09年改訂版

孤月的陣
第四章 ナミダ  涙

「ねえ、軍師。あなたがもし今すぐ江東に行ったとして、そうしたら、あなたの母上は、何年も会っていないあなたを、すぐに自分の義理の息子であると見抜けるでしょうか?」
「ムリであろうな」
我ながら薄情すぎるな、と思いつつも、孔明は即答した。
子供心にも、義母という人は、娘くささのぬけない、ぼんやりとした人だった。年数が経ったところで、自分以外のことに、まるで興味のなさげな様子が、変わっているとは思えない。

「母もそうでした。赤ん坊のころに別れたきりで、わたしが何者かがわからなかった。それだけなら、まだ許せたかもしれない。
あの女は、完全に色狂いになっていた。情人の蔡瑁におぼれるあまり、夫である劉表に、肌を触れられることを嫌がっていた。
そのために、何をしたと思います? 
あなたも見たでしょう、劉州牧の部屋にいた、かわいそうな弟たちを。あの女は、十五歳前後の少年をあつめて、自分そっくりの格好をさせて、あの病気持ちの相手をさせていたのですよ。それだけじゃない。自分の息子、わたしの本当の弟まで、同じ目に遭わせていたんだ!
あの女がわたしを見たときに、最初に言ったのは、『わたしの息子のくせに、似ていなくて残念だ』ですよ! これでもあの女を殺すことが誤りだと?」

言葉がでない。
これまで、悲惨な話は風聞で聞いたことはあっても、現実感がなかった。
花安英は、激したおのれを鎮めるように、息をはく。
そうして、言った。
「わかりますか、わたしの気持ちが」
「そうだな」
「わたしは正しいんだ! だからあの女は殺されるべきなんです! 可哀想な弟のためにもね!」
「判っている。だが、逆に聞かせてくれ。それほどまでに憎む相手なのに、どうして、こんな正体のわからぬ神まで作り上げて、母親の復活を願っているのだね」
わめき散らされるか、と予想した孔明であるが、意外にも花安英は理性的に答える。
「復活してほしいのは、あの女じゃなくて、『母親』なのです。うまくいけないけれど」
妙な表現だな、と孔明は怪訝に思ったが、花安英はたずねてくる。
「だけど、どうしてわたしの母のことがわかったのですか? ああ、あなたの奥さんが?」

意外なところで意外な名前がでてきて、むしろ孔明のほうが動揺する。

「妻? あれは関係ない。月英は君らにはいっさい関わりがないぞ。
わたしが君の出自について、もしやと思ったのは、子龍に蔡瑁と蔡夫人の関係を教えたからだ。なぜそんな真似をしたのかわからなかったが、さっきの君の言葉で確信した。
最初は、子龍を誘惑する手段かとも思ったのだが、そうではない。君は、子龍を『兄』だと思っているのだ。共に、播天流の下で訓練を受けた者として。
だからこそ、子龍ならば自分を助けてくれるのではと、期待したのではないかね。だから蔡瑁と蔡夫人の最大の秘密を見せてやり、協力を得ようとした。
本来ならば、その役目は程子聞が果たすべきものだったかもしれない。だが、かれは、自分自身を救うことで手一杯で、とても君まで救うことができなかった。
君は程子聞の力量に怒り、離れる。そうしてあろうことか」

殺してしまったのだ、と言葉をつづけるより先に、しゅっと風を斬る音がして、孔明のほほぎりぎりに、花安英の手にしていた、小刀がかすめた。
闇の中に立つ花安英は、激しく震えている。

「黙るがいい、諸葛亮! わたしは、程子聞を殺してない!」
孔明は、その怒りに触れて、うろたえる。
斐仁は、復讐のために樊城へやってきたとき、花安英に案内されて、程子聞の遺体をみつけた、と証言した。
ふつうに考えるならば、花安英は、すでにそこに程子聞の遺体がある、ということを知っていて、斐仁を罠にはめるために、播天流の指示にしたがって、そうしたと推理する。
そうではなく、本当に花安英は知らなかった? 
斐仁と花安英、双方を騙していたのは、播天流だった?

