06年改訂版

孤月的陣

すでに崔州平が妻子とともに暮らしていた屋敷は、もぬけの殻であった。
近隣の者の話では、曹操の侵攻を避けるために、一家を率いて、夜逃げ同然に出ていったという。
警吏の報告に、孔明は暗然とした。
捕らえた代書屋の言うことが本当ならば、崔州平は曹操との『賭け』に負けたことになる。
曹操は賢い人材が好きだ。
隆中のなかでも名士である崔州平には、むやみに手を出さないだろう。
いや、出さなかっただろう。
いまはちがう。
どのような事情からか、崔州平は、曹操から、孔明の寝返りを請け負った。
しかも、支度金と称した大金をもらっている。
だが任務に失敗し、大金を持ち逃げしたのだ。
これは曹操は黙っていないだろう。面子を潰されてしまったのだから。

それにしても、ほんとうに自分をを寝返らせようとするならば、あの徐庶の手紙は、完全に裏目であった。
あんなもで、本当に心変わりをすると思ったのだろうか。
崔州平もまた、わたしという人物を読み違えていたのか…
徐庶の手紙が偽物だったということで、安堵すると同時に、孔明は、やはり胸が塞がれるような気分になる。
いままで、親友と呼び合い、ともに肩を並べて歩いていたのは、なんだったのであろうか、と。

ゆっくりと溶けるように夕日が西の空へ消えていく。
調練場は、最後に当番の兵士たちに清められ、白い石の敷き詰められた床は、茜色に染め上げられていた。
兵士たちの調練の成果で、ところどころに、足の動きのままに、へこんでいる箇所がある。
孔明は、執務室の窓から、もうだれもいない、だだっ広い空間を眺めた。
戦がはじまる。
この中で、どれだけが生き残れるだろう。
軍は恐ろしいものだ。
たとえどのような高い地位に昇っても、軍を操る者は、将兵に、できるだけ多くの死をもたらしてこいと命令する、残酷な者なのだということを忘れてはならない。
そういったのはだれであったか…そう、叔父だ。叔父が死んだのも、こんなふうに、うつくしい夕陽の溶ける日だった。

徐州から豫章の叔父のもとへ避難し、ようやく落ち着いたと思った矢先であった。
帝の綸旨を受けた豫章太守を名乗る男が、軍勢を率いて、襲ってきたのである。
玄の側に備えがなかったのもあり、戦らしい戦にもならず、勝敗はすぐに決した。
当時、劉表と孫家は荊州と揚州の境にほど近い、南陽や豫章を巡って争いをつづけており、この間隙を縫う形で起こった小競り合いであった。
孫家からすれば、叔父の玄は、袁術によって豫章太守に命令された、いわば袁術側の人間である。
袁術と孫家は絶縁状態にあったから、孫家を頼ることはできなかった。
そこで、玄は、姪と甥、それから郎党を率いて、かねてから親交のあった劉表を頼ることとなった。
ここからの旅もまた、恐怖に満ちた旅であった。
敵は、叔父が逃亡したのを見ると、すぐにこれに賞金をかけた。
そのため、欲に駆られた者たちが、道中の一行を襲いつづけてきた。
徐州からの避難行とは比べものにならないほどの、危険なものであった。叔父と、その部曲がついていてもなお、夜もろくに眠れない日が続いた。
なんとか荊州にたどり着き、叔父は劉表と対面した。
劉表は、諸葛一族を庇護することを約束し、新太守に使者を送り、ともかく太守の座をゆずれば、賞金首を取り下げる、という言質をとってくれた。
追い出されて、逃げ出したのであるから、当然、屈辱があるわけだが、玄は、子供たちの手前か、けして、恨み言を口にしなかった。
生きていられるのであれば、それだけで十分だと笑っていた。
周囲は、それを臆病者の強がりだとか、負け犬の遠吠えだ、などといって哂ったが、玄という男は、虚勢ではなく、本当にそう思っていたのだ。
おおよそ、目に見える物に対し、あれほど執着のなかった男はいない。
貧しい者がいれば施したし、同盟を組んだ者から請われれば、兵も兵糧も惜しみなく与えた。
気前がよいというよりは、金や地位に、価値を感じなかったのだ。
少年の孔明でさえ、叔父のやり方を見ていて、やりすぎではないか、だまされているのではと不安になったことがある。
それを訴えると、叔父は、おまえは心配性だと笑った。
真に無邪気というのは、こういう人のことを指すのだと、孔明は呆れた。
それでも叔父が好きであった。
馬鹿にされることもあったし、いつも他人に美味しいところをさらわれてしまい、損ばかりしている男であったが、いざとなれば、雄雄しく、すべてを賭けて自分たちを守ってくれる、芯から優しい、大切な砦であった。
孔明からすれば、たとえ馬鹿にされようと、臆病と罵られようと、生きていてさえくれれば、それだけでほんとうによかったのだ。

