06年改訂版
孤月的陣
夢
二
そのまますぐに新野城に帰ることが、どうしても辛かったので、孔明は牛のようにゆっくりと、どんどんきつくなる夏の陽射しを受けながら、歩いた。
地面に投じる、おのれの影が、濃い。
当然のことだ。強い光を浴びれば浴びるほど、影はどんどん濃くなってゆく。
孔明が、司馬徳操の門下にくわわったばかりのときは、まだ背も、いまほど高くなかった。
当時は、飛びぬけて色が白く、少女のようなはかなげな面差しをしているのに、外見を裏切って、ずいぶんと生意気だ、というので、先輩たちと喧嘩になることが絶えなかった。
律儀な性格が裏目に出て、孔明は、売られた喧嘩はすべて買った。
負けることが最初から判っていても、逃げずに買った。
喧嘩を売られる理由は『生意気』だとか『えらそう』『目つきが人を馬鹿にしている』『うぬぼれや』そのほかもろもろ。
『汚らしい』と『卑怯』がなかったのだけは、孔明の自慢である。
一度などは、数人で顔ばかり集中して殴られて、顔が倍に腫れあがったこともある。
それを見た姉が激怒して、相手の家長へ直談判をしにいく、とまで言ったが、孔明は頑として、姉が出て行くことをゆるさなかった。
眼だって満足に開かないほどに顔が腫れていても、孔明は気にせずに、司馬徳操の塾へ行った。
最初は、孔明に友と呼べる人物が、ひとりもいなかった。
ありとあらゆる兄弟子たちにきらわれ、無視されている徐州の(よそものの)新入りなどに、わざわざ近づく者はいない。厄介ごとを抱える余裕のある者は、どこにもいなかった。
それに孔明のほうにも問題があった。
叔父を失ったばかりで人間不信に陥っており、めったなことでは笑顔を見せず、しかも口を開けば辛辣な嫌味と知ったかぶり、という状態なのだから、反発を買っても仕方のないところがあったのだ。
いつものように、塾の休み時間に、腫れた顔を近くの小川で冷していると、めずらしく声をかけてくる者があった。
だれかが嘲いに来たのかな、と構えた孔明であるが、そうではなかった。
「おまえ、見かけによらず、意外に喧嘩早いのだな」
と、その男は言った。
声をかけてきた男の顔をみて、孔明は意外に思った。
荊州豪族の子弟が多い司馬徳操の塾のなかで、その男だけは、雰囲気がちがっていた。
まず、着ている服がボロである。
だれよりも遜った態度を取っているが、どこか硬質で近寄りがたい。
かつて剣客だったという、特異な前身を持っている。
友達が石広元という偏屈者だけ。
たしか、徐庶、というのではなかったかな、と孔明は、どう答えたものかつかみかね、返事もせず、判る範囲での徐庶のことを思い出していた。
以前から、徐庶には、おなじ嫌われ者同志、ということで、親近感は多少あったけれども、いままで言葉を交わしたことはない。
長身で、けもののようにしなやかな体躯をしている。
質素な着物をぞろりと着流しており、その世間慣れした雰囲気が、世間知らずの良家の子弟の中ににあって、独特の存在感を放っている。
双眸に力のある若者で、口に黒々と髯をたくわえているのだが、不潔な印象はない。
その学生らしからぬ風体にくわえて、だれよりも朝一番に塾にあらわれて、ひとりで教室の掃除をしているので、口のわるい者などは、
「あれはうちの塾の小間使いだ」
といって馬鹿にした。
孔明も同じように考えていたわけではないが、あえて無視をして、顔を清水でぬぐった。
人と関わるのはまっぴらだと思っていたのである。
しかし、顔だけではなく、手も腫れているため、思うように水を掬えない。
見かねたのか、徐庶が近寄ってきて、孔明に手ぬぐいを差し出した。
