09年改訂版
孤月的陣
第五章 タイヨウ 太陽
①
やはり初夏であった。
春や秋のように、あいまいな季節は好きではない。
司馬徳操の私塾の裏手はゆるやかな斜面のある草地となっていた。夏には地面にやわらかな青草がくるぶしほどの高さまで繁り、名前のわからぬ小さな花がところどころに咲く。
あたりに響くうっとうしい蝉の声。青草の茂みを蹴るたびに、ぱっと飛蝗が追い出されて飛び上がる。枝をいっぱいに広げた栗木が、ちょうど等間隔に生えている。秋になると、たくさんの栗の実ができる。それを蒸して食べるのも、塾生の楽しみだ。
いまは、だれもいない。
だれもいないことを確かめて、かれはひとり、遊んでいる。
どんどんときつくなる陽射しを避けるため、木立の影から影へ、飛び移るようにして走りこむ。
かえって熱くなるわけだが、あらたな木立へ入り込んだときに感じる、一瞬の涼しい風が心地よい。ただその一瞬を得るためだけの遊びである。
こうしたひとり遊びは、まだ少年だった頃、村にいたときに身につけた。おのれの境遇をいくらかでも慰めるために、開発したものである。
ただし、あたりに人がいないときに限る遊びだ。
いつもはおっとりした、どこか鈍い青年を演じているかれが、じつは案外、機敏なのだということを知られてしまったなら、面倒なことになる。
何本目かの木陰にたどりついたとき、まるで歓迎するかのように、風が全身を吹き抜けた。そのさわやかさに、かれはおもわず歓声をあげた。
汗が流れ落ちる不快感も、風が行きすぎるまでは、忘れさせてくれる。
さあ、あとどれくらいで、目的地に着くだろうか。
そうして、ゆるやかな坂になっている道を見下ろすと、目的の、司馬徳操の私塾の屋根が見えた。
ほんとうのところ、司馬徳操の塾へ行くのは気乗りしない。
学問をきわめて、仕官するつもりなど、まったくなかった。家の名前を残すなど、まっぴらだった。いっそ、自分の代で何もかも終わらせてやりたい気分だ。
司馬徳操の塾へ通うのは、このあたりの、学問を志す青年のあいだでは、当然のことであったから、仕方なくである。
かえって行かないと、目立ってしまう。
もしも、もう行かなくてよい、家業だけ手伝えばよい、と言われたなら、喜んでそうしただろう。
そも私塾に行ったところで、得るものは少ない。顔見知りと、簡単な世間話をして、それから天下について、当たり障りのないところを論ずるだけだ。
荊州とその近辺しか知らず、ほんものの修羅を目の当たりにしたことのない、恵まれた子弟たちの集まり。飢える心配のない連中の語る天下など、耳を傾けても価値はない。
そう思っているのに、表面では、感心した素振りをみせて、ときに的確な…的確すぎても目立つので、そのあたりの匙加減は微妙なのだが…批判を加えなければならない。苦痛である。
回れ右をして帰りたくなる気持ちをおさえ、走るたびに近づく司馬徳操の私塾の屋根を意識しながら、かれはつぎの木立をさがす。
ふたたび風がつよく吹いて、かれのいる木を大きく揺らした。
汗がどっと吹く。そこへ、冷たい風が吹きぬける。心地よい。
威勢よく枝をひろげる栗の木の上には、突き抜けるような青空。
濁りのなにひとつない、真っ青な空だ。
おや。
かれは耳をすませた。
だれか、人の声がしたような。
ふたたび、耳をすます。
たしかに、だれかのうめき声が聞こえた。
「そこに誰かいるのか。なら、驚かせてすまない。だが、放っておいてくれ」
妙な言葉が、風の行過ぎたあとに聞こえてきた。
澄んだ、よくとおる声である。少年のものだ。
周囲を見回すと、雑多に繁った青草の上に、ほっそりとした体型のうえに、いささか大きすぎるように見える衣をまとった少年が伸びていた。
よく見ると、喧嘩をしたあとらしく、ところどころ衣は裂け、目を閉じた顔も、腫れあがり、あるいは泥と血で汚れている。
面倒ならば、係わり合いになりたくないな、とは思ったが、一目見て、顔をコテンパンに殴られてもなお目立つ、少年の顔立ちの美しさに惹かれた。
