09年改訂版

孤月的陣
第四章 ナミダ  涙

蔡瑁は、夫の劉表を介抱する、蔡夫人の白い手を見つめていた。
はじめて会ったときは、美しいだけがとりえの、楚々とした気弱な女だった。
劉表の毒にあてられたのか、それとも、もともと内側に眠っていたものを引き出してしまったのか、それはわからない。だが、劉琮が生まれてからの蔡夫人の変貌ぶりは目を見張るほどであった。
たしかに共謀者としては、心強い女に成長した。
だが、生涯の伴侶たりえるか、というと、また別の話だ。

蔡瑁は、蔡夫人には内密に、またあらしく若い女を囲っていた。
『壷中』の女で、まだ少女と言ってもいいくらいの幼い娘であるが、ほかの娘たちのように、男たちに差し出すには惜しい器量の持ち主であったので、自分のものにした。
『壷中』の娘たちは、はやくから房中術を仕込まれる。そうして、自分たちの若さと肉体を武器に、各国に侵入し、情報を引き出してくる。その肉体の素晴らしさに耽溺し、蔡瑁のように、『壷中』の女を妾にする豪族は多い。
少年たちの中でも、見目良い者は、やはり特殊な趣味をかかえる要人用に育てられる。不思議なもので、断袖の趣味を持つ者は権力者に多い。だから、彼らの利用価値は高いのだ。美貌と若さに加えて、少女たちにはない体力を持っているからだ。
かれらの教育は、蔡夫人が主立って行っている。
そうしてうまく教育し、自分が勤めたくない夫への勤めを、代わりに少年たちに行わせている。
図々しい女になったものだ、と蔡瑁は感心するが、自分とて、似たようなことを蔡夫人にしたことは、すっかり忘れている。

「琮はどうした」
劉表が目の前で眠っている、というのに、蔡瑁は劉琮を名で呼んだ。
あれは自分の子だ、と蔡瑁は信じている。蔡夫人がそう言ったからというのもあるが、劉琮は、あまりに劉表に似ていなかった。それに、蔡瑁は劉表が『息子』の劉琮に、どれだけのことをしてきたか、知っているので、その事実から目を逸らしたかった、というのもある。
「ここにおります、伯父上」
劉琮が、華奢な姿を見せる。その手には、盆があり、なめらかな輝きを見せる青い香炉が上に乗っている。
「表が騒がしいので、様子を見てくる。播天流のやつ、まさかとは思うが、たった一人の男も阻止できなかったかも知れぬからな」
「それでは、われらの警護はだれがするのですか?」
と、劉琮は、母親そっくりのきつい詰問調で尋ねてきた。
妙なところが似るものだ、と苦りつつ、蔡瑁は答える。
「ちゃんと兵卒を揃えてある。ただし、部屋から出るな。逃げた諸葛亮も見つかっておらぬのだ」
「諸葛亮が我らを襲ってきたら?」
「埒もない。あの青書生になにができる」

蔡瑁は、長身のわりには華奢な印象のつよい孔明の姿を思い浮かべていた。
徐庶という、前科持ちと親しかったくらいだから、やくざな生活を送っているのだろうと、最初のうち、蔡瑁は考えていた。
しかし、実際にふたりに会ってみて、考えを変えた。そうではない。あれほど生真面目なふたりはいないだろう、というくらいに弾けたところのない青年たちだった。ただし、生真面目である、ということは常に本気ということであり、まともに向かってこられると厄介な相手となる。
一方は曹操の元へ行ってしまったが、もう一方は、懸念どおり、いま面倒な敵となって、あろうことか樊城をネズミのように引っ掻き回している。
早いところ、始末してしまえばよかった。黄家のじじぃの言葉なんぞ、無視してしまえばよかった。

