09年改訂版
孤月的陣
第四章 ナミダ 涙
⑧
斐仁は馬を走らせながら、追いすがってくる者たちの気配を敏感に感じ取っていた。
さすが『壷中』というべきか。
新野に戻るであろう趙雲と孔明を先回りして捕らえようと、道中で待機していたにちがいない。
しかし、孔明は樊城に単身戻り、そして趙雲もまた、孔明を助けるために樊城へ戻った。
『壷中』としては読みが外れた、ということろであろう。
だが、斐仁が、彼らにとって危険な男だということに変わりはない。
黄忠をうまく言いくるめ、孔明や趙雲の不審をかわし、自由になったのは、なにもわざわざ趙雲の言いつけを忠実に守るためではない。
斐仁は考えた。
孔明の考えは当たっているだろう。
『壷中』は、曹操の南下をきっかけに、播天流側と、劉表側に分裂している。
播天流は、劉表以外の勢力と通じている。
播天流が、今の時期に子供たちをふたたび狩り集めているのは、村を移るためだ。それには資金が必要だろう。
しかし、播天流の翻意を、いまだ劉表は知らない。
劉表が財源でないとするならば、播天流に出資している者がいるはずだ。
蜀か、あるいは江東か。
曹操ではない。相手が曹操であったならば、播天流は劉表の首をさっさと取って、献上しているはずだから。
播天流が、劉表に、表面上は忠誠を誓い続けているのはなぜか。
劉表には、生きてもらわねば困るからではないのか。
曹操と対するに、時間を稼ぎたい勢力が裏にいる。
曹操が劉表、そして劉備と対決して、そちらに集中する時間が長ければ長いほど助かる勢力。
となれば、それはひとつ。江東の孫氏だ。
劉表は、もはや老いて判断力が鈍っているうえに、病を得ているという。
播天流が、まさか目の前にいるというのに、裏切っている、などということは考えもしないのだろう。
播天流は、それをうまく利用して着々と移住の準備を進めているのだ。
劉表に気づかれたらまずい、という理由から、播天流は斐仁にも手を出さなかった。孔明を殺すこともなかった。
だが、樊城を斐仁が出た時点で、遠慮するものはなにもなくなった。
連中は容赦なく襲ってくる。
危険を冒してでも、斐仁は殺された一族のため、戦いたかった。
嫉妬、などという、限りなく利己的な理由のために、おのれの一族を殺害した播天流が許せない。
かならず殺してやる。その思惑を崩してやる。
闇に目を凝らしつつ、斐仁はさらに馬を走らせた。
※ ※
孔明が逃げたというので、静寂に包まれていた城内は一転、あちこちで騒ぎが起こっていた。
劉表の部屋についていた衛士たちがみな殺されていたということで、さらに騒ぎが深まる。
すでに、趙雲らが城内に入り込んでいるのではないか。連中は城の外に逃げてしまったのではないか。
「子龍ではない」
衛士たちの血に塗れた死体を見るなり、播天流は言った。
残酷な切り口であった。横たわる兵士たちの全員が、見事に急所を外して倒されているのである。
そしてわざと、多くの血を吹き出させるように、狙って斬っている。
趙雲ならば、こんな回りくどいことはせずに、襲ってくる敵を一撃で仕留めただろう。
倒す敵の苦悶を見て喜ぶ男ではない。倒した敵の数を並べて、快楽を得る男だ。
これは子龍の手口ではない。
「播天流さま、もしや」
先ほど城壁にて、花安英の消息を伝えに来た若者が、おそるおそる口を開く。
「この鮮やかな切り口は、あやつでは?」
そのようなこと、いちいち指摘されなくてもわかっていた。
殺しを楽しむこの手口、武器を持つ兵士を相手に、異様なまでのその余裕。
やつだ。
播天流は、面倒な、と思うと同時に、ずいぶん腕が上がったなと、場違いな感想を抱いていた。
目の前に折り重なるようにして血の海に倒れ伏している兵卒たちへは、なんの感慨も沸かない。
かれらも駒だ。大義のまえに費やされる、物を言う駒。
問題は、なぜやつが、ということだ。
諸葛亮を助けたとしか思えないのだが、なぜ?
