09年改訂版

孤月的陣
第四章 ナミダ  涙

城門からほど近い茂みから、樊城の様子をさぐる。
夜の帳に沈む町のひとびとは、まさか城でひと騒動起こっている、などとは夢にも思っていないにちがいない。
まるで昼間のように煌々と灯された篝火が、橙色に夜空を染め上げ、その間を、黒い輪郭を描いて、兵士たちが往来する。
黄忠が判断したとおり、播天流は趙雲たちが真正面から来るであろうと想定し、兵士を配置したようだ。
彼らのすべてが『壷中』ではないだろうが、趙雲は、いままで対峙してきた敵とは、質の違うなにかを感じ取っていた。

戦場に出たならば、敵とは有象無象の兵士たちのことを指した。しかし、樊城に待ち受けている敵には、ひとつひとつに顔があるような気がしてならない。
それは、自分とおなじ男に訓練を受けた者と見なすからか、それともある種の同情が、趙雲に錯覚を起こさせているのか、それはわからない。
ただ、ふつうに訓練された敵ではないから、てこずるだろう、ということだけは覚悟していた。

「む」
ふと、となりにいる黄忠が声をあげる。
そのきびしい視線の先を見て、趙雲は、はっとなった。
城壁に、四肢をそれぞれ木の柱で繋がれ、そのままボロ布のように晒されている男の遺体があらわれたのだ。
その遺体はちょうど身の丈が八尺くらいであろう。そうして、孔明が好む長袍を身にまとっている。
いや、まとっていた、というべきか。
いったいどんな目に遭ったのか、それは引き裂かれてかろうじて身体にまとわりついている、というふうである。

まさか。

趙雲が思わず腰を浮かせかけたのを、素早く黄忠が肩をつかんでおさめた。
「待て。いま出てはならぬ」
「しかし、あれは、まさか」
軍師ではないのか。
その最悪の可能性を口にすることはためらわれた。声がふるえている。
「遠目でわからぬが、亮さまではなかろう」
黄忠のことばに、趙雲は眉をひそめる。
「なぜわかるのだ」
「可能性の問題じゃ。播天流がおまえを狙っているとしても、いくばくかの理性が残っているのであれば、亮さまはやはり殺せぬはずじゃ。くどいくらいにくりかえすが、亮さまを殺せば、おまえのところの劉玄徳は兵を動かし、樊城を襲うだろう。そうなってはかえって曹操の南下を早め、播天流も滅びる。
そうとわかっていて、亮さまを殺すほどに、やつは愚かではなかろう。
冷静になれ。相手はおまえの気性を知り尽くしている男。おそらくああすることによって、おまえの頭に血が上って、ばか正直に真正面からやってくるだろうと想定してのことじゃ」
ぽんぽんと直言が飛び出すが、腹は立たない。
むしろ、だんだん冷静になってきた。
「それにしては稚拙にすぎぬか」
「まったくじゃ。やつの誤算は、この儂がおまえとともにいる、ということかな。伊達に年は取っておらぬ。ああいう男の考え方なぞ、すぐに読めるわ」
黄忠は得意そうに、真っ白なあごひげをしごいてみせる。

そのあいだ、兵士たちは、遺体を見晴らしの良いように篝火に照らすと、城壁の際に立ち、闇にむかって、罵詈雑言を叫びはじめた。
その内容は、きわめて下劣、かつ卑猥なものであった。
孔明の死に様がどうであったか、死ぬ前にどのような目に遭わせられたか、吐き気がするほど耳障りな言葉を並べ立て、下卑な冗談をからめて闇にわめいているのである。
遺体が孔明ではないだろう、とわかっても、趙雲は思わず立ち上がって連中を射すくめてやりたい衝動にかられた。
そうして身体を浮き上がらせると、またも黄忠が肩をつかむ。
「これ、まんまと向こうの思惑に乗るやつがあるか! まったく、播天流というのは気味が悪いくらいに、おまえの弱点を知り尽くしているようじゃな」
「名誉の問題だぞ、あいつら、軍師がまるで断袖であるかのような」
みなまで言わせず、黄忠はさえぎった。
「ちがうのであろう? ならば放っておけ」
「しかし!」
「殴るぞ、小僧。いま我らがこうしている間にも、もしかしたら亮さまは殺されていないまでも、拷問にかけられているやもしれぬ」
「あいつらの喚き声のなかに真実が含まれている、とでもいうのか」
「最悪の場合はそうかもしれぬ。だからこそ早くお助けせねばならぬのだ。わかっておるな? 亮さまは、おまえのために樊城に戻ったのじゃ。そのことをゆめゆめ忘れるでないぞ」
「忘れるものか」
そうして、いまも悪言を吐き続ける兵士たちを見上げ、睨みつける。と、兵士たちの背後に、けして忘れえぬ姿が立っているのが見えた。