ふと、十代のはじめから後半に至るまでの間の、成長しきっていない少年の体は、少女のそれとちがって、格別なものがある、などと薀蓄を垂れていた男の言葉を不意に思い出し、彼は眉をつよくしかめる。
遠く村からはなれても、そこで経験したこと、耳にしたこと、目にしたもの、すべてを忘れることはできない。ふとした瞬間にうんざりするほど鮮やかに思い出してしまう。きっと、一生、こうなのだ。
すでに変色をみせている痣が気の毒なほど、白い肌に点在している。
透き通るような肌。そんな言葉がぴったり似合う。
閉じた目を縁どる睫毛は長く、眉から鼻梁、唇にいたる線は、完璧なまでに均整がとれている。
しばらくながめていても、飽きないくらいだ。
よく作りこまれた陶製の人形のような。
見たことのない顔だな、と思うと同時に、塾の門弟たちが噂していた、生意気な新入りの話を思い出した。
徐州から避難してきたという琅邪の一族があった。だが、そこの若き家長は、まだ十六歳と年若いのに、いったい、なにを根拠にしているのか、と首をひねりたくなるほど、妙に威張った、嫌なやつだという。
そのため、周囲の反発を買いまくり、私塾には、毎日、喧嘩に来ているようなものだとか。
噂は本当なのだな、とあきれつつ、殴り倒された体を青草のうえに伸ばしているようなその姿を、かれは見下ろした。
名前は、たしか、諸葛孔明。
こいつの叔父は。そうだ。壷中に殺された男だ。
とたん、はげしい嫌悪感がこみ上げてきて、かれは立ち上がると、ふたたび道を下ろうとした。
もう、ひとり遊びのつづきをする気は失せていた。ふつうに道を下る。
と、少年が目をつむったまま、声をかけてきた。
「もし水鏡先生のところへいくのなら、孔明は午睡のために顔を出さないのではなく、やむを得ない諸事情により、起き上がることができない、と伝えてくれないか」
思わず足を止めて振り返る。
「なんだって?」
「孔明はほかの塾生とちがって、遊びに行ったのではない。だが、今日はさすがにダメだ。目を開けられないからな」
どうやら眠っているのではなく、単に目が腫れあがってしまっているために、周囲がなにも見えず、動けないでいるらしい
。
ひっくり返った亀を思い出し、思わずかれは苦笑する。
そうして、道を引き返し、ふたたび孔明少年のもとへ戻ってきた。
十六というのなら、三つ年下、というわけか。
「水はいるかい?」
水筒に半分ほど、汲んできた水がある。
少年は、是非、と簡単に返事をかえしてきた。
頭を抱き起こして、切れた唇に触らないように、水を飲ませてやると、咽喉仏や髯の目立たない顎から首がうごいた。孔明の重たく腫れ上がった瞼が、ゆっくりと開かれる。
なんでもない仕草が、妙に色っぽいヤツだな、と思いつつ、かれは尋ねた。
「家の者を呼んでやろうか。このままこうしていると、日が暮れて、風邪を引くぞ」
「どこの誰だかわからぬが、ありがとう。しかし、水鏡先生のところへ行かなくてよいのかね」
「べつに。いいさ」
かえって、自分が顔を出さない理由ができた。
「立ち上がれるか?」
彼の問いに、孔明は膝をつかって上半身を起こしたが、腰を浮かせる段になり、痛みに顔をしかめた。
「折れたかもしれない」
「そうか、腕のほうは無事なようだな。下まで負ぶってやるから、腕を貸せ」
ありがとう、といって、孔明は素直に腕を伸ばしてきた。
十六という年齢に見合わず、徐州の出だけあって、孔明は上背がある。
しかし、肉付きが薄いためか、負ぶった孔明は、意外に軽かった。
あちこちの木々から、わんわんと聞こえてくる蝉の声を聞きながら、彼は道を降りていく。
背中の孔明が、言った。
「君はたしか、崔州平、だよな? 知らなかったが、良いやつなのだな」
手を貸してやっているから、そんなことを言うのだろうか。莫迦なやつ。親切心でそうしているのではない。無視することで、かえって揉め事を呼び込むことになるのが嫌だったからだ。
単純なやつ、と内心で嘲ってみる。しかし心はまるで晴れなかった。
