09年改訂版
孤月的陣
第四章 ナミダ 涙
①
夕暮れどきの新野の市は、台所を預かる女たちの姿で、にぎわっている。
そんな女たちを目当てに、売れ残りを安くする商人もいて、いっそう市場を盛り上げている。
影の濃くなった市場は視界も悪い。さまざまな人々の声の交差するなか、日が沈むぎりぎりまで遊ぼうと、一日のしめくくりににぎやかに遊んでいる子供たちが大人たちのあいだを縫って駆けていく。
「これくれ」
人ごみにまぎれてしまったなら、知り合いでさえ、探すのがむつかしくなるだろうというくらい特徴のない風貌をした陳到は、小銭を取り出して、行商人の親父に声をかける。
めずらしく、背後に部下をひきつれた陳到の姿に、親父さんは、特に選んだ大きな梨を取り出しつつ、おもしろそうな顔をして、からかうように言った。
「おや、陳さま、ご出世なされたのですか。たいそうな行列ではございませんか」
「冗談ではない、仕事だ、仕事」
「ご苦労さまでございます。こんなお時間までお仕事とは」
「まったくだ。親父、ほかの連中にも、見たことのない怪しいやつがウロウロしていたら、すぐに屯所に報せるようにと、伝えておいてくれ」
「もちろんでございますとも。ところで、趙将軍は、いつごろお帰りになられますか?」
口をおおきく開けて、梨にかぶりつこうとしていた陳到は、ぴたりと止まって、訝しそうに親父に目を戻す。
「なんだって、そんなことを聞いてくる?」
「市場の女どもの代わりですよ。趙将軍が最近、お見えにならないので、女どもが、お風邪でもめされたのでは、と大騒ぎしやがってしょうがないんでさ」
「趙将軍は、仕事で樊城へ行っておられる」
「ああ、左様でございましたか。ははん、女たちに教えたら、きっとがっかりするでしょうなぁ。陳さま、賭けてもいい。明日から、紅をさしてる市場の女が半分に減りますぜ」
「あの人は方々でもてるな。まあ、近々戻られると思うから、女たちによろしく伝えてくれ」
わかりました、今後もごひいきに、と親父さんは笑いながら言った。
しゃり、と心地よい音をさせながら、梨をむしゃむしゃと食べる陳到のうしろからは、さきほどから、剣呑な目線を向けてくる、二人の新兵がついてくる。
糜竺が、趙雲の部下に組み入れてくれと孔明にたのんだ、二人の息子であった。
「叔至さま、お仕事をなさらずともよろしいのでございますか?」
「仕事なら、現にしているだろうが」
陳到は、足を止めて、おのれの自宅のあるほうを見る。
市場を右にまがって、しばらくいった路地をさらに行くと、陳到の屋敷だ。そこで、妻と二人の子が待っている
「ああ、家に帰りたいなぁ」
「市場でうろうろするのが仕事なのですか?」
どうしてこんなに熱心なのか、陳到がよくわからないほどに、仕事に真面目な少年と青年は、憤慨しているらしく、顔を赤くして言う。
「おい、わたしは、遊んでいるのではないぞ。これは巡回だ、じゅ・ん・か・い。おまえらも、わたしばっかり見張ってないで、ちゃんとあたりを見張っておれ」
「いいえ。皆さま方より、民を見てまわるよりも、叔至さまが、途中で家に逃げないように見張れ、と念を押されました」
「ったく、信用がないのう」
ぼやきつつ、陳到は空をあおいだ。
西の空に溶けていく夕陽の上を、カラスの群が羽ばたいているのが見える。
おそらくあれは、いまから古巣へ帰るのだろう。
「カラスになりたい」
「叔至さま、軍師より、今朝ほど何通も書状が届いていたようでございましたが、なにもなさらずによいのですか?」
「うん? 書状か? あれは軍師の主簿や、孫乾どのが処理なされるからよいのだ。わたしはただの伝達だからな。それにわたしなんぞより、役に立つ人間が、ほかにもたくさんいるからいいのだよ」
はあ、と生返事しながら、糜竺の養子兄弟は、納得がいかない顔をしている。
