09年改訂版

孤月的陣
第四章 ナミダ  涙

まるで王侯貴族の出迎えのような人出であった。
ただし歓迎をあらわすものはなにもなく、代わりにあるのは沈黙と好奇心、そして敵意だ。

門には、樊城の人という人、すべてが集まってきたような錯覚さえおぼえるほどの人がたかっていた。
ぱちぱちと火の粉を飛ばす篝火が、集まってきた人々の顔を赤く照らし出す。
その群れのなかに、知り合いの数がすくないことに、孔明は不安を覚えていた。舅もいなければ、糜竺もいない。やはり、彼らは播天流らに囚われているのか。それとも、もうあの世へと先に逝ってしまったのか。
沈黙し、あるいは近隣の者と、ひそひそ話をする人々の最前列には、ずらりと兵卒たちをうしろに並べた、ものものしい鎧姿の蔡瑁がおり、孔明の到着を待ち受けていた。
蔡瑁のかたわらでは兵卒たちが、新野から連れてきた従卒たちを後ろ手に縛って、咽喉元に刃をつきたてている。またある者は、孔明がおかしな態度を取らないようにと、弓を構えている。

「文官ひとりに、たいした歓迎ぶりだな」
孔明がつぶやくと、傍らにいた播天流が答える。
「貴殿には、次に何をするかわからぬところがあるからな。予測がつかぬ」
皮肉でもなんでもなく、それは播天流の素直な感想であるらしい。
話をしたくない、という孔明の要望を聞いたのか、それとも播天流のほうも、孔明の高飛車な態度にあきれたのか、道中はおたがいに、ひと言も口をきかなかった。
孔明は、隣にならぶ播天流の横顔を盗み見る。
竜髯の立派な、風格のある男である。
公孫瓚の滅亡の際に、袁紹にとらえられ、磔刑を受けたのが原因で、片腕がきかなくなったという。
しかし、馬上にて、手持ち無沙汰にだらりと下がったその片腕さえも、この男の独特の重厚な雰囲気をかもしだす道具となっている。
司馬徳操の私塾で学問をおさめ、それなりに人物鑑定眼をみがいてきた孔明でさえ、本当に、おのれの考えが当たっているのか、不安に思うほど、播天流は『まとも』に見える。
眼に妖しい影が差しているわけでもなし、突飛な言葉で人を煙に撒こうとしているわけでもなし、なにも知らずに見れば、徳望の厚い大人物にさえ見える。