「わたしが程子聞を見つけたとき、どれだけ打ちのめされたか貴様にわかるものか! たしかに仲たがいをしたとも。おまえとかれが再会してからは、顔をあわせれば喧嘩ばかりだった! だからわたしはおまえが憎かった。おまえが程子聞を変えてしまったからだ! 
わたしは程子聞が理解できなかった。『壷中』を裏切ろうとしているのが、なぜなのか、わたしを捨てようとしているのがなぜなのか! でも殺そうなんて、一度だって思ったことはない! 一度たりともだ!」
「では、なぜ斐仁を程子聞の部屋に案内したのだ。播天流はなにも君に教えていなかったのか」
花安英の表情に、暗い影がさす。
「新野から帰ってきた播天流は、いつになく荒れ狂っていたよ。わたしの顔を見るなり言った。
これから『仕事』を片づけなければならない。おまえも協力するようにと。これから新野から客がくる。いまから死体を作るので、そいつを死体のある部屋に案内し、おまえは派手にわめき散らせ、と。
なんだかわからなかったけれど、ああなったときの播天流は手が付けられない。協力するしかないんだ。
でも、その『仕事』が、まさか程子聞を殺すことだったなんて、予想できなかった。知っていたら、あの場であの男を殺していたさ!」
「では、誰が程子聞を殺したのだ?」
「わたしじゃない。あなた方が、『風狗』と呼ぶやつだ」
「なに?」
孔明が柳眉をきつくしかめたのを見て、花安英は、力みを抜いて、顔をあきれさせる。
「なんだ、あなたはわたしを『風狗』だと思っていたのですか」
「ちがうのか? 娼妓を殺したのも?」
「それ以上言ったら、この部屋から一生出しませんよ、軍師。わたしは手ごたえのある者しか斬らない。でなけりゃ腕が鈍る。娼妓なんて殺すものですか。そんな暇があったなら、まっすぐ曹操の首を取りにいったでしょうよ」
「ふむ」

孔明は、憤りをふくめて答える花安英の言葉に、嘘がないことを感じ取っていた。
花安英の言葉には、優秀な武人たちに共通する、誇り高さ、真摯さがある。

「程子聞の遺体は、判別がつかないほどバラバラに刻まれていた。その理由はわかるか?」
花安英は、痛ましいほどにつよく目を瞑って、深く息を吐く。
程子聞の無残な姿が、脳裏から離れないにちがいない。
「見せしめのためですよ。わたしを『壷中』に繋ぎとめるための。さっきも言ったけれど、弟の一人がああいう形で曹操から送り返されてきて、わたしも程子聞を理解できるようになっていた。
もうすこし時間があったら、以前のようにはいかなくても、仲たがいを詫びるくらいはできたかもしれないのに」
花安英は、その長いまつげを伏せて、悲しげにつぶやく。
その悼みは本物だ。
とすると、花安英は『風狗』ではない。
では、だれが『風狗』なのだ? 
この奇妙な祭壇にささげられた供物を用意したのはだれなのだ?

「軍師、ひとつ聞かせて欲しいのですけれど」
「なんだね」
「あなたが劉公子に、蔡瑁と母のことを告げなかったのは、それはなぜですか?」
「単純なことだよ。そんな話を利用して、うまく樊城を劉公子に継がせることができたとして、めでたいのは一時だけ。曹操はかならずやってくる。劉公子では、曹操に対峙することもできまい。
樊城だけを見れば、樊城を継げないということは不幸に見えるが、全国から見れば、この時期に樊城を継がねばならぬというのは、貧乏くじもよいところだ。その貧乏くじをわざわざ欲しいという連中がいるのだから、くれてやればよい。
つまり、この状況では、君の母上の恥を、世間に公表する必要が、どこにもないのだよ。
男が女にしてはならぬことのひとつは、女の名誉を傷つけるような風聞を、流してはいけないことだぞ。それに、劉公子には、もっとよい働き場所がある」
「詭弁でしょう。よい死に場所が、と正直におっしゃればよいのに。あの方は、いつまでもつのです」
容赦ない物言いに戸惑いつつ、孔明は正直に答えた。
「わたしは医者ではないから正確なところは判らぬ。だが、あの顔色からゆけば、そう長くはなかろうな」
「そうですか。わかりました」
と、花安英は、長い睫毛に縁どられた大きな瞳を閉じた。

