09年改訂版
孤月的陣
第四章 ナミダ 涙
⑦
「拝跪せよ、諸葛亮!」
頭のてっぺんから出しているような甲高い声をたてて、劉琮は叫んだ。
こめかみにぴりぴりくる。
昼間、中庭で文官たちとあどけなく遊んでいた少年とは、まるで別人である。いま、その少女のような面差しには、残忍な表情が浮かんでいる。
この少年と、兄である劉琦は、容姿もまるで似ていない。
「拝跪せよ、と申したのだ! それともそれが新野の作法なのか! 山猿の軍師め 」
劉備を持ち出されたことに、孔明は一瞬、怒りで我を忘れかけたが、あわてて自制して、おのれを抑えた。
平静を保って、敢然と劉琮を見つめる。
劉琮は、何度かおなじ命令を孔明にしたが、孔明がまるで動こうとしないので、地団駄を踏み、無言の父親を振り返る。
「父上、言うことを聞きませぬ!」
劉表は、もういい、というふうに何度か肯くと、座ったまま、劉琮に手を伸ばす。
劉琮はそれに答えるようにして、甘えるような仕草をして父親に抱きついた。
劉表の手は、あたりまえのように劉琮の腰を抱き、その花の茎のように細く頼りなさげな体を絡めとる。
ざわり、と孔明の背筋が粟立った。
さきほどから、耐え難い悪臭に耐えていたのだが、この光景を見たあとはなおさら、吐き気をこらえるのが辛かった。
尋常な親子関係ではない。
孔明は、劉表を見る眼差しを、いっそう強くした。
病のせいで狂ったか。
息子を宦官のように扱うなど。
「近う」
劉琮を片腕に抱いたまま、手招きするように空いた手を伸ばし、劉表は言った 。
劉表が言葉を発するや、それまで、柱や白蝶貝の飾り物と同様に、静かで、気配すら感じさせなかった少年たちが、劉表の言葉を無視しようとしている孔明に呼応するように、その纏う空気を一変させた。
ぴりりと肌を刺すような敵意。
見た目に惑わされてはならない。過度の同情も禁物だ。
かれらもまた、『壷中』の者 、激しい訓練を積んだ兵士なのだ。
背中に、見えない刃を突きたてられたような感覚をおぼえ、それに押されるように、孔明は歩を進めた。
一歩、さらに一歩。
「もっと」
手短に劉表は言う。
まるで屠殺場に引き立てられた牛だな、とおのれの様子を笑って、なんとか思考をまぜっかえして正気を保たせつつ、孔明は、ゆっくりと劉表に近づいていった。
これが、かつては、英雄のひとりとまで目されていた男なのか。
『壷中』のこと、叔父のことを抜かして考えてみても、やはりこの無残な姿には、憤りすらおぼえる。
堪えがたいほどの吐き気が襲ってきたとき、劉表はさらに言った。
「似ておるな」
「父上、だれに?」
甘えた、少女のような甲高い声をだして、劉琮は父に尋ねる。
「諸葛玄という、愚か者だ。孔明よ、お前がいままで生きておられたのは、その面差しが、玄のヤツめに似ていなかったからだ。
だが、儂は考えを変えたぞ。
おまえのその傲慢な目は、おのれの主張が正しいと信じて譲らなかった、あの無礼者にそっくりだ」
劉表の膝の上で、足を無邪気に伸ばしてぶらぶらと揺らせている劉琮は、父の咽喉を撫でるような仕草をしながらたずねる。
「とっとと殺してしまえばよかったのに、なんでいままで生かしておいたの?」
「やつめ、殺されることがわかっていたのよ。甥に手をだしたなら、即座に『壷中』のことを、曹操に仕えている親族にばらす手筈を整えている、と言いおった。
当時、儂は江東の孫氏と荊南で争っている最中であったので、曹操に『壷中』のことがばれれば面倒になると思い、手をだせなかったのだ」
孔明は、ふと疑問を抱いた。
曹操とて、あれほどの大きな権力を短期間で手に入れたからには、『壷中』に匹敵する、後ろ暗い仕事を引き受けるなんらかの集団を持っているはずである。
なのに、なぜ劉表は『壷中』は、奇妙に曹操に『壷中』の存在が知れることを気にするのだろうか。