「琮! なにをしているのです!」
蔡夫人の金切り声に、蔡瑁は我に返った。
何事かと見ると、驚いたことに、劉琮が、手に長剣を持って、その切っ先を母親に向けているのだ。あわてて自らも刀剣を抜こうとした蔡瑁であるが、力が入らない。ぐらりと視界が揺れる。
そうして、気がついた。鼻腔をくすぐる甘い香り。
「やっぱり利くな。私は訓練で慣れているから、これくらいではなんともないが」
幼い容姿とは見合わぬ、大人びた口調で劉琮は言い、笑った。
その笑みを見たとき、蔡瑁は肝が冷えた。
狂人の笑みであった。血に狂った、化け物の笑み。
足が震え、不様に床に膝をつく。その目の前では、蔡夫人が、必死になって劉琮に訴えていた。
「なにをするのかえ? おやめ! その物騒なものは、しまっておしまい!」
「黙れ」
短くそう言うと、劉琮は、蔡夫人に向かって、静かに刃を突き立てた。





「隠れて」
強ばった声で花安英がいい、孔明は素直に物陰に身をひそめた。
廊下を進む孔明と花安英の前に、兵士たちが数人、束になってこちらへ向かってくるのが見えた。
さきほどから城内が騒がしい。ばたばたと兵士たちは早足に駆け去っていく。
「さきほど、賊が劉州牧の部屋を守っていた連中を皆殺しにしたらしいぞ」
「おかしいではないか。賊が門を突破したらしいとしらせがあったのは、ついさっきだぞ」
「賊が二手に分かれているのだ」
「いや、三つだろう。正門で暴れているのと、そいつを囮にして城内に入り込んだのと、すでに城に入り込んでいるやつの三つだ。しかし、俺たちのほかに、城をうろついている若い連中は、いったい何者なのだ?」
士卒長らしき、年配の男が、首だけを動かして兵卒を振り返る。
「詮索無用だ。われらは賊を捕らえることのみに集中すればよい」
はあ、と納得しかねる、というふうに兵卒は返事をかえした。

薄暗がりに隠れる孔明は、遠ざかりつつある足音に安堵しつつ、考える。
すでに城内にいる賊とは、ほかならぬ自分のことであるが、ほかに二手?
正門で闖入者があり、播天流の兵士たちと衝突したらしい。
兵士たちの話からすれば、闖入者は二人で、ひとりが囮になり、もうひとりが別の門から侵入したらしい。詮索するまでもなく、それは趙子龍と斐仁、あるいは黄忠であろう
「あのばか」
物陰で兵士たちの話を耳にしつつ、孔明はつぶやいた。
あれほど新野へ帰れと言ったのに。たった三人で、この城内全員を相手にするつもりか。
孔明は、手にした長剣の柄を、ぎゅっと掴んだ。
人を殺したことはない。しかし、やらねばならぬ。

と気づくと、花安英が傍らにたち、見下すような視線を送っていた。
「ここでじっとしていれば、あんたの助けが来るかもしれないね」
血に汚れた花安英の顔は、思わず目を背けたくなるほどにみにくく歪んでいる。かつて樊城の花として、その美貌と才智をもてはやされた、可憐な少年の面差しはどこにもない。
孔明は、自分に向けられる嫉妬の視線を、まっすぐに受け止めた。
「そうかもしれない。しかし、わたしは助けられるために、ここにいるのではない」
「でも結局、あんたは誰かの助けがないと、どうにもならない人間のひとりなんだ」
「だれの助けもなく、やっていける人間なんぞ、この世にいるものか」
「すべてのものに例外はありますよ」
ここで答えのない、平行線をたどる一方の問答をして、時間をつぶすつもりはない。

