09年改訂版

孤月的陣
第四章 ナミダ  涙

「なんなりと」
「それでもわたしは弱い男なのだ。こうしている間でも、以前の臆病なわたしに戻ってしまいそうで恐ろしい。そうならないように、わたしを助けてはくれないだろうか」
劉琦が言うと、たちまち機伯は、泣いてよいのやら笑ってよいのやらわからないといったふうに、顔をくしゃくしゃにした。感激しやすい男なのである。
「この機伯、いつでも公子のために命を投げ打ちましょうぞ」
ありがとう、と答えつつ、それもわずかな間になるだろうが、と劉琦は心のなかで付け足した。

劉琦は、おのれの命がそう長くもたないであろうことを知っていた。
病魔は確実に、日々、おのれの体を蝕んでいる。
さまざまな薬を程子聞が取り寄せて、煎じてくれたが、気休めにしかなっていないようだ。
劉琦は、伊籍が劉備の家臣になりたがっていることを知っていた。
おなじ思いを抱いている家臣が、ほかにもいることも知っていた。
わたしが死んだら、ようやくかれらを解放することができる。
病魔はわたしの命を削るけれど、そのかわり、かれらの人生が喜ばしいものになるのであれば、それはよいことなのだろう。
悲しみはなく、清清しい思いで、心からそう思っていた。

「おや」
伊籍が人の気配に気づき、振り返る。
伊籍が気にする方向へ、劉琦も眼を向けると、庭を挟んで向かい側の棟の廊下に、ものものしい姿でのしのしと歩く蔡瑁と、その後ろで、宦官や女官たちに四方を囲まれるようにして、孔明がつづいているのが見えた。
「軍師はお帰りになられたのか」
一行に近づこうとする劉琦であるが、伊籍はそれを押しとどめる、手近な人気のない部屋へと、劉琦を押し込めた。
「お静かに。様子がおかしゅうございます」
伊籍の緊張した声に、劉琦も言葉を発するのを止める。
一行は、だれひとり口をきくことなく、足音ばかりを響かせて通り過ぎていく。
行き先はおそらく、劉表の部屋である。
隙間からのぞくと、蔡瑁の固い横顔を見ることができた。うしろに続く孔明にいたっては、顔面蒼白でありながらも、眼だけがきつく光っている。
二人に従っている女官や宦官も、畏まっている様子ではあるが、ひどく緊張しているようであった。
さらにおかしなことに、一行の最後列には、花安英の従者がとことこと付いて歩いている。
例の、程子聞の遺体を最初に見つけた、片腕のわるい男だ。
しかし、その主人の花安英の姿はない。
あきらかに尋常ではない。

「おかしい。趙将軍はどちらに?」
小声で伊籍にたずねると、伊籍は強ばった顔を劉琦に向けた。
「公子、いますぐ夏口へ発ちましょう。ご準備くだされ!」
「待て。どういうことなのだ。まさか、軍師は蔡瑁たちに囚われたというのか。なんのために?」
「それは、わたくしが探ってまいります。新野から軍師に随行してきた従者たちの行方も気になりますゆえ。ただし、半刻が過ぎてもわたくしが戻らぬ場合は、わたしを捨てて、樊城を出発してくださいませ」
「貴方を置いて行けると思うのかね? 他の者も、貴方がいなければ、出発を渋る」
「問答をしている暇もございません。これは由々しき事態ですぞ、公子。蔡瑁は、かねてより、劉予州や軍師をよく思っておりませぬ。
隙あらばと、命すら狙っている男。そんな男に軍師が囚われたのですぞ。おそらくは」
伊籍の言わんとすることがわかり、劉琦はぞっと震えつつも言った。
「いかん、お助けねば。自らは命を長らえる策を授けられながら、恩人を目の前で見捨てたとあっては、この劉琦、死んでも死に切れぬ」
「趙子龍がいない理由を考えてくださいませ。もしかしたら、かれはすでにこの世の人ではないかもしれませぬ」
そこまで言って、伊籍は現実を振り払おう、とでもいうように、つよく頭を振った。
「なんということでしょう。これではいかに劉予州とて黙っているはずがない。
曹操が南下してくるというこの事態のさなかに、まさか州牧と劉予州との間に諍いが起ころうとは。荊州は、血の海になりますぞ」
「ならぬ。そのような事態を止めるためにも、せめて軍師だけでもお助けせねば」
部屋から飛び出そうとする劉琦を、伊籍は必死で留める。
「そのお心、伊籍がお預かりいたします。公子は早く城を出てくださいませ。あとはわたくしめにお任せを」
しかし、と渋る劉琦であるが、伊籍は重々しく言う。
「公子、わたくしを信じてくださいませ」
「策でもあるのか」
「それはいまから考えます」
心もとない返事に、劉琦が不安そうに眉をしかめると、伊籍はそれを振り払うように、手を大きく顔の前で横に振って見せた。
「いえ、火事場の馬鹿力という言葉もございます。その場その場でなんとかするのは、わたくしのもっとも得意とするところですぞ。
公子はまず樊城を出て、それから船に乗り換えてくださいませ」
「船の準備もしてあるのか」
おどろく劉琦に、伊籍はにんまりと笑って顔をよせると、かくかくしかじかとおのれの頭に閃いた策を劉琦に語りはじめた。