斐仁が新野で守っていた秘密と、なにか関わりがあるのだろうか。
「ふうん、それじゃあ、こいつ、殺せないの?」
ぞっとするほど無邪気に、劉琮は尋ねる。
聡明そうな少年公子は、昼間とは打って変わって、父親である男に、まるで娼妓のように媚を売る。
実際の年よりも、幼く見える容姿をしているのだが、なぜだか兄の劉琦よりも、その双眸は色あせて、かつての程子聞のように、生き飽いているように見えた。
「ただ殺すだけではいかん。玄徳を怒らせるのは得策ではあるまい」
「でも、仲間になりそうにもないよ」
劉琮の言葉に、劉表は、痙攣の止まらぬ手で、不器用に子の体を撫でさすりつつ、言った。
「仲間にならざるを得なくしてしまえばよい」
「でもこいつ、金で買えそうにないよ」
「金でも買えぬ。脅しも効かぬ。ならば、芯から屈服させてしまえばよいだけのこと」
はっ、と気づいたときには遅かった。
孔明の背後に、先ほどの少年たちが二人立っており、逃げようとした孔明の腕をあっというまに後ろにひねり上げる。
そうして、乱暴に劉表の前に突き出した。
玉座に腰かけた劉表の手が伸びてきて、枯れた震える手が、顎を掴む。
そうして、まるで花でも愛でているような、人を人とも思わぬ無神経な目線を投げて、語る。
「もっと若ければのう。成長しすぎじゃ、楽しむ気になれぬ。勿体無いのう、諸葛玄が斯様に脅しをしなければ、お前も『壷中』の一人として、存分にしつけてやれたのに。
まあよいわ。馴らす方法はいくらでもある」
劉表は、そう言って孔明の顔をのぞきこみ、黄色い歯をむき出して、笑った。
醜悪な顔をまっすぐ睨みつけ、後ろ手に両腕をねじられた姿勢のまま、孔明は決め付ける。
「おまえは、いったいどれだけの人間に、こんな真似をしてきたのだ」
温かな感触が、ひとすじ、頬を伝って流れていく。
孔明の双眸から、涙がひとすじ流れ出た。
これからおのれの身に起こることを、嘆いたからではない。
恐怖のためでも、屈辱のためでもない。
おのれを、最悪のかたちで篭絡せんとするその性根が、人を人とも思わず、軽々と命をはかる、その浅薄さが、震えがくるほど許せなかった。
十年前、叔父もこうして怒りを爆発させたのだ。
まさかこうなるとは思っていなかったとはいえ、子供たちの残酷な運命を決める手伝いをしてしまったことに、責任を感じていたにちがいない。
孤立無援でも、その果てに死が待っているとわかっていても、過去のあやまちを償うために、声をあげずにはいられなかったのだ。
叔父が果たせなかったことは、甥である自分が果たす。
自分は、諸葛玄の甥であり、ほんの一時期だけでも、真の息子であったのだから。
「泣いているのか。もっと泣きわめいて跪けば、すこしは許してやってもよい」
「犬畜生にも劣る、汚らわしい恥知らずめ! おまえはこうして我が叔父を殺し、子供たちに酷い傷を与えたのだな!」
「その犬畜生に守られて、お前は十年間、平和を謳歌できたのだ。
ほかの英雄と呼ばれるものたちが、領民の男たちに武器を取らせて多くの死を生み出しているあいだ、儂は少数の子供を鍛え、わずかな手勢で敵を陥弄し、排除し、平和を築き上げてきた。
『壷中』がなければ、荊州にはもっと多くの血が流されていたであろう」
「詭弁だ! 間諜や刺客の効用を貴様と論議するつもりはない。
貴様は戦を理由に、さも天命を与えるが如く平然と、無辜の民から子を、親を奪った。それのどこに大義がある? 正義がどこにあるというのだ!」
「なんとくだらぬ甘い言葉か。
もし儂が『壷中』のことを民に伝えたとしても、民は、それが自分たちのためになっているのであればと、同情はするであろうが、怒ることもなく、それを受け入れるであろう」
「ならば、なぜいままでそうしなかった。『壷中』を隠すために必死になっていたのはなぜだ?
