孤月的陣 
2006年改訂版
雨の章

雑草の生い茂る庭の一角に、ひょうたん型の池があり、そのすぐそばの東屋の横に、雨のおかげで地面のやわらかくなっている場所があった。
趙雲は、そこに穴を掘り、女の死体を埋葬してやった。
屋敷の一角に墓を掘るなど、ふつうはしないことであるが、女の身体の破損があまりにひどいために、そうするしかなかったのだ。
それに、東屋の周囲には、むらさき露草や、菖蒲がしずかに花開き、無人となった池のその上には、睡蓮が神秘的な姿を見せている。
ここならば、無残な末路をむかえた女もさびしくないだろう。

「あいかわらず、つめたいのか優しいのか、よくわからん奴だな」
と、朱季南は揶揄するように言った。
朱季南と別れてから、九年の月日が流れた。
「だが、変わっておらぬ」
朱季南は、なつかしさに目を細める。
朱季南は、あいかわらず、頭をきれいに丸刈にしており、いささか派手目な、いかにも諸国を渡り歩く食客、といった風情である。
片方の耳だけに女物の耳輪をし、槍を持つ手には、それぞれまったく趣味のちがう腕輪が、いくつもはめられている。これまで仕留めた敵の戦利品、というわけだ。
太い眉と大きな目、中央に鎮座する団子鼻。
その、どこか人を食ったような容貌は、別れたときと変わりがないものの、その表にあらわれる表情には、趙雲の記憶と差があった。
朱季南のいちばんの美点であった、突き抜けるような明るさが消えていた。
もちろん、取り繕ってはいるものの、笑顔でごまかそうとしている表情の裏側にあるのは、荒野の狼のような、凶悪で暗い光である。

「ほんとうに、おまえがやったのではないのだな」
趙雲が重ねてたずねると、朱季南は乾いた笑い声をたてた。
「女を切り刻む趣味はない。信じろ」
「しかし、歌なんぞ歌っていたではないか」
「歌?」
朱季南の顔が、怪訝そうにゆがむ。

おなじ白馬義従として、寝食をともにした仲だ。
その人となりはよく知っている。
嘘をついている顔ではない。空耳であったのか?

「いい。それより、播天流は、生きているのか?」
その名が出ると、季南の口元にあった、嘲笑めいた笑みが消えた。
それまで暗かった眼差しに、わずかに陽が灯る。
「播天流か。なつかしい名を聞いたな! あいにくと、あれ以来、俺はあの人と別れたきりだ。消息もわからん」
「そうか。おまえも知らぬか」
「ということは、おまえまであれきりなのか。意外だな。俺なんぞより、おまえのほうが、播天流の気に入りだったではないか」

季南は、公孫瓚に仕えたあとに、趙雲と播天流が決裂したことをしらないのだ。
しらないまま、播天流を助けろといい、知らないまま、別れた。

「だが、わからぬ、なぜおまえがこの屋敷に入り込んでいたのだ?」
「風狗を追って、見失った。おまえがいま、埋葬してやった哀れな女は、そいつがやったのだ」
「風狗?」
「許都で、娼妓ばかりを殺しまわった化け物だ。おれはそいつを追ってここまでやってきたのだ」
「許都だと?」
趙雲は身構えた。
許都といえば、曹操の本拠地。
帝を擁し、その後見人として、天下人のように振る舞って、号令をかけている場所である。
うかつであった。最初に朱季南がどこから来たのかを、たずねるべきであった。
しかし、朱季南は、身がまえた趙雲を手で制しつつ、笑った。
その笑い方は、さきほどまでの乾いたものではなく、なつかしい、あたたかみのある笑い方であった。
ふと、感傷にとらわれる。
朱季南の、そのほがらかな笑い声に、殺伐した戦場で、どれほど救われたか知れなかった。
過去のこころに引き戻されそうになり、趙雲はあわてて、おのれを叱りつけた。
そうして、敢然と、闇の中にたたずむ、かつての盟友をにらみつける。
むかしの面影の消えた、暗い目をした朱季南は、その視線を受け止めつつ、答えた。

「おまえと別れたあと、俺はしばらくあちこち放浪してまわっていたのだ。
おまえの噂は聞いていたよ。常山真定の趙家の末子が、劉備のもとへ仕えた、とな。
おまえを頼ろうとも思ったのだが、事情があって、許都に留まることにした。
そこで曹公に仕官した」
趙雲は、ふたたび無言のまま、剣を抜いた。
いかにかつて、寝食をともにした友であろうと、おのれが劉備の将である以上、曹操の密偵というならば、容赦はできない。
その気配に、朱季南はあとずさった。

