孤月的陣 
2006年改訂版
雨の章



おまえは、ひとごろしがうますぎる。

そのひと言ですべてが始まったようでもあり、終わったようでもある。

話は、二日まえにさかのぼる。

模擬戦の結果はさんざんで、趙雲の部隊のなかでは、もっとも弓馬にたけた陳到が、長女の銀輪の病のために早退したこともあり、趙雲の部隊は糜芳の部隊にボロ負けをしたのであった。
もともと、糜芳と趙雲は仲がわるく、当然、その下についている部将たちの仲もよいものではなかった。

「いまなら、おまえを針ねずみにできるかもな」
ろくに弓のあたらなかった趙雲に対し、糜芳は言ったが、機会さえあったなら、実際にそうしたかもしれない。
妙に鋭い敵意が肌に痛い。
顔は笑っていても、目が本気なのである。

そもそも、糜芳とは、はじめから仲がわるかったわけではない。
むしろ、はじめは良かったのだ。
それがどうしてこうなってしまったか、趙雲には思い当たるフシがまるでないのだから、解決のしようがない。
趙雲のほうとしては、一方的にきらってくる糜芳をよく思えるはずもない。それに、糜芳の向けてくる怒り、いや、嫉妬の目線を見返していると、なぜだかふしぎと刺激される記憶があるのだ。
かつて、公孫瓚のもとにいた際に、自分をつめたく突き放した男。その男を、なぜだか思い出す。
「おまえはひとごろしはうまいからこそ、主公に重用されているだけの男にすぎぬ」
糜芳はそう嘲笑して去って行ったが、趙雲はそれにひとこともかえさないでいた。
むかし、やはりそんなことをいわれたことがある。
ひとごろしがうまい。そのことに反駁するつもりは無い。実際にうまいのだろう。
しかし、それしか能が無いというふうに言われることに、趙雲は抵抗をおぼえるのだ。
たとえどんなに心に波が立とうと、それを懸命にこらえて、やりすごしてしまうのが趙雲のやり方なのであるが、糜芳にそういわれたとき、さすがにこらえ難いものがあった。呼び止めようとすると、逆に、部将のひとりが呼び止めてくる。
「今宵は、叔至が夜警の番でありましたが、如何いたしますか?」
模擬試合での趙雲の不様さ、そして、そのあとに、糜芳がなにを言っても沈黙をまもって応じようとしなかった、将としてはおとなしすぎる態度が不満らしく、つんけんした態度である。
「俺が代わる」
趙雲が答えると、部将は、皆に伝えます、といって辞去しようとした。
その背中に、趙雲は声をかける。
「ついでに、みなに、すまぬ、と伝えてくれ。俺は、どうしても弓というものと相性がわるいのだ。手抜きをしたわけでも、手の内を隠したわけでもないのだぞ」
趙雲がさびしげに笑ってみせると、部将は、たちまち剣呑な表情をひっこめて、むしろ悲しそうに言った。
「だれしも得手不得手がございます。弓以外の子龍さまの腕のすばらしさは、みなも知っております」
「すまぬな。みなに、おれを悪い手本として、調練にはげめ、と伝えてくれ」
 部将は、もう一度、深々と礼を取ると、場を辞した。

空を見上げれば、いまにも泣きそうな曇天が、のしかかるようにある。
厚い雲に覆われて、いまにも降り出しそうな気配を見せていた。
俺が見上げる空は、いつもこんなふうに暗く閉ざされている。
故郷で見上げた空もそうであったし、易京で播天流を助けようとした日に見た空も、こんなふうに重く、暗かった。



「播天流とは、さきほど、うなされて口にしていた名前だな」
孔明が竹簡に文字をしるしながら、さりげなく言ったので、趙雲は、寝そべった姿勢のまま、孔明のほうを向いた。
「俺は、うなされていたのか」
「播天流がどうとか、助けねばならぬとかなんとか。すまぬな。聞かれたくないことであったのか」
孔明は、律儀に筆を止め、すでに綴っていたらしい、播天流の名をしるした部分を、竹簡から消そうと手を動かしている。
しかし、趙雲は頭を左右に、よわよわしくふった。
「わざわざ消すこともない。播天流の名ならば、主公もご存知だし、いまさら隠すようなものでもないのだ。そうだな。播天流のことから話したほうがわかりやすいか」
独り言のようにつぶやいて、趙雲は先をつづけた。



