09年改訂版

孤月的陣
第五章 タイヨウ  太陽

「時間を稼ぐ。子龍、あとから来い」
どうする、と問いかける間もなく、孔明はすっくと立ち上がると、大音声で呼ばわった。
「見るがいい、賊徒どもよ! 諸葛孔明はここにおる!」
趙雲も自ら立とうとすると、孔明の手が伸びてきて、立ち上がろうとする肩をつよく制した。
そして、孔明のささやきが、頭上から降りてくる。
「よいか、鍵があるはずだ。自身が逃げるための隠し扉の鍵だ。おそらく劉州牧自身が持っているにちがいない。それを探り、まずは単独でこの部屋より出よ」
そうして、立ったまま、孔明は、目線だけを趙雲に送って、不敵な笑みを投げてよこした。
「待っている」
「すぐ行く」
孔明は、堂々と、寝台をまわって、部屋の外へと歩いていく。
見た目は華奢なくせに、この度胸はたいしたものだ。
趙雲は思わず笑みを浮かべつつ、播天流たちの気が孔明に逸れているうちに、そっと寝台の上に横たわる劉表から布団をはぎ、その体のどこかにあるであろう鍵を探った。
阿片に侵された男の体の、異常にやせ細り、皮膚が不健康に変色し、爛れ、あちこちに発疹のできた不潔な体に我慢しながら、もしも自分がこいつならば、どこに隠すだろうと思いながら、素早く体を探った。
乱暴にはぐった衣服から、ちいさな金属音が聞こえた。
趙雲は、表を気にしながら、床に滑り落ちた衣服を探る。
すると、襟元に縫いこめるようにして、ちいさな鍵があらわれた。

部屋の表では、孔明が、まるで押し売りを追い払う家人のような応対ぶりで、播天流らと丁丁発止のやり取りをしているのが見えた。
「待っていろ」
ちいさく呟いて、趙雲は、孔明が探り当てた、そこだけ音が違うという床を探った。
床板の木目のように見せかけた鍵穴はすぐに見つかり、趙雲は、そこに鍵を差し込んだ。
しかし、合わない。
たしかに、鍵穴は大きく、鍵はそれに見合わぬほど小さかった。
ほかの鍵か?
念のためと、さらに深く鍵を差し入れて、ぞっと肝を冷した。
鍵は、鍵穴に吸い込まれるようにして落ちてしまったのである。
この期に及んで、なんという失態か。
鍵を拾い上げようにも、器具がないのだ。
懸命に焦りをおさえつつ、趙雲は屈んで、指を鍵穴につっこみ、それを掘り出そうとした。
しかし鍵は、穴の奥深くにあって、もう届くことはない。
これでは、本物の鍵が見つかったとしても、先に紛れ込んでしまった鍵が邪魔をして、その機能は果たせないだろう。
どうする? このまま、正面から飛び出して、突破するか?
しかしそうなった場合、孔明の性格から考えて、蔡瑁のことはともかく、花安英を捨てていく、ということはできなかろう。
となると、二人をかかえて飛び出すとして、相手は播天流。
まして孔明は戦力としては弱く、花安英もまともに歩ける状態ではない。
一人で逃げるのならば、なんとかなる。だが、そんな可能性は、考えるまでもないことだ。
やつの狙いが、俺だというのなら。

趙雲は覚悟を決めると、立ち上がった。
せっかくここまで粘ったのだが、もはや仕方あるまい。
が、立ち上がると同時に、足元にかすかな振動をおぼえた。おどろいて、床を見る。
なにか、かちかちと木枠の動く音が聞こえる。
あわててふたたび屈むと、床をなぞるようにして、振動を探った。
なにか仕掛けがあり、動いているようだ。どのようなからくりかはわからないが、隠し扉が開くかもしれない。
そうして、期待しつつ待っていると、がこん、と、気まずくなるほどに大きな音がした。
見ると、寝室の壁の、板の一枚が、ひっくり返ったように、外に向かって開いており、ちょうど欄干の高さに引っかかっている。