「播天流さま」
先ほど、花安英のことを知らせに来た若者がふたたび前に進み出た。
「どうぞ、それがしになんなりとお申し付けくださいませ。
この始末、それがしがつけてみせます。花安英に劣らぬ働きを見せましょう」
播天流は、その青年のことをすっかり忘れていたのだが、目の前で拱手するその姿を見て、よい考えが浮かんだ。
「おまえ、身の丈はどれほどになる?」
「八尺になります」
播天流は、立つようにと、手ぶりで命じた。
若者は怪訝そうな顔をしつつ、立ち上がってみせる。
「まこと、役に立つ、と申すか」
「もちろんでございます」
意気込む若者に、播天流は、無表情のまま、そうか、と答えると、腰に差していた剣を抜き放った。
若者の笑顔は、訳がわからず、笑みを浮かべたまま、篝火の光をはじく白刃を見る。
播天流は、なんのためらいもなく、若者を切り捨てた。
鮮やかな切り口からは、鮮血がほとばしり、すでに乾き、変色をはじめている廊下に憐れに横たわる兵卒たちの血に混ざっていった。
一瞬のことである。
その場にいた者はすべて唖然とし、声を立てる人間すらいない。
「こやつの身体を磔にし、城壁にさらせ」
冷静に血糊を拭いて、剣を鞘にしまいつつ、播天流は、沈黙をつづける兵卒たちに下知した。
足元に横たわる青年の死に顔は、強ばった笑みをいまだ湛えている。
「もちろん、諸葛亮に似せる工作を忘れるなよ」
言いつつ、ふたたび、城壁のほうへと足を向ける。
孔明の身体が磔にされているとわかったならば、あの男のことだ、真正面からやってくる。
待っているだけでいい。
あいつは、弓で攻撃してくることはない。
兵卒たちは、馬鹿正直に刀と槍で刃向かってくる男を射がける。
そして捕らえるのだ。
今度こそ、決着をつけてやろう。
※
ほこりの匂いと、汗の匂いがそこはかとなくする部屋である。
地下の小部屋だ。
本来ならば、貯蔵庫として使われているものであろう。
天井は低く、積まれた石がむき出しになっている。辛うじて壁の途中に、装飾らしいものが施されているのは、どこであろうと美しく清らかに、という樊城の表向きの意向を受けてのことだろうか。
奥行きのない長方形の部屋には、本来の部屋の主人である貯蔵甕と、中央には背の低い長方形の卓や椅子がある。
小箪笥もあれば、鏡台もある。調度品の趣味はばらばらで、余った家具をてきとうに見繕って運んできたのだろう。
孔明の腿の高さまである大きな甕が壁伝いに並べられており、中を見ると、果実酢や酒であった。
「ここに案内した方には、もれなく一杯ずつ差し上げているのです。どれかお好きなものをどうぞ」
花安英がおどけた仕草で杯を差し出す。
花安英は、血に汚れた衣を片肌で脱いで、乱雑に血をぬぐっていた。当然、その青白い肌は晒したままになる。
通常、漢族のあいだでは、人に肌を晒すという行為は、おおいに恥とされる。
花安英がなにも感じていないように振る舞っていることと、そのことに慣れていることに、孔明はおおいに眉をひそめた。
花安英自身にではない。花安英をそのように躾けた大人たちに向かって。
「早く服を着たまえ」
そう言うと、孔明は薄暗がりを見回す。
紙燭の明かりに浮かび上がるそこには、花安英の私物が無造作に並べられていた。
血のついた衣は処分されずに、丸めたまま積まれており、それを隠すために大きな布がかぶせられているだけ。
経書などがあるかと思えば、その横には、血のついた錆びた小刀が整然とならぶ。
うつくしい色彩を施された蝋燭の下には、祭壇にささげる供物のように、女物の装飾品が並べられている。
装飾品は紙の上に置かれており、その下には、孔明の見たことのない文字と、漢字をさまざまに組み合わせて出来上がったような、気味の悪い角の生えた神の絵があった。
装飾品はどれもきれいに手入れをされていて、あまり高価なものではないが、単品で見る限り、異常なところはない。
