09年改訂版
孤月的陣
第四章 ナミダ 涙
④
孔明の言葉に、趙雲はすばやく反応し、眉をしかめる。
「抽象的な言い方はよしてくれ。嫉妬と憎悪だと? だれの、だれに対する嫉妬と憎悪だというのだ? 糜子仲どののことか? 程子聞か? それとも花安英か?」
「どれもちがう。その男は、姿こそわれらの前に現していないが、わたしなどより、あなたがよく知っている人物だ。
その姿を示す痕跡は、随所にちりばめられていた。あなたも見ていたはずだよ」
そこまで言われても、趙雲には、いったいだれのことを指しているのかがわからない。
新野城の面々を劉備から、下働きにいたるまで、片っ端から思い出してみるのであるが、やはり、これほど大胆な行動を起こせそうな、斐仁ともつながりのある人間を思い出すことができない。
性質が大胆で、斐仁と繋がる、という共通点だけを挙げれば、陳到が浮かぶのであるが、あの家族が大好きで、子供が大好きな男が、とても『壷中』に賛同しているとは思えない。
それに、片腕が利かないという、見逃せない特徴があるのだ。
考え込む趙雲の姿に、孔明は、またも、やれやれ、というふうにため息をついた。
「子龍、わたしとしては、思い出してもらいたくないのだ。
その人物が誰であるかを知れば、あなたはきっと、新野に帰りたくないとダダをこねるだろうからね」
「知らなくても、帰るつもりなぞない。こんな病み上がりのような斐仁と、先日まで瓜売りをしていて、体がなまった老人に、おまえのお守りができようはずがないからな」
「どこまで無礼な若造か!」
老人は嚙みつかんばかりの勢いで抗議する。趙雲は、なんとなく、この老人を怒らせるのが面白くなってきた。
「齢も四十を過ぎると、とたんに体は衰えていく。見たところ、貴殿は、五十は過ぎておられるようだが」
すると、老人は鼻を鳴らし、得意そうに、みごとな白髯をなぜると、胸を張った。
「耳をかっぽじって、よく聞け、小僧! それがしは今年で六十になる」
趙雲は、素で絶句した。
しゃんとした足腰、鋭い眼光、光沢のある肌、どれをとっても、六十の老人ではない。
おどろく趙雲を見て、老人はますます得意になった。
「わかったか、それがしはおまえなんぞより、戦場にて、はるかに経験を積んでおる。それに、亮さまが少年のときから知っているのだぞ」
「凡人には、百年かかっても、こいつは理解不能だ」
「それはわたしが、非凡だと言いたいのだろうな、子龍。とりあえず揉めている場合ではない。軍師として、今後の指示を出す。
あなたは新野に帰れ。そして、主公にすべて報告し、信頼できる兵士たちをあつめ、樊城へ来てくれ。ただし、どんなときでも、決して、ひとりになるな」
「武人に対して、ずいぶんな指示だな。軍師はどうする」
「わたしは樊城に戻る」
「なんのために? 樊城にもう用事はあるまい。従者たちを心配しているのならば、俺が樊城へ行き、連中を迎えに行く。軍師こそ、先に新野へ戻り、主公へご報告申し上げよ」
「わたしが樊城に戻らねば意味がないのだ。樊城へ戻り、『壷中』の主と話をつける」
なにを突飛な、と反論しようと趙雲が口を開くと、地面に平伏したままであった斐仁が、ぴくりと体を震わせた。
「ご一同、なにかが来ます」
その言葉に、武人らしく素早く反応し、身構える趙雲と老人であるが、孔明だけは、予想でもしていたのか、平然とつぶやいた。
「ほら、迎えが来たようだ」
見ると、すでに日の暮れかけた地平の向こうに、数十騎もの兵士たちが、こちらに向かってきていた。
「『壷中』か?」
趙雲は、孔明を守るようにしてその前に立ち、薄闇につつまれはじめた周囲を睥睨する。
しかし、前方にだけではなく、兵士たちは孔明たちの背後にまで配置されていた。
※
のんびりとおしゃべりをしている間に、機を失したな、と孔明は思ったが、さほど苛立ちはしなかった。
花安英の動きを見ていれば、『その男』の行動もだいたい読めた。