「聞いてくれ、子龍。二度とおまえに会うことはなかろうと思っていた。会うとしたら、戦場で、敵と味方としてであろうと、そう思っていた」
「なつかしさで飛んできた、などと言うのではあるまいな」
「まさか。俺がここに来た理由は、風狗を追ってだ。子龍、虫の良いことを言うと思うかも知れんが、俺を見逃してはくれぬか。
いまの俺には、天下の趨勢がどうなろうと、どうでもよい。風狗を捕らえることができたなら、命さえ惜しくないのだ。おまえが欲しいというのなら、この首だってくれてやる。
しかし、風狗を捕まえるまでは待ってほしいのだ。やつが新野に逃げたのはまちがいない。俺は、なんとしてもヤツだけは逃がすわけにはいかんのだ」
「風狗か。おまえがそいつを追ってきたという、証拠は?」
「ずいぶん疑いぶかくなったのだな。俺の話以外に、俺の証明をする手立ては、ない」
「ならば、俺といっしょに屯所へ来てくれ。おまえが曹操のところから、劉予州に降る、というのならば話を聞く」
「それはダメだ。おれは許都に戻らねばならぬ」
「なんのために? 新野の情報を、曹操にもたらすためにか?」
「そうではない。だが、いまは言えぬ」

じり、と足を踏み出す。
目をそらさぬまま、間合いを詰める。
びゅん、と風を切る音が聞こえた。
考えるより早く、趙雲は剣を動かし、飛んできたそれを跳ね除けた。
ぎん、というするどい音とともに、地面にぼとりと落ちる音。

縄標であった
縄標の剣先が、ほんものの、生きた蛇ように、うろこのごとき刃を月光ににぶくひからせながら、地面を素早く這っていく。
その先には闇がある。
みずから意思のあるように、縄標は闇に逃げていく。

趙雲は、縄標を追おうとしたが、いかんせん、暗すぎた。
朱季南の姿は、もうなかった。
どうやら、趙雲の隙を生むためだけの攻撃であったらしい。
舌打ちをして周囲を見まわすが、すでに影も形もない。
生暖かい風にのって、声だけが聞こえてくる。
「あいかわらず、飛び道具に弱いな。しかし、それを避けたのは、おまえが初めてだやはり、おまえはすごいやつだよ」
「季南!」
「また会おうぞ。機会があればな」
そうして、朱季南は消えた。



気が付くと、孔明は、文机のまえで手をとめて、固まっていた。
「どうした、書かなくていいのか」
「…書けると思うか?」
ようやく固まっていた口が動いた。
しかし秀麗な面差しはこわばり、口がへの字に曲がっている。
そして、趙雲を見つめるその双眸には、はっきり『ばか』と書いてあった。

趙雲は思った。
弁舌の術を学問として学んできた人間にとっては、口下手な武骨者の話など、さぞかし、つまらなく聞こえるにちがいない。
趙雲は、憮然としつつ、言う。
「すまんな、俺は話すのが得意ではない。話があちこちに飛ぶので、まとめるのは大変だろう」
「それはよいのだ。あなたの話はよくわかる。いや、分かる分からないのはなしはどうでもいい。いまの話、だれにもしていないだろうな?」
していない、と答えると、孔明は、大きくため息をついた。
「ああ、おどろいた、本当におどろいた。いままでは、ここにいる武将のなかでは、あなたがいちばん利巧だと思っていたのに、とんだ見込みちがいをしていたものだ」
いいつつ、孔明は筆をおいて、こめかみをさする。
趙雲はたずねた。
「なにを驚く? 娼妓が殺されたことを、報告しなかったことか?」
「それもある」
「報告しようと考えた。しかし、朱季南の思惑がわからぬし、逃げた斐仁のことも気になっていた。
それに屯所に言ったところで、娼妓がひとり、殺されたというだけでは、警吏も腰を上げない。もうすこし自分で調べてから、報告しようとしたのだ。けして、朱季南をかばったわけではないぞ」
「それはわかる」
「ならば、朱季南のことか? たしかに許都の役人が新野に入り込んでいたというのはゆゆしき問題だ。
だからこそ、娼妓のことも含めて、もうすこし調べてから報告しようと…」

すると、孔明は、趙雲の言葉をさえぎり、顔をあげると、するどく言った。

「たわけ。それが問題なのだ! 旧友と再会したので判断力がにぶっていたにしても、ずいぶんと、らしからぬ振る舞いをしたものだな。
朱季南とやらが、曹操の密偵でなかったとしても、敵方の役人であることに間違いはない」
「主公より兵卒をあずかるひとりとして、新野の警備がまだ甘い、という点では反省している」
「ばかもの。わたしが言いたいのはそうではない! 子龍、もし曹操の役人と夜中に二人きりで話をしているところを誰かに見られたら、どういうことになると思う? 
たとえあなたが清廉潔白であったとしても、世間は疑惑の目を向ける。
しかも曹操の南下が近いというので、これほどぴりぴりしている中で、そんなことが発覚したら、ただではすまぬぞ。このばかめ!」
「すまん」