孔明が戸惑い、受け取らないでいると、徐庶は苦笑を浮かべて言った。
「汚れてはおらぬぞ」
貧乏人は汚れていて臭い、と公言してはばからないばか者も、中にはいる。
徐庶も、家柄を鼻にかけていて威張っている者たちに、同じように悪口を叩かれているのを孔明は知っていた。
ここで受け取らねば連中の仲間のように思われる。それは我慢ならないことであったから、孔明は、手ぬぐいを受け取った。
「ありがとう」
「お、喋れるのだな」
やはりからかいにきたのかと、孔明は、人間不信に満ちた、くらい眼差しでもって徐庶をにらみつけた。
しかし、徐庶のほうは、その視線を和らげようとでもしているように、手をひらひらと振って、言った。
「おっと、そんな恐ろしい目で睨むな。おまえをからかいに来たのではない」
「では、なぜわたしに声をかけてきた」
「困っているやつを見たら助けるものだろう」
「べつに困ってなんかいない」
「しかし、満足に顔を冷せないでいたではないか」
そちらの「困る」か、と思いつつ、孔明は特に腫れて、黒くなっている部分に、冷えた手ぬぐいを当てた。
「おまえは名前のとおりだな」
と、痛みと腫れのために震えている孔明の手から手ぬぐいをとると、徐庶は、自分で清水に手ぬぐいをさらして、ゆるく絞り、孔明の顔に当てようと、手を伸ばしてきた。
孔明は、とっさに身を引いて、徐庶の手を逃れる。
空振りの手をおさめつつ、徐庶は戸惑って孔明を見た。
怒るかと思えば、そうではなく、孔明の表情に、むしろすまなさそうに口を曲げてみせる。
孔明は、自分の顔に、恐怖の色が浮かんでいたことを悟り、あわてて顔をそむけた。
「急にすまなかった。悪かった」
「べつに。あまり、人に触れられるのは好きじゃない」
「そうみたいだな。おまえを見ていたら、だれかが肩に手をかけてきただけで怒っている。最初は、深窓の姫君ゆえのわがままかと思ったが、ちがうようだな」
「遠慮のない人だな」
苛立って、孔明は小川から離れ、塾のほうに戻ろうとする。
そのうしろから、徐庶が追いかけてきた。
「おい、待てよ。すこしでも冷さないと、もっとひどくなるぜ」
「放っておいてくれ。なぜ、わたしにかまう」
「興味があるから」
端的な言葉に、逆に興味をひかれ、孔明は足を止めて振り返った。
「どういう意味だ?」
「このあいだ、おまえと一緒に市場で買い物をしている姉さんを見たぞ。きれいな方だな」
なんだ、姉上狙いか、と孔明は、むっとして思った。
落ち着いてきてから、孔明が叔父から譲り受けた財産と、姉の美貌に惹かれて寄ってくる男が増えてきた。
きらわれ者の孔明に声をかけてくるのは、孔明自身に興味があるのではなく、孔明の金と、姉に興味があるからなのだ。
徐庶は、孔明の剣呑な目線に気づかないのか、それとも気づかないフリをしているのか。
かつて剣客だった、というのが信じられないほど、ゆったりとした喋り方をする男であった。
「正直、うらやましいなと思ったよ。きれいな姉さんと、仲のいい弟。暮らしに困らぬほどの財貨があり、しかも名家。
それにおまえ自身も、稀なほどに綺麗な顔をしている。説客になるならば、この美貌は武器になるぞ。その不遜な態度だって、長じればもっと板についてきて、白を黒と言い含められるくらいの説得力を持つ、堂々としたものになるだろう」
「それはどうも」
腫れた顔をさらにしかめようとして、思わず痛さが走る。
それを見て、徐庶は愉快そうに声を立てて笑った。嫌味な笑いではなく、心底、面白がっているようであった。
「孔明、か。『はなはだ明るい』とは、おまえにぴったりの名前だ」
「父上が、叔父上と相談して考えてくれた字だそうだ」