そいつが、趙雲から目を離すわけがないのだ。
すでに東の空には、一番星が輝き始めている。
兵士たちの姿は、もはや輪郭でしかなく、個々を識別するのがむずかしい。
あの中に、蛾が焔にみずから巻かれるように、いずれは自らを滅ぼすと知りながら、嫉妬の炎に身を焦がす男がいる。
趙雲は、孔明を庇うようにして両手をひろげ、そして振り返らずに、緊張した声色で言った。
「馬に乗れ」
ああ、と返事をすると、趙雲はさらに周囲を睥睨しつつ、加えた。
「俺から離れるな」
孔明は、これにも、ああ、と生返事をした。
孔明が馬に乗るまで、自分たちを取り巻く兵卒たちが、おかしな振る舞いをしないように見張っているつもりなのだろう。
緊張に強ばる背中は頼もしく、趙雲ならば、相手がたとえ千騎もの軍勢だったとしても、なんとかなりそうに思える。
孔明は思わず、微笑をもらした。
もし、生まれ変われるとして、誰になりたいかと問われれば、ほとんどの男が、趙雲のような男になりたいと答えるだろう。
男としての、すべての天分に恵まれた男。それが趙雲である。
強く、美しく、聡明で、男気にあふれた気質を持っている。こんなふうに、凛とした男に生まれたいと思うだろう。
自分のように自負心のつよい人間が、これほど完璧に近い人間をとなりに置いて、それでもなお平静でいられるのは、立場がちがうからにほかならない。
もしも、自分も武将として、趙雲と轡をならべる立場であったなら、おそらく嫉妬どころの話ではないだろう。
糜竺の弟の糜芳が趙雲を憎む理由が、孔明には、なんとなく理解ができる。
完全なものには、隙がない。
完全なものを前にしたとき、人は羨望よりもまず先に、苛立ちに似た感覚をおぼえるはずだ。
孔明は、目を閉じ、息をついた。
おのれの覚悟を固めるためであった。
この期に及んでも、まだ迷っている。趙雲たちと共に、新野に逃げること。
いまやすっかり馴染み、わずか数日間、離れていただけで、これほど仲間たちを恋しく思う自分におどろいた。そして、かれらと合流し、ともに襲い来る波に対抗することができたなら、どれだけ心強いだろうと思う。
だが、いま、新野に帰ってはだめだ。
なにも解決できないまま、争いだけを新野に持ち帰るような真似はできない。
孔明は、目を開き、さらに濃くなる地平の闇と、それから、手を伸ばせば届く距離にいる趙雲を見、そしてきらきらと星の瞬く空を見あげた。
『叔父上、貴方が命に替えてお守りくださった者は、けして友を見捨てるような、臆病者には育ちませんでした』
心の中でつぶやくと、もう怖じまい、と決めた。
「亮さま、お早く」
老人にうながされ、孔明は手綱を持つ。そして、趙雲とおなじように、周囲を警戒する老人に言った。
「じいや、貴方の忠誠を、わたしは信じてもよいだろうか」
「もちろんでございますとも。なんなりとそれがしにお命じ下さいませ。亮さまのご命令であれば、この爺は、あんな兵卒どもも、紙を千切るようにして薙ぎ払ってご覧に入れましょう」
孔明は、ふたたび微笑を浮かべる。
叔父の遺してくれたものは、なんと素晴らしいものばかりであったのだろうか。
老人が、ほかならぬ叔父の部下であった武人だ、と知ったとき、孔明は子供のように飛びついて、喜びを示したいほどであった。
趙雲の手前、そうはしなかったけれども。
「ありがとう。それでは、さっそくお願いしたいことがあるのだけれどね。わたしはこれから、やはり樊城へ行こうと思うのだよ」
「判り申した。それがしは、不遜なあの石頭とは違いますぞ。亮さまの命令とあれば、火の中、水の中まで共に参りましょう」
「共に行ってほしいのは、その石頭と一緒に、なのだよ。子龍を守ってやってはくれぬか」
「なんですと? それでは、亮さまは、だれが守るというのです?」
「わたしは大丈夫だ。だれもわたしには手を出せない。叔父上と一緒にはならないよ」
ですが、と反駁しようとする老人に、孔明は、じっと、その冴えた眼差しを当てる。