しかし、その横に当然のように並べられている干からびたものを見たとき、孔明は慄然とした。
血のついた衣や血のついた武器をみても平然としていられたが、それはだめであった。孔明は激しい嘔吐におそわれた。
もはや常識では理解できない、深くおぞましい闇が、ぽつんとそこに突然あった。
これがなんなのか、聞くべきか。それとも気づかぬフリをするべきか。
聞いたらダメだ、と本能が告げてくる。
たとえ平静を装ったとしても、いまの自分がそのことに触れれば、声が尖る。
詰問調になる。
いま、自分は囚われ人なのだ。
虎の檻にいるのと同じ。
慎重にならなくては。
言い聞かせながらも、孔明は、その悪夢のような祭壇から目を離せないでいた。
「ああ、それ? 触らないでください。供物だから」
花安英の声が、背後からかかる。びくりと背筋が震える。
これほどまでに緊張したことは、かつてない。
相手は一回りも年下の少年だ。
背丈もじぶんの顎あたりまでしかないちいさな少年。
なのに、恐怖していた。
じっとりと汗が背中に浮かぶ。
声が震えないように、動揺をさとられないように、あえて背を向けたまま孔明は声に応える。
「だれのだね」
「だれ、って、誰に対して、ってこと? それとも、その供物の元の持ち主ってこと?」
「両方だ」
「私の故郷に、兵主神を祀っている部族がいたんです。ご存知でしょう? 黄帝と戦って、負けた神」
「知っている、わたしの一族も、この神を祀る」
「なら話は早いや。最後は捕らえられて、身体をバラバラにされたそうだけれど、でも魂はひとつなのですって。
そういう神ならば、千切れた人間の身体も、ふたたび元に戻すことができるかなって思ったのですよ。だけど、あまり効き目がないようだから、自分で神さまを作ってみたのです」
「だれを元に戻そうとしているのかね」
「それを喋ったら、願が消えてしまうから、言わない。そういうものなのでしょう?」
「見たところ、ここにあるのは、女性の身体の一部のようだが」
動揺など、この聡い少年にはとっくの昔に気づかれているにちがいない。
怯えていることもそうだ。
完全に相手に呑まれている。
そうして、状況を把握し、楽しんでいるのは相手なのだ。諸葛孔明ではない。
うつくしい色彩の蝋燭の下に、奇妙な神の絵図、女物の装飾品。
そうして、その横にきちんと並べられているのは、防腐処置のしっかりほどこされた、切り取られた子宮と乳房であった。
本物なのか?
誘惑に駆られるようにして、それに手を伸ばした孔明であるが、途中で動きを止めた。
首筋に、ぴたりと冷たいものが押し当てられたのがわかった。
いつのまにか、花安英が背後にいた。
咽喉元に刃を平然と突きつけ、その薄い胸板を、孔明の背中に押し付けるようにして、耳元でささやく。
「触ってはいけません。それに触ることができるのは、神だけです」
「本物なのか」
刃物をぴたりと首筋にあてたまま、花安英は声を殺して笑った。
「あなた、本当に人がいいな。ここまで来て、まだ私がマトモじゃないかと信じようとしている。触らないで、よくそれを御覧なさい。それが作り物に見えますか?」
首を横に振ることができない。孔明はくぐもった声で、
「いいや」
となんとか応えた。
「あなたは、さっき、かれらに啖呵を切っていらしたでしょう? 救う手段がある、と。どんな手段なのか、助けてあげたお礼に、教えてくださいませんか」
「単純な話だよ。彼らを一介の兵卒としてあつかうのだ」
「本当に単純ですね」
花安英の鈴のような笑い声がする。
劉表の部屋にいた少年たちとおなじ笑い声だ。
そういう笑い方すら、訓練させられて身につけたものなのだろう。
暗い思いにとらわれていると、ぐい、とさらに冷たい刃が肌に押し当てられる。
「怒りますよ」
「もっともよい手段だ。かれらをふつうの生活に返すといって、すぐに世間に放り出して、うまくいくと思うか?