「なぜだ」
孔明が、正面で待ち受ける蔡瑁を見つめつつ、つぶやくように播天流に尋ねると、播天流もおなじく、孔明のほうを見ないまま、逆に問いかけてきた。
「貴殿こそ、なぜだ」
「おまえの言う、なぜ、の意味は?」
「趙子龍を逃がしたな。奴は貴殿の主騎にすぎぬ。代替のきく人間だろう。それなのに、なぜ奴のために、わざわざ死地に戻りさえするだ」
「子龍は、あれはいずれ、このわたしの片腕となる男だからだ。代替なぞきかぬ」
「貴殿の片腕とは、曹操の、漢賊を成敗するための軍の大将、ということか」
「いいや。だれもが戦に怯えずにすむ、私が生まれるまえの、平和な国に戻すための作業の片腕だ。戦にはかぎらぬ」
隣で、播天流が笑みをこぼしたのがわかった。
「壮大だな。曹操すら、眼中にない、というわけか」
「世にあふれる事物を、ひとつの形にくくってしまえば判りやすかろう。その究極の形が国だ。しかしその国が壊れたのならば、さらに大きな視点に立たないかぎり、世の中は見えてこない。
この世界には漢という国だけが存在するのではない。周辺にはさまざまな国や部族がおり、彼らと連動してこの世は成り立っている。黄巾賊が国を荒らしているだけの時であったなら、漢の中央を直せば治まった話だったかもしれぬ。しかし、すでに争いは全土へ飛び火し、周辺諸国すら巻き込んでの大乱となってしまった。
貴殿、召し物の端がほつれて、糸が寄ってしまい、衣がつってしまったことはないか」
「旅をしていれば、着物にほころびが生じるのはしょっちゅうだ」
「どう直す?」
「寄っている部分を、均(なら)して元に戻す」
「この世の現状も同じことだ。徐々に全体を均していく必要がある。ただし、着物を均すのとは規模がちがう。いまの現状を見るに、その作業を一つの勢力が成し遂げるのは難しかろう。人が足りぬ」
「これほどに殺しまくったあとではそうであろう」
「いいや、人数の話ではない。人材が足りぬ、ということだ。この作業には、志を同じくする人間が大量に必要となる。平和な土地を徐々に広げていく作業なのだ。しっかりした理念が基盤になければ為しえぬ。優秀な人材が必要だ」
「その一人が子龍だと?」
「子龍だけではない。新野の劉玄徳には、損得勘定ぬきで人のために動ける男たちが集まっている。劉玄徳には、そういう性質の男を集めることができる力があるのだ。中でも子龍は際立っているとは思うが」
「どのように?」
孔明は、播天流の短い言葉のなかに、はげしい好奇心と苛立ちを読み取った。
だがそ知らぬふりをして言葉をつづける。
「あの男は損得勘定では動かない。自分は後回しなのだ。
あの男は、事に当たるときに、まず周囲を見回す。そしてもっとも弱いところに目を向ける。脆弱な部分には敵も目をつける。
ふつうならば、全体を助けるためならば、弱いところも已む無く切り捨てなければならぬ。だがあの男はそこを見越して、自らを省みず、弱いものを助けるために走るのだ。
もちろんなぜ自分がそうしなければならないのかと、不平不満もあるだろうに、それを口にしたことなど一度もないよ」
「貴殿はあれと出会ってからまだ日が浅いはず。なぜそんなことがわかるのだ」
「実際に助けられたからだ。劉玄徳の軍師になって間もない頃、わたしは命を狙われた。
おまえは子龍をずっと見ていたようだから知っていたかもしれぬが、わたしは新野では浮いた存在であった。子龍は主公の采配によって、わが主騎となったわけだが、わたしを守ることにより、わたしと同じく、仲間たちから浮いた存在になってしまった。
不満だらけであったろうに、それでもわたしを守りきってくれた」
「それは貴殿が軍師という立場にあるからではないのか」
「それだけだと思うか? ではおまえは、なぜ子龍がおのれを救ったと思っているのだ」
播天流は沈黙した。孔明が見ると、播天流は動かなくなった片腕をちらりと見遣っている。
「子龍がそれがしを救った理由か」

低く、馬上の播天流はつぶやいた。
この男の中に去来するものはなにか。
それが温かいものであれば、まだ救われるのだが、と孔明は思う。

播天流の横顔は、思いつめたような、空を探るようなものに変わる。
孔明が、馬を止め、じっとその様子を見つめていると、ふと、播天流は顔をあげた。
「そんなことはわかっているのだ」
樊城の城門の周囲を煌々と照らす篝火が、播天流の顔を浮かび上がらせる。
「それがしの誤りを嘲るためだ」
「なんと?」
「己が正しかったことを証明するために、奴はそれがしを助けたのだ」
そうして、播天流は声には出さず、考え続けた問いの答がようやく見つかったとでもいうように、にやりと笑ってみせる。
その笑みを見たとたん、孔明は醜く膿み崩れた傷口を見てしまったような心地に襲われ、背筋を震わせた。
消えることのない怒り、滾る嫉妬、思うままにならぬ趙雲への苛立ち、絶望感をともなう諦め、そしてかすかな羨望。 そうしたものが交じり合うことなくひとつになって、播天流の笑みを作っている。
それまで波ひとつなかった湖面が、一斉に荒れ狂いはじめたような変わりようであった。
この笑みこそが、この男の本質なのである。
すべてがはげしく食い違っている人間の、狂気の笑みであった。
理屈や正論など、この男には意味がない。たとえ万人に通じる言葉で語りかけたとしても、この男の耳朶は、ちがう言葉に変えてしまう。
言葉が通じない、つまり、孔明のもっとも得意とする弁舌が、この男には無意味なものだということだ。