なにもかもが違って見える。
これまで、おのれの観察眼に自信を持っていた孔明であるが、いま、それが揺らぎつつあった。
夜風にからたちの花の、つよい香りが混ざっている。
ふと、つられるようにしてにおいの漂ってくるほうに眼をやると、歩みの遅くなった孔明に、四方を囲うようにしている女官たちが、いっせい振り返った。
その表情は一様に固く、心のうちをうかがい知ることができない。
孔明が口を開こうと唇をうごかすと、途端に彼女たちはふい、と顔をそむけてしまう。
「ムダだ」
と、孔明を取り囲む一行の最後尾にいる播天流が口をはさんだ。
尋ねるまでもなく、彼女らが『壷中』の人間であることは、自信にあふれた播天流の表情で知れた。
「おまえの言葉はなにも聞かない。そのように申し伝えてある」
「わたしを動揺させようというのならば、あまり効果は無いな」
孔明のことばを、播天流は鼻で笑う。
「それが、強がりでないことを祈るばかりであるな」
孔明が睨むようなそぶりを見せると、播天流は肩を揺らして、声を立てずに笑った。
「なにを考えているのかは知らぬが、おまえは甘い。虎の口に飛び込んだ兎がどうなるか、身を以て証明するのだな」

ぱちぱちと篝火の火の粉が燃える音と、兵卒たちが行きかうさいの、ふれあう甲冑の音。
さらさらと、流れるような音を絶えずさせている衣擦れ。
清かに聞こえる女官たちの髪飾りの銀の音。
ひどく神経が冴えている孔明には、それらの音がひとつひとつ、鋭敏に身に迫って聞き取ることができた。
この状況にあって、とりあえず自失の状態に陥っていないことについて、孔明はまず、自分を誉めた。冷静になるためには、とことんまでおのれを突き放し、客観的になる必要があった。
そうでなければふとした瞬間に、叔父の死のことに気持ちをさらわれてしまう。
怒り、悲しみ、悔しさ、そしてなにより、殺人者を目の前に置きながら、見過ごしていた自分への怒りに負ける。
その怒りは、燃え盛る炎のようにはげしいものではなかった。
ふつふとと、絶え間なくこみ上げてくるような、煮立った鍋の泡に煮た怒りが、いま孔明の腹の底にある。

