09年改訂版
孤月的陣
第三章 ハナ 花
⑩
「俺は、てっきり、これから『壷中』に乗り込む、と言い出すのではないかと思っていたが」
と、趙雲は、馬から下りる孔明に、手を貸しながら、声をかけた。
孔明の顔色はというと、蒼白である。
貧血を起こしているのはまちがいない。
昨夜からほとんど眠っておらず、くわえて、朝からなにも口にしていないのだ。
これでは倒れる。
どこかで食糧を分けてもらい、いらないといっても、無理やり食わせよう。
「あそこだ」
孔明は一軒の民家を指さした。
孔明が示した家は、ごくごくふつうの農家であった。
庭では鶏が放牧されており、野狐や野犬を警戒して、そばに番犬がはべっている。
犬は木陰で四肢を投げ出し、腹を気持ちよく上下させて眠っていた。
郊外にやってきて、木々が風にそよぐ音、田圃の蛙の声、あたりにひびく蝉の声につつまれて、なんと騒がしいと驚いた自分に、趙雲は驚いた。
これが本当なのだ、静けさに包まれている樊城がおかしいのである。
「ここは『壷中』ではないよ、子龍」
蒼白な顔をしたまま、孔明はからかうように言った。
が、いつものような切れがない。
ほら、といって孔明がまた指さした。
農家の庭先には、大きな柏の木があり、そのぴんと背筋を伸ばしたような、気持ちのよい聳え方をした柏の木の下で、身なりは質素だが、品のよい老婆が、糸をつむいでいた。
その足元には、鶏番をしている犬の子供とおぼしき、ちいさな愛らしい子犬が、老婆の足元で、すやすやと眠っていた。
思わず、近づくのがためらわれるほどに、平和な光景であった。
なにかそこに美に形容されるものがあるわけではないのだが、素朴で温かな光景に、なぜだか趙雲は感動した。
その光景は、自分の歩んできた人生とは、かけ離れた穏やかさを持っていた。
と同時に、孤独の淵に一気に投げ込まれたような心地に落ちていく。
これが平凡な光景だというのであれば、自分はなんと、平凡なものに恵まれずに生きてきたのか。
趙雲の足は前に進むことをためらって、止まった。
この光景を、自分のように血にまみれつづけた、『人殺しのうまい』人間が侵してはならないように思えたのである。
「ばあや!」
孔明は声をかけると、まるで子供のように、こちらに気付いた老婆に駆けていく。
趙雲は、孔明が、自分とおなじ修羅の地平から生まれた人間ではなく、この平凡で退屈で、幸福な世界から生まれた人間なのだということを、あらためて感じた。
新野の武将たちは、身分こそちがうが、生まれ出た環境は、趙雲と似たり寄ったりであった。だれもかれも、殺伐とした、日常のうるおいから見放された光景から立ち上がって生きていた。
だから、掠奪も殺戮も破壊も、すべて日常の中のもの。
身の内に、ごくごくあたりまえの行為として組み込まれている。
かれらの守ろうとするものは、戦場に共に生きる仲間であったり、戦場から奪って蓄えてきた財であったり、地位や名誉である。
だが、孔明の守ろうとしているものは、この光景なのだ。
孔明の姿を見て、老婆は立ち上がり、同時に、足元に眠っていた毛糸だまのような、愛らしい小麦色の子犬も、立ち上がった。
そうして、果敢に耳と尻尾をぴんと立て、孔明に吠え立てる。
老婆は子犬をなだめてやり、そうして孔明の手を取った。
「まあまあ亮さま、お久しゅうございます。このバアにわざわざ会いに来てくださるとは」
「元気そうだね、別れたときからまるで変わっていない。ばあやはずっと若いよ」
口がますますお上手になりましたね、と老婆はうれしそうに笑った。
若い頃は、さぞかし美しかったであろう。皺に埋もれてはいるが、その目鼻立ちの形の美しさは、いまだ損なわれていない。おっとりした雰囲気の、孔明がいかにも好みそうな、このひとが母であったならよいなと思わせる老婦人であった。
趙雲の足は動かなかった。
ただ、孔明と老婆が、親しげに、にこやかに言葉をかわしているのを、木陰につないだ馬のかたわらで見守っていた。
それでいいと思った。この場に入り込んではいけない。自分は、この陰のなかに潜むべき存在で、日の光を浴びてはいけない。そう思えた。
だが、孔明は振り返ると、馬の側に留まっている趙雲に、不思議そうな顔を向ける。
「なにをしている? このあたりには馬泥棒なんていやしない。あなたもこちらに来るがいい」
気がすすまなかったが、促されるまま、趙雲は足を動かした。
木陰から抜け出すと、夏の日差しが容赦なく目を射抜いた。そのまぶしさに、趙雲は手でひさしをつくって、老婆のところへ寄って行った。
老婆は、にこにこと、嬉しそうに目を細めている。
趙雲が老婆のところへやってくると、孔明は誇らしげに手を伸ばし、ぐずぐずとした心境から抜け出しきれない趙雲の手を取った。