花安英が、劉琦をどう思っているのかわからないが、この少年も、程子聞ほどではないにしろ、劉琦を慕っているのだろうか。
さて、と花安英は、手にしていた小刀を懐にしまい、黒染めの衣に着替えて、気分を入れ替えるように、腕をまわす。
「どこへいくのだ」
孔明が怪訝そうにすると、花安英は眉をひそめた。
「決まっているでしょう。話は何も変わっておりませぬよ、軍師。母を殺しに行くのです」
「待て。もうすこし話をしよう。だまって見過ごすわけにはいかぬ!」
花安英をとめるべく、孔明は地下室の入り口に立ったが、花安英のほうは、まるで動じず、むしろ孔明の頬に、ふたたび、ぴたりと刃を押しつけてきた。
冷たい感触が頬から全身に伝わっていく。
「あなたのお許しはいりません。わたしはわたしの仕事を片づけに行く。それだけです。
それとも、どうしても止めたいというのであれば、わたしと一緒についていらっしゃい」
そう言って、花安英は秀麗な白い顔に、残酷な笑みをうかべてみせた。





「小僧、いまなんと言った?」

牛がうなるような低い声で、黄忠は言った。
齢三十を過ぎて、小僧呼ばわりされるのも新鮮なものだな、と妙なところで感心しつつ、趙雲は答えた。

「俺は弓が苦手なのだ」

黄忠は、人目がつかぬように木々を紐でしばりつけて作った茂みのなかで、腕を組み、きびしい顔をしたまま言った。
あまりの渋い空気に、藪蚊も近づくことはない。
「たしかおまえは、亮さまの主騎を拝命していたはず」
「そのとおりだ」
「それで、弓が苦手だと申すのか」
「そうだ」
「たわけ者め!」
びりびりと周囲の空気を怒号がかけぬける。
ぎょっとして趙雲は、老将の口をふさいだ。
「たわけはアンタだろう! 見つかったらどうする!」
「やかましい! この見かけ倒しのバカゾウめ! 武人のくせして、弓が苦手なのだ、で通るか! ええい、ちょっとそこでこれを構えてみろ!」
黄忠は、自分の荷物から、年代者の弓を取り出した。
過度の装飾はなにもなく、握りの部分は塗装が禿げているが、掴んだだけで、手に吸い付くようにぴったりとなじむ。
これは相当に腕のよい職人が作ったもの、そして、相当の名人によって使い込まれたものだ、と直感でわかる。

黄忠と趙雲は、樊城のすぐそばの林にいた。茂みから上を望むと、城壁にいる兵士たちの往来が見えるほど側に来ている。
大胆にも、まさかこれほどまで近づいて身をひそめているとは思わないだろうという計算からであった。
趙雲は、自分も大胆な男だと思っているが、老将は、はるかにそれを上回っている。年季によるものか、本来の性格によるものか、それはわからない。
ともかく、黄忠がふたたび咆哮をあげないうちに、趙雲はしぶしぶだが、弓をかまえてみせた。
黄忠は、顎の山羊のように真っ白な髯をさすりながら、ふむ、とつぶやく。
「構えはわるくない。ふん、ちゃんと上手いヤツにおそわったことがわかるわい。その構えができるならば、腕も悪くないはずだぞ。なぜ苦手などという」
「構えはできているだろうさ。だが、矢を放つ瞬間に手がぶれる」
「迷いがあるからだ」
まさにそのとおり。
たったひと言で両断されて、思わず趙雲は笑みをもらす。
すると、黄忠は怪訝そうに片方の眉を上げた。
「気になる笑い方をするものだな。なんじゃ、言ってみろ」

趙雲は、促されるまま、素直に、播天流との過去のいきさつを語った。
黄忠という老人には、厳しさもあるが、懐の深さもあり、ふしぎと対峙しているうちに、素直な気持ちになってしまう。
趙雲は内気な性質なので、相手がどんなひととなりかをじっくり観察してからでないと、なかなか心を開くことができないのであるが、黄忠に対しては、なんの警戒心もわかなかった。
孔明の身内である、という意識が、どこかにあるからなのかもしれない。
黄忠は、言葉をなにもはさまずに、ふむふむと、じっくり趙雲の話を聞いていた。
そうして話が終わると、ふん、と鼻息をつよくした。
闇の中、黄忠のきびしくも、どこか温かい眼差しが、真正面に据えられる。

