06年改訂版

孤月的陣



「いらっしゃった?」
「いいえ、お姿は見えません」
部曲の者の答えに、諸葛亮の姉と、家人たちの顔色は、不安に蒼ざめた。
「場所をまちがえたのかしら。ここでよいのよね?」
と、亮の姉は馬上で地図を広げ、周囲の地形と合っているかどうか、確かめる。その横から、ずっと付き従っている家令が口を挟んだ。その笠の下の顔は、長い道中のために黒く焼けている。
「このあたりは安豊のはず。迷ったとしても、荊州であることはまちがいありませぬ」
「街道に沿って南下したはずだわ。それとも、西に来すぎてしまったのかしら」
「叔父君は、ここで待っているとおっしゃったのですね?」
「ええ、このあたりは、最近、劉表と孫策の抗争で治安が悪くなっているから、街道を通らずに、別な道を使えとおっしゃってきたのよ。叔父上の地図どおりに来たのに、どこかでまちがえたのかしら」
亮の姉は、琅邪から荊州にいたるまでの危険な道中で、無用な災難を逃れるために、髪を切り、男装をして、剣を腰からさげていた。
遠目から見れば、すこし華奢な少年のようにしか見えなかったであろう。
姉を、古くから仕えている諸葛家の家人と、亡父の代から顔見知りの部曲(私兵)たちが取り囲む。
「手紙は何度も見たわ。ここでまちがいないのに。玄叔父様は、どうしていらっしゃらないのかしら。なにか事情があったのかしら」
亮と弟の均は、その様子を馬車の幌のなかで、やはり不安な面持ちで見つめた。
道をまちがえたのか? 
また、あのおそろしい道を戻らなければならないのか?
すると、亮にぴったりと身を寄せていた均が、幌から顔を出して姉に訴えた。
「姉上、姉上、長兄のところへ帰りましょう。どうして、わたしたちばかり、叔父上のところへ行かねばならないのですか?」
「何度も言ったでしょう、兄上のところには、戻ることはできないの。大丈夫、わたくしが、かならず叔父上に会わせてあげますからね」
姉は気丈にはげましてはいるが、地図を開く手は、緊張と不安のためか、小刻みに震えている。亮はそれを見て、均を、やんわりと馬車に戻した。
「姉上を信じるのだよ。大丈夫、きっと叔父上に会える」
均は、不安に顔を曇らせながらも、姉と兄のふたりにいさめられ、とりあえずは頷いてみせる。しかし、幌の中から、ふたたび地図に目を落す姉の姿に、不安が昂じたのか、均が苦しそうに胸をおさえた。
「姉上、均が、また駄目みたいだ」
息苦しそうに、浅い呼吸をくりかえし、目じりに涙を溜めた少年は、なんとも痛々しい。
亮の姉が戸惑っていると、部曲の男のひとりが進み出た。
「お嬢さま、この先に、小川がございます。見たところ、このあたりは怪しい者もおりません。皆様も疲れてらっしゃる。ここはひとまず休んで、叔父君をお探しになるべきかと思います」
部曲とはいえ、幼いころから知っている男だ。
亮の姉はうなずくと、馬車の幌のなかで、じっと大人たちの様子をうかがっている、ふたりの弟に言った。
「聞こえたわね。わたくしたちは、叔父上を探しに行ってきます。ふたりとも、それまで、おとなしくしているようにね。きっともうすこしだから、我慢してちょうだい」
亮は弟を介抱しながらうなずき、弟のほうは、すまなさそうに、それでも笑顔を無理につくって、うなずいた。

それでも、荊州に入ってから、ようやく弟の咳がすくなくなってきたと亮は思う。
顔色も良くなってきて、笑顔もふえた。
道が良くなり、追いはぎだの、行き倒れの屍だのがぐっと減って、目に見える恐怖がなくなったからであろう。

生まれ故郷である徐州の琅邪から、戦火を逃れて荊州の叔父のもとへ、南へ、と一行はむかっている。
叔父の居住する南昌までは、もうすこしである。
徐州から、街道沿いに揚州に入り、そこで途中、兄たちの一行と別れた。
そして、街道沿いに晥を抜けた途中で、叔父の指示で、荊州側に深く入り込む間道へ抜けた。
そこからさらに南下すれば、叔父が新太守として入る予定となっている南昌である。
叔父の指示は正しかった様子で、往来ににぎわいはあるものの、どこか荒んだ空気のあった街道とはちがい、間道は平和そのものだ。

徐州が激しい戦乱に巻き込まれたこと、さらにかねてより病の床に伏していた姉弟たちの父が死んだことが重なって、一家は、袁術に仕える叔父を頼って南下していた。
警戒しながらの旅である。
琅邪から、叔父のいる揚州は南昌へ至る道は、緊張の連続であった。
姉は髪を切り、男装をして、腰に剣をたずさえ、盗賊や、黄巾賊にねらわれるのを避けた。
古くから諸葛家につかえる家人たちは、流民をねらって徘徊する、詐欺師まがいの商人から財産を守った。
亮も均も、粗末な服を着て、ときには顔に泥を塗って、名家の子であることを隠した。
天下の混乱に乗じ、すこしでも儲けてやろうと考える輩はあちこちにいて、ときには、良家の子弟を誘拐し、身代金を要求してくる輩もいたのである。
叔父は、先に派遣した使者により、亮たちがあらわれるのを、街道からほど近い、そして比較的平和な荊州の安豊で待っていると伝えてきていた。
そうして、一行は叔父が待っていると伝えてきた場所までやってきたのだが、その姿は、すぐには見つからなかった。
行き違いがあったのかもしれない。

姉は、周辺を探るため、亮たちに、じっとしているようにと言い置いて、家人たち数名を連れて、出かけて行った。
残されたのは、亮と均と、耳の遠い老人と、部曲(私兵)の数名だけである。

兄弟は、最初はおとなしくしていた。
しびれを切らしたのは、均のほうであった。
発作のおさまった弟は、ゆっくりと顔をあげ、小声でそっと、より添うように兄に近づいて、言う。
「兄上、水の音が聞こえます」
どうれ、と亮は耳をすまし、均も、つぶらな小豆のような目をつむって、兄にならった。
初夏の風にまざって、さわさわとこずえの揺れる音、早く目が覚めた蝉の鳴き声、木陰でやすむ馬にたかる蠅の羽音、そして、縫うようにして、かすかに、やさしいせせらぎが聞こえてくる。
「川だな」
「川でございますね」
「どこにあるのだろうな」
と、亮が言うと、均は桃のように頬を紅潮させ、にいっ、と笑った。
子どもにだけつうじる、笑みだけの会話である。
亮がちらりと盗み見ると、耳の遠い老人は、荷車によりかかって、うつらうつらと舟を漕いでいた。
初夏のだるい空気と、もうすこしで、南昌の太守である諸葛玄と合流できるという安心が、警護をする部曲の兵卒たちにも、気の弛みを生んでいるのだろう。
木陰の下で、かれらもまた、寝ぼけ眼で、地べたに座り込み、ぼんやりとしているのが見てとれた。
「いまなら大丈夫だ。すこし離れるだけだもの。すぐに戻れば、心配はないさ」
そう言って、亮は、弟と一緒に、木陰からはなれた。
弟は、思いもかけない小さな冒険に、目をきらきらさせている。
姉の言いつけを破るうしろめたさはあったものの、それよりも、長兄や義母たちから別れて、ずっと元気がなかった弟が、笑顔を見せているのがうれしかった。この笑顔を長く見たかった。
兄弟は、はしゃぎながら、たがいに手をつないで、小川を目指して駆け出した。