先へ進もうと促そうとした孔明であるが、はっと口を閉ざした。
行ってしまったとばかり思っていた兵士たちが、またこちらに戻ってきたようだ。ふたたび身を低くして物陰にかくれると、士卒長の苛立った声が聞こえた。
「侵入者を捕らえろというだけではなく、消えた子供たちも捜せ、だと? 我らをなんだと思っているのだ!」
孔明がそっと覗くと、兵卒たちは、だれかを両脇から抱えるようにして、引きずるように歩いている。士卒長は、部下たちにてきぱきと指示を下しながらも、あきらかに感情的になっていた。
かれらに捉えられていたのは、劉表の部屋で琴を弾いていた、白髪の者であった。白く濁った目をさまよわせ、兵卒たちに引きずられるようにして廊下を行く。
「隊長、なんだって劉琮公子のお遊び相手まで逃げ出しているんです?」
「俺が知るか! ともかく命令どおりにするのだ」
そこへ、ばたばたと兵士が駆け込んできた。
「伝令! 賊はすでに城内へ侵入した模様! 内門の衛兵が全滅!」
「全滅?」
鸚鵡返しした士卒長のことばに合わせるように、兵士たちも顔を見合わせる。
「逃げたのではないのか? 全滅なのか?」
「全滅でございます! 城内を守る部将はすべて打ち倒された模様。外門に援護を要請しておりますが、外門でも叛乱が起こった様子」
「叛乱? だれがだ!」
「東門を守っていた部将たちが、こぞって賊に味方して、正門はいまや乱戦状態でございます。城内の兵卒をまとめる者がおりませぬ。混乱し、逃亡をはかる兵卒どもが掠奪をはじめた模様」
「なんということだ。城内に、ほかに人はおらぬのか?」
「わかりませぬ。蔡将軍は行方知れず、劉州牧は伏せっておられ、ほかの将軍方も姿をお見せになりませぬ」

逃げたか、と伝令の話を聞きつつ、孔明は、自分のことのように苛立った。
腐り始めていた樊城の内部が、いま激しく音を立てて崩れだしている。
蔡瑁の命令がないために兵士は動揺して暴走し、蔡瑁に与していた武将たちも、身の安全を考えて、隠れてしまっているのだ。
本来ならば、先頭に立って城内の混乱を収めねばならない立場にあろう者が、だ。
もちろん、この状況は、孔明には歓迎すべきことではあるが、しかしかつての樊城の様子を知っているだけに、怒りもおぼえる。
平時は威張り散らすだけ威張り散らしておいて、戦時はこれか。臆病者どもめ!

「くそっ! 今宵はなんだというのか! ともかく兵卒どもを鎮めねばならぬ。おまえとおまえは俺についてこい。ほかは、その子供をどこかへ閉じ込めておけ!」
士卒長は青い顔をしてそう言うと、部下たちといっしょに駆け去っていった。

残された兵士は三人。
そして白の者である。
残されたかれらは、互いの顔を見合わせる。
「聞いたか、みんな逃げているそうだぜ」
「賊、といったが怪しいものだ。内門の警備兵といったら、俺たちなんかとちがって、優秀な奴らばっかりあつめた部隊だったはずだ。賊は一人や二人なんかじゃなく、もっと大勢いるんじゃねぇか」
「町で聞いたのだが、曹操が樊城を伺って、明日にでも攻めてくるかもしれぬそうだ」
「もう曹操が?」
「わからぬぞ。なにせこの城の偉い連中と来たら、肝要な話は、ぜったいに俺たち下っぱには漏らさぬからな。将軍たちがみないなくなってしまった、ということは、もしかしたら、賊というのは嘘で、ほんとうは曹操軍で、俺たちに曹操軍を抑えさせ、自分たちは逃げ出したのかもしれぬ」
曹操軍の規模を知る孔明からすれば、兵卒たちの言葉は失笑ものであったが、兵役であつめられ、自分の故郷と樊城しか知らず、実戦に出たこともない彼らからすれば、そんな推量がでてきてもおかしくなかった。
曹操軍が押し寄せてきたなら、それこそ大津波が樊城をまるごと飲み込むくらいの規模になるだろう。この程度で済むはずがない。
「どうする?」
「ここに残って、死ぬのはいやだ。逃げよう」
「うむ、しかしほかの連中はうまいことやって、お宝を分捕って逃げているみたいじゃないか。俺たちだって、苦しい兵役に耐えたのだ。ご褒美をもらっても悪くなかろう」
と、兵卒たちの目線が、自然と、自分たちが連行している白髪の者の、身にまとう豪奢な衣裳に集中した。
「気味のわるいヤツだが、持っている物は豪華だな」
「身包みはがして、裸で捨てておけ」
と、ひとりが、乱暴に白髪の者の首環を引きちぎるようにして奪った。
しかし、白髪の者は、叫び声ひとつあげず、されるがままになっている。
「なんだ、こいつ。しゃべれないのか?」
「しゃべれないのなら、僥倖ではないか。目も見えぬようだし」
指輪を取ろうと腕を乱暴につかむ兵卒のとなりで、ひとりが、なにやら薄気味悪い笑みをうかべて、透明な表情を空にむける白髪の者の顔をじっくり眺めた。
「真っ白で気味悪いが、よく見ると、女みたいな顔をしておるぞ」
「よせ。女でないなら用はない。こいつの持っている物を売って、女を買うほうがいいだろう」
「ふん、なら、おまえらは、それだけ持って、さっさと行け。おれはこいつに用があるのだ。男の癖に、女の格好をしているとどういう目に遭うか、年長者として教えてやらねばならぬ」
兵士の言い分に、ほかの兵士は、やれやれと言いつつも苦笑いを浮かべている。そうして、男は白髪の者の手を乱暴に引き、手近な部屋へ連れ込もうとする。