貴様は、自分のことばに嘘があることを知っているのだ。
表面では清流の振りをして仁君を気取りながら、裏ではその荊州の守り手である『壷中』を欲望のはけ口にし汚し続けた。
まさにその身に沁み込んだ毒が、貴様の下劣さを証ししているようなもの。
すでにそのこと事態が、貴様の穢れた舌の吐き出す言葉を否定しているのだ!
わたしは貴様に与えられた平和を、なにより恥に思うぞ!」
孔明の言葉に、劉表の顔が蝋のように白くなった。
「お前は、決して殺させぬ」
低くうなるような声で、劉表は言った。
「自害も許さぬ。狂うことも許さぬ。ありとあらゆる方法で引きむしり、人が近づくたびに、怯えて泣き叫ぶ宦官にしてくれよう。それから玄徳に送り返してやる。
恥をしみこませた己が身を新野で晒し、とっくりと、いまの言葉を、儂に向けたことを後悔するがよい」
孔明はそのことばにむしろ、笑顔を見せた。
「やってみるがいい。わたしは龍に喩えられた男だぞ。只人である貴様如きに、わたしを潰せるはずがない」
「強がりを」
「貴様は叔父を殺した。そうしていまは、わたしの心を殺そうとしている。
だが、貴様が如何にわたしを殺そうとしても、わたしの心は、貴様になど手の届かぬ高みにある。
いいや、わたしだけではない、どんな人間の心も、貴様は得ることもできなければ、殺すこともできない。
貴様が他者の命や心の尊さを嘲いつづけるかぎり、貴様は永遠に生き地獄に生きるのだ!」
「黙れ!それほど望むのであれば、いますぐ辱めを与えてくれようぞ! おまえたち、この男の両の目をえぐってしまえ!」
少年たちはその言葉を受けて、無言のまま、孔明を引き立てて、部屋の中央へ引きずり出そうとする。
孔明は、おのれの腕を掴む少年たちに叫んだ。
「君たちは、己の身の上に疑問を感じないのか? なぜ、こんな下劣な男の言うがままになっているのだ!
家族を奪われ自由を奪われ、誇りすら奪われて死ぬことが、君たちの望みではあるまい!」
しかし返答はない。
少年たちにとっては、劉表の命令は『作業』なのだ。
ひどく事務的に、淡々と孔明を引きずろうとする。
そこにはなんの熱もなく、だからこそ、少年たちの心の底辺に絶望を感じ取り、孔明はさらに憤る。
「なにが君たちを沈黙させているのだ? 恐怖か? それとも絶望なのか?
外の世界のことを教えてやろう! 中原の曹操が、荊州を奪うべく明日にでも軍を進めてくるかもしれぬ。
なのに見たまえ、この男は州牧という地位にありながら、もはや自ら立ち上がることもできず、君らに守られるばかりなのだ。
こんな男にもはやなにも力なんぞない! 君らが怯える必要など、もうなにもないのだ!
