09年改訂版
孤月的陣
第三章 ハナ 花
⑨
「どうした?」
気がづくと、趙雲が階段の下まで来ていた。
つまづいて痛めたらしく、足をすこし引きずっている。
「怪我をしたのだろう、見せてみろ」
孔明が言うと、趙雲が顔をしかめて憮然と言った。
「ただのかすり傷だ。それより、その竹簡は?」
「ただのかすり傷で、あんなに痛そうな顔をするか。無理をするな、見せてみるがいい。こう見えても、医術の心得はある」
孔明は、竹簡はあとで読むことにして、丁寧に巻きもどすと、階段を下りていった。
孔明と入れ違いに、伊籍が階段の上に、文字通りすっ飛んでいく。
劉琦と伊籍は互いに手を取り合うようにして、互いの無事をたしかめるとともに、これからの相談を始めた様子だ。
劉琦は、もし孔明が策を授けてくれなければ、もう生き延びるすべはないと思いつめていたのだろう。
伊籍も、劉琦にもっとも近い男として、ほかの家臣たちから、さまざまな方面から突き上げられていたにちがいない。
よいことをした、とは思わない。
言うは易い。
これからが困難なことになる。
それを乗り越えて、道を拓けるか否かは、かれらの実力にかかっている。
孔明は、晴れやかな顔をした劉琦の、赤みのさした青白い顔を見上げた。
劉琦は味方のすくない自分のために、集まってくれた家臣たちに、すこしでも報いたいと願っている。
もし、劉琦が、まずはおのれの保身を主眼におくような人物であれば、孔明はもっとちがった策を授けていただろう。
劉琦の心に気付いたとき、孔明は、その思いが、確固たるものになるまで待つことにした。
劉琦の代弁者と称する者たちは、蔡一族への報復を、さも劉琦の本心であるかのように口々に言いたて、孔明から策を引き出さんと躍起になった。
孔明は、家臣たちの運命すら左右する局面でも、人に言われてそうしたのだと、劉琦に思わせたくなかった。
これは、自分で進んで願って、掴み取ったものだと思ってほしかった。
そうでなければ、あまりに悲しい。
心根の優しい公子の気持ちを、だれも汲み取ってやれないことになってしまう。
逃げるとはいっても、住み慣れた樊城を捨て、夏口へ行き、そこでみなを指導して、兵馬や食糧を蓄えねばならない。
体力と気力をはげしく消耗する。
寿命を縮めることになるかもしれない。
だが、日々を怯えて、辛うじて生きながらえ、ささやかな喜びをかみしめるよりも、おのれの力で運命を切り拓き、進んでいく喜びのほうがはるかに大きい。
劉琦の人生が、これですこしでも、喜びに満ちたものになれば、程子聞も報われるのではないか。
「世継ぎの地位を放棄し、夏口へ避難するとは、考えてみれば、いちばん妥当な策だな。ほかの連中が、いままで、なぜ言い出さなかったか不思議だ」
趙雲が、手を取り合い、相談をつづけている伊籍たちを見上げつつ言う。
「やはり、しがらみと、それから積み重なってきた恨みつらみが邪魔をしていたのであろうな。樊城というのは、一見すると整然としているが、一方で小さくまとまりすぎている。人と人の関係にしても同じだ。要するに世間が狭い。ここに取り込まれてしまうと、目先のことにばかり囚われて、外のことがなにも見えなくなってしまう」
「目先といえば、たしかに、この城に来てから、曹操のことを口にする人間に一度も会ってないな。奴が南下してきたら、いちばん危ういのは、ここにいる人間だろうに」
「そうして、わたしたちの警告に耳を貸す者もない。
さて、樊城の批判はそれくらいにして、足を見せてみろ。ひねったのか?」
「自分で診る。男の足なんぞ診ても、面白くともなんともないだろうが。なんでそんなに目ざといのだ」
「おかしな人だな。照れているのか? 遠慮しているのならば無用だぞ。痛そうにしていたではないか。上から眺めると、下にいると判らないことがよく見えるのだよ」
と、軟膏を取り出して、趙雲のことばに答えつつ、不意に、孔明は、おのれの言葉におどろいた。