孔明は立ち上がり、飛び出そうとした。
すかさず、花安英がその肩を掴む。
「お待ちなさい。あんたみたいな細腕が行ったところで、助けられやしない。返り討ちにあうのがせいぜいだ」
「しかし」
「あの者は、こういう目に遭うのになれています。捨てておきなさい。それより、風狗を止めなければ。あの者は命までは奪われないでしょうが、こうしているあいだにも、風狗は、ほかの弟たちを襲っているかもしれないんだ!」

こういう目に遭うのになれている。

孔明は、はげしく怒鳴りたくなる気持ちを必死におさえ、花安英に言った。
「ならば、おまえは風狗を追え。わたしは、あの者を助ける」
「あきれた人だな。いちいち目の前の人間を助けて、肝心なことはなにひとつしないで死ぬつもり?」
「あの者とて、きみの弟ではないのか?」
花安英は、秀麗な顔をしかめ、きつく唇をかみ締める。
かれらが悪いのではない。
かれらをこのように育てた人間が、悪いのだ。
孔明が立ち上がると、花安英は言った。
「では、あの者は軍師にお任せいたします。わたしは風狗を」
「じき、追いつく」
「あんまり期待してませんよ」 
花安英は、憎まれ口をたたくと、やはり立ち上がり、樊城の奥のほうへと踵を向ける。そうして、ふと、立ち止まると、孔明に言った。
「ご武運を」
「ありがとう」

孔明は、白髪の者に気をとられている兵卒たちに、ゆっくり近づいていった。
手には長剣がある。もちろん彼らも武装している。
相手は三人。
彼らはまだ、孔明に気づいていない。
ふと、廊下に飾られる、大きな鼎が目に止まった。
祭祀用のものだろうか。凝った線状の模様が全体にちりばめられている。
孔明はずっしりと重い鼎を持ち上げた。
男に手を強くつかまれて、それまで、うつろで無表情であった白髪の者が、屠殺場にひきだされる家畜のように、急に抵抗をはじめた。
足を踏ん張らせ、男の腕から逃れようと身じろぎをする。
しかし、男はそれがおもしろいらしく、なお一層、力を込めて、白髪の者を引っ張ろうとするのだ。
その白濁の双眸が、ひどくうろたえ、悲しみに満ちているのが、篝火に浮かんではっきり見えた。
慣れることなど、あるものか。
孔明は、鼎を思い切り振り上げると、男の後ろ頭めがけて、それを振り下ろした。
ごん、と鈍い音と共に、男の頭に鼎が落ちて、男はそのまま、崩れ落ちた。
「何者だ!」
さすが、だらけているとはいえ、訓練を受けた兵卒だけあり、剣を抜くのは早かった。
孔明は頭で自分の行動の段取りを組み立てていたが、体が思うように動かない。自分に向かってくる刃を、ぎりぎりの早さで受け止める。
力比べとなったが、持てる限りの力で、これをなんとかしのいだ。
するともう一方の兵士が、すかさず向かってくる。
孔明は、剣の構えに迷いつつも、これもなんとか交わして、横から薙ぎ払うようにして、追い払った。
追い払った。
それだけである。
刃が兵士の身に届かない。
兵士たちはすぐに体勢を立て直して向かってくる。
いつもは存在すら失念しがちな袖が、異様に重く、邪魔に感じられる。
私塾の人間と喧嘩をしているときなどとは、様子がまったくちがった。
喧嘩はあくまで喧嘩であって、命を奪うのが目的ではない。
互いに暗黙の了解があり、目や心臓などの急所は避けるのが当然だ。
だが、真の戦闘においては、そんなものはない。
死んだほうの負け、生きたほうの勝ち。それだけだ。