劉表は諸葛一族を迎えると、南陽に居住することを許してくれた。
今度こそ、落ち着ける。そうそう悪いことが重なるはずがない。
孔明は信じた。
おそらく、一族の誰もがそう思ったであろう。

玄は、孔明を伴って劉表のいる樊城へ行った。
特に用事があったわけではない。劉表のご機嫌取りをするための表敬訪問であった。
廊下を歩いていた。
すると、不意に男が現れて、玄にもたれかかった。
一瞬だった。
孔明が、男の手にある刃に気づいたときには遅かった。
いまも鮮やかに思い出せる、夕陽を照り返す、茜色の刃。
夕陽よりもなお赤い、血潮。
玄は、腹を割かれていた。
おどろき怯える孔明に、血の滲む腹をおさえながら、それでも、大事無い、と安心させるように笑った。
すぐに人が集まって、刺した男は取り押さえられたが、警吏に渡される前に、刺客は舌を噛んで自害した。
玄は手厚い看護を受けたが、その日のうちに、亡くなった。
刺客が何者であったかはわからなかったが、劉表は、新太守が差し向けてきたものだと言い、結局のところ、いまも正体がわからない。
少年時代は終わった。
十六歳の孔明は、一族を守るために、世間の前に立たなくてはならなくなった。



今日は、朝から感傷的になりすぎているようだ。
おのれを叱り、孔明は、その日、何度目かのため息をついた。
兵舎のほうからは、夕餉の支度をしているのか、美味そうな匂いがただよってきている。
孔明は、窓から離れて、文机の前に座った。
しばし外出していたために、仕事が山積みだ。糜竺がいない、というのも痛い。
それでも、仕事をしている間は、熱中して、いやなことを忘れていられるから、ありがたいことではあった。
そうしてしばらく筆を動かしていたのだが…

なんとなく、今朝、焼き捨ててしまおうと思っていた、黄承元の書簡が気になった。
側仕えのものに申し付けておくのを忘れて、崔州平のもとへいったため、それは、今朝と同じところに置かれていた。
押し付けられただけの結婚ではない。こちらにも打算があったのだ。
それがうまくかみ合って、縁談がうまくいった。
相手の強引さだけを疎ましく思うのも、情けのない態度だろう。

それはしばらく世間の語り草になるほどの、無茶な婚儀であった。
かねてより顔見知りであった黄承元が、めずらしく声をかけてきて、
「きみは妻はいらないか」
と尋ねてきたので、てっきり冗談だと思った孔明は、
「あなたと縁続きになることは、わが家にとって有利となります。いただけるならば、ぜひ」
と皮肉を込めて答えたのであるが、なんと黄承元は、これを本気と取ったらしく、その日のうちに、花嫁を自宅に寄越したのであった。
これに孔明は、当然、腹を立てたが、追い返したら追い返したで、花嫁があまりに気の毒であると思って、状況が落ち着くまでと思い、そのまま留めた。
いま思えば、あの女人にかぎっては、無用な情けであったと孔明はつくづく思うわけであるが、ともかく、形ばかりの夫婦は、こうして出来上がった。