これを作ったヤツは、莫迦だ。

しかし見ると、幸いなことに、孔明に気をとられた播天流たちは、この仕掛けの大きな音に気づかなかったようである。
城内が混乱し、さまざまな音があふれているために、意外に音が響かなかったのだろう。
趙雲は、隠し扉をくぐって、外に出た。
ちょうど、播天流の部下たちが、こちらに背を向けている。
趙雲は弓をつがえると、その背中めがけて矢を射掛けた。命中を確かめるまでもなく、つづいて弓を引き絞る。二人目も倒れる。
ようやく、播天流たちは、襲撃に気づいたようだ。動きが慌しくなる。
しかし趙雲は、播天流の部下たちを、ひとり、また一人と弓で片づけていった。
だが、いままで対峙してきた樊城の兵卒と、かれらは一味ちがった。
矢で狙っても、かわす者がいる。動きが早い。播天流の手によって育てられた兵卒らしい、機敏さだ。
播天流は、俊敏に動き回る部下たちが壁になって、狙うことができない。

ふいに、兵卒のひとりが、床に転がっていた花安英の姿を乱暴に引き上げて、おのれの盾に使った。
思わず趙雲の手が止まる。
「卑怯者!」
孔明は、戸口から飛び出し、意外な力強さをみせて、兵卒の手から花安英の体を奪い返した。
いや、彼らにとって、もともと花安英はどうなってもよかったのだろう。
花安英を助け起こそうとする孔明の咽喉元に、白刃が突きたてられる。
その刃を振るう男は、この場に似合わないほど、嬉しそうに笑った。
「久しぶりだな、子龍」
よほど感極まっているのか、その声が裏返っている。

趙雲は、ようやくなんの障害もなく、目の前にあらわれた男にむけて、まっすぐ弓を構えた。
播天流は、不気味なほど優しく、言った。
「おまえに、その弓は引けない」
いまいましいが、そのとおりだ。
孔明が、目の前の刃と、趙雲を交互に見て、開きかけた口を閉ざす。
勘のいいやつだ。いまここで、下手になにか口を挟んだら、播天流はなにをするかわからない。

播天流は、孔明を部下たちにまかせると、床に転がる、まだ温かさの残る部下たちの屍を、まるで石を転がすように、蹴り、趙雲の前に立つ。
趙雲は弓を構えるのをやめなかった。
まっすぐと、ひさしぶりに見る顔を、とっくりと眺める。
狂気が人を若くさせるのだろうか。
隻腕になった播天流であるが、髪に白いものが多く混じっているという以外には、さほど記憶とかわりがなかった。
双眸に浮かぶのは、ほとばしるような激しい妬み。
いや、もしかしたら、薊にいる以前から、すでにこの男は狂気の兆しを見せていたのかもしれない。
それを、若かったから、見抜けなかったのかもしれない。

播天流は、趙雲を細目で眺めると、言った。
「あいかわらず、人殺しが巧いな」
「『人殺し』か。おまえは、おまえ以外のものを人などとは思ってなかろう」
「思っておるよ。おまえよりは」
挑発に乗るつもりはない。趙雲は、自分の気を落ち着かせるため、息をととのえ、ふたたびまなじりをつよくして、播天流を睨む。
「おまえは、いったいなにが目的なのだ? おまえを裏で操っている者の名は?」
「聞いてどうする。冥土の土産にでもするつもりかね。だが、おまえは殺さぬよ、子龍。おまえの変わりに死ぬのは」
と、播天流は、不意に振り向くと、孔明めがけて白刃を大きく振り下ろした。
「やめろ!」
趙雲は弓を放し、叫んだ。
刃は振り下ろされず、趙雲のほうを向いて、花安英を抱えて屈んでいる格好になっている孔明の、左頬を軽く切っただけであった。
弓を手放した趙雲に振り返り、播天流は声をたてて、笑う。
「まるで人が変わったようだな、子龍。むかしのおまえは、誰が人質にとられようと、その弓を引いたであろうに」
「いいや、子龍は昔から、誰が人質に取られようと、弓を捨てたであろう」
切れた頬から流れる血にもかまわず、孔明が播天流に反駁する。播天流は、つめたい眼差しを孔明に向けた。
「貴殿になにがわかっているというのだね、軍師。貴殿は、子龍と知り合って、まだ二ヶ月にも満たない。それで聞いたふうな口を利くのはやめたまえ」
それを聞くと、孔明は唇をゆがませて、笑った。
「まるで、好いた女子を、どちらがよく知っているか、競争しているようだな。だが、人を知るのに、時間は関係あるか? おまえのように、十年以上も子龍の人物を見誤った例もある。
おまえは、趙子龍という少年の幻像を勝手につくりあげ、それを勝手に憎んでいただけに過ぎぬ」
「減らず口だな」
播天流は、剣をしまうと、やおら孔明に向き直り、その横っ面を拳で殴り倒した。
孔明はそのまま、花安英に折り重なるようにして倒れ、動かなくなってしまった。