 小川を目指して草むらに入ると、青臭いにおいがして、これが二人の冒険心を、さらにあおった。
沓で草を蹴散らすと、飛蝗がおどろいて跳ね飛んでいくのも、二人をよろこばせた。
 やがて、しばらくいくと、ささやかなせせらぎが耳を打つ。
心をはやらせて足を進めれば、やがて、流れのはやい清流があらわれた。
 兄弟は夢中で、急な沢をくだって、きゅうくつな沓を放り投げ、小川へ足を踏みいれた。
「兄上、蟹がいる!」
均は歓声をあげると、まるい石のうえを、のんびり移動している沢蟹をつかまえた。
亮も河原に靴をぬぎ、そのひんやりとつめたい流れをたのしんだ。
見ると、魚もおおいようである。
「あとで姉上たちにも教えてさしあげよう。今宵は、魚の塩焼きが食べられるかもしれぬ。叔父上に、よい土産ができるな」
「兄上、叔父上という方は、どういう方なのでございますか?」
「わたしも一度しか会ったことがないが、お優しい方だったぞ。父上とちがって、こう、恰幅の良い、体の大きな方だ」
亮たちの父は、やはり徐州の男の例に漏れず、背の高い男であったが、いつも床についていたため、実際よりは小さく見えていた。
亮が、自分の体の倍くらい、手ぶりで横幅を示したので、均は顔をしかめた。
「厳しい方だと嫌だな。厳しいのは、姉上だけで十分だもの」
「おまえが良い子にしていれば、大丈夫だ。手紙にあったけれど、叔父上にはお子がいないので、わたしたちが来るのを、とても楽しみにしているのだって」
「奥方はいるのでしたっけ?」
子供ながらに気を遣って、均は、ちらりと上目遣いに亮に尋ねてきた。
亮は、まだまだ幼い弟が、そんなふうに気を遣うところを見るのが嫌いだ。

弟の母親は、一番上の腹違いの兄と、江東へ逃げてしまった。
均には、兄上は仕官するために江東に留まるのだと説明したが、実際はちがう。
そこに、どんな事情が隠れているのか、すでに亮は気づいている。
諸葛家にいる五人の子供たちのうち、兄と二人の姉の三人は、先妻の子である。
亮の生母は、妻でも妾でもなかった、或る女が生んだ子だという話だが、父はなぜか、生母のことには口を閉ざしたまま亡くなったので、亮は、母親のことはなにも知らない。
弟の均は、後妻に入った女が生んだ子で、これは一番上の姉とほぼ同年の、幼さのぬけきらない、茫洋とした印象の女であった。
病床の父の代わりに家を守っていた姉と、この女……つまり、亮の義母とは仲が悪く、琅邪の家は、子供から見ても、あまり居心地の良い場所ではなかった。
姉のことを避けたい、という思いがあったのか、それとも、女として、このまま終わってしまいたくないと思ったのか、そのあたりは、亮にもわからないが、みなが知らないあいだに、まるで家出も同然に、義母は兄とともに江東へ向かってしまったのだ。

「残念だけれど、奥方は、亡くなってしまわれて、叔父上はお一人なのだよ」
亮が答えると、均は、残念そうに、濡れた服の裾を絞った。
「なあんだ。あたらしい母上ができると思ったのに」
均は、まだまだ母親に甘えたい年頃なのだ。
「ごめんよ」
亮が謝ると、均は裾を絞る手を止めて、顔をあげた。
「どうして兄上が謝るのですか」
「なんとなくさ」
「へんなの」

姉の気持ちが移ったわけではないが、亮もまた、幼い弟から母親を奪った、兄の仕打ちを恨んでいた。
世間では、亡父の代わりに、母親に孝行するためだと言い訳しているそうだが、しかし、その『母親』が、兄より年下であることは、ひた隠しにされている。
亮は十三になる。父が死んでからのわずかなあいだに、子どもの頃には理解できなかった世の中の、光の部分と影の部分を理解できるようになっていた。
なにより、薄々とわかりはじめた兄の『不品行』に、亮は激しい嫌悪をおぼえた。
情欲に屈し、道徳に逆らうことに対する強烈な反発は、ここからはじまったといってもよいだろう。

「叔父上は、釣りはお得意でしょうか?」
「さあね。でも父上とは仲が良かったそうだから、一緒に釣りに出かけることもあったかもしれない」
「父上は釣りが得意だっておっしゃっておりました。体がよくなったら、一緒に、海に連れて行ってくれるとおっしゃっておりました。兄上は、父上と海に行ったことがあるのでしょう? 海とは、どんなものなのですか」
「広かったよ。こんな小川なんか目じゃないほどさ。波音がずーっとしていてね、たくさん貝が打ちあがっていたよ。風が塩辛いのだ」
とたん、均は、目をまん丸にして鸚鵡返しにする。
「風が、塩辛い?」
「そうさ。風も水も塩辛いのだ。漁夫が、みんなで網を引いているところとか、おもしろかったな。いつか、わたしが大人になったら、連れて行ってやるよ」
「その前に、叔父上におねがいして、連れて行っていただきます。優しい方であったら、ですが」
「いたずらとおねしょを直せば大丈夫だ」
からかう亮に、均は子供らしく、ぎゅっと顔をしかめたが、ふと、その顔が、亮の肩の向こう側を向いた。
「兄上、だれかおります」
「いけない、見つかったのかな?」
「ちがうようです。子どもです」

 見ると、対岸の崖の上に、複数の子どもたちが立っていた。
おや、このあたりの郷のものだろうか、さっそく仲良くしてみよう、と呑気に考えた亮は、少女に見間違われることのおおい柔和な顔に笑みを浮かべ、手を振ってみたのであるが、反応がない。
子どもたちは、無表情なまま、じいっ、と亮と均を見おろしている。
亮は嫌な予感がした。
琅邪の子供たちのあいだでもそうであったが、もしかしたら、ここは地元の子どもたちの大切な聖域なのではないだろうか。
気まずく思いつつ、もう一度、手を振るが、やはり反応はない。
亮は少年なりに頭をはたらかせ、かれらの反応のなさに、違和感をおぼえた。
領域を侵してしまった、というのなら、手を振った時点で、なんらかの変化があって良さそうなものだが、子どもたちは、なにも返してこないのだ。
子どもたちの服装は、みな泥にまみれ、髪はぼさぼさで、かろうじて紐で、邪魔にならない程度に結っているだけ。
マメだらけの足は、裸足で、沓どころか、草履もはいていない。
みな、亮たち兄弟とおなじ十歳から十三歳くらいの少年少女ばかりである。
じっとこちらを見つめる双眸には、好奇心は感じられない。
いや、ひとつだけ。
無表情さの中に、荊州へやってくる道中で見た、流民を狙う賊の目と、おなじものが見える。
敵意だ。

亮は、振っていた手をゆるゆるとおさめて、失敗したな、と心のなかでつぶやいた。
均は、なにも反応しない子どもたちにすぐに飽きて、つかまえた沢蟹を、あっちの石、こっちの石、と移動させて、あそんでいる。
弟を背後に庇うように、ゆっくり水のなかを移動しながら、亮はどうするべきかと考えた。
子どもたちの目は、放浪の民の、飢えて、疲れはて、人間らしい理性のほとんどを失った、大人たちとおなじ目をしていた。
かれらは、ついさっきまで、兄弟のように親しげに助けあっていたのに、ふとしたきっかけで、突然におたがいを敵と見なして、容赦なく襲いかかるのである。
そこにあらわれる無惨な光景を、亮たちは、さんざんに見てきた。
亮は、水を避けて裾をまくったおのれの姿を見下ろした。
今朝になってから、待ち合わせ場所に近いという油断もあったし、叔父上にみっともない姿を見せられないということもあって、琅邪にいたときとおなじように、身なりのよい、快適な服にもどしていた。
かれらから見れば、兄弟は、おなじ流浪の子ではない。
金、あるいは着心地の良い衣を纏った、たんなる強奪の対象だ。
亮は、気づかれないように、そおっと、いままで自分たちが駆けおりてきた草むらを見る。
均だけで駆け上るとして、どれだけ時間が必要だろう。どうやって時間を稼ぐ?
 
