09年改訂版

孤月的陣
第四章 ナミダ  涙

「おや?」
男は、まず、自分が投げた石を痛がって、頭をさすっている禿げ頭の男を見、眉をしかめた。
「朱季南ではないか、なぜこんなところで暴れているのだ? 探したのだぞ。おまえのために、わたしは家に帰れないのだ」
男が言うと、禿げ頭の朱季南も、闇からあらわれた相手が、何者であったか思い出したらしい。気まずそうに顔をしかめる。
「貴殿、たしか、陳叔至、とかいう御仁であったな?」
「ふむ、わたしの名は覚えていたか。我が屋敷に担ぎ込まれたときは、前後不覚でべろんべろんの様子であったのに。いまは健壮な様子でなによりだ。樊城の子龍どのも安心されよう」
子龍、と聞いて、禿げ頭の朱季南は、ろこつに迷惑そうな顔をする。

「陳叔至さま!」

必死な声をかけられて、陳到は、怪訝そうに首をむける。
声をかけたのは、旅装の男であった。
「貴方様は、新野一の武芸達者と名高い、陳叔至さまでございましょう? どうぞお助けください。わたくしどもが、このあわれな浮浪児に飯をめぐんでやっているところへ、この連中が、いきなり襲ってきたのでございます!」
旅装の男は、縄標を巻かれていた腕をさすり、いまにも泣きそうな顔をして、陳到に訴える。
かたわらの女は、その男をなだめるようにして背中をさすり、泣きそうな顔をしている。
「なんだと。そうなのか、朱季南。だいいち、そこの女人は何者だ?」
水を向けられて、男装の女は、くっと顎をあげると、答えた。
「わたしの名は嫦娥。医者だ。ところで陳叔至どの、こいつらの言葉を信じてはならぬ。こやつらは『壷中』にて、人をだます訓練を徹底的につんでいる」
「なに、『壷中』、とな?」
それまで呑気におのれの世界を展開してきた陳到は、嫦娥のことばに、顔をこわばらせた。
周囲のだれもがおどろいたことに、いままで、ぼんやりとしていた陳到の顔から、平素の表情がすうっ、と消えて、代わりに孤狼のような、冷徹な武人の顔があらわれた。
ただひとり、嫦娥だけは、変わらず無表情のまま、陳到に言う。
「諸葛孔明は、貴殿らに指示をしているはずだ。『壷中』。その名にきき覚えがあるだろう。こやつらは、『壷中』から派遣された、人買いなのだよ」
嫦娥のことばに、陳到は大いに眉をひそめた。
「人買い? 徴兵のどさくさにまぎれて、子供たちを攫っていった連中と、こやつらに繋がりが?」
「なにをおっしゃっておられるのか、わかりませぬ。そのような男のナリをした怪しげな女より、われらの言葉をご信用くださいませ!」
さきほどまで、禿げ頭の朱季南と戦っていた同一人物とは思えないほどの哀れっぽさで、男は叫ぶ。
「叔至どの、諸葛孔明はこやつらに、目の仇にされて狙われている。当然、貴殿の上役の趙子龍とも対立する立場にある連中だ。いま逃せば、あとあと厄介なことになるぞ」
と、これは嫦娥のことばだ。

陳到は、体ごと嫦娥に向いた。
「軍師が、なぜに『壷中』に狙われると?」
「見てしまったからだ。いや、見られたと思われたから、といったほうが正しいか。『壷中』という組織は、二度にわたり分裂をしている。その始めの分裂のきっかけをつくったのが、連中が、諸葛孔明に姿を見られたことであったのだ。
『壷中』というのは、無垢な子供を攫い、人界と孤絶した村で、自分たちの都合の悪い人間を暗殺するための、要員を育てている村の名前なのだ」
「子供を攫って? では、新野にあらわれた人買いは、自分たちの仲間を増やすために、子供たちを騙してさらっていった、というのか」
「そうだ。『壷中』での訓練は、われらの想像をはるかに絶するもの。そのために、せっかく連れてきた子供たちも、途中で命を落とす者が絶えない。だから、連中は、絶えず子供を攫っていく」
「なんという話だ。しかし、誰がそのような組織を作っているのだ?」
「それはいえない。いま、貴殿がそれを知ったら、貴殿と、貴殿の家族が危うくなる。いまは駄目だ」
陳到は顔をしかめた。
「む、それは困るな。しかし貴女は、ずいぶんご事情にくわしいようであるが?」
「子供は、産まれてくるとき、家を選べない。名前についてもおなじことだが。ずいぶん悲しい話だ」
「は?」
嫦娥のことばの意味がわからず、小首をかしげる陳到であるが、ふと、その視線の端で、男が動くのが見えた。
あっ、と陳到のうしろで、状況がつかめないで、ぽかんとしていた糜家の養子兄弟が声をあげた。
男は、走りざま、地面に落ちた短剣を足で宙に蹴りざま、それを取る。
そうして、斂に向かって突っ込んでいくところであった。