黄承元とて、娘から、なにも聞いていなかったはずはない。
良くも悪くも婿として遇しようとしてくる黄承元に、孔明はむしろ戸惑っていた。
孔明は書簡を開いた。
内容は、想像したどおりのものであった。
孔明のつめたさと不義理をなじり、薄情者を夫に持って、無聊をかこつことになった娘の身を嘆いていた。
孔明は、読みなれた教本をくりかえし読むように、興奮することもなく、激情の籠められた文字を追った。
だが、それが最後の行にたどり着いたとき、はっとした。

『お気をつけなされよ、仇讐は壷中にあり。汝の身が、諸葛玄とおなじにならぬことを祈る』

仇讐は壷中にあり、とは、近頃の流行り言葉なのか。
糜竺は、その言葉を、おのれが戻らなかったら、必ず思い出せといった。
一方で、黄承元は、脅しの文句に使用する。
流行り言葉でないのなら、二人になにか、共通点があったのだろうか。

壷中。
そのむかし、費長房という男が、酒家にやってきては、壷の中に入って消える不思議な老人を追って、みずからも壷の中へ入りこんだ。
するとそこは大楼となっており、みたこともないほどの美酒佳肴が並んでいた。
よろこんだ費長房は、大いに飲んで楽しんで、現世へと帰ってきた。
有名な幻想譚である。
嘘か本当かはともかく、転じて、『壷中』とは、異境の楽園を指すことばとしてつかわれているのである。
乱世に生きる人間から見れば、壷中は、あこがれてやまぬ世界であろう。

しかし、その絢爛華麗な楽園と、仇讐などという物騒な言葉が、どうして結びつくことになるのだろうか。
そして、なぜ、舅は、叔父の名前を持ち出してくる?
叔父と同じ? 
そうだ、崔州平も、なぜいまになって、叔父のことを持ち出したのだ? 
叔父は刺客に殺された。
新太守の差し向けた刺客によって。
叔父が、劉表と繋がりが深いことを知った新太守が、劉表が軍を動かすことをおそれ、朝廷に訴えて、そして刺客が放たれたのだ。

出来ることならば思い出したくないことを思い返しつつ、孔明は、なにか奇妙な、胸騒ぎにも似た予感にとらわれていた。



しばらくして、劉備からの呼び出しがかかった。
至急の件であるという。
すぐに行くと返答し、孔明は、劉備の元へと向った。
仕事を片づけているあいだに、すっかり陽は落ち、夜空には満点の星が輝いている。
燭台を手にした案内係を先頭に、孔明は夜気を切るようにして進んだ。
劉備が至急の件を伝えてくるなど、めずらしいことであった。
部屋に行くと、扉を開く前から、緊迫した空気が漏れているのが知れた。
「何事かございましたか」
うむ、と頷いた劉備の目は赤く、孔明はとっさに、糜竺の身に何事かあったのではないかと想像した。
紙燭の灯された部屋には、劉備と、関羽、そして、旅装の、中肉中背で、目が大きく鼻の丸い青年がいた。
見たことのない男である。
細作でもない。薄汚れた旅装をしている。
三人の面差しは、一様に深刻で、暗いものであった。
「何事でございましょうか」
孔明が促すと、劉備は、文机の書簡を、孔明に差し出した。
読め、というのだろう。そうして、同情を湛えた眼差しで、劉備は孔明を見る。
なぜそんな目で見るのだろう。
孔明が書簡を受け取ると、劉備は言った。
「徐庶からだ。これは本物だ」
孔明は、息を呑んだ。
すると、三人目の旅装の青年が、こくりと頷いた。
「徐元直さまに託されたものでございます。主公と、貴方様へ、と」
書簡を開く前から、孔明は、まるでおのれの心の臓をぎゅっと掴まれたような、つよい痛みをおぼえた。
書簡にところどころついている、この黒い染み。
これは、血ではないのか。
震えるおのれの手を叱りつけ、慎重に、孔明は書簡を開いた。