子どもたちが、無表情のまま、ゆっくりと沢へ降りてくる。
亮は、その動きにあわせて、弟を守るべく、ゆっくりと後退していった。
とたん、均が、素っ頓狂な声をあげた。
「ほら、魚を捕まえた!」
とろい魚もいたもので、均の両手には、ぴちぴちと跳ねる、七色のうろこをもった魚があった。
魚の姿のおかげで、沢におりてきた子どもたちの目に、わずかに表情がやどった。
なにも気づいていない均は、いつのまにか子どもたちが近づいてきたことを知ると、言った。
「あげようか?」
子どもたちは、戸惑った表情になり、たがいに顔を見あわせた。

場の空気がほどけた。

亮は、ほっとして、それでも、和んだ場の空気をこわさぬよう、細心の注意をはらって、子どもたちに話しかけた。
 「どこから来たのだい?」
 「…北から」
と、子どものなかでも、いちばん強い目をした少年が、仲間たちを見まわすようにしてから、答えた。
どうやらこの少年が、子どもたちのまとめ役であるらしい。
「そうなの? わたしたちも、北から来たのだよ。徐州の琅邪からだ。きみたちは?」
「…いろいろ」
別の子どもが答えた。
近くで見る子どもたちは、気の毒なほどよごれきって、ボロボロで、やせ細っていた。
おそらく、ひとつの村や集落から、一緒になって逃げてきたのではなく、四方の村々で大人からはぐれた子どもたちが、自然とあつまって、一緒に行動しているのだろう。
「大人はいないの?」
重ねてたずねると、子どもたちの表情の戸惑いが、さらに濃くなった。
大人がいなくて、よく無事にここまで来られたな、と思っての質問であったが…
 
そのとき。  

ひゅん、ひゅん、と風を切る音が頭上を駆けぬけて行った。
亮は仰天して身をすくませる。
矢だ。
矢が、亮たちの背後から、子どもたちめがけて射かけられているのだ。
しかし、それはどれも、掠りもせず、子どもたちと亮をへだてるようにして、沢に落ち、あるいは砂利のなかに突き刺さった。
 振りかえると、幼いころに見たままの、恰幅の良い叔父と、その部下たちが、初夏の陽光にきらきらと輝く甲冑をまとい、土手のうえから弓をかまえていた。
「亮、均、はやくこちらへ来い!」
するどい声で叔父が言った。
おぼえている、やさしい叔父とは違うことに戸惑いつつ、亮は、反駁する。
「でも、叔父上、子どもではありませぬか」
亮が抗議する間もなく、叔父に命令された兵卒が、土手を駆けおりると、戸惑う兄弟を、なかば抱えるようにして、沢から引きあげた。
おびえた二人に、沢から登るのを助けてくれた山羊髭の男が、甲冑の下から、安心するようにとでもいうように、にっ、と笑いかけてきた。
それで、すこし強ばりが解けたものの、見れば、亮と均が沢を登るのとすれ違うように、ほかの兵卒たちが、弓を子どもたちに射かけている。
やめてほしいと亮は叔父に訴えようとしたが、見れば、叔父としても、子ども相手に矢を本気で当てる気はないらしい。
兵卒たちの弓の腕はすばらしく、子どもたちに当たらぬよう、その足元、ぎりぎりのところを狙っている。
それでも亮と均にしてみれば、おそろしい光景であった。
なぜ大人である叔父が、子どもたちを、矢でもって追い散らそうとしたのかがわからない。
ただ一喝すれば、よいではないか。
がらがらと石の落ちる音をさせながら、水しぶきをあげて、子どもたちは、一度も亮のほうを振りかえることもなく、追われるようにして、逃げていった。
その子どもたちが、いったい何者であったのか、その疑問も解けないまま、十余年が過ぎる。
がらがらと、石が落ちる音だけが、ずっと耳に残りつづけた。


諸葛孔明は、帳から射す日ざしに、目をほそめた。
早起きをして、のこった書類の決裁をしてしまおうと思っていたのだが、どうやら寝過ごしてしまったらしい。
窓からそとをながめると、今日の暑さを予感させる、いつになくまぶしい太陽がのぼっている。
このところ、しばらくつづいていた雨の名残を、朝のうちにすべて乾かしてしまいそうな勢いであった。
新野城の中央にある、鍛錬場からは、徴兵したばかりの兵卒たちの調練がはじまっている。
腹の底にひびくような太鼓の音、大将のかけ声、号令にあわせて一斉に動く兵卒たちの足が大地を踏みしめて生まれる地鳴り。
 
戦がはじまるのだな、と朝がくるたびに孔明は覚悟をする。
割り切ってはいるものの、やはり軍、というのはおそろしい。
孔明は、叔父を亡くしたあとに、管仲や楽毅のように、政をつかさどる者となり、天下を安んじるのだと心に決めた。
高名な司馬徳操の私塾の門をみずから望んでくぐり、そこで、同門の兄弟子の徐庶や、同窓の崔州平らと知り合った。
そしてかれらと、戦場のあちこちを見てまわった。
おかげで、戦そのものに対する嫌悪感は、だいぶ克服できたという自負がある。
剣を取らずに天下を取ることなど、出来はしないのだ。
しかし、軍をおそろしく思う気持ちはなくならない。
諸将の前では、兵士たちを前に、勇壮だのなんだのと褒めあげてみせるが、どこかで、うしろめたさにも似た違和感がつきまとう。
おのれの心だけではなく、目の前にならぶ兵卒たちをも、騙してしまっているように思うのだが、考えすぎなのか、いまのところ結論は出ていない。
 
清水で顔をあらい、髪を側仕えの者に結ってもらいながら、孔明は、今日の仕事について考えた。
曹操の南下に備え、たいがいのことは整えた。
軍備、食糧、逃亡時の道、船、馬…足りないのは人だ。
頭のなかで、どれだけ完璧な策が形成されていたとしても、運用するのは、所詮は人。人が足りなくては思うようにままならない。
かといって、間に合わせで、志のちがう者を引き入れてしまえば、かえって策の破綻をまねく。
ともに劉備に仕官することを決めてくれた馬良はずのは、末弟が病気だとかで、なかなか新野に現れない。
ほかの心当たりを片っ端から声をかけてみたのであるが、曹操の南下の噂は、思った以上に広まりがはやく、みな、おのれの家をまもることだけで手一杯で、おそらく曹操とまっ先にぶつかることになるであろう新野に、わざわざやってくる者はいないのだ。
むしろ、徐庶や孔明のように『貧乏くじ』を引かぬよう、連中にはちかづかないほうがよい、と嘯いている者すら、いるらしい。
孔明が、妻を捨てた、という話も、すでにあちこちで流されているようだ。
その話を聞いて、劉表と、劉表の後妻である蔡夫人が、激怒している、という話も、孔明の耳に届いていた。
孔明の妻は、蔡夫人の姪にあたるのである。

打算と思惑に満ちた、つめたい政略結婚が、結びつきの意味をうしなって、解消されただけの話だと孔明は割り切るものの、胸の痛みはなくならない。
むしろ、黄家に見捨てられたのだ。
孔明は、妻を何度も新野に呼ぼうとしたが、ことごとく、黄家の人間に阻まれた。
名ばかりで実体のない、劉備などという前身のあやしい男に仕える婿など、いらない、というわけだ。

孤独な沈思にふける孔明をよそに、雷鳴のごとく響く勇壮な兵士たちの掛け声と、早すぎる蝉の声が戦っている。
ふと思い立ち、孔明は席を立ち、部屋から出ると、声をたどり、その存在をがなりたてている蝉のすがたを梁の下に見つけた。
昔は、弟と一緒になって、虫かご片手に、とらえようと追いかけまわったものだが、この蝉は、長じてよく見るに、なかなか奇怪なすがたをした虫ではないか。
透けた翅のうしろに隠された黒い体は、鎧をまとった兵士に似ていた。
好奇心につられ、孔明がつかまえようと手をのばすと、蝉は、ぶぶぶぶ、と派手な羽音をさせて飛び立ってしまった。
あとには、耳に蝉の声の余韻がのこるばかりである。
 