いったいどれだけの時間を『壷中』で過ごしてきたと思う。彼らは全身に毒を含めさせられた綿のようなものだ。
元の生活に戻るには、毒をすべて抜き出すことが必要になる。一部の者はすぐに順応できるかもしれないが、できない者のほうが多いはずだ。もちろん、君も含めて。ちがうか?」
「そうかもしれません」
「それに現状を見るといい。明日にでも曹操来襲の狼煙があがってもおかしくない状況だぞ。戦いは避けられぬ。この状況でただ解放されただけならば、かれらは状況に流されて、また『壷中』とおなじ境遇に戻ってしまうかもしれない。
だが、わたしの軍に入るのならば、そのような目に遭わせないよう、保護することができる。事情を知っているからこそ、わたしが諸葛玄の甥だからこそ、できる保護だ。君たちの身につけた技術は、けっして使わせない。約束しよう」
「詭弁のようにも聞こえるけれど」
すっ、と刃が首筋を流れる気配がある。
斬られた。
孔明は身を固くしたが、そうではない。
肩から、さらさらと、切られた後れ毛の束が落ちる。
「播天流よりマシだから、許してさしあげます。あなたにならば、弟たちを託してもいい」
「弟たち?」
振り返ると、薄い刃を闇の中でひらひらと、羽虫のように泳がせて輝かせている花安英の、嫣然とした笑みがあった。
「そう。『壷中』の子供は互いに全員が兄弟姉妹なのです。表立って言うと、播天流が嫌がるので、お互いにひっそりそう呼び合っているのですよ。
あなたも大体のところは読めているのでしょう? 『壷中』はいま、樊城側と、播天流側に分裂をしている。
そもそものきっかけは、あなたが劉表の部屋で見た、白髪の者です。
あの子は、だれより優秀な子だった。うまく成長すれば、私以上になったでしょう。もしかしたら、あなたの趙子龍を上回ったかもしれない」
「あの者は、まだ少年なのか?」
「曹操の動きを探るために送られたけれど、そこで正体がばれた。助けることもできただろうに、劉表はなんの指示も出さず、あの子を見殺しにしたのです。
あの子が曹操に捕らわれたあと、どんな目に遭ったのかはわかりません。しかし送り返されてきたとき、あの子は完全に抜け殻になっていた。
命だけを救って、送り返してきたのは、見せしめのためですよ。曹操は、噂にたがわぬ冷酷な男。どんな底辺の者にも容赦がない。
別人になって帰ってきたあの子を見たときに、わたしたちは理解したのです。
もはや、誰も我々を助けてくれはしない。劉表も播天流も、われらを使い捨てにするだけだ、と。
わたしたちだってバカじゃない。むしろ、劉表や播天流や、下手をするとあなたよりも世の中の動きに詳しい。荊州がどのような状況にあるのか、理解しています。
劉表はわたしたちに言った。曹操がやってきたら、総員でこれにあたり、玉砕せよ、と。
そんな命令がありますか。戦術なんてものは欠片もない。あなたも見たとおり、あの男は病んでいる。自分の世界に閉じこもって、人をなぶることしか考えていない化け物なのです。
播天流も播天流で、劉表を見限るのはよいけれど、自分たちだけがうまく荊州から脱出できるように、わたしたちを目くらましにしようとしている。
さんざん、劉表へ恩返しをせよとわたしたちに言い聞かせてきた男が、ふざけているとは思いませんか。
しかも、前の主人である公孫瓚を殺したなんて、いままでひと言もわたしたちには言わなかった。
それどころか、亡国の主を最後まで守ったのが自分だと、嘯いていたのですよ。汚い嘘で固められた狂人。それが播天流なのです」
花安英は憎憎しげに吐き捨てたが、紙燭の明かりに浮かび上がるその美しい双眸は、意外なほどに理智的であった。