もはや誰からも救いがないと思っているのならば、それはあやまりだ。
わたしが君たちを救おう! わたしはそのために戻ってきたのだ。
もしも君たちがわずかな希望をまだ胸に残しているのならば、わたしの言葉に返事をするがいい。わたしはかならず君たちに答えよう!」
これから、拷問を受けるとわかっている男のことばではない。
怯えが微塵も感じられない、堂々とした態度に、劉表の言葉どおり、引きむしろうとしていた少年たちも、うろたえているのが判る。
孔明の口を塞ごうと、手が伸ばされてくるが、孔明はそれを振り切り、なお叫ぶ。
「わたしには、この男にはない技術を持っている。それは生き残るための技術だ。こんな男の命令に唯々諾々と従って、死ぬことはない。わたしを信じろ!」
その様子を、なにが可笑しいのか、劉琮は足をばたばたさせて笑い転げて見ており 、劉表は、耳を貸すな、早くしてしまえ、と苛立って叫ぶ。
それを上回る大音声で、孔明は叫んだ。
「わたしは絶望などしない、絶対にしない! もしもわたしが絶望する時が来るとすれば、それはこの世が終わる時だ!」
たん
再び、単調に弦が弾かれる。
場違いに大きく響いた音に仰天し、一斉にみながそちらのほうを向いた。
それまで、単調に、おなじ弦ばかり爪弾いていた白髪の者は、不意に両手を琴に乗せると、虚空を見つめた無表情のまま、複雑にその指を動かして、見事な旋律を奏ではじめた。
孔明を捕らえていた少年たちの手が止まり、ゆるんだ。
その隙を逃す孔明ではない。
孔明は、おのれを掴む手を、思い切り天井に振りあげるようにして、少年たちの手から逃れ、琴を鳴らす者に眼を奪われている少年を突き飛ばし、つづいていちばんそばにいた少年の髪から、簪をもぎ取ると、それを武器にして、追ってくる少年たちに切りつけ、たじろがせ、そのすきに、帆の浪へと突っ込んでいった。
白蝶貝の飾り物が、いっせいにからからと音を立てて揺れる。
孔明が、風にあおられて揺れる帆のひとつをくぐると、ちょうどそれめがけて、手刀が投げられたのがわかった。
「出口を塞げ! この部屋から出すな!」
劉表の命令が重々しくひびく。
孔明は、後ろを気にしつつ、部屋の入り口に、取りすがるようにしてたどり着いた
。
しかし、開けようとしても、びくともしない。
外側から錠がされているのだ。
すぐ後ろでたなびく帆のうえに、追ってくる少年たちの影が映りこんでいる。
「だれか! いるのだろう、開けてくれ!」
孔明が叫ぶと、意外なことに、返事がかえってきた。
「開けて差し上げてもよろしいですよ。しかし、こちらの頼みを聞いてくださるならば、ですが」
「出来うる限り聞く!」
「この期に及んで、上手な逃げ言葉ですね。絶対に聞いてやる、という返事は期待してはならないのですか?」
「頼みによるからだ。君は、大事なことを頼む相手が、ろくに用件も聞かずに承諾したら、かえって不安に思わないのか?」
すると、扉越しの向こうの人間は、まったく場に似合わないことに、朗らかに笑う。
「あんたに喋らせちゃいけない、っていうのは、本当だね。あんたなら、舌を引っこ抜かれても、まだ叫んでいそうだ」
「そんなこと」
どうでもいいから、早く開けてくれ、と言おうと息を吸い込むと、同時に扉がからりと横に開いた。
新鮮な夜気が、興奮した頭をほどよく鎮めてくれる。
孔明は深呼吸をし、それから肺に溜まった甘い香のかおりを吐き出すために、何度か咳をした。
扉の向こうには、だれもいなかった。
そんなはずはないのだ。
ここは樊城の主たる劉表の部屋だ、扉の前には衛士がかならず待機しているはずである。
それがだれもいない。
いや。
孔明は、だれもいない、というおのれの判断をすぐに撤回した。
いないのではない。いなくなったのだ。
その証拠に、自分の沓に向かって、赤黒い液体が、ゆるゆると流れて伸びてくる。
眼を遣ると、篝火が倒れて、火の消えた炭が、ぱちぱちとちいさな音を立てていた。
その隣に、絶命した兵卒たちが無残に転がっている。