「良いやつだなんて、なぜそう思うんだ?」
「喧嘩の理由を聞かないからだ。ああ、また姉上に怒鳴られるな」
しばらく行くと、私塾の手前で、たすき掛けをして袖をまとめ、腕には箒、という格好の、徐元直が立っていた。
掃除をしながら、ついでに二人を待っていた、というふうである。
徐庶は禁欲的に見える黒衣をつねに身にまとっている、いかにも隠者、といったふうの男だ。
かつては任侠の道をまっしぐらに歩いていたというが、その頑なそうな双眸が、むかしは凶悪な光を放っていただろうことは容易に想像できる。いまだ徐庶の中からは、猛々しい時代の名残が消え去っていない。
私塾の門弟たちとは、あきらかに体つきがちがう。鍛えられた男のそれだ。
これまで、徐庶と親しく話したことはない。
これまた、徐元直という男自体が目立つ男であったので、親しくすれば、自分が目立ってしまうと思ったからだ。
目立ちたくない。ひたすら、そこいらの岩陰にひっそりとある苔のように、かれは暮らしていたかった。
孔明を負ぶった崔州平があらわれると、徐庶は言った。
「裏を回っていけ。こっちには、今日こそ、そいつをバラバラにしてやるのだと息巻いている連中が待ち伏せをしているからな」
「いったい、何をしたのだ」
思わず背中の少年に尋ねる。ばらばらにしてやろうと相手に思わせるほどに憎まれるとは、たいしたものである。
呆れていると、徐庶が孔明の代わりに答えた。
「こいつを毎日殴るのを楽しみにしている連中がいるのだ。こいつも気が強いから、律儀にいちいち喧嘩を買う。しかし、連中も最近は、あまりに容赦がない。複数で、たった一人に、こうもしつこく嫌がらせを繰り返すことができる根性は理解できぬ。そうは思わぬか」
いやな質問だ。
「そうだな」
「傍で見ていても愉快なものではない。そこで、俺はそいつに智恵を使え、といった。そいつ、生意気だが妙に素直なんだ。たしかに智恵を使った。なにをしたと思う?」
「さあ」
「連中には、みな借金があった。こいつ、結構な財産家でな。連中の債権を、金貸しから全部買い取ったのだ。
で、もしこれ以上、自分を痛めつけることをやめないのであれば、借金の期日を縮める、と宣告した」
「なるほど、で、自分の命も縮めている、というわけか」
大胆なやつだな、と呆れつつ崔州平が言うと、そのとおり、と徐元直は深く肯いた。
「おい、聞こえているのだろう、孔明。たしかに人を支配するためには、人をの上を行く力を身に付ければよい。
だが、行過ぎると、大きな憎悪を招く結果となるのだ。おまえは方法をまちがえた。もう二度と、金で人を征服しよう、などと考えるな」
「だって、ほかに考えがなかった」
背中の孔明は、悔しそうにつぶやいた。徐元直に叱られるまでもなく、自分のしたことが、愚かだったと反省しているのだろう。
もっとも、事情を聞けば、そこまで追いつめられていた、と同情できなくもないわけだが。
「おまえの姉さんには、俺が使いを出しておいた。回り道をして帰れ。捕まるなよ」
孔明は、背中で身じろぎをしつつ、うめくようにして、徐元直に尋ねる。
「君はどうするのだ。わたしを逃がしたと知られたら、面倒だぞ」
「面倒だな。だが、なんとかなるさ」
強がりではない。徐元直の口調には、余裕がたっぷり含まれていた。
侠客であった徐庶からすれば、私塾とその周辺の狭い社会で、威張り散らしているだけの若造など、おそろしくともなんともないにちがいない。
「一人で大丈夫か」
思わず、口からこんな言葉が出ていた。
まずったな、まるで助太刀ができるような口ぶりだ、と思ったが、後悔の念は少なかった。
すると、徐元直は、快活に笑った。
「いいヤツだな、おまえさんは。俺なら大丈夫だ、それより、そいつをちゃんと家に帰してやってくれ。そいつ、水鏡先生から言わせると、龍なのだそうだよ」
「龍?」
「伏した龍だと。龍など、どんな生き物かはわからぬが、こいつに似ているらしい」
龍なんて見たこともない。それは同じであった。思わず、背中の少年を振り返る。