狂った少年のそれではない。
趙雲の話からすれば、この美少年の行動は支離滅裂な印象しか与えなかったが、こうして対峙してみると、仲間たちを救おうと必死になっているように見えてくる。華奢な外見に似合わず、侠気があるようだ。
とはいえ、趙雲が嘘をついているとか、誇張をしているわけではなく、奇妙な振る舞いをしているのも、まちがいなく花安英という少年なのだ。
そうして、この地下の部屋で奇妙な祭壇をつくって、『だれか』を復活させようとしている少年も。
「君はわたしを嫌っていたはずだが、なぜ、いまになってわたしを助けてくれるのだね?」
「思い上がらないでください。あなたを頼りたくなんかないんだ。
ただ、あなたは劉州牧に、播天流が叛乱を起こしていることを伝えなかった。もし伝えていたなら、劉州牧は、弟たちをすぐに殺していたでしょう。
あなたはちゃんとそれを見越して、拷問にかけられる寸前でも、保身のためにそのことを口にしようとはしなかった。だからです。
それに、程子聞が、もしも自分たちだけでは、どうにもならなくなったら、あなたを頼れと、そう言っていたから」
「子聞が。そうか。わかった。わたしを信じてくれたぶん、等価を与えよう。特に君には、命を救われたわけだからな」
そう言うと、花安英は、皮肉げに唇をゆがめる。
「だからといって、あなたと馴れ合いになるつもりはない。わたしの頼みは、別なところにある。聞いてくださるでしょうね?」
「モノにもよるな」
答えつつ、孔明は、相手の目をじっと見る。
奇妙な思いに囚われた。
この少年が、もし叔父という存在がなければ、こうなっていたかもしれないという自分自身に見えたのだ。
それまで、孔明は、花安英という少年が苦手であった。
孔明がひそかに気にしている短所、男らしさの不足した、華奢すぎる容貌を、この少年が武器にしているのを見るのが、いやだった。
自分も開き直って武器にしているが、傍から見れば、こんなふうかと客観視させるところがいやであった。
意固地なところが、変に似ているのもいやだった。
だが、その背景に至るまで似ているのに気づけば、同情ともちがう、なにか連帯感のようなものが生じた。
兄が、弟に寄せる気持ちのようなものだ。
この少年を修羅の世界から救い出してやりたい。
そう思って、何気なく、背後にある小棚に手をかける。
そうして、はからずも、祭壇に飾られていた供物に手が触れてしまった。
ぞおっと、臓腑を凍らせるような悪寒が全身をつらぬいた。身震いをするのを懸命にこらえる。
孔明は、自分の悪い癖を思い出した。
情に流されすぎてはならない。
この少年は、『壷中』の犠牲者というだけではない。常軌を逸した、殺人狂でもあるのだ。
こいつが『風狗』なのだ。
朱季南が追っている、許都で数名の娼妓を殺し、また、斐仁についていったあわれな娼妓をも殺した殺人鬼。
ここに飾られている干からびた肉体は、殺された女たちの体から、盗み取ったものにちがいない。
娼妓を殺すことなどが、『壷中』の命令であったとは思えない。
この少年の腕からすれば、鄴に出向いて将軍職にある男さえ狙えたはずだ。
なのに、か弱い女たちに手をかけた。
なんのためか。
それはわからない。わかることは、『風狗』が、人を殺すという行為自体を楽しんでいる、ということだ。
理解しがたいことではあるが、それはまちがいない。
はからずも、孔明はその光景を、劉表の部屋の前で見た。その結果救われたのだから、皮肉なものである。
そうして胸のうちで悪態をつく。
播天流め、よくも子龍に、人を殺めるのが巧すぎる、などと言えたものだ。
おまえが育てた子は、人を殺めるのが巧すぎて、とうとう楽しみだしたのだ。