播天流だ。

遠目で、細かい風貌などはわからない。だが、篝火に浮かび上がるその姿は、まぎれもなく、播天流その人であった。
闇に叫ぶ兵士たちに、なにか指示を送っている様子であるのがわかる。
怒りはもちろんこみ上げてくるが、それ以上に、播天流の中に眠る狂気にも似た憎悪に、趙雲は、氷をいきなり肌に押し当てられたような痛みをおぼえた。
いったい、自分がなにをしたというのだ。
もし恨みに思うのであれば、なぜ、直接、前に現われないで、こんな回りくどいことをする?
「これは思わぬ好機かもしれぬ」
と、黄忠は不敵ににやりと笑って見せた。
それまで賢しい老爺であったのが、不意に獰猛な戦士の表情に変わる。
その変化に、となりにいた趙雲さえ、ぞくりと背筋が寒くなった。
「ヤツはおまえが単独か、あるいは斐仁と同行していると思っているにちがいない。儂が何者かまでは知らないはずじゃ。ヤツはすっかりおまえが、真正面から来るものと思い込んでいる。そのおごりを叩き潰してやろうぞ」
「では、はじめのとおりに?」
「うむ。儂は真正面から切り込むゆえ、おまえは弓で城壁の兵士どもを狙い、儂を弓から守れ。しばらくのあいだは、連中は混乱し、儂ひとりに集中するはずじゃ。
おまえは隙を見て、樊城の東側の入り口から中へと入れ。東側には、儂がむかし世話をした男が門衛の隊長をしておる。そやつは『壷中』のことはなにも知らぬ。その弓を見せ、黄漢升の名を出せば、きっと中へ通してくれよう」
「通してくれなかった場合は?」
「いたし方あるまい。それはおまえに任せる」
それだけの言葉を交わすと、黄忠と趙雲は、互いの衣の交換をはじめた。

刃は風を切って孔明の頬をかすめ、真後ろで、鈍い音を立てて止まった。
くぐもった声がして、振り返ると、白目を剥いた兵士が、咽喉に深々と突き刺さった刃もそのままに、膝から崩れ落ちていた。
「追っ手か」
花安英は低くつぶやくと、孔明の手を乱暴につかんで、最寄りのあいている部屋に押し込めた。
「しばらくそこに隠れていてください。わたしが危なくなっても、勘違いして飛び出してこないように。さきほど貸してさしあげた剣は持っていますね?」
孔明はうなずくと、闇に沈む部屋の一室の壁際に身をよせた。
花安英は不敵に笑って見せると、扉を閉め、廊下に戻っていく。
真っ暗闇の部屋から外をのぞむと、煌々と盛大に燃やされている篝火のおかげで、まるで夕刻に時間が遡ったような明るさであった。
雲をかたどった凝った彫像の施された扉に、赤い明かりが映り、そこに、花安英の影が投じられている。

孔明は、花安英の助太刀に出たいと思ったが、冷静に自分をなだめて、大人しくしていることにした。
もし出て行ったとしても、実戦経験のまるでない孔明は、花安英の足手まといにしかならないだろう。
わたしは、みなのお荷物になっている。
そう思うだけで、むしゃくしゃするほど腹が立った。
なにもよい策を練れない自分に腹が立つ。