蝉の声。
だから昔の夢をみたのかもしれない。
眠りが浅かったのかもしれないが、ずいぶんあざやかな夢だった。
まるでせせらぎに素足を入れたときの、あのつめたさ、心地よさまでが思い出されるような。
初夏の陽射しのなかで見た、あの感情のうしなわれた目をした子供たち。
いまでも、戦で村を焼かれて、土地を奪われ、さまよう人々はいる。
生きる道を探して、年を徘徊する子供たちを見るたびに、この子たちはどうなるのだろうと、孔明は案じる。
しかし、手を差し伸べることはしない。
ひとりを救ったところで、全体は救えない。
結局、おのれの気休めにしかならないのだから。
もしほんとうに救いたいと思うのであれば、かれらをさまよわせる環境そのものを救ってやるしかない。
そのために志した、政の道である。


「軍師どの、お目覚めでしたか」
 自分では、あまり寝過ごしたという自覚がなかったのであるが、どうやらそうではなかったらしい。
やってきたのは糜竺、字を子仲である。
足音を立てずに、しずしずとこちらにやってくる。
手には竹簡をかかえている。
そろそろ五十になる男であるが、荒くれ者の多い劉備陣営のなかでも、気品のある、清潔な雰囲気をまとった人物だ。
実際に徐州でも指折りの名家の出で、教養も人脈もあり、なにかと他者にきびしい関羽でさえ、糜竺には気をつかっている。

しかし孔明にとっては、糜竺、というのは、どう付き合ってよいのか、その対処の仕方のわからない人物の一人であった。
おなじ徐州の出身、というせいもあるのか、ほかの家臣が敵意をむき出しにして孔明に当たるのに対し、糜竺だけは、最初から穏やかに接してくれている。
その向けてくる温かみのある笑顔も、同情や計算によって作られたものではなく、芯から、孔明をこころよく思っている様子である。
とはいえ、その温かな感情も、軍師として尊敬している、というのではなく、遠来の親戚の子に、久しぶりに会えてうれしい、といったふうな類のものに感じられるのだ。
当然のことながら、遠い親戚でもなんでもない。
孔明としては、一面識もなかった人物から、そこまで好意を示されることは初めてであったので、糜竺との距離感を計りかねているのである。

「申し訳ございませぬ。寝過ごしてしまったようで」
と孔明が言うと、糜竺は、白皙のおだやかな顔に、やわらかな笑みを浮かべた。
「いいえ、わたくしが早起きをしたまでのこと」
と、糜竺はわらい、ふと、頭をめぐらせて、調練場のほうを見やった。
「おお、ここまで兵たちの声が聞こえてきますな。しばらく雨がつづいておりましたので、皆、なまった身体を動かしたくて、うずうずしていることでしょう。
此度の調練は、皆さま、気合がちがう様子。兵たちもはりきって励んでおるようで、関羽どのが、此度あつめた兵は、面構えがちがう、と喜んでおられましたぞ」
「それは良かった。して、急なご用件ですかな」
「いえ、出立の前にお会いしたいと思いまして」
「出立?」
と、鸚鵡返しにして、孔明は、ハテ、と首をかしげた。

劉備から、新野のあらゆる仕事の采配をまかされた孔明であるが、糜竺には、その人脈を活かし、対外的な仕事…商人との交渉、荊州人士との連絡など…をまかせていた。
しかし、今日の予定に、遠出はなかったはずである。
怪訝に思っている孔明に、糜竺は言った。
「突然で申しあげにくいのですが、主公におねがいし、わたくし、しばらくお暇をいただくことと相成りました」
孔明は、とっさに言葉の意味を理解できず、呆けてぽかんとした。
糜竺のほうは、言葉の重さに気づいていないかのように、あきれるほどに、その穏やかな顔な笑みを動かさない。
その顔を眺めつつ、徐々に頭がまわりはじめる。
「主公の危機を前に、お見捨てになる、というのか」
思わず孔明の声がかすれた。
劉備の夫人のひとりは、糜竺の妹である。
糜一族は、私財を投げ打って、劉備に忠誠を誓ってきた一族である。
まず裏切りはないだろうと思われていた人物からの、意外な申し出であった。
「まことに、主公のご了解をいただいたのですか?」
「主公はよし、と」
「まさか」
怒りより、驚きが先に立って、感情が麻痺している。
最初に浮かんだのは、この男も、徐庶のように、去っていってしまうのか、ということであったが、孔明は、すぐにその感傷的な思いを打ち消した。
いや、対外的なことのほうが問題だ。
徐州の名家・糜家の名があればこそ、劉玄徳のいまはある。
それが去ってしまうとなれば、糜竺を信頼してあつまってきた人々も、ともにいなくなる、ということだ。
それほどに、糜竺の吸引力というものはつよい。
めずらしく狼狽を隠さない孔明に、糜竺は、仮面のような笑顔で、答えた。
「軍師、すぐにはおわかりいただけないものということは、十分に判っておりますが、そこを曲げてお願い申し上げる。お暇をいただくのは、荊州での、私自身の決着をつけるためでございます。これに蹴りをつけなければ、わたくしは、主公のお側にはべる資格のない者に成り下がってしまいます」
「どういう意味です?」
しかし糜竺は笑みを崩さぬまま、追求は無用、と首を横にふった。
「もしこの決着がついたなら、わたくしはかならずや、ふたたび、主公の前に戻ってまいります」
そのような、と口にしようとした途端、孔明は、拱手した糜竺の袖のむこうに隠れた、真摯でするどい眼光にぶつかり、沈黙した。
それは、普段の好々爺の糜竺とはかけはなれた、決意に満ちた、するどいものであった。
なにか深い事情がある、ということは理解した。
しかし、それがなんであるかは、孔明にはわからない。
主公でさえ、このまなざしの前にあっては無力であったろう、と孔明は観念するしかない。劉備にできなかったのであれば、ほかの誰にも、糜竺の心を動かすことはできない。
「妹君はどうされる」
「あれはすでに主公に嫁いだ身。わたしと共に出て行くことはございませぬ」
「弟君は」
「あれも同じく、主公の元に留まります」
「かならず、お戻りくださるか」
それを聞くと、糜竺はむろん、というふうに、つよくうなずいた。
「お約束いたします。なにより、主公と、貴殿のために戻ってまいります」
「わたくしの?」
またも理由のわからない贔屓である。
おのれでも知らないあいだに、この敬愛すべき先輩文官に、なにか感謝されるようなことをしたのだろうか。
「もしわたくしに何事かあって、戻らぬときでも、ここにいる息子たちが、しっかり代わりを勤めてくれましょう」
 
糜竺の背後には、まだ十五をわずかに過ぎたばかりの少年と、孔明よりいくらか年下の、二十半ばの青年がいた。
どちらもまっ黒に日焼けして、鍛えられた肉体をしていた。
しかしその二人は、どちらも糜竺と似通っていなかった。
兄弟でもない様子で、少年と青年に、共通する部分もない。
「たしかご子息はお一人とうかがっておりましたが?」
「ええ、この子たちは糜姓ではございませぬ。わけあって、わが子として迎えることになった子たちなのです。
いままでは、主公のご厚情により、ほかの兵卒とともに鍛錬に参加することもなく、気ままに過ごして参りましたが、この度は、そうはまいりませぬ。そこでお許しを戴いて、将として加えていただくことになりました。
とはいえ、世間知らずなものですから、まずは新兵として扱っていただきたいと主公にお願いしましたところ、それでは、ということで、趙子龍の軍に加えていただくことになったのです」
「子龍の? 糜芳どのではなく?」
思わず孔明は口にしていた。

