、と聞いていたからだ。
孔明のことを思うと、ためらいがないわけではなかったが、みながみな、ああいう、優秀だが癖のある人物になる、というわけではあるまい。そこそこでいい、平和で、余裕のある人生を送ってほしいと考えていた。
そうして、そんなふうに子供たちの行く末を考えることが、斐仁の唯一の楽しみであった。
斐仁の身分はもともと、そう高くなかった。
兵役についたのも、お達しがあったからであって、特に志があったわけではない。もし、行かなくてもよい、といわれたなら、喜んでそうしただろう。
あえてひとつ、理由を挙げるならば、斐仁の一族はせまい家によせ集るようにして暮らしていたので、若者の斐仁には、いささか狭かった。それだけのことだ。
命令されるのは嫌いではなかったが、冒険心もなかったので、日々をひたすら言われるままに過ごした。考えて行動する、などということ自体が想像尽かない。士卒長の言うことを聞いて調練にはげみ、飯を食べ、眠り、日々を過ごした。
その凡庸さが、かえって使えると思われたのか、ほどなく、斐仁は士卒長に目をかけられるようになり、数年経ったころには、妻を得て、家を構えることができるまでになっていた。
その間に文字を教わり、算術を学んだ。この算術がおおいに役に立ち、斐仁は官品の管理を任されるようになった。
もともとの出発点が低かったために、ある程度の地位を得たときの喜びは大きかった。
生活はぎりぎりであったが、実家や親戚の家に比べれば、はるかにマシであった。羨望のまなざしで一族から見られるようになった斐仁は、さらに裕福な暮らしへの憧れを募らせていく。
かといって、斐仁は愚か者ではなかった。
自分にはとりたてて武芸の才があるわけでもなければ、策を打ち立てることもできない。凡庸で、しぶとく生き残っていたからこそ、ここまでこられたとわかっている。だが同時に、ここが限界なのだ、ということにも理解していた。
上にあがるためにはどうしたらよいか。
横流しなどのくだらない不正には興味がなかった。危うい橋を渡ったところで、稼げるのはほんの少し。コトが破綻した場合は身の破滅。それでは採算が合わない。もっと、なにか、稼げるようなことはないだろうか。
忍耐づよく機会をうかがい続け、そうして、それはやってきた。
戦乱につづく戦乱で、大地が荒れ果てているのにさらに追い討ちをかけるように、大飢饉が襲った。それまで、中原からの難民の受け入れに寛容であった荊州であるが、大飢饉となっては、人助けどころではない。領民を守るのが手一杯であった。
各地で難民が流賊化し、さまざまな被害が発生した。
ときに、それは民衆側の不満分子をも巻き込んで、暴動にまで発展することもあった。
軍が動くこともあり、そのときは斐仁も参加して、暴動の鎮圧にあたった。斐仁も、もとは暴徒側の人間であったから、かれらの気持ちが分からないでもなかったが、かといって同情はすくなかった。
むしろ、大地を荒らす原因となった、難民たちを憎んだ。自分たちの土地が住みにくくなったから、といって、なぜ人の土地へ来て、横から奪うような真似をするのだろうか。
中原の悲惨なありさま、そしてはげしく展開をつづける政治情勢を知っていたなら、斐仁の怒りもちがうところに向いたかもしれないが、情報というものは耳を傾ける者にしか集らないという特性を持っている。斐仁たちのような一般の民衆に伝えられるのは、誇張された話か耳障りのよい話ばかりであった。
難民が増え続けるであろうことは、斐仁ですら予想をつけることができた。このままだと、自分たちの蔵も空になる。城外には、救いを求める難民たちがあふれている。土地を捨てて逃げてきたかれらは、必死だ。食うか食われるか、排水の陣で向かってくるのである。
必死な相手ほど、厄介なものはない。武装していないとはいえ、かれらがやがて、黄巾賊のように結集する危険がないわけではなかった。
実際、なかには、一族郎党を引き連れて、黄巾賊の残党と結びつく者もいたのである。
生活の不安が高まったとき、豪族たち、そして劉表は、ある解決策を見い出した。
斐仁が選ばれたのは、寡黙で忠実だから、という単純な理由からだった。
選者の判断は当たっていた。
その『任務』を告げられたとき、斐仁は、いささか驚きはしたものの、反対はしなかった。いやな任務だとは思ったが、これを果たしたなら、莫大な報酬を手に入れることができる。
もっとも、口封じに殺される危険性もあったから、そうされないための防御策が必要だな、と直感した。
新野城にて、斐仁以外にあつめられた兵士たちの中に、例の爺、黄忠もいた。
黄忠とその仲間たちは、ほかの兵とは、あきらかに毛色がちがっていた。