一瞬のことであった。
月光をうけて、輝くものが二つ。
斂を人質にして逃げんとする男の短剣と、そうして…

光が走った。

その場の誰もが、何が起こったのか、目視することができなかった。

斂は、おのれに向かってくる男の腕だけはわかった。
しかし、それは、光が走った、と思われたつぎの瞬間に、消えうせたのである。
だが男の姿は消えない。
男とて、何事が起こったのか、わからなかっただろう。
男の両腕はなかった。
衝撃からわずかに遅れるように、切り離された両腕が地面にぼとりと落ちた音が、ふたつ。
驚愕と衝動に、体の動きを崩す男に、ふたたび光が走る。
今度は、はっきりとわかった。陳到が、正確無比の動きで、男の首をあざやかに跳ね飛ばしたのである。
傍らにいた女の悲鳴が、夜の街にえんえんと響いた。

だれも、しばらく言葉を発しなかった。
糜家の養子兄弟は、兄の伯亮は腰をぬかし、弟の叔亮のほうは、半べそをかきながら吐いている。
朱季南は、目の前で一瞬にして行われた業に驚嘆し、斂もまた、悪い夢でも見ているかのように、身動きをとることすらできなかった。

「子供をさらって、人殺しの道具に仕立てているとは、なんと腐った連中か!」
陳到は血に濡れた刀を鞘にしまいながら、ぷりぷりと怒っているのであるが、すでにその表情からは、さきほどまであった狼のような凶悪さは消えている。
その落差は、さらなる沈黙を呼んだ。
だれも、陳到についてこられない。
だが、陳到はそんなことは、ちっとも気にせずに、伯亮と仲亮に言った。
「さあて、その女を逃すな。屯所へ引っ立てるのだ。『壷中』という村のことをこの女から聞き出し、主公と軍師にご報告せねばならぬ。
しかし、朱季南は見つかるわ、人買いの正体はわかるはで、めでたいことではないか。これも日ごろの行いがよいので、天がわれに褒美をくださったにちがいない。うむ」
一人合点をし、陳到はぼう然とへたりこんでいる女に向かっていく。
そうして、同じくぼう然としている朱季南より、さりげなく縄標を奪うと、それで女をぐるぐる巻きにして、身動きがとれないようにした。
そこへ嫦娥が言う。
「待て、その女を取り調べるのであれば、男では駄目だ。女にさせろ。『壷中』の女は、捕らえられたことを想定して、さまざまな手練手管を弄して逃げ出す術を心得ている。
それと自害されぬようにな。たとえうまく逃げおおせたとしても、秘密をもらせば仲間から命を狙われる。そのことを、『壷中』の人間は、なにより恐れる」
「女に取り調べ、それから自害をせぬように、か。あいわかった。しかし、嫦娥どのとやら、貴女方にもわれらとともに屯所に来ていただきましょう。『壷中』のことをもっと聞かせていただきたい」
「お断りする」
きっぱり嫦娥は言い切った。
「なぜ?」
「わるいが、わたしのほうにも色々予定がある。探しているものがあるのだ」
「なんだね。もしわたしと一緒に屯所へ来てくれるならば、兵卒を貸してやってもよい。一人で探すよりも、よほど見つけやすくなると思うのだが」
「お心遣いはありがたいが、お断りさせていただく。これは、わたし一人の力で見つけたい」
ふうむ、とうなりつつ、陳到は神妙な顔をして、顎をなぜた。
そうして、ふと目を開く。
「ならば、貴女を無理にでも連れて行かねばならぬ。われらの軍師が、『壷中』に狙われている、とうのであれば、なおのこと」
「やはり、そうなるか」
嫦娥は、うんざり、というふうにため息をつく。
そうして、おもむろに袖から、黒く丸い玉を取り出した。
それを見て、陳到が顔色を変える。
嫦娥が丸い玉を地面に思い切り叩きつけると、同時に、ぶわっと周囲が厚い煙につつまれた。