常山真定で義勇軍の募集がおこなわれたとき、趙雲は家を飛び出すようにしてこれに参加した。
当時の気風にのって、大恩のある漢王朝をおたすけするのだと、おなじく義勇軍に参加した少年たちのなかには、幼なじみもおおくいた。
常山真定のなかでも、趙家は名家のほうであった。
そういった理由から、自然と、趙雲は義勇軍の頭のようになっていた。
かれらは、最初、三世五公の名門袁家の軍門に連なった。
それほどの名家であれば、まず間違いはなかろうという、単純な理由からである。

しかし、そこで待っていたのは、古参兵による、新兵に対する凄惨なしごきであった。
いや、しごきというには苛烈すぎた。
あれは一種の私刑であったと、趙雲はいまも恨みに思っている。
なかには、あまりにむごく扱われすぎて、戦場に出る前から命を落とした者さえいたほどであった。
世間知らずの少年たちは、軍というものは、そういうものなのだろうかと疑問に思いつつも、ただ従うしかなかった。
袁家の軍があまりに巨大すぎるため、末端では、袁紹の直属の将兵の目がいきとどかず、そのために一部の思いちがいをした兵が、上級将校の目のとどかないことをよいことに、暴走をしていた。
その状況に巻き込まれてしまったのだと、田舎から出てきたばかりの少年たちにはわからなかったのである。
古参兵たちはろくに水も食糧も与えず、新兵たちに、拷問まがいの調練を連日のようにくりかえした。
戦場に赴くまえから、病に倒れ、つぎつぎと脱落していく同年代の少年たちを横目に、たしかに、このままでは死ぬかもしれないと、趙雲は思い始めていた。
自分の身体を見ればわかる。
鍛えられているどころか、痩せ細っているではないか。
このまま戦場に出たら、なにもできないまま、敵に殺されてしまうにちがいない。

そんなとき、播天流と出会った。
播天流は、公孫瓚の意をうけて、中原に埋もれた人材をさがす旅をくりかえしている男だと、そいつは名乗った。
痩せぎすで、しっかり鍛えられた体つきをしており、ていねいに手入れのされた泥鰌髯をしている。
播天流は、趙雲のなかにある才覚をするどく見抜き、自分とともに、北で名を馳せている公孫瓚のもとで働かないかと誘ってきた。

趙雲は考えた。
このまま、袁紹のもとに留まっていても、意味のない暴力に日々耐えるばかりで、芽が出ない。
公孫瓚は袁家ほどの名族ではないが、しかし、それでも自分たちを買ってくれるのであれば、そちらへ行ったほうが、いまよりマシだ。
そう判断した趙雲は、仲間たちと相談し、賛同してくれた者たちとともに、公孫瓚のもとへと向かった。

あとは順調であったと思う。
その容姿のよさが公孫瓚によろこばれ、弱冠十五で、公孫瓚の虎の子部隊である白馬義従の一員に抜擢された。
白馬義従とは、公孫瓚の自慢の部隊であり、はえぬきの精鋭ばかりをあつめた突撃騎兵隊である。
部隊の者は、全員が純白の衣裳をまとい、白い駿馬にまたがり、敵を襲う。
敵とは、もっぱら北の夷たちである。
血風の吹きすさぶ戦場を駆けぬけ、蛮族をしりぞける白い集団は、たちまち天下の噂となり、だれの口からも、公孫瓚といえば、白馬義従という名がすんなりと出てくるほど、有名になった。

この白馬義従の得意とする攻撃が、弓であった。
趙雲は、むかしは、弓は嫌いではなかったのだ。
むしろ、得意であったと言っていい。
狙いを定めて、弓を引き、射る。
風を振るわせる、大きな蜂の羽音のような音がして、敵は倒れる。
ひとり、またひとりと、おもしろいほどに、ばたばたと人が倒れていく。

とくに、馬上から放たれる趙雲の矢は、百発百中というので、異民族はとくに趙雲をおそれるようになった。
やがて、趙雲が姿を見せただけで、かれらは背中をむけて逃げ出すようになった。
趙雲は、その背中にも、容赦をしなかった。
弓をつがえ、ぴんとはった弦に矢をつがえる。
狙いをさだめて、射る。
趙雲が出る戦は、負けることがない、というので、仲間たちの評価も上がっていった。