糜竺には、糜芳という、弓馬に長けた弟があり、これがりっぱに一軍を率いている。
しかし、この糜芳、どういうわけなのか、趙雲をきらっている。
趙雲、字は子龍は、孔明の主騎をつとめている男だ。
不思議な男で、人の評価がまっ二つに分かれる男でもある。
よいほうに評価する者は、寡黙で沈着、信頼できる男だと言い、わるいほうに評価する者は、なにを考えているかつかめず、どこか得体が知れない、と言う。
後者の意見を、だれよりもつよく持っているのが糜芳で、あれは和に欠ける男だ、物腰は丁寧であるが、どこか無礼だ、と公言してはばからない。
血が繋がらないとはいえ、甥にあたる人物が、きらいな武将の軍に配属されたら、叔父たる糜芳としては、おもしろくないのでは当然だ。
曹操の南下に対して、いまは全軍がまとまらねばならない時期なのだ。
いらざる混乱は無用である。
それは糜竺とて知らないはずはない。
なのに、どうしてわざわざ趙雲に養子を託すのであろうか。

 孔明の戸惑いを読んだか、糜竺は、悲しそうに首をふった。
「弟は駄目だ。武勇と家名に恃むばかりで、人と協調することを知らぬ。兄であるわたしの言うことさえも、まるで耳に入れようとしない。貴殿の御宅がうらやましい」
「わたしの? 弟に会われたことがあるのですか?」
不意を付かれて、孔明は鸚鵡返しにした。糜竺は、均を知らないはずである。
江東にいる兄の謹のことかと思ったが、糜竺は、孔明の質問には答えず、あいまいな笑みを浮かべるだけだ。
そして、手にしていた書簡をかかげ、いつものように穏やかに言った。
「そうそう、もうひとつ、大事な用件がございました。今朝、こちらの書簡が軍師どの宛てに届いておりました。よい報せだとよいですな」
そういうと、糜竺はこれから趙雲のところへ挨拶に行くのだ、といって、息子二人をつれて、背をむけた。


長い夢を見ているとよいのだが、と思いつつ、そのうしろ姿を、複雑な思いで見送っていた孔明であるが、ふと、糜竺が足をとめて、いかん、いかん、と言いながら、真剣な顔をして戻ってきた。
「言い忘れておりました。軍師、もしも、わたくしが戻らぬときは、この言葉をお忘れなきように」
「は?」
「『仇讐は壷中にあり』。よろしいか?」
「キュウシュウハ、コチュウニアリ?」
「さよう。けしてお忘れめさるな。もしわたしが戻らねば、かならずこの言葉を思い出していただきたい」
よろしいですな、と、糜竺は、真摯なまなざしで孔明の眼を見つめる。
その迫力に押され、孔明はうなずいた。
「わかり申した。忘れませぬ」
「これで安心して出立できまする」
糜竺は、ふたたび辞すときに、まるで息子にするように、孔明の手をつかんで、やさしく労わるように、掌をかるく叩くと、名残惜しそうに、はなれていった。



これからが大変だ。
糜竺は名声ばかりが先行している男ではなく、実際に有能な文官であった。
糜竺の抜けた穴を、だれが埋めるべきか。
もともと、新野には文官がすくない。いまいる文官たちは、どれもすでに抱えている仕事で手一杯のはずである。

良い知恵が浮かばぬ。
孔明は竹簡を文机にならべ、差出人を声に出して読みあげた。
気持ちを切り替えるためである。
「龐家の姉君と、隆中の均から…」
つづいて、べつの竹簡を見たとき、孔明の顔はこわばった。
舅の黄承元からであった。
孔明は、姉や弟からの竹簡は卓に置き、舅からのものを、べつによけた。
これはあとで、燃きすててしまおう。
そう思ったのだ。

舅からの手紙の内容はきまっている。
なぜにわが娘を娶りながら、劉表ではなく、劉表の食客である、劉備の軍師となったのか、わが家の立場をかんがえたことがあるのか、娘は劉表の妻の姪であるのにと、一族中から責められておるぞ、というもの。
当の妻からは、いままで一度も、たよりがない。
舅が止めさせているのか、それとも単に書く気がないのか…前者であると信じたいが、後者であろうなと、孔明は暗く思う。
とはいえ、孔明に、妻を責める気はない。
結婚したのは、叔父の諸葛玄を亡くし、確たるうしろ盾を失くした諸葛家のためだ。
有力者である黄家の娘を娶れば、劉表との繋がりもできる。
妻は聡い女だから、そのあたりのことは心得ていて、やはり、夫である孔明に、芯から心を開こうとしなかった。
ほんとうに、また共に暮らしたいか、と問われれば、孔明は悩む間もなく、否、と答えるだろう。
独り身の気楽さに慣れてしまったいまとなっては、妻の機嫌をうかがいつつ、つめたい仮面劇を演じていた自分には戻りたくない。
舅が怒り狂おうと、もはやおのれは劉備の軍師。
その事実は変えられないのだ。
とはいえ、黄承元はおさまらないらしく、ほとんど毎日のように激烈な文面の竹簡を送りつけてきていた。
孔明はそれを無視しつづけているので、日々内容が過激になっているようである。

孔明は、気を取りなおして、姉弟からの竹簡に目をとおした。
姉のたよりには、小言にも似た言葉がならんでいた。
身体に気をつけるように、いろいろ噂は聞いておりますが、どこへ勤めても、似たようなことはあるのです、つらいことがあっても、簡単に音をあげてはなりませんよ、といった、実に姉らしい、はげましの言葉がならんでいる。
姉はやはり、孔明にとっては、ずっと母親代わりである。
そして姉のほうも、孔明はいつまでたっても子供のままなのであろう。
今朝見た夢の、馬上の姉の姿を思い出し、孔明は思わず微笑んでいた。
姉の夫である龐徳は、姉に惚れこんで求婚してきた男である。
互いに遅い結婚であったが、その仲のよさは、新婚当初とかわらない。
自分のことで、もしかしたら黄家や蔡家から、嫌がらせを受けることもあるかもしれないが、姉の手紙からは、そんな気配を探ることはできなかった。

均のたよりには、家の近況にくわえて、司馬徳操の私塾のことも書かれていた。
孔明は、隆中を出るにあたり、玄から譲り受けた財産の管理を、すべて均に委ねていた。
玄はなかなかな財産家であったから、孔明が受継いだものもかなりのものである。
孔明は、弟に、管理するばかりではなく、おまえがよいと思うように使っても良い、と言い残していた。
均は、孔明よりも早くに結婚し、すでに子にも恵まれている。
金があればあるだけ、使いたいにちがいない。
しかし元来、きれいな青空とさわやかな風さえ吹いていれば、一日じゅう機嫌がよい、慎ましい性格なので、世間の誘惑に乗ることもなく、相変わらず地味な生活をしているようだ。
均は、畑仕事のあいまに、兄にならって、おなじく司馬徳操の門を叩いていた。
手紙では、塾の様子にも触れていて、いまみなのあいだでは、曹操がいつ南下してくるだろうか、ということと、徐庶はあちらでうまくやっていけるだろうか、ということが話題になっているらしい。
なかでも一番の話題は、あの気位のたかい『深窓の姫君』の孔明が、荒くれ者ばかりの劉備陣営のなかで、どれだけもつか、ということだと、均は皮肉めかして書いていた。
言われっぱなしもくやしいので、出来うる限り反論してやっておりますが、ここはやはり、兄上が、みなが瞠目するような手柄を立てるのが、いちばん効き目があるようです、と、なかば冗談まじりに、均は書いてよこしていた。

均の大人しそうでいて、なかなか芯のつよい性格がよくあらわれている手紙に、しらず、孔明の顔はほころんでいたが、徐庶の名前に目が触れたとたん、胸が痛んだ。
曹操によって母親を人質に取られ、やむなく劉備のもとを去っていった兄弟子。
いまはどんな思いをしているだろう。
曹操の元では、ちゃんとしたあつかいを受けているのだろうか。
まるで自分を、本物の弟のようにあつかってくれた、たったひとりの人物だ。
なにかできることがあればよいのだが…