「薊で、なにがあった」
孔明の強ばった問いに、播天流は肩をそびやかす。
「ただ戦があっただけだ」
「それだけではないはずだぞ。公孫瓚は袁紹に攻められ、最後は一族をみずから斬り、城に火をかけ、自刃して果てた」
おまえはそれを見たのか、とつづけて問おうとした孔明であるが、播天流の、苛立ちまぎれの声に遮られた。
「みなまで言う必要はない。それがしもその場にいたのだ。あろうことか公孫瓚、そうだ、あの見てくれだけの張子の虎めは、押し寄せる袁紹の大軍を前にして、すっかり怖気づいてしまったのだ。
女子供のようにがたがたと震えて、いまいましいことに、ろくに軍を指揮することさえできなくなってしまった。そしてあろうことか、このまま降伏したほうがましだと、わめきはじめたのだ。我らがまだ、外で必死に戦っているのにだぞ。

負けて虜囚の辱めをうけるよりは、戦で討ち死にしたほうがましだと、それがしは訴えた。だが、聞かなかった」
不意に言葉を切り、播天流は薄く笑う。
「徐州の出だそうだな、軍師。ならば知っているだろう、降伏した一族の、婦女子がいかなる目に遭わせられるのか。それは家臣も同じこと。死よりも恐ろしい辱めをあたえられ、刑場に引っ立てられるより、最期まで戦うべきだとは思わぬか」
「運命は、最期の最期までわからぬ」
「それはあの大軍の波を知らぬから、そういうのだ。地平の彼方までつづく兵士たちの群。どんなに倒しても倒しても、あとからあとから、押し寄せてくる。
数が足りないのだ。兵士の数が。我らがどれほど、趙子龍らの帰りを待っていたか、貴殿にわかるか?」
「おまえを慕っていた子龍を、手ひどく突き放しておきながら、ずいぶんとムシの良い期待をしていたのだな」
「黙れ! 弱きものを救うために走るのが趙子龍だと、おまえはそう言ったではないか! だがそれは、結局見せかけのものに過ぎぬ! 子龍は戻らなかった! 兄の葬儀のためなどと嘘をついて、結局我らを見捨てたのだ! すべてが終わってからのこのこ現れて、それがしを嘲うためだけに戻ってきた! 
それがしは死など恐れてはいなかった。あのまま薊で死ぬ覚悟であったのだ。なのに奴はそれがしを助けた! それがしを助けたのが、なぜだと思うか、だと? 教えてやろうではないか。奴はすべてを知っていたのだ。
己が主人の血に塗れたそれがしを、生かして苦しめるだけに戻ってきた! 裏切りものめ!」

それまでの穏やかとさえいえた矜持をかなぐり捨てて、まるで狂った野犬のように、続けざまに罵声を吐く播天流を、孔明はぼう然と見つめる。
たじろぐ孔明の顔を見て、播天流は満足そうに歪んだ笑みを浮かべると、つづけた。
「貴殿は、奴についてまだ何も知らぬ。あれは公孫瓚と同じだ。見た目だけは立派で、人を裏切り続ける卑怯者。決してそれがしの思うままにならぬ。なぜそれがしの言葉を聞かぬのか! 正しいのはそれがしではないか! 
敵に怯えて、仲間を裏切った臆病者め。薊で死んでいった者たちのために、それがしが公孫瓚と同じように、それがしが、ふさわしい死を与えてやろうというのだ!」