血が冷えた。
怒りのあまり、沸き立つのを超えて、血が冷えてしまったのだ。
趙雲は、おのれの拳をつよく握って、そこに血が通い、熱があるかを確かめた。怒りが、熱という熱を去らせてしまったかのような錯覚をおぼえたのだ。こめかみが、はげしく鼓動をしている。

播天流の姿が、ゆっくりとこちらを向く。
こいつだけは、かならず始末する。
孔明は、倒れたまま、わずかに呻いて、身じろぎをしている。
「さて、ここで決着をつけてやってもよいが、しかし樊城がこの有り様になってしまったので、いささか予定が狂ってしまった。
子龍、おまえには、しばらく捕らわれ人になってもらうぞ」
「俺をどこへ連れて行くつもりだ」
趙雲は、すこしだけ安堵した。
自分を連れて行く、というからには、孔明を人質として使うということであり、すぐには殺さない、ということだろう。
「そのうちにわかる」
そう言うと、播天流は、にやりと歯を見せて笑った。
完全に狂った者のそれであった。






陳到は、これは下手をすると、今晩どころか、明日も家に帰れないであろう、と覚悟をきめていた。
陳到が市井で捕らえた『壷中』の女は、嫦娥と名乗る女の智恵をかりて、城の女のなかでも、気丈で賢い者を選び、さっそく取調べがおこなわせたが、女はなにも言わなかった。
人買いにつながる女が捕らえられた、というので、なかば興味本位で、武将たちがあらわれては、女の様子を見にやってくる。
張飛などは、
「なかなか美形だってのに、もったいねぇ」
と軽口を叩き、それでも女には優しい男なので、あんまり痛めつけるなよ、といって去っていった。
糜芳は、兄の失踪と、自分と『壷中』との関連を晴らしたい一念で、女をさっそく拷問にかけるべきだといって、あやうく陳到の制止を待たずに、拷問吏のところへ引っ立てようとさえした。
もしかしたら、拷問の末に、女は口を割るかもしれない。
しかし、女の、深い憎悪のまなざしを見たときに、陳到は、
『この女は、最初から死ぬつもりであるのだ』
と直感した。
いかなる拷問を受けたところで、この女はしゃべるまい。
むしろ、殉教者のように進んで責めを受け、死んでいくことだろう。
新野を混乱させるために、敵から派遣された細作とは、どうも毛色がちがう。

どうしたものか。

陳到が困り果てているところへ、思いもかけず、今朝方、孔明の指示で放ったばかりの間諜が戻ってきた。
「早すぎるな」
陳到が言うと、間諜の男は、ひどく傷ついたような顔をしたが、すぐにその表情を引っ込めて、苦笑いを浮かべた。
「おそらく、そう仰るであろうと思っておりました。じつは、陳将軍より指示がある以前に、一部の豪族たちの動きに不審な点がございまして、われらも動向を見張っておったのです」
「なるほど。して、不審な点、とは?」
陳到が尋ねると、間謀の男は、周囲をちらりと気にして、暗にここでは話せない、と目で訴えてきた。