「おまえも、頭に馬鹿がつく真面目な男だな」

言葉はきついものの、表情からは、責めていることが感じられない。
趙雲が返答に戸惑っていると、黄忠は、胡坐に腕組んだまま、趙雲をまっすぐに見あげる。
「播天流という男、弓が苦手ではなかったか?」
趙雲は、しばし質問の意味が飲み込めなかった。
てっきり、敵への攻撃についての話になるだろうと想像していたからだ。
ぽかんとしていると、忍耐づよく、黄忠は聞いてくる。
「どうじゃ?」
「そういえば、そうであったかもしれぬ。播天流が弓を使っているところを、調練では見たことがあるが、実戦では見たことがない」
黄忠は、わが意を得た、とばかりに肩を揺らす。
「おまえも亮さまも若い。そして真面目に過ぎる。そう肩肘はらずに柔らかく、単純に考えるのだ。
人殺しが巧すぎる、などと、ずいぶんな、けなし言葉ではないか。おまえのような性格の若造には、さぞかし効き目があったであろう。
敵に対する態度云々、なんていうのは詭弁じゃよ。おまえが戦場で笑っていたなんていうのも作り話。嘘じゃ。
そいつは、おまえが素直な男だと言うのをよく知っていたので、いちばん嫌がる言葉をつかって、意地悪をしたのだ」
「いじわる?」
「左様。そいつは、おまえに嫉妬をしていただけじゃ。おまえの武芸の才能の伸びがあまりに素晴らしいので、ここで釘を刺さねば自分をあっさり追い越してしまうだろうということが、恐ろしくなったのじゃ」
「なぜだ。俺がたとえ、播天流を追い越したところで、俺は播天流から離れはしなかったのに」
「おまえはそう思っていてもだ、相手にはそうは思えなかったのであろう。それほどにおまえの上達ぶりがめざましかったのと、その男が勘違いをしていることが原因じゃな」
「勘違い?」
「そいつの頭の中での子供を育てるということは、いつまでも手元に置いて、愛玩犬のように可愛がっておくことなのじゃ。
だが、本当はそうではない。子供を鳥のように天下に向けて羽ばたかせること。そこに喜びを見出すべきものなのじゃ。
播天流は、子供を育てることをよろこんでいたのではない。
子供という、自分よりまちがいなく弱い者に対して、絶対者でいられることが心地よかっただけなのであろう」
「子供たちの上にだけ、君主でいられるということが、楽しかったと?」
「そのとおり。そういう卑屈な、いばりたがりの言葉を、おまえは十五年以上も、くよくよと気にしていたことになるな。
どうじゃ、馬鹿馬鹿しくなったであろう?」
黄忠の言葉は、あきれるほどに、わかりやすいものであった。気が抜けてくる。

「まったくだ」

十五年以上も。言いくるめられて、呪縛されて、そんな相手を助けて、また恨まれて。そうして、自分勝手な怨みだか、嫉妬だかのために、命に替えても守らねばならなかった大切なものを人質にとられているのだ。

「くそっ!」
趙雲は、腹立ちまぎれに思い切り、地面を蹴った。どん、と鈍い音がして、茂みに眠っていたであろう鳥が、ばたばたと騒ぎ立つ。
黄忠は、それでも動じず、
「頭がすっきりしたか」
と、平然とたずねてきた。
「ああ」
趙雲は大きく息をついた。
つめたい夜気を肺に吸い込む。
いまの地鳴りで、衛兵に気づかれたかもしれない。
それでも構わない。
いまなら、たとえ百の騎兵があらわれても、負ける気がしない。