昔、故郷を炎で荒らされたとき、こんな災禍を生み出した、曹操という男を、心から憎いと思った。
しかし曹操という男の存在が巨大なだけに、怒る自分も、純粋に怒りと悲しみにふけることが出来ていた。そしてその怒りと悲しみは、日々のなかで燃え尽きた。
だが、今回、身に刻まれた痛みは、生半可なことでは消えないだろう。
生ある限り、ふとした瞬間に思い出しては、煮えくり返るような怒りに身をよじる。そういうふうになるだろう。
世間ずれしていなかった青年は、この日、完全に消えた。
これを成長というのであれば、残酷な通過儀礼ではないか。
人を腹の底から憎むことを覚えること、世に救いがたいほど醜い心をもつ人間が存在することを知ることが、世を知ることだったというのか。
人間が、それほどまでに醜悪になれるなどと、信じたくなかった。
たとえどんな人間であろうと、かならず胸の奥底に、きらめくものが眠っていると、そう信じていたかった。
かつて叔父を亡くしたことで心が歪み、人を恐れ、その恐れを察知されたくないがために、一人で意地を張って暮らしていたころ、人というものの善き可能性を教えてくれたのが徐庶であった。
その徐庶が、身を以て示してくれた可能性を、否定したくなかった。
だが、孔明は、自分が重大なことを忘れていたことを、いまになって苦々しく思い出す。
すべてのものには陰と陽が存在する。

徐庶が、人を殺したおたずねもの、という前身を克服し、あらゆる努力で以て、光あるところへと努力したのと逆に、播天流のように、立派な前身を持ちながら、余人には理解しがたい嫉妬心に突き動かされ、周囲の人々をともに闇への道連れにせんとする人間もいる。

それまで、孔明の人生に、これほど黒い影を纏った人物は存在しなかった。
襄陽に暮らしていたころ、いや、新野にいるころでさえ、おのれがどれだけ縁に恵まれていたか、孔明は身に沁みて理解した。
新野の人間にしても、善き人ばかりである。腹の立つ思いをさせられたこともあったけれど、いまは大切な仲間であった。
おそらく、かれらもそう思っている。
わずかな時間に、これほどの絆を作れたのは、けしておのれの雅量が大きかったからではない。
孔明を理解しようとつとめ、その美質を見ようとしてくれた、かれらの度量が大きかったのである。
努力して心服させたのではない。かれらが努力をして、心服してくれたのだ。
孔明は、いつも隣にいる男を振り返り、
「わたしは思い上がっていたようだよ」
と伝えたかったが、もちろん、そこにいるのは播天流と、『壷中』の息のかかった者たちばかりであった。
ここには、いつものように孔明を無条件に信じ、庇ってくれる者はいなかった。

劉州牧の部屋まで来たとき、先頭にいた蔡瑁は、ぴたりと足を止めると、孔明を振り返った。

「貴殿とこのような再会になるとは残念だ」
蔡瑁のことばに、孔明はなにも返さなかった。
脂の乗った中年という印象のつよい男である。もともと人目をひく風貌であったのが、中年になってほどよく肉がつき、貫禄がついたのである。
つねに笑みをたたえる厚めの唇の横には、油で整えられた泥鰌髯がある。
彫りの深い顔立ちの、いかにも大将然とした男だ。
この人にならば、すべてを委ねても悪くはないと思わせる、懐の深さが蔡瑁にはあった。
長子である劉琦を差し置いて、次子の劉琮を後継にと推す人間が多いのは、劉琮を推しているのではななく、ほとんどが蔡瑁を推しているのである。

蔡瑁は、孔明にとっては妻の叔父にあたる人物だ。
劉備の軍師になる前に、黄承元によって引き合わされたことがある。そのとき、直接にではないが、遠まわしに、その下で働いてみないか、という話をもらったことがあった。
いま思えば、それとて『壷中』の人間による、孔明の取り込み工作であった。
もちろん、当時の孔明はそんなことは知らない。想像すらしていない。
黄承元の娘を娶ってからというもの、孔明が気の進まない外出を断る理由である、
「弟の看病」
が使えなくなってしまったので、しぶしぶ舅に従ったのである。

蔡瑁の評判は、樊城の外、司馬徳操の私塾でもわるくない。
黄承元の婿だというので、蔡瑁は孔明を雇うにあたり、好条件を出してくれた。
だが、孔明の心はまったく動かされなかった。