弁舌の術を学んで悟ったことは、言葉はただの道具にすぎないという、至極あたりまえのことであった。
本当に伝えたいことがあるときは、相手の目を真剣に見据えるのだ。
相手の邪推も疑念もすべて振り払い、こちらの本音をひたすら訴えるのである。
やがて、老人は、つと目を逸らし、首をちいさく振った。
「こうと決められたら、けして譲られぬところは、叔父上さまそっくりだ。判り申した、従いましょう。しかし、お約束くだされ、かならず生きて戻る、と」
「わかった。かならず」
孔明が騎乗したのを見て、趙雲も素早く、おのれの愛馬にまたがった。
老人と斐仁も、草むらに隠していた馬に飛び乗る。
趙雲と轡をならべると、孔明は、そのまたがる赤い馬を見た。
馬も孔明の心がわかっているのか、大きな眼をきょろりと動かす。
「子龍、許せよ」
孔明はそう言うと、騎乗したまま、足を伸ばし、真隣りにならぶ、趙雲の馬の腹を思いきり蹴り飛ばした。
馬は、とたんに棹立ちになり、夜闇に高らかに泣きさけぶと、猛然と駆けだした。
「行け!」
孔明が合図すると、同時に、老人と斐仁も、疾駆する趙雲の愛馬を追った。
愛馬は、矢のように、兵卒たちのど真ん中めがけてかけていく。
突然の馬の暴走に、兵士たちがうろたえ、整列が崩れたのが見えた。
しかし、さすがは訓練された兵卒である。
うろたえから素早く立ち直ると、おのおの、槍をつがえて立ち向かわんとする。
だが、趙雲らの勢いのほうが、はるかに早かった。
彼らが槍をつきたて、行く手を阻むよりはやく、趙雲の馬は翼が生えたように地面を蹴りあげ、兵卒の列をおおきく飛び越していった。
つづいて、老人と斐仁の馬が、あわてふためく兵卒たちの隙間をつくようにして駆け抜けていく。
「弓兵用意! 奴らを逃がすな!」
士卒長が怒鳴るのが聞こえた。
それに負けじと、ひとり残った孔明は、声を張り上げる。
「樊城の兵士たちよ、『壷中』の者よ! 諸葛孔明はどこにも逃げはせぬ! 諸葛孔明はここにいるぞ!」
雷鳴のようにひびくその声に、趙雲たちに気を取られていた兵卒たちは、一斉に孔明のほうを見た。
弓兵たちが、混乱のあまり、孔明に向かって弓を番える。
まずい、と孔明は思ったが、あわてず、敢然と兵士たちを見据えた。
おのれを取り囲む兵士たちの我が、徐々に縮まっていく。
「兵士たちよ、弓槍をおさめよ! その者を傷つけてはならぬ!」
兵卒の壁の背後から、低音の、よく通る男の声がした。
その声に、兵卒たちが、さあっと、潮が引くように道を開ける。
兵卒のともした篝火のなかに浮かび上がるその男は、小ぶりな馬に乗っていた。
想像以上にちいさな男であった。
そして、想像以上に、優しげな、誠実そうな顔をしていた。
孔明は、兵卒たちが男に向ける眼差しに、恐怖と戸惑いが混じっていることに気づき、見かけにだまされてはならぬと、おのれを戒めた。
この男の前では、人の命の価値はおどろくほど安い。
だれよりもおのれを信じ、だれよりも独善的で、そして、だれよりも残酷な男。
この男の内側にひそむ、溶岩にも似た、負の感情の流れを読むことができなければ、孔明はきっと、いまもって事態を把握できず、趙雲とともに新野に逃げ帰っていただろうと思う。
この男の存在に気づいたのは、なぜ、斐仁の口封じに失敗した男が、一転し、斐仁をつかって、程子聞を暗殺させようとしたのか、という疑問からであった。
そして、斐仁が『風狗』に襲われたときに、趙雲が聞いたという、民謡。
曹操が南下してくる、という情報は、荊州のありとあらゆる階層の人々とを揺るがした。
その衝撃は『壷中』にも走ったはずである。
かれらはどうすべきかの指示を、樊城に仰いだにちがいない。
それがどんな指示であったのか、孔明にはわからない。
ただ、くだってきた指示は、無比の忠誠を誇るはずの『壷中』が動揺するほどに、納得の行かないものであったのはまちがいないのだ。
刺客という過酷な職業に耐えうるには、高額の報酬か、信仰にも似た理念が必要だ。