母は死んだ
手紙は、いきなり、そう告げた。
怒りと悲しみの解けないうちに書いたのだろう。
文字は震えており、徐庶の受けた苦しみが、直に伝わってくるようである。
孔明は、まるでそこに徐庶の手の温かさが残っているかのように、指先でその字をなぞった。
ところどころぶれて、時には、はげしく乱れ、そして気を取り直し、また、乱れる。その繰り返しの文字。

徐庶は、過去に剣客だったときに、仲間の仇討ちで人をあやめていた。
そのときにお尋ね者となり、故郷に帰れなくなってしまった。
父は幼少時に亡くなっており、母子二人だけ生きてきた。
そのために、徐庶の、母への想いは特別なものがあった。
いつかりっぱな主公にお仕えしたあかつきには、母上をお呼びするのだ、というのが徐庶の口癖であった。
それまでも徐庶は、何度も母を、自分のいる襄陽に呼び寄せようとしたのだが、父の墓を守らねばならない、という理由から、ずっと断られてきたのである。
その事情を知っていたので、孔明は、徐庶が劉備のもとを去る、と聞いたときも、母親を人質に取られたのでは仕方がないと、素直に納得したほどだ。
孔明とて、もし叔父が存命で、おなじく徐庶のような立場となり、曹操に叔父を人質にとられたら、やむなく曹操に降る決断をしただろう。

内容は悲愴なものであった。
曹操は、徐庶に対し、新野城の情報を教えるように迫ったが、徐庶は、頑として口を開かなかった。
そのために、報復として、母親を殺されてしまったのだ。
それは冷酷な処置であった。
見せしめのためである。
今後、自分が南下することで発生するであろう、劉表および江東の家臣たちへの見せしめのため、そして、情報をもたらさない人材など、容赦なく切り捨てるぞという脅しでもあった。
さらに陰惨なことには、表向きは自殺と見せかけての殺害であった。
徐庶は表立って、抗議をすることもできない。酷い話であった。

「曹操も、ひでえことしやがる」
劉備がつぶやいた。それを受けて、関羽が言う。
「苛烈なお方だ。完全におのれに従う者でなければ、容赦をしない。屈せぬ者は、切り捨てる」
切り捨てる? 徐庶を? 
自分をここまで成長させてくれた、恩人とも兄とも呼べるあの男を、曹操は、わが元から奪っておきながら、今度は、まるで意味のないもののように、切り捨てる、というのか。
そんな莫迦な仕打ちがあるものか。
徐庶を呼び戻しましょう、と孔明は口にしようとしたが、声が出なかった。
無理に声にしようとすると、滂沱と涙があふれて、止まらなくなった。
悲鳴のような声が聞こえた。
それはおのれの嗚咽であった。
たまらず、顔を伏せると、劉備が立ち上がり、肩に手をかけて、労わるように、軽く揺すった。

書簡は最後にこう結んでいたのだ。
おれはもう二度と荊州にはもどらぬ。
曹公に逆らったこの俺が、あとどれだけ生きられるかはわからぬが、母がそうしたように、俺も父と母の墓を守るためだけに、残りの日々を過ごしていく。
おまえに会うことは、もうないだろう。
だが、もしおまえが、いつか俺に語ってくれたように、亡き叔父君の志を受け継ぎ、そして俺の志も継いでくれるなら、きっとおまえが、この国のあたらしい主公の軍師として、俺のいる中原にまで、やってきてくれることを夢見ている。
おまえの語る天下は、だれの語る天下よりも美しく、力強いものであった。
俺はおまえが与えてくれた夢を見て、眠り続けていることにしよう。
かならず起こしに来い。それまで、さらば、と。


旅をしていた。
行き先も日程もまるで決めていない、あてずっぽうの旅だった。
目の前に、不思議な光景があった。
それは、一見すると、なんの変哲もない光景だ。
草原があり、道があり、木々があり、往来がある。
ところが地面には、それまでずっと一つの轍を刻んでいたものが、とある場所までくると、綺麗に真っ二つにわかれていた。
いままでひとつの轍のあとをなぞってきたものが、二股に分かれて、それぞれ西と東に分かれていたのである。