上からは評価され、下からは慕われる。
順風満帆であった。
なにも問題はなかった。
戦場はいい。自分の実力が、目に見えるかたちではっきりとする。
戦場は、趙雲にとっては、居心地のよい場所であった。
袁紹の軍で味わった屈辱の日々も、自分の手できずいた栄光に打ち消され、昔の悪夢のひとつにすぎなくなった。
恐れるものはなにもない。

そんなとき、趙雲の耳に、播天流が放浪から戻ってきたというしらせが入った。

趙雲にとっては、播天流は、命の恩人だ。
もしも播天流に拾われていなかったら、趙雲はだれにも名前を知られることなく、干からびるようにして死んでいたかもしれない。
播天流が姿をあらわしたとき、まるで幼子が父に駆け寄るように、慕わしさを満面にうかべて、趙雲は播天流に駆け寄った。
播天流は、いまの自分をどう見てくれるだろうか。
武将として、認められるようになった、自分の姿をみてほしい。

故郷の常山真定では、老齢の父は、ほとんど趙雲に愛情をしめすことがなかった。
いや、すでに痴呆の症状がつよく出ており、末っ子であった趙雲が、自分の子であることすら知覚できないほどになっていた。
それだけに、趙雲にとっては、命の恩人であり、道を示してくれた播天流は、父親にもひとしい存在だったのである。
白馬義従として、みじかいあいだに名声をえていた趙雲は、少年らしく、自分を誇りに思っていた。
播天流も、これを喜んでくれるにちがいない。
そう思った趙雲であるが、ひさしぶりに対面した播天流の顔は、固かった。


「子龍、おまえ、あやういぞ」
開口一番に、播天流は言った。
趙雲は、言葉の意味をつかみかね、戸惑った。
播天流は、まわりくどい言い方をする男ではあるが、まず、ことばの意味がわからない。
あやういといわれなければならない部分は、自分のどこにもないように思われた。
公孫瓚のもとに集まった若者のなかでは、趙雲は抜きんでていた。それは自他ともに認めるところだ。
怪訝そうにしていると、播天流はつづけて言った。
「おまえは殺しが巧(うま)すぎる。殺しが巧いのと、立派な武人であることはちがうぞ」
「殺しがうまい?」
趙雲が鸚鵡返しにすると、播天流は、大きくうなずいて、そのほそくするどい双眸で、射抜くように趙雲を見すえた。
「おまえは弓で人をあやめるときに、あきらかにたのしんでいる。敵に勝つことではなく、敵をほふる、その行為自体を楽しんでいるのだ」

そういわれて、背中がぞくりとした。
戦場では大義名分があるからこそ、人を殺すという行為を平気でこなすことができる。敵を多く殺すことができ来るものは、すなわち正義を守る者なのだ。
乱れた天下を正し、平安をもたらす。
少年の趙雲はそのための尖兵として戦っているつもりであったから、大義名分を忘れて、殺しを楽しんでいるのだ、と指摘されて、納得できるものではない。

「そんなことはない。俺はいつだって、殺す数が少ないほうがよいと思っているし、こんな世の中は、早く終わればいいと思っている」
趙雲が抗弁すると、播天流は、きびしい眼差しのまま、つよく否定してきた。
「おのれの本性をいつわるな。おまえは殺しが楽しいのだ。先の戦、俺も参加していたのだ。気づかなかったであろう? 
戦場でのおまえは、まるで笑いながら、馬を駆っているようであったぞ。
おまえは、じぶんのはなつ矢で、ひとが倒れるたびに笑っていた。まるで悪鬼のごとくにな」

戦場で戦うということは、物を右から左へとならべるような、整然とした作業ではない。混乱と恐怖のなかでの命がけの仕事となる。
そんななかで、笑いながら人を殺していたとしたら、それは狂人だ。
たとえ命の恩人が相手だとしても、狂人だと指摘されては、趙雲は黙ってはいられなかった。