この『任務』を命じた蔡瑁も、かれらにはふしぎと遠慮がちであったし、かれらも上を軽蔑する態度を隠そうとしなかった。
『任務』を聞いたかれらは、はげしく怒り、上をなじった。その場でよく切り伏せられないものだと、斐仁が感心したほどである。
聞けば、黄忠という男は、身分こそ低いものの、荊州一の益荒男として名を馳せたほどの武芸達者で、かずかずの功績をあげており、兵士たちのみならず、領民からも慕われている人物だという。
そんな男にまるでふさわしくない『任務』であり、そもそも、命令をした時点で、どんな反応がかえってくるかぐらいは、想像がつきそうなものであった。
蔡瑁らは、黄忠をなだめ、ときには脅しさえしたが、黄忠は態度を変えることはなかった。
しかし処刑をされることはなかった。腫れ物に触れるような扱いは最後までつづいた。
かれらに命じられた『任務』の性質をおもえば、その待遇は、破格と表現してもおかしくなかったであろう。
いま思えば、黄忠は、自分たちがごねることで、『任務』を引き伸ばすことができるかもしれないと、淡い期待を抱いていたのかもしれない。
結果からいえば、その期待は無残に裏切られた。
黄忠たちに遠慮をして、いつまでも任務を引き伸ばしておられない、と判断が下ったのだ。
黄忠らが、別の用事で新野城から出されたあいだに、『任務』は執り行われた。じつに整然と。
あえて思い出さないようにつとめていたからだろうか、『任務』の詳細を、斐仁はどうしても思い出せない。
思い出せるのは、いまは調練場となっている広場に並ぶ屍体、屍体、屍体…
さっそくどこから嗅ぎつけてきたのか、広場をちょうど見下ろせる位置にある楼閣に、びっしりと烏が止まっていて、人も鳥も、目ざといやつは目ざといのだな、と妙な感心をしたのは覚えている。
屍からは、金目の物が集められ、その監督もすべて蔡瑁が行った。
集められた装飾品などのものは、荷車に乗せられ、こっそりと売りさばかれたという話だが、斐仁は、あれは、きっと蔡瑁が着服したのだと睨んでいた。
最初に『任務』の話が持ち上がったとき、死体から金目のものを奪う、などという所業は話に出なかったし、荷車に乗せられたそれを見て、蔡瑁が、
「流民のくせに、なかなか持っていたではないか」
と喜んでいたさまが、妙に浮わついていたからだ。
新野城に帰って来た黄忠は、ことがすべて終わったことを知り、胸を叩いて激しく泣いた。
あれだけの大人数を、本気で、たった一人で救えるつもりでいたのだろうかと、斐仁は醒めて考えていた。黄忠は、蔡瑁と、そして斐仁たちをなじった。
「鬼畜外道めらが! おまえたちの所業、いまは明らかにならずとも、天はすべてを見ておる! いつかかならず、天罰が下ろうぞ! おまえたちにも、そして儂にもだ!」
斐仁はそれを聞いて、ならば、罪のない民に、そもそもの苦しみを味あわせた天こそ、滅んでしまうがよいのに、と思った。
ほどなくして、劉備が新野城に入ってきた。
斐仁はそれに先立って、劉表から秘密を守る仕事を請け負い、そうして劉備の将兵となった。
あたらしく上役になった男は、なんの因果か、あの日の烏のように、楼閣から兵士の調練をながめるのを好む、若い将軍であった。
冗談のようにすべてが整った若い将軍を、斐仁は嫌いではなかった。
暑苦しいまでに横の連帯を強調するほかの将軍とはちがって、趙雲は、あまり部将を拘束しなかった。
陳到のように、働いているよりも、趙雲のとなりで噂話をしている時間の方が長いような男が重宝されている部隊だ。
斐仁が面倒な工作をする必要もなく、斐仁は目立たないでいられた。
もしほかの将軍の部将であったら、また違ったことであろう。
穏やかな七年間を過ごせたのも、趙雲の配下でいられたからだ。
家族の姿、そして陳到をはじめとする同輩たちの姿、趙雲や劉備などの上役たちの姿が過る。
新野は仮住まいだと思っていた。いつか、この不吉な土地から離れるのだと思っていた。
それでも、過ごした七年の歳月は重かった。
篝火にぼんやりと浮かぶ新野城の姿を見たとき、斐仁は、帰って来たのだと安堵した。
もはや、笑顔で出迎えてくれる家族たちは誰もいない。同輩たちも、自分が劉琦の部下を殺したと勘違いしているだろう。
あそこまで、あそこまでたどり着いたなら、壷中は追ってこない。
斐仁は、自分を追い続けていた壷中のほうをちらりと振り返った。
かれらはあきらかに、自分たちの姿を他者に見られることを嫌がっている。
何度か最後の攻撃、といわんばかりに鋲を投げられたが、斐仁は必死でそれを避けた。
かつての仲間たちは、自分を捕らえこそすれ、いきなり殺しはしないはずだ。
死ぬことはできない。死んでしまったら、哀れな家族たちの仇は誰が取るというのだ?