斂は煙のなか、不意に手をひっぱられた。
その手の感触は、優しくやわらかで、やはりおくさまの手によく似ていた。
「走りなさい。わたしからはぐれぬように」
嫦娥が短くつぶやいたのが聞こえた。
煙の向こうの相手はよく見えなかったけれど、斂は大きくうなずいた。
そうして、陳到たちに捕まらないように、懸命に駆けた。
この白くたおやかな手の主と、ともに行けることがうれしかった。






時間は、ここで、すこし巻き戻る。

樊城に戻る途中で、休憩を、と言い出したのは孔明のほうであった。
うねった道の途中には、かたむきかけた陽光を受けて、きらきらと宝石のように輝く水田があり、趙雲は、そこで作業をする農夫たちから清水のある場所を教えてもらった。
農夫のひとりは、立派な風貌の二人連れに驚き、そして趙雲の礼儀正しさによろこんで、スモモの実を分けてくれた。
水筒に水を汲み、そしてスモモを持って行くと、孔明は、趙雲の馬を撫でてやり、まるで友にするように、話かけているところであった。
どんな言葉をかけてやっているかまでは、聞こえない。
趙雲の馬は、平素より乗りなれた、袁紹のもとから連れ出してきた、栗毛の馬である。
名を赫曄(かくよう)という。その名の示すとおり、馬の中でもかなりの美人で、光り輝くような色艶をもっている牝馬なのであるが、これがとんでもないじゃじゃ馬で、だれも乗りこなせず、もてあましていたのを、趙雲が引き受けたのだ。
赫曄は人見知りがはげしく、誇り高くもあるので、気に入らない人間がくると、棹立ちになって、前足をはげしく鳴らす。
しかし、孔明のことは気に入った様子で、孔明に鼻面を撫でられていると、気持ちよさそうに、鼻を鳴らして、尾っぽを振っている。

「馬の言葉もわかるのか」
趙雲が声をかけると、孔明は血の気のうすい青白い顔に微笑をうかべて答えた。
「この馬は、あなたのことがとても好きなのだと言っていたよ」
「当然だ。人間の女より大事にしているのだからな」
「スモモを持ってきてくれたのだね、どうもありがとう。ちょうど咽喉が渇いていたのだ」
と、孔明は、趙雲からスモモを受け取った。
顔が青白いだけではなく、その手すら青い。しかも震えている。
趙雲は、スモモを渡すフリをして、孔明の手を掴んだ。
そうしてぞっとする。死人のように冷え切っていた。