怒鳴るだけ怒鳴ると、孔明は、水差しから水をついで、一気に飲み干した。
そして、気を鎮めるためだろう。
ため息をついて、趙雲のほうに顔をむける。
「子龍」
「なんだ」
「先に言ったことにつけくわえる。思いついたことを、思いついたまま、話せ。
ただし、隠し事をしたり、嘘をついたりするな。
そして、わたしに話したことは、けしてほかの誰にも漏らしてはならぬ。主公にもだ」

するどい、真摯な眼差しが、寝台の上に身を起こした趙雲とぶつかった。
冴え冴えとした夜気のうえで見あげる、冬の月を思わせる冴えた双眸だ。
天下一のうそつきでさえ、これほど澄んだ眼差しを前にしては、嘘をつくこともできまい。

「約束だぞ。よいな?」
「主公にも?」
「わたしは、あなたが嫌がることが判っていて、あえて言っているのだ。いいな。だれのためでもない。自分のためだ。そして、われらのためでもある。」
『われら』。
それはたった二人、言った本人と、自分をふくめての二人だけを指すらしい。
趙雲が黙っていると、孔明は、とがっていた声をわずかにやわらげ、たずねてきた。
「疲れたか? すこし休んでもよいが」
そうして趙雲は、ようやく気がついた。
これは虜囚への気遣いなんてものではない。度が過ぎている。
「軍師、なにを考えている?」
趙雲の問いに、孔明は怪訝そうに、柳眉をしかめる。
「なにを、とは?」
取調べというわりには、部屋には孔明以外の人間もなく、表に兵士はいるようだが、趙雲を閉じ込めておくためというよりは、侵入者を警戒している様子である。
だいたい、虜囚をかいがいしく看病し、縄を打つでも、拷問にかけるでもなく、いちばん落ち着く自室で横たわらせ、気遣いながらの取調べなど、あるものか。

趙雲は、気絶する前の、糜芳と劉封たちのことばを、朦朧とした意識のなかでも、ちゃんと聞き取っていた。
彼らは、趙雲が斐仁を使って、劉埼の腹心を暗殺させたと思っている。
そして、その裏で糸を引いたのは、孔明ではないか、と。

いま、樊城の劉家では、お家騒動が起こっているのだ。
病が篤いという州牧の劉表には、ふたりの子がある。
劉備が後見をしている劉埼は長男である。
これの対抗馬として、後継に推されているのは、劉琮という、劉埼とは腹違いの弟である。
劉琮は、まだ幼いといってもいい少年なのであるが、これの母親は蔡夫人といい、ほかならぬ、孔明の妻の叔母であるのだ。
つまり、糜芳と劉封たちは、妻の一族を盛りたてて、ひそかに荊州の実権を握ろうとしているのが、孔明ではないか、と勘繰っているというわけだ。

だが、事実として、そんなことはない。
なぜ斐仁が劉埼の腹心を殺さなくてはならなかったのか、明確なところは、直属の上役であった趙雲でさえ掴みきれていない状況である。
そうして、ここがおそらく、他者にはわかりづらいところであろうが、軍師という、謀をもっぱらとする役目についていながらも、諸葛亮というこの青年、厄介なことに、名前どおりの明朗な性格ゆえに、裏工作が得意ではない。
じつは軍師という役職には向いていない青年なのである。

ただし、たとえ身が潔白であったとしても、趙雲は、もし劉備に、部下の不始末の責任を取れ、と言われたなら、それに従う覚悟も決めていた。
部下の不始末をきちんとつける覚悟が、常日頃からあればこそ、上に立てるというものではないか。
そのあたりのことは、将として、趙雲はきちんとわきまえている。

