09年改訂版
孤月的陣
第五章 タイヨウ 太陽
②
「聞こえたか」
「ああ、聞こえた」
孔明は肯き、赤く染まる廊下の向こうを見遣った。
樊城の秩序は完全に崩壊していた。
東の門を護っていた部将が、黄忠に寝返ったのをきっかけにして、兵士たちの統制がとれなくなった。
趙雲が、樊城の内部を守っていた衛兵をほとんど倒してしまったために、指揮系統がずたずたに分断されてしまったことも大きい。
樊城の衛兵と、壷中は連携していなかった。
播天流が、趙雲が真正面からやってくると信じきって、壷中のほとんどを城門に集め、城内に配置させるのが遅かったのも、混乱の原因であった。
あちこちで小競り合いや掠奪が生じていた。
大将級の武将たちが、樊城の混乱を避け、我先にと逃げてしまったのも、いちだんと混乱をあおっていた。
孔明は吐き気をこらえつつ、先を進んでいた。
あちこちで繰り広げられる凄惨な光景。
否が応でも、徐州での大虐殺を思わせる光景である。
あれほど整然として、平和であった樊城が一変していた。大人しく命令に従っていた兵卒たちが、生きながらえるために仲間であった者と衝突している。一方で、混乱に乗じ、掠奪に励んでいる者もいる。金目のものはほとんどが奪われ、破壊されていた。
いまは凶悪な表情を見せるかれらとて、こんな場面に出くわさなければ、兵役を終えたら、よき夫、よき父、よき息子のはずである。
知性や理性というものは、簡単に脱ぎ着のできる衣のようなものに過ぎないのか。
ひとたび衣を脱ぎ捨てた者が、以前の生活に戻ることは可能だろうか。
平和の本質とはなんだ。正しい為政者とは何者だ。
ひとたび理性を手放した者たちを上回るほど狡猾に、そして貪欲になれる者でなければ、乱世を終わらせることはできないのではないか。
ふと、甲高い女の悲鳴がひびいた。
見ると、自分たちのいる欄干から、対になっている楼閣の欄干で、必死で女官が逃げ惑っている。
その女官を襲おうとしている兵士が、ちょうど領巾を引っつかみ、捕まえようとする姿が見えた。
孔明のとなりにいた趙雲は、はげしく顔をゆがめると、舌打ちし、弓を引き絞って、兵士の咽喉を射抜いた。
あやういところを救われた女官であるが、まさか対角にある楼閣から、救いの手が飛んできたとは思わないらしく、孔明たちを見ることもなく、這うようにして、逃げていった。
趙雲が、だんだん別人に見えてきた。
ここまでたどり着くまでに、多くの敵兵と遭遇した。
しかし、趙雲は、まったくあわてず騒がず、その時々に応じて、もっとも的確な方法で、簡単に敵を打ち倒す。
敵は、かすり傷ひとつ趙雲に負わせられないまま、冷たい死を迎えるのだ。
孔明は、ここまで趙雲が強さを見せるとは思っていなかった。
憤るでもなし、狂乱のうちに攻撃するのでもなし、淡々と、無感情に仕事をこなしていく。
この混乱を目の当たりにしても、すこしもうろたえることがない。
自分は、この男のことを、実はなにも理解していなかったのかもしれない。
孔明は、趙雲という男は、どんなわがままも言っても、いったんは怒りはするけれど、後に引きずらず、なんでも許容してくれる男だと思っていた。
簡単に言うならば、すっかり甘えていたのであるが、その度量の広さは、いま目の前に展開する多くの死を、作業のように淡々と積み重ねることができる余裕からくるものなのか。
趙雲に激しい嫉妬をしつづけた、播天流の気持ちのほんとうのところが、ようやく理解できたような気がした。
苛立つことが馬鹿馬鹿しくなるほど、趙雲は凄すぎる。
いや、待て。