音もなく、扉の表に影が増えた。
兵士たちがやってきたのだろう。

花安英と、『壷中』の子供たちが連合し、樊城の兵士たちと殺し合いをして、相打ちになるならば、話が早くなる、と酷薄で浅慮な声が頭にひびく。
花安英が死ねば、蔡夫人は殺されることはなく、樊城の『壷中』は滅び、のこるは播天流と隠れ里の『壷中』を始末するだけでよくなる。

だが、すぐさま孔明は、はげしくそれを拒んだ。
始末、だと? 
いまさら、人の生き死にの尊さを彼らに問うつもりはない。多くの人々に死を贈ってきたかれらこそ、孔明よりもはるかに生命の儚さ、もろさを知っているだろう。
殺さねば殺される。ひたすらその恐怖で、目の前の『敵』を殺し続けてきた。
そんなかれらを、扱いづらいから、簡単に『悪』だと切り捨てて、見捨てるのか?
だめだ。それでは、荊州を守るという美名のもとに、子供たちを狩りだして刺客に育てた劉表や、ほかの豪族たちと、どう違うというのだ。
叔父上ならばどうなさったであろう。

孔明は、扉をいちまい隔てただけで、まるで別世界のことのように展開する、影だけの殺戮劇に目を転じた。
趙雲や張飛の戦う姿を見たことがある。
ただ力がつよいとか、身体能力がすぐれている、というだけではない。もともとの素養に加えて、基礎の訓練がしっかりされている。だから、臨機応変な戦術を生み出せるのであり、彼らの自信になっているのだ。
花安英もおなじであった。
趙雲の戦う姿は、見ていると息をするのを忘れるほどに、壮絶なまでに美しかったが、花安英もまた、影だけだからこそわかるのだが、舞踊をしているような優雅さである。
これほどの才能を持ちながら、影の仕事しか強制されてこなかった、というのが不憫でならない。
播天流は、かれらの素晴らしさを知らないのだろう。
自分の育てた戦士たちが、どれほどに優秀であるのか、わからないのだ。
だから、かんたんに捨て駒にできるし、殺し合いをさせることも平気なのだ。

叔父上がもし生きていたなら。
そう考えて、手にしていた長剣を見下ろす。
武芸の心得は多少はあるけれど、一度も実戦で剣を振るったことがない。
それは叔父を殺した男の姿がいまでも脳裏に焼きついているからだ。刃を身体に深く埋め、うずくまり、苦悶する叔父の姿を、忘れることができない。
刺されるのは痛いだろう。当然だ。
死は恐ろしい。それも当然だろう。
だが、叔父はそれを黙って受け容れたのだ。
逃げずに真正面から受け止めて、自分たちの未来を守ってくれた。
叔父が果たせなかったことをするために、ここに戻ってきたのではないのか。
孔明は立ち上がるべく、床に手をついた。
とたん、ぬるりとした液体が指を汚す。
無人と思った部屋に、だれかいるのか?
ぎょっとして闇に目を凝らすと、自分の座っていた位置からほど近いところで、少年が、口を大きく開いた絶望の表情のまま、息絶えていた。
蜀錦の豪奢な衣裳をまとい、顔にはうっすらと化粧のあとがのこっている。
さきほど、劉表の部屋に並んでいた、少年のひとりであった。
嫌悪と恐怖がぞくりと背筋を凍らせる。
足音をしのばせて部屋を見渡すと、部屋には、ほかにも少年たちの遺体が転がっていた。
なにがあったのか。
死体のひとつひとつは見事なまでの切り口で、少年たちも手だれであっただろうに、ほとんど一撃で急所を狙われているのがわかる。
少年のひとりは、武器を取り出そうとしている姿勢のまま死んでおり、もうひとりは、逃げ惑うところを背中から襲われていた。
戦闘らしい戦闘もなく、ほとんど一方的な殺戮がおこなわれたのだ。
虚空を見つめたまま絶命している少年の目を、ひとつひとつ孔明は閉じてやり、そうして、肩で息を整えた。
今夜ほど、涙があふれる夜はない。
孔明はまたも泣いていた。
少年たちの数は全部で6人。
さきほど劉表の部屋にいた『壷中』のなかで仲間割れがおこり、一方が一方の不意を襲ったのか。
不意に風が動き、孔明は反射的に手にしていた長剣でもって振り向きざま、襲ってきた敵に切りつけた。
同時に、ぎん、とするどい金属の音がして、場違いなほど明るい声が、暗い部屋に響く。
「やっぱりあなたは頭がいい。もう状況に慣れたようですね。それでいいのですよ」
大人びた口調で、血塗れの花安英は言った。
刃と刃を交えた先の、美しいけだものに向けて、孔明はうなる。
「悪ふざけが過ぎるぞ。もし当たっていたら、大変なことになる!」
「当たりゃしません。あなたの腕はたかがしれているし、わたしは本気じゃなかった。だから怪我をしようがない」
「くりかえすぞ。悪ふざけが過ぎる。周りを見ろ!」
花安英は、孔明に言われて、はじめて部屋の状況がわかったようである。
まず、最初にひとりの死体をみつけて、はっとして剣を引いた。
それから部屋に横たわる六人分の遺体をすべて見て回った。