こいつは、不意打ちのようにこちらの身体に触れてくることがあるな、と趙雲は思ったが、振り払う気持ちは起こらなかった。むしろ、触れられることがうれしくさえあった。触れられることで、この光ある場所にいていいのだと、許しをもらえたような気がしたのだ。
「このひとは、荊州にきてから、ずっとわたしたち姉弟の世話をしてくれた人なのだよ。叔父が死んでもわたしたちに付いてきてくれたのだが、姉が嫁いだのを機に、息子夫婦のところへ戻ったのだ。
ばあや、こちらは趙子龍、わたしの主騎をつとめている武人だ」
「お名前だけは存じております。亮さまが新野の劉予州の軍師になられたときから、方々から噂を仕入れましたので」
と、老婆は声を立てて笑った。
総じて、世の中の動きにつよい関心を寄せる人間は、いつまでも若い。
この老婆もその係累のようである。
「今日はうれしいことのつづく日でございますよ。あなたさまは新野からいらしたのですか? 咽喉がお渇きではございませんか。たいしたおもてなしもできませんが、どうぞ中へお入りくださいまし」
老婆は言うと、孔明と趙雲を家の中に招き入れた。
家の中は整然としており、独特の藁と木のにおいがしていた。
趙雲が孔明とともに通されたのは、水がめのある厨で、老婆が咽喉をうるおすために出してくれた水は、冷えていたせいもあるのか、格別に甘く感じられた。
それなりに裕福に暮らしているらしく、厨のなかにはたくさんの甕があり、それぞれから、さまざまな匂いが発せられている。
共に暮らしている息子夫婦は、田畑に出ているらしい。
老婆は孔明たちのために、水だけではなく粥を用意してくれた。
普段でも、趙雲が勧めるだけでは、なかなか食事を摂らない孔明であるが、さすがに懐かしいのか、ばあやの粥は、ぺろりと平らげた。
そうして、切り出した。
「ばあや、『あなたさまは』新野からきたのか、とさっき言っていたね。ほかにもだれか来たのかい?」
「ええ、昔、いっしょに働いていた方が、近くに来たからと寄ってくださいました。ときおり、こうして昔馴染みの方がいらしてくださいますので、バアも退屈いたしません」
「それは、ばあやの人徳だろうね。ところで、今日はばあやに聞きたいことがあったのだよ。叔父上のことなのだが」
すると、あきらかに老婆の顔色が変わった。
息を詰め、目を見開く。
そうして、言った。
「なぜでございますか?」
「なぜって?」
ふしぎな問いかけに、今度は孔明のほうが眉をしかめた。
すると、老婆は詰め寄る。
「このような田舎に引っ込んでおりますが、バアも世の中のことならすこしは知っております。今度、曹操がこの地を襲うかもしれない、だから新野の劉予州と貴方さまが戦の準備をしているのだと。
そのような最中に、まさか昔話をしに、わたくしのところへやってきたわけではございますまい」
「ばあやには隠し事はできないね」
孔明は苦笑した。そうして答える。
「ばあやが賢いひとであったから、叔父上もわたしたちを託していたのだと思う。叔父上は、ばあやにはいろいろと話をしていたね。だから、わたしたちが南昌に来たばかりのときのことで、なにか聞いていなかっただろうか。
たとえば、わたしと均が南昌への道中で、流民の子に会ったこととか」
「ああ、そのことでございますか」
孔明のことばに、老婆は、むしろほっとしたように言った。
「ええ、伺っておりますとも。あのころは、人攫いが横行しておりまして、とくに子供は農奴として高く売れるということで、親たちは警戒しておりました。
徐州や中原のほうから荊州へ流れてきた者たちを襲って、子供だけを攫っていく、なんてこともあったのでございますよ。
それでなくても、流民が暴徒に転じて、盗賊まがいに村を襲ったりすることもたびたびでございましたから、わたくしたちは、流民たちを厄介者扱いしておりました。
ほんとうに、いやな世の中でございます。亮さまが遭遇されたのも、そういったいかがわしい連中だったのでございます。まず子供を近づけさせて、安心させたところを、物陰にかくれた大人が攫っていく。そういう、おそろしい連中です。
もし見つけるのがもうすこし遅かったら、子供たちは攫われていただろうと、玄さまはおっしゃっておりました」
「それだけ?」
老婆は警戒し、眉をあげて、孔明を上目遣いに見る。
「それだけ、とは?」
「叔父上は、ほかに何かおっしゃっていなかっただろうか。たとえば、『壷中』というものについて、なにか」
すると、老婆は、口をつぐみ、それから、孔明から目をそらし、うつむいた。
孔明は、辛抱づよく、老婆が口を開くのを待った。
開いた戸口から、風に揺れる枝がざわざわとざわめく音、木の幹にしがみつく蝉の鳴きたてる声が聞こえてくる。
老婆はなかなか口を開かない。