自分の姿を見つけたらしい、門衛たちが騒ぎ始めている。
ふたたび壷中を振り返ると、かれらがゆっくりと馬足をゆるめ、斐仁から離れていくのが見えた。
助かったのだ。そう安堵する斐仁の頭上から、声が降りてくる。
「斐仁! この裏切り者めが! よくもおめおめとこの新野に戻ってきたな!」
ちがう、趙将軍の、と叫ぶより早く、暗闇を制圧するかのような重い声が、ふたたび響いた。
「矢を射かけよ!」
斐仁はとっさに剣を抜いたが、間に合わなかった。矢の雨が闇の中を降り注ぎ、何本かが体を射抜いた。
馬上から落ちていく斐仁の目に、しらじらと明け染める東の空が見えた。
声にならない心のかぎりの呪詛を、斐仁は天に向かって放った。
天よ、滅びてしまうがよい、と。
※
陳到と関羽が駆けつけたとき、すでに先に糜芳が門衛を指揮していた。
陳到はすぐさま、最悪の状況を予感した。糜芳は後先をまるで考えない男である。下心こそないものの、状況を読めずに判断を誤る。兄の糜竺とは、まるで出来のちがう短慮者なのだ。
「糜芳! なんの騒ぎだ!」
関羽が大音声で呼ばわると、糜芳は弓を手に、得意そうに城壁から降りてくる。逆に、陳到と関羽は馬から下り、階段を上っていく。
「賊を、我が弓で射殺してやったのだ!」
弓が当たったことで喜びの興奮が隠せないらしく、糜芳は息も荒くそう言った。
「賊とは、だれのことだ? まさか、子龍ではあるまいな?」
糜芳が答えるのを待たず、陳到は城壁を駆け上がり、篝火に照らされた門前を見下ろした。そこには、汗だくになったまま、それでも乗り手から離れないでいる軍馬と、矢の突き刺さったまま身を横たえる斐仁の姿があった。
「開門! 開門だ!」
陳到が叫ぶと、糜芳はいきり立ち、陳到に詰め寄る。
「趙子龍の副将ごときに、門を開ける権限はないぞ!」
「だまれ、この浅慮者めが! 劉公子の腹心を殺し、牢に繋がれていた男が、自由になったところで、裏切ったはずの新野に戻ると思うか? いいから、そこをどけ! 貴公は、取り返しのつかないことをしたのだ!」
「なんだと?」
顔を険しくする糜芳を押しのけるようにして、陳到はふたたび叫んだ。
「開門せよ! 斐仁を助けるのだ! さもなくば、斐仁を射掛けた者を罪に問う!」
糜芳とともに弓を手にした者たちは、陳到の言葉に仰天して、あわてて門を開けに行った。陳到もそれに続こうとしたが、糜芳に強く肩を掴まれた。
「待て! 叔至、貴様、なんの権限があってこのような真似を!」
「権限だと? そんな言い争いをしている場合か? どこまで愚かなのだ、貴公は!」
「権限ならば、儂が与える」
九尺を超える身の丈の関羽は、重々しく糜芳を見下ろして告げた。言葉がつまった糜芳をひと睨みしてから、関羽は戸惑う兵卒たちに命じた。
「開門!」
関羽の言葉の効果はてきめんで、兵卒たちは、すぐさま命令を実行した。しかし、そのわずかな時間もじれったく、陳到は、門が開くや否や、一番に飛び出して、斐仁に近づいた。
斐仁は、かっと目を開いたまま、激しく息をしている。まだ生きているのだ。
だが、辛うじて繋がっているその命も、じきに費えてしまうであろうことは、すぐに予想が付いた。弓はご丁寧にも腹を深々と射抜いていたからだ。背中からも血がにじんでおり、ゆっくり横にさせると、背中にも鋲が突き刺さっていた。落馬した瞬間に、さらに地面に落ちた衝撃で、深く突き刺さったらしい。
あの莫迦将軍、と心の中で悪態をつき、陳到は斐仁の傷を労わりながら、呼びかけた。
「斐仁、わたしだ、わかるか? 陳叔至だ」
斐仁は、答える代わりに瞬きをした。意識はハッキリしているらしい。
「なぜおまえだけが樊城より戻ってきた? 趙将軍と軍師はどうなされた?」
「軍師、は」
「どうした」
「樊城に捕らわれ、しょう、ぐんが、樊城にもどり」
「どういうことだ? 軍師が虜になったというのか? なぜ?」
「こ、ちゅう」
「壷中がなんだと? おい?」
しかし、斐仁は、それ以上は答えられなかった。息はあるものの、もう声を出すことができなかったのである。陳到にわかったのは、孔明が樊城の壷中に捕らわれた、それを趙雲が取り戻しに行った(?)という奇怪な状況だけである。
なにが起こっているのだ。情報が足りなさ過ぎる。どう動けばいいのだろう。
またもや壷中。壷中とは?