「頼んだぞ」
徐元直に言われ、かれは思わず、わかった、と肯いていた。
妙なことになったものだと思いつつ、孔明を負ぶって去ろうとしたとき、徐元直がたずねてきた。
「そうだ、俺は物覚えがわるいので、おまえの名前をまちがって覚えているかもしれぬ。たしか、崔州平でよかったよな?」
「ああ、そうだ。そうだよ」
つづけざまに二人の人間に良いやつだ、と誉められた。そして名前を覚えてもらった。
ささいなことであるが、それだけで、ほっと安堵する。自分が世間から浮き上がっていないと知ること、認められることは、かれにとってなによりも安心できることだった。自分はなんとか、この世間でやっていけるのではないか。そう思えて勇気が出るのである。
「また会おう」
そういって、徐元直が言った。
崔州平は答えなかったが、答えの代わりに、薄く微笑んで、うなずいてみせた。
崔州平が笑うと、徐庶もそれに答えて、微笑んで見せた。
そんな小さなことがきっかけだった。
孔明と徐庶。二人の友に出会ったその日が、崔州平にとっての、再生の第一日目となった。
※
蟻の巣穴と呼ばれる樊城の地下に張り巡らされた道は、敵の襲撃に備えて、道がこまかく分岐している。
しかも、天井が低く、幅も狭いため、戦うのも容易ではない。
積まれた石や土塁ののむき出しになった壁、湿った、かび臭いにおいのする通路。苔むしてすべるところもあれば、百足などの虫が不意に落ちてくる道もある。
樊城へ呼び出されるたびに下される命令、というのは、たいがいが下劣なものであったから、この道を通る、ということは、子供たちにとっては同時に命を削ることも意味していた。
だが、いまは、ちがう。
この道をくぐって、外に出て、自由になるのだ。
「早く、早く!」
足がもつれがちになる子供たちを励ましつつ、年長者は年少の子の手を引き、年少の子は、置いていきぼりになるまいと懸命に足を動かした。
かれらの長たる白の者は、輩に助けられながら、子供たちの殿をつとめ、背後から追いかけてくるものがないか、その気配をさぐる。
白の者が知る限り、樊城にいた壷中は、総数三百人。
うち、播天流の直属としてうごいていたのが三十名ほどで、残りは風狗や花安英に従って動いていた。
いま、白の者と行動を共にしている子供たちは二十名ほど。残りは、城に留まって戦っているか、あるいは風狗や播天流の部下たちに殺されてしまったかだ。
目が見えないぶん、白の者は、気配に敏感だ。
些細な風のうごき、わずかな気配、物音、すべてを感知することが健常者よりも早い。
背後からは、いまのところ、なにも感じることはできない。
粘度の濃い、淫蕩な闇が背後に蠢いている。
ひとたび具体的に未来を示されたあとでは、いまさら闇に戻る気は起こらなかった。
またあそこでひどい目に遭わされるくらいならば、いっそ死んでしまったほうがいい。
壷中の子供たちにとって、なれたはずの地下道が、だれの心にも、今日はひどく長いものに感じられる。
明るい未来を約束してくれた人たちは、無事にあそこから帰ってこられるだろうかと不安もおぼえる。
たった二人で、樊城にいる人間すべてを敵に回そうとしている。
かれらがいなくなってしまったら、ふたたび自分たちは闇に放り出されてしまうだろう。
ともに戦ったほうが、よかったのではないか…
むき出しの土壁をなぞりつつ前に進んでいくうち、不意に、前方の子供たちの足が止まった。
白の者は、己の体の毛穴が、大きく開くのをかんじた。
狭い空間に、恐怖とおどろきがあふれていく。
「主の危機を前に、城を捨てるつもりか、弟たちよ」
壷中の子供たちは成長すると、そのまま刺客になるが、特に見目良い者、劉表に気に入られた者は、去勢され、宦官となる。
宦官になるということは、世間からすれば、なにより屈辱的なことであるが、壷中のなかでは価値観が逆転する。宦官となった者の方が、より腕が立つことの証し。格が上なのである。