花安英は言葉を発さなかった。
孔明が廊下のほうを見ると、わずかに開いた隙間から、廊下に打ち倒された兵士たちの死体が見えた。
篝火が夜空を赤く照らしている。悪夢のような光景だ。
「あいつ」
ようやく、花安英はそれだけ絞りだした。
「あいつ? 風狗か?」
孔明の問いに、花安英は答えず、『弟たち』の無残な死体を見下ろしたまま、震えている。
血まみれの刀を持たない手は、蒼白になったおのれの顔を撫でている。
「あいつは、もう駄目だ。『弟たち』にまで手を出すなんて」
「風狗はだれだ? なにが目的なのだ? 彼らはなぜ、殺されねばならなかったのだ?」
花安英は、孔明に背中を向ける形で、沈黙をつづけている。
「花安英、この者たちを始末せよと命じたのは播天流か?」
「ちがう。こいつらは、弟たちの中でも、『壷中』の仕事を嫌がっていた連中なんだ。きっとあんたの言葉を聞いて、樊城を出ようとしたのだと思う。
だから、殺された。でも播天流はいま、趙雲のことで頭がいっぱいのはずだ。こいつらのことまで頭が回るとは思えない」
「では単純に仲間われか? 風狗というのは、ずいぶんと播天流に忠誠を誓っているのだな」
だが、花安英は首を大きく横に振った。
「忠誠なんて誓っているものか。あいつは単に、播天流がいいようにやらせてくれるから、一緒に組んでいるだけなのだ。でもなぜだ。自分だって、自由になりたいと言っていたのに!」
ふと、花安英は思い当たったことがあったらしく、顔をあげる。
「あいつ、まさか、全部ひとりで始末をつけるつもりでは?」
そのとき、ひときわ大きな怒号が、城門のほうから聞こえてきた。






もしこれが定められたものなのだとしたら、ずいぶんと回りくどいさだめではないか。
趙雲は、運命とやらに挑戦的な笑みを向けると、静かに弓を引き絞った。
黄忠にはげまされたから、というわけでもないが、ふしぎと外れる気がしなかった。

おまえは人殺しが巧すぎる。

上等だ。

趙雲は弓を引き絞り、城壁から黄忠をねらって弓を引く兵士のひとりに矢を射た。その弓兵は、さきほど城壁の上から、聞くに堪えがたい罵詈雑言をわめいていたうちの、とくに悪ふざけのすぎるひとりであった。
正門から聞こえてくる怒号にまぎれて、弓の飛ぶ音は響かない。茜色に染め上げられた樊城の空を矢は飛んで、鷹が獲物をねらうときの正確さでもって、弓兵の額を射抜いた。兵士が、黄忠に弓を射掛けたままの姿勢で、前に崩れ落ち、そうして音もなく城壁を落ちていく姿が赤い空に浮かび上がる。正門の黄忠の来襲に気を取られ、ほかの弓兵は、仲間の死に気づかない。
趙雲は容赦なく二射目をつがえた。
ぎり、と弓を引き、敵の姿を捉え、相手の次の動きを想像しながら、矢を放つ。
びゅっ、と風に乗り、矢が死を運ぶ。
ふたたび命中し、二人目が空中に飛び込むようにして落ちていった。