虫の息の斐仁を見下ろしつつ、陳到は智恵をめぐらせた。
かつての同僚であるから、それなりの同情はあるが、いまは先に考えねばならぬことがある。
壷中のことを知っているのは、捕らえた人買いの女だ。やはり、拷問にかけて口を割らせるしかないのか?
いや、いるではないか、もう一人。
「叔至、どうだ、様子は?」
関羽が、のしのしと近づいてくる。呼吸の荒くなってきた斐仁の手当てを部下たちにまかせ、陳到は関羽に言った。
「将軍、開門をお願いいたしましたついでに、もうひとつ、お力をお借りしたいのですが」
「うむ?」
「民に向けて、兵卒たちにこう叫ばせてください。『樊城から戻った者が瀕死である。壷中の医者を捜している、屯所に出頭するように』と」
「壷中の? 出てくるか?」
「いいえ、壷中に属する医者、という意味ではありませぬが、相手に自分を捜しているのだと伝わればよいのです」
「うむ、わかった」
短く答えると、関羽はすぐさま踵を返し、兵卒たちに陳到の命令を下している。ひとたび信頼できると見込んだら、なにも理由を聞かずに動いてくれる。関羽という男はそういう男である。
その背中に、陳到は深々と礼を取った。
※
狂ったようにうるさい蝉の声で目が覚めた。
蝉の命はたったの数日。
自分が生きて、たしかに大地にいたことを誰かに知らせたいがために、あんなふうに鳴きつづけているのだと教えてもらったことがある。
誰であったか忘れてしまったが、数日しか命がないというのなら、自分はどうするかなと考えたことは覚えている。
だれにでも天寿はあるが、それがもし決められていたら、人はもっと真摯に生きるだろうか。
それとももっと残酷になって、短い間に、おのれの欲望を満たそうと躍起になるだろうか。
体じゅうが重くて、どこが痛むのかがわからない。
耳鳴りのつづく耳朶のむこうから、姉の声が聞こえた。よかった、聾唖にならずに済んだらしい。
姉はかなり怒っているようだ。それをばあやが宥めているのが会話でわかった。
今回は特に殴られたからな。
いままでは、どこか子犬のじゃれあいにも似た喧嘩であった。
中には興奮して、限度を知らずに殴ってくる者もいたけれど、今日のは、はっきりとちがった。だれの目にも、あきらかな殺意があった。
やつらは人を卑きょう者、と言った。
一人に対し、いつまでも大人数で仕掛けてくるのは卑怯といわないのか、と言い返したのが、火に油だったらしい。
四方八方から手だの足だのが出てきて、いま、生きているのが不思議なくらいだ。途中で何度か気絶したから、さすがにこれは危険だと思ったのだろうか。
均がそっと部屋に入ってきて、わたしの顔を覗いていく。
泣きそうな顔をしているが、これはいつものことで、姉が怒っているときは、この弟はいつもこういう顔をする。均は、水差しでわたしの口に水を含ませてくれて、ちらりと姉のほうを気にしながら、言った。
「兄上、気づかれましたか」
「うん。記憶にないのだが、わたしはどうやって家に帰って来たのだろう」
「私塾のお友だちが、担いできてくださったのですよ。崔州平とかいう」
崔州平の顔には見覚えがあった。
いくらか年上の、四角い顔をした男だ。いかにも品のよいお坊ちゃまといった感じで、どこか取っ付きが悪かった。特定のだれかと仲良くすることもなく、勉学にさほど気合を入れているふうでもない。
どこか付き合いでその場にいるような雰囲気のある、不思議な男だった。
友だちだといえるほど、言葉を交わしてない。
そうだ、殴られてそのまま放置されていたときに、だれかに助けを求めたのだっけ。あれは崔州平だった、気がする。どうやら想像していたより、ずっといい男らしい。
身じろぎすると、痛みはするものの、起き上がれないほどではなかった。
幸い、というべきか。足は折られていないようだ。呼吸するたびに胸が痛むので、肋骨あたりは折られたかもしれないが。