「荷車を仲良く引いてきたのに、ここで喧嘩でもして、分かれたのかな。証拠に、轍はまったくぶれていない。おそらく、たがいの顔も見たくないほど、派手にやりあったにちがいない」
と、崔州平が言った。
たしかに、轍のあとは、相手をまるで見向きもしなかったように、迷うこともなく、別々の方向へと向かっていた。
だが、徐庶は言った。
「そうではあるまい。きっと、荷車にはおなじ荷物が運ばれていたのだ。ここでお互いの商品を広めるために、おなじ荷物を等分にわけて、西と東に散っていったのだ。
二股に分かれたあとの轍のあとがそれぞれにぶれていないのは、仲間がおのれと同じように、荷物を運んでくれるだろうとわかっているからだ。
もし喧嘩別れしたのなら、むしろしばらくは、互いのことが気になって、轍がぶれるものだろう」
まるで見て来たように言うのだな、と崔州平は呆れた。
だが徐庶は、穏やかに地平を見遣って笑い、孔明に言った。
「この轍を行った商人たちが羨ましい。一見すると、道は分かれているようだが、かれらは信頼で結びついている。じつはおなじ道を行っているのだよ。
とはいえ、かれらにそのことを教えても、そんなむずかしいことは考えてないと、かえって笑われるのだろうがな。
意識しない信頼ほど、つよい絆はないと思う。
俺もこんなふうに、人を信じて、真っすぐ前を向いて歩いていける人間になりたいものだ」
わたしは君を信じている、と孔明は思ったが、照れてしまって、口に出しては言えなかった。
それに、言葉にしたところで、崔州平がからかってきて、せっかく伝えた言葉が、冗談にまぎれてしまうのは想像がついた。

孔明は、漠然と、たとえいまは道が分かれていても、やがてはまた一つにもどるのだと思っていた。
まったく逆方向に分かれた轍も、はるか彼方では、ふたたび引き合うようにして、一つになっているはずだ、と。
徐庶は、道は、ばらばらに分かれているものだ、ということを知っていたのだ。
それがたまに呼び合うことはあっても、二度とふたたび一つに戻らない、ということも。


いま、道は分かたれた。
少年のころの幼い思い込みは、すべて払拭された。
未熟であったからこそ、美しい夢を見ていられた時代は、終りを告げたのだ。
あの草原で、徐庶は孔明に、先に行け、といった。
なぜ、と問うと、やはり笑って、なぜだろう、いつもおまえはおれのあとをついてくる。だから、たまにはおれの前を行くおまえの姿をみたくなったのだ、と答えた。
おかしな注文をつけるものだと苦笑しつつ、孔明は先に進んだ。
徐庶の言ったとおり、まるでぶれずに、力強く道に刻まれた轍を下に見ながら。

あの時とおなじ。
そして徐庶は、自分の来た道を、進むのではない。戻っていく。
その胸に、慟哭と後悔を刻みつけたまま、沈黙と哀悼の中で歩くのだ。


「徐庶の夢は、おまえに託されたのだ。おまえは、けして倒れちゃならないぞ、孔明」
と、劉備は言った。
「それが生き残っていく人間の義務だ。徐庶はおのれの人生を閉ざすことで、わしに忠誠を誓ってくれたのだ。わしたちが徐庶にしてやれることは、徐庶の言うとおり、あいつのいる所まで、迎えにいってやることだ」
劉備のことばに、孔明は、顔を上げた。
目の前に、力強い主公の顔があった。
「なあ、絶対に行ってやろう」
慰めではない。劉備は、ほんとうに行けるのだと信じている。
そうして、このお方もまた、多くの人々の夢を引き継いで、ここまで生きてきた人なのだと、孔明は思った。
劉備の傍らにいる関羽も、力強く肯いた。

この人たちは、なんと強い人たちなのだろう。孤独も重圧も、ものともせず、志を貫いて生きてきた。
道ははじめから分かれている。
けして交わることはなく、近寄ることができたとしても、互いに声をかけあうだけがせいぜい。
それでも、頑固に、三つ並んで、真っすぐ前だけを向いて歩いてく者がいる。
それが劉備たちであった。