「それは嘘だ。俺は笑ってなどいない。おなじ場所にいたのなら、俺がどれだけ、敵をまえに」
と、ここで趙雲は周囲をみまわし、言いよどんだ。
そして、だれもいない、だれも聞いていないことをたしかめてから、播天流に向きなおって、言った。
「俺は怯えていのが、見えていたはずだ」
しかし、播天流は、きっぱりと冷たく、少年のことばをはねつけた。
「いいや。見えなかったな」
「それは、あの乱戦で、あんたが俺を見失っていたか、でなければ見間違えていたからじゃないのか。俺がどんなにこわくても戦うのは、負けたら死ぬからだ。
俺だけじゃない。仲間も死ぬ。だから、敵を倒すのだ。俺は必死でやっている。笑ってもないし、楽しいからでもない」
「いいや、子龍。たしかにおまえは、始めは怯えていたかもしれぬ。しかし、おまえは弓を敵に向けつづけているうちに、恐怖を忘れ、高揚感を感じていたはずだ。
戦場でのおのれの為したことを、すべて思い出すことができるか? 
おまえは夢中になって殺していた。じつに見事であった。だが、あれは武人の振る舞いではない。
おまえは確かに笑っていたとも。なにが楽しかった? 敵を殺めることか? それとも、おのれの才能に自惚れたか」

それは、たしかに一部は、真実をふくんだ言葉であった。
極限状態のなかにあれば、記憶は、一時的にでも、吹き飛ぶ。
趙雲は、ふたたび、ぞっとした。
花が一夜にしてしおれるように、自分に自信がなくなってしまったのである。
もし、その記憶が空白になっている、夢中になっていたそのときに、播天流の指摘したような状況であったら、どうだろうと。

それでも、必死に、しかしちいさく、趙雲は抗弁した。
播天流に逆らうことは、実の父親に逆らうことよりもきびしいことであった。
「ちがう。嘘だ」
言うと、播天流は、虎のように吼えた。
「黙れ! この俺に逆らうのか!」
一喝され、白馬義従の若き勇士は、子どものように身をすくませ、沈黙した。

播天流もまた、優秀な武人である。
趙雲は、常山真定で師匠を得られずに、独自に武芸の才を磨いていたが、それを洗練したものに変えてくれたのは、播天流だった。
師に逆らうのかと問われて、そうだと肯定できるほど、趙雲の自我は、まだはっきりと固まっていなかった。
はげしく渦巻くような胸の不満を押し殺し、
「もうしわけございませぬ」
と答えると、播天流は、納得したらしく、ちいさく息をついて、言う。
「おまえをここに連れてきたのは、俺のまちがいであったかもしれん。おまえには、おまえのその恐ろしい本性を制御する人間が必要だ。妻を持て。よい妻を持って、心の平安を得るといい。
もしそれができない、というのであれば、早々に薊から離れ、常山真定へ戻るのだ。それがおまえのためだ」

趙雲は、混乱した。
自分がいままで必死で築いてきたものが、狂人の振る舞いと、なんら変わらぬと否定されてしまったのだ。
それも、心の支えのように思っていた、恩人の播天流に否定されたのだから、たまらない。
それに、いまさら故郷に帰れというのか。
そのことも、趙雲の心を追いつめた。


趙雲は、父親の姿というものを、おぼろげにしか憶えていない。
父親には複数の妻がおり、趙雲は、最後の夫人から生まれた一子であった。
古いばかりで陰気な屋敷には、父の夫人たちと、腹違いの兄弟たちが、それぞれが、父のもつ財産をねらって、たがいに角を突き合わせて暮らしていた。
息のつまるような生活であった。
いまの、白馬義従としてのびのびと過ごしている生活とくらべれば、まるで牢獄である。
父親は老いており、子どもたちすべての面倒を見る体力も気力も、もうなかった。
病床にあって、ただ呼吸をしているというだけの、老いてしぼんだ肉。それが父である。
そんな趙雲の面倒をみたのは、いちばんうえの兄であったが、これもまた、趙雲に十分な愛情を注いだかといえば、これもあやしい。
父と兄。
このふたりを、うやまわねばならないことは、頭では理解していたが、しかし仲の悪い兄弟同士の仲裁もできず、夫人たちの言いなりになっている父、そして、おのれの地位を虎視眈々とねらう弟たちを疑い、神経をとがらせて生きている兄の姿には、、尊敬の要素はすくなかった。

そんな環境に育った趙雲にとって、播天流は、父に代わる存在であった。
播天流が、初めて安心できる居場所をつくってくれた。
だからこそ、趙雲は播天流を慕った。
それなのに、ひさしぶりに会った男は、無情にも、趙雲を否定し、この場を去れ、という。
戦場においてもなお残っていた、少年らしい素直さ、そして純粋に人を信じる気持ち、そういった、人間らしいあたたかさを中心に据え、拠り所とするような心のありようは、その瞬間にすべてなくなってしまった。