それが揺らいでしまえば、刺客の心の支えはなくなってしまう。
お家騒動に明け暮れる樊城の様子を見て、『壷中』は、いや、『壷中』の一部は決断をする。
樊城の指揮をはなれ、独自に動く。
この時期に、糜竺が新野を動かざるを得なかったのも、舅の黄承元が失踪したまま行方がしれぬのも、おそらく『壷中』内で争いが発生したからだ。
それを止めるために、糜竺は新野から樊城へと向かった。
糜竺が『仇讐は壷中にあり』という言葉をのこしたのは、叔父の玄の死の真相をしっていた糜竺が、おのれが戻らぬとき、孔明がその言葉をたどり、『壷中』の存在に行き当たれるようにと考えたからだ。
事実、孔明が『壷中』の存在を知ったのは、糜竺の言葉ゆえであった。
糜竺がどうなったかはわからない。
おそらく、『壷中』のなかでも、糜竺は穏健派であったにちがいないのだ。
その糜竺が新野に帰れない状況にあるということは、『壷中』のなかで反乱が成立しつつある、という証拠である。
反乱に成功した『壷中』は、曹操と対立するよりも、その傘下に組み込まれるか、あるいは他勢力に組み込まれることを、選んだのではないか。
そこで、自分たちの仲間を増やすべく、混乱に乗じて、子供たちを攫った。
もし忠実に荊州を守るためならば、いまさら仲間を増やし、教育したところで、とうてい曹操の南下には間に合わない。
むしろその労力を、曹操側の内情を知るための密偵に使うべきだ。
そうしなかったのは、反乱した『壷中』にとって、曹操は目下の敵ではなくなったことを意味する。
子供たちを攫ったはいいが、それを迂闊にも、斐仁に見られてしまう。
斐仁は、『壷中』の外に七年間いた男だ。
まだ『壷中』のなかで反乱がおきたということを知らない。
斐仁がそれを知り、樊城の『壷中』、豪族たちに報告すると厄介だ。
そこで、斐仁を暗殺することにした。
そして、斐仁の抱える秘密を暴露し、世間の目を樊城の『壷中』にむけさせ、そのあいだに、自分たちは独立をする。その予定であった。
『風狗』はその意向を受けて、斐仁を襲う。
しかし、そこへ『風狗』を捕縛せんと追って来た許都の役人、朱季南に邪魔され、果たせなった。
ここで、いちばんの大番狂わせが発生するのだ。
その現場に、趙雲があらわれた。
反乱『壷中』の中枢を為す『この男』は、久方ぶりに見た趙子龍の、以前とかわらぬ勇姿をどう見たか。
おなじ荊州にいたのだ。噂くらいは耳にしていただろうが、実物を目の前にするその衝撃というのは、噂程度で感じたものを、はるかに上回るものであったろう。
孔明には想像がつく。
おそらく、胸を焼き焦がすような、はげしい苛立ちと嫉妬だ。
かつての趙雲と、まるでかわらぬ颯爽とした姿を前にして、『その男』は動揺し、冷静さを失った。
そして、大きく道を踏み外す。
さらに悪いことに、朱季南までが新野にあらわれた。
男の脳裏に浮かんだのは、なんであっただろうか。
斐仁が、おのれを襲ってきた『風狗』の顔を見ていないことをよいことに、『その男』は朱季南こそが『壷中』の刺客であると嘘をおしえ、朱季南にはこっそりと阿片を盛る。
斐仁が朱季南を片づけているあいだ、『その男』は斐仁の家族を無残にも惨殺する。
そして、斐仁が逆上し、樊城へやってくることを読み越して、樊城に先回りをし、『風狗』とともに、裏切り者の程子聞を始末したのだ。
そして、あらわれた斐仁に、程子聞の殺害の罪をなすりつける。
最初に発見者となって、花安英に騒がせ、そして捕らえさせた。
劉琦の側近となっていた程子聞が、趙雲の部下に殺されたとなっては、新野の劉備は、筋を通すために、趙雲を樊城に差し出すだろうというのが、『その男』の計算だった。
そうして、罪人としてあらわれた趙雲を、堂々と殺すつもりであったのだろう。
斐仁の暗殺にも失敗した。その斐仁も、趙雲の部下。
そして趙雲は、かつて『壷中』に暗殺された男を叔父にもつ、諸葛孔明の主騎である。