樊城の孔明からの書状は三つあった。
斐仁の守っていた東の蔵を、徹底的に調査しなおすこと。
壁になにか塗りこめられていないか、床板もすべて剥がす。
もちろん、目録にもすべて目を通し、数があっているかどうか、合わない余剰品がないかどうかを確認すべし。
あとからつづいて届いたのが、二番目。
劉州牧の夫人、蔡氏の実家の所在をあきらかにすること。
そのうえで、家族構成を聞きだすこと
そして三つ目は…
陳到は、ちらりと息子たちを振り返り、そうして訪ねた。
「おまえたちも、いまからそんなカチコチでどうする。たまには家に帰って、家族に囲まれてゆっくりしたいとか思わんのか」
するとふたりのうち、少年のほうはあきらかにしょんぼりし、兄に当たる青年のほうが、怒りもあらわに返答した。
「わたしたちの家は糜家です。しかし父上のおられぬあの家に戻っても意味がございません」
「なんだ、継子いじめにでも遭っているのか」
「叔父上がいらっしゃいますので」
と、弟がぼそりとつぶやくのを、兄がきびしくたしなめる。
「これ、余計なことを言うな!」
「それじゃあ、糜家じゃなくて、昔の家に戻ればよいではないか。『壷中』にあるのだろう、おまえたちの家は」
陳到はさりげなく、しかし目の奥ではするどく、息子たちの反応をうかがった。
しかし、かれらは幼さの抜けきらぬ顔をきょとんとさせて、鸚鵡返しにしてくる。
「コチュウ?」
「それはどちらの土地なのでしょうま。わたしは河内、弟は南陽の出自です」
「おう、そうであったか、だれかと間違えてしまったようだ、ゆるせ」
応じつつ、陳到は、内心で
『これはちがうであろうな』
と、見当をつけた。
このとぼけっぷりが、実は演技だとしたら、兄弟揃って、とんでもない曲者ということになる。
孔明の三つ目の書状には、こうあった。
糜竺に、主公への裏切りの疑惑あり。
かれらに気付かれないように、その真意のてがかりを探れ。
また、『壷中』という村の出自ではないか、あるいはその村のことを知らないかどうかを、これも気付かれないように探れ。
もし関係がないのであれば、新野から逃さぬように、見張りを絶やさぬこと。
あの糜竺にかぎって、まさか、と、書状を読んだ者はみな思った。
この書状が、糜竺ではなく、その弟の糜芳のことを探れ、という内容であったなら、みな、まさかと口で言いつつも、どこかで納得したであろう。だが、糜竺については、まさか、であった。
新野じゅうの人間に、「だれからも好かれる人間はだれか?」と問えば、最初に出てくるのは、劉備ではなく糜竺の名前であろう。
それほどに、人々から慕われている。
どちらかといえば、血の気の多い新野の面々が、七年間、流血沙汰を一度もおこさずに、民衆ともよい関係をつくってこられたのは、糜竺の細やかな気遣いがあったからだ。
孔明があらわれるまで新野を保たせてきたのは、糜竺だ、と言い切ってもよいくらいである。
曹操に寝返った、というのならばわかる。
しかし孔明の書状はそれを否定し、糜竺がついたのは、『壷中』という、樊城を根城にする、危険な組織の一派かもしれない、ということが書かれてあった。
斐仁のことといい、糜竺のことといい、今回のことは、なにやら暗く重たい秘密の気配がする。
さて、今日は、この寄る辺ない身の上になりつつある二人の兄弟を、我が家に泊めてやるか、布団はあったっけ、などといろいろ考えつつ、陳到は歩いていたが、ふと、市場の、服を売っている店に、目が止まった。
店主が、客とにぎやかに値引きの相談をしている。
店は、天幕の下に、商品をひろげただけの簡素なもの。
ご婦人方の領巾のかけてある衝立に、一緒に、北方のめずらしい毛皮がかけてあるのだが、店主が客に熱中しているあいだに、それが、ちょうど店主の反対側のほうに、するすると引きずられていった。