宦官の衣服を脱ぎ捨て、鎖帷子を身につけた、軽装の髭のないつるりとした面差しの青年ふたりが、子供たちの前に立ちふさがる。
一方の青年は、手に鎖鎌、もう一方の青年は、弓を持っている。
子供たちが怖じて、後退し、いちばん背後にいる白の者のところへ押し寄せてくる。
年長者が、逃げ惑う年少の者たちをかばうようにして、みずから武器をとり、青年たちの前へ立った。
青年たちは、かつて自分がそうであったから、子供たちに実戦の経験がほとんどないことを知っている。
壷中では、十四を過ぎた子供でなければ、外の世界へ派遣されることはない。
十四以下の子供は素直すぎて、かえって懐柔される恐れがある。
万が一、どうしても外にでなくてはならないときには、かならず壷中の、世間を知る年長者が行動を共にする。
そうして互いを監視しあうわけであるが、その際、行動を共にする場合に、より深い関係をむすぶことを、壷中は奨励する。
そうすれば、外地へ行っても、誘惑に負けることもすくなくなるし、年少者は年長者のために尽くすし、年長者は年少者によいところを見せようと、より奮闘するからだ。
そうして人間関係でもがんじがらめにして、脱け出せないようにするのが壷中のやり方であった。
「お通しください、あなた方にもわかっているはずだ。壷中はもう、滅びるのです!」
白の者の呼びかけに、しかし青年ふたりは冷たい笑いで応じた。
「新野の青書生に唆されたか。居候の筵売りの軍師に、おまえたちを救う力なぞない。いますぐ城へもどれ。なれば、許してやろう」
「あなた方のお許しはいりませぬ!」
決然とそう言い放つと、白の者は子供たちをかきわけ、心配そうに手を添える傍らの友から、武器を受け取った。
率いてきた子供たちのなかで、実戦をいちばんよく知っているのは、かれであった。
仲間たちが、仲間であったはずの者に殺められ、死んでいくのを目の当たりにして、怯えた子供たちを説得し、ここまで連れてきたのもかれだ。
だから、責任がある。
かれの世界は闇である。光はほとんどない。
感じるのは気配のみ。
足音、息遣い、それだけで、相手との距離を測らねばならない。
この身になってから、戦ったことなどなかった。
でも、なにもできないと嘆いて、ふたたび闇に蹲るより、ここで人を守るために死んだほうが、よほど気が晴れる。
刀の柄をぐっと握る。おのれの心を奮い立たせるために。
かちゃりと音をさせ、鞘から刀を抜き放つ。その音によって、白の者は、同時に、かつて光があったときのことを思い出していた。
まだ戦える。ふたりのうち、せめて一人でも倒す。
「愚かな」
青年のうちのひとりが言った。
その甲高い声に、白の者は同情をおぼえる。
自分と同じ者。
むりやり身体を変えられてしまった者。
そしてもっとむごいことに、それがひどいことだと気づけないでいる者。
じゃり、と音を立てて、鎖鎌が振るわれる。
その気配を察し、同時に白の者は足を運び、闇を切りつける。
加減がわからないために、ためらいが出てしまったが、それでも手ごたえはあった。
白の者は、自分の腕に自信があった。
あったからこそ、かつて単身で曹操の膝もとの奥深くにまで入り込み、そして捕らえられてしまったのだ。
口を割らないかれは、残酷に痛めつけ、連日連夜、なぶられつづけた。
身体が毎日のように切り刻まれ、悲鳴をあげない時がなかった。
意外にも、そんなかれを救ったのは、ほかでもない曹操直属の細作たちであったのだが。
久しぶりに刀剣を振るったために、息を整えることができない。そんな自分の呼吸が邪魔だ。
白の者はけんめいに息をととのえ、相手の気配を闇にさぐる。
かちゃり、かちゃりと、甲冑のこすれあう音が聞こえる。
近い。
今度は手加減をせず、思うさま闇を切った。
鈍い手ごたえ。そして悲鳴が届く。
悪態が聞こえた。自分の背後。ふたたび、じゃり、と鎖鎌の音が聞こえる。
自分に対し、そんな武器を用意したのが間違いだったのだ。
白の者は、ためらわず、刃を音の方向へつきつけた。