主公は、子龍もすごいが、関羽と張飛はもっとだぞ、と言っていなかったか。
三人揃ったら、どんなことになってしまうのだ。
「大丈夫か。遅れているが」
声を震わせるでもなし、息を弾ませるでもなし、いつもどおりに趙雲が、気遣って尋ねてくる。
「すまないな。なんとか合わせているのだが」
すでに築かれた死体の山を踏み越えつつ、孔明は答えた。
こちらは息が弾んでいるし、声も震えている。
掠奪の果てに起こった仲間割れで、兵士たちが殺し合いを始めた。
その結果、劉表の部屋に通じる廊下には、息絶えた兵卒たちが転がるばかりで、衛兵がだれもいなくなっている。
額から流れる汗をぬぐう孔明に、趙雲が、いつものように何気ない口調で言った。
「すこし、そこで休んでから来るがいい。武器は持っているな?」
「冗談だろう。この死体の山を眺めて、一人でいろというのか」
「死体はもう攻撃してこないぞ」
そういう考え方もあるか、と新鮮に思いつつ、孔明は頭を振った。
「行こう。さっきの声は、まちがいなく蔡瑁のものだ」
「無理するなよ」
すっかりいつもと立場が逆転しているが、孔明は不快には思わなかった。
戦場では、趙雲のほうがよほど経験を積んでいる。
郷に入りては郷に従え。ここは従者のように忠実に従うべきだろう。
「俺は失敗しているか?」
早足で前に進みながら、趙雲は尋ねてくる。
もしかしたら、趙雲は、もっと早く進めるのではないか、自分に合わせて、この速度なのではないか、と思いつつ、孔明は尋ねた。
「失敗? なにが?」
「おまえを、あの子供たちと一緒に、間道から逃がすべきだったかもしれぬ」
「なにをいまさら。殴られて命令されたとしても、わたしはあなたに付いてきたぞ」
「そうだろうなと思ってここまで来たが、試しに殴ってみるべきだったかもしれぬ」
「冗談だろう」
「軍師、これから先、どうなるかわからぬから言っておく。この混乱のあと、残るのは、おそらく壷中のなかでも精鋭の者と、風狗や花安英のような手練ればかりだ。そういった連中と対峙した場合、俺はもう、俺のことしか考えられなくなる」
「そうだろうな」
「つまり、俺はおまえの主騎としての務めを果たせなくなる、ということだ。命の危険を感じたら、俺を呼ぶな。自分でなんとかしてくれ」
「そのつもりだよ」
意外そうに趙雲が振り返った。
「素直だな。なにを考えている?」
「その速さで移動しているくせに、なんだってそんなに、長々と、平然としゃべれるのだろうと、思っているよ」
息をはずませ、死体を乗り越えるのに衣の裾を両手でたくしあげながら、とぎれとぎれに、孔明は答えた。
「子龍、冗談はともかく、わたしのことは心配するな。わたしは、それなりの覚悟でもって、ここに残ったのだからな」
「ああ」
ふと、趙雲は足を止め、背後にいる孔明を庇うように、手を広げた。
「どうした」
「足音を殺せ。剣戟が聞こえる。近いぞ」
※
蔡瑁は、最初にあらわれた者を見たときに、深い失望を味わった。
それは自分の育てた、精鋭の兵士ではなかったからだ。
播天流の可愛がっていた、花安英だ。
蔡夫人の目があるので、手を出したことはなかったが、奔放な性分で、あちこちの士人を誘惑しては、諍いを起こさせて喜ぶ悪い癖がある。
壷中に属しているならば、それなりの腕はあるはずだが…
「おまえか。味方はどこへ」
蔡瑁の掠れた問いかけに、花安英は答えず、逆に尋ねてきた。
「風狗はここにいるのか」
居丈高な物言いに、むっとしたが、言い争っている場合ではない。
しかし、蔡瑁は戸惑った。
風狗とは、播天流が使っていた刺客のことではなかったのか?