「おい!」
陳到が店主に注意をうながすべく声をかけると、途端に声にはじかれるようにして、衝立の向こうの影が往来へ飛び出した。
そのうしろ姿は、十歳くらいの子供であった。
「その子供を捕まえてくれ!」
陳到は叫びつつ、まるで弾かれた玉のように素早く飛び出して、子供を追いかけた。
糜竺の養子兄弟が、あとからそれにつづいていく。
追われる子供は、逃げることに慣れているらしい。
往来を、じぐざぐとすばしこく動き、相手をまこうと必死である。
しかし、相手が悪かった。
新野でも一、二を争う武術の達人、陳到の動体視力は、黄昏時の往来でさえ、ちいさな影を見失うことはない。
たとえそれが蠅のようにすばしこくちいさなものでも、陳到は見つけることができただろう。
『うちの銀と同じくらいだな』
幼い盗人を追いかけながら、暗澹たる思いで陳到は走った。
子供は、奪った得物を手に、往来を行く人々をすりぬけていく。
陳到につづく二人のほうは、人にぶつかって怒鳴られたり、市場の商品を蹴り倒してしまったりと、なかなかにぎやかである。
子供の背中が、路地を曲がるのが見えた。
陳到もそれを追う。
しかし、路地は行き止まりにもかかわらず、子供の姿はなかった。
舌打ちし、周囲を見回す陳到に、だいぶ経ってから、息を切らせながら糜竺の養子兄弟が追いついてきた。
「叔至さま、子供は?」
「それはわたしが聞きたい」
道は行き止まり。薄暗闇に星がまたたきつつある空の下、視界が悪くなっているとはいえ、すれ違いで抜け出されたとは思えない。
行き止まりの前には壁があり、逃げた子供がどれほど跳躍が得意であろうと、これを越えることはむずかしいであろう、という高さ。
すると、兄のほうが、前に進み出て、左手の、屋敷の垣根を無造作にかきわけた。
すると、ちょうど子供がひとり、くぐりぬけることができるほどの大きさの、隠れた通路があらわれた。
「よくわかったな」
陳到が感心して言うと、兄のほうは、照れくさそうに笑いながら答えた。
「わたくしも以前、あのくらいのときによく利用しておりました。ですから、こういう子供しか知らぬ抜け道は、町はちがえど、だいたい見当がつきまする」
「やんちゃであったのだな」
陳到が言うと、兄は首を横に振る。
「わたしもいまの子供のように、盗みで食いつないでいたときが、ございましたので」
「叔至さま、わたくしもでございます。糜の父上に拾われるまでは、伯亮兄上と同じでございました」
「左様であったか」
と、答えてから、陳到は気づいた。
「うん? 伯亮? おまえの名は、伯亮、というのか」
はい、と伯亮はうなずく。
陳到は、この兄弟の字を、まだ覚えていなかったのだ。
つづいて、弟のほうも口を挟んだ。
「わたくしの字は仲亮でございます」
「世の光となるように、そして、生命力に満ち溢れた、賢い男になるようにと、父上が、わたくしたちに下さった字でございます」
「軍師のお名前と一緒だな」
「ええ、父上は軍師の名を、無断ではございますが、一字だけ拝領した、とおっしゃっておりました」
陳到は、その話を聞いて素直に違和感をおぼえた。
孔明が新野に迎えられたばかりのとき、風当たりは嵐のようにきついものであった。武人も文官も、孔明に対しては、無視するか、とげとげしく接するかのどちらかであった。
しかし、糜竺だけはちがった。
最初から、まるで自分の子供を迎えるようにして親しげにし、孔明に不便がないように、あれこれと便宜をはかっていた。
さらに加えて、自分の養子に、新野の敵であった孔明の名をそれぞれ一字、与えたという。
それほどまでに孔明に対し、愛情にも近い心を寄せている糜竺が、ほんとうに裏切りなどするものであろうか?