「真正面から乗り込むのも悪くないが、おまえの性格をそれほどまで見抜いている男ならば、それなりの罠をしかけて待ち受けていると考えてよい。
播天流はおまえが、弓をつかえないであろうと思いこんでいるのだ。そこを突く。
まず、それがしが正面から兵士を引き付ける。
おまえは、物陰から、城壁にいる弓兵を片付けよ。この高さならば十分に届くはずだ。播天流は、正面からやってきたほうが、おまえであろうと勘違いをして、攻撃をそれがしに集中させるはず。隙をみて、おまえは城内に潜りこめ」
「理にかなっているように聞こえるがな、じいさん、樊城の兵士の集中攻撃をうけて、あんたが耐えられるとは思えないのだが」
「それがしの心配をするよりも、自分の弓の腕を心配するがいい、若造。もしも弓が一射もあたらぬようなことになれば、我らはともに命を落とすことになろうぞ」
「とはいえ、あんたを囮にして、首尾よく軍師を助けることができたとしても、そこであんたが名誉の戦死、ということにでもなっていたら、やはり軍師は俺を許さぬであろう」
趙雲が言うと、黄忠は、寂しげな笑みを浮かべて、首を横に振った。
「それがしは、ここで死ぬ運命でも恨まぬし、亮さまとて、それがしが犯した七年前の罪を知れば、おまえを恨みはしないであろう。
だから、それがしのことは気にせず、おまえは亮さまをお助けすることだけ考えるがよい」
「罪? なんだ、それは?」
「生きて新野に戻ることがあらば、斐仁に聞くがよい。それがしの命は、ほんとうは玄さまとともに費えていたのかもしれぬ」
そういうと、黄忠は、ゆっくり胡坐をとき、立ち上がった。

「さあ、戦場へ参るとしようか」






風狗を捕らえる。

その一念で、新野へやってきた朱季南は、新野の街を徹底的に調べつくし、その地理も頭に叩き込んでいた。
だが、子供の手を引いて休みなく走る嫦娥の背中を追いかけ、夜の街を走駆しているあいだに、自分がどこにいるのか、わからなくなってきた。
逆に、この女がこれほどに新野の街の地理に精通していることが気味悪くさえある。

陳到が追いかけてくることはなく、振り返っても、だれもいないし、足音もしない。
阿片で身体を痛めつけられていた朱季南には、走り続けることがつらくなってきた。
息がつづかなくなり、足をゆるめたところで、それに気づいたのか、前方の嫦娥の足も止まる。そうして振り返った嫦娥の息はほとんど切れていない。
この女、化け者じみている。

「つくづく阿片を止めたくなったのではないか」
「聞かれるまでもない」
いったいなにがおかしいのか、小憎らしい餓鬼が、朱季南の様子を見て笑う。
一方の嫦娥は目を細めて、闇に目を凝らした。
「追いかけてこないようだな」
こみ上げる吐き気をこらえつつ、朱季南は尋ねた。
「楼閣へ戻らねばならん。ここはどのあたりだ?」
「今宵は戻らぬ」
そう言うと、嫦娥はくるりと朱季南に背を向けた。
そうして、闇のなか、まるで昼間のように道が開けているかのごとく早足で、街を歩いていく。
すぐそばで、野犬の気配を闇の塊に感じ、朱季南は立ち上がった。武器を持っていたとしても、野犬をあなどってはならない。群を為した場合のかれらの戦闘能力は人間を上回る。
「では、どこへ行く」
朱季南の声が、寝静まった新野の街にひびきわたる。
しかし嫦娥は振り向きもせず、足早に先へ先へと進む。
「黙ってついてくればいい。妙なところには向かわぬから安心しろ」
「あんた、本当に何者だ? ただの医者とはとても思えぬ。もしや、俺とおなじ、曹公の?」
「たわけめが。もしそうであれば、曹操の役人であるおまえに、最初からそうだと打ち明けておる」
「たわけは余計だ。ならば、何者なのだ?」
「朱季南、人の破滅のたいがいは、好奇心が原因だ。先人とおなじ轍を踏むか?」
「そういう言い回しはよせ。単に、得体の知れぬ者と組むのが恐ろしいだけだ」
「わたしは何者でもないよ。残念ながらな。ただ、私が動くのは、子は親を選べないという、ただそれだけの理由だ」
「わけがわからぬ」
「わからなくてよい。さあ、そこだ」
と、嫦娥は、手を引く子供にはやさしく言って、町外れの空き家とおぼしき家の扉を指した。
荒れ果てた外観を持つ家であるが、窓にぼんやりと明かりが差している。仲間がいるらしい。
曹公の手の者ではないとするなら、江東ではなかろうな、と朱季南は考えたが、しかし、そうだとすると、なぜ自分を助けたのかがわからない。
細く長い首を持つ嫦娥は、鶴を思わせる影をつくって空き家へ入っていった。
朱季南もそれにつづく。