初夏である。
太陽も照っている。
馬上で風にあおられ続けた結果のことではない。
その顔をのぞきこむと、孔明は笑いながら、やんわりと、おのれの手を掴む趙雲の手をほどいた。
「なんだ、スモモが惜しくなったか」
「はぐらかすな、熱でもあるのか」
孔明は、おのれの額に手をあてて、寂しそうに、それでも微笑を絶やさず、答えた。
「どうかな。頭がぼおっとしているのは確かだ。そんな顔をされるほど、わたしはひどい顔をしているのか」
「俺は、どんな顔をしている?」
「死者を見送る友のような顔だ。なあ、子龍。相談なのであるが、あなたは、いまから新野に戻らぬか」
「二人でか。しかし、樊城に残してきた者たちはどうする。そういうことになるのであれば、一緒に連れてくるのであったな」
「そうではない。あなたひとりで、新野へ戻れ、という話だ」
「俺ひとりで? おまえはどうする?」
「樊城へ戻る。おそらくいまでも、『壷中』は、どこかでわたしを見張っているにちがいない。
わたしは守りとして、あなたを樊城に連れてきたが、やはり間違いであった。
あなたは新野に残り、わたしは叔至を伴にするべきだった。
いまさら言っても詮無いことであるが、わたしたちが伴にいるのは、連中がかえって動きやすくなってしまうのだ」
「待て。樊城へ向かう前に、俺もたしかめたかったのだ。『壷中』とはなんだ? なぜおまえを狙う?」
「『壷中』とは、荊州、正確には樊城を守るために作られた、刺客を養成するための組織なのだ。おそらくそれは、徐州や中原の燎火をのがれたものの、親からはぐれた子供たちを集めてつくられたものだ。最初はな」
「最初は?」
「子龍、『壷中』の意味を知っているか。この世とは別天地の、富にあふれた幸福な世界をさす言葉だ。
はじめ、荊州の主だった人士は、難民の子供たちを救うために、一つところにあつめて、鍬を持たせて、開墾をさせた。
そうして、子供たちに、自分たちの信奉する思想を教え、成人したあかつきには、ひろく世の役に立つ人間に育てようと、そういう高邁な理想に『壷中』は支えられていた。
叔父の玄は、当初の『壷中』に賛同し、その協力をしていた。親からはぐれた子供たちを食べさせてやれるだけではない。教育まで与えて、立派な人間にしようというのだから、子供好きな叔父はよろこんで協力したことだろうと思う。
だが、途中からそれが歪んだのだ。なにがきっかけかはわからぬ。
叔父はそれを知らなかった。知らなかった、ということは、もしかしたら、樊城の、『壷中』を主催する人間の一部が、暴走したのかもしれぬ。
そんな中、叔父は徐州から逃げてきたわたしたちを引き取り、南昌へ連れて行く道中で、わたしと均を襲おうとしている流民の子と、かれらを隠れ蓑にして、草むらにひそむ人間を、斜面の上から見つけた。
それは程子聞の書簡にあったことだ。わたしに近づいてきた子供は、程子聞だったのだよ。
ぼろぼろで垢まみれであった子供が、あんなに立派になったので、わたしも気づかなかったのだ。
だが、程子聞は、川原で攫おうとしていた子供が、わたしであるとすぐに気づいたそうだがね。
当時は、わたしたちを攫おうとしていた人間は、おそらくわたしたちが諸葛玄の甥ということを知らなかったにちがいない。
叔父は草むらに潜む人間のなかに、きっと見知った顔を見つけたのだ。向こうも、叔父上に気づかれたことに気づいた。
ぼろぼろにすりきれて、汚れた子供たちを率いて、さらにかれらをつかって人攫いまでしようとしていた人間を見て、叔父は、『壷中』の内容がいつのまにか摩り替わり、人買いにも劣る組織に成り下がっていることを知った。
そこで黙っている叔父上ではない。叔父上は、樊城の『壷中』に抗議をした。叔父はあれで、なかなか激しやすい人であったから、このことを公表するとでも言い切ってしまったのかもしれない。
当然、叔父上は邪魔になる。だから、『壷中』は叔父上を暗殺したのだ。わたしを狙うのも、わたしが叔父上から何か重要な遺言を言付かっていないかと警戒したためだ。
むしろ、いままで命があったのが奇跡なのかもしれないな」
「樊城の、いったいどいつが、そんな吐き気のするような組織を作ったと?」
「荊州の豪族たちだ。程子聞の手紙によれば、豪族たちは、視察と称して、よく壷中村にやってきていたそうだよ。そのときに子供たちにどんな振る舞いをしたか、想像するだけで身の毛もよだつが」
「ひどい話だ」
「そうだ。ひどい話だ。最初は高邁な理想からはじまったものであった。美しいものは細心の注意を払わねば作ることができないが、汚いものは一瞬でできあがる。
『壷中』の存在意義は変貌し、やがて刺客を養成するための組織に変わっていった。
しかし、すべての子供たちが刺客になれる、というわけではない。刺客と一口にいっても、あれだって特殊技能を必要とする、血のにじむような修練を必要とする職業だ。
きびしい訓練のなかで、子供たちの数人が命を落とすのは当然だろう。
わたしを攫おうとしたのは、すでに、子供の数が減っていたからだ。
子供がいなければ、『壷中』は成り立たない。
そうして、連中は、親からはぐれた難民の子だけではなく、親のいる子も、むりやり親元から引き離して、攫っていったのだ」