『なにか裏があるにちがいない。長年苦労をともにした主公のもとを離れて、単独で解決しなければならないような、面倒な裏が』
そう推理する陳到の頭上では、早くも天狼星が、まばゆいばかりの光を放っていた。
※
あまたある星のなかでも、天狼星の輝きは、人の目を奪う。
その神秘的なまたたきは、傲然と天空に君臨するあばた面の女神の住まう月よりも、人の目を奪う。まるで気性のはげしい、わがままな美女のようだ。
派手な赤い格子や建具、きわどい絵の描かれた壁や衝立にかこまれた妓楼の窓からながめる夜空は、おそろしく澄明で美しかった。
しばらく、こんなふうにゆっくりと、夜空を見上げることがなかったと、朱季南は思う。
許都から新野に至るまでの道程では、どす黒い怒りと殺意をたぎらせていた。
もちろん、怒りも、殺意も消えてはいない。
しかし、先日までたしかに抱えていた毒のようなものが、体から抜けてしまったような感覚はある。
朱季南は、天狼星をながめつつ、あれもこんなふうに、一人で懸命に生きている女だった、と悲しみとともに思った。
佳い女だった。
娼妓でありながら、気品も教養もあり、けして自分を貶めるようなことを口にしなかった。
いつか、この泥沼からかならず這い上がれると、心に固く信じていたのだろう。
辛いことばかりの人生であったはずなのに、愚痴ひとつこぼさず、母親が子供を労わるように、疲れ果てた朱季南の体も心も癒してくれた。
もとは、良家の子女であったと身の上話をしてくれたことがあったが、本当であったかもしれない。
けして美人ではなかったが、あの気品は一朝一夕で身につくものではない。
金で買える女であったが、たやすく手に入れられるという事実そのものに、罪悪感を抱かせる女であった。
だから、朱季南は時間をかけて女のもとに通い、普通の女にするように、言葉をかけ、贈り物をし、想いを告げ、そうして結ばれた。
公孫瓚が滅亡したあと、曹操のもとに仕官をしたのも、女とともに暮らすためであった。
女と築く家庭のために、安定した収入がほしかったのである。
女は仕官を喜んだ。あばら家であったが、家を借りてやると、泣いて朱季南に抱きついてきた。
これで、ほんとうに泥沼から抜け出せると思ったにちがいない。
流れ者であった朱季南は、出仕するのによい服を持っていなかった。
それを知った女は、これで最後だと言って、夜の街へと出かけていった。
もし朱季南が、女が商売に出たことを知っていたら、絶対に止めていただろう。しかし運悪く、その夜、朱季南は出仕先の歓迎を受けて、宴席に出ていたのである。
女は帰ってこなかった。
翌朝、心配して町へ探しにいった朱季南の耳に届いたのは、歓楽街をさわがす娼妓殺しの話であった。
以前から、娼妓をつぎつぎと殺害していたが、昨夜もまた、出たらしい。
帰らぬ女を心配し、嫌な予感にせかされるようにして朱季南が屯所へ行くと、そこには、無残な女の死体が横たわっていた。
ほとんど、見分けもつかないほどに切り裂かれた、それはもはや、かつて女の姿を形作っていた、女の体の一部であった。
朱季南はその日より、一切を捨てた。
そうして、一つのことだけに集中するようになった。
娼妓殺しの下手人を、巷では『風狗』と呼ぶらしい。
当初は、他勢力の狗ではないか、という噂があった。
加えて、風のように、まるで正体が掴めないため、そう呼ばれるようになったという。
朱季南は、『風狗』を見つけ、殺すためだけの人生を歩むのだと、心に決めた。
「元気そうね」
商売から抜け出てきた、今朝ほど看病をしてくれた娼妓がやってきた。
酒の臭いがかすかにするが、本人は飲んでいないらしい。
はじめておのれを看病してくれた娼妓を真正面から見た朱季南は、いささかうろたえた。
片田舎の妓楼にはめずらしい器量の持ち主であった。
かなり年がいっているにもかかわらず、追い出されずに妓楼にいられるのは、その器量のよさがものをいっているのだろう。
豊かな黒髪を簡単に結っただけの、だらしないとさえとれる髪型をして、眠そうな、だるそうな顔をしているが、それが厭味でない。
ふしぎと周囲にいる者を、落ち着かせる女である。