空き家のなかには、どこぞの下働きらしい女が、ひとり、明かりを灯して待っていた。
卓と椅子と衝立のほか、水がめと雑貨の入った箱しかない簡素な部屋である。そのどれにも色らしい色がなく、余計に寒々しい印象をかもし出していた。
「今宵は、そちらに動きはなかったかね」
嫦娥がたずねると、豊かな髪を、壷をひっくり返したような形にして、珊瑚のついた簪をつけた女は、こくりとうなずいた。
「あいかわらず、あちらの先生がご不在なので、城の中は忙しそうでしたけれど、それ以外はとりたてて目立ったことはありませんでした」
「連中が城に忍び込んでいる気配はあるか?」
「おそらくは、ない、と。あちらの先生が樊城に発たれてから、関将軍がいつにもまして城の警備を固めてらっしゃいますので、いかに『壷中』とはいえども、忍び込むのはむずかしいかと」
「ならばいい。奴らのことだ。トチ狂って、劉備の首をもって曹操に降伏しよう、などと考えかねないからな。つづけて城の監視を頼む」
「承知いたしました」
女は深々と頭を下げる。
二人のやりとりを、ぽかんとして聞いていた朱季南であるが、明かりに浮かぶ女の袖の薄い布地から、はっきりと両腕に、ひどい火傷のあとがあるのに気がついた。それが顔に出たのだろう。女は己の手首を隠すようにした。
「すまぬ」
思わず朱季南の口から謝罪が出る。
すると、女はぎこちない笑みを浮かべてみせた。目立たないが、顔立ちの愛らしい女であった。
「かまいません。慣れておりますから」
「さきほどの会話からすると、おまえは、新野城に入っている、この女の草のようであるが」
問われて、女は逆におどろいたようであった。
戸惑った表情を浮かべて、嫦娥を見る。嫦娥が朱季南に、代わりに答えた。
「この人には、新野にいる『壷中』の動きを見張ってもらっているのだ」
嫦娥のことばに、朱季南はますます首をかしげた。
曹操の間者ではないことはわかった。
劉備を守っているようにも聞こえるが、だとしたら陳到たちに協力せずに、逃げてきた理由がわからない。
「さきほど、この小僧を連れ去ろうとしていた男女が『壷中』なのであろう? そいつらは、子供を集めて、刺客に育てている組織の末端だと」
「そうだ。『壷中』は劉表と荊州の豪族どもが、自分たちの身を守るためだけに、難民の子を狩り出してつくりあげた組織なのだ。最近では、あまりにきびしい訓練のために子供の数が減ってしまい、人攫いの真似をして子供を集めているのだ」
「胸くそのわるい話だな。だが、あんたが、その組織の邪魔をしているのはなぜだ?」
「さっきの理由さ。子は親を選べない。わたしなぞは、はるかに恵まれているから、グチにもならぬが、この人は、連中によって攫われて、さんざん利用されつくされた挙句に、最後は火あぶりにされて殺されるところだった」
「なんだと?」
「この火傷は、まだ全身にありますの」
女は袖をあげて、腕にひろがる火傷の無残な火ぶくれの痕を見せた。
「たわいのない理由でしたわ。仲間のひとりと恋仲になったのが原因。『壷中』では、恋愛沙汰などご法度なのです。隠し通してきたのですけれど、仲間に密告されて、それで捕まって、火にくべられたのです」
まるで薪をくべた、というくらいに淡々と語る女の話に、朱季南は慄然とした。
「隠し村には崖があって、そこでは死んだ仲間たちを燃やすための台があるのです。そこで火をつけられたのですけれど、わたしは苦しんで、もがいて、火達磨のまま、崖から落ちたのです。でも運がよいことに、途中の木にひっかかって、そこを女老師が助けてくださったのです」
「それは、よいことをしたな」
思わず朱季南が言うと、嫦娥は自嘲気味に鼻を鳴らした。
「それとて、償いの一端にすぎぬ。我らの行為はあまりに罪深い」
「おまえも、『壷中』だったのか?」
「いいや」
嫦娥は、悲しそうに首を振った。
「いまもって『壷中』なのだ」






律儀についてくる孔明を振り返り、花安英は鼻を鳴らして笑った。
「あんた、本当に目立つね。はっきりいって、隠密なんて無理だな」
花安英の言うとおりだ。動きやすい黒地の装束に着替えた花安英とは対照的に、孔明の衣裳は昼と変わらぬ淡い色の長袍。闇夜には目立つことこの上ない。
といっても、そもそもが、品よく目立つのが目的で、着ていたものだ。
「そう言ってわたしをおびえさせて引き返させ、ひとりで母親を殺しに行く魂胆ならばムダだ」
「どうぞご勝手に。あんたがついてこようとこなかろうと、こちらのやることはひとつだ」