蔡瑁はおそらく、仕えれば、もしかしたら劉備よりも仕えやすい主になるかもしれない。
蔡瑁は世事に長けている。要領がいいのだ。
その下にいたならば、世間がうらやむようなよい思いができるだろう。
金も、権力も、女も、思いのままだ。

しかし、それがなんであろう。
もともと、報酬には惹かれない。
叔父の遺してくれた財産は、兄弟で分けても、おつりがくるほどのものであったし、孔明は稼げるからといって、つまらぬ仕事に手を出して、己の名を安く売り出すつもりはまったくなかった。
たとえどんなに世間に笑われようと、心から納得できる主に仕えたい、というのが孔明の夢であったし、卑屈な仕事で満足するより、損をしてでも大きな仕事に取り組むほうが、孔明にはよろこびであった。
なにより、蔡瑁や舅や妻だけが喜ぶ立場の者になるのは、世の光たれと、期待をこめて己に字を授けた、亡き叔父の望みに反すると思ったのだ。
黄承元としては、諸葛玄にまつわるうしろめたさを解消するため、そして婿を蔡瑁の配下にすることで家門の安定を得るために、どうしても話をまとめたかったようであるが、最後に蔡瑁に会ったのをきっかけに、孔明は舅と樊城、どちらとも距離を置くようになった。

「まったくもって残念だ」
蔡瑁は、わざとらしく大きくため息をついて、くりかえす。孔明に、おのれの過ちを見せ付けるように。
殺すつもりか。
孔明は構えたが、蔡瑁はなにも手を出してくる様子はない。
「儂は、これでも貴殿のその目が好きであったよ。
人を見下しているような眼だ、と評する者もいるようであるが、儂はそうは思わぬ。
貴殿の目は、龍の名にふさわしい物だ。恐ろしく澄明で、尊大で、容赦がない。
これほどの若者を手元に置くことができたなら、と思ったこともあったのだが」
蔡瑁は口元に笑みを浮かべたまま、しかし顔の上半分は悲しそうな顔をする、というむずかしい表情を浮かべつつ、なげかわしい、というふうに首を降る。
そうして、三度目の
「残念だ」
を口にした。

蔡瑁の様子を怪訝に思う隙をあたえず、播天流らは孔明を押し込むようにして劉表の部屋へと入れた。
孔明は、たった一人にされたことにうろ たえつつも、部屋を見回した。

奇妙な部屋であった。
天井から大きな布が、船の帆のようにふくらみをもたせて、幾重にも吊り下げられている。
それぞれが淡い色彩をもつ布は、白波のように、交互に吊り下げられているために、 部屋の全体を見渡すことが難しい。
それどころか、ふと手伸ばした先さえも、すぐに布に邪魔をされてしまうので、向かう先になにがあるのか、行って見なければわからない、といった有り様だ。
そしてこの空気。
甘ったるい、爛れた果実のような、深く吸い込むと、吐き気を催すような、嫌な空気だ。
おそらく、ろくに換気をしていないのだろう。そのうえ、幾重にも吊り下げられた布が、かえって通風を邪魔しているのである。

「腐肉でも隠しているのではないか」

孔明はだれも見えない部屋に向かって、憎まれ口を叩いてみる。
あくまで平素の高慢な態度を崩さずにいるが、じつは怖くてたまらない。
ふと気を抜いた瞬間に、弱気に崩れて、扉にすがって、開けてくれと懇願してしまうかもしれない。
それでも冷静な矜持を保っていられたのは、意地と怒りゆえである。
たとえどんな目に遭おうとも、『壷中』の総元締めたる人物に会わねばならない。
暴力に拠らず、策謀に拠らず、真正面から堂々と、叔父がそうしたように、自分もおなじく、たとえ周囲に味方がいなかろうと、たった一人でも義を通すのだ。
『壷中』は当初、戦乱に巻き込まれ、親を亡くした子供たちを育てるために作られたものであった。
叔父はその意義に賛同し、『壷中』の設立に力を貸した。
しかし『壷中』は変貌してしまった。叔父は後悔したにちがいない。
だれも味方がいない中で、たった一人、殺されるかもしれないと判っていながら、それでも異議を唱えたのは、なぜだったのか。