孔明は、ようやく、なぜ徐庶が、劉備を主公として選択したのか、その真の理由がわかった気がした。
そうして、あの草原の轍を見て、徐庶が思ったように、孔明も思った。
わたしも、この人たちに負けないようになれるだろうか、と。

劉備の言葉に、孔明は涙を拭いて、笑みを浮かべて肯いた。
そうだ、必ず北へ行くのだ。
そうして徐庶に会いに行こう。
草原で先に行け、といった徐庶の姿がまぶたに浮かんだ。
彼はずっと、そこで待っていてくれるような気がした。



戸を烈しく叩く者がいる。
「人払いをせよと言ったはずだぞ」
関羽が言うと、聞きなれた声が、どこか掠れた声で返してきた。
「火急の用件でございます。どうか、主公にお目通りを」
趙雲か、と関羽と劉備は顔を見合わせ、戸を開けた。
つねに冷静沈着な趙雲にしては、まるで似つかわしくない、切迫した声であった。
戸の前には趙雲が、蹲るようにしていた。
いや、実際に蹲っている。
紙燭に映えたその顔は蒼白で、これまた、普段の様子とはかけ離れたものである。

「如何した。孔明ならば、ここにおるぞ」
趙雲の火急の用件、というのが、このところ孔明絡みばかりであったので、劉備はそう言ったが、べつにからったわけではない。
場は、わずかにも和まず、趙雲は、平伏したまま、震える声で告げた。
「樊城から早馬が参りまして…主公、申し訳ございませぬ!」
そう言うと、趙雲は平伏したまま、地面に顔を擦り合わせるようにして、泣き始めた。
孔明は、咄嗟に声をかけられずにいた。
まだ短い付き合いであったが、趙雲がこれほどまでに感情を乱しているのを目の当たりにして、実のところ、おどろいていたからだ。
それに、徐庶のこともあって、頭が麻痺して、対処ができなかった。

こういうときに強いのが劉備である。
「おいおい、なんだっていうのだ、今宵は、おまえもか。泣いていちゃ、わからねぇだろう。なにがあったのだ」
劉備は言いながら、身を震わせる趙雲の前に、おなじように座り込んだ。
こうしてわざと揶揄することで、相手の客観性をとりもどさせ、自身も平常心を保とうとするのが、劉備のやり方であった。
「樊城から、劉公子より早馬が参りました」
「劉公子だと? それで?」
劉備に促され、ごくり、と趙雲がつばを呑んだ。
「わが配下の斐仁が、劉埼さまの家臣を、樊城にて斬殺し、その場にて捕らえられた、と」
「なんだと! なぜだ!」
関羽が叫ぶのと同時に、ばたばたと足音がして、糜芳と劉封が、連れ立ってやってきた。

孔明は、趙雲の報告の衝撃で、かえって冷静さを取り戻した。
そうして、武装した将兵を引き連れた、糜芳と劉封をみて、まずいな、と舌打ちをした。
糜芳は、糜竺の弟であるが、兄とはちがって、弓馬の才能を高く買われ、武将として劉備の配下に連なっている。
劉封は、劉備の実子である阿斗が生まれる前に養子にした少年であるが、孔明が軍師として配下に加わってから、孔明に対立する一派の中核を為していた。
両名とも、孔明があらわれるより前から、趙雲に反感を持っていた。
敵意を剥きだしにしている二人に対し、趙雲は、らしくないことに、すっかりおのれを失くしており、劉備が懸命になだめている。
守らねば。咄嗟にそう思い、素早く頭を働かせはじめた。
「子龍、ここにおったか! 主公のもとへ逃げ込むとは、卑怯なり!」
糜芳はがなるように言った。
眉の濃さと、目の細さがつりあっていないために、かえって強い印象を与える風貌をしている。
その顔は興奮し、朱に染まっていた。
「主公、表で使者どのが待っておられます。子龍を捕縛し、早く樊城へ引き渡さねば、劉州牧と戦になりますぞ!」
その言葉に、劉備は素早く反応した。
「莫迦を申すな! まさかおまえら、子龍が先走って、樊城になんだかややこしい陰謀を仕掛けたとでも思っているのじゃねぇだろうな」
劉備はうなだれる趙雲の両肩に、息子にするように、手を置いて励ましていた。
趙雲は言葉を返さない。