周囲の気配に機敏に目をくばりつつ、孔明は悠々と前をあるく花安英の背中を追いかけていく。
城内は、あきれるほどに人の気配が薄い。自分が逃げたことは、播天流に伝わっているはずである。
花安英の地下の隠し部屋から、一歩、足を踏み出した時点で、孔明は、はげしく後悔したが、花安英が振り返りもせず、どんどん行ってしまうので、迷っていられなかった。
なんと気に食わない状況なのだろう。この自分が、すべて後手にまわっている。
音も立てずに前をゆく花安英のうしろで、わずかな一歩を踏み出すのも細心の注意を払わねばならない孔明は、自分の沓のつま先が床を踏むたびに生じる足音に、いちいちひやひやする。
そうして周囲に目を配るのであるが、いまのところだれにも気づかれてはいない。

しかし妙だ。衛兵が少なすぎる。

ふと気づくと、小癪なことに、花安英が柱にもたれて、孔明の様子を笑って見ていた。
「いまのあんたの姿を新野の連中が見たら、手を打って大喜びするだろうね」
「なんと情けないと、泣くだろうよ」
「衛兵がすくないと、あやしんでいるね」
「君の罠だとは思っていない」
孔明が答えると、花安英は、わずかに意外そうな顔をしたが、すぐに嘲笑にもどって、言った。
「播天流という男は、ひとつのことに集中して当たる癖があるのさ。いま、その集中は、あんたじゃなく、趙子龍に向かっている。だから、かれが来るであろう門の前に兵士をあつめて、かれがやってくるのをじっと待っているのさ」
「子龍は新野へ戻った」
「おそらく、あんたより播天流のほうが、趙雲という男をよく知っているよ。なにせ十年以上もひたすら見つめてきたのだからね。播天流が真正面から来ると読んでいるのだ。かならず来るだろう。それに」
ひらりと飛び上がって欄干に立った花安英が、たくさんの篝火のおかげで昼のように明るくなった城門の上にある、奇妙なものを指差した。

最初それは、細い支柱にぼろぼろの天蓋がかろうじてぶら下がっているように見えた。
だが、じっと目を凝らした孔明は、思わずちいさくうめき声をもらした。
長袍をまとった、細身の男が、その四肢を串刺しにされて、天幕のように磔にされているのだ。
絶命していることは、遠目からもあきらかだ。
そして、それがだれに似せているのか、ということも。

「死んだか。気の毒に。悪い男じゃなかったけれど、あれもちょっと勘違いしていたからね」
「勘違い?」
声が震える。
「播天流は、自己主張のつよい人間や、頭のよすぎる人間、要領のよすぎる人間が大嫌いなのですよ。つまり、張り切りたがる男は疎ましがられるってわけ。だけど、あいつはちょっと鈍感でね。
でもそれにしたって、趙雲をおびき寄せる餌になって死ぬなんて、わたしは嫌だなぁ」
と、花安英は欄干から廊下に降りてきながら、声を立てて笑う。
まるで、子供がトンボを捕まえて、ばらばらにしてよろこんでいるときのような、残酷な邪気のない笑みであった。
孔明は、己の身代わりとなって死んだ男から目を離すと、振り向きざま、思い切り花安英の頬を張り倒した。
頬を打つ、ぱん、という音があたりに響く。
不意のことであったためか、花安英は避けることもせず、まともに横っ面を殴られて、廊下に倒れた。
「人の死が、それほどに楽しいか!」
廊下に倒れた花安英が、孔明を唖然とした表情で見上げている。
そのことも腹立たしい。
この少年は、命の重さがわからない。
播天流の価値観をそのまま押し付けられて育てられた。
仲間の無残な死を目の当たりにして、どうして笑うことができるのだろう。
「おまえの仲間が殺されたのだぞ! なのに、なぜ笑う!」
「怒れというのですか。無駄なことなのに」
「無駄?」
孔明に殴られた頬をさすりつつ、花安英は身を起こす。
「そう。怒りや悲しみを見せた時点で、わたしもかれと同じ身の上になるでしょう。だからせめて笑ってやるのです」
「それがおまえたちの弔いだというのか」
花安英は、それには答えず、無言のまま、そしてまったく表情を消して、じっと孔明を見据えた。
鋭い、しかし真摯な眼差しであった。
なにを考えている? こちらのなにを探っている?
少年のこころをつかみかね、孔明が戸惑っていると、不意に花安英に表情が戻ってきた。
肩の力を抜いて、自嘲気味に笑う。
「軍師、たぶんあんたの怒りは正しいのでしょうね。だから、頬を打ったことは気にしないで差し上げます。ただし、次はこちらも怒りますよ」
「そうしたら、わたしはいまの倍は怒る」
「意外に子供っぽいのですね」
いいざま、花安英はつまらなさそうに背をむけて、言った。
「涙をお拭きなさい。鬱陶しい。大の男の涙なんて、ちっともきれいじゃない。あんたに泣いてもらっても、あの男は喜びやしませんよ」
花安英に言われて、孔明は自分が泣いていたことに初めて気がついた。
袖で涙をぬぐうと、乾いた涙で頬がつっぱって痛かった。