『その男』は、本来の目的である、『壷中』の独立を忘れ、私憤を晴らすことを主眼にしてうごきはじめる。
そして貪欲にも、すべての決着をつけることを考えた。
おのれの胸の嵐と、『壷中』の過去の清算、そして裏切り者の粛清のすべてに、一気に決着をつけようと。
ところが、そうはならなかった。
ほかならぬ、劉備と趙雲の信頼関係、孔明と趙雲の信頼関係、劉琦と程子聞の信頼関係、程子聞と孔明の信頼関係、劉備と劉琦の信頼関係……七年間のあいだに、この地ではぐくまれてきた、ありとあらゆる絆が、男の思惑を崩したのだ。
孔明の機知により、趙雲は樊城にやってくることになったのだが、『その男』はそのお陰で、かえって趙雲に手が出せなくなってしまった。
下手に動けば、樊城の、一部の仲間が叛乱を企てているということをしらない『壷中』に、反乱の事実を嗅ぎつけられてしまうからだ。
樊城の人間は、斐仁を殺さなかった。
このことから、樊城に残っている『壷中』が、前線を担当していると思われる反乱『壷中』の動向に、気づいていないことがわかる。
斐仁を殺してしまえば、『壷中』のいちばん守りたい秘密とやらは守られるが、劉備の信頼は失われる。
樊城の『壷中』からすれば、荊州の前線を防衛する劉備は大事なのだ。
反乱『壷中』のほうも、いま、反乱を気づかれるわけにはいかず、斐仁を生かした。
そこで仕方なく、花安英を趙雲の監視につけた。
だが、趙雲には隙がなく、斐仁の証言や、程子聞の手紙、孔明の少年時の記憶などがきっかけで、男が思っていた以上に早く、孔明は真相に近づいてしまった。
『その男』は、すべてが後手になってしまったので、焦っている。もうなりふりを構わなくなっている。
『その男』にとって、諸葛孔明はどうでもよいのだ。
狙いはただひとり。
おのれの暗い部分を、えんえんと刺激し続ける、趙子龍。
「お初にお目にかかる。諸葛孔明殿か」
そうしていま、『その男』を、孔明ははじめて目の前にしている。
おだやかで、淀みのない話し方をする男だ。
人をまっすぐと見据える目線は力強い。
どっしりした大樹を思わせる風格すらある。
「左様。わたしもあなたに直に会うのは初めてではあるが、よく話はうかがっていたので、初対面ではないような気がする」
男は、鷹揚な笑みを浮かべて、尋ねた。
「ほう、それがしの話をだれから?」
「子龍から」
その名を出すと、案の定、『その男』の落ち着いた矜持が、ほんの一瞬、ぐらついた。
垣間見える、はげしい憎悪。
ふしぎと孔明は、そこに嫌悪を抱かなかった。
哀れだと思った。
おのれを他者と比較しないで生きていられる人間がいるだろうか。
嫉妬や憧れが成長の起爆剤になり、人はそれぞれ生きていく。
この男には、どうしてもそれができなかったのだ。
憎悪があまりに膨らみすぎてしまい、おのれで抑えることすら、できなかったのだろう。
始め、『その男』が、趙雲にどれだけの愛情を注いでいたかがわかる。
おのれが庇護した少年は、目を見張るほどの成長を見せて、おのれをはるかに凌駕した。
その成長を止めようがなかった。
留めておくこともできず、捨てられたという、屈辱的な思いだけが残されたのだ。
趙雲に他意はなかった。人の気持ちに鈍感であったわけでもない。
ただ、この男の求めるものに、趙雲が応じることはできなかったのだ。
その性が、趙雲とこの男では、あまりに違いすぎていた。
不意に、闇を薙ぎ払うようにして、『その男』が笑い出した。
周囲の兵士たちは怖じて『その男』を盗み見、孔明の騎乗した馬が、驚いてたたらを踏む。
「おさすが。すでに慧眼にて、すべてを見破られたというのか。その口ぶりが強がりなどでなければ、それがしの名も、すでにお分かりのはず」
「播天流」
「そのとおり」
『その男』、播天流は、おもしろそうに目を細め、孔明を見る。