正門では、黄忠が兜を目深にかぶったすがたで、押し寄せる兵士たちを相手に、見事な槍さばきで大立ち回りをしていた。
ともかく動きが洗練されており、なにひとつ無駄がない。わずかな動きだけで、ひとり、またひとりと槍の餌食になっていく。
遠目から全体をながめれば、黄忠は、おのれを取り巻く空気ごと、まるで呪術をあやつっているかのように転がしているように見えた。前後左右からつぎつぎと襲い掛かる兵士たちは、黄忠の周囲で、まるで見えない壁にはじかれたように飛び跳ね、地面に倒れる。
あまりの凄まじさに、数では圧倒的優位をほこるはずの兵士たちが、徐々に距離を置き始めているのがわかった。

それでも戦い慣れているものは、黄忠を射止めんと矢を番えるのであるが、そこは趙雲が援護して、つぎつぎと射落とす。
ひさしぶりに冷徹に番える弓は、腹の底から笑いがこみあげてくるほどに、まったく外れることがなかった。憑き物が落ちたようだ。身体を縛るものがなにもない。その快楽に、趙雲は素直に酔った。
黄忠の読みどおり、播天流は、趙雲が真正面からやってくると予測して、ほぼすべての兵力をここに配置していた様子である。兵士たちは、城門から、あとからあとから現われて、つぎつぎと黄忠に挑みかかっていく。おどろくべきは黄忠の胆力、そして冷静さで、たとえ兵士がどんな得物を持っていようと、的確に攻撃をかえしていく。
なにより、倒すだけではない。返り血を浴びて視界が塞がれないように、そして手が血でぬめらないように、そこまでを考慮して動いているのがわかる。群がる兵士たちとは、戦闘の格があまりにちがいすぎた。
趙雲は弓で援護しながらも、その見事な戦いぶりに、背筋が震えるほどに感動をおぼえていた。
齢六十になるという老人が、これほどに凄まじい戦いを披露するとは。
そして、これほどの武将が、いままで世に知られずにいたとは。
あの老人が、昨日まで瓜売りをしていたと言っても、だれも信用できなかっただろう。
兵士たちにとっては、黄忠が単独なのがわざわいしていた。
あまりに兵士が密集しているために槍は使えず、せっかく駆けつけたのに手持ち無沙汰にしている者もいれば、手斧を振りかざしたはいいが、目指す黄忠にあっさりかわされて、味方の脳天を割ってしまう者もいる。さらに、黄忠が倒した兵士の死体に足を取られ、団子状態になって倒れてしまう兵士もおり、まさに修羅の名にふさわしい乱戦状態であった。
黄忠は、趙雲を東門へ行かせるための囮を買って出たのであるが、おどろくべきことに、大勢の兵士たちをたったひとりで相手にしながらも、徐々に徐々に、城内に向かって前進しつつあった。下手をすれば、単騎で樊城に侵入できるのではないか。

「みなうろたえるな! 敵は一人! たったひとりであるぞ! 常山真定の趙子龍を仕留め、名を挙げよ! 仕留めた者には、好きなだけ褒美をくれてやろう!」

城壁から、雷のような声がひびきわたり、赤い空を駆けていく。
趙雲は身体を震わせた。
恐怖のためではない。
戦闘が、かえって雑念をすべて取り去ってくれたらしい。純然たる怒りが、ようやくこみ上げてきた。