重く固い衝撃が走り、手にした刃が衝撃に負けて、割れるのを感じた。
しまった。岩盤に叩きつけてしまったか。
そして、足元に、ふたたび、じゃり、と鎖の音がする。しまった。
「崔兄!」
子供たちが、白の者の足首にかけられた、鎖の罠を見て、叫ぶ。
足を引くよりも早く、鎖は蛇のように巻きつき、白の者の片足の自由を奪った。
がくり、と均整をくずし、白の者はつよく前へと引っ張られる。
「やめろ、この!」
ただの子供たちではない。成人した兵卒たちすら耐えられないであろうという、苛烈な訓練を日々重ねてきた、立派な戦士である。
怯えているばかりではない。かれらは仲間の苦境を黙ってみていられなくなり、足元に転がる石をつぎつぎと、鎖鎌を持つ青年にぶつけていく。
石には、おのれの行く手を阻む者に対する怒りの心も乗せられていた。
「よせ、おまえたち!」
鎖鎌の男は、さらに力を込めると、白の者を引きずりこんで、おのれの腕の中にがっちりとおさえた、白の者の咽喉元に、鎌の切っ先をつきたてた。
「やめねば、この者はここで殺す!」
ぴたり、と子供たちの手が止まる。
年少の子供たちを庇って先頭に立っていた年長の子供が、悔しそうに顔をゆがませながら、たずねた。
「我らが城に戻れば、崔兄を助けてくれるのか?」
「もちろんだ。約束しよう。全員、城へ戻れ。賊から劉州牧をお守りするのだ!」
「そのあと、どうなる」
「逃げようとしたおまえたちの罪は問わぬ。さあ、城へ戻れ。奥にいるやつから、早く」
うながされ、子供たちは、うろたえつつも、白の者に突きつけられた刃におびえ、一人、また一人と、踵を返して、城の方向へ戻っていく。
白の者は、顎を掴まれた姿勢で身動きがとれないでいたが、それでもまだ、もがき続けていた。
子供たちの足音が、徐々に城のほうへと戻っていく。だめだ、止めなければ。
叫ぼうとしたそのとき、耳に、無情な声が聞こえてきた。
「おまえは、ここで死ね、裏切り者!」
「子供との約束くらい守れ」
とぼけた声がしたと同時に、ふっと身体を拘束していた力が弛む。
飛び散った血の生臭い匂いが、白の者の鼻腔をあおった。
その強烈な匂いに思わずゆらめいた身体を、支えてくれる者がある。
力強い手。
曹操に捕らわれ、責められつくし、もはや自害を夢見るようさえなっていたときに、救ってくれた、あのときの手だ。
「兄上?」
見えない向こう側にいる、なつかしい、血のかよった兄の名を呼ぶ。
すると、ふわりと、温かい感触が、肩を包みこんだ。
「無事であったか、心配したぞ。これから先には、もう賊はおらぬ。はやく地上へ行くがよい」
なつかしい兄の崔州平の背後には、まだ複数の男たちの気配がある。
劉表を暗殺するべく放たれた、曹操の部隊にちがいない。かれらに聞こえないよう、兄に肩を抱かれたまま、白の者は、顔を寄せてささやいた。
「諸葛孔明さまにお会いしました」
「左様か。で、どうした」
「花安英と風狗を止める、とおっしゃって、趙子龍さまとともに、樊城へ戻られました」
すると、崔州平はちいさく呻いた。
「逃げなかったのか。あいかわらず、腹が立つほど律儀なヤツだ」
「兄上、曹公にとっては、孔明さまも敵のはず。如何なされるおつもりか」
「おまえの案ずることではない。さあ、早くみなを連れて地上へゆくのだ。私の部下が、おまえたちを護ってくれよう」
でも、と白の者は言葉を継ごうとするが、崔州平はそれを許さなかった。
そうして素早く言う。
「おまえがどちらにつくか、それは私の決めることではない。
もしもヤツに付いていくのであれば、朝日が昇る前に、新野へ向かえ。曹公はすでに進軍のてはずを整えた」
天下が動く。
兄の言葉に、白の者はぞくりと戦慄した。
と、同時に、闇の向こうにある、温かい気配を悲しく見遣る。
もしかしたら、これが今生の別れになるのではないか。
「行け。わたしのことは、考えるな」
そう言うと、兄は、感傷や追慕を断ち切るように、子供たちをかき分けて、部下を引き連れ、樊城へ向かって行った。
※
ばかな、ばかな!