陳到は、合点すると、女の尋問の監督を部下たちにまかせて、人気のない、城壁の上へ行った。
そこからだと、新野の街が一望できる。
夜の帳にひっそりと静まりかえったなかに、ちらちらと蛍の光のようにまたたいているのは、兵卒たちのもつ篝火であろう。
趙雲と孔明は、この城壁に並んで、よく話をしていた。
ここだと、邪魔が入ることも少なく、見晴らしがよいので、かえって外界を意識するので、内に籠もった話に展開しないから、ちょうどよいのだ、と孔明は言っていた。
陳到は、自分をはるかに上回る変わり者の若者二人が好きだったので、かれらが樊城で無事だとよいが、と思う。
樊城と斐仁をめぐる今回の騒動は、なにか得体の知れない気味悪さまとわりついている。謎が多すぎるのだ。
ひとつ解明すれば、またひとつ謎が生じる。
孔明の言いつけどおり、陳到は、昼間、嫌がる部将たちを指揮して、斐仁の管理していた東の蔵を、徹底して調べ上げた。
床板も外したし、壁も壊せるところは壊し、官給品の流通に、不明点がないかどうかも徹底して調べた。
なにか出てくるだろうと予想していた。
ついこの間、張飛が東の蔵の床下から死体を見つけたが、それ以上のものが出てくるだろうと思っていた。
そうでなければ、兵卒たちが揃いも揃って、東の蔵には、なにかあるのではと、怯える理由がわからない。
陳到も、なぜに、無人の東の蔵で、誰かに見られているような、えたいの知れない悪寒を感じるのか、その理由を知りたかったし、今回の調査で、それが明らかになるだろうと期待もしていた。
なのに、なにも出てこなかった。

風がぴゅうと吹きすさぶ。
初夏とは思えぬ夜風の冷たさに、身震いしつつ、陳到は間謀の男にうながした。
「人に聞かれてはまずい事柄、というのだな」
「左様でございます。じつは、これだけ早く調査が終わりましたのも、以前から、豪族たちにそれぞれ細作をつけていたからなのでございます」
「軍師の命か。抜け目のないことだ」
陳到がおどろいて言うと、男は、まるで自分の采配を言われたかのように、恥じて、言った。
「恐れ入ります」
「うむ、恐れ入ったぞ。で?」
「はい。豪族どもの動きが、ここ数日のあいだ、はげしくなっております。
奇妙なことではございますが、豪族どもの動きが怪しくなったのは、樊城にて斐仁が劉公子のご学友を暗殺した日からでございます」
「ふむ」
「どうも、豪族たちの一部は、樊城を見捨て、ある一派と行動をともにしているようなのです。
豪族どもの屋敷に、ここ数日のあいだに、何度も若者が出入りしております。
書生や商人を装って出入りをしておりますが、あの隙のない身のこなしは、まちがいなく細作のものでございましょう」
「それは曹操や江東、あるいは益州の細作、ということか?」
「まだ細かいところまで詰められてはおりませぬが、どうも中原の勢力と繋がっているらしいのです。
中原といえば曹操。しかし曹操の手の者と、そやつらは連動しておりませぬ」
「ふむ? 曹公とは別個の一派がいる、というわけか」

しかし、中原は曹操によってほぼ制圧されている。
曹操の監視下において、さらに別行動を取れる一派というのは、なんだ?