そうして、書庫のほうを振り返った。
あそこにいたら、下の様子がよく見えた。
上から眺めると、全体がよく見通せる。
さらさらと水のせせらぎが聞こえたので、川が近いようだといったのは、弟の均であった。
叔父の屋敷のある南昌へ向かう旅路の途中であった。
小休止をとっていたとき、兄弟でこっそり脱け出して、小川へ遊びに行った。
足首ほどの高さの浅瀬では、穏やかに水が流れ、ときおり、魚の黒い影が見えた。明るい日の光を受けて、青空を行く雲の姿が水面に映る。
川のまわりには根のむき出しになった低木や、草の青々と生い茂った場所が点々とあり、そのなかで、名の知らぬ蔓草が、白い花を咲かせていた。
そのときに、身なりのぼろぼろな子供たちと遭遇した。
泥だらけの者、沓すら履いていない者、垢まみれの者。みな、やせ細り、くたびれ果てた顔をして、まともな風体をしている者はだれもいなかった。
あきらかに、近在の子供たちではない。
年齢もまちまちなうえに、人数が多すぎた。子供たちは見えるだけでも二十人はいて、別世界の住人を見るような目で亮たちを見つめていた。
戦火に追われた子供たちが、大人とはぐれてしまい、彷徨っているうちに、同じ境遇の子供たちと群れるようになったのか。
子供たちが近づいてきたので、孔明は話しかけた。
しかし彼らの表情は固く、口も重かった。
「大人はいないの?」
そうたずねると、子どもたちの表情の戸惑いが、さらに濃くなった。
まるで異国の言葉を耳にしたかのように、お互いに亮の言葉を聴いて、困惑して顔を見合わせている。
亮からしてみれば、子供だけで、よく無事にここまで来られたな、と思っての質問であったが…
そのとき。
ひゅん、ひゅん、と風を切る音が頭上を駆けぬけて行った。
矢だ。
矢が、亮たちの背後から、川原に立つ子供たちめがけて射かけられている。
それはどれも、掠りもせず、子どもたちと亮をへだてるようにして、小石のならぶ沢に落ちた。
振りかえると、叔父と部下たちが、土手のうえから弓をかまえていた。
「亮、均、はやくこちらへ来い!」
するどい声で叔父が言った。
記憶のなかでは父のようにやさしい叔父が、初めて見せる、兵士としての顔であった。
記憶とはちがう叔父の様子に、亮は圧倒された。
「でも、叔父上、子どもなのに」
亮が抗議する間もなく、兵士の数名が、土手を駆けおりると、戸惑う兄弟を、なかば抱えるようにして、沢から引きあげた。
そうして、つづけて弓を子供たちに射かける。
子供たちは口々に悲鳴をあげながら、矢を恐れて、歩きにくい石の上を走って逃げていく。
叔父としても、子ども相手に矢を本気で当てる気はないらしい。
それでも亮にしてみれば、おそろしい光景であった。
なぜ大人である叔父が、ほかの大人とはちがうと信じていたはずの叔父が、子どもたちを矢でもって追い散らそうとしたのかがわからない。
ただ一喝すればよかったはずなのに。
がらがらと石の落ちる音をさせて、子どもたちは、一度も亮のほうを振りかえることもなく、追われるようにして、逃げていった。
いま思えば、あの子供たちが流民の子であったことがわかる。
でもどうしてもわからなかった。
なぜ、叔父は子供たちに矢を射掛けたのだろう。
温かな叔父に関する思い出のなかで、あの日の子供たちに対する仕打ちだけは、奇妙に浮き上がって、鮮明に思い出される。
あれから南昌にたどり着いたあと、叔父が領民に接するのを見た。
叔父は民から慕われており、叔父もまた、民を愛していた。
だれであれ身分の差なく遇し、おのれの領地の民が暮らしに困らないように、つねに心を砕いてやっていた。
叔父は、あの子供たちが流民であったから、孔明たちを襲いそうであったから、矢を射かけたというのか。
叔父は、知恵のある人であった。
まして武装をしていたのだ。矢を射掛けなくても、子供たちを追い払う術は、ほかにもあったはずである。
子供たちだけではなかったとしたら、どうだ?