蔡瑁は、身体に埋め込まれた刃の痛みに耐えかねて、絶叫した。
しかしそれは、明確な言葉にはならず、ほふられる獣が上げる、断末魔にしかならなかった。
視界には、腹を刺されて横たわる、蔡夫人の身体が見える。まだ絶命はしていない。刺された腹を抱えたまま、痛みに耐えかね、うごめいている。
「琮!」
「気安く呼ぶな、下種め」
華奢な少年に握られた剣は、母たる蔡夫人の血、そしておのれの血がこびりついている。
ぽたぽたと床に落ちる血潮をながめつつ、手にした剣に、あまりにブレがないことに、蔡瑁はうろたえた。劉琮には、実の父母を殺すのに、なんのためらいもないのだ。
なぜだ?
言葉にならないので、目で訴える。
その表情も、傍からみれば、滑稽なほどに、不様なものだろう。天下にその名を知られた樊城の智将・蔡瑁。それが、まだ幼さを湛えた少年に、縋るような顔を向けているのだから。
それでも蔡瑁は、なんらかの手段でもって、問わずにはいられなかった。
なぜ、おまえが父を殺そうとするのか?
劉州牧のためか?
そんな汚らしい肉塊のため?
「わからぬか」
蔡瑁の無言の問いに、ぞっとするほど冷徹な声で、劉琮は答えた。
蔡瑁は、劉琮に悪鬼が取りついているのではないか、とさえ考えた。
そうでなければ説明が付かない。
従順な息子、劉表とおのれを繋ぐ、たしかな線。ただ利用しただけではない。樊城を我が物にしたら、それは同時に、おまえにここを譲る、ということであったのに。
そうして、いま天下から滅びようとしている劉氏に代わり、蔡氏が中華を握るのだ。
それなのに、なぜなのだ。
復讐? おまえを劉表に与えたからか?
それとも、劉表を父だと信じているのか?
おまえに、宦官に与えるような恥辱を与えた男のことを?
それとて、一時の我慢ではないか。
おまえは若さを理由に、あの男を繋ぎとめ、利用する役目、そしてこの父は、樊城の実権をおまえに集中させる手筈をととのえる。
どちらも泥を被る嫌な仕事だ。
だがそれは、お互い納得づくのことではなかったか?
そうしておまえが、この仕事を少しずつ楽しんでいたことを、儂は知っている、というのに。
「こんなちっぽけな城など、曹操にくれてやればよい」
劉琮は言った。
その表情の冷たく、そして凶悪なこと。
それは蔡瑁がいままで見たことのない、酷薄な息子の表情であった。
「わたしは劉氏の末裔、輝かしき高祖の血を引く、正当な漢王朝の末裔ぞ! このような小さな城に、未練などあるはずがない!」
「莫迦な、おまえには」
劉氏の血など、一滴たりとも入ってはいない。
口にするより早く、刃が振り下ろされる。
死にたくない。その一心から、蔡瑁は、渾身のちからを籠めて、身をよじり、叫んだ。
「だれか、出あえ、出あえ!」
しかし、つねに己に忠実に従っていた兵士たちの気配が、まったく感じられない。なぜだ。
「だれか!」
もう一度叫ぶ。腹の傷が激しい痛みを訴えてきたが、かまっていられない。助けを呼ぶほうが大事だ。
床に零れ落ちる赤いもの。どんどん床に広がり、汚していく。これほど血が出てしまったなら、無事ではいられない。ぐらりと視界が揺らぐ。貧血を起こしているのだ。
死にたくない。あがくように、蔡瑁は爪を床につきたてた。そうすることで、なんとか命をつなごうとしていた。
すると頭上で、劉琮の嘲笑が聞こえた。
「誰も来ぬ。おまえのような、でしゃばりの家臣には、もう付いていくことができぬとさ」
「だ、だれのためだと」
血潮で身体を汚しながら、狼狽する蔡瑁を、劉琮は鼻で笑う。
その冷たくおのれを見下ろす顔は、うんざりするほど、蔡夫人にそっくりであった。