子龍のときは眉をひそめて突き放したくせに、花安英は刺客であるから、それでよいと野放しにしたのか。
理解しがたい矛盾のカタマリ。
播天流にとって、この世には二種類の人間しか存在しないのだ。
自分の役に立つか、立たないか。それだけ。
子龍は逆らったから、役に立たない人間として憎まれた。
殺された公孫瓚も、同様だったのだろう。
その気質は、花安英にゆがめられて押し付けられている。
残酷な気性ゆえ、情人であったはずの程子聞さえ、残忍に殺害したのだ。
孔明は、おのれの気を落ち着かせるために、軽く息をついた。
いまにも地下につづく扉が開いて、だれかが助けにきてくれないだろうかという、甘い幻想を抱いたが、当然、扉を叩くものはない。
どころか、地上では、消えた自分を捜して、樊城の兵卒たちが、右往左往していることだろう。
「先に聞くぞ。頼みを聞いて、それで君の宿願が果たされたあと、君はどうなる?」
「おや、わたしの願いがわかっているとでも?」
揶揄するように、顎をつんとそらして花安英が聞いてくる。
陳到に問い合わせていた件は、当然のことながらまだ返答がない。時間が不足すぎた。
だが賭けだ。ここで止めなければ、この少年は、錨のはずれた船のようになって、闇の海にあてどもなく飲み込まれてしまうだろう。
樊城の門前での反応からすれば、推測は当たっているはずだ。
そうして、さきほどの花安英の言葉からたぐれば、なぜ『蔡瑁と蔡夫人の密会』を、趙雲に見せたのかも理解できる。
孔明は、つとめて平然と言った。
「わたしには、君の仇を殺す手伝いはできない」
孔明の言葉に、花安英は、意味の読み取りにくい、自嘲の笑みを浮かべた。
「そういうと思った。まあ、構いませんよ。最初から、あなたの助力なんて当てにしちゃいなかったのだし。ただ、ちょっとくらいは協力してくださってもよいでしょう」
おや、と孔明は思った。樊城に戻ってきたときに門の前でかわした、孔明の意味ありげな言葉を、花安英は、孔明の都合のいいように拡大解釈してくれているようである。
つまり、孔明が花安英の『仇』を知っている、と思っている様子なのだ。
孔明が次の手を考えていると、花安英のほうが先に口を開いた。
「程子聞から聞いたのですけれど、あなたもわたしと同じなのですって? だから、はっきりと断らずに、協力くらいなら、と思って、迷ってらっしゃるのですか?」
同じ?
その言葉にますます孔明は戸惑う。『仇』と表現できる相手ならば、それはおそらく蔡瑁にちがいないと思っていたのだが。
程子聞が、自分の特徴について、花安英に話してやりそうなのは、どこだ?
叔父のことか。妻のことか。舅のことか。弟のことか。それとも徐庶?
叔父の殺害を指示したのは劉表だ。
弟のことを話したことはあるが、ちゃんと元気で、問題はない。
徐庶は曹操のもとへ行ってしまったが、その件についての仇を決めるならば、これはやはり、曹操だろう。
となると、蔡瑁に関わりがあるのは、妻か舅だが、黄家と孔明の関係が、婚姻という形で結びついてもなお、良好でなかったことは周知の事実だ。
だいたい、黄家は、『壷中』側の人間ではないか。
ほかにはだれがいる?
主公や子龍ではない。
程子聞が二人のことを話題にすることは、まずなかっただろう。
新野の人間は除外される。
答えあぐねている孔明を、花安英はおもしろそうに見ている。
いやな笑みを浮かべるものだ。
さきほどは同情に流されかけたが、この笑みを見れば、それも思いとどまる。
挑発しているのか。
それほどに、花安英に協力する、ということは、世の倫理に反することだというのか。
世の倫理にもっとも反すること。それはなんだ?