「公孫瓚と同じように、だと? まさか、おまえは、おのが主人を殺したのか?」
孔明のおどろきの声に、播天流は、きっ、と鋭い眼差しを向けると、まくしたてた。
「家臣たちを見捨てて、城に火を放ち、間道をつかって、自分たちだけ北平へ逃げようとしたからだ! 
それがしが、各地を放浪して、若者たちを集めたのは、あんな不様な男の盾にするためではなかった!」
絶句する孔明の顔を、播天流は目を細めて笑う。
「それがしが、狂っているとでも言いたげな顔だな、軍師どの。
だが、貴殿が同じ立場に立たされたら、どうする? それがしが主人を裏切ったのではない。主人がそれがしを裏切ったのだ! だから復讐をするのだ。完全に殺さねばならぬ。二度と死魂が迷い出ぬようにな」

公孫瓚という男にへの絶対的な忠誠により、この男は各地から少年たちをあつめて、騎馬軍団を編成した。その騎馬軍団ゆえに、公孫瓚は天下で名を高めた。
ひたすら盲目的に公孫瓚に仕えていた男が、最後の局面において、見捨てられた。裏切られたのだ。
逆上し、主人を殺害する。
そのあと、公孫瓚の首を持って袁紹に投降するという道を選ばず、みずから虜囚として、甘んじて磔刑を受けたのは、主人殺しの罪におののいたせいか、それとも、死に対するこの男の、独特の倫理観がそうさせたのだろうか。

いや。もっと単純に、この男は、盲目的に、公孫瓚を己のすべてにしていた。
強烈な愛情を向けていたのだ。
裏切ったので、殺した。
かといって、愛情が消えるわけではない。

播天流は、薊で死にたかったのだ。

だが、公孫瓚滅亡の事情を知らぬ趙雲と朱季南は、かつての恩人を、報恩のために危険を冒して救った。
見事に恩が仇になったのだ。
あれほど待ち望んでいた趙子龍が、いま、おのれの望まぬときに帰ってきて、死を待っていたときに、おのれを助けてしまった。
その頃にはもう、播天流の心は蝕まれていた。
いや、実はもっと以前より、この男の心は壊れていたのかもしれない。
播天流の憎悪のすべては、趙子龍に集中する。
公孫瓚とおなじ、風采が秀でて並ぶ者がなく、一時期は、おのれの愛情を一身に受けた男。
しかし徐々に言うことを聞かなくなり、最後には裏切って去っていった者。公孫瓚と同じ者として。