荒野に吹きすさぶような、冷たく荒涼とした風が胸のなかにある。
それは開いたばかりの傷口に、容赦なく吹き付けてきた。

もうだれに頼りすぎてもいけないし、頼ること事態がばかげている。
成果を認めてもらえたとしても、それはごく一部。相手の意にかなったところだけを認めてもらえるのであって、自分は狂っているのだから、そもそも理解などしてはもらえない。
趙雲は、そう信じたのであった。


しかしそれでも趙雲は、ほかにもう行き場所がなかったから、播天流のことばに逆らい、公孫瓚のもとを去ることはなかった。

ただ、弓を射ることができなくなった。
狙いを定めると、播天流の声がよぎるのである。
おまえは殺しが巧すぎる。殺しを楽しんでいるのだ、と。
そうではない。そんなことはない。
否定するたびに、目の前に積み重なり、増えていく遺体を見るに付け、趙雲は笑う。
それは、播天流が言ったような、哄笑などでは決してない。
播天流がおそれた、おのれの本性とやらが、言葉どおりなのを、自信で知覚して、おかしくて笑ってしまうのだ。
ひどく乾いた笑いであったが、どうしようもなかった。



「そういえば、あなたが弓を射ているところを、あまり見たことがなかったな」
と、完全に筆をとめて、孔明が、うすい布越しにこちらを見ているのがわかった。
趙雲は、こういう、孔明のささやかな気遣いが好きである。
「糜芳が、なにゆえあなたを嫌うのかは、叔至から聞いたことがある。弓では飼っているのに、槍ではかなわない。だから嫉妬しているのだと」
「あのおしゃべり」
と、趙雲は、そこにはいない陳到の、特長の無い顔を思いうかべて鼻で笑った。
しかし、そのとおりで、天下の人格者と名高い兄とは正反対の、驕慢そのものの糜芳の顔を思い出し、また哂う。
そんな趙雲に気をつかってか、孔明は言った。
「糜一族は、弓馬にかけては、右に出るものがいない。昔からそうだ」
意外な言葉に、趙雲は、寝台の、薄布の帳のむこうにいる孔明に顔を向けた。
「知っているのか」
「おなじ徐州だからな」
「では、新野に来るまえに、糜一族と面識があったのでは?」
「ないな。もしかしたら、父や叔父はあったかもしれない」
そのあとに、孔明はぽつりとちいさく、いまは確かめようがないけれど、とつぶやいた。
趙雲は、それはどういう意味か、と詮議しようとして、やめた。
いつもあきれるほどに明るいその横顔が、そのときだけは、暗く重たいものに見えたからだ。
部屋の翳が落ちていただけではあるまい。
 