「豪族たちは、曹操の南下の報を聞き、一家を桐柏山のふもと、義陽に避難させている様子です」
「ほう? 義陽なんぞに、砦があるわけでもなし、山篭りでもするつもりなのか?」
「豪族たちの一家を引き受けているのが、土地の豪族の胡家なのです」
「胡家? ふむ、あまり新野では馴染みのない家だな」
「胡家には噂がございまして、妻が二人いたのですが、最初の妻は、盗賊たちに襲われて亡くなったということになっております。しかし、土地の者にいわせれば、それは胡家のあるじが体裁をととのえるために、みなに嘘をついているのだと。ほんとうは、最初の妻は、駆け落ちをしたというのです」
「ほう」
女房に捨てられた亭主。なんとも気の毒な、と陳到は思った。
こういった男女間の、どろどろの噂話は大好きであるが、時が時だけに、くわしく聞いていられないのが、惜しいところである。
「胡家を飛び出した女の相手、というのが、蔡将軍(蔡瑁)らしいということでございます」
「ほう?」
「ここからが本題となります。
胡家の妻女が、蔡瑁のもとへ走ったのところまではつかめているのですが、蔡瑁についていった、その後の消息が知れませぬ。
おりよく、我が部下が、当時、胡家にて下働をしていた者が新野にいることを探し当てまして、駆け落ちをした女の特長を聞き出しましたところ、その女と、蔡夫人の特長が、非常に似通っている、いいえ、ずばり申し上げますと、同一人物なのではないかと、はっきり言ったのでございます」
「なんだと?」
さすがに予想していなかった話の展開に、陳到の声が裏返った。
「まことか。つまり、蔡夫人というのは、蔡瑁の妹などではなく、愛人だと」
「それだけではございませぬ。胡家は、以前は羽振りのよろしくない、没落寸前の家であったのが、ここ数年は、急に身代が持ちなおり、どころか金遣いが派手になったということでございます。
土地の者の噂では、胡家の長子が樊城へ遊学に出てからのことだと。駆け落ちしたという妻女も、その妻女の生んだ長子も、ともに土地の者のあいだでは、知らぬ者のないほどの美貌であったとか。
胡家のあるじの評判はすこぶる悪く、金ならば、妻子とて平然と売り渡す男のようでございます。
土地の者はみな、胡家のあるじは、妻子を樊城に売って、なにがしかの見返りを受けているのではないかと、噂しあっているとか」
「なんともはや、怖気の出る話だな」
「一癖も二癖もある荊州の豪族どもが、こぞって胡家などという、取るに足らぬ家の言いなりになっているのは、不自然でございます。
もしや、軍師がおっしゃる『壷中』というものが、胡家の背後にいるのではないでしょうか」
「豪族どもの家に曹公とは別に動く一派の細作が出入りしている、豪族どもが義陽に集まっている。その指示を出しているのが義陽の胡家。義陽の胡家には妻女にまつわる悪い噂がある。曹操とは別の勢力を母体にする、なぞの組織が『壷中』だとすると、義陽の胡家とは蔡将軍をとおして、その組織とつながりがあるかもしれぬ、と。ふむ、筋は通るが」

考え込む陳到のもとへ、山のような威厳のある巨体を揺らしつつ、ゆったりとした足取りで、関羽が近づいてきた。
関羽は、新野じゅうの人間から敬われる男だ。
独特の重厚な雰囲気を持っており、その場にいるだけで、周囲の空気が引き締まる。
陳到と間謀の男は、関羽に深々と礼をした。関羽は重々しく口を開く。
「叔至、人買いの手先を捕らえたと聞いた。なにか吐いたか」
「申し訳ございませぬ。いまのところは何も」
ふむ、と低い響きをもつ声でつぶやき、関羽は自慢の髯をゆっくりと撫ぜた。
「拷問にはかけたか」
「いいえ。それはまだ。あくまでわたくしの印象でございますが、もしあの女を拷問にかけたとしても、何も吐くことはなかろうと思われます。むしろ、喜んで責めを受け、死を選ぶことでしょう」
陳到の言葉に、関羽は目を細める。
「おまえは、いまはそのように平凡な男の皮をかぶっておるが、かつては袁紹の元で、間牒を束ねる仕事をしていた男だ。そのおまえが判断したのであるから、まちがいなかろう」
「恐縮でございます。どうも、あの女からは、なつかしい匂いがいたします」
「なつかしい?」
陳到は、日ごろの平凡な一兵卒の顔を捨て、鋭い鷹のような目を持つ、武芸者の顔になって、肯いた。
「はい。以前に袁紹が使役していた者たちに、あの女は、よく似ているような気がするのです。
その者たちは、仲間を互いに兄弟と呼び合い、深い絆で結ばれておりますが、同時に互いにつよい猜疑心を持っております。
かれらは敵に捕縛されても、けっして口を割りませんが、それは、口を割れば、仲間が報復のためにおのれを殺しにやってくると知っているからなのです」
「仲間を助けるのではなく、殺しにくる、と?」
「左様。その恐怖があるために、かれらは口をぴったりと閉ざします。しかも、かれらが口を閉ざす理由はそれだけではございません。かれらは、元締めと呼ばれる者に、かならず家族を人質に取られるのです。
ですから、その者たちはいっそう、懸命に命令をこなすようになります」
「ふむ。おまえは、あの女が中原からやって来たと申すのか?」
陳到は、かたわらに控えている間謀の男と、ちらりと視線を交し合った。
「まだわかりませぬが、公孫瓚からはじまって、袁紹、曹操…あるいはほかの者へと、主を変えながらも、組織を営んできた連中の仲間かと」