兵卒のひとりは、刀剣を中段に構えると、肩で息をする孔明を見て、仲間と目配せをした。そうして、不吉な笑みを孔明に向けてくる。
この段になって、孔明は自分の行動を後悔したが、もう遅かった。
孔明に向かって、一斉に兵卒が向かってきた。双方向から刃。
孔明の頭はまったく動かなくなった。
ただ、本能だけで反応して、手にしていた長剣を闇雲に奮った。
ぎん、がん、と金属音がいくつかして、重い手ごたえがあった。
視界の隅で、兵卒たちが舌打ちをして、態勢を整えているのが見える。
なんとか一撃目は凌げたらしい。
気づくと壁に背をあずけるような体勢になっていて、後退することができない。
それどころか、手も足も、がたがたと震え、まるで役に立たないのだ。
恐怖のためもあるが、鍛えていないのがたたって、もう体が耐えられなくなってきたのである。
孔明は心のうちで悪態をついた。
やっぱり、机の前にかじりついているだけでは駄目だ。

二人の兵卒は、またも同時に襲い掛かってくる様子だ。
ばかの一つ覚えだな、と悪態をつきつつ、それに為す術のない自分に苛立つ。
人人を運良く切り伏せられたとしても、もう一人はすぐに襲い掛かってくる。
人をひとり切り伏せるのに、どれだけの力が必要なのかもわからない。
鎖帷子をまとう兵卒の胴に、刃を突きつけたところで、さほどの衝撃も与えられないだろう。
人間は、どこをどう攻撃したら、ちゃんと殺せるのだ。
自分でもあきれたことに、実際に敵と対峙するにあたって、無名の兵卒の命を奪うことすら、まともにできない。
兵法ならそこれそ竹簡に穴が開くほど何度も読み返したけれど、あれのいう『敵』は、ひとつの名前をなくした集団を指していた。
息がどんどん荒くなっていく。緊張と恐怖のためである。

不意に、長剣を突き立てられ、苦痛にゆがむ叔父の顔、崩れ落ちるすがたが脳裏に浮かんだ。
叔父と甥とで、おなじ運命を辿るのか。
そう哂ったのは誰であったか。
だれでもいい。そんなのは嫌だ。
せっかく命を賭して救われておきながら、このまま何も為さずに、死ぬなんて嫌だ。