しばしの沈黙。

趙雲は、気を遣って黙っていたのだが、孔明は、彼方を見やるような目を、ふっと笑わせて、言った。
「ここで、どういうことだと聞かないところが、あなたの良いところでもある。しかし、すこし味気ないな」
「家のことは、あまり話したくなかろうと思ったのだが」
孔明は、おや、と意外そうな顔をして、それからつづけた。
「それはたぶん、あなたが、自分の家のことを触れられるのが、嫌だからではないのか。たしかに、わたしもあまり詮索されるのは好きではないけれど、話してもいい」
「では話せ」
「わたしの父は太山郡の丞であったが、わたしが十二の年に病で死んだ。叔父と父は仲がよかったのだが、父が病で寝たきりになる前は、よく叔父がきて、一緒に旅に出ていたのを覚えている。
たぶん、そのときに糜家のだれかと親交ができていても、おかしくないかな」
「だから、糜子仲殿は、おまえを贔屓しているのかな」
「わたしもそうかと思って、父か叔父を知っているのかと尋ねたのだが、どちらも知らないと言われた」
「そうなのか。おまえへの世話の焼き方を見ていると、自分の息子を構っているようにさえ見えるが」
「わたしのほかにも、若い者にはああいう態度を取る方ではないのか」
「ちがう。おまえにだけだ。だから不思議なのだ。おなじ徐州の、琅邪の諸葛家ということで、感慨があるのかもな」
「感慨か。あのまま、徐州に留まっていたなら、もしかしたら、もっと早くにお会いすることもあったかもしれない。
けれど、父が死ぬと、父と兄のあいだで家督をめぐって意見が割れてね、叔父は家督を兄に譲らず、わたしをあたらしい後継に選んだのだ。
それが面白くなかったというのもあるだろうが、兄は江東へ行ってしまい、わたしたちのほうは、袁術に仕えていた叔父が、自分の任地である予章に呼び寄せてくれた」
「予章というと、楊州だろう。なぜそこから襄陽に?」
「任地争いだよ。叔父は袁術から任命された太守だったが、漢王朝より任命されたべつの太守があらわれてね、孫策や劉表の争いのことも背景にあったのだが、そこで戦になってしまった。
叔父は、領民を戦禍に巻き込みたくないといって、任地を明け渡したのだ。
ところが、新しい太守の朱皓という男が、それでは安心できないと思ったのか、孫策の後押しを受けて、叔父とわたしたちに賞金首をかけた。とたんに、それまで叔父を慕っていたはずの予章の領民たちは、いっせいに敵になって、わたしたちを襲ってきた。
徐州から揚州へたどり着くまでの道中より、そのときのほうが、よほど恐ろしかったな。出来ることなら、東へは、もう行きたくない。怒りに任せて、民を虐殺した曹操の気持ちが、そのときなんとなくだが、理解できた気がしたよ」
そうして自嘲めいた笑いをうかべる孔明であるが、ふと、おのれがなぜ、いままで一度も足を踏み入れたことのない、自分の主騎の部屋にいるのかを思い出したらしい。
「わたしのことはよいのだ」
と、だれに言うでもなく言い訳して、気まずそうに、趙雲のほうに顔を向けた。
「すまぬ、勝手にぺらぺらと。あなたの話に戻ろう。弓と、斐仁とが、どういう関係があるのだ」
「それはこれからだ」
趙雲は、軽く息を吐くと、ふたたび語りはじめた。



「子龍さま、われらはあちらを見てまわります。こちらの見まわりをお願いいたします」
と、夜警の隊長が、部下をしたがえ、去っていく。
 鎧姿で身を固め、ものものしい雰囲気だ。
二ヶ、月ほど前、曹操の刺客が新野城に入り込んでいたこともあり、孔明が、新野の警備をさらに厳しくしたのであった。
孔明がこのところやけに大人しくして、ひとりででかけることがないのは、おのれの言い出したことを、率先して破って、ひとりでうろうろするわけにはいかないからである。
おかげで趙雲は、自分の本来の職務に打ち込むことができた。

折れそうな三日月が、空につくねんとあった。
雨が降ったり止んだりの天気がつづいているために、夜になっても、まといつくような湿気が、そこかしこに残っている。
すでに市場も、ぽつぽつと店じまいする者があらわれて、野菜や魚が売れ残っている店では、安くするからといって客を引き止めている。
趙雲は、竹細工の店へ寄り、竹の花籠と、おもちゃを買った。
明日になったら、陳到の屋敷へ見舞いにいくつもりだった。
花籠は、陳到の妻に、おもちゃは、銀に。
独り身の趙雲にとっては、たまに招かれて口にする陳到の妻の手料理は、ちまたの露店では味わえないごちそうであった。
新野城にも、もちろん腕の良い料理人がいるのだが、孔明の警護、劉備の警護、そして兵士の調練と、忙しいために、ゆっくりと味わっている余裕がない。
よその女房の手料理を喜んでいないで、自分がだれか料理の上手な女を娶ればいいのであるが、趙雲はその気になれないでいる。

それはともかく、店じまいのすすむ夕方の市場のなかで、にぎやかになるのは酒家だ。
つとめを終えた兵士たちや行商人などが、あつまって干し肉などをついばみながら、談笑している。
その動きにあわせるようにして、闇が濃くなるにつれ、周囲に、怪しげな人影がうごめきはじめる。
娼妓たちであった。