真の英雄のもとへ連れて行ってやろうと、あの男は言った。
まだ幼かった。真の英雄というものが、いかなる者であるか、ぼんやりとした印象しかなかった。
薊で公孫瓚に会ったとき、その自信に満ち溢れた堂々たる姿と美貌に触れ、やはりあのひとの言ったことは間違いではなかったとよろこんだものである。とはいえ、その喜びは、すぐに失望に変わったのであるが。
成長するにしたがって、もしかしたら真の英雄などというものは、世に存在し得ないのではないかと思うようになっていた。
劉備には、もちろん心服しているし、尊敬しているが、少年のときに憧れ、夢に描いていた英雄とは、わずかにズレがある。
暗闇を照らす光のような人物の到来を、趙雲はずっと願ってきた。
劉備は明るい男ではあるが、その影響力は周囲にしか届かないものであり、時代を大きく動かしうる…もっと言うならば、全体を救済するような、太陽のような絶対的な光明とはちがうものである。
自分の子供じみた夢を哂い、哂いながらも、どこかで希望を捨てられない自分を持て余すこともあった。
そうして、ようやく、無限の可能性を秘めた光輝を見つけた。
おまえから必ず取り返す。
趙雲は、城壁の中央に立つ、赤い空に浮かび上がる播天流の姿めがけて弓を引いた。






播天流は震えていた。
兵士たちが、まるで敵わないことに対する怒りでもなく、倒された兵士たちへの同情のためでもない。
もはや戦神と呼んでもおかしくないほどに武芸をきわめた趙雲の姿に感動したのである。
どれほどに憎んでも、播天流にとって、趙雲はやはり最高傑作であり、理想の具現化、象徴であった。いや、それほどに入れ込んでいたからこそ、思うようにならなくなった趙雲を憎んだのだ。
播天流は、つぎつぎと兵士たちをなぎ倒していく趙雲の姿から目を離せずにいた。そして、自分が趙雲を殺さずに生かしてやろうと思っているのは、憎しみによるおぞましい企てからそう考えるのか、それとも結局のところ、その存在に捕らわれているのか、わからなくなっていた。
混乱すると同時に、激しい衝動が突き上げてくる。

あれは絶対に手に入らない。おまえのものにならない。
あれが生きている限り、おまえは苦しみつづけるだろう。
ならば、殺してしまえ。

「みなうろたえるな! 敵は一人! たったひとりであるぞ! 常山真定の趙子龍を仕留め、名を挙げよ! 仕留めた者には、好きなだけ褒美をくれてやろう!」
叫ぶ自分の声を、播天流は、どこか異空からひびく声のように聞いた。

なにかが。

それは天啓のように播天流の脳裏に浮かび、突然に闇に覆われたすべての視界を光で照らしたかのような錯覚を生み出した。

なにかがやってくる。

播天流は、直感に突き動かされるまま、わずかに身じろぎをした。その瞬間、まさにすれ違うようにして、なにかが飛び込んできた。たん、と単調な音を立て、その何かは播天流の頬をかすめ、背後の、孔明の身代わりとなった男の柱のひとつ突き刺さった。
播天流は、城壁から身を乗り出して、眼下に広がる闇に目を凝らした。
城門の前で派手に暴れる趙雲。ほかにだれもいない。
ちがう。
そのあまりに迷いのない切っ先に、播天流は我に返って、叫んだ。
「ちがう!」
周囲の兵士たちがおどろいて播天流を見たが、構わなかった。どこがどう違うか、と具体的に説明することはできなかったし、おそらくできたとしても、兵士たちには、なにもわからなかっただろう。
播天流はすばやく考えた。
あの男はどこへ行った。どこへ逃げた? またも己の前から逃げたあの男はどこへ?
城門で戦う男の意味はなんだ? 
そこに至り、播天流はおのれの失敗に気がついた。
しまった。やつはもう城内に入り込んでいるかもしれぬ。
「各兵卒長に伝令! 趙子龍がすでに城内に侵入しているやもしれぬ! ただちに各城門に移動し、やつを捕らえるのだ!」




趙雲は、弓を片手に身を低くして、東の門へと走っていた。
静けさに満ちていた樊城の様子が、一気に動き出すのが気配でわかった。
見つからないように足音を殺し、光を避けて進みつつ、趙雲は、興奮と冷静のないまぜになった、異様な高揚感をおぼえていた。徐々に神経が研ぎ澄まされ、すべてのものが見えてくる。
自分が次に何をすればよいのか、敵はどのように動くのか、すべてがあらかじめ趙雲の前に明らかにされた筋書きのように、それほど明確に全体が見渡せる。
それは仙人じみた能力の所以ではなく、観察力にすぐれた趙雲だからこそのものであった。
事前に情報を集めていればいるほどに、趙雲の行動は尖鋭化する。