叔父のことを考えると、孔明の気分はどうしても暗く落ちていく。
血潮のように夕陽に赤く染まった樊城と、黒い影、床と壁に散った、本物の血。
あまりに赤すぎる光景のなかで、血は影のように黒く見えていた。
叔父に男が話しかける。
叔父が足を止め、振り向く。
途端、男が叔父に持たれこむ。
叔父の顔が驚愕に見開かれ、そして、男と叔父のあいだにあるのは、刃であった。
うろたえ、人を呼ぶこともできず、唖然とするだけであった孔明に、叔父は、刺された腹を抱えたまま、微笑みかけてきた。
安心しろとでも言うかのように。
男の正体は判らない。
叔父を刺したあと、飛んできた警吏に捕らえられる直前、逃れられぬと観念したものか、舌を噛んで絶命した。
叔父はすぐに手当てをうけたが、ほどなく死亡した。
叔父は、もはや明瞭な言葉を口にすることすらできなかった。
叔父のこぼした血を受けたまま、孔明は、目の前で消えた二人の死を見つめるだけであった。
叔父は、予章をめぐる争いで、朱皓と対立していたから、おそらく朱皓の刺客であろうと、人は言った。
孔明はどうしてもわからなかった。
叔父はとても立派な人物であった。
三人の姪と甥を、実子のように可愛がって育ててくれた。
自身の領民にも、同じように分け隔てなく接して、慕われていた。
叔父の悪口を聞いたことがないほどであった。
それなのに、なぜ、こんな無惨な死を迎えねばならなかったのか。
叔父の死後、諸葛家の家督は孔明が継ぐことになった。
そのまま、叔父の権利を主張しなかったのは、同じく刺客に狙われることを恐れてのことである。そして、叔父の残してくれた財貨とともに、姉弟とともに、襄陽へ越してきたのであった。
琅邪から荊州への道中でも、多くの死を見てきた。
しかし、それは孔明にとって、風景の一部に過ぎないものであった。
恐ろしい、悲しい風景であったが、そこに心を寄せることはできなかった。いや、してはならないと、頭のどこかで警告が鳴る。見すぎてはならない、と。
それは正常な判断だっただろう。ひとつひとつに心を寄せていては、感受性のつよすぎる少年の精神はもたなかったはずだ。
だから、必要以上に考えること、同情することを止め、風景として記憶に止めるだけにしてきた。
しかし、叔父の死は、孔明が始めて触れた『意味をもつ死』であった。
暴力と、そのもたらす悲惨な結果を、目の当たりにしたことで、孔明の心に、つよい人間不信と、人間そのものに対する恐怖が生まれたのである。
十六の少年の頭のなかで、叔父が暗殺されたことに対する恐怖、兄と義母の不義への嫌悪は、容易に結びついた。
結果、孔明の心には深い傷が刻まれた。
それは、人から触れられることに対する恐怖に転じていったのだ。
「よい字だ」
と、徐庶は繰り返した。
しつこく、家のことを聞かれるかと構えていた孔明であるが、徐庶はそういうつもりはないらしい。
なぜ、兄弟子たちと喧嘩が絶えないかといえば、妙になれなれしくしてきたり、あるいは、逆に家のことを根堀り葉堀り、聞いてくるからだ。
目的はわかっている。自分に興味があるのではなく、姉と金、あるいは両方に近づきたいからだ。
聞かれれば、叔父のことにどうしても触れなくてはならなくなる。
口を閉ざせば、お高く止まっていると言われるし、中には年長だからとか、豪族の一門だからとかいう理由で、脅しをかけてくる者もいる。
だから孔明は喧嘩をするのである。たとえ暴力で打ちのめされることになっても、卑屈な態度をとって、あとで後悔するよりは、ずっとマシだと思ったからだ。
「元直だって悪くはない。貴方は、わたしの字を誉めに来たのか?」