孔明が、新野の警備を厳重にしたあたりから、娼妓の数は減ったのであるが、新野にもいくつかある妓楼ですら働くことのできない、いわば、加齢や病、そのほかの理由で妓楼からあぶれた女たちは、仕方なく、単独で、兵士の見回りを避けるようにして、町のそこかしこにある闇から、男たちに声をかける。
中原から、戦火に追われるようにしてこの地にたどり着き、家族とも死に別れ、ほかに頼る者もなく、再婚話もまとまらなかった女たちは、身を落として、身体を売るしかない。
それでも、若いうちならば、まだいい。
あわれなのは、年老いた女たちだ。
捕まれば、牢屋につながれるとわかっていて、それでも街に立つことを止めないのは、ほかに食べていく手立てがないからだ。

天からふりそそぐ銀の月光を避けるように、女たちは被り物をして、その歳月にいためけられた肌を隠すようにして、闇にうずくまっている。
兵士たちもいい加減なもので、夜回りの当番であれば、捕まえて牢屋に連れて行くところを、非番の者は、声をかけられるまま、連れ立って、さらに濃い闇の向こうへと消えていく。
こうした女たちのことは、表立っては俎上にのぼらないのが常であるが、しかし現実に、こうした光景は、どこでも当たり前に目にすることができるものであった。


その夜、趙雲に、覇気がなかったわけではない。
しかし、娼妓たちをみつけても、趙雲は捕らえる気にならなかった。
捕らえたところで、女たちは解放されれば、まぶしい陽光に目を細めつつ、ふたたび通りの暗がりに戻っていき、夜になるとまた同じことを繰り返す。
もしもこの国が、未曾有の大乱に巻き込まれることがなかったら、女たちは貞淑な妻であったかもしれない。
そう考えると、哀れであった。
脳裏には、それなりの家に生まれ、教養も美貌もありながら、若いというのに、まるで売られるように、年老いた父に嫁がねばならなかったのだという、母のことがある。
趙雲の母は、財産家で好色でも知られていた父に、家のために売られたのだ。
娼妓とどこがちがうのかと、いつかぼやいていたことがある。
たった一度のその言葉は、きっと子供に聞かせるつもりのものではなかったかもしれない。
しかし、趙雲の耳には、そのことばは消えることなく、ずっと耳に残りつづけた。
母とおなじように、女たちもまた、乱世の犠牲者なのである。
母もすべてあきらめた、暗い目をしていた。
彼女たちを救える者など、おそらくこの世には存在しない。


物思いにふけりつつ、夜の新野の街を歩いていると、ふと、風に乗って、歌が聞こえた。
思わず趙雲は、足を止めて、歌の聞こえた方向へ頭を向けた。
妓楼のそば、というならば、どこぞの遊び人が、妓女たちとドンちゃん騒ぎをしているのかもしれない。
しかし、趙雲が通りかかったのは、市場からだいぶ離れた、ふつうの人家のならぶ一角であった。

妙な予感がした。

歌の聞こえてきたのは、しんとした一角のなかでも、特に人の気配のない、大きな屋敷からであった。
曹操の南下の知らせが荊州をかけめぐって以来、金に余裕のある者は、家財道具をいっさい持って、安全な地へと疎開している。
この屋敷の一家もそうであるらしい。
闇夜に屋敷の輪郭を浮かばせるそのところどころに、手入れがされていない証拠に、雑草が顔をのぞかせている。
このところの雨で、一気に成長したらしかった。

また、聞こえた。

趙雲は緊張した。
歌声が異常だったからではない。
その歌に、聞き覚えがあったのだ。
荊州の者が歌うそれとは、あきらかにちがう節回し。
素朴で、荒っぽい、それでいて親しみやすい旋律である。
幽州の、ひなびた漁村で生を受けた、播天流が好んで歌っていた。
まさか、と思いつつ、趙雲が屋敷に足を踏み入れようとすると、ちょうど門扉から、人影が飛び出してきた。
ほかならぬ、趙雲の部将の斐仁であった。
闇夜なので、顔色はわからない。
しかし、そのなで肩と、片足を引きずった姿は見間違いようがない。

「斐仁!」

声をかけたが、斐仁らしきその姿は、一度も趙雲のほうを見ずに、そのまま闇へ消えてしまった。
趙雲は、斐仁が飛び出してきた門扉のほうを見た。
開け放たれたまま、門扉はわずかに揺れている。
生暖かい風に、針のような葉をつけた雑草が、さわさわと揺れているのが見えた。
まるで、中へ入れと誘っているようである。