「貴殿は、かつて子龍を、袁紹の義勇軍から公孫瓚のもとに導いた人物、そして公孫瓚の滅亡後、『壷中』に加わり、いま、その理想を叶えるために、樊城の人間を裏切り、独自にあたらしい『壷中』を組織している人物」
「そのとおり。黄家の爺ぃが、貴殿を警戒する理由がよくわかる。貴殿は聡すぎるのだ。『壷中』にいれてしまえばよかった、などと樊城の人間は嘯いていたがね、それがしは、貴殿のような男が『壷中』にいたら、分裂は、曹操の南下なぞ待たずに起こったのではと思う」
「思いもかけない高い評価をありがとう。ところで、わたしは樊城へ行きたいのだが、あなた方は、わたしを案内してくれるために、出向いてくれたとみてよいのかな?」
孔明の言葉に、播天流は、面白そうに鼻を鳴らした。
「樊城に向かい、それでどうされる? それがしの反乱を報告するのかね?」
「もしそうだとしても、あなたに喋ると思うか? 正直なところ、わたしはあなたと口を利きたくない。叔父のことを思えば、復讐の心がもたげてくるのも事実なのだ」
「それがしは、貴殿の叔父君とは関係ない。その頃はまだ、片輪になったこの身をもてあまし、天下を流浪していた頃だ」
「それでも『壷中』にはちがいない。天下にあまたいる農民たちの怨嗟の声をすべて聞いたつもりになって、その代表として、正義の味方を気取っている男に、用はないのだ」
「辛辣だな」
「そうかな? 所詮おまえは士人であるから、農民のことは他人事なのだ、などと思っているのならば間違いだ。大局を見ずに、砂上の楼閣を築き、人の運命を翻弄しているのはあなただ。
曹操の南下を知らせる狼煙は、明日にでも上がってもおかしくないというこの状況にあって、あなたは、人を混乱させることしかしていない」
それまで、鷹揚な笑みを崩さず、余裕の面持ちをみせていた播天流の顔が、はじめて濁った。
「ならば、貴殿はなにをするつもりなのだ?」
「農民も士人も豪族も関係ない。わたしは荊州人のすべてを救いたい。
豪族だけしか見ていない樊城の『壷中』と、農民だけしか見ていないあなたの『壷中』は邪魔だ。道を開けてもらいにゆく」
「なんと不遜な。口ばかりならば、なんとでも唱えることができようぞ」
「黙れ。二度と言わせるな。わたしはおまえと口を利くことすら、いとわしいと思っているのだ。おまえはわたしの友を傷つけた。
さらにまだ、わが行く手を阻むというのであれば、もう容赦はせぬぞ」
「たった一人で武器ももたぬ貴殿に、なにができると?」
「人を殺すために必要なのは、武器ばかりではなかろう。それに、いまのおまえは、わたしに、髪の毛ひとすじほどの傷を付けることもできぬはず。
樊城の『壷中』に、おまえの反乱がばれてしまうからな」
「そこまで読み通しての言葉か。子龍は、良いともがらを持ったものだな」
「ムダ口は利かぬ。さあ、樊城へ参るぞ」
播天流の目に、苛立ちと殺気を読み取りつつ、孔明は傲然と頭をあげて、兵士たちに囲まれるようにして、樊城への道を向かいだした。
※
「止まれ、赫曄! 止まれ!」
咽喉が涸れるのではないかと思うくらいに、なんども同じ言葉を愛馬に命じたが、赫曄は狂ったように、めちゃくちゃに闇のなかをかけ続け、追っ手を巻いてもなお、速度をゆるめずに駆け続けた。
気づくと、もうあたりはすっかり夜の帳につつまれていた。
さすがの赫曄もへばったのか、途中でぴたりと足を止めてしまった。
潰れなかっただけでも幸いだろう。
俊足をほこる赫曄に、大きく引き離された老人と斐仁の馬が、ようやく追いついたのが、月明かりに浮かび上がる、その影でわかった。
趙雲が、いま駆けてきた道を戻ろうと、ふたたび馬首をめぐらせると、老人が、手を伸ばし、趙雲の手綱を横から奪い、叫ぶ。
「この莫迦め! どこへ行くつもりだ!」
「どこへ、だと? 決まっている、樊城だ!」
「落ち着け、それでも主騎か!」
「主騎だからこそ戻るのだ! その手を離してもらおうか!」
「どこまで莫迦なのだ! 亮さまが、なんとしても貴殿を逃がすために、こうまでしたのがわからぬか!