あの川原の周りには、草むらや低木の生い茂っている場所があった。
つまり、隠れる場所があった。
上から眺めると、全体がよく見通せる。
自分は川べりにいた。
叔父たちは土手の上にいて、光景の全体を見通せたはずである。
目線が平行であるために、孔明たちには見えなかったものが、高みにいた叔父たちには見えた。
隠れている大人たちがいたのだとしたら。
矢を射掛けて追い払わねばならないほど大勢の大人が。
かれらが、孔明たちを襲う目的で、潜んでいたのが見えた。
だから、叔父は矢を射掛けたのだとしたら。
あの子供たちは、いったいどこから集められ、どこへ向かっていたのだろう。
孔明は、手にしていた、程子聞の遺した竹簡をひろげた。
『おれは昔、おまえに会ったことがあるのだ』
そんな言葉からはじまる、亡き友の手紙である。
見覚えのある文字に目を落としながら、孔明の脳裏に、漠然と、暗く冷たい可能性が、人気のない沼から這い上がったあやかしのように浮かび上がってきた。
趙雲が、訝しげに声をかけてきたが、もはや耳に入らない。
子供たちの背後には大人がいた。
なぜ大人がいたのか。
もし叔父が駆けつけていなかったなら、自分はどうなっていたのか。
『壷中』とはなんなのか。
程子聞は、なぜ死なねばならなかったのか。
新野にあらわれた人買い。
大人たちが子供を攫っていく。
なんのために。
まさか。そんなむごい話があるものなのか。
身体が芯から震えてくる。
孔明は、必死に自分に呼びかける。
冷静になるのだ。まだ、なにひとつ確証は得ていない。こんな恐ろしい想像が、現実のものであってたまるか。
「なにが書かれていた?」
趙雲が、顔をのぞきこむようにしてくる。
孔明は口を開いたが、何から言えばよいのかわからなかった。
そうだ、慎重にならねばならない。
こうしている間も、どこかで『壷中』の間者が見ているかもしれない。
おのれだけの問題ではないのだ。すでに趙雲も巻き込んでいる。いや、趙雲こそがこの謎の中心というべきか。
「出かける」
辛うじて孔明は、それだけ搾り出した。
怪訝そうに、眉根を寄せて趙雲がたずねてくる。
「どこへ?」
「樊城の郊外に、むかし叔父に仕えていた老婆が住んでいるのだ。かの女に話を聞かねばならぬ。ついてきてくれるか」
無論だ、と趙雲は言って、さっそく出発の準備を整えるべく、外へと飛び出していった。
足はなんともないようであったから、本人の言うとおり、かすり傷だったのだろう。
外に向かう部屋の入り口を趙雲が出て行ったとき、ほんの一瞬、人影が動いたのが見えた。
孔明はあわてて入り口に出て、その姿を探したが、影の本体を見つけることはできなかった。
しかし、その場に残っていた残り香で、何者かはすぐ知れる。
馥郁とした花の香り。
しかし、どこか爛熟しきって、あとは腐るだけなのを待つような。
孔明は、無残な死を遂げた友の竹簡を握り締めた。
程子聞、あなたはたった一人で、なんというものと戦っていたのかと。
※
芋虫のように床に転がされながら、斐仁は考えていた。
一睡もしていない。ずっと考えていた。
日の差さない地下牢において、時間を掴むことはむずかしい。
辛うじて、獄吏が運んでくる食事のおかげで、だいたいのところはつかめたが、この獄吏からして、囚人を人間扱いしておらず、居眠りをしてしまうと、食事がそのまま忘れられてしまう、といったこともあったからだ。
おれはあとどれくらい、命があるのだろう。
斐仁は生き抜くことを考え始めていた。
『壷中』への報復のために樊城へ押し入った。殺す相手はだれでもよかった。『壷中』の中心人物であれば。
『あの男』に教わったとおり、目指す相手がいるはずの部屋へ押し入った。
ところが、そこには人はいなかった。
ただ、ついさきほどまで人であった肉塊が、血の海に浮いていた。
哀れな程子聞の身体であった。
わけがわからなかった。立ち尽くしていると、甲高い悲鳴が聞こえた。
花安英とかいう、程子聞に付きまとっていた少年であった。
花安英の悲鳴が呼子のようになって、衛士たちがやってきて、斐仁は囚われた。
抗弁をしても、聞いてくれるものはなかった。
それが、『あの男』の狙いであったのか?