歌はもう、聞こえない。

そのとき趙雲が思ったのは、斐仁が空の屋敷に忍び込み、盗みに入ったのではないか、ということであった。
だが、斐仁というのは、趙雲の部将のなかでも、いちばん真面目な男である。
何を考えているか、いまひとつわからないところがあるが、官給品の支給のいっさいを取り仕切っているだけあり、堅実な性格なのだ。

趙雲は、斐仁が消えた方角を気にしながら、半開きになった門扉をくぐった。
屋敷の玄関も、開け放たれていた。
だが、荒らされている気配はない。
しかし、床は泥で汚れており、どうやら、無断で人が入り込んだのは、一度や二度ではない様子であった。

闇にきらりと光るものがあり、拾い上げると、安物の簪であった。
娼妓たちが、仕事場として、この空いた屋敷を利用しているのではないか。
たしかに、いつ見回り兵が来るかわからない場所で仕事をするよりも、こういった屋敷ならば、安心できるだろう。
客も、そのほうがよろこぶ。

「だれか、いるか?」
声をかけたが、返事はない。
しんと静まりかえった屋敷の中は、無人のようである。
が、なにかがおかしい。この闇は、泥のような重さを持っている。
そして、闇に含まれる、嗅ぎなれた、生臭いにおいは…

音も気配もなかった。

避けられたのは、戦場で研ぎ澄まされた勘ゆえであろう。
流れるような動作でそれを避けると、わずかに闇が揺れ、襲撃者が、うろたえたのがわかった。
「何奴!」
誰何しても、答えはない。
ふたたび、闇が動く。

趙雲は、抜きかけた剣で、相手の襲撃を見事に受けとめると、あいた片方の手で、襲撃者の顔があるとおぼしき位置に、こぶしを見舞った。
手ごたえがあった。
はじめて、襲撃者が、くぐもった声を出した。
まさか、こぶしが飛んでくるとは思わなかったのだろう。
趙雲は、手を休めず、片手でぎりぎりと剣を受け止めたまま、今度は、襲撃者の腹をうった。
が、武装していたらしく、こぶしの腹の部分に、にぶい痛みがかえってきた。
舌打ちすると、襲撃者が剣を引き、つぎの瞬間、風を切って、蹴りを飛ばしてきた。
趙雲は避けきれず、横倒しにされ、壁にぶつかり、そのまま床にくずれた。

趙雲がぶつかった衝撃で、壁のそばにあった、ちいさな飾り棚がこわれた。
剣をつかみなおそうとした手に触れる、なま暖かいものがある。
血だ。
怪我をしたのではない。
ぎょっとしてとなりを見ると、目を見開いた女の顔が、真横にあった。
趙雲は、思わず息を呑んだ。
むわっと、血の臭いが鼻腔をおそう。

ひどいありさまであった。
戦場でさえ、これほどにむごい死体には、めったにお目にかかれない。
女は驚愕に目を見開いたまま、息絶えている。
たったいま切り裂かれたのだとしても、とても生きてはいられないだろう。
腹を真二つに割かれたうえに、臓物のほとんどを取り出されてしまっているのだから。

人の仕業ではない。ひどすぎる。
そう思った途端、趙雲ははげしい怒りにとらわれた。
目の前の男が、この女を、こんなむごい目に遭わせたのか。
物盗りにしても、異常だ。
その異常さ、人を思いやる心の欠如に、趙雲は怒りをおぼえる。
襲撃者がやってくる。
趙雲は、かたわらで崩れた、飾り棚の、足を持った。
そうして、力のまま、それを襲撃者に投げる。
襲撃者は、おどろき、歩みをくずした。
趙雲は、あおむけのまま、地面に這うようにして足を伸ばし、襲撃者の足を、おのれの足でからめ取った。
そして襲撃者をころばせる。

どこかに頭をぶつけたらしく、襲撃者が悲鳴をあげた。
趙雲は俊敏に起きあがると、地面に転ぶ襲撃者の身体に馬乗りになり、その刃をかざした。
容赦はしない。その咽喉元めがけ、刃を振りおろす。
「待て、子龍!」
その声に、趙雲のいっさいが止まった。
聞きおぼえのある声。
ふるえがくるほどのなつかしさがこみあげてくる。
まさか?
「あいかわらず、うまいな、おまえは」
組み敷かれながらも、そういって笑う襲撃者の顔は、公孫瓚にともに仕えていた盟友・朱季南のそれであった。

   

3につづく
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