どれもすさまじい切り傷を負っている。
鮮血を吹き出させるために、わざわざそういう、斬り方をしたとしか思えなかった。
兵卒たちの足元に、立っている人物が振り返る。
平素の文官の服を着て、鎧姿の兵卒たちに、よくこれだけの傷を負わせられたものである。
「さすがだな」
厭味でもなく、孔明は素直にそう言うと、その者は振り返り、にっ、と人懐っこい笑みを浮かべた。
その全身は、返り血を浴びて真紅に染まっていたが、不思議と美しさがあった。
命を救われたことで、孔明が贔屓にして見ているからではない。
単純に、強力な戦士に対する、畏怖の念から感じたことであった。
「こんばんは、軍師」
その者は、血にぬれた武器を片手に、平然と言ってのける。
花安英であった。
※
あの軍師は今頃、無残な体になって劉表の前に崩れ落ちているだろうなと想像し、播天流は腹の底からわくわくして、声を立てて笑った。
城壁の下には、ぽつぽつと明かりのともる、樊城の民家が、夜の帳のした、眠りを貪っている。
一方で城の中では、眼を覆わんばかりの拷問が、繰り広げられているにちがいない。
劉表という男の性質は、播天流はよくわかっていた。
聖人君子然としている部分はあくまで仮面にすぎない。本性はひどいものだ。あれほど残酷で身勝手な男もそうはおるまい。
あの男なら、目の前でどんなに凄惨な光景が繰り広げられようと、平然と、それどころか、笑ってみていられるだろう。
そういった甘さの無い人物の作る組織だからこそ、播天流も『壷中』に加わったのだ。
もう甘い人間には用は無かった。仕える主君に夢は抱かない。
掲げるものが、荊州を守るため、という崇高な理念である、ということも気持ちがよかった(そのために犠牲になる子供たちのことは勘定に入っていない)。
孔明は、劉表が、まさかそれほどに濃い闇を抱える人物だと思っていなかったようだが、やはりあれも甘い、というべきか。
いまごろは、人形のように四肢をもがれたか、あるいはいっそ殺してくれというくらいの屈辱にまみえているか。
想像しただけで、ぞくりと身が震える。
孔明の無残な姿を見たら、あの男はどんな顔をするだろう。
綺麗な男であった。
趙雲が、あたらしく劉備に招かれた軍師の主騎になったと聞いたとき、播天流はこっそり様子をうかがいに、新野まで足を伸ばしたことがある。
孔明に対する、樊城での評判はあまりよいものではなかったが、播天流の目からしても、なるほど、その美貌といい、雰囲気といい、『眠れる龍』の異名は伊達ではない、と思えたものだ。
同時に、おもしろくない。
趙雲が、優れた人物の主騎になるという幸運に恵まれたのが、おもしろくない。
播天流は、劉備の配下にいて、七年間も飼い殺しされている趙雲の身を、嘲っていた。
武将が体力的に、もっともその真価を発揮できる二十代の貴重な時間を、無為に過ごしているのだ。これほど焦れることもあるまい。
その心中を思うだけで、播天流は満足できた。
だから、手を出さないでいた。
播天流は、狂人らしい飛躍した妄想で、趙雲が絶望の日々を送っているだろうと勝手に決めていた。
趙雲の忍耐強さや、寡黙な中に秘める前向きさを見ていなかった。
孔明の主騎になったところで、つい最近まで腐っていた人間なのだから、いずれひどい失敗をして、主公からも見向きをされなくなるに決まっている。
孔明自身も、劉備の古参の武将とあまりうまくいっていない、という噂が聞こえてきた。
これはうまくいくはずがない、哀れな奴。
ところが、播天流の読みは、はずれた。
趙雲が主騎になったことで、古参武将と孔明のあいだに、かえって絆が生じた。
当初は、暮らし向きのことで頭がいっぱいな農民でさえ知っていた、新野の新米軍師をめぐる苦労話は、徐々に、苦労を乗り越えて仲間たちと絆をはぐくむ、義侠の男たちの美談へと変わっていった。
播天流はおおいに戸惑った。
なぜ失敗が聞こえてこないのか。
どんなに耳をすませても、趙雲への悪評はまったく聞こえてこない。