徐庶はすばらしく有能だった。
曹操の南下についても、早くから動きを見抜いていて、下準備を着々と進めていた。
おかげで、後任となった孔明は、徐庶があらかた整えてくれていた体制をさらに補強して、実際に動かすことから始めればよかった。
徐庶が劉備のもとにいたのは、ほんのわずかな期間であったのに、それでも実力を遺憾なく発揮して去った。
鮮やかな男だと、慕わしさとともに、孔明は思う。
いまこそ、いちばんに居て欲しい人物だが、しかし現実には、徐庶はおらず、しかも、糜竺が抜けてしまった。
人材不足で、相当に苦しい。

孔明も、新野城の主だった人々には受け入れられてきているが、それでも、糜竺を通してでないと、動かない箇所がいまだに存在する。
孔明は嘆息した。
新野城に入ってから、人前では毅然とした矜持を崩さないでいたのだが、最近は、この城に慣れてきたせいもあるのか、ひとりになると、こうしてため息をつくことがおおくなった。
劉備とはたしかに気があう。父親のように思えるときすらある。
構えることなく、かといって過度に甘えることもなく、ごくごく自然に仕えることができるのだ。
とはいえ、やはり主公は主公。礼節は守らねばならない。
気を抜けるのは、ひとりのときだけだ。

そして最後の竹簡。
その差出人がだれなのかがわかったとき、孔明は、まるで取りすがるようにして、竹簡を一気に文机の上に開いた。
まさか、と思っていた人物からの書簡であった。
崔州平。
ともに司馬徳操のもとで学んだ学友。そして、徐庶と共に、真に友と呼べる数少ない一人である。
ただし、荊州の名家崔家の長男という出世の約束された地位にいるくせに、自称・根っからの隠士である。
劉表に何度も招聘を受けていたが、頑として首を縦にふらず、いまもってどこにも仕官をしていない。
孔明は、崔州平の人物を見こんで、何度も招聘の手紙を書いていた。
今日、ようやくその返事が来たのだ。
そこには、おおくは書かれていなかった。
ただ、今日の午後に、城外で会えないか、という内容のものであった。
もし駄目だというのなら、あの男のことだ。きっと返事は寄越さない。
返事を与え、そのうえ、会いたいと言っているのだ。
もしかしたら、よい返事をくれるつもりではないのか。
すこし回りくどい気もするが、まだ心がぐらついているから、城外で会おう、と言ってきているのかもしれない。
なつかしい友の、ひねくれた矜持を思い出し、孔明は苦笑した。
同時に、湧きあがる希望を抑えることができない。
たとえしぶられようと、なんとしても説得できる。
崔州平は、おのれの親友なのだ。何夜と語り明かした友なのである。
孔明はよろこび勇んで、城外へと出かけた。


蝉の声が四方から聞こえてくる。
そのはげしい合唱が微風を起こして、森全体を揺らしているようにさえ思った。
木陰には、いまだ、連日の雨でできた水たまりが、乾かずに残っていて、その水面に、青空を映しこんでいた。
水面をあめんぼうが器用にわたっていく。
つき刺すような陽射しを受けて、地面には、くっきりと木々の輪郭が落ちていた。
同時に、おのれと、友の影も。
日よけの笠をはずすと、すずしげな風が、汗にぬれる白いほほを、ひやりと撫でていった。
新野城からわずかに離れた、街道から逸れて、農村へつづく、ほそくのどかな道であった。
暑さのためか人気はなく、水場がちかいのか、カエルの鳴き声も絶えない。

「今年は、ほんとうに蝉がおおいな。やはり、なにかの前触れかもしれぬ。おまえ、なにか感じぬか」
と、相変わらずのかるい口調で崔州平は言う。
崔州平は、身なりをかまわぬ青白い肌をした青年であった。
孔明より、ひとつ頭分、背が低く、ぎょろりと大きな眼をし、横に長い顔に、無精ひげを生やしている。
孔明と同様に、荊州の豪族の娘を嫁にもらっていたが、こちらにはすでに三人も子供ができていた。
それを知っているから、というわけではないだろうが、よれた着物を、さらにだらしなく着くずしている崔州平からは、生活臭がにじみ出ている。
浅葱色の上衣に白い下衣をあわせて纏い、初夏の風に裾をはためかせているすがすがしい孔明の姿とは、対照的であった。
「州平、きみ、すこし痩せたか?」
「いいや。むしろ、ふとったくらいだが」
崔州平の返事に、孔明は、ますますとまどった。
じつを言うと、よろこびいさんで城外で落ちあったものの、やってきた友を見た途端、失望したのである。
これほどにちいさく、みすぼらしい風体であっただろうか、と。
崔州平は、はっきり物をいう男で、嘘をもっとも軽蔑する男だ。
太った、というのだから、太ったのだろう。
「おまえは変わっておらぬ。相変わらず、どこに居ても、きらきらしたヤツだな。一里先からも、おまえが近づいてきているのがわかったぞ。しかし、元気そうだな。俺はてっきり、おまえがげっそりやつれているのではと思っていたよ。これは、賭けは負けかな」
「賭け?」
孔明が言葉尻をとらえて尋ねると、崔州平は、知らなかったのか、というふうに首を動かして続ける。
「そうだ。おまえがいつ音を上げて、劉備のところから逃げ帰ってくるかの賭けをしているのだ。俺は、もうしばらくしたら、孔明が戻ってくる、というほうに賭けていたのだがな。なあ、俺には正直に打ち明けてくれ。その予定はないか」
と、崔州平が、自分より高い位置にある孔明の肩に手を回そうとする。
孔明はそれを察し、素早く身を引いた。
「なんだ、相変わらず、人から触れられるのが怖いのか。俺は親友だぞ」
「親友だろうと、だれからでも、触られるのは嫌なのだ。知っているだろう」
苛立ち混じりで返すと、崔州平は、小馬鹿にしたように、鼻で笑った。
「おまえがそんなふうだから、嫁さんとうまくいかなかったのだろうさ」
「それも知っているだろう。かの女とは、まったく形だけだったのだ。あのひとも、それを望んでいた」
「変わり者同士、なかなかいい組み合わせだったのにな」
からからと笑う崔州平を横目にして、孔明の戸惑いは、ますます膨らんでいた。
劉備のもとで、苦労を重ねているのは、噂などで知っているはずである。
くわえて、黄家との確執なども見聞きして、きびしい立場なのも知っているはずだ。
それなのに、なぜ賭けの話などを、わざわざ当の本人に向けてくるのであろうか。
黄家のこともそうだ。
冗談にしても、無神経すぎる。

孔明が黙っていると、崔州平はひとり、雀のように、ぺらぺらとしゃべりつづけた。
「なんだ、だんまりか。仕方ない、早々に覚悟を決めて、帰ってこない、に賭けたヤツに送金するか。ぼろ儲けだぜ、そいつ。
となると、俺はそいつに支払いをするために、なにか質草に入れねばならぬということか。女房にまたどやされる。実家に忍び込んで金目の物でも盗ってくるかね」
崔州平は、そういって笑うのだが、それは、さきほどの明るいものとはちがって、どこか陰気なものであった。
意味の捉えがたい表情の変化に、静かに怒りを堪えていた孔明も、怪訝に思う。
「どうした、顔色が悪いようだ」
「そうか? 実は、今朝、女房と喧嘩しちまってね、最近、俺がいろいろと出歩いているのが気に入らないのだと」
「そうか。出歩いているというのは、なぜだか聞いてよいだろうか?」
「そりゃ、決まっている。賭けのためさ。おまえがいつ戻ってくるかのな。おまえが泣きべそをかきながら帰ってきたときのために、俺は、宴の準備までしているんだぜ。だから、イヤになったら、いつでも声をかけてくれていいんだぜ」

友であるから、孔明も、崔州平が、なかば冗談で言っているのだとわかっていたが、徐庶が必死になって行った仕事の続きを孔明がしているのだという事情は、ふたりの共通の友であった崔州平が一番よく知っているはずだ。
それなのに、しつこいほどに孔明をからかってみせる。
その態度に、孔明も、こわばった笑みすら浮かべることができなかった。
たとえさほど仲が良くなかったとはいえ、かつての学友たちが、おもしろおかしく自分のことを口にのぼらせて、噂話をならべたて、賭けで盛りあがっている、なんともあさましい光景を想像してしまったあとだけに、余計であった。