孔明は波のように天井からぶら下がり揺れる帆のなか、慎重に歩みを進めた。だが、数歩もいかないうちに、やはり天井から吊り下がっている飾り物にぶつかった。それはてのひらほどの大きさの光沢のある貝が、ほぼ同じ形と大きさに整えられて数珠繋ぎになっているものであった。
爪でつつくと、からからと乾いた音を立てる仕組みになっている。
あらためて部屋を見回すと、それは布と同じく、あちらこちらにぶら下げられているらしい。
貝は白蝶貝だ。玉にも勝る美しさゆえに、高値で取引される白蝶貝のなかでも、かなり上等なもののようである。

それにしても数が多すぎる。
布の大きさはそれぞれ小船の帆ほどはあるのだが、その両端に、それぞれ白蝶貝の 飾りがぶらさげられており、布を避けるのも、飾りを鳴らさずに歩くのも、かなりの注意を要するのである。

人から見えない部屋。
つまり、人から隠れることができる部屋。
誰から? 曹操か? 
播天流が、樊城の、この部屋の主に知られずに、叛乱に成功しているのは、そもそも、『壷中』の総元締めたる人物が、こんなところに隠れて、外界から孤絶しているからだ。
しかし奇妙な話ではある。
『壷中』は暗殺者集団であると同時に、情報収集を司る。
情報は常に、開けたところに集うのだ。
この部屋の主は、そんなことにも気付かないような、ばか者ではなかったはずだ。
何か、隠れねばならない理由が、ほかにあるのか?

考えていると、不意に人の気配に気づいた。いつの間にか、音もなく、少女が立っていた。思わず退くと、傍らの白蝶貝の飾りにぶつかり、からからと音が部屋に響いた。
十五、六歳ほどの、小柄な少女であった。
おそらく蜀から仕入れたであろう色鮮やかな錦を身にまとい、複雑に編みこんだ黒髪には、銀と輝石が惜しみなくふんだんに使われた、精巧な簪が、にぶい輝きを放っている。
テンのような大きな眼をした、青白い肌の美少女である。
少女は何も言わずに、じっとその大きな黒目がちの瞳で孔明を見上げている。
勝気な姉に、きびしくしつけられた孔明は、女性全般に弱い。
とりあえず、安心させるために微笑もうと、反射的に頬を弛ませたのであるが、それは途中で強ばった。
色鮮やかな錦に包まれたその体の首。
鶴のようにほっそりとはしているものの、その首には、自分とおなじ特徴、咽喉仏があった。
少女ではない。小柄な少年なのだ。
宦官か。


ふと、後方で、からからと、白蝶貝の飾り物が鳴る音がした。
ほかにもだれかいる。
はっとして振り返ると、目の前にいた女装の少女が、くすくすと、それこそ咽喉仏さえ見ていなければ、完全に少女と錯覚したであろう高い声でもって、笑いながら、孔明の前から去っていく。
「待て」
手を伸ばすと、すぐに布と白蝶貝が邪魔をする。
いっそ天井から引き落としてやろうかと強く引っ張ったが、びくともしない。
あちこちに灯された行灯の明かりが交差して、帆に幾重もの影を生み出す。
からからと鳴りつづける白蝶貝の飾り物の乾いた音と、それにかぶさるように、子供の甲高い妖しげな笑い声。
人は、見えない相手に怒鳴られるよりも、笑われるほうが、不快感をつよく催す生き物だ。
孔明のように、自負心の強い青年には、なおさら笑い声は癇に障った。