沈黙に乗じるように、糜芳がつづけて訴えてきた。
「そのまさかでございます。斬殺された家臣は、かねてより長子の劉琦殿を跡継ぎにと、伊機伯殿とともに、推しておられた方。
これで、樊城の群臣の意見は、次男である劉琮殿に傾きましょうぞ。劉埼殿を推されている主公の分も悪くなり、曹操が南下した場合、樊城からの支援が見込めなくなるかもしれませぬ!」
「養父上、子龍はおそらく、蔡氏につながりのある、『とある御仁』の意を受けて、こたびのことを、養父上に相談なく画策したに相違ありませぬ。
劉琮殿が家督を継げば、その御仁を通して、養父上が劉琮殿の後ろ盾として、荊州を意のままに出来ると踏んだのでしょう。
いまならまだ、子龍ひとりに責めを負わせれば、樊城側も納得することでございましょう。何事もなく済みます。ご決断を!」
劉封が糜芳のことばを後押しするかたちで、前に進み出て、付け加える。


荊州の太守である劉表には、二人の息子がおり、長子を劉埼、次男を劉琮、といった。
本来であれば、家督は長子が相続するものと決まっているのだが、悪いことにこの劉埼、身体が弱く、くわえて気が弱い性質で、太守の器ではなかった。
一方の劉琮はまだ幼いのだが、利発な性質で、劉表は目にいれても痛くないほどに可愛がっている。
おなじように、生母の蔡夫人への寵愛も深かった。
さらにこの蔡夫人は、おのれの生んだ子を太守につけるべく、あの手この手で劉表に劉埼のことを讒言し、劉埼を疎んじるように仕向けていたのである。
群臣は黙っていない。
劉琮が幼いのと、横暴に権力を振るう蔡一族への反発もあり、いま、樊城はすべての家臣を巻き込んで、真っ二つにわれて、争いを起こしているのだ。
その蔡夫人の姪が、黄夫人、つまりは孔明の妻なのだ。
劉封はつまり、孔明が、劉埼を除き、劉琮に家督を継がせることで、蔡一族へ恩を売り、同時に後ろ盾の名のもとに、実権を劉備に握らせようとしているのだ、と言いたいのである。


これは、なんの陰謀だ? 
孔明は、素早く頭を働かせた。
とうぜん、身に覚えはないし、趙雲には、その性格上、ほかのだれの策であれ、陰謀の片棒を担ぐことはできまい。
脅迫されて已む無く、という可能性もない。
趙雲が、どんな嘘をついたとしても、それを見破れる自信が、孔明にはあった。

となると、これは、罠だ。
狙いは誰だ? 
子龍か? 
主公か? 
わたしか?