「きみは、なぜ、わたしが逃げ帰るだろうと思ったのだね」
「うん? そりゃあ、おまえ、おまえのような育ちのいい人間が、侠客ぞろいの新野城で、うまくやれっこないと思ったからさ」
「侠客はたしかにいるが、そういった人間ばかりではないし、それに、新野城の侠客は、ほかの侠客とは、一味ちがうよ」
「どんなふうに?」
「むやみやたらと乱暴はしない。たしかに暴れるときは凄まじいが、ちゃんと理にかなった事情があるから、暴れるのだ」
すると崔州平は、はん、と鼻でわらった。
「そこがほれ、知恵を持たぬ者というか、おまえと肌が合わないのでは、と思ったのだが」
孔明の戸惑いは、ここではっきり苛立ちに変わった。
新野城のひとびとは、困らせてくれることのほうが多いけれど、ほんとうは真面目で気がいい連中ばかりだ。
孔明は、自分が、いかにあたらしい仲間たちに愛着を感じているかを、はじめて自覚した。
「たしかに最初は苛立ったが、いまはそうではない。彼らは、単に、口より先に手が出るのが、癖になっているだけなのだ。癖は矯正できる」

新野城には、さまざまな人間が往来する。
商人をはじめ、流民、侠客、劉表からの使者などだ。
たいがいが、劉備の名声を聞いてあつまってくるのであるが、中には、劉備は食客だと、はなからバカにしてかかってくる人間もいる。
問答無用の殴り合いになれば、孔明は立場上、止めはするけれど、内心では、そんな奴はぶん殴ってしまえ、と思ったことも、実は、たびたびあるのだ。

「癖、ねぇ。おまえ、世間知らずだから、逆にあいつらに丸め込まれたりしていないだろうな。新野城の人間の大半が、卑しいムシロ売りの大将のもとに集まった連中だろう。有象無象で、お尋ね者の人殺しすら混じっている、と聞いたが」
「州平、きみは、いまわたしにしているような問いを、徐兄にもしたのか?」
孔明が、声を強ばらせて問うと、おのれの言葉のうかつさに気づいたのか、州平も笑みを引っ込めて、気まずそうにした。
「まさか。しないさ」
「ならいい。しかし卑しいムシロ売り、という言葉は聞き捨てならないな」
「事実だろう。きみのような名家の出自の人間が、本来なら付き合うべき男じゃないぜ」
「本気で言っているのか?」
孔明の問いに、むしろ崔州平は、目をぱちくりとさせている。
なぜ孔明が問うてくるのかさえも、判らないらしい。

孔明の苛立ちは、瞬時に嫌悪に変わった。
新野城で、さまざまな前身をもつ人々と接した。
そして、良くも悪くも、かれらが、かれらなりに懸命に知恵を出し合って、真剣に劉備のために働いているのを目の当たりにした。
たとえ実が結ばなかったとしても、孔明は、かれらの真摯な態度を、知恵なき者のあがきだと、笑おうとは思わない。
むしろ、驕慢な態度で臨み、当初はみなを見下していたおのれの姿こそ、真に卑しいものであったのだと、いまでは思っている。
ほかならぬ、『卑しい』者たちの助けがなければ、『名家の出』の自分は、なにひとつ事を成せなかった。

ふと、崔州平の顔を見て、過った言葉がある。
いつわりの誇りは、人を傷つけるものだ、と。
そう言ったのは徐庶であった。
徐庶は、おのれの過去について、多くを語る男ではなかった。
無口で、いつもなにかと戦っているように、厳しいまなざしで虚空をにらんでいた。
人と対峙するときには、嘘偽りなく、まっすぐな気持ちで対峙した。
徐庶は、孔明の中にある、世間知らずで危うい部分を心配し、たびたび諌めてくれていた。
その裏に、どれほどの痛みがあったのか、当時は想像すらしなかった。
いまならば、徐庶の言葉のひとつひとつを、重みをもって思い出せる。
できることならば、一度で良いから、ふたたび会って、おのれのつたなさ、幼さを謝りたい。
わたしと共に、徐庶の言葉を聞いていたはずのこの男は、いったい、どうして、これほどまでにずれてしまったのだろう。
いや、ちがう。
わたしのなかにいま生まれている嫌悪は、州平に向けてのものではない。
おなじように偏見と、いつわりの誇りのなかにいた、過去の自分の姿を州平に重ねて、苛立っているに過ぎない。
以前のように、むやみやたらに、ひとに棘を突き刺すわたしであってはならない。
孔明は、おのれの中に沸きあがった思いを鎮めるべく、大きく息を吐いた。

「州平、きみは、なぜわたしを呼び出したのだね?」
「おお、そうであった、徐庶からの手紙を渡そうと思ったのだ」
「手紙? 徐兄の? ほんとうに?」
「本当だとも。さすがにおまえに直接送るのは、まずいと思ったのだろう。俺を通して寄越したのだ。見てみるがいい」
そういうと、崔州平は、はるばる中原より旅をしてきた書簡を、孔明に差し出した。

徐兄から。
そう思っただけで、孔明の手は震え、慕わしさのあまり、子供のように泣きそうになった。
共にいた歳月の、さまざまなよき思い出が、一瞬にして駆け抜ける。
よかった、彼だけは、わたしを忘れていなかった。
それを崔州平に悟られないように、書簡を受け取り、はやる気持ちを抑えて、中身を開いた。
なつかしい文字が、まず眼を射た。


蝉の声が響いている。
突き刺すような夏の日ざしに、崔州平は、ひっきりなしに手ぬぐいで汗を拭いている。
たまに森をぬける、すずしい風が吹いてきて、さわさわとあたりの草木を、やさしく揺らした。

よく自分は、声をあげないものだと、孔明は、どこか冷めた心地で思っていた。
そして、よく、書簡を投げ捨てないものだ、と。
書簡には、いかに曹操のもとで、自分が厚遇されているか、母と共に安穏と暮らしているかが、長々と書かれていた。
そして、曹操のもとに降れば、よい暮らしができるし、以前のような往来も可能なのだから、こちらへ来ないか、と誘っていた。
劉備のもとで、孔明がどんなふうに過ごしているのか、それを心配する言葉はひとつもなかった。
孔明に対し、ひとことでも、芯から訴えることばはなかった。
どれも、陳腐な自慢話にしか読み取れない。

徐兄は変わった。
いいや、変えられてしまったのだ。
ひとごろしの流れ者だと蔑まれ、だれからも相手にされなくても、いつも毅然として、堂々と胸を張っていた。
その揺るぎないまなざしと、凛とした矜持が好きだった。
叔父を失い、姉弟と、必死になって荊州で生きてきた。
心が張り詰めて、裂けてしまいそうだったとき、助けてくれたのが、徐庶だった。
本当の意味での優しい男だったと思う。
うわべだけの優しさではない。時には真剣に叱ってくれたし、おなじように、真剣に心配し、つまずいたら、立ちあがるまで、そばにいて励ましてくれるような男だった。

この書簡を書いた男は誰だ。
こんな男は知らない。
こんな俗物は、徐兄であるはずがない。
劉備の軍師になったのも、徐庶が見込んだ人物だと思ったのもおおきな要因なのだ。
それなのに、その徐庶が、曹操への帰順を訴えている?