黄巾党がそもそも力を伸ばした背景には、生活が疲弊した、漢帝国のほぼ九割を占める、彼ら農民たちの悲惨な状況があった。
農民たちは、現世で得られない安息を、宗教に。黄巾党の説く理想郷に求めたのだ。
農民の不平不満を糧に、黄巾党の党首・張角は蜂起をした。
蜂起を促された農民側とて、ためらいがなかったわけではない。
しかし、いつ果てるともない飢餓にさらされた人間が、たとえ相手が無辜の民だとわかっていても、相手から食糧を奪わねば、自分が死ぬかもしれない、という状況に置かれたら、たいがいの者は武器を手にしただろう。
己のためだけではない、家族のためにも。

そうして、さらに戦禍はひろがっていく。

農地を賊に何度も襲われれば、どんなにその土地が先祖代々のものであろうと、立ち去ることを余儀なくされる。
奪われるのは物品だけではない。
賊は、あわれな農民たちから、気力さえも削いでいった。
かくて、漢帝国のはじめには、洛陽周辺に集中して居住していた農民たちは、後漢末には、なんと人口の半分までが、荊州や益州などに流出していった。
その数、およそ一千万。
彼らのすべてが、新天地を得ることができたわけではない。
中には、苦しい生活に耐えかねて、一族こぞって流賊に身を落とす者もいた。
逆に賊に襲われ、一族が離散してしまった者もいた。
流賊になることをよしとせず、武装し、一族を率いて、見所のある英雄に合流する者もいた。
そのなかでも、ついぞ安住の生活を得られなかった者は、どうなったのであろうか?



趙雲はしばし、絶句した。
冷たい風が木立をゆらし、その音で、ようやく我に返る。
「ばかな。もともと、親を失くした子どもを救うためのものが、親から子を引き離すものに変わった、というのか」
「子龍、そこで問題が発生するのだ。
いまさら言うまでもないが、荊州の領民たちから子どもを奪ったなら、たびたび騒ぎになったはずだ。
人攫いの話は稀にあるが、子供がひとり、いなくなっただけで騒ぎが起こる。
しかし、十三年前、大々的に子供を大量に攫った連中は、親たちから騒がれることがなかった。
もし親たちが子供を求めて声を挙げていたのなら、なにがしかの話が残っているはずだ。
一人や二人の話ではない。わたしは、川原でたくさんの子供たちを見た。
彼らとて、集められた子供の一部でしかないのならば、全体の数はどれくらいになると思う?
しかも『壷中』は、その名前を知られることすらなく、十余年も存在をつづけていた」
「だから、そもそも親のない子供たちが集められたのではないのか」
「そうではない。むしろそうであったほうが、まだ救われるのだがね。
程子聞は、もともと徐州の農民の子であったそうだよ。
曹操の虐殺のために村を焼かれ、やむなく一族そろって荊州を目指したのだそうだ。わたしとおなじ境遇だったのだ」

流れてくる民を、受け止める側にも確執があった。
この時代、未開拓の土地は多くある。
しかし、利権の問題がからみ、ときに争いが発生するのはやむを得ないことであった。
その争いが激しさを増し、血で血を洗うものになるのも、止めようのないことである。
乱世の爪あとは、平和な土地にさえ、その残酷なしるしを刻む。

人口の大半が戦禍によって失われた時代には、人は資源である。
しかし、受け入れる側、つまりは豪族たちにとって、つぎつぎとあらわれ、そして問題を起こしていく流浪の民の処遇問題は、頭の痛いものであった。
人の命の値段は、とびきり安くなる。
安定した暮らしをもとめて、かつては自作農だった者が、みずから奴隷になることもあった。
流浪の民が合流し、豪族たちの私兵とぶつかり合うことも稀ではない。
自分たちの土地を守るため、豪族たちは刃をふるう。

築かれていく死体の山、山…

やがて、死が日常茶飯事となった日々のなかで、人間としての最後の矜持がうしなわれてしまったのだろう。
襲われる前に襲う。そういわんばかりに、豪族の私兵が暴走をはじめ、そうして、徒手空拳の流民に襲い掛かった。
自分たちの土地を、襲ってくるかもしれない者への、戒めも籠めて。
虐殺がおわったあとに、我にかえった豪族のうち、だれかがこんなことを言い出す。
そうだ、大人は殺すにしても、子供はもったいない。『壷中』に連れて行けばよいではないか。