「樊城から、伊籍が来ている、といったな。
あんたはこんなところで俺の話を聞いてないで、早いところ伊籍のところなり、劉公子のところなりへ行って、自分が俺と関係がないことを話すべきじゃないのか」
とたん、孔明は片方の手で筆をもてあそびながら、鼻を鳴らしていった。
「そんなことができるか。あなたはわたしに嘘をつけ、というのか」
「嘘?」 
「わたしとあなたに関係がない、などということが、あるわけがなかろう。あなたはわたしの主騎であり、わたしはあなたを従える者だ」
趙雲はぴんときた。
「俺をかばうつもりか?」
たずねると、孔明は、くだらぬことをぬかすな、と言わんばかりにふたたび鼻を鳴らし、堂々と胸を張った。
「当たり前だ。わたしは一方的に守られるつもりはないぞ。恩知らずではないからな」
「恩もなにもあるか。俺は仕事だから、主公のご命令であるから、あんたを守っていただけだ」
「そんなことは知っているとも。だから、なんだ?」
なんだと逆に問われて、趙雲はことばを詰まらせた。
だから、ふつう、軍師とか、人の上に立つ者で要領のいい者、長生きする者は、足を引っ張る者を切り捨てるものだ。
そういった冷酷さがなければ、乱世で生き残ることはむずかしい。
だから、ほかの文官はそうするであろうから、あんたも俺を切り捨てろ、と趙雲は言いたい。

言いたいのだが…

孔明の、意外に素直な光をやどす双眸が、趙雲はなにを言い出すのか、と怪訝そうにしている。
いつもならば、年上を年上とも思わず、傲慢な態度でもって接してくるくせに、今日にかぎって、この素直さはなんなのだ。
さきほどまで双眸にあった『ばか』の二文字はいつの間にか消えていて、いまは『信頼』の二文字にすり替わっている。
妙に気圧される形となり、思わず、趙雲は出しかけたことばを止めた。

いままで、いろんな種類の人間を見て来たと思う。
優しいもの、残酷なもの、気弱なもの、強気なもの、いろいろ。
だが、こんなにわけのわからぬ男は初めてだ。
しかも、わけがわからないのに明瞭なのだから、余計にわけがわからない。
味方だから助ける、かばう。
胸のうちにある理屈は、それだけなのである。
どうしてそこまで単純に物事を据えることができるのか、どう生まれ育てば、こんな世の中に、これほど素直に成長できるというのかすら、理解ができなかった。

もし、俺が本当に、勝手に劉埼の腹心を殺されていたとしたら、この軍師はどうするつもりなのだろうか。
思わず趙雲は、ちらりと孔明を見、その目に、あいもかわらず真っすぐな『信頼』を見つけて、目をそらす。

どうもしないな、最後まで信じきって、泣くのだろう。
その姿は、あまりに残酷で、想像することができなかった。
なるべくならば、見たくない姿である。

俺と真逆の世界に心があるヤツだな、と趙雲は思う。
人を信じる心も、人を信じさせることのできる説得力も、衆目をあつめることのできるほどの光輝も、自分には備わっていないものだ。
この青年のまとう光は、いままで明るい世界で、愛情をいっぱいに受けて育ってきた人間にだけ許される、特殊なものなのだろうか。

荒れ果てた平原と、地平にともりつづける鬼火、軍馬のひずめの音、剣戟の音、風に乗って聞こえる断末魔。
天空はつねにくもり、なみだも涸れ果てたように沈黙をつづける。
それが、趙雲が幼少から見てきた光景であった。
おそらく、孔明のようにめぐまれた人間が目にしたことはないだろう。死屍累々の平原を、裸足で歩いたこともある。
以来、死臭は身体の一部となり、けして消えないものとなってしまった。

「子龍、貴殿はまさか、くだらぬ考えを抱いているのではなかろうな?」
沈思をやぶられ、趙雲は顔をあげる。
いつのまにか、孔明は文机から立ち上がり、麻の帳をかきわけて、趙雲の目の前に来ていた。
「このわたしがいるというのに、まさか、劉表に引き渡されることを危ぶんでいるのではなかろうな。
あなたは、ほかのだれでもない、この孔明の主騎なのだ。たとえだれの命令であろうと、罪人のように樊城へ引き立てられるような目には、けして合わせぬ」
そして、言葉のさいごに、にっこりと、華やかな笑みを浮かべる。
「安心するがいい」
安心しなければ、いけないのだろうな、と逆に思わせる言葉であった。