「おまえを見ていると、なぜだか面白い。怒るなよ。俺は正直なところ、おまえみたいに本当の意味で派手なやつを初めて見た」
「どういう意味?」
「見た目がどうとかいう意味じゃないぜ。なんというかな、おまえには光るものがある」
「そう」
さすがに面と向かって言われて、孔明は照れたが、もともと顔が腫れているために、頬が紅潮したことは、徐庶には気づかれなかった。
「明るく輝くがゆえに、出来る影もまた濃い。おまえを気に入らぬという輩は、おまえが妬ましくてしかたがないのだろうな。妬ましいのだが、おのれでもどうしようもないことに気がついている」
「そうだろうか。単に、連中が莫迦だからじゃないのか」
と孔明が言うと、徐庶は同調せずに、言った。
「だがな、いかに優れた素質をもっていたとしても、それを生かすことができるかどうかは、別だぜ。連中とおなじ程度に止まって、いちいち相手にしているのは、利巧なやりかたかな。おまえ、いまのままでは、おのれでおのれを駄目にしてしまうぞ」
「さっきから、なんなのだ。意味ありげなことばかり言って、本当はなにが言いたい?」
苛立った孔明に、徐庶はうしろ頭をかきつつ、答えた。
「だよな。怒るよな」
「怒るとわかっていて、なぜ言う」
「まったくだ。しかし、なぜだか、言ってやらなくちゃいけないような気がしたのさ。俺は口下手なので、どうも人を怒らせる。俺がなにを言いたかったのかといえばだ」
「なんだ」
「おまえは莫迦だ、ということだ。自分で自分の可能性を潰している」
孔明はおどろいた。
喧嘩の相手に罵倒されるのはいつものことであったし、莫迦扱いされるのも日常茶飯事であったが、徐庶の口にした『莫迦』は、いままで聞いた、どの言葉よりも深い意味を持っていた。
それから徐庶は、孔明の人生につよい影響を与える人間になっていく。
ふと、水音がした。
蝉の声、せせらぎ、そして、水の跳ねる音。
道から茂みを見下ろすと、ちょうど小さな泉があって、そこで、近在の村の子どもたちが遊んでいた。
木陰では、子どもたちの母親らしい、恰幅のよい女が、座って刺繍を行っている。
なんと、のどかな風景か。
心がささくれ立っていた孔明は、郷愁さえ感じさせてくれる穏やかな風景にほっとして、引き込まれるように、泉のほうへ下りていった。
孔明が岸辺にあらわれると、子どもと母親は、立派な身なりのひとが、いったいなんだろう、と驚いたようであったが、孔明がにっこりと微笑みかけると、安心したのか、ふたたび子どもは遊びはじめ、母親は手元に目を戻した。
ふつうの農家の一軒分くらいの大きさしかない、ちいさな泉であった。
つづいた雨のせいか、少々、水かさが増しているようである。
底のほうまで澄んだ水には、げんごろうや小魚が泳いでいた。
孔明は、屈んで、水をすくい取った。
崔州平を殴った、利き手が、いまになって痛む。
徐庶の言葉を思い出し、孔明は苦笑した。
おまえは莫迦だ。
そう言われてから、孔明は、片っ端から喧嘩を買うことをやめた。
人からなにを言われようと、泰然とした態度を貫いた。
ときには挑発に応じることもあったが、それは度を越えてひどいときだけに限った。
徐元直という話し相手ができたことで、孔明のなかにあった人間不信、理不尽な世の中への怒り、叔父を奪った者への怨みは、徐々にやわらいでいった。
なくなることはない。
しかし、それが周囲に雑然とある物、人に、安易に結び付けられて爆発することはなくなった。
あらためて心が平安をとりもどせば、余裕ができて、叔父の身に怒った悲劇を、冷静に見つめることができるようになった。
何故、死なねばならなかったのか。
叔父は敗者だったのか?