「人は動物のように狩られ、子供だけが残された。大人たちはみな殺しにされ、物品はすべて奪われたそうだ。
掠奪された物は、ある物はそのまま豪族の屋敷を飾り、ある物は、『壷中』の資金となった。
子供たちは集められて、『壷中』のある村へ連れて行かれる。
そこで待っているのは、刺客になるための激しい訓練だ。
ありとあらゆる学問、武術、房中術に至るまで、徹底的に仕込まれる。
成人するころには、村の主たる樊城を中心とする豪族たちに絶対服従するように、教育されている。
かれらは、命じられるまま忠実に動く。
わたしも細作を使うようになって思ったのだが、彼らの忠誠が、敵方の説得かなにかで失われてしまったらと、想像しただけで、とても怖くなる。
逆に、絶対無比の忠誠をささげてくれる人間を細作に使えたら、それは心強いだろうと思うよ。
皮肉なものではないか、別天地の楽園を指す『壷中』の名を冠する組織でありながら、その実態は、死を司るおそろしい子供たちを産み出す場所なのだ」
「わからぬ。親の仇である人間に育てられ、それでもなお、忠誠を尽くせるものなのか?」
「そこが教育の恐ろしさというものだろう。
もしわたしもあのとき攫われて、それでも毎日、きちんと食べさせてもらったうえに、それなりに仲間もできたなら、だんだんと心境が変化していっただろうと思う。
家族のことを忘れることはないかもしれないが、人というのは、やはり過去の思い出より、現在の己の環境のほうを優先するものだからな」
「しかし、俺たちが新野に居住するようになってから、七年間、人買いなんて、出たことがなかった。斐仁のことといい、なぜ今になって、連中は大胆に動き回っているのだ?」

趙雲が尋ねると、木の幹を背に、膝を抱えるようにして座っていた孔明は、その姿勢のまま、なんとも形容しがたい、笑っているような、困っているような表情を浮かべた。
「だから、新野に帰ってほしいと、わたしは言っているのだがね」
「なにが『だから』だ」
「子龍、いまは憶測に過ぎないから話せない」
「俺には理解できない、とでもいうのか」
「そうではない。あなたは、おそらく、わたしよりも多くのものを見た。ただ、すべてが、わたしではなく、あなたに対して向かっているのだ」
趙雲は、わけがわからず、どこか慈愛めいた笑みを浮かべる孔明に苛立ちつつ、尋ねる。
「俺は『壷中』と、どういう関わりがある、というのだ」
「よいか、『壷中』は、二回にわたり、分裂をしている。
一度目は、みなしごを育てるための村であったものが、刺客を養成する隠れ里になったとき。
そのときのあおりをうけて、叔父は暗殺されたのだ。
二度目は、いまだ」
「いま?」
「そうだ。わたしたちは、自分たちが相手にしているものが、『壷中』という一つの組織である、と思い込んでいた。
しかし、そうして見ると、『壷中』の動きは、じつに整合性がないと思わないか。図らずも、あなたはずばり言ってのけたではないか。
親を殺された者が、あるいは親から引き離された者が、親の仇に心服することができるのか、と。
『壷中』は刺客を作る組織であるが、同時に、非常に優秀な人間を作っている組織でもある。
そんな彼らが、いつまでも、愚かで淫蕩で怠惰な豪族たちに、唯々諾々と従っていると思うか?」
と、孔明は、懐から、ずっと大事そうに抱えていた、程子聞の書簡を趙雲に突き出して見せた。
「読むがいい。わたしが千の言葉を尽くすよりも、ずっと説得力があるから」
趙雲は、不承不承に受け取りつつ、書簡を開いた。
そこには、男らしい、勢いのある、達筆な文字で、こんなことが綴られていた。