もはや白蝶貝の飾り物がどれだけ音をたてようと、構わず、布の海のようになっている部屋を、乱暴にかき分け、孔明は前に進んだ。
罠かもしれない。
足を踏み入れるたびに、最初に嗅ぎ取った、あの甘ったるい、むせ返るような匂いは濃くなっていく。
まるで花弁の奥へ、奥へと誘い込まれているようだ。
樊城に入る前に、隠し持っていた武器のたぐいは、すべて奪われていた。
もはや頼れるのは、おのれの耳目のみ。
孔明は正常な判断をうしなうことを恐れ、なるべく匂いを嗅がないように、口で息をつくことにした。そして、わざわざ向こうの意図どおりに癇癪を起こしかけたおのれを戒め、足を止め、おのれをかく乱せんとする子供たちを追うことをやめた。
おのれと、子供たちのそれが交差して、帆と天井には影の行列ができている。
孔明はそれを見上げる。
見上げながら、おのれに注がれる視線を、肌で感じ取る。
一人や二人の数ではない。
いったい、この奇妙な装飾に隠れて、どれだけの人が隠れているのだろうか。

たん

不意に、琴の弦がはじかれた。
音のした方向を見ると、行灯の明かりが起こす風に揺れた布の下に、琴の弦を弾く人物がいた。
その人物も、さきほどの少年と同様に、贅をつくした色鮮やかな蜀錦を身にまとっているのであるが、奇妙なことに、男か女かを、断定することができなかった。
若いのか、老いているのかさえ、わからない。
髪は老婆のように真っ白で、病のためか、その見開かれ、虚空をみつめる双眸は白乳色ににごっている。
だが、肌はなめらかで、老いをしめす染みや皺の類いは一切ない。
顔に関しては、いくらでも白粉で誤魔化せるかもしれないが、琴を弾く手のたおやかさは、まちがいなく若い者のそれである。
かといって、髪が染めたものなのかと見れば、それにしては色が鮮やかすぎるのである。

たん

と、その人物は、先ほどからおなじ弦ばかりを叩いている。
そこには楽曲を奏でようとする意志がない。
人に聞かせようとするつもりも、まったくない様子だ。
武器などなにもない。盲目だ。
おのれよりはるかに脆弱に見えるし、事実そうであろう。
なのに、孔明はその姿に戦慄した。
その人物は奇妙であった。見ているだけで、胸のあたりをかきむしりたくなるような違和感を湛えていた。
男でも女でもないもの。
若者とも老人とも違うもの。
宦官にもっとも近い。
しかしそれよりなお、性質の悪い意志が、その人物の外貌に関わっているような予感を抱かせる。
まるで動きを見せない眼球には諦観が漂っている。その人物の内面の感情が動きをとめて、うつろになっていることを示していた。
しかし、いかな異形であろうと、意志がない、などということがあるだろうか。
その人物には、異形に生まれついた人物が、共通して持ち合わせる、ある種の天真爛漫さ、たくましい覚悟が欠落していた。

たん

ふたたびその透けるように白い手が、弦をはじく。
同時に、部屋にぶら下げられた、白蝶貝の飾り物すべてがいっせいにからからと揺れて、しゅるしゅる、という小気味良い音とともに、浪のようにうねっていた布の一部が取り払われた。

孔明の前に、ひろびろとした空間が現れた。
布の浪が巻き上げられると、一本の敷物で作られた道が見えた。そこに、かの少年と同じように着飾った人物たちが、等間隔で並んでいる。
年齢はまちまちであるが、背格好が実によく似ている。
顔立ちがもともと似ているのに加えて、さらに似せて化粧をさせられているのだ。
その顔は、だれかを思い出させたが、それがだれであったかを探ることには集中できなかった。

たん

ふたたび弦が打ち鳴らされると、それが合図となって、少年たちは一斉に孔明に向かって、無言で拱手した。
孔明はそれには応じない。
たとえそれが礼儀だったとしても、頭を下げるつもりはなかった。
そうして、目の前にあらわれた人物にまっすぐ視線を投げる。
敷物の道の奥の玉座に、劉表が座っていた。
この男こそが『壷中』の総元締めたる男である。
そして、叔父を殺した男。