「しかし、風狗、か。本名とも思われぬ。曹操の膝元の許都で、そんな事件が起きていたとは、初耳だな。
殺されたのが娼妓だから、あまり騒ぎにならなかったのか」
孔明のことばに、反発をおぼえて趙雲はいった。
「娼妓だろうと貴人だろうと、ひとに変わりはないだろう」
「理屈ではな。しかし、そう思わぬ者の方が多いのが現実なのだ。哀れなことだ」
「哀れ? だれが?」
「両方だ。娼妓たちも、彼の女たちを貶める者たちも。
好きで身を落としたわけではなろうに。ひどい話ではないか。
食べるために身を売りつづけ、さいごは虫けらのようにばらばらに刻まれて殺されるなど。
風狗の目的はなんであれ、許せるものではない。物盗りではない、とあなたは思ったのだな? なぜだ? 殺されたのは、老いて妓楼からも追い出された、老婆といってもおかしくないほどの女だったのだろう?」
「物盗りで、あそこまでむごたらしく、人を殺める意味がわからぬ。
たとえ女が抵抗したとしても、あんなふうに、腹をかきまわして、外に引きずり出すような真似をする意味がどこにある?
戦場で多くの死体を見て来たが、あれほどまでにひどいものは稀だ。あれにはなんというか、激情が感じられたな」
趙雲にはめずらしい、抽象的な物言いに、孔明が身を乗り出す。
「激情?」
「そうだ。風狗は、女に恨みでも持っているのではないかな。なんというか、女という存在そのものに、強い執着というか、執着をとおりすぎた、憎悪を感じた」
「恨み、か。娼妓にぼられたか、性毒でも移されたのかな。あるいは金子か大事なものを盗られたとか?」
いかにも清雅な顔をして、孔明は過激なことばを、ぽんぽんと言ってのけた。
「朱季南であれば、なにかわかるかも知れぬと思ったのだが…」



その後、趙雲はひと晩中、朱季南の姿をもとめて夜の新野を歩きまわったが、ついぞその姿をみつけることはできなかった。
一夜が明け、屯所で軽く朝食を兵士たちとともに摂りながら、熱くなっている頭を冷ましつつ、これから為さねばならないことを考えた。
 
朱季南。
そして、斐仁。
斐仁は、あの屋敷から逃げ出した。
あの女の客が斐仁だとすると、娼妓と斐仁とのあいだでなにか、諍いになり、斐仁が女を殺してしまったのではないかと、ふつうに考えられる。
しかし、朱季南の話では、風狗、という者が下手人で、そいつは許都でも数人の娼妓を殺しているという。
一方の斐仁は、趙雲の知る限り、ここ数年は新野を離れたことのない男だ。
一ヶ月と家を空けたことがないし、暇をやった覚えもない。

とすれば。

斐仁は、非番なので、娼妓を買い、空屋敷に連れだって入った。
ところが、そこへ風狗が、いかなる理由か、襲ってきた。
斐仁は、からがら逃げ出すが、女は逃げられず、殺された。
そこへ、風狗を追って、許都からやってきた朱季南があらわれる。ついで、歌声につられた趙雲があらわれ、これと戦うことになった。

しかしなぜ、斐仁は、そして娼妓が襲われなければならなかったのか。
娼妓殺しが本命で、斐仁は巻き添えをくらっただけなのか?

趙雲は、一睡もせずに一晩中、新野を歩きまわっていたわけであるが、気になって眠れないことはわかっていたので、さっそく斐仁の屋敷に行くことにした。
いまにも泣き出しそうな、重苦しい雲が空を包んでいる。
雨を歓迎するような、蛙の声が、どこかの水場から聞こえてきた。
おぼえず、つい早足になりながら、趙雲は斐仁の屋敷に着いた。
しかし、待ち受けていたように家令がやってきて、あるじは、熱を出して寝込んでおり、とてもではないが、だれとも会えそうにない、と言う。
しばらくねばったが、家令の態度はかたくなで、とても斐仁に会えそうにない。
登城してきたところを捕まえるしかなさそうだ。

『俺が来ることを予想していたな』
と、趙雲は思った。
斐仁は聡い男だ。空屋敷から逃げ出すおのれの姿を、趙雲に見られていたことに、気づいていたのだ。
そして、趙雲が屋敷に詮議に来ることも予想していた。
『しかし、付け焼刃だぞ』
と、家令がいつまでも門扉から去らないでいる屋敷を振り返り、思った。
たとえ直接、手を下したのではないにしろ、女を見殺しにした、その事実はかわらない。
もし登城してきたら、さっそく斐仁を捕らえて、それなりの処罰を加えねば、と思った。

それにしても、斐仁の屋敷は立派である。
門構えといい、囲いの向こうに見える屋根の大きさといい、とても一介の部将のものとは思えない。
もともとは、斐仁は劉備ではなく、劉表の配下のものであった。劉備が新野に入ったのと合わせて、劉表が劉備に『贈った』兵のひとりであったのだ。