東門の篝火の前で、正門の兵士たちとは対照的に、暇そうにあくびをする兵士が立っていた。趙雲は篝火の明かりを避けて、音もなくそっと近づくと、背後から近づき、口を塞いで首筋を打った。倒れる音でほかの兵士が気づかないように、膝をつかってくずれる兵士の身体をささえ、地面にそっと横たえる。
だが、近くの兵士が気づいたようだ。屈んだ姿勢のまま、趙雲は兵士を待ち受けると、下から突き上げるような形で、やってきた男のみぞおちを打つ。薄い鎖帷子ごしに、男の身体に走った衝撃が伝わってくる。
そうして、二人を地面にならべると、さらに門へと近づいていった。
東門と正門の兵士たちの差はあまりにはげしかった。
門のすぐそばでは、幾人もの兵士が車座になって、賭博にはげんでいる。一方で生死をかけた戦いをくりひろげ、その一方では呑気に小銭をかけた争いをくりひろげている。
もはや統制云々以前の問題である。蔡瑁や『壷中』のやりように、あからさまに反対している将兵がいるのだ。そしてその行動を、蔡瑁も『壷中』も抑えきれていない。たった一人の男を阻止することさえ、まとまってできない状態なのだ。
ここまで腐りきっていたのかと唖然とするのと同時に、こんな軍隊で働かされる兵卒たちを、趙雲は哀れに思った。
兵士たちは武器も兜も傍らにおいて、熱心に賭博にはげんでいる。趙雲もよく知っている、賽をつかった単純なものだ。賽を転がし、出た目の数を当てるのである。上役の命令などまるで聞く気のない兵士たちの背後からそっと様子をのぞくと、彼らは目の前のちいさな二つのサイコロに夢中になって、ぎゃあぎゃあと餌を前にした鶏のように騒いでいる。
「くそっ、ついてねぇ! 今夜はいきなり夜警に借り出されるわ、賭けに負けるわで散々だぜ!」
「わるいな。おれはお陰でついているぜ。これで新野の賊とやらが、おれっちのところに丸腰で飛び込んできたら、めでたしめでたし、なんだがな」
「俺はどうもよくわからんのだが、新野の劉予州は味方じゃなかったのか?」
「味方じゃなくなったんだろ。だから急に全兵士に召集がかかったんだ」
「なにを信じていいのかわからねぇ世の中だねぇ」

「まったくだ」

最後のことばは、趙雲から発せられた。
闖入者にはっとして、兵士たちは腰を浮かしかけたが、武器を手放していた、ということと、長時間座り込んでいた、ということが仇となり、彼らがまともに立たないうちに、全員が趙雲によって殴り倒された。まさに一瞬の出来事であった。