どう戦えば勝てたのか。
自身のことと結びつけて考える兵法は、ただ字句を追って意味を頭に収めるよりも、ずっと実践的な知識として身についた。
もしも、叔父が朱皓に勝ち、いまも予章に太守として暮らしていたら、叔父の補佐として領地をおさめていただろう。
叔父の名を高めるために、どんなふうに振る舞うべきか。領民のためにどうすればよいか。
懐かしい思い出を基礎に、叔父を英雄の一人にするためには、どうしたらよかったかと、孔明は空想の過去に遊んで考えた。
それは、たわいのない空想には終わらなかった。
学問を進めれば進めるほどに、空想の王国は充実していった。
数々の書物につづられた、過去のさまざまな出来事を、自分の頭のなかにある空想の王国に重ねて、どうすればよいかを考える。
そこには、空想とはいえ、生きた人物がいて、苦しんだり、悲しんだり、憤ったり、思わぬ失敗を重ねたりする。
かれらが、なぜ失敗をしたのか、どうすれば良かったのか、楽しみながら考えれば、ただ故事を暗記して考えるよりも、ずっと身に付く。
だから、孔明は、暗誦はまるでできなかったけれど、どこの書物にどんなことが書かれていたのか、その内容を、ほぼ正確に掴んでいた。
ただ読むだけでは意味がない。読書の数をこなしたからといって、それは賢者への道とは限らない。
ある程度の位に昇れるだけの知識はつくだろう。
問題は、読書の数ではなく、どんなふうに籠められた意味を読んだかなのだ。
司馬徳操の門弟のなかには、そのあたりを勘違いしている者が多かった。
あたりかまわず、ただ読むことだけを目的にするよりも、ひとつの良書を徹底的に読み返したほうがよいときもある。
孔明の学習態度がほかと違うので、やはり変わらず、変わり者よとのけ者にされつづけたが、孔明は一人にされるほうが、むしろよかった。その分、邪魔されずに自分の内なる世界で遊ぶことができる。
孔明にとって、学問は将来食べるために必要なものではなく、楽しみを増やしてくれるものであった。
そのうち、司馬徳操より号が与えられた。
孔明自身も、おのれの中で重ねた学問の成果が、世の中に通じるものであることに気づき始めていた。
やがて、どうせならば、世の中を変えようと思うようになる。
本当に力があるのならば、たとえ、叔父と同じような最期を遂げることになったとしても、怯えて縮こまり、恨み言ばかりを口にして生きるよりはいい。
まだ力は足りない。もっと学ばねば。今度は、書物から得るものばかりではなく、いま目の前にある、世の中から。
そうして、徐庶たちと共に、国中を旅してまわった。
それは、一人だけで蓄えた知識を是正する旅であり、偏見を崩し、世の中への愛着と、自分の自信を深める旅でもあった。
それは、徐庶という理解者が同行していたからこそ、充実したものとなった。
孔明は徐庶にすっかり頼りきるようになっていた。
徐庶の言葉は、孔明によって玉条に等しい。
徐庶がよいといえば、それはよいものであったし、だめだと言ったら、それはわるいものであった。
徐庶が曹操のもとに降らねばならなくなったあと、劉備のもとに仕えることになったのも、徐庶がそこにいたからだという理由が大きかったのだ。
おまえは、まだ莫迦で、幼いのだ。
孔明は、水面に映るおのれの顔に、心で呼びかけた。
白皙の顔はさらに蒼ざめてやつれ、眼は輝きを失くし、まるで病身の男のように見えた。
ただでさえ、曹操の南下に向けて、ひとびとの心は張り詰めている。
そこへきて、みなの要(かなめ)となるべき軍師が、心の拠りどころであった人々を失ったからといって、こんな暗い顔で城に帰ったなら、みな動揺するにちがいない。
だれもが、それぞれに、痛みを抱えて必死になっている。
おのればかりが嘆いている暇はないのだ。
すくい取った水で顔を洗い、気持ちをなんとか押し上げようとする。
そうして顔を上げたとき、不意に視界の端に、手ぬぐいが見えた。だれかが側に立っている。
徐兄? まさか。
おどろいて、顔を上げると、行商人らしい老人が、孔明に手ぬぐいを差し出していたのだった。
「ここの水は、気持ちがよいでしょう」
と、老人は、手ぬぐいを受け取った孔明に、やさしい目をして言った。