おれに罪をかぶせ、趙将軍や軍師に陰謀の疑惑を向けさせることが?
『壷中』は孔明を恐れている。
孔明が諸葛玄の甥である、という事実が、つねに「壷中」を怯えさせていた。
ただ、孔明自身は、『壷中』のことなどなにも知らない。
それに、『壷中』は、孔明に手をだすならば、もっと早くにするべきであったのだ。
孔明は、あまりに名が高くなりすぎた。
劉備の軍師になった、というのもよくなかった。
『壷中』は、まさか争いごとを嫌う孔明が、任侠あがりの劉備の軍師になるとは思っていなかったのだ(とはいえ、それは世間の驚きでもあったが)。
劉備は、『壷中』にまるで縁のない人間だ。
それとなく『壷中』が接触しようとしたこともあったらしいが、いずれも失敗に終わっている。
劉備のもつ、あきれるほどの健全さと、『壷中』のような不自然な組織は、相容れないから、当然の結果であった。
劉備は孔明を実に可愛がっている。
それは、一介の兵卒であった斐仁の目から見てもあきらかであった。
孔明に何事かあれば、劉備は動くだろう。
現に、いま樊城にて、諸葛玄のように孔明が遭難すれば、劉備は軍を率いてやってくる。
暗い想像に、斐仁は声をたてて笑った。
そうすれば、憎き『壷中』の連中も、あれほど流浪のヤクザどもと見下していた新野の人間に、ことごとく殺されるであろう。
その様を想像し、斐仁はいくらか慰められた。
七年間親しんだ、新野の人間に対する、屈折した想いも、そこには込められていた。
石の上を、叩くようにして響く足音が近づいてくる。
食事の時間か、と首だけをもたげ、斐仁は思った。
食事のときだけは、拘束を解いてもらえる。
とはいえ、逃げられないように、足かせだけはそのままであった。
「心は決まったか、斐仁」
と、『そいつ』は言った。
食事よりも、待ちかねていた男であった。
斐仁は、予想より早くやってきた男に、歓喜した。
とはいえ、それは表情に出さない。
この男は、おそろしく勘がよい。
ちょっとの油断で、斐仁が心から恭順して、その指示に従おうとしているのではないと、素早く見抜くだろう。
いまの斐仁は、おとなしくなったからということで、獄吏によって、口の拘束具を外されていた。
厳しい目線を注ぐ男に、斐仁は言う。
「あんたの言っていた、『あの御方』というのがわかったぞ。諸葛孔明だな」
「そうだ。ようやく正道に立ち戻る気になったようだな。協力するか」
「無論だ。おれもようやく目が覚めた。いまこそ、昔の恩に報いるとき」
「うむ。『壷中』の動きがおかしい。早くあの御方と合流し、お守りせねばならぬ。休んでいる暇は無いぞ。動けるか」
いいざま、そいつは脇に控えていた獄吏に牢を空けさせた。
そうして、斐仁に寄ってきて、拘束を解いていく。
これでいい、と斐仁はこみあげてくる笑いを押し殺しつつ、思った。
とにかく、自由にさえなれればよいのだ。
軍師も趙将軍も、この老いぼれもどうなろうと知ったことではない。
自由になって、遂げるべきことはただひとつ。
斐仁は、暗い胸のうちで大きく叫んだ。
『壷中』に復讐を。
※
樊城の門から、二騎の駿馬が飛び出していった。
門前にひらかれた市場をつっきって、あっという間に見えなくなる。
馬の起こした砂埃を、迷惑そうに払う露天商たちの姿がおもしろい。
早馬にしても、背の高い、立派な風貌をした文官と官吏の組み合わせは不自然である。