その表情を読んだのか、花安英は、秀麗なその顔に、はっきりと嘲りの表情を浮かべてみせる。
「知らぬは父ばかりなり、か。あんたも長くなさそうだから、冥土の土産に教えてやるよ。あんたの息子は、だいぶ前から、播天流と行動を共にしていた。あんたと劉州牧の両方をそそのかして、自分たちは曹操のもとへ行っていたのさ」
「そう、そう?」
「何のためかは、自分で考えるといい。おまえは、本当は誰よりも、息子を庇ってやらなくちゃいけなかったのだ! 劉州牧が病で色情狂になっていることを知りながら、なぜ宦官の役目をあの子に押し付けたのだ! あの子が狂ったのは、おまえのせいだ!」
いいざま、花安英は、腹の傷をかばう蔡瑁の手を、思い切り蹴り飛ばした。
身体を貫く痛みに、蔡瑁は、はげしくのた打ち回る。
それを横目に、花安英は、劉州牧の寝室へと入っていった。
※
「殺したのか」
乾いた声に、劉琮がゆっくりと振り返る。
あのときと同じだ、と花安英は思った。
程子聞が死んだとき、やはりこうして、義理の弟と対峙した。
あのときは、風狗、劉琮は、まったく悪びれる様子を見せず、平然とこう答えたものだ。
「裏切り者だよ。仕方ないじゃないか」
花安英は、暗然と、床に倒れた、かつて母であった者の身体を見下ろした。
大量の血が、床を、柱を、そして蔡夫人そのものを汚している。凄惨な光景であった。
実の息子に裏切られた、悲しみと驚き、そして勝気な女らしく、悔しさが表情にあらわれている。
母の死体を前にしても、ふしぎと、脳髄も心の臓も冷え切っている。
本気で殺してやろうと思っていた女であった。
結局、なにひとつ自分の意思のとおりにならなかった、男の欲に翻弄されつづけた女。そこから逃れようとして取った手段は、愚かにも、男の手段を、そのままそっくり真似ることであった。
最後まで、この女は自分というものを取り戻すことが、できなかったのかもしれない。
花安英は、そうして嘆息する。
あの軍師が言ったとおり、自分は母の苦しみを理解できていたのか。
「兄上」
この弟は、劉琦に対してさえ、そんなふうに呼びかけないであろう。
それを知っている花安英は、甘えたような、震えた声に、顔を上げる。
「おまえは、悪くない」
自然と、そんな言葉が口をついた。
悪いのは、大人だ。誰一人として、自分たちを護ってくれなかった、大人たちなのだ。
劉琮は、幼子のように涙を流していた。
ああ、はじめて会ったときの弟の姿だ、と花安英は、ほっとした。
はじめて会ったとき、劉琮はまだ幼かった。執拗なまでに己にこだわり、片時も離そうとしない父、劉表に、本気で怯えていた。
いたいけな子供だった。歪んだ欲望から逃がそうと思えば、容易だったはず。
しかしそうしなかったのは、劉表の歓心を、いつまでも目の前の自分たちに繋ぎとめておくための、蔡瑁と、蔡夫人、母の計算だったのだ。
「兄上、わたしは母上を」
言いながら、劉琮は、血に濡れた、か細い腕を伸ばしてきた。
汚らわしいとは思わなかった。
もし劉琮がためらうならば、自分がそうしていただろう。
そう思えた。
君は本懐を遂げたとしても、泥屑のように死ぬだろう。
そうだったかもしれない。
でも軍師、あんたがそんなことを言えるのは、結局、あんたはなにもわかっちゃいないからだ。
あんたは守られた子供だった。
幸福なところにずっといる。
いまもそうだ。
どん、と鈍い衝撃が、腹を刺し貫いた。
「琮」
己に渾身の力をこめてもたれかかる、弟の細い肩を、さらに掴む。
どこかで予感をしていた。
この子は狂っていると、実の父親に教えてやったばかりじゃないか。
「おまえは、わたしの兄などではない」
「ちがう」