『是がおまえさんの手に渡ったということは、今頃吾の亡骸は、『壷中』の連中によってズタズタにされていることだろう。
泣いてはいないと思うが、とりあえず、泣いてくれるなとだけは先に言っておく。
吾はおまえさんに、いろいろ嘘をついたので、泣くに値しない男なのだ。
まず、吾は樊城で会ったのが、初対面ではない。
おまえさんとは十三年前、南昌へ向かう道の途中で、出会っている。
川原で会った子ども、といえば思い出すだろうか。
つづいて、吾は、漢津の出自ではない。もとはおまえさんと同じ、徐州の貧乏な農家の出だ。
どうして徐州から荊州にまで流れてきたのか、その理由はおまえさんとて肌で知っているだろうから、あえて書かない。
吾の一族は、荊州に行けば、なんとかなると信じていたようだ。
いま思うと目出度い考え方だが、当時の流民は、みな似たり寄ったりではなかったかな…』

そのあと、手紙は、一族が、突如として兵士たちに襲われたこと、大人たちはすべて殺され、程子聞のような、子供だけが集められたことが綴られていた。
連れて行かれた先は、山深いところにある隠れ里『壷中』。
そこで程子聞は、『程子聞』の名を与えられ、刺客としての教育を受けた。
優秀ではあったが、ムラ気のおおい程子聞は、品行の悪さもあって、前線(つまりここでは、中原に派遣されている仲間たちのこと)から外され、劉公子の監視役として、樊城に配置された。
『壷中』が身内であるはずの劉琦を警戒した理由は、その人柄にある。
気弱ではあるが潔癖で、正義感あふれる公子は、『壷中』の存在を知ったなら、おそらく潰そうと動くにちがいない。
劉公子が跡を継ぐよりも、おなじ『壷中』の仲間である、蔡瑁とつながる劉琮が跡を継いだほうが都合がよい。
そのための監視役として、二人が派遣された。
二人。
つまり、程子聞と、花安英である。

「やはり」
うめくように低くつぶやいた趙雲に、孔明が声をかける。
「思い当たるところがあったようだな」
花安英に、直感的に嫌悪感を抱いた。
馴れ馴れしいから、男らしからぬ振る舞いをするから、というだけではない。
それはあとから付け足された情報だ。

花安英といると、ひどく緊張した。
その緊張感は、可憐な見た目を大きく裏切るほどにつよいものであった。
そう、張飛や関羽などの、相当な手練れと対峙したときと、まったくおなじ緊張感だった。
だから、蔡氏と蔡瑁の密会現場から逃げる途中で、右肘を切っていたことにも気づかなかった。
相手に隙を見せないよう、反射的に、ずっと身構えていたのである。
右肘の傷にあとから気づいたとき、同時にそのことに思い至り、趙雲は、花安英が『壷中』の人間ではないかと考えた。
百戦錬磨を自負する趙雲すら緊張させるほどの少年が、なぜ道化のような真似をして、おのれの本分を隠そうとするのか。
後ろ暗いところがないのであれば、武将として堂々と振る舞えばいい。
樊城の独特の、文を重んじ、武を軽んずる雰囲気を厭うがゆえ、などというふうでもない。
武人であることを公に出来ない者、それをしてならない者とは、どんな種類の者か。
間諜。
あるいは、刺客。

読みはずばり、当たっていたわけである。
花安英の、ときおり見せる、あどけなさの残る、ふてくされた顔を思い出すと、その疑問が揺らぐことすらあった。
趙雲は、疑問が外れていたらよいのにと、真実が判明したいま、はじめて思った。
身の上を知れば、あわれであった。
十六、七といえば立派な成人であるが、その重ねてきた歳月の中に、どれほどの酷い傷跡が、あの少年の身に刻まれているのだろう。
ふつうの子弟ならば、まだ人生のはじめ、これから花を咲かせるときである。
花安英の身に、離れず付きまとう印象。爛熟した果実。
あれは、薄汚い仕事をこなすために、少年の時をゆがめて、早成をうながした結果によるものなのか。