見ると、道から泉に下りるけもの道の入り口に、台車が置かれていて、瓜が積まれている。老人の売り物らしい。
「道から逸れたところにある泉ですから、地元の者しか知りません。心地よい場所でございましょう。ここを見つけられた貴方さまは、運がよい」
そういって、老人は孔明の隣に座った。
図々しさは感じなかった。
むしろ、話をしてみたくなるような、物柔らかな雰囲気をもった老人であった。
山羊のような白い髯を蓄え、顔には、年輪のように深い皺が刻まれている。
服にはところどころツギが当たっていたが、どれも丁寧に刺繍つきでつくろわれており、この老人の家族の人柄がしのばれた。
「失礼ですが、お手前は、徐州の方ではありませんか?」
老人に問われて、孔明は頷いた。
「ええ、たしかに。よくわかりますね」
「知り合いに徐州の人間がおりましてな。あちらの人間は、みな背が高くて、すらりとしている。やはり、そうでありましたか」
「失礼だが、そのお知り合いというのは?」
「ああ、もうだいぶ前に亡くなりました。いや、失礼いたした。亡くなった者と比べるとは。どうも貴方さまくらいの年頃の者を見ると、息子を思い出してしまいましてなあ」
「ご子息はどちらに?」
「いやいや、失敬。じつは、息子も死んでしもうた。貴方さまはご存知か、新野のはずれにある、急流の堰。何度も工事をしたのに、治水がまるでうまくいかなくて、何度も商船が難破したところです。
息子もそこで事故に遭いましてなあ。妻とそれがしの二人が残されてしまいました。最近は、新野城の劉予州さまに仕官なされた諸葛孔明さまが、堰の工事に成功なされたとか。よろこばしいことではありませんか、もうあんな悲惨な事故があってはなりませぬ」
「まこと、そのとおりですな」
少々、くすぐったい思いをしつつ、孔明は頷いた。
同時に、老人に感謝した。
沈んでいた心が、だいぶ浮かび上がることができた。
声なき声の民を安んじることができたなら、高位も褒美もいらない。
それでもう、孔明は満足なのである。
「曹操が南下する、ということですが、それがしのような老体では、どこへ行くことも出来ませぬ。最近は、これでもう新野の見納めになるかもしれぬと思いながら、荷を運んでおります」
「ほかに、ご親戚などはないのですか? 失礼だが…さきほどからお話をお伺いしていると、どうも貴方は、ただの行商人ではないような」
すると、老人は、皺だらけの顔をくしゃっ、とさせて笑った。
「ほお、おわかりになりますか。貴方さまは、なかなかよい眼をお持ちだ。じつは、それがしは、太守さまにおつかえする武人でありました。十数年まえに官を辞去して、いまは瓜を売って暮らしております。
おお、そうだ。お急ぎではありませんかな?」
いいえと孔明が答えると、老人はうれしそうに、それならば、と坂をのぼっていって、台車から、瓜を一個、持ってきた。
そして、小刀でそれを割る。
たちまち、果汁をほとばらせながら、みずみずしい果肉があらわれた。
老人は、遊んでいた子どもたちも手招きして呼び寄せて、瓜を分けてやった。
瓜をこんなふうに、屋外で食べるというのも久しぶりだ、と孔明は思った。
老人は、瓜にかぶりつく子どもたちを、うれしそうに、にこにこと見守っている。
この、当たり前だが、このうえなく美しい光景を、しばらく目にしていなかった。
ありふれているが大切なもの、隣人愛とか、そういったささやかな美しいものが、世の中にある、ということすら忘れていた。
なるほど、これでは、お山の大将とけなされても文句は言えない。
孔明は瓜を食べ終わると、新野城へ戻ることを決めた。
のんびりしていた分、仕事がたまっているだろうなと、思いながら。
行商人の老人と、よもやま話をしながら新野城へ帰ってくると、ちょうど市場にさしかかったところで、前方から、上衣一枚だけで、申し訳程度に帯を腰に巻きつけているだけの裸同然の男が、素足のまま、猛然と駆けてくるのが見えた。
そのうしろを、やはり猪のように追いかけてくる大男を先頭にした、兵卒の一団が、足音も荒くやってくる。
張飛であった。
「待て、待て! 待ちやがれこの野郎!」
と、張飛は、市場の者たちが、いっせいに怖じて、口を閉ざしてしまうほどの大音声で吼えた。
男のほうは、孔明と老人と老人の台車が邪魔なので、