「いいや、わたしは劉氏の血を引く者だ。おまえと同じであるはずがない!」
生暖かい血が、熱を帯びて衝撃を受けた腹のあたりを中心に、抜けていく感覚がある。
痛みはまだ押し寄せてこない。視界が霞んでくる。
せめて最後に自分が『生きた』と満足できるように死ぬのだ。
花安英は苦しみのなか、なんとか呼吸を取り戻そうと、息を吐いた。
最悪だ。ぜんぜん満足できない。
※
「蔡瑁殿!」
花安英の次にやってきたのは、どう判断したらよいのか、分かりかねる二人組みであった。
とりあえず、かれらから殺意は感じられなかったことに、蔡瑁は痛みの駆け回るおのれの身体を抱えつつ、安堵した。
この期に及んで、場違いなほど煌びやかな孔明の姿が、まず目に映る。
死んだのではなかったか。悪運の強いやつめ。
そうして、趙子龍。こちらは血に濡れた獣そのものだ。本来の姿を取り戻した、というべきであろうか。
忌々しい若造めが。
しかし蔡瑁は、そこでやせ我慢をして、誇り高く、俺のことはほうっておけ、などという言葉を吐ける男ではなかった。
助けてくれ。
哀願を口に出そうとする。
だが、もう咽喉がひりついて、声を出すことができないでいた。
掠れたうめき声だけがこみ上げてくる。
しかし無礼な新野の若者二人は、苦悶の呻きをあげる蔡瑁を、まったく無視した。
※
趙雲と孔明は、力なく、廊下に横たわる蔡瑁を尻目に、たがいに顔を見合わせた。
「だれがこんなことを。兵卒たちか?」
「兵卒どもが逆上して、大将を殺そうとしたのなら、もっと無残なことになっているぞ。俺ならば首を取る。もし兵卒どもがやったのだとしたら、殺しかねたのだろうな」
一瞬のうちに閃いた光。
雲は、ぱっと身をひるがえし、器用に片手で孔明の手を引いて、屈ませる。
そして、もう片方の手に握った剣でもって、部屋から飛び出してきた劉琮の剣を跳ね除けた。
「甘い!」
趙雲は、一撃、二撃、すばやく身をかわし、ふたたび突進してくる刃を、踊るようにして、余裕でかわしていく。
孔明は、趙雲から距離を取りながら、ふと劉表の寝室の中を見て、顔を強ばらせた。
「花安英!」
花安英が、床に崩れ落ちている。
まだ息があるらしく、苦しいのか、身じろぎしているのが、部屋に灯された紙燭に浮かんで見えた。
ああ、あの少年も死んだか、と孔明の声を聞いて、蔡瑁はぼんやりと思った。
体が寒くなってきた。
「子龍、風狗を任せる!」
そう言うと、孔明は部屋の中へと飛び込んでいった。
すれ違うようにして、劉琮が宙返りをしつつ、趙雲の攻撃をかわして、飛び出してきた。
そうして、蝶のように身軽に、欄干の上に立つ。
「劉公子ともあろうお方が、残酷な悪戯が過ぎますな」
趙雲は、欄干の上に立った劉琮に、呼びかけた。
劉琮の表情は、もはや貴公子のそれではない。
これは、自分と同等の、血をもとめる獣の顔だ。
「雑魚に用はない。そこをどくがいい」
「いいえ」
趙雲はにやり、と不気味なまでに凄艶な笑みを浮かべた。
「公子には、ここで臣に討たれていただきます」
手ごわい得物を見つけて喜悦の表情を浮かべる趙雲は、まるで虎のようである。
事実、趙雲の血は沸き立っていた。
武人としての趙雲の、その根本を支えているのは、正義感ではなく、やはり強烈な闘争本能である。
手ごたえのある相手を得たことに、全身が喜んでいる。
己の極限まで使ってくれと、鍛え続けた体が訴えてくる。
もはや頭の中には、敵を討ち果たすことしかない。
勝つための理由など、勝ったあとにつければいい。
劉琮は、上衣を脱ぐと、欄干から地上へと投げ捨てた。
同時に、欄干に器用に足を乗せたままの状態で、上背のある趙雲に対し、上から剣戟を仕掛けていく。