「おまえたち、何を言っているのだ。子龍を差し出すなど、そのような真似を出来るわけねぇだろうが!」
劉備が、趙雲を引き渡せと迫るふたりを、鋭く一喝した。
「甘いことを! 子龍は、我ら全員を苦境に陥れたのでございますぞ!」
「まだ、はっきりそうと決まったわけじゃねぇだろうが! いいや、わしは、そんなことは絶対にありえねぇと思っているのだ! おまえら二人とも、下がれ!」
「いいえ、下がりませぬ!」
糜芳は、不遜にも、劉備が抱えるようにしている趙雲を、引き離し、連行しようと足を向けてきた。
孔明は、そのあいだに素早く割り込むと、おどろき、身を止めた糜芳と劉封の両者を、敢然とねめつけた。
「問おう。貴殿らは、いかなる権限を用いて、子龍を樊城へ連れて行こうというのか」
「軍師、邪魔はやめていただきましょう。貴殿のお心、お隠しになられても、すぐにあきらかになりますぞ。見苦しい真似はおやめなされ」
「黙れ、無礼者めが!」
孔明の一喝が、夜闇に響いた。普段はもの静かな孔明だけに、その落差が、いっそうの迫力を醸し出す。
「わたしがなにを隠しているというのだ。じつに聞き捨てならぬことを口にする。貴殿らは、わたしが子龍に命令し、劉公子の腹心を斬らせたと、そう言いたいのであろう。そこまで言うのであれば、わたしが陰謀を画策したという証拠を見せよ!」
「そのような悠長なことをしていられるか! いまは、新野城、ひいては主公の危機なのだぞ!」
糜芳は、赤い顔をさらに赤くして叫ぶ。
この男とて、それなりに、劉備の心配をしているのである。
だが、趙雲への、もともとの悪い感情もあいまって、余計に感情的になっているのだ。
「主公に危機をもたらしているのは、ほかならぬ、貴殿らではないか! いまここで闇雲に騒ぎ、子龍を樊城に渡せば、そのまま我らに陰謀の意志があったと認めることにもなるのだぞ!
もしも、劉表どのが、われらを信じずに、害意ありと見て戦を仕掛けてくるならば、われらは潔白を示すためにも、これを迎え撃つまでのこと。
いまは仲間割れをしている場合ではない。貴殿らの主公は、劉表ではなく、劉予州ではないのか。もし貴殿らが、どうしても子龍を連れて行くというのであれば、わたしは貴殿らを警吏に捕縛させる」
「なんだと!」
「新野城の全権を預かっているのは、このわたしだ! 貴殿らではない!」
糜芳らは、痛いところをつかれて、うろたえた。
視線を泳がせ、劉備や関羽たちを見るが、だれも助け舟は出さない。
隙を逃さず、孔明はたたみ掛ける。
「追って沙汰をする。貴殿らは、下がられよ」
しかし、糜芳も劉封も、そのままでは収まらないらしく、まだ反論をしようと口を開こうとする。
ふたりが言葉を口にする前に、孔明は、吼えるように一喝した。
「下がれ!」
空気をも震わせる、まさに龍の咆哮であった。
糜芳と劉封は、声に追われるようにして、あわてて引き返していった。


これでよし。しばらく時間を稼げるだろう。
まずは、樊城へ使者を立てなければなるまい。
糜竺がいないのが、やはり痛い。
ほかに、劉表につながりを持っている、弁の立つ者はいないだろうか。
黄家とのいざこざがあるから、わたしが行くわけにはいかない。
もっとややこしくなる恐れがある。


「おい、子龍、どうした」
劉備の声に振り返ると、趙雲が、蹲ったまま、動かないでいるのが見えた。
孔明は、劉備に抱えられるようにして、意識を失っている趙雲に駆け寄った。
触れると、肌が熱い。熱があるのだ。
「寝台に運びましょう。それから、薬師を」
側仕えの者を呼ぼうとする孔明に、関羽が寄ってきて、言った。
「貴殿は、子龍に付いておられよ。諸将をまとめるのは、わしと兄者でやる」
「かたじけない。ですが、将軍、よろしいのですか」
孔明の問いに、関羽は重々しく、うむ、と答えた。いかなるときでも山のように堂々として、動じない。それが関羽だ。
「兄者のため、ひいては新野城の民のためだ。貴殿は子龍から、なにがあったのか、事情をくわしく聞いてくれ。樊城への対処も違ってくるからな」
孔明は関羽の言葉に肯いた。
そうして、腕の中で意識をうしなっている趙雲を見下ろした。

信じられない。なんという弱弱しい姿か。
弱い部分なぞ、どこにもない男だとばかり思っていた。
守らねばならぬ。
胸のなかにあるのは、また親しい者を奪われるのではないかという恐怖と、奪おうとしている何者かへの、烈しい怒りであった。
    

雨の章へつづく
更新履歴へ戻る
MAPへ戻る