おそらく、女自身に気負いがまるでないから、まわりもほっとできるのだろう。
「阿片は、もうやめたほうがいいわよ」
女は朱季南の前に乱暴にどすんと音をたてて座りながら、付け足しのように言う。
なつかしい、北方訛りの混じった声。
「すまぬ、おまえには世話になったな」
そうね、といって、女は気だるそうに、豊かに流れ落ちる黒髪をかきあげた。
「あなたについていたので、一晩分の稼ぎがなくなったのが、残念だけれど」
む、と朱季南はことばにつまった。
彼女たちが、どれだけ金というものを気にしているか知っているだけに、よけいに女に済まないと思った。
「ほんとうにすまぬ。しかし俺には、おまえに代わりにやれるものがない」
「あら、あるじゃないの。その耳飾り」
と、女は、朱季南の片耳にある、女物の耳飾りを指さした。
すぐさま朱季南は首を横に振る。
「これは駄目だ。大切なものなのでな」
「それは、『紅彩』という女のもの?」
朱季南はぎょっとした。紅彩こそ、で無残に風狗の手にかかった女の名前であったからだ。
どうして、と言いかけて、思いつく。
「俺はうなされていたのだな。しかし、おまえはうなされていなかったと言わなかったか?」
「目が覚めた男が、うなされていなかったか、と聞いてきたときは、どんなに奥方の名前を呼んでうなされていようと、うなされていなかった、と答えることにしているの。ごめんなさいね」
女は悪びれずに言う。
「紅彩は、許都で待っている奥方の名前なのね?」
「いいや、もう死んだ」
女は、それを聞くと、何の感慨もなく、そう、とだけ言って、つづけてこう言った。
「それでは、その名前がほしいわ」
「名前?」
「そうよ。きれいな名前だもの。いまのあたしの五番目の名前より、ずっといいわよ。嫌なら、こだわらないけれど」
「五番目?」
「そう。最初は、親元から離れて売られたときに付けられた名前。
二番目が、あたしを身請けした男がつけた名前。
三番目は、二番目の名前をつけた男が金を持って逃げてしまったので、また妓楼に戻ったときに貰った名前。
四番目は、堅気になろうと思って自分で付けた名前。
五番目は、やっぱり妓楼に戻ってきて、そのときに付けられた名前。いまのあたしの名前、『五娘』というの。ひどくいい加減だと思わない?」
女は淡々というのであるが、自分の名前が気に入っていないのは本当らしく、自分のいまの名前を名乗るときは、眉をきゅっと寄せて見せた。
「紅彩は、駄目だ」
「駄目なの。なら、仕方ないわね」
「いや、でも俺でよければ、よい名前を考えよう。今すぐには無理だが、かならず良い名を準備する。それで詫びの代わりにしてくれぬか」
「良い名前だったら、そうするわ」
と、はじめて女は、気だるそうな顔に、笑みをわずかに浮かべた。
「暇そうだな、季南」
部屋に、ずかずかと、男装の女老師が入ってきた。格子柄の紺色の衣裳を纏っている。背が高くすらりとした女老師には、すっきりとした色がよく似合っていた。手には薬箱を持っている。
朝に、堕胎の手伝いがいくつもある、と言っていたとおり、疲れ切っているようであった。
無表情なのはあいかわらずであるが、機嫌が悪いのは声の調子でわかる。
「空を眺めていたか。なにが見える?」
「星だ。星と、月。だが俺は、あいにく天文官ではないので、星は読めぬ」
「月の明るい夜だ。こういうときには、奴らが出る」
「奴ら?」
その言葉に、思わず朱季南は身構える。風狗かもしれない、と思ったのだ。
「五娘ではないが、わたしもおまえにかなりの労力を使っているのだよ。恩返しの意味も含めて、わたしを手伝うつもりはないか?」
朱季南がいぶかしげに眉根を寄せると、女老師は、ほつれ落ちる前髪を掻き分けつつ、言った。
「人助けだ。いまこうしている間にも、闇に落ちる子供がいるかもしれない。それを救うのだ」
※
市場であのテンの毛皮を見たときから、触れてみたいと思っていたのだ。
ただ触るだけならば、と手を伸ばしたことがあったが、店の主に見つかって、罵倒とともに殴られた。
そのときの痛みを、斂(レン)は忘れなかった。