『切羽詰ったら、足を狙え。戦いなれてないヤツなら、たいがいは足が無防備になる。足を動かなくさえしてしまえば、敵の動きを封じることができる』

突然に、孔明の脳裏に、なつかしい兄弟子の声が響いた。
自分に剣を教えてくれた男の声だ。

『そうしてその隙に逃げるのさ。だから、足だけは鍛えておけよ。俺はそうして生き残ってきたのさ』

足を。

孔明は、息を整え、ほんのすこしまぶたを閉じると、目を開き、目の前に立つ二人の男を見た。
怖じるな。先手を打て。
自分に言い聞かせると、孔明は姿勢を低くして、兵士たちに向かっていった。
彼らは徐庶が言ったとおり、たしかに足が無防備であった。
そして、まさか足を狙われるとは思っていなかったのだろう。孔明は、二本に並ぶ木を切りつけるようにして、それぞれの足を素早く切りつけた。
肉を断つ、なんともいえない重く鈍い感触がある。血しぶきが立つのがわかった。
だが、振り返らず、孔明はそのまま、兵士たちのあいだを抜けるようにして身をかわすと、立ち尽くしている白髪の者の手を取って、走り出そうとした。
しかし、足首がつよく引き戻される。
ぎょっとして見下ろすと、さきほど鼎をぶつけて気絶させた兵卒が、割れた額を抑えつつ、憤怒の形相で孔明の足首をしっかりつかみ、立ち上がろうとしていた。
蹴り上げて振り放そうとするが、男の力はつよい。そのあいだにも、足を切られた兵卒たちが、うめきつつもふたたび剣を構え、孔明に向かってくるのが見えた。
そうして、兵卒の一人が、孔明にむかって剣を振りかざした。

風を切る音がした。
同時に、だん、だん、と太鼓を軽く打ったような音が、ふたつ、一拍づつ置いて起こった。
孔明に刃をかざしていた男たちの額に、それぞれ一本ずつの矢が突き刺さっていた。
男たちは、目を見開いたまま、射抜かれた衝撃で、そのまま後ろに倒れていく。

額を割られた男は、孔明の足を掴んだまま、獣じみた咆哮をあげて立ち上がろうとするが、孔明が姿勢を崩すより早く、起き上がろうとするのを押さえつけるように、脳天から顎にかけて刃をふかぶかと突き立てられ、そのまま絶命した。

よろめく身体を支えてくれる姿に、孔明は言った。
「弓、うまいじゃないか」
「吹っ切れた」
ぶっきらぼうにそれだけいうと、趙雲は、男の頭部に足をかけて、つきたてた剣を抜く。
なんとも形容しがたい生々しい音がひびき、孔明は思わずぞっと身を震わせた。

ほんの一瞬であった。
どうやったら倒せるかと、懸命に悩んでいたのが馬鹿馬鹿しくなるほど、あっさりと、三人は死んでいた。

あらわれた趙雲の姿は、それはすさまじいものであった。
ここに至るまで、なにがあったのか。
そういえば、内門の警備兵が全滅、とか言っていなかったか。
血に汚れていないところを探すのがむずかしい。
おどろくべきは、孔明がいまだに息を整えるのに苦労しているというのに、趙雲はほとんど息を乱していないことだ。
小競り合いで敵にあたる趙雲の姿をみたことがあっても、戦場での姿を見たことがなかった孔明は、これが武将としての本来の姿なのだろうと思いつつも、見慣れぬ姿に戸惑っていた。
しかし、ふしぎと恐ろしさがないのは、自分を助けに来た者だと、わかっているからなのか。

「まずは礼を言おう。助かった、ありがとう」
孔明が言おうとするのを、趙雲は手で留めて、口の周囲の血をぬぐいつつ、に言った。
「俺がいま、いちばん言いたいことを教えてやろうか」
「なんだ?」
ひゅっと風を切り、趙雲の、刀剣を持たないほうの拳が、かるく頬に当たった。
「そういうことだ」
「悪かった。こんど、ちゃんと殴られる」
「そうしてくれ。そちらも、言いたいことは山ほどあろう。だが、いまはまず、樊城を出ることを最優先に考えよう。
俺のほうから状況をかいつまんで言うと、まず斐仁が新野に戻り、主公に援軍の要請をしに戻った。そして俺と黄漢升が樊城に戻ったのだが、俺を侵入させるために、黄漢升は俺のフリをして、正門にて、ひとりで戦っている。
だが、以前の同僚という男がいて、そいつが助っ人に向かった。正門の兵士たちが城内になだれ込んでこないところを見ると、まだ保っているのだろう。
ただ、城内は混乱しているとはいっても、脱出口が見つからないのが現状だ。強行突破になるが、動けるな? 怪我はないか?」
「怪我はないよ。あなたのほうこそ、大丈夫か?」
「これはすべて返り血だ。ひどい顔色だな。なにをされた」
「なにも。そうだな、わたしのほうも状況を説明しよう」