「奴が『壷中』ならば、なぜ蔡瑁や蔡氏の密会のことをわれらに教えたのだ?」
「わからぬ」
身も蓋もない否定のことばに、思わず趙雲の言葉はつまる。
孔明は、おのれの頭髪のほつれた部分を、指先で弄びつつ、絶句する趙雲を見る。
「花安英のことは、さっぱりわからぬ。あれのどこが、わたしと似ていると? 
程子聞め、生きていたなら、きっと問い詰めてやったのに」
こいつも、程子聞のことは、まるで、いまでも生きているように語るのだな、といささか気味悪く思っていると、孔明は、ふと、その眼差しを趙雲に向けた。
「似ているか?」
「見た目の派手さは似ているかもしれぬが、中身はどうだろうな。俺は、花安英と深く付き合ったわけではないし」
「深くなんて付き合ってみろ、主騎は解任だ」
「よほど、花安英と一緒にされるのがいやなようだな。向こうも毛嫌いしていたようだが。そういうところが似ているといわれる所以ではないのか」
「なんであろうな。わたしには、あまり人を好き嫌いで分ける性質ではないのだが、あの少年だけはだめなのだ。うまく表現できないのであるが、『見たくない』のだ」
「なんだそれは」
「体調が悪いときや、なにかが噛みあわず、思うとおりに身なりを整えることができなかったときは、鏡を見たくないだろう。ああいう、心の奥底を素手でかきむしられているような、なんともいやな心境になるのだ」
近親憎悪、という言葉が頭をちらりとかすめたが、孔明がふて腐れる可能性があったので、趙雲は黙っておくことにした。
まだ聞かねばならないことがある。

趙雲が、花安英が刺客ではないかと思い切るのに、ためらった理由のひとつに、喋りすぎる、ということがあった。
何かから目を逸らさせるために、口からでまかせを連呼していたのではない。
あとから思い返せば、花安英の言葉は、すべて真実なのである。
敵と見なす孔明の代理ともいうべき自分に、なぜ真実を語ったのか。
そして疑問がある。
花安英と程子聞が『壷中』だとすると、なぜ、程子聞だけが殺されねばならなかったのか?
趙雲はふたたび、程子聞の手紙に目をおとした。

『劉公子のお守りは、退屈極まりないものであったが、よいこともあった。
それはおまえさんと再会できたことだ。これは厭味ではない。
正直、吾はもう人生がどうでもよくなっていた。
『壷中』にはうんざりしていたし、かといって、連中から逃れることはできない。
連中は、自分たちの秘密が外部に漏れることを恐れていたからな。
もっとも、恐れているのは、『壷中』の成り立ちに関することであったがね。

信じられぬかもしれないが、吾たちはみな、父と母、という言葉を使うことも禁じられていた。
連中は、吾に食事と、寝床さえ与えておけば、親のことなんぞ忘れてしまうだろうと考えていたようだが、実は大人になって、親の年に近づいていくと、かえって親のことを思い出すようになるものだということを、計算していなかったらしい。

劉公子の側にいる間は、じつに暇であったから、考える時間もたっぷりあった。
何度も、いっそ曹操や江東、あるいは益州、そうでなければ涼州へ逃げようと考えた。
だが、とうとう果たせなかった。
どんな方法を考えてみても、頭の中で、吾は連中に追いかけられて捕らわれる。
連中の優秀さは、仲間である吾がいちばんよく知っている。どう考えても、駄目なのだ。

やがて吾は、どうやって死ぬか、そればかり考える人間になっていたのだ。
花安英の奴は、そんな吾が不満だったらしい。あいつは『壷中』のなかでもずば抜けて優秀だった。
吾とちがって、ちゃんとした家の息子だったらしいから、そもそもが違うのだろう。
これは気づいていたかも知れないが、吾は花安英と断袖の契りを交わした仲だった。
奴は熱心に『壷中』の任務に励んでいたから、やる気をなくした吾が歯がゆかったのだろう。
喧嘩ばかりするようになって、これがまた吾の倦怠感に拍車をかけてくれた。
おまえさんと会ったのは、まさにそんな時だった。
吾には、まさに天の配剤のように思えた。
おまえさんは、あのとき『壷中』に連れていかれていなけりゃ、そうだったかもしれない『吾』だったからだ』

以降、程子聞の、孔明に対する思い入れが、長々と綴られていた。
正直なところ、それを目にすることは趙雲にとっては苦痛であった。
すでに生の灯火の消えた者の、心の内に、土足で入り込んでいるような、居心地のわるさをおぼえたからである。
加えて、そこに展開していたのは、単なる友情だけではない。
憧れと、嫉妬と、激しい愛着の入り混じった、複雑きわまる心情であった。
断袖の男のたわ言、というだけではなかった。程子聞の心の動きのなかに、自分によく似た部分を見つけ、趙雲はうろたえた。

涙 3へつづく
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