「まあまあ、そう興奮しなさんな」
緊迫したその場に似合わぬ、揶揄を含んだ声がした。
孔明を待ち受ける蔡瑁たちのほうから、飄々とした歩き振りで、花安英がにやにやと笑いながらやってくる。
赤い篝火に浮かび上がるその愛らしい顔立ちが、いまはかえって禍々しい。
「その人に、趙子龍のことを語らせたら駄目ですよ、軍師どの。とたんに正気ではなくなるのだから。さあ、落ち着きなさい。みなが変に思うでしょう」
花安英は、最後のことばは、妙に優しい調子で語りかけ、興奮で肩を上下させる播天流の、動かないほうの手を撫でさすった。
播天流は、まるで野の獣のように、うめき声をあげると、自分を落ち着かせるために、大きく夜気を吸い込んでいる。
眼は大きく見開かれ、近くの闇にひそむ、趙雲を見つけ出そうとでもしているようであった。
花安英が、その朱を塗ったような唇に、嫣然とした笑みを浮かべる。
「かわいそうな人だと思いませんか? このひとは、愛した人間にはけして愛されない宿業を持っているのですよ」
だが、孔明はすかさず、ぴしゃりとやり返す。
「論点を摩り替えるのはやめたまえ。この男はおのれのことしか考えていない、狂った子供だ。子供じみた理想を抱えたまま、不幸にも大人になってしまった男なのだ。
いいや、不幸というのもあたらぬであろう。この男は、けしておのれを疑わない。反省のできない男なのだ。同情などできぬ。
この男の描く夢の世界などというのは、結局、おのれだけが満足できる世界ということではないか! この男の思うままの世界など、どこにもありはしない。ありもしない物のために、この男は、多くの子供たちの運命を傷つけ、変えてしまったのだ」
「あいかわらず手厳しいな。そういう情け容赦のないところが、逆に程子聞の気を引いたのでしょうけれどね。わたしには通じませんよ、軍師どの。どんなにあなたが吠えようと、この状況は変わらない。
なぜ、わざわざ戻ってきたのですか? 『壷中』はわたしたちだけではない。たとえ趙子龍を樊城から逃がしたところで、新野にもわたしたちの仲間はいる。おなじことですよ」
「その言葉をそのまま返そう、花安英。きみは毒を吐くのが上手だが、それでわたしを惑わすことなどできぬ。
よいか、子龍はかならず新野へ生きて戻り、そしてまた樊城へ戻ってくる。『壷中』などにたやすく殺されるような男ではない」
「信じているのですね。しかし、趙子龍が樊城に戻ることを恐れ、新野に籠もったらどうなります? 播天流の話を聞いたでしょう? 
彼は、一度、主人を偽っているのですよ。また同じことをするかもしれない。裏切られたあなたを見るのも、楽しいかもしれないな」
「子龍はわたしを見捨てない。わたしが子龍を突き放していないからだ。かれは義にはかならず応える。そうであっての趙子龍なのだ。
公孫瓚も播天流も、子龍を突き放したではないか。あれは愚か者ではないから、義を示さぬ男のためには、命を賭けない。無益な復讐もしない。
だから、わたしをかれの復讐の種にしようなどと考えているのならば、よすがいい。子龍の主人は劉玄徳。わたしではないのだ」
「でも、友のためなら死ぬのでは?」
孔明は、大きく息をつくと、挑戦的な笑みを浮かべて、おのれを苛立たせようとする花安英を、冷たく馬上から見下ろした。
「程子聞は、わたしにこう言ったことがある。花安英は、あれは親に見離されたかわいそうな子供なのだと。
だから、誰も信じないし、愛そうとしないのだと。それでも最初は健気に親に尽くそうと考えた。なのに、裏切られてしまったので、あんなふうに歪んだのだと」
「かわいそう? わたしが? あなた、この状況が判っているのですか? もう気づいているのでしょう。わたしは見かけどおりの人間ではない。わたしを無意味に怒らせて、どういうことになるかわかっているのですか?」

賭けだ。
孔明は、程子聞の名前を出されたことで、素直に苛立ちをあらわにしている花安英の双眸を見つめた。
この少年は、おそろしく聡明だ。そして直感が鋭い。こちらが、まだ半分も状況をつかめていないことを、悟られてはいけない。
今後のために、この少年の苛立ちの矛先を、自分や趙雲から逸らす必要がある。

孔明は言った。
「わたしを殺したら、きみがもっとも憎む相手は喜ぶだろうね。それでもいいのなら、どうぞご自由に」
「な」
花安英は絶句する。
賭けに勝ったことを、孔明は確信した。
同時に、暗澹たる思いに包まれる。
樊城を取り巻く闇は、いったいどこまで深いというのか。
そうして孔明と花安英がにらみ合っていると、ようやく正気を取り戻した播天流が、孔明に、先に進むよう促した。






「父上」
紙燭の揺れる部屋に、耳に馴染んだ青年の、心細そうな声が聞こえる。
弱気を示すように震えているが、それでいてどこか単調で気を引かない、独特の調子である。
おそらくこれが最後になるだろうと思ったが、なんの感慨も浮かばない。
鬱陶しさが、親愛の情をはるかに上回るようになってから久しい。
あの怯えるような、それでいて面貌にはなんの感情すら浮かばない、気のきかない鈍感な女に、長子はそっくりに成長した。
声こそ、男と女の差があるが、だれが教えたはずでもなかろうに、あの喋り方はそのままではないか。
泣き喚くでもなく、責めるでもなく、ただ黙ってそこにいて、いつの間にかいなくなっていた女。
それでいて、どこかこの城に、澱のようにうずくまっていた、目障りな女。