泣いたあとというのは、むしろ涙を流した以前よりも、大胆になれるというのは不思議である。
もはや孔明は足音を気にせず、ひたひたと先を進む花安英の後にずんずんとついていった。
あまりに傍若無人なその歩みに、今度は花安英が迷惑そうに振り返る。
「軍師、状況がわかってらっしゃいますか?」
「わかっているとも。君は母親を殺しに向かい、わたしはそれを止めようとしている」
「そもそも樊城に戻ってきたのは、それが主旨ではないでしょうに。やれやれ、こちらも口を滑らせる相手をまちがえたかな」
花安英がぼやく。
さきほどからちらちらと後ろを振り返る花安英の横顔には、笑みらしきものが浮かんでいる。
「間違いでよいではないか。数年後には、その間違いに感謝するようになるかもしれぬぞ」
「いま手を下さねば、後悔します」
「そうだろうか。よく考えてみたまえ。母上とて気の毒な女性ではないか。意に添わぬ結婚を強いられ、つづいて攫われて、さらに親子ほど年の離れた男と結婚させられた。女人として、不幸きわまりない人生を歩んできた。
君たちにしたことは、たしかに許されるべきではないが、君とてその年で、世間もさまざまに見て来ただろう。すこしは、母上に同情する気は起きないのかね?」
「うるさいですよ、軍師。あなたの舌を引っこ抜いてやるのだった」
「脅してもだめだ。ひとつ宣言しておこう。わたしは『壷中』の君たちを解放してやるために戻ってきた。だが、最初にする仕事は、君を更生させることだ!」
「ご自分がなにを口走っているのか、わかってらっしゃらないようですね」
「しっかり把握しているとも。思いつきで言っているのではないぞ。いまここで君を見捨てたら、君はたとえ本懐を遂げたとしても、しまいには泥屑のように死ぬだろう。
おなじ死ぬのなら、せめて最後に自分が『生きた』と満足できるように死ぬのだ。どうだ、いま死んだとして、満足して死ねると思うか」
「莫迦なことを」
足早になった花安英のあとを、孔明も早足になって追いかける。
もはや意地になっていた。
「莫迦なことか。とても重要なことだぞ。人の手駒となるべく育てられ、言いなりになりつづけて、自分の情人すら救えず、そうして最後に自分の意思としてやることといえば、自分とおなじ境涯の母親を殺すことだけ。
これのいったいどこに満足ができる?」
「うるさい! 咽喉を切り裂かれたいか!」
とたん、のけぞるほどのすさまじい鬼の形相で、花安英が振り返った。
直言を吐いたことに、孔明は後悔しなかった。
いままで虚偽のなかで生きてきた少年には、孔明の言葉は、効きすぎる薬のようであったにちがいない。
怒り、動揺しているのは、言葉が届いたからだ。
だから孔明は後悔しなかった。
短刀を持っていた手に力が入るのが見てとれる。
孔明は身を強ばらせたが、目をつぶることはしなかった。
じっと、花安英の奮う刃が、自分に向かうのを見ていた。
自分の死の瞬間を、しっかりと目におさめておくために。

涙 10へつづく
更新履歴へ戻る
本編MAPへ戻る
MAPへ戻る