「叔父上、あなたの部下は、もういません。わたしが頂戴しましたので」
「な」
ことばがつづかない。
「おさらば」
蔡瑁は、もっと早くに気づくべきであった。
阿片に心を蝕まれ、狂った欲望を、息子に平然と向けてくる父に仕えなければならない少年。
助けてくれない母親、もしかしたらおのれの実父かもしれない、傲慢な伯父。
公子、公子と崇められながら、実態は娼婦とほとんど変わらぬ屈辱的な扱いを受け、周囲を見回しても、似たような境遇に苦しむ少年ばかり。しかもかれらは、自分よりずっと身分の低い子供たちなのだ。
なぜ自分が。公子であるはずの自分が同じ目に遭わなくてはならないのか。
その怒りが、どこに向けられるか。
そして、名ばかりで、実はだれからも必要とされていない自分を肯定するために、なにを信じるようになるか。
劉氏の血を引く人間だと言う誇り。
それだけが、唯一の少年のよすがになっていったとしたら。
だとしたら、実父のように振る舞う、格下の伯父など必要ない。その伯父と、男女の関係をつづける母親も目障りなだけ。
そんなとき、劉琮は、許都で、本当に崇めるべき、真の君主と出会った。
その者は言った。
何者を犠牲にしても、朕を助けよ、と。
世にあまたいる群狼から、朕を救い出せ、と。
同族として、それがおまえに課せられた使命なのだ、と。
「おやめなさい、琮!」
いつの間にか、腹の傷を庇いながら、それでも必死になって床を張ってきた蔡夫人が、劉琮の足首を掴んだ。
劉琮は、それを無感動に見下ろすと、無情にも、母の手を蹴り飛ばして、払いのける。
蔡瑁は、これ幸いとばかりに、身体をずらして、なんとか部屋の外へ逃げようとした。
部屋に充満する、神経を麻痺させる紫煙のせいで、どうしても動きが緩慢になる。
苛立ちながらも、必死に動いた。
蔡夫人は、息子に蹴られながらも、それでもまだ、縋るようにして手を伸ばしてくる。蔡瑁はそれを尻目に、部屋から逃れようと這いずり回った。
劉琮は、おのれにすがりつく母親が目障りらしく、酷薄としか表現のしようのないその表情に、苛立ちを浮かばせはじめた。
「おやめなさい、やめて。その人は、あなたの父上なのですよ」
「ちがう!」
劉琮は怒りを爆発させ、叫んだ。
紫煙を突き破って、声は部屋中に響く。
「いいえ、あなたの父は、劉州牧ではない。その方です!」
「だまれ!」
劉琮は、大音声で叫ぶや、大きく剣を蔡夫人に打ち下ろした。
断末魔はなかった。
蔡瑁は、長年、さんざん利用しつくしてきた愛人の姿を、一度も振り向いてたしかめようとしなかった。
身体からぽたぽたと流れ落ちるのは脂汗か、それとも血なのか。わからなくなりながらも、肘をつかって床を這い、片手でなんとか扉を開けて、廊下に出た。
とたん、熱風が、脂汗だらけの相貌に吹き付けてくる。
そうして、あちこちで剣戟の音、弓の飛び交う音、炎さえ起こっている様子なのに、愕然とする。
兵士たちが、いない。
部将たちすら、逃げ出した。
あちこちで上がる悲鳴、火の手。
殺戮と掠奪の凶悪な風が吹き荒れている。
あれほど優美な姿を湛えていた樊城が、内部から崩れようとしていた。
蔡瑁は、背後の劉琮を気にしつつ、それでも必死に、芋虫のようにのたうちまわりながら、廊下に出た。
おまえ如きに。
もはや情など欠片もなかった。強烈な憤りがこみ上げてくる。
蔡瑁は、根っからおのれしか信じていなかった。だれであろうと、己に並び立つ者はゆるせない。たとえそれが息子であろうと、同じだ。
おまえ如きに、いままでの儂の積み上げてきた物を、崩されてたまるか。
そうして、なんとか欄干にまで手を伸ばし、渾身の力を込めて起き上がると、叫んだ。
「だれかあれ! 儂を助けよ!」