孔明は、いままでのいきさつを趙雲に話して聞かせた。
趙雲は、ときおり瞑目し、じっと黙って孔明の話を聞いている。
「劉州牧が『壷中』の総元締めか。しかも阿片中毒とは、ずいぶんと浅ましい身体になったものだな」
潔癖な趙雲が、最初にもらしたのはその言葉であった。
「花安英に助けられたよ。かれがいなかったら、いまごろは、あの城門に飾られている男のようになっていたかもしれない。ともかく脱出するのもそうだが、まずは『壷中』の子供たちを助けなければ」
「みな、風狗とやらに殺されたのではないのか?」
「わたしが見た死んだ子供は、ほんの数人だ。もっと大勢の『壷中』がいる」
「自力で逃げたのなら、もうそれでよいではないか」
「かれらが自分たちの力だけで、ふたたび世間に馴染めるとは思えないのだ。いまのわたしの立場ならば、かれらを擁護し、すこしずつ世間に馴染ませてやることができる」
「子供たちを助けるまで、ここを出ないというのか」
「そうだ。それに花安英は、風狗を倒しに行った。これも止めねばならぬ」
「『壷中』の者たちとともに樊城から逃げ、かつ、花安英と風狗を止めねばならぬのか」
「そうだ」
孔明がつよく肯くと、趙雲はかるくため息をついて、肩の力を抜いた。
「俺はお前と言う人間にだいぶ慣れてきたと思う。止めても聞かないだろうな。ただ、ひとつだけ言わせてくれ。おまえがかれらのことを擁護しても、かれらは逆におまえと叔父君を恨んで、かえって仇為すようになるかもしれぬ。それどころか、ふたたび闇に舞い戻ってしまうかもしれぬ。それでもかまわぬのか」
「もとより、人を引き受ける、というのはそういうことではないのかね。意のままにならなくなったという程度で、わたしは人を恨みに思ったりしないさ。思う結果が出せなければ、そのときにまたどうすればよいか考えればいい。見るべきものさえしっかり見ていれば、それほど悲惨な結果にはならないと思うよ」
血まみれの姿で、趙雲はあきれて言った。
「この期に及んで、たいした楽観主義だな。性善説か?」
「いいや、単に自分を信じているだけだ」
趙雲は、しばらく孔明の顔をじっと見ていた。
なにを考えているのかわからず戸惑っている、というふうではなく、むしろこれから起こるであろうことを楽しんでいるように見える。
強面の無表情にめずらしく笑みが浮かんでいた。
が、ふと笑みをひっこめ、趙雲は踵をかえした。
「どこへ?」
「風狗の狙いがわからぬが、まずはそいつを捜さねばならぬだろう。仲間たちを殺して回っているようだからな。それと」
「それと?」
趙雲は背中を向けたまま言う。
「もしこれから先、うまくいかなくなっても、俺は、わずかばかりのことしかできぬかもしれぬが、まあ、一緒に泣いてやるくらいのことはできる」
孔明は、ようやく強ばり続けていた全身の力が、ゆるやかに抜けていくのを感じた。
「ありがとう、子龍」
言うと、趙雲は照れているのか、なにも言わずに、わかった、というふうに手を軽く挙げた。

「あの」
不意に声をかけられ、孔明はぎょっとして、白髪の者のほうを見た。
孔明があらわれてから、廊下の隅っこに隠れていた白髪の者は、孔明と趙雲の前にあらわれると、なにも移さない濁った目を、それでもしっかり二人に向けて、丁寧に作法どおりの拱手をした。
白髪の者が心を失っているのだと思っていただけに、孔明は、不意に発せられた言葉にただおどろく。
その気配を感じたのか、それまで表情らしい表情をまるで浮かべなかった白髪の者が、わずかに口はしに笑みを浮かべた。
そうして口を開く。
その声は、少女のように高く、大人のように落ち着いていた。
「わたくしは樊城から脱出するための抜け道を存じております」
「まことか」
白髪の者のほうに向き直った趙雲に、その気配でわかったのか顔を向けた。
少年か年寄りか、正体のわからぬ白髪の者は言った。
「はい。ただ、お二方にお願いがございます」

涙 12へつづく
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