さて。
趙雲は息を整えると、東門へと向かった。
どこか倦怠感のただよう門の前には、さきほどの兵卒たちとはちがい、武装もきちんと整えた兵士たちが命令どおりに侵入者を見張っていた。
そこへ、正門からやってきたとおぼしき兵士が飛び込んできた。
「伝令! 賊がすでに侵入の可能性あり! 総員、ただちに戦闘体制に入れ、とのこと!」
命令を聞いて、だらけた雰囲気を漂わせていた兵士たちの面差しが、反射的に引き締まる。もう一足早かったら、隙を狙うだけでよかったのだが。
仕方がない。
趙雲は、さきほど倒した兵卒の槍を奪うと、地を蹴り、門へと飛び込んでいった。兵士のひとりが、
「あっ」
と声をあげたが、遅い。まともに構えさせる隙も与えず、趙雲は得意の槍を縦横無尽に奮って、その場にいた兵卒たちを、つぎつぎと討ち果たしていった。
正門からやってきた兵士が叫ぶ。
「であえ、であえ! 賊はここにいるぞ!」
そうやって門の仲間に呼びかける背中めがけて、趙雲は手にしていた槍を投げた。槍は身体を突きぬけ、兵士は絶叫した姿勢のまま、崩れ落ちた。趙雲は、すぐ傍らに倒れる兵卒から、また槍を奪い、茜色に染まった空の下、ばたばたと駆けてくる兵卒に向かって穂先を定めた。
止まると、城壁の上から弓を射かけてくる兵卒に狙われるので、点在する茂みをうまく利用しつつ、前へと進んだ。
前方から、ひときわ立派な鎧装束の男が、部下を引き連れてやってくるのが見えた。
趙雲は、群がってくるほかの兵卒たちを槍で遠ざけ、提げていた刀剣を抜き放ち、男に呼ばわった。
「東門を守る将とお見受けしたが、如何に?」
「いかにも。貴殿が賊か」
まるで他人事のように尋ねてくる男は、四角い顔の、いささか小柄な男で、平時ならば好感が持てるだろう、人の良さそうな顔をしていた。趙雲が刀剣を構えているので、自分も刀剣を抜き放つ。
「わが名は趙子龍。黄漢升の輩(ともがら)なり」
そう名乗ると、男は、ほう、と相槌を打って、部下に下がっているように命令をすると、自ら剣を手に、突っ込んできた。
ぎん、と鋭い音がして、刃と刃のぶつかりあう音が響く。男の力が振動を通して伝わってくる。
「黄漢升の輩というは、まことか?」
組み合いつつ、男は小声ですばやく尋ねてきた。
「そうだ。弓を持っている。黄漢升の弓だ」
「見せろ」
男は、力に弾かれたようなそぶりで、ぱっと趙雲から離れた。趙雲は、すばやく、背負っていた弓を男に見せる。男は、わかった、というふうに大きく肯いた。そして、猛然と切り込んでくる。
「貴殿の命、それがしが預かった!」
そう叫びつつ、男は切っ先するどく斬り込んでくるが、どこか本気ではない。趙雲は、ほかの兵卒たちにそうと知られないようにするために、真剣な素振りをして男と打ち合う。男は徐々に徐々に、小屋と思しき建物の物陰に後退していく。刃剣を遊戯のようにかわしつつ、趙雲は男のあとにつづいていった。
そうして、小屋の陰に隠れると、男はほかの兵卒に悟られないように、すばやく言った。
「黄漢升とは、なつかしい名を聞いた。さきほど亮さまが単独でお戻りになられたが、そのことと関わりがあるのだな?」
趙雲はおどろき、尋ねた。
「貴殿も、諸葛玄の部下であったのか?」
小柄な男は、感慨深げに大きく肯いた。
「左様。諸葛さまが亡くなられたあと、我らはみな跡取りである亮さまの下に残ることを考えたのだ。しかしかえって『壷中』に目をつけられると判断し、逆に、われらが樊城に残り、『壷中』を見張ることにしたのだ」
「なんと」
趙雲は、あらためて孔明の運の強さに感嘆した。そうして、孔明の叔父が、死を超えてもなお、甥を守り続けている事実に、感動した。
「ゆっくり話をしている暇はない。すると、いま正門で戦っている、という男は、もしや?」
「そうだ。軍師はいづれに?」
「教えてやりたいところであるが、分からぬ。蔡瑁め、もともと秘密主義の男だが、『壷中』に関しては、それがもっとひどくなる。だが、城内の動きも妙に慌しい。何事か起こったのかも知れぬ。もし亮さまがいるとしたら、奥向きの劉州牧の居室の近辺であろう。なんとしても亮さまを助けて差し上げてくれ。われらの七年間の努力を無駄にしないでほしい」
趙雲が大きく頷くと、男は、にっ、と明るく笑って、剣を片手に小屋の物陰から飛び出した。
「賊は正門のほうへ逃げた! 総員、正門へ向かえ!」
そう叫ぶ男の背中を物陰より見送りつつ、趙雲は、闇に浮かぶ劉州牧の居城を見上げた。


涙 11へつづく
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