「公孫瓚か」

関羽はその名をつぶやき、気むずかしい顔を、さらにゆがめる。
公孫瓚は、かつて劉備とは同門で学問を学ぶ兄弟子であった。陳到は、その当時のことを知らなかったが、まだ旗揚げをしたばかりで領土を持たなかった劉備は、公孫瓚に厚遇されて、食客として働いていた時期があったようだ。
そのときに彼らは、まだ公孫?率いる白馬義従の一員であった趙雲と知り合い…

と、そこまで考えて、陳到も関羽も、同時に奇妙な接点に気づいたようであった。
「公孫瓚とくれば、子龍だな。そして子龍の部下が劉琦の部下を暗殺した」
「お待ちを。もしや、趙将軍をお疑いなのでは? 趙将軍は、こたびの騒動にかかわりはございませぬ。もし趙将軍が、なにがしかの後ろ暗いところに手を染めているのであれば、わたくしが気づきます」
陳到の言葉に、関羽はあきれたように、目を見開く。
「わかっておるとも。おまえこそ、わしを疑うか、叔至。子龍が、そのようなこそこそした真似をするものか。しかし、偶然であろうか」
関羽がつぶやくと同時に、新野の城門のあたりで、篝火がいっせいに揺らめき、兵卒たちが叫んでいる声が、夜風にのって届いてきた。
その声は、とぎれとぎれに、陳到の耳にこう届いた。

「斐仁だ! 裏切り者の斐仁が、樊城から帰ってきた」






部屋には、嫦娥と、新野城で働く女が話し込んでおり、隅っこには、嫦娥のうわぎに包まるようにして、あどけない寝顔を見せる少年の姿がある。
女たちは卓を囲んで話し込んでおり、嫦娥が男物を身にまとっていなかったなら、仲良し同士がおしゃべりに興じている、ありきたりな光景にしか見えなかった
ことだろう。
生活の気配のない殺風景な部屋のなか、朱季南はひとり、つくねんと取り残されたように感じていた。
嫦娥は、新野城の様子をくわしく聞きたがった。
たまに話が逸れて、朱季南にはどうでもよさそうな世間話に発展することもあったが、嫦娥はむしろ、その話のほうに興味を引かれた様子で、とくに熱心に、質問をはさみながら聴いた。
女というものはたいがい喋り上手だが、壷中とやらで訓練されたのか、その女は人を引き込む話術に長けていた。おかげで、ぼんやりと話を聞いていた朱季南すら、新野城の内部のくわしい状況を知ることができた。
とはいえ、重要な情報はすくない。
張飛は粗暴な男との噂が先行しているが、婦女子にやさしく、たまに洗濯などの力のいる水仕事を自分から手伝いにやってくるので、城内では人気者である、とか、関羽は大根が好きだとか、糜芳は趙雲の悪口を流すことに懸命になっているが、孔明がそれを察知して、いちいち流れてくる噂を片っ端から潰している、どうやら日ごろの憂さ晴らしにそんなことをしているらしいが、しかしその努力を趙雲はまるで知らない、ということなど。
これを曹操に教えたところで、なんの益にもなるまい。
兵卒の調練がどれだけ進んでおり、生兵の数はどれくらいで、全体の規模はどんなものか、物資はどれだけあるのか、そういった具体的な情報は出てこない。
いや、出てこないのではない。この女、やはり只者ではなく、朱季南が何者かよくわかっていて、あえて、外部に漏れたら危険な事柄に関しては、ぼやかしているのである。
ますます朱季南は混乱した。
曹操の手の者ではない、いまもって壷中だ、と言いつつも、さっきは壷中、つまりは自分の仲間をあえて陳到の手に渡している。だとしたら、江東か、蜀の人間なのだろうか。