かつての主である劉表の待遇は、それほどに良かったのだろうか。
そう考えて、斐仁とおなじ環境にあって、劉備のもとにやってきた兵卒たちの屋敷を思い出し、否定してみせる。
斐仁だけが特別に金を持っている様子だ。
いまままで気に留めてこなかったことだが、これほど金を持っている男が、どうして自分のところに異動しようと思ったのだろうか。
江夏郡の出身で、劉表の配下であったときに、怪我をして、片足がうまく利かなくなった。
しかし、数字につよいところを買われて、官給品の支給に向いていると、みずから、官給品の管理も仕事にもっている、趙雲の部隊に志願してきたのである。
副将の陳到とならぶほどに特長のない男だが、そういえば、子沢山だと、いつだったか酔ったときに言っていた。
ともかくもの静かで、目立たぬ風貌の男である。
いささか吃音の傾向があり、それゆえか、余計に口が重いようだ。
ひとたび親しくなれば、口を開くのであるが、時にびっくりするほど無表情になるため、何を考えているかわからない男だという向きもある。

ともかく、斐仁は屋敷に籠もっていることはわかった。
これは、あとで捕まえる。

さて、問題は朱季南だ。
新野は、さほど広い都市ではない。
それに、七年もの歳月を新野にて過ごしてきたために、住人も趙雲となじみで、情報をあつめやすい。
どこに隠れているかは知らないが、旅籠であれば、すぐに見つけられる。
妓楼であっても同様だ。
とはいえ、あの風体では目立つし、あまり金がない様子であったから、もしかしたら、昨日のような空き家に潜んでいるのかもしれない。
ともかく、朱季南をつかまえ、風狗、という正体不明の娼妓殺しの下手人の情報を引き出さねばなるまい。
第一、魏の役人を、新野ですき勝手にさせておくわけにはいかない。
たとえ動機が何であれだ。




新野城にたどりつく寸前に、とうとう雲から、ぽつぽつと大粒の雨が落ちてきた。
足を速めて城門へ行くと、なにやら騒ぎが起こっている。
見ると、門衛たちに、農婦らしい女が、掴みかかってなにやら訴えているのだ。
さては、門衛のだれかが野菜でも買って、値段を踏み倒したか、と趙雲は思ったが、そうではない様子だ。
農婦の勢いがあまりにすさまじいため、近隣の町人たちが、雨が降り出したにもかかわらず、つぎつぎと集まってきている。

「お願いでございます、どうか、会わせてやって下さい」
と、老いとやつれのみえる農婦は、門衛のひとりに縋っている。
縋られている門衛は、困り顔で、
「何度も説明したではないか。おまえの息子はここにはおらぬ!」
「そんなはずはございません。あたしの子はたしかに、お殿さまの徴兵だからといって、お役人に連れられて、新野城へ行ったのです。
どうしてお隠しなさるのですか? まさか、息子は死んでしまったのではないでしょうね!」
「ここにいない者が、ここで死ぬわけがなかろうが! ええい、だれか、なんとかしてくれ!」
「お願いでございます! ひと目でよいのです、会わせてください!」

去ろうとする門衛に、なおも農婦がすがろうとする。
門衛は、それを避けようとして、思わず、ひじで、したたかに農婦のアゴを打ってしまった。
農婦が、降りだした雨を受けて、湿りはじめた地面に倒れる。
見物人のひとりが、非難がましく、
「あっ」
と叫んだのをきっかけに、見物人たちは、いっせいに門衛たちに向け、どやしはじめた。

いかん。

「ちょっと、あなた!」
輪のなかに飛び出そうとした趙雲は、つよい勢いで肩を叩かれた。
女の声に振り返り、さらにぎょっとする。
笠をかぶった女であった。
笠におどろいたのではない。女の顔のあった、その位置である。
ずいぶんと、背の高い女であった。
真横を見れば、すぐそこに顔がある。趙雲が八尺であったから、たとえ女が、かかとの高い沓をはいているのだとしても、それに近い身長があるというわけである。
そんな大女、めったにいない。
女の存在感に圧倒されて、趙雲は、しばし口をきけなかった。
身なりは悪くないが、供をつけていない。
とはいえ、町人の妻、という雰囲気でもない。
ずうずうしさを一瞬で感じさせるほど、怖じずに趙雲に接してくるその様子は、どこか玄人女を思わせる。
昨夜のことを思い出し、趙雲は、この女も娼妓ではないか、とふと思った。
笠の下にある顔は白く端正で、ふつうならば、美しいと形容されるものだろう。
だが、女には表情というものがまるでなかった。
背の高さとあいまって、人形のようなその表情のなさが、美しいという言葉を出すことをためらわせるのである。