戸口の隙間から、声が聞こえてくる。
「父上」
今度は、声はすぐそばでした。戸を開けるか開けまいか、迷っているのか。甘い匂いの漂う部屋の向こうの、闇に沈んだ廊下に、おそらく佇んでいるだろう劉琦の姿が浮かんだが、しかし、憐憫の情は沸かなかった。
「父上」
呼びかけはつづく。
顔を向けようとすると、脇息の上に無造作に置いた大きな干からびた手の上に、ちいさなたおやかな手が重ねられた。
ほどなく、視界に、覗き込むようにして若々しくみずみずしい少年の顔が入ってきて、影を作る。
「よろしいのですか、捨て置いて」
「かまわぬ」
なんのためらいもなしに言い切ると、傍らにいる少年を抱き寄せた。
少年は、くすぐったそうにちいさな笑い声をあげると、膝の上に慣れたふうに乗って、ぴたりと身を寄せてくる。
「諸葛孔明が戻ってきたらしい」
「伯父上が、いま出迎えているようですよ」
「一族そろって、どうしようもない輩ばかりだ、あれは」

諸葛玄は使える男であった。
もともと徐州の人間である。早くこの土地に馴染もうと、それなりに必死だったのだろう。
優秀な頭脳と指導力を活かし、何事にも率先してことに当たった。
ただ、あまりに優秀すぎた。弁が立ちすぎた。
そしてなにより、感傷的に過ぎた。わけのわからぬ価値観に振り回されている愚か者であった。

「どうなさるのです?」
少年は、膝に乗ったまま、帯飾りの玉を弄びつつ、笑いを含んだ声で言う。
「いつもの如くだ。そなたの伯父に任せる」
「新野が黙っていないでしょう?」
その言葉に、笑みをこぼすと、少年は不思議そうに顔を上げる。
その瑞々しい、傷一つないやわらかな白い頬をなでると、少年は合点がいったように笑った。
「おまえが賢く生まれついたおかげで、儂も安心していられる」
「わたしが望んで賢く生まれたのではありません。賢く生んでくださった母上にその言葉を差し上げてください」
「孝行息子だな」
声をたてて笑いながら、ふたたび少年の体をきつく抱きしめると、少年もまた、声をたてて笑った。
だれが焚いたのであろうか。部屋に立ち込める紫煙。翡翠の香炉から雲のように湧き上がる煙が、部屋にめまいを起こさせるような甘い香りを撒き散らす。
赤地のなかに、金糸で複雑な文様を織り込んだ錦の敷物のうえに、龍や麒麟といった瑞獣が縁に刻み込まれた座椅子があり、そのうえに、熟れすぎて形の歪んだ柿のような身体がある。
暗く沈んだ沼地のような色合いをした衣をまとったその身体は、白蝋のような肌をした少年を、卵を抱える親鳥のように大事に抱え込んでいる。
むせかえるような甘い香りに乗って、少年の、鈴を転がしたような声が響く。
その声を聞くとなにも考えられなくなる。脳髄が心地よく痺れていく。快楽のほかになにも考えられなくなる。
いま身体を這っているのは、抱える少年の白い手か。それとも紫煙なのか。