趙雲は、優雅とも表現できる動きで、一撃一撃を、素早く流していく。
剣戟の音からして、よくできた音楽のようだ。
剣先を弄ぶような打ち合いのあと、焦れた劉琮が、己の身を飾る帯を解き、それを趙雲の腕に投げつけた。
細工がしてあったものだろう。帯は風に乗って腕に絡まる。
一瞬だが、趙雲の動きが崩れた。
間髪おかず、劉琮は、渾身の力でもって、趙雲に向かっていく。
趙雲は、舌打ちをすると、くるりと身をかわして、なんとかそれを凌いだ。
しかし、腕にからまる布は解けない。
劉琮は、布の先端を引いて、さらに趙雲を転ばせようとした。
趙雲は、思惑通り、身の均整を崩す。
そこへ、さらに劉琮は剣を浴びせかける。
だが、趙雲は腕に巻かれた布もそのままに、刀剣を捨てると、後方へと身を転がし、宙に跳ね飛ばした二本の足で、器用に劉琮の手から剣を蹴り飛ばした。
衝撃にうろたえる劉琮に、起き上がった趙雲の拳が炸裂する。
横面を殴られた少年がふらついた隙を逃さず、趙雲は、懐より短剣を取り出すと、布を引き裂いた。
そうして、自らも拳を振るって反撃をしてくる劉琮を、ふたたび華麗にかわしつつ、さきほど捨てた、床に横たわる刀剣を足で跳ね飛ばし、つかみ取ると、劉琮に刃を向けた。
首を取る。
しかしその一瞬、劉琮が、怯えたような顔をして、ぎゅっと目を固く結んだ。
趙雲は、はっとして手の勢いを止めた。
子供だ。これは子供なのだ。殺してはならない。
だが、つぎの瞬間、大きく後悔する。
ぱっ、と劉琮の目が開き、邪悪に歪んだ。
そうして、小さな拳が頬に当たる。
たいした力ではない。
痛みや衝撃もさほどではなく、すぐに体勢を整えることができる。
劉琮の拳をかわし、つづけておのれの拳を振るうべく身を構えた趙雲であるが、不意に、膝からがくりと力が抜けていくのを感じた。
視界が大きく揺らめく。
目の前の子供の顔が、二重にも三重にも見える。
その子供の拳には、指輪が輝いていた。
その先端に、針を仕込まれた指輪が。
「卑怯な!」
「子供だからね」
劉琮はそういって笑うと、趙雲の落とした剣を拾い、大きく振りかざした。
が、刃は宙で止められたまま、振り下ろされることはなかった。
ぐらり、と目の前の凶暴な子供の姿がゆらめく。
戸口から這い出してきた花安英が、自らの手刀を、劉琮の背中に投げつけていた。
劉琮は、信じられないものを見るかのように、振り返り、それから、ふらふらと、欄干のところまで歩いていく。
孔明が、戸口のあたりで力尽きた花安英を、助け起こすのが見えた。
「公子!」
花安英を抱き起こしつつ、孔明が声をかける。
しかし、劉琮はその声に応えるかのように、醜いひきつった笑みを浮かべ、叫んだ。
「触るな、だれも私に触るな! 汚らわしい黒頭どもめ!」
絶叫すると、劉琮は、そのまま背中から飛び込むようにして、欄干から落ちて行った。
どん、と鈍い音がした。
趙雲が、薬の効果に苦しみつつも、欄干から覗き込むと、篝火の焚かれた花壇の中央に、あわれな子供が身を折って、倒れているのが見えた。
びり、と布を裂く音に、趙雲は振り返った。
孔明が、おのれの衣を裂いて、花安英の止血をしているのだ。
花安英は、まだ息をしている。幸い、傷は急所をはずれているようだ。
最後の最後で、風狗は、殺すことをためらった、というのか。
「子龍、待っていろ、こっちが終わったら、そちらへ行く!」
言いつつ、孔明は手際よく花安英の傷を抑え、布を巻いていく。
同時に、懐から、錦の小袋をとりだして、柱にもたれるようにしてうずくまる趙雲に投げた。
そうして、器用に手際よく手当てをしながら、趙雲に問いかける。