「あなた、えらい人なのでしょう? ちがって?」
と、女は言った。
無表情なのであるが、さきほどの光景の一部始終を見ていたらしく、どうやら腹を立てているらしい。
「なら、ぼさっと見ていないで、さっさとあの女の人を助けなさい。でないと、ここの人たち、暴動を起こすわよ。
ただでさえ、みんな曹操がいつやってくるか、びくびくしていて、気が立っているのだから」
「そんなことは判っておる」
「そうかしら? さ、ほら、早くお行きなさい!」
女は趙雲の背中をつよく押した。
ずいぶん強引な女だな、と腹を立てつつも、趙雲は騒ぎの輪のなかへ入った。

趙雲が姿をあらわすと、それまで、門衛たちを悪しざまに罵っていた群集が、ぴたりと止んだ。
騒ぎを聞きつけ、城壁から、わらわらと門衛たちが集まってきている。
「みな鎮まれ!」
趙雲が下知すると、門衛たちは、構えをとき、小雨に打たれながらもさわいでいたひとびとも、一時的にではあるが、ぴたりと鎮まった。
そうして趙雲は、場をおさめると、門衛のひとりに助けられて、起き上がった農婦に尋ねた。
「俺は劉予州にお仕えする男で、名を趙子龍という。そなたの息子が徴兵された、というのは間違いないか?」
「ハイ、もちろんでございます。お役人さまは、この子は新野へ連れて行く、とはっきり申されました。
あたしだけじゃなく、ほかの村の者も、聞いておりましたです。息子の名前は、治平、と申します。どうぞ、会わせてくださいまし」
それを聞いて、さきほど、農婦をひじで跳ね除けてしまった兵卒が、またも苛立った声をあげてさえぎった。
「だから、何度も申しているではないか! おまえの息子がここにいるはずがない」
「おい、なぜそう、決め付けるのだ?」
趙雲が門衛にたずねると、門衛は、むすっ、としたまま答えた。
「しかし趙将軍、この女の息子は、まだ11歳だというのです。此度の徴兵の基準は、18歳以上の男子であったはず」
「でも、お役人さまは、11歳はちょうどよい、といって連れて行きました。
どうして、みんなして、あたしに嘘をつきなさるのですか? 治平は、あたしの大事な一人息子でございます。
お殿さまのためならばと差し出しましたけれど、離れてみると、心配で心配で、夜も眠れませぬ。どうぞ、会わせてくださいまし」

趙雲はぎょっとした。
孔明によって、曹操の南下にそなえ、徴兵がおこなわれたのは事実であるが、その基準は18歳以上の壮健な男子で、長男以外、というものであった。
11歳の少年で、しかも一人息子を、徴兵などするわけがない。

趙雲は、門衛の長に命じて、農婦を城にいれてやり、徴兵を担当した者を、だれでもよいから捕まえて、至急、名簿のなかに、農婦の息子の治平の名前がないか調べさせるように言った。
少年らしい武器を持つ者への憧れで、年齢を詐称して、徴兵に応じた可能性がある。
だが、そうでないとすれば…

徴兵にまぎれて、人買いが出没したのだ。
純朴な農民をだまし、子どもを連れ出して、奴隷商人に売り飛ばす、悪辣な連中だ。
もし人買いが出たのならば、ほかにも被害にあった村があるはずだ。
本格的に降りだした雨に、群集が散り散りになっていくなか、趙雲は、ふと、あの背の高い女の姿を探したが、もうどこにも見つけることはできなかった。



「姉上かな」
と、孔明が言い出し、趙雲はぎょっとした。
娼妓ではないか、と思ったことは、口にのぼらせていなかったので、とりあえず気まずい空気にはならずに済んだが…
「人買いが出たという報告を受けた日は、姉上が、わたしの身の回りのものを持ってきてくださった日であったから、よく覚えている。
そのときに、あなたに会ったのではないかと思ったのだ。いかにも、見知らぬ男を捕まえて叱り飛ばすとか、そういうことをしそうな人であるし。いまは龐山民という男に嫁いでいるのだがね」
「あれがおまえの姉君か? しかし、ちがうのではないかな。その」
容姿はまずくない女であったが、似通ったところはなかった。
うまくことばを捜せずに、趙雲は言った。
「あまり、軍師に似ておられなかったが」
すると、孔明は、どこか寂しげな笑みを浮かべて言った。
「わたしは、ほかの兄弟のだれにも似てないのだよ。もしかしたら、姉上であったかもしれぬ。姉上の話はもうよい、つぎに進もう」


ともかく、農婦の子どもの治平の名前は、名簿に載っていなかった。
それに、14、5の成長期に入った少年というならばわかるが、11歳の子どもを、いくらなんでも18歳以上と思う人間はいない。