壁にかけられた農具や、大きな水がめ、漬物のにおいをぷんぷんとさせている甕などを背景に、暗く影の落ちる厨にてうつむきつづける老婆を見つめる。
だが、やがて、老婆は重たい口を開いた。
「亮さま、叔父上が亡くなられたときのことを、おぼえていらっしゃいますか」
「おぼえているとも。叔父上が亡くなられて、それからわたしたちは、姉上と一緒に隆中へ引っ越したのだ」
「亮さまはそのとき、すでに十六になっておられた。劉州牧から、そのまま、お召しのお話もあったということは、ご存知ですか」
「わたしが劉州牧の? いいや、姉上はなにもおっしゃってなかった」
「それは当然でございます。そのお話をお断りしたのは、すべてバアの一存でございましたから。とはいえ、バアが独断で、そう決めたのではございません。これは玄さまの遺言であったのです。もし自分が死ぬようなことがあって、そのあとに亮さまに出仕のお話があっても、けして応じてはならぬ、と」
「叔父上は、ご自分の死を予感してらしたと?」
孔明がおどろいて眼をみひらいて言うと、老婆は、悲しそうに、それでも気丈に目を真っすぐ孔明に向けて、肯いた。
「亮さま、玄さまは、朱皓の手の者に暗殺されたのではございません」
趙雲は、思わず孔明の顔を見た。
これは重要な話になると察せられたが、疲れている孔明が受け止めきれるものなのか、心配になったのである。
「では、だれに?」
「『壷中』でございます。玄さまは、もし将来、亮さまが、『壷中』についてたずねてくるようなことがあったときにだけ、自分の命を狙っているのが、朱皓ではなく『壷中』であったことを教えよ、と申されました」
趙雲はそれを聞いておどろいたが、孔明のほうは、意外なことに、だいたいの見当をつけていたらしく、さほど驚くふうでもなく、顔色を悪くしただけであった。
「『壷中』とは何物なのだ?」
「バアも詳しくは知りません。知ってしまったら、バアが狙われてしまうからと、玄さまは教えてくださいませんでした。ただ、こうはおっしゃっておりました。
最初、『壷中』は理想によって作られたものであった、しかしそれが途中から歪み、おそろしい化け物に姿を変えてしまった。
かれらについて、自分は知りすぎてしまった、だから狙われているのだと。
こうもおっしゃっておられました。亮さまは『壷中』に会っている、と」
「それが、わたしが南昌に向かう途中で川原で会った子供たちであったのだね?」
孔明がたしかめると、老婆はこくりと重くうなずいた。
「おそらくそうなのでございましょう。亮さまは亡き兄上の忘れ形見、けして『壷中』に渡してはならぬと、玄さまはおっしゃっておりました」
「樊城にわたしが出仕していたら、劉州牧によって、『壷中』に組み込まれていたかもしれない、というのだね?」
「左様でございます。劉州牧からは、その後も、何度かお召しの話を頂戴しておりましたが、いろいろ工夫して、すべてお断りしておりました。ですが、姉上が龐家に嫁がれて、つづいて亮さまが黄家から奥様を迎えられると、お召しの話もぴたりとなくなったのでございます」
「側において、監視する必要がなくなったからだ。『壷中』の人間の娘を娶ったから」
孔明は、うめくように言った。
「わたしは昔、程子聞に会っていた。あの川原の子供がそうであったのだ」
「あの川原?」
「さっき、ばあやが話してくれただろう。わたしが揚州の叔父上のもとへ向かう旅のなかにいたころは、荊州では人攫いが横行していた。それでなくても、当時は徐州や中原からあふれた難民で、街道は荒れていたのだ。そのため、わたしたちは一旦、街道から道をそれて、荊州に入ることにした。叔父上が迎えにくる予定になっていたので、わたしたちは川原のそばで休みを取ったのだが、そこで流民の子供たちに出会ったのだよ。当時はわからなかったが、その子供たちの背後には、ばあやが言ったとおり、子供をえさにして同じ子供を狩る大人が隠れていたのだ。わたしの場合、運よく叔父上が駆けつけてくださって、攫われずにすんだ」
「子供を攫う『壷中』の目的はなんだ?」
「『壷中』は牧場なのだ。攫われた子供たちは、思いのままに乳や肉を搾取される牛や羊とおなじ扱いなのだ」
「どういうことだ」
「荊州牧である劉表なら答えを知っている。子供を狩っていた大人とは、すなわち『壷中』。『壷中』は流民の子供たちを狩り集め、ひとつの組織を作っていた。程子聞もその一人だった」
「だが死んだ」
「そうだ。だから死んだ」
「なぜ」
「『壷中』を裏切ろうとしたからだ」
孔明は、蒼白な顔を趙雲に向けた。
その目には、傲岸不遜な態度さえ見せることのある、この軍師らしからぬ怯えが、はっきりとあらわれていた。
「子龍、子供は攫われる。だが、大人たちは、どこに行ってしまったのだろうな?」