「爺ぃ、どけどけ! どけ、と言ってるんだ!」
と、わめく。
男は、必死の形相だ。
張飛は、孔明と、その横の荷車が、ちょうどよく男を塞ぐ形で立っているのに気づくと、ぴたり、と足を止めて、手にしていた弓を構えた。
それに倣い、張飛に付き従う兵卒たちも、おなじく弓を構える。
「軍師! そこを動くなよ!」
張飛がなにをしようとしているかを察し、孔明はわずかに庇うように、手を老人の前に広げたが、足は一歩も動かさなかった。
「射かけよ!」
張飛の号令とともに、一斉に弓が放たれた。
ひゅん、と弓を放たれた矢は、まず、いくつかは男のからだを掠め、そのために勢いをなくして、地へ落ちた。
懸命に駆ける男であるが、怪我をしたものと勘違いしたのか、均衡を失って、地面に倒れこんだ。
さらに後発の矢が追いかけてきて、地に倒れてもなお、まだ逃げようと、肘の力でみみずのように這いつくばる男の着物の裾を、土に縫いとめる。
いくつかが、風によって逸れて、孔明たちのもとへ運ばれてきたが、どれも当たらず、瓜に何本か刺さっただけであった。
「よっしゃあ! 捕らえろ!」
張飛の号令に、兵卒たちが、てきぱきと男を引っ立てにかかる。
無精ひげに、怠惰な生活をしている者特有の、どんよりした表情を浮かべた、小汚い男であった。
男は目をまわしており、焦点の定まらない目をして、引きずられるようにして運ばれていった。
「何事ですか」
孔明が声をかけると、張飛が、得意そうに、呵呵大笑しながら答えた。
「いや、なに。つまらん小悪党でな。詐欺師ってやつだ。新兵に、『家族が怪我をして、いま金に困っている。なんとか金を工面して送ってくれ』とかいう内容の手紙を送りつけて、あちこちから小金を集めていやがった」
孔明は柳眉をしかめた。
ずいぶん単純な手であるが、効果は高い。
故郷から引き離された新兵の心は、ただでさえ不安に満ちている。そこへ、故郷の家族の危機を知らされれば、動揺するのは当然だ。
悪辣なことをするものである。
「責めりゃ、もっと余罪が出てきそうだぜ。ったく、つまらねぇ悪事を働きやがって。この野郎ときたら、新兵どもから集めた金でもって、妓楼で豪遊していやがった」
「よく捕まりましたな」
「妓楼の亭主が密告してきてな。このご時世に、身なりが悪いくせして、金回りが良すぎる客がいる、とな。こいつ一人じゃねえ。きっと仲間がいるはずだぜ。詮議は刑吏にまかせるとして」
こほん、と張飛は、咳払いして、それから誇らしげに胸を張った。
「どうだい、おれたちの弓の腕前を、目の前で見たご感想は? 調練の成果がばっちりあらわれてんだろう。今度、また模擬戦をやったら、俺の部隊が、兄貴や子龍の部隊を抜いて、きっと一番になるぜ」
「たしかに、見事な腕前ではございましたが」
と、孔明は、市場のそこかしこで、物陰に隠れて、おっかなびっくりとこちらを伺っている民を見回した。
張飛は、それらには目もくれず、となりで、鼻高々である。やれやれ。
「腕前を披露していただくにしても、場所がよろしくございません。このように女子どもも多い場所では、二度としないでいただきたい」
「ちぇっ、お堅いなあ。誉めるだけにしてくれよ」
張飛の屈託のない調子につられて、孔明は、思わず笑みをこぼす。
当初は、それこそ扱いづらく、もっとも感情をむき出しにして反抗する武将だと思っていたが、慣れれば、これほどに素直で、真っすぐな男はいない。
猛々しい外見の中には、童子のような素顔がある。
だから、つめたい現実に触れると、だれより傷ついて、嘆く。そして暴れる。
この男の本質が理解できなければ、なぜこれほどまでに怒り狂うのか理解できないだろう。
しかも目立つ巨漢である。よくいえば華があるのであるが、一度見たら、忘れられない存在感がある。
印象が強すぎるあまり、なにかあると安易に結び付けられてしまい、そのため、実際よりも悪い評判がたてられる。しかも潔い性格をしているので、言い訳をすることがない。
損な男なのだ。
「それよりも、御覧なさい、せっかく、この御仁が遠方から苦労して運んできた売り物の瓜が、矢のせいで、いくつか駄目になってしまった」
「わかった、わかったよ。おう、爺さん、その瓜、台車ごとぜんぶ買ってやる。いくらだ」