人買いが出た、という話は、ただちに劉備をはじめとして上の者に報告され、さらに新野じゅうの役人に伝えられた。
ほかに被害が出ていないか、調べさせたところ、すぐに早馬が戻ってきて、複数の村から、やはり少年たちが、徴兵といつわって、連れ出されていた件が複数報告された。
劉備も孔明もそれを聞いてはげしく怒り、人買いか、それに類する業者を見つけ次第、すぐに新野城へ引っ張ってくるように、と命じた。
農婦は、気が狂わんばかりになげいたが、やがて、村から一緒に出てきたという行商人が迎えにやってきて、一緒に連れだって、ひとまず村へ帰っていった。
趙雲は、おまえの息子は、劉予州の威信をかけて、かならず探し出す、と約束したが、農婦はあまり信用していないようで、しょんぼりとうなだれたまま、返事をしなかった。

「まさか人買いとは、油断も隙もない世の中ですな、わたくしも、子の銀をしばらく外に出さないことにいたします」
さわぎがひと段落したあと、やれやれ、と言いながら肩をまわし、年寄りのようにおのれの肩を叩きつつ、ひょっこりと現われた陳到が言った。
熱を出した銀の看病ゆえか、目の下に隈ができている。
陳到は趙雲と、ほぼ同年なのだが、ときどきずいぶん老けて見える。

「銀は、もうよいのか」
「おかげさまで、落ち着きました。ところで、昨日の模擬試合は、散々だったようですな」
「言うな、思い出したくない」
「はは、そう落ち込まれませぬよう。ところで、斐仁のやつが休みを取っておりますので、東の蔵の管理を代理でそれがしがいたしました」
ご確認を、と陳到が、東の蔵にある官給品の在庫をしらべた竹簡を差し出す。
「在庫の確認は、ただ在庫を数えるだけの、苦にもならない仕事でありましたが、あの蔵にまつわる怪談がはやっているでしょう。
ほら、妓女を取り合った男たちが殺しあって火事になり、いちど蔵は焼けている。そのため、あの蔵には、火傷だらけの幽霊が出る、という。
古参兵どもめ、ひまつぶしに新米をからかったようで、ここにいるのはいやだ、早く出たいとみな騒ぎたてまして、これを鎮めるのに、在庫を数えるよりも時間がかかってしまいました」
「それはご苦労であったな。ところで、斐仁はなぜ、休んでいる?」
「本日は感冒で熱が出たので休む、と斐仁の家の者が連絡して来ましたが。斐仁になにか?」

今日は引き籠もるつもりか? 
それともまさか、逃げ出すつもりではなかろうな。

「叔至は、斐仁と親しかっただろうか。あいつについて、どう思う?」
「はあ、そうですな、金持ちですな」
「今朝、はじめてみたが、ずいぶんと立派な屋敷に住んでおるな」
趙雲が水をむけると、噂好きの陳到は、身を乗り出して、話し出した。
「それだけではございませぬ」
部将のだれともうまくやっており、炉辺では、かならず隣で陳到が餅を焼いている、といわれるほどの噂好き。
陳到は、きらりと目を輝かせ、日ごろの情報収集の成果を趙雲に披露しはじめた。
「やつめ、別宅に妾を囲っておるのです。あちこちから、珍しい華美なものを取り寄せて、妾をまるで宮女のように飾り立てているとか。
うちの女房なども、妾はいやだが、きれいなものに囲まれているのは羨ましい、などと当てこすりを言ってきまして」
「斐仁は、なぜにそんなに金を持っているのだ?」
「さあて、なにせ親しい者がいないに等しい、人付き合いのわるい男ですから、くわしいことは判らないのですが、親戚の財産を譲り受けたという話ですが、まさか?」
「なんだ?」
「斐仁に、横領の疑いがかかっているのでは?」
「そうではない。ただ、気になることがある。叔至、すまぬが、口の固いのを数人選んで、斐仁の屋敷を見張らせてはくれまいか。
斐仁が屋敷を出るようなことがあったら、すぐに報せるように言ってくれ。もちろん、このことは内密に頼む」
「承知いたしました」
陳到はそう言うと、七年間築いてきた信頼の絆をしめすかのように、趙雲からなにも聞こうとせずに、辞去した。
陳到は趙雲を尊敬しており、ほかの武将とは別格にあつかっているので、詮索好きの性分も、抑えられるのである。


そうして、孔明の命令により、主だった、手の空いている役人すべてが集められ、人買いを探すため、新野の周辺の、怪しげな場所…妓楼や闇市など、ありとあらゆる場所を探索することとなった。

趙雲にとっては、都合がよかった。
どこかに隠れている朱季南も、これで探しやすくなる。
そうして、人買いを探しながら、趙雲は朱季南の姿を求めて、新野じゅうを移動した。

4につづく
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