二度と近づくまいと敬遠するどころか、復讐心をたぎらせるのが、斂という子供である。
いつか必ず、きっと盗んでやると狙っていた。
巡回の兵卒に見つかったのは厄介だったけれど、うまく逃げおおせたわけだし、結果として、テンの毛皮は手に入った。
斂は、自分だけの隠れ家にしている、新野のなかでもうらぶれた、人気のない路地の一角に積まれた箱のうえに腰をかけた。
箱は夜には寝台にもなるすぐれものである。同じく盗んできた筵が布団がわりだ。夏であるから、虫のことさえ気にしなければ、そんなもので十分に夜をしのぐことができた。
斂は、箱の上に腰を落ち着けると、初めて子供らしく顔をほころばせ、握りしめていた毛皮を首に巻き、うっとりと、その肌触りを楽しんだ。
毛皮の端っこを付かんで、頬ずりする。
おくさまの手を思い出す。
斂は、おくさまが大好きであった。
母親の手は、水仕事で痛めつけられてが、さがさでアカギレだらけであったが、おくさまの手は、白くてやわらかだった。いつか物語で聞いた、仙女さまの手は、こんなふうではないかとさえ思った。
なかなか子宝にめぐまれなかったご主人夫婦は、奴婢の子である斂をかわいがって、いろいろと面倒をみてくれた。
斂、という名前をつけてくれたのもおくさまである。
ずっと、おくさまがいてくれたならよかった。
しかしおくさまは、ウマズメだというので、ご主人から離縁をされてしまった。
あとからやってきた後妻とかいう女は、おくさまとはちがって気取った女で、斂は大嫌いだった。
斂をけして名前で呼ばず、奴婢の子、と呼び、けなした。
近づくと、汚いのはあっちへ、と行って犬のように追い払う。
あるとき、その女が、斂という名前は、奴婢の子に似合わないから、ほかの名前に変えてしまおう、と言い出した。
おくさまがつけてくれた、大事な名前を、とりあげてはたまらない、と斂は思った。
その女は、豊かな美しい黒髪が自慢であった。
女が、母親に髪を梳かせながら、髪は命とおなじくらいに大切だ、と言っていたのをおぼえていた。
自分が大切なものを盗られたら、どんな思いがするか、実際におなじ目に遭ってみたら、斂の名前を変えてしまおう、などと言わないだろうと斂は考えた。
そこで、女が寝ているところに忍び込んで、寝ているうちに、黒髪を根元からばっさり切ってしまった。
とたん、大騒ぎになった。
女は狂ったようになり、黒髪を切った犯人を、かならず捕らえて復讐してほしいとご主人に訴えた。
ご主人も、おのれの妻が、寝ている間に髪を切られる、などという屈辱を受けたのだから、黙ってはいない。
髪を切られるということは、死罪を受けたというのにも等しい。
罪を得た女囚人が、髪を切られて雑役に従事しているのは、その罪がかなり重い、という意味でもある。
斂が思っていた以上に、事態は深刻であった。
だが、斂の仕業とは、だれも気づいていないようであった。
最初はおもしろがって、しらばくれていた斂であるが、次第に状況が変わっていくのにきづいた。
父母をふくめた奴婢や、下男下女がひとりひとり呼び出され、いろいろ話を聞かれた。
それを目の当たりにして、いまは、子供であるからこそ、まさかそんな大胆な真似はすまい、と思われている状況であるが、これほど細かく詮議されるのであれば、そのうちに、ほかならぬ自分がしでかしたことなのだとばれるのではないか、という不安をおぼえた。
そうして、自分から目が逸れているかわりに、関係のないだれかが、犯人にしたてあげられてしまうのではないか、という恐ろしい可能性に突き当たる。
もしかしたら、八つ裂きにされてしまうかもしれない。
それは、自分が犯人だと名乗った場合でも、おなじ結果になりそうな予感がした。
斂はおそろしくなり、ひとり、屋敷から逃げ出した。
それから数ヶ月が経った。
はじめ、斂はおくさまのところへ行こうと考えたのだが、家を飛び出してすぐに、おくさまの実家がどこにあるのか、わからないことに気づいた。
そして仕方なく、新野に留まっている。
もともとの気性のはげしさと、だれにも負けない俊足が味方して、斂は飢えずに生きている。
盗んでやろうと狙ったものは、かならず盗みおおせた。