花安英のやってきたことはなんだ?
娼妓殺し、情人殺し、それから?
ふと、孔明は、おのれの背後にある不気味な祭壇を振りかえり、それから花安英を見た。
程子聞を殺したのには、ちゃんと理由がある。
殺害方法は異常きわまりないが、程子聞は敵であった。
劉表の部屋を守っていた衛士にしても、同様。
娼妓たちも敵だったのではないか。花安英の目から見た、敵。
はからずも、趙雲が言っていたではないか。
切り刻まれた体からは、激情が感じられた、と。
男に媚を売り、身体を売る、女という存在。
彼女たちから切り取った、女を象徴する肉体の欠片。
そこからなにを復活させようとしているのか。
乳房。子宮。どちらも子を育むもの。
母親。
まさか? いや、始めから二者択一だ。
片方がちがうのであれば、もう一方だ。
孔明は、けしておそるおそる、というふうにならないように気をつけながら、花安英に尋ねた。
「母親を殺して、そして君の心は晴れるのか」
花安英の目が、見開らかれる。
安堵すると同時に、孔明はふたたび花安英に同情を深めた。
蔡瑁ではない。花安英の仇とは、蔡夫人だ。
自分にも母がいた。本当の母親は、すぐに死んでしまって、顔もわからない。
もう一人の母親は、徐州から脱出するおり、弟の養育や家人への采配を投げ捨てて、兄と一緒に、一足先に江東へ逃げた。
血は繋がっていなかったし、共に暮らしていたときから、半端な愛情すらかけてもらっていなかったし、母親代わりの姉がずっとそばにいてくれたから、無視するだけで気が済んでいたが、もしもこれが実母だったら、どれほど憎しみの対象になっていただろうか。
血が繋がっていなかろうと、もしも姉や叔父といった、自分に十分な愛情をかけてくれる存在がいなかったならば、どれだけ憎しみに囚われた人間になっていたことだろう。
母親。
あらゆる人間にとって、これ以上強い存在はない。
「心が晴れるか、ですって?」
しばしの間を置いてから、花安英は口を開いた。
「あなただって、母親に捨てられたことがあるのだから、判るでしょう? 子供を捨てた母親は、死ななければならない。捨てられた子供には、母親を殺す権利がある!」
「聞いたことのない論理だな。ならばわたしも鎌でも持って、江東の義母を殺しに行かねばならぬわけか」
花安英は、かつてないほど大きく口をゆがめて、鼻を鳴らす。
「混ぜっ返してうやむやにしようなんて考えてもムダですよ。これはずうっと考えてきたことなんだ。
母は、豪族の妾腹の娘だった。この乱世のおかげで家門が傾き、借金のカタに取られるようにして、十四で義陽の家に嫁いできた。そうして生まれたのがわたしです。
ところがね、あるとき蔡瑁が、狩の途中にわが家に寄った。そこで応対した母に目をつけて、無理やり攫って行ったのです。自分の妹として、劉表に差し出すためにね」
「ならば、君の母上に、咎はないではないか」
「最初はね、わたしも同情しましたよ。母を樊城から救ってやるのだと、ずっとそう思っていました。
わたしは程子聞やほかの子供とはちがって、自分から『壷中』に入ったのです。樊城に入るには、いちばんの近道だと教えられたから。
わたしの父は、すぐに再婚して、母のことを忘れて、わたしに見向きもしなくなった。わたしには、あなたの叔父さんのように、守ってくれる大人がそばにいなかった。『壷中』がどんな場所か、どんなことをしなければならないのか、なにもわからなかったけれど、母親に会いたい一心だったんだ。
でもどんなつらいことでも、母に会うためだと思えば、我慢ができた。そうして、我慢に我慢をかさねて、やっと樊城に入ることができた。わたしは母に会いに行きました」
と、ここで花安英は言葉を切る。