いまおめおめとおまえが戻れば、亮さまのご配慮も無駄になってしまうわ!」
「俺を逃がすためだと? いったい何故だ!」
しかし、その問いに答えられる人間は、この場にいない。
自らを陰謀の道具につかった播天流に面識のある斐仁でさえ、播天流の名を知らないのだ。
「さいわい、この道は新野へつづいている。このまま夜通し駆ければ、昼には新野へ着くであろう。
亮さまの言うとおり、劉予州のもとへゆき、兵を連れて樊城へ戻るのだ」
「戻って、それでどうする? 新野の人間にあれこれと事情を説明しているあいだに、軍師の身に何事かが起こったらどうするのだ!
あいつは、人の性の恐ろしさと言うものを判っておらぬ! 人に対して、楽観的に過ぎるのだ。二十八になるまで、五体満足に生きてこられたのは、つねにおのれを庇護してくる人間に恵まれていたからに過ぎぬ!」
「亮さまは、そのことを忘れているのではない。
判っているからこそ、おのれを守ってくれた者に恩義を返すために、一人残られたのだ」
「莫迦な。『壷中』が、いま軍師がいうとおりに、二つに割れているというのであれば、樊城の『壷中』はたしかに軍師を殺さぬかもしれぬが、もう一方の『壷中』は、軍師に何をしてもおかしくない、ということだぞ」
「いいや、連中が狙っているのは亮さまではない。おまえだ!
おまえがのこのこ戻り、殺されてしまったならば、亮さまのお心遣いもすべてムダとなってしまう。それだけはさせぬぞ!」
老人は、手綱をふたたび強く持ち、趙雲をはげしく真正面から睨みつける。
「なぜ、俺なのだ。俺は『壷中』なぞ知らぬ!」
「おまえが知らんと思っていても、向こうがよく知っているのではないか。
われら武人は、いくたの命を蹴散らしてゆく、この世でもっとも呪われやすい立場にある人間だ。
そのなかで、はげしい恨みを買ったとしても、いたし方あるまい。それが嫌だというのならば、戦うことを止めるしかないのだ」
「ならば、こんな薄汚い手を使わずとも、直接、俺の目の前に現れればよいではないか!」
「苛立つな! 冷静さを欠けば、それだけ事態は悪くなる。亮さまは、おまえがすべてを見ている、とおっしゃっていた。冷静に思い出せ。心当たりはあるはずだぞ」
老人の言葉に、趙雲は息をつき、額に手を当てる。
「わからぬ。荊州に来てからの話なのか? 斐仁、おまえが新野で見たというその男、俺のことを話していたことはないか」
「ございませぬが、新野の様子を知りたいと言って、いろいろ話して聞かせてやったことはございます。
ただ、特別にあなたさまのことばかり聞かれた、ということもありませんでした」
「ほかに、なにか無いか。さきほど語ったことでもよい」
「偽名をたくさん持っていて、本名はだれにも明かしていないのです。
片輪なのは、以前に仕えていた家が滅んだときに、敵に捕らえられ、そのときに負ったものだと言っておりました。
それと、幽州の漁村の出自とかいう話も耳にしました」
荒い息を吐きつつも、淡々と答える斐仁の、のっぺりした顔を見つつ、趙雲は不意に、朱季南と再会した夜のことを思い出していた。
空屋敷に目が行ったそもそものきっかけは、斐仁の姿を見かけたからではない。
歌が聞こえたからだ。
いまでも鮮やかに覚えている。
袁紹のもとから、公孫瓚の居住する薊へ向かうまでの道のり。
そのなかで、ほかに同じように見出された少年たちとともに、あの男が歌っていた歌だ。
ぞおっと、怖気が立った。
脳裏に、一人の男の姿が浮かび上がってくる。
「まさか、播天流か?」
そんな莫迦な、と趙雲はすぐさま打ち消したが、しかしそうだと考えると、偽名を使っているのも納得がいく。
ともに公孫瓚のもとに身を寄せていた劉備たちも、播天流の名前を知っている。
かれらや趙雲に、その名が漏れるのを恐れているのだ。
孔明は、気づいたのだ。
播天流のことは、新野の自室で語っている。
空屋敷で播天流の歌が聞こえたこと、程子聞の遺体をはじめに見つけた片輪の男、斐仁が偶然に新野で再会した片輪の男。