さまざまな想像をはたらかせていると、なにやら、窓の外が騒がしい。
嫦娥と女も気づき、話を止めて、立ち上がる。朱季南は、女たちを手で制し、自分が外へ出ると、騒ぎのする方を見遣った。
どうやら、城門のほうに向かって、つぎつぎと兵卒たちが集ってきたらしい。さまざまに声が入り乱れ、はっきりした言葉は聞き取れない。
『○○が帰って来た』というような言葉だけは、何度もくりかえし聞こえた。
城門のほうまで行ってみようかとも思ったが、さきほどのこともある。
女子供を置いて、出かけて大丈夫だろうか。
妻を風狗によって殺されて以来、朱季南は、夜闇のなかに女をひとりにすることを恐れるようになっていた。
壷中の女は、なにがしかの訓練を受けていたようなことをほのめかしていたが、実力を目の当たりにしたわけではない。
さすが趙雲の友だけあり、慎重な朱季南は、せめて武器のひとつでも置いていこうと、ふたたび廃屋の扉をくぐった。

同時に、こん、こん、と木を打つ音がした。

朱季南は仰天し、自分の腰にある剣かなにかが、扉に引っかかったのかと、おのれを見下ろした。しかし、扉に触れているのは手のみ。
こん、こん。
ふたたび木を打つ音がする。
女たちは、卓のそばにいるが、手や足でそれを打っている様子ではない。子供はぐっすり眠ったままだ。
どこから? 朱季南はゆるゆると部屋の周囲を見回しつつ、ゆっくりと剣の柄に手を伸ばした。
それを見て、嫦娥は肩をすくめると、
「大丈夫だ」
と言って、身にまとう絹の衣の心地よい音をさせながら、不意に床に屈んだ。
それまで気づかないでいたが、床下には、地下貯蔵庫とおぼしき、ちいさな木の扉があった。その扉が、内部から叩かれているのである。
女子供と自分のほかに、まだ人がいた。
朱季南は、剣に伸ばす手を引っ込めることをやめた。
いったい、この目の前にいる女は、何者で、なにを企む一党の一員なのか?
きつい視線に気づき、目を向けると、さきほどまでなごやかに嫦娥と話に興じていた女が、朱季南の挙動のひとつも見落とすまいと、警戒の目を向けていた。
なるほど、やはりこの女もまた、只人ではない、ということか。瞬きひとつすることなく、相手を一瞬にして斬ることのできる、冷徹な刺客の目をしている。
嫦娥が地下貯蔵庫の扉を開けた。
同時に、埃と饐えたにおいが部屋に流れ込んでくる。
扉の中から、ひょっこりと顔が出てきた。
「嫦娥さん、騒ぎがあったようだが、どうしたのだろう」
「城門に兵士が集っているようです。早馬が来たのかもしれませんが、まだわかりませんわ」
「いよいよだろうか」
「それもわかりませんわ。こんなところに閉じ込めて、申し訳ございません。お疲れでしょう」
嫦娥がすまなさそうに言うと(朱季南は、嫦娥にそんな殊勝な顔が出来る、ということにおどろいた)頭だけを出している男は、声をたてて笑った。

太陽の章4へつづく
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