日々の糧を得るうえで、盗みの技術もどんどん向上していった。
お屋敷で働く父母が恋しくならない、といったら嘘になる。
しかし、父母には、ほかにたくさんの兄弟がいて、はしこい斂はどちらかというと、あまり構ってもらえない存在であったし、なにより、おくさまがいないのであれば、屋敷であろうと路上であろうと、どこだろうとおなじであった。
テンの毛皮の、ふんわりした心地よい肌触りにうっとりしつつ、斂は、町の片隅の薄汚い路地のうえに座り込んだ。
空には、青白い月が神秘的な顔を出し、その周囲を、きらきらと星が瞬いている。
雲のない夜だ。
初夏とはいえ、夜はまだ冷えるときがある。テンの毛皮は、すこしでも、寒さをやわらげてくれるだろう。
ふと、足音が近づいてくるのがわかり、斂は体を強ばらせた。
この路地には、滅多に人は近づかない。あまりになにもないので、野犬すら近寄ってこないほどだ。
だれかの足音というのは、斂にとってはよいものではない。庇を借りている廃屋の家主が、自分を追い出すためにやってきたのか。
それとも、さっきの兵卒が追いかけてきたのだろうか。
しかし、身構えた斂の目の前に、月光に照らされて、足音も軽やかにあらわれたのは、さきほどの兵卒たちではなかった。
見たことのない、にこやかな若い、旅装の男女である。
斂の旧知であるように、親しみのこもった笑みを向けて、斂に近づいてくる。
逃げようと箱から腰を浮かせた斂に、女のほうが、やさしい声色で言った。
「大丈夫よ、あなたを捕まえにきたのではないのだから」
女はそう言うと、懐から、餅を取り出し、斂に差し出した。
「食べていないでしょう。遠慮しなくていいのよ」
斂はためらいつつも、大きく咽喉を鳴らした。
女の言うとおり、昨日からろくなものを食べていなかったのだ。
女は、それを見越して、ほら、ともう一度促した。
斂はもう我慢が出来なかった。
奪うようにして餅を取ると、一気に口に突っ込む。
やっぱり返せ、といわれないうちに、そうする必要があった。
餅を腹に詰め込みながら、ちらりと男女を見ると、ふたりとも、意地悪を言いそうではない。
むしろうれしそうに、斂が餅を口にしているところをながめている。
「元気がよいね。男子はそうでなくてはならぬ」
男のほうが、はきはきと明るい口調で言う。
脇にいた女も、それに賛同してうなずいた。
「元気がよくて、頑丈なのが一番だわ。あなたもそう思うでしょう?」
元気がよい、ということと、ご飯をたくさん食べられたので力が出る、というのとは、斂の頭の中では同義である。
だから斂は、女のことばにうなずいた。
「一人では、いろいろと不便が多いでしょうに。家に帰りたいとは思わないの?」
斂は、すぐさま首を横に振った。
斂が、あの女の髪を切ったのだ、ということは、斂が出奔した時点で、ばれたことだろう。
いまさら屋敷に帰るわけにはいかなかった。
「曹操という、おそろしい男が南下してくるという話は、あなたも知っているでしょう? ここは戦場になるのよ。それなのに、ここにいたら、曹操の兵卒に殺されてしまうわよ」
「女子供も容赦なく殺す男だという噂だからね」
曹操という名前は、斂のような浮浪児でさえ知っていた。
その名前が出ると、大人たちの顔が一様に険しくなる。
曹操に関連する事柄は、血なまぐさい話ばかりだ。
自分も殺されてしまうかもしれない。
斂はとたんに食欲がなくなった。
首のテンの毛皮の肌触りが、むしろ悲しく感じられる。
それを見越したのか、女は言った。
「曹操とは無縁の、よい場所を知っているわよ。そこに行ってみたいと思わない?」
「きみとおなじ年くらいの子供もたくさんいる、よい場所だよ。行ってみたいだろう?」
「食べることの心配はしなくていいのよ。家もちゃんとあるわ。あなたのための寝台だって、もう用意してあるの。どう? わたしたちと一緒に来ない?」
「でも、金がないよ」
と、斂は搾り出すように言った。
もとより、なにも持たずに屋敷を飛び出した。先のことも、いまもって考えていない。
「金なんぞいらぬよ。われらと一緒に来てみたらいい。きっと気に入るさ。わたしたちは、きみのように賢くて、体力に優れた子供をさがしていたのだ」