そして扉は開かれることがないまま、たゆんだ世界はゆっくり閉じていった。





「父上」
廊下に膝をつき、扉の開くことを待っていた劉琦であるが、何度か呼びかけても返事がないので、あきらめて立ち上がった。
扉の前には宿衛の兵卒ではなく、武装した宦官が立っている。
そのどれもが年若く、仮面をかぶったように表情がないのだが、それがゆえに風貌を神秘的に見せていた。
劉琦は彼らと顔をあわせたくなかったので、うつむき加減に廊下をゆく。
父のそばにはべる宦官は、いつも面子が変わる。
年老いた者たちはわずかで、いつも若くて綺麗な宦官ばかりだ。
老いた者たちの消息や、交替となったそのほかの宦官たちの消息は、ついぞ耳にしたことがない。むしろ知りたくない、と劉琦は思う。父の周囲にある歪んだ闇の存在に、息子のかれはうっすらと気づいていた。
父親に無視されたことを、宦官ごときに同情されてたまるか、という意地のためではない。
劉琦がうつむいているのは、彼らの隠された裏の事情を、見つけてしまうようなきっかけを作りたくなかったことがひとつ。
もうひとつは、父親に無視されたことに、憤りや悲しみを感じるよりは、ほっとしていることを気づかれたくなかったからである。
この鋭敏な気性の青年は、他人のごくわずかな変化も見逃さず、そこから妄想にも近いくらいに想像をたくましくして、理論ではなく直感で真実を導き出す。
その結論の出し方が飛躍的なために、他者から見れば、掴み所のない青年に見えてしまう。長子として生まれたのが不幸であった。しかし、長子だからといって、それをあらためよ、というのは、劉琦として生きるのをやめよ、と言っているようなものだ。
その性質は諸葛孔明にも共通するものである。だからこそ、劉琦は孔明に親近感を持っていた。孔明の妻が蔡瑁の血族に連なることを知りつつも、劉琦は孔明の智恵に縋ろうとした。
程子聞の手紙を読むなり、顔色をかえて、趙子龍とともに、どこぞへと飛んでいった孔明は、いまだ戻ってこない。
もっとも、劉琦は、早朝に孔明から授かった策を実行するため、休む間もなく準備に追われていたので、孔明がどうしたかを、あまり気にしていられなかったのであるが。

長子ともあろうものが、伴もつれず、ひとりで夜闇の廊下を歩いているのも奇妙なことだ。だが、劉琦本人は気にしていない。ゆっくりと、鏡面のように磨かれて黒光りしている廊下を歩いていると、向こう側から、あちこちにともされた蝋燭の明かりを頼りに、ぱたぱたと伊籍が走ってくるのが見えた。
「こちらにおられましたか、公子」
と、劉琦が知る限り、いつも大げさに顔をしかめている伊籍は言った。
その限りなく人の好い顔を見ているとほっとする。
伊籍は劉琦にたずねてくる。
「江夏行きの件、お父上はなんと?」
「宦官を通してご承諾くだされた。しかし、ご本人にお会いすることは叶わなかった」
なんと、と伊籍は悲痛そうに顔をしかめる。それを宥めるように、劉琦は伊籍の手を取った。
「よいではないか。わたしは父上を説得するのがいちばん難しいと思っていたのだからね。生きてこの城を出ること。わたしたちがまず考えなければならぬのはそこであろう」
「おいたわしや。実の父子でありながら、他人よりも冷たい扱いを受けねばならぬとは。
しかもこの樊城は公子のふるさと。なんの非もない公子が、なにゆえに追放されるように城を出なければならぬのでしょうか」
「嘆いている暇があったら、一つでも多くの荷を荷造りするがいいと、孔明殿ならおっしゃるだろう。
それにしても機伯、いますぐにでも出発ができるという話ではないか。おまえはまるで、今日のことを予想していたようだな」
からかうようにそう言うと、伊籍は最初、内気で無口な劉琦が、そんな軽口をきいたことにおどろいていたが、やがて顔をほころばせ、力強く言った。
「実を申しますと、孔明殿の策を授かる以前に、万が一のことを考え、いつでも樊城から出ることができるように心積もりをしておけと、みなに申し付けておりました。
しかしそのとき考えておりました行き先は、新野であったのですが」
「新野にも寄りたいところであるが、みなも突然のことに戸惑っているだろう。いまはまず、夏口に向かい、みなを落ち着かせねばならぬ。
夏口へ発てるのはいつごろになりそうだね」
伊籍は、嬉しそうに眼を細めると、軽く握られたその手を、つよく握り返した。
「お強くなられましたな、公子。まるで見違えるようだ」
「この強さを、もうすこし前に出せていたらと申し訳なく思っている。いままでわたしは、貴方や程子聞、そしてほかの者たちに頼りすぎていた。
それでね、機伯、お願いがあるのだが」

涙 6へつづく
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