怒りのあまり、ながく沈黙する孔明に、崔州平が言った。
「どうだ、おまえも徐庶とともに、中原に行く気はないのか」
「くだらない冗談は、よしてくれ」
書簡に眼を落としたまま、孔明は、自分でもぎょっとするほどのつめたい声で、きっぱりと否定した。
「孔明、顔を上げてくれ」
さきほどまでの、倣岸なまでの嘲弄が、崔州平の顔から消えている。
その眼はまっすぐに、こわばったままの孔明を見ていた。
「おれは冗談で言っているのではないのだ。曹操がいやなら、どこかほかの土地でもかまわん。おまえ、このままでは死ぬぞ」
「死ぬ? なぜだ」
「子供でもわかる理屈だぞ。曹操は今度は本気だ。脅威だった袁家は完全に滅んだ。背後はなにも気にしなくていい。馬家の動きだって、いまの曹操なら、簡単に止められるさ。それに、馬家がもし、機会に乗じて暴れだしたとしても、先に南を制覇し、返す刀で馬家を制圧したほうが、曹操にとっては楽な方法だ。
馬家の勢力というのは、蛮族の連合だからな。それに、連合しなくちゃいけないもの同士が、実はたがいにいがみ合っていることも、曹操はお見通しだ。官渡を勝ち抜いた曹操にとっちゃ、赤ん坊みたいに見えるだろうよ。これは、何度となく、おまえとも話したことじゃないか。
今度の曹操の軍は、何十万という規模になろう。それに対して、劉備はどうだ? 付け焼刃で徴兵したところで、数万にも満たないであろう。おれは親友の二人が、敵味方に分かれて、争って死ぬのを見たくないのだ」
「死ぬと決めつけないでくれ。策はある」
「おまえの言う策とて、もともとは徐庶のものを継承したのだろう。わからぬか、徐庶は曹操に降ったのだ。手土産に、まちがいなく新野城の情報を曹操に渡している。新野城のことは、曹操に筒抜けなのだ。勝ち目はない」
孔明は、眦をつよくして、崔州平を睨みつけた。
「州平、おまえはわたしに、裏切り者になれ、というのか」
「たしかに裏切るカタチにはなるが、世人はだれもおまえを責めぬ。劉備の命運は、とうの昔に風前の灯火であったのだ。一介の書生が努力したところで、運命は変えようがない」
「一介の書生、か」
新野城の人間が、その言葉を口にしなくなったと思ったら、今度は同窓の親友が、その言葉を口にする。
孔明は声を立てずに、わらった。
「たしかにわたしは一介の書生に過ぎないよ。だがな、もう事はすでに動き出している。きみのいう侠客集団も、自分たちの志をつらぬくために、いま必死になって、それぞれに戦っている。もしそれを見捨てたら、わたしは、わたしを一生、ゆるすことはできないだろう」
「妙に生真面目なことを言うな。おまえ、奥方のことを考えたことがあるのか。気の毒に、蔡家からは相当に圧力がかかっているそうだぞ。おまえは身内を巻き添えにして、心が痛まないのか。烈士を気取るのもよいが、まわりのことを考えろ」
「州平、わたしは劉玄徳の軍師なのだ。ひとたび軍師という役目を拝命した以上、いかなるものを犠牲にしても、やむを得ないという覚悟はできている。変節漢をあれだけ嘲っていたきみが、友と呼ぶこのわたしに、世人より卑しまれる者になれ、というのか?」
崔州平は、顔をあからめ、孔明をにらみ、孔明は、冴えたまなざしで、それを受け止めた。
初夏の風が駆けぬけ、後れ毛をなぶる。
さきに口を開いたのは、崔州平のほうであった。

「愚かしいことだ。叔父と甥とでそろって、道理を通すためだけに死を選ぶとはな」

一瞬、すべての音と光景が、世界から消えた。
崔州平が、跳ね飛ばされ、黄色い地面に突っ伏していく。
それだけが見えた。
頬を切ったらしい。
唇から血が垂れて、砂によごれた髯を、さらによごした。
崔州平は、自身の唇を拭いつつ、その掌についた血を見て、鼻で笑った。
「短気も治ってないな。徐庶が見たら泣くぜ」
「黙れ!」
孔明は、おのれが、たとえ護身用でも武器を持っていなかったことに安堵した。
そうでなければ、この場でこの男に斬りつけていたかもしれない。
それほどにつよい怒りであった。体の震えをおさめるのがやっとであった。
崔州平は、孔明を、軽蔑の籠もった目で睨め上げる。
「おまえが新野城の人間に感化されてしまったのかと心配していたが、そうじゃないな。おまえは、もともと、連中と同じなのさ。武を好み、血を好む。人を足元に踏みつけて、戦いを求めて生きているのさ。それがおまえなのだ」
「なんとでもいえ。きみが口ばかりの人間だと言うことが、よくわかったよ。いままでのわたしは馬鹿だった。きみのことを、真から友人だと信じていたのだからな! わたしが変わったのではない。きみが変われなかったのだ! そして徐兄の志は死んだ。そういうことなのだ。わたしはちがう。きみたちと交わした論議は、きみたちにとっては、遊戯であったのかもしれないが、わたしにとっては、玉条に等しいものだった。きみたちがわたしを裏切るというのなら、それでいい。しかし、わたしは、きみたちが、一度は本心から語った言葉を自分の志にして生きていくだろう」
崔州平は、口に含んだ砂を吐きだして、言った。
「おまえは、もう俺たちとは、ちがうというのか」
「ちがう。わたしは、きみたちのようには、決してならない」
「ふん。ずいぶんとえらくなったものだな、軍師殿」
崔州平は、服に付いた埃をはたきつつ、冷笑をうかべて言った。
「せいぜい、軍師、軍師とかつがれて、お山の大将を気取っているがいいさ。徐庶にもおまえのことを伝えておく。おそらく、手紙もこれきりになるだろう。
おれは一族を率いて東へ行く予定だ。おまえのように、昔の仲間をないがしろにしたり、妻子を冷たく切りはなすような薄情なまねはできないのでね。もしふたたび荊州に戻ることがあるならば、墓参りくらいはしてやるよ」
「その気遣いは無用だ。わたしはかならず、きみよりも長生きをする。死ぬために戦うのではない。生きるために戦うのだ。どのような状況にあれ、わたしは生きるための策を練り続けるぞ。どのような恥を受けても、かならず生き残って、最後には勝つ。
ありがとう、州平。わたしも迷いが吹っ飛んだ。もう、きみになにを言われようと、なにも思わない。きみが首尾よく東へ逃げおおせて、心が変わるようなことがあったなら、わたしを訪ねてくるといい」
「いいや、二度と会うまい」
「そうか。ではさらばだ」

その二人の姿を見たら、だれが、これが旧友同士の対面であったと思うだろうか。
崔州平は、怒りを抑えかねた顔で、じっと孔明をにらみつけていた。
その眼差しを、眼をそらさず、孔明は受け止める。
崔州平は、やがておおきく鼻を鳴らし、腫れてきた頬をおさえながら、無言のまま、背をむけて立ち去った。
二度と振り向くことはなかった。


わたしはたったいま、拳で過去を叩きこわしたのだな、と、その背中を見送りつつ、孔明は思った。
もっと要領がよくて、もっと思いやりがあって、もっと度量があれば、一度は親友と見なしていた男と、こんなぶざまな別れをしなくて済んだのだろうか。
しかし、叔父のことを言われてしまうと、だめであった。
叔父を失って、どれだけ孔明が衝撃を受けたか、その衝撃は、心ばかりではなく、世のすべての人に対する恐れという、極端な形で残されてしまっていることを、崔州平は知っているのだ。
知っていて、あんなふうに蔑んでみせた。
おのれのことだけならばいい。
だが、叔父のことは別だ。
もうなにがあっても、許すことはないだろう。
つめたい、といった崔州平の言葉が、痛みとともに思い出される。
過去をないがしろにして、家族をも切り捨てて、つめたい。薄情だ、と。

それもまた、自分の一面なのだろう。
志のためならば、妻を捨て、友も捨て、おのれのためだけに生き残る。
こんなおそろしい身勝手な部分に、徐庶は気づいていたのかもしれない。
だから、捨てられてしまったのかもしれない。
崔州平のうしろ姿が、完全に見えなくなったとき、孔明は、確実に、自分の一時代に、幕がおりたことを悟った。
乾いた笑いが唇から漏れる。
なんとむなしい幕切れ。
しかし、冷血なおのれには、ふさわしいものかもしれぬ。
   

ニへつづく
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