斐仁をめぐる陰謀の、ゆがみきった動機。
敵の本当の標的はだれなのか。
それらを重ねあわせて、播天流の存在を導き出したにちがいない。
そして、おのれを逃がした。
「あの莫迦が!」
武人を捨て駒にして、自分たちは家財道具一切を持って逃げていく。そういう連中は山ほどいる。
自分たちの読みが浅いくせに、作戦の失敗をすべて武人のせいにして、処断を下して、生き延びた奴もいた。
生と死のやりとりを、実感として受け止めていないから、人の命の尊さが、口ばかりで、ほんとうにわかっていない者もいる。
だが、あの軍師は、おのれの盾を守るために、わざわざ自分が敵の前に立った。
叔父の復讐を果たすためではない。いま現実にある、いわれない悪意に対抗するためだ。
それが自分に向けられているわけではないのに、身を投げ打って、助けようとしている。
ほかならぬ、自分を。この趙子龍を。
「どうやら、解答が得られたようだな。で、どうするのだ」
あくまで冷静な老人が問う。
「樊城へ戻る」
老人が、またなにか言わんとしたが、それを制するようにして、趙雲は先んじて言った。
「俺はこのうえなく冷静だ。播天流のことは、軍師より俺のほうがよく知っている。あれは、ひどく身勝手な男なのだ。全体の利害などよりも、おのれの感情を優先にする。下手をすれば、やはり軍師の身があぶない」
「どうしてもか」
「どうしてもだ。こうしている間にも、軍師の言葉に刺激され、播天流が心変わりをして、軍師に害を為しているかもしれぬ。急がねば」
「む。命がけで止める、と言いたいところであるが、それでは本末転倒。もし戻る、というのであれば、それがしも共に参ろう」
「樊城には『壷中』しかいないわけではない。伊籍や劉公子に連絡し、かれらと連動して軍師を助けるのだ」
「なるほど、冷静だという言葉は信じてよいようじゃ。しかし、新野への連絡はどうする」
「それは、わたくしめにお任せを」
と、斐仁が趙雲の前に進み出た。
ためらいを見せる趙雲に、斐仁は鋭い眼差しを向けてくる。
「七年間、皆様方を騙してきたわたくしを、信じられぬというのも無理はないこと。しかしそこを曲げてお願い申し上げます。どうぞ、わたくしめにこの役目を。
わが一族を無慈悲に惨殺した『壷中』を潰すためならば、わたくしは犬馬の労をいといませぬ」
賭けである。
斐仁をつれて樊城へ向かったほうがよいのは決まっている。
しかし、新野への連絡に、新野のだれとも誼のない老人が向かって、劉備にまで報告が届くのに、時間がかかるようでは駄目なのだ。
斐仁が戻れば、新野の人間はおどろくであろう。
おどろくであろうが、かえってその言葉に耳目をあつめやすい。
しばらく悩んだすえ、趙雲は決断した。
「わかった。おまえが新野へゆけ。ただし、まず向かう先は屯所ではだめだ。
陳到のもとへゆけ。あれならば、軍師からの直接の指示を受けているから、おまえの話も飲み込みやすいはず」
待て、といって、趙雲は、近くにあった木から素早く木片を削り取ると、そこに、
「信じよ」
とだけ彫りこみ、下におのれの名前を書いて、斐仁に持たせた。
「これを見せれば叔至も信用するだろう」
「判り申した。それでは、さっそく参ります。趙将軍も、お気をつけて」
斐仁はそれだけ言うと、新野へ向けて、馬を疾駆させた。
残されたのは趙雲と老人だけである。
「さて、樊城へ向かうか。ところで遅まきではあるが、俺は貴殿の名を知らぬ。教えてはもらえぬか」
「おお、そうであったかな。それがしは名乗ったとばかり思っていたが」
と、老人は、カカカ、と豪気に笑った。
若い頃は、張飛のように陽気な男だったのではなかろうか。行く手になにがあろうと怖いものはないだろうと思わせてくれる、明るい雰囲気をもつ老人である。
「では俺からあらためて名乗ろう。常山真定の趙雲。字は子龍だ」
「それがしは南陽の産にて、姓を黄、名を忠、字を漢升と申す」
「黄漢升どのか。では、われらも参るぞ」
黄忠は趙雲のことばに、力強くうなずいた。
そうして、ニ騎は樊城への道を走り出した。