どころか、孔明の主騎ということで、以前よりも新野の中で重要な役割を担うようになった様子で、逆によい評判ばかりが聞こえてくる。
こんな馬鹿なことがあるはずがない。
そう思って、子供を『壷中』の村に連れて行く道中で、新野城に寄った。
趙雲の様子をこの目で確かめるためである。
しかし、そこで斐仁に会ってしまったのだ。
子供たちを集めているのは、劉表を裏切り、別の村を移るにあたり、人が足りないからだった。
とはいえ、斐仁は播天流たちの動きや思惑を知らない。直接に劉表に繋がっている男である。
これは始末してしまわねばならない、ということで、『風狗』に後始末を命令したのだが、趙雲があらわれたことで、しくじってしまった。
またも趙雲。趙雲、趙雲、趙雲!
いつだって重要なときにふと現われて、屈辱だけを残していく、最悪の男。
どうしても言うことを聞かない。どうしても思うままにならない。
あれほど眼をかけてやったのに、裏切って、嘘をついて、帰ってこなかった。
そんな卑怯者が幸運に恵まれて、どうして自分だけが利かない片腕を抱えて生きねばならない?
だが、そんな煩悶も、今夜で終わりだ。
守護すべき人物を守りきれなかった、ぶざまな主騎。
この夜が明ければ、ヤツにはそれ相応の評判が与えられる。
世間はあやつの正体にやっと気づくだろう。
騙されたと知って怒り、あやつを残酷な風聞でずたずたに引き裂くだろう。
もちろん、殺しはしない。
死ぬギリギリのところで救ってやり、苦しみの生涯を過ごさせてやる。
あの時ああすればよかった、こうすればよかったと、一生を後悔のままに過ごさせてやるのだ。
「天流さま、花安英の姿が見えませぬ」
兵卒のひとりが近づいてきた。
『壷中』で育てた兵卒のひとりであった。
見目良い若者で、気も利くので便利につかっていた。
ただ、『壷中』の人間らしからぬ性質を備えている。非常に出世欲がつよい。
趙雲と程子聞のことがあったので、播天流は、若いうちからあまりに前へ前へと進みたがる者を警戒するようになっていた。
「自室にはいなかったのか」
「おりません。城内をくまなく捜しましたが、影も形もございませぬ。逃げたのでは?」
「それはあるまい。もっとよく捜せ。この樊城には花安英の兄弟がいるのだぞ。それを見捨てて、出奔するはずが無いのだ」
若い兵卒は、承知いたしました、と答えたが、その顔にはありありと、そんな理由だけで花安英を信じてよいのか、という不服の表情が浮かんでいる。
播天流の最大の目の上のコブが趙雲ならば、花安英は頭痛の種であった。
幼少の頃は、なんでも大人しく従うよい子供であったのに、成長してきてからは、おのが技術を鼻にかけ、播天流にすら堂々と悪態をつくようになっていた。
しかもその性分は淫蕩きわまりなく、程子聞だけではなく、ほかにもいろいろな男を誑し込んでいるらしい。
だが、播天流がいままで育てた子供たちの中でも、図抜けた技術を持っているのはたしかだ。
だから、播天流は、花安英が少々、ハメをはずしたところでうるさく言わない。
束縛をなにより嫌う少年なので、口を挟むとヘソを曲げるからだ。
いなくなったのも、単なる気まぐれにすぎないのだろう。
そういうむらっ気さえなくなれば、あいつこそが、いままで見た子供の中で一番になれるというのに。
いまいましいことに、いまの時点での一番は趙雲である。
趙雲ほどに、すさまじいまでの才能と技術を持つ少年には、播天流はいままで出会っていない。
そうして、播天流は舌打ちする。
また趙雲。なにを考えても趙雲なのだ。
いっそこの世から抹殺してしまおうか。
ついでに、自分の記憶から趙子龍という男も消してしまえれば、どんなによいか。
「申し上げます!」
城壁の上で、闇を睨んで歯軋りをする播天流のもとへ、兵卒が飛び込んできた。
「諸葛亮が、逃げました!」
「なんだと! 州牧につけていた『壷中』の者は、なにをしておったのだ!」
播天流がきびしく決め付けると、兵卒は、平伏したまま、それが、と言葉を濁す。
「どうした」
「おりませぬ」
いない、つまり逃げた、ということか?