「症状は? 眩暈? 痺れ? 熱と吐き気は?」
「眩暈としびれ。熱はない。吐き気もない。腹具合もおかしくない」
「しびれ薬だな。その袋の中にある、葛を干したものを飲め。薬の効果を早く切らすことができるぞ」
しかし視界が二重にも三重にも見える趙雲には、どれが葛を干したものかの区別がつかない。
さらに孔明のこんな声が聞こえた。
「下手に飲むなよ。虫下しが一緒に入っているからな」
「今度から分けておいてくれ」
刀剣を杖のようにして、崩れ落ちないように我慢しながら、袋の中身を床に広げて、葛の干したものらしいものを捜す。
しかし、指先の感覚すらおかしくなっているのか、どれがどれなのか、やはり区別することができなかった。
崩れ落ちそうになる意識を保たせるため、趙雲は孔明に尋ねた。
「軍師、花安英はどうだ」
「急所をはずれているし、出血もさほどではない。おそらく大丈夫だ」
「死なせるな。恩人だ」
「わかっている」
孔明は立ち上がると、趙雲がひろげた子袋の中身をひとつ掴み、趙雲に差し出した。
「ほら、これだ」
そうして、自分はべつの薬を掴むと、ふたたび花安英の元へ行き、その口に、薬を含ませた。
「痛み止めだ。気休めにしかならぬかもしれぬが、ここを脱出するまで耐えてもらわねばならぬ。大丈夫だな?」
白皙の顔が、血の気の失せた花安英の顔に近づいて尋ねると、花安英は、紫色に変色した唇をふるわせて、なにかを言った。
「軍師、なんだって?」
趙雲が問いかけると、孔明は、穏やかな笑みを向けて、言った。
「このお人よしども、だとさ」
「さて」
しびれ薬が完全に切れたわけではないが、視界は通常にもどり、眩暈もしなくなった。
趙雲は、花安英を抱える孔明と、欄干にもたれたまま、息も絶え絶えになっている蔡瑁と、床の上で無残にも絶命している蔡夫人、寝台の上で、眠り続ける劉表をみた。
「軍師」
趙雲の声に、孔明は肯くと、花安英を、同じく止血して薬を飲ませてやった蔡瑁のとなりに横たえて、劉表の寝室へと入った。
扉が開け放たれていたおかげもあり、焚かれていた香の効力はなくなっている。
床に倒れた蔡夫人の無残な身体を見つけ、趙雲は、花安英とともに覗いた、蔡瑁と密会をしていた夜の夫人の姿を思い出した。
淫らな姿が印象的だったのではない。
あのとき、妙な表現ではあるが、夫人は生き生きとしていた。
まさか、数日後、このような姿を晒すことになるなどと、だれが思ったであろうか。
孔明は、夫人の傍らに立つと、己の上衣を脱いで、夫人の身体にかぶせてやっている。
「気の毒だな」
そうつぶやく声には、心からの同情が籠められていた。
しばらく動かないでいたので、うながすように、軽く肩に触れる。
孔明は、ちいさく肯くと、蔡夫人から離れた。
そうして、奥に眠る、劉表の元へ行く。
人が何人も眠ることができそうな大きな寝台に、劉表は、ぴくりとも動かずに横たわっていた。
「州牧」
声をかけたものの、劉表は、身動きひとつしない。
近づくと、耐え難いほどの匂いがした。
汚物と、香の匂いが混ざり合った、なんともいえない匂いである。
口と鼻を手で庇いながら、劉表の顔に、そっと手をかざす。
呼吸はない。まぶたを開く。眼球は動いていない。
死んでいる。
枕元に水差しがあり、孔明がそれを手にとって、中を確かめようとした。
とたん、ぱん、と水差しを、矢が射貫いて、破壊した。
身を強ばらせる孔明の手を引き、屈ませる。寝台にかけられた帳に、何本もの矢が突き刺さった。
「出てくるがいい、劉州牧を殺めた賊めが!」
この声。
反射的に、趙雲の身体は大きく震えた。
忘れようもない。あの男、播天流の声だ。
この震えは、怒りか、それとも武者震いか?