「そして頭が悪くて、世間知らずの、まだ無垢な子供。そうだろう?」
あたりに響くような、凛とした声がした。
思わず斂は、背筋を伸ばして、声の主を探す。
そうして、斂は息を呑んだ。
燦々と降る月光のもと、背の高い、男装をした女が立っていた。
その眼差しはきびしいが、冷たいものではない。
斂の心は逸った。
一瞬、おくさまかと思った。おくさまに、このひとはそっくりだ。
夜風に衣の裾をなびかせ、あらわれた女は、決然と、男女に言う。
「正直に伝えたらどうだ。食事も寝床も保障する、同じ年の仲間もたしかにいる。だが、飢えから逃れられる代償は、人殺しになることだと。
それも戦場で堂々と敵と対峙する方法ではない。闇から闇へ、ありとあらゆる方法で、相手を葬り去る訓練をつむのが仕事なのだと」
「何者だ」
男が、それまでの明朗快活な様子を捨てて、とたんに豹変し、凶悪そうな表情を見せる。
だが、男装の女はひるむことなく、つづける。
「おまえたちは、おのれに誇りが持てるのか? 首根っこを掴まれたような生活を強いられることが、ほんとうに真の幸福に繋がると信じているのか?」
「おまえ、われらを知っているのか?」
男の問いかけに、女は答えた。
「知りたくないが、知ってしまった者だ。おとなしく『壷中』に帰れ。でなければ、いますぐ『壷中』を捨てよ。悪いようにはせぬ」
斂に優しげに話しかけていた男女の全身から、肌が粟立つほどの殺気が吐き出される。
「だめか」
それまで夜に輝く月のように静かな表情であった男装の女は、はじめてその白面に苦渋の表情を浮かべた。
斂の目の前で、風が動いた。
形のない風が、ほんとうに動いたように見えた。
男の行動があまりに素早かったので、その姿が、風の動きに見えたのだ。
ぎらりと、夜闇に、月光を受けた刃が光る。
男は、地面を大きく蹴り上げると、真正面から、佇立する女の額めがけて、隠し持っていた刃を振り下ろした。
女は、襲撃してきた男の目をまっすぐに見て、身動きひとつしない。
すくんで動けない、というのではない。
自らのつむいだ言葉の結果を、そして彼らの行動の始終を、すべて双眸にしまおうという、貪欲で冷徹な顔をしていた。
ぐらり、と世界が歪む。
いままさに、女の額に刃を振り下ろさんとしていた男の姿が、ぐらりと揺れた。女の周囲にはりめぐらされた、見えない壁にはじかれたように見えた。
しかし、地面にもんどりうった男の腕には、縄標が巻きついていた。
女は、さほど驚くふうでもなく、闇の向こうにむかって、言う。
「はじめて人さまの役に立ったな、季南」
「それが命の恩人にむかっていう言葉かね」
闇のなかから、今度は、いかつい禿げ頭の男があらわれた。
禿げ頭は悪態をつきつつ、ちからまかせに、縄標をひっぱる。
男は、しばらく引きずられるままになっていたが、空いた片側の手に砂をつかむと、それを禿げ頭の顔面めがけてぶつける。
そうして禿げ頭がひるんだ隙に、男は身体をしならせると、ぴょん、と飛び上がって見せた。
片腕に巻かれたままの縄標はそのままに、くるくると駒のように回転をしながら、男は間髪いれずに拳を打ち込む。
禿げ頭は目に入った砂に苦労しながらも、片手の剣で、体勢を崩した相手を刺そうとする。
が、しかしそれは、またもや闇から投げられた石によってさまたげられた。
斂の握りこぶし大の石つぶては、禿げ頭のちょうどてっぺんに、がつん、と命中した。
禿げ頭がひるんだ隙に、男のほうは体勢を立て直し、縄標を剣でもって断ち切った。
そして、その位置からきれいに後方へ宙返りをする。
禿げ頭は頭を振りつつ、舌打ちをし、あらたな敵に目を向ける。
斂と男装の女、男装の女を守る禿げ頭、旅装の男女のなかに、いきなり飛び込んできたのは、じつに冴えない男であった。
ただの兵卒ではないのは、わりと立派なしつらえの鎧でわかる。
しかし、腰に手ぬぐいとお守りを提げて、きょとんと周囲を見回す顔は、殺気や鋭気とは無縁である。
全体から醸し出される雰囲気は、どこかのんびりとしたもので、切迫感は欠片もなかった。