その言葉の意味を掴むのに、播天流はしばしの時間を要した。
『壷中』で徹底した訓練を受けた子供たちが、任務を放棄して逃げる、などということは考えられない。
劉表につけていた子供たちは、播天流が特に選び出した子供たちであり、揃って少女のような面差しをしているが、それぞれが腕の立つ刺客でもある。
人殺しの経験すらないであろう諸葛亮が、すべて倒したというわけでもなかろう。
「諸葛亮を追っているのではないのか」
報告をした兵卒は、はあ、と生返事をした。
その調子には、そうであったのならばよいのだが、というためらいが含まれている。
「劉州牧が追わせているのかもしれぬ。劉州牧はなんと?」
「痙攣の発作を起こされまして、口が利けませぬ。いま、劉琮さまと蔡夫人がご看病なさっております」
「樊城に連れてきた時点で、あやつの舌を、切り取ってしまえばよかったのだ」
ぼそり、と、播天流はつぶやく。
捕虜を得たならば、相手の武器はすべて奪うのは当然の処置。
兵士ならば武器を、論客ならば舌を切ってしまえばよい。
諸葛亮。どんな妖術を使ったかはわからぬが、うまく逃げ出したのだ。
播天流はきつく眉をしかめた。
竜髯が、風になぶられて泳ぐ。
深い闇に落ちる樊城の街を眼下におさめつつ、播天流は唸った。
またも思い通りにならない。
播天流は、劉表の気が済んだなら、孔明を引き取って、城壁に吊るしてやるつもりだった。
もちろん、生きたままである。
殺してしまえば、劉備のことだから、すぐさま手勢を引き連れて樊城へやってくる。
さすがの播天流も、理屈や策謀を突き抜けて、感情のみで動く義侠の集団と、まともにぶつかるつもりはなかった。
連中の相手をするのは、冷徹な計算と論理で鍛え上げられた軍団をもつ、曹操がするべきだ。
ともかく、孔明を城壁に晒せば、それを奪還しようと趙雲は必ずやって来る。そこを捕らえるつもりであった。
孔明を守りきれなかったという、不名誉と同等に、孔明とおなじ、あるいはもっと酷い目に遭わせて、生涯消えない傷を負わせてやるつもりであった。
またも切り札は消えた。
しかし、孔明はまだ樊城からは出ていないのだ。
樊城の出入り口は、すべて兵卒たちで固めてある。いくら智恵者でも、これを突破するのは容易ではない。
つづいて、べつの兵卒が、播天流のもとへと飛んでくる。
「申し上げます! 劉州牧のお部屋の衛士たちが、みな殺されておりました」
「なんだと? ばかな!」
播天流の咆哮にも似た声に、兵卒はおそれて縮こまる。
趙雲か? 趙雲がもう来たのか?
「案内せよ、直に確かめる」
そう言うと、播天流は劉表の部屋へと向かった。