ふと、孔明の手が、労わるように背中に触れた。
そうして、趙雲は、柄にもなく激情に押し流されそうになった己を取り戻した。
そうだ、こいつがいるのだ。なによりも優先させて、こいつを樊城から逃がさなければならない。
「劉州牧を殺めたのは、我らではない!」
趙雲の代わりに、孔明が決然とした声で答えた。
答えてすぐに、孔明は、割れた水差しから落ちた水をすくいとり、匂いを嗅ぎ、しかも指先で、かるく舐め取った。
そうして、ささやくように、趙雲に言う。
「ただの水だ。毒は盛られていない。劉州牧は病死だよ」
「たばかるな、賊め! おまえたちの味方はすべて討ち果たされた! 観念して出てくるがいい!」
趙雲は、寝台と同じ高さに目線をあわせ、戸口に立つ播天流と、兵士たちを見て、舌打ちをした。
表に、蔡瑁と花安英をそのままにしておいたのは失敗だった。
奴らは二人をどうするだろう。
どうするか、相談するべく振り返ると、孔明は、床を這いつくばって、なにやら捜している。
「なにをしている?」
「劉表は慎重な男だった。しかもやっていることが、世間からは糾弾されるべきことばかりだった。
寝所というものは、もっとも私的な場所だ。この男ならば、抜け道を用意していたとは思わないか」
「そんな都合よく」
と、趙雲は言いつつ、とりあえず自分の周囲の床を探ってみる。
すると、早速手ごたえがあり、戸板を外すと、華奢な瓶に、なにか液体が入っている。開けてみると、芳醇な香りが鼻腔をくすぐる。酒だ。
すると、孔明が寄ってきて、その匂いを嗅いで、眉をしかめた。
「飲むなよ」
「なぜ」
「媚薬だ」
趙雲は、瓶を元に戻すと、戸板を填めなおした。
孔明は、床や壁など、怪しげなところを、片っ端から叩いて回っている。
趙雲もそれに倣いつつ、表にいる兵士の数は、どれくらいなのだろうと、気配をさぐった。
十人? 二十人? いや、もっとだろうか。
味方は討ち果たされた、といったが、黄忠や、東の門を護っていた男はどうなっただろう。もしや、死んでしまったのだろうか。
「妙だな」
孔明は、飾りと棚の下の床を、とんとんと叩いて、眉をひそめる。
「ここだけ音が違う。なんらかの仕掛けがあるとは思うのだが、開け方がわからぬ」
どれ、と趙雲も身をずらし、孔明の言う床を叩いてみた。
ちょうど、大の大人がくぐれるくらいの幅の戸板の嵌められている一角だ。
だが、そこに扉があるような気配はないのである。
表では、播天流の動きが、さらに慌しくなっている。
「出てくるがいい! 趙子龍、そして諸葛孔明! おまえたちの仲間がどうなってもよいのか!」
仲間、と聞いて、二人は顔を見合わせる。黄忠が人質になっているのか。
そうして、寝台から顔を覗かせると、あきれたことに、播天流の背後にいる部下が刃で脅しつけているのは、もはや出血多量で意識が朦朧としている蔡瑁その人であった。
「狂っているな」
どうでもいい、と答えたなら、どういうことになるのだろう。
しかし孔明に叱咤されるだろうことを考え、趙雲は黙っていた。傍らの孔明がぼそりとつぶやく。
「どうでもいいと答えたら、どうなるのだろうな」
「軍師」
「嘘だ。これは本意ではない」
「どうした! 返事をすることも出来ぬか!」
播天流は、意識を失いつつある蔡瑁の、頭髪を乱暴にひっつかみ、血の気のうせた顔をぐい、と上向きにさせて、さらにのど元に、手にした刃を付きつける。
趙雲は、寝台に顔をのぞかせたまま、矢を番えて、天幕越しに見える、播天流の姿に焦点をあてた。
かつて、公孫?にめぐりあわせてくれた男。そして、自分を最初に見い出してくれた男。
そして、これほどまでに真剣に人を憎むことができる、ということを教えてくれた、貴重な恩師。
「待て!」
矢を引き絞る趙雲に、するどい孔明の制止の声がかかる。
見ると、表に横たえていた花安英を、兵卒たちが囲んで、なにやら探っている様子である。武器を取り上げているのだ。
「とことん、仲間意識というものに欠けた連中だな。同情できぬ」
孔明は舌打ちをし、花安英の身包みをはがし、乱暴に床に転がす兵卒をきつくにらみつけた。
そのうちのひとりが、己の剣を抜きはなち、意識をなくした花安英めがけて、刃を振り下ろさんとしているところが見えた。