「動いてはなりませぬ。診た手では、あばら骨にひびが入っているそうです。それにあちこち痣だらけです。死人のように見えますよ」
「おまえは、さりげなくきついな。しかし、姉上は、なにをそう怒っておられるのだ?」
「喧嘩は二度としないと約束したのに、それを破った兄上を、この際だから勘当してしまおうと仰っておいでです」
「勘当か。それは困るな」
行くあてがない。
友達がいない、ということは、こういうときに困る。
「なんだか呑気にしてらっしゃいますが、聞きましたよ、いじめっ子の先輩方の借金の債権を、ぜんぶ買い取って、取立人の真似事をなさったとか。
ああいうことは、やくざ者のすることです。兄上のような青瓢箪にできることではありません」
「悪かった、心の底から反省しているとも。ところで、青瓢箪の弟で、やっぱり青瓢箪、あいつらは追ってくる気配はないか」
「あるわけないでしょう、この大たわけ者!」
姉が、足音もあらあらしく部屋に入ってきた。
ばあやが寝台に横たわるわたしと、姉を交互に見ながら、あとにしましょう、あとにしましょうと必死になっている。
姉や弟がどんなに怒っても、いつものことだと思っていられたが、ばあやが悲しそうな顔をしているのには、さすがにこたえた。
腹違いの姉は、弟の自分の目から見ても、美しい方だと思う。怒った顔がいちばん美しいと思うのだが、だからといってわざと怒らせているのではない。
「おまえは、本当にたわけです! 自分の身に降りかかった火の粉は、自分で払いなさいと、姉は口を酸っぱくしてそう言ったのに、どうして守らなかったのですか!」
「払ったつもりだったのですが」
「お黙りなさい! 火の粉は払われるどころか、他の方に飛び火したのですよ! お友だちにまでご迷惑をおかけするなんて、恥を知りなさい、恥を! 莫迦!」
「莫迦です」
「開き直るでない!」
「姉上、飛び火というのは、どういうことでございますか」
わたしが尋ねると、姉はまあ、と驚いて、寝台の傍らに座ると、耳をぎゅっ、と引っ張って言った。
「よくお聞きなさい、たわけ者。おまえのしでかした不始末を、お友だちが引き受けてくださったのですよ。
借金の期日はいままでどおりということで、おまえをこんなふうにした方たちに話をつけに行ってくださっているのです」
おかしいな。そんな親切な友達に記憶がないのだが。その前に、友達がいない。わたしをここまで担いでくれたという崔州平が、物のついでにそこまでしてくれたのだろうか。
「わたしの友達の名は、崔州平ですか?」
「ますます呆れたこと!」
言って、姉上は、さらにわたしの耳朶をつよく引っ張った。
「よくお聞き。その方の名は徐元直殿です! まったく、ほうぼうにご迷惑をかけて、よく反省なさい!」
「徐元直?」
たしかこのあいだ、やっぱり殴られて小川で顔を冷しているときに、布巾を絞るのを手伝ってくれた男だ。
着ているものはボロだけれど、洒落た着こなしをした男で、たしか以前に剣客で、故郷で仇討ちを手伝ったがために、おたずねものになっているという変わり者だ。
背が高いうえに吊り気味の目に力があり、粋がっていてもどこか田舎くささの抜けないほかの門弟たちとは、あきらかに毛色がちがう、そう、本物の雰囲気があった。
顔を冷してくれたときに、名前のことを誉めてくれた。
そうだ、こんなことも言っていなかったか。
「いかに優れた素質をもっていようと、それを生かすことができるかは、おのれの修練によるものだろう。連中とおなじ枠におさまって、いちいち相手にしているのは利巧なやり方かな。
おまえ、いまのままでは、おのれでおのれを駄目にしてしまうぞ」
言葉の通りになりかけたわけだ。
そういえば、崔州平に担がれたあと、おぼろげにだが、徐庶がなにか言っていなかったか。あとは任せろとかなんとか。
おたずねものが、ここで面倒を起こしたら、どうなるか。