だが、孔明はすぐに違和感に気づき、柳眉をしかめた。
劉備の軍師になる前に、司馬徳操の使いで会見したときとは、様子がまるでちがっていた。
枯れ枝のように痩せほそり、玉座がひどく大きく見えた。
知らない間に、たった一人で時間を行き過ぎ、十年は老けてしまったように見える。
神経質そうな面差しは、どこか劉琦を思わせたが、劉琦のもつ柔和さが、この老人にはない。
髪は白くなり、頬はこけ、豪奢な衣裳をまとっているのが、かえって哀れさを醸し出している。
袖から出ている腕は骨と皮ばかり。それがぶるぶると、小刻みに痙攣をしている。
かつての威厳はそこにはなく、口も締まりなく開いているため、痴呆にすら見える。
それでいて、劉表の眼は、異様に煌々と輝いていた。
敵中にあっても傲然と胸を張って立っている孔明を、穴が開くほどに凝視している。
孔明は、動揺しつつも、つとめてそれが表に出ないように注意しながら、劉表を見返した。

本来ならば、拝跪しなければならないのは判っていたが、無作法者よと謗られるよりも、この状況で、隙を見せることのほうが危ない、と判断した。
孔明は、らしくもなく、おのれの鼓動が早まっていくのを感じていた。

誤算であった。

劉表の体調が思わしくない、という噂は耳にしていたが、これほどとは思わなかった。
遠目でも、病がかなり進行していることがわかる。
そういえば、劉備は、孔明を連れて樊城を訪れようとしたことがあったのだが、来意を伝えると、樊城のほうから、来訪は不要なりと、断られたことがあった。
それは、この病の状態を隠すためであったのか。
そして、この部屋の奇妙な装飾の理由も、そのためか。
帆は、姿を隠すため、白蝶貝の飾りは、人の動きを音で報せるため。

ただの病ではない。
豪奢な衣裳をまといながらも、袖口は汚れ、襟元ははだけ、それを直そうとも思わない様子だ。
いや、出来ないのだろう。
玉座に腰かけたその足は無造作に投げ出され、衣裳に、すぐそれとわかる無残な染みを作っていた。
足首まで衣裳で隠れているのであるが、その指先と同様に、足も痙攣が止まらないのだろう。
そして、立つことすらできないのだ。
だからその場で用を足している。
その染みであった。
玉座の周囲には、香炉がいくつも焚かれ、せっかくの良香が混ざり合い、耐え難い悪臭になっている。
それでも、彼らが隠そうとしている匂いよりは強いので、意図は果たされている、と見るべきだろうか。

これとそっくりな症状を見せて苦しんでいる病人を見たことがある。
阿片中毒。
媚薬として用いられる薬だが、服用しすぎると阿片なしでは生きられないからだとなり、しまいには廃人となる。

これは天誅かもしれぬ。
孔明は暗澹たる思いとともに、そう思った。
荊州のため、とお題目を唱えながら、狩りだすようにして集められた『壷中』の子供たちの受けた残酷な扱いに、荊州牧みずから加わっていたのならば、いま、こうして阿片のために苦しんでいるのは、抵抗できずに恥辱に耐えるしかなかった子供たちの復讐といえるだろう。
なんと哀れな。どこまで救われないのか。
川原で出会ったあの子供たち、程子聞と仲間たちは、こんな肉塊の欲望のために犠牲となり、死んでいったというのか。

「諸葛亮、無礼であろう。なぜ劉州牧に拝跪せぬ」

凛とした、すこし高めの声が部屋にひびき、ふたたび、ずらりと並ぶ少年たちが拱手する。
玉座の裏の衝立から、しゃんと背筋を伸ばした、ひときわ目立つ青の衣を纏った劉琮があらわれた。あどけない風貌をしているが、その声色、そして目つきは大人と大差ない。
叱咤されても孔明は立ったまま、おのれをきつくねめつける少年を、やはり傲然と見返した。
そうして気づいた。化粧をした少年たちが誰に似ているのか。
少年たちは、みな蔡夫人に似ていた。
当然、息子である劉琮は、もっともよく似ている。

涙 7へつづく
更新履歴へ戻る
本編MAPへ戻る
MAPへ戻る