老人は恐縮して、おそるおそる張飛に値段を言う。
張飛は、まとめ買いなのだからすこし負けろ、と言ったが、孔明がちらりと目線を送ると、やっぱり言い値でいい、といって、小袋から料金を取り出した。
老人はというと、張飛から金を受け取りながら、孔明のほうを見て、なにか言いたそうにしている。
孔明は、自分が、諸葛孔明その人だ、ということを告げずに別れるつもりであった。
名乗らなかったことに気まずさをおぼえつつ、孔明は、老人に笑みを返した。
落ち込んで、暗い思考にはまっていたおのれを救ってくれたことに対する、感謝の笑みであった。
「お助けください、軍師さま!」
そのとき、引きずられていく男が、なんとも情けない、弱弱しい声をあげた。
「俺の知っていることは、なんだってぜんぶ喋ります。だから、拷問だけはご勘弁を! おれはただ、頼まれただけなのございます!」
「聞き捨てならぬな。ほかに詐欺師がいると申すのか」
孔明が答えると、男は、両手を兵卒に掴まれたまま、大きく頷いた。
「俺はもともと、代書を生業にしているんでさ。読み書き出来ねぇやつのために、文字を綴ってやるんです。いつもはまっとうなものを書いているんです、本当ですぜ! けど、あいつが、偽の手紙を書いたら、たんまり報酬をやる、って言ってきました。それで賭けがうまくいくから、とかなんとか言ってました。
でも料金が後払いで、俺はまだ料金を受け取ってねぇんでさ。俺は大金が転がり込むと思ってついつい賭場で遊んじまったんだ。そしたら、大負けですよ、本当についてねぇ!
しかたねぇから、すぐに金をこさえるために、つい同じ手で、詐欺の手紙を書いてしまったのです。俺を引っ立てるなら、最初に俺を悪の道に誘い込んだやつも同罪にしてください。野郎が俺の前に現われなきゃ、俺はこんなことはしなかった!」
それを聞いて、張飛は怒鳴りつけた。
「あほう! つい、という割には、手が込みすぎているんだよ! おまえの手紙を本物だと信じたヤツのなかにはな、盗みまでして、金を工面しようとしたヤツだっているんだからな! おまえなんぞ、アレだ! 全種類の拷問にかけてやる!」
張飛が怒鳴りつけると、小悪党は顔を恐怖でこわばらせ、ぼろぼろと涙をこぼした。
張飛の言うことは、前半はまったくそのとおりである。
後半は、それこそアレだが。
「残らず、すべてお話しますから、お助けください! 俺を最初にやとったのは、崔州平とかいう、崔家の若旦那ですよ!」
孔明は、いきなり心臓をわしづかみにされたような衝撃をおぼえた。
「まことか!」
「諸葛孔明とかいう珍しい名前のひと宛ての、徐元直ってひとの偽の手紙を作れと。その手紙を使って、孔明という人を寝返りをさせることができたら、賭けに勝てる、って」
「ド阿呆! 諸葛孔明ってのは、ここにいる、この軍師のことだ!」
それを聞くと、男の顔は、ますます強ばったが、同時に輝きもした。
それならば、直に訴えて、罪を軽くしてもらおうと思ったのであろう。
「もっと詳しく申してみよ。崔州平だと名乗った男の人相は」
「四角い顔をした、若い、貴方さまくらいの歳の男でございます。豪族崔家のお方のわりには、うすよごれた格好だったので、よく覚えております」
「崔州平が言っていた、賭けの相手とは、だれかわかるか」
「曹操だ、と。曹操に、あなたさまを寝返らせることができたなら、一生困らないだけの報酬をやるから、と言われたそうです。
支度金だと言って、俺なんかみたこともないほどの大金を、実際にちらつかせていやがりました!
なのに、手紙を渡したとたん、ぷっつり連絡を寄越さなくなったのです。詐欺にあったのは、俺も同じですぜ! だからおれは、つい魔がさしたんです」
「なんと」
孔明は絶句した。
この小悪党の話が真実であるならば、崔州平から渡された、寝返りを促す徐庶の手紙は、偽物であったことになる。
崔州平が、大胆にも孔明に語っていた賭けの相手というのは、隆中の学問仲間ではなく、曹操だった、というのか。
賄賂に目がくらむような男ではなかった。
しかし、それも人物の読み違いなのか。
あるいは、崔州平の身に、孔明の知らない、何事かが起こったのか?
孔明は、すぐさま警吏を呼び出して、崔州平を探し出すように命令した。
いやな予感がした。