目立つ二人組の立ち去ったあとを、いぶかしげにじっと観察している民もいる。
城壁の上から見下ろすと、そんな民の様子がよく見えた。
曹操が近々南下してくる、という情報をおさえているのは、商人のほうが早い。
かといって、かれらは逃げ出すか、というとそうではなく、ここぞとばかりに、鍛冶屋と組んで、掠奪をふせぐ丈夫な海老錠だの、身を守るための鎖かたびらや、ちょっとした武器だのを売りさばいている。
その逞しさは、民を『黒頭』(冠をつけていないため、黒髪だけが目立つ。つまり無位の一般民衆を蔑む言葉)などと呼んで蔑んでいる樊城の儒者たちには、ないものだ。
「行ってしまうけれど、いいの?」
と、花安英は、日陰で隠れるようにしている男に尋ねた。
城壁の上は風が強く、花安英の衣をぱたぱたとなびかせる。
ごうごうと風の音が鳴るなか、男が答えた。
「奴らにはなにもできぬ」
「そうかなあ、諸葛孔明は、あんたが思っているほど莫迦なお坊ちゃんじゃないよ。追いかけて、どこかで待ち伏せして、始末するべきじゃなかったのかな」
「趙子龍がいる」
「仲間を呼べばいいじゃないか」
「何人集めても同じことだ。やつは強い」
「あんたが言うより、まぬけだったけれど」
花安英は、昨夜の趙雲の様子を思い出し、思わず笑った。
孔明を待ちながら、廊下で所在なさげにつくねんとしている様が面白かった。そこで声をかけてみた。
たいがいの人間は、花安英が声をかけてやると喜ぶ。
とくに、戦場での暮らしが長い人間は。
花安英がその気になって誘った者で、落ちなかった人間はいない。
程子聞でさえ、最初はそうだった…はずだ。
程子聞のことを思い出し、花安英は激しく苛立った。
死してもなお、面影を消すことができず、それどころかむしろ苛立ちを強める男の存在がいまいましかった。
思い出される姿を打ち消そうとするのであるが、どんなに頭の外へ追いやっても、油断するとまたもとの位置に戻っている。
死んでしまった男のことなんかどうだっていい。
そう、趙子龍のことだ。
趙雲は、花安英が声をかけても、喜ばなかった。
態度では喜んでいなくても、内心はまんざらでもない、というふうでもない。
芯から嫌がっていた。
気に食わなかったので、さまざまに喜びそうなことを言ったり、わざと怒らせようとしたりした。
ところが、一向にうまくいかない。
それどころか馬小屋に行って、馬を洗ってこい、などと妙な説教をされた。
しかも見ていれば、大嫌いな諸葛孔明には、態度がぜんぜんちがう。
地下牢から出てきて具合が悪そうにしている、軟弱な孔明のために、水を汲んでやって休ませてやった。
孔明が落ち着くまで、本当に心配そうだった。
そこで、さらに気を引くために、花安英は、樊城のだれにも漏らしていない秘密を教えてやった。
そう、蔡氏と蔡瑁の関係だ。
これを教えてやれば、当然、趙雲は孔明に注進し、孔明はそれをネタに、蔡一族を追いやり、劉琮を跡継ぎに据えようとする動きを封じて、劉琦に家督を継がせることに成功する。
そうすれば、孔明の主騎たる趙雲も面目躍如となり、そのきっかけを作った自分は、感謝されるようになるだろう。
ほかの男たちがみんな最後はそうなったように、花安英に頭が上がらなくなり、だんだん媚びるようになっていく。
そうして転落させて、自分の意のままにしてみたかった。
ところが、せっかく秘密を教えてやったにもかかわらず、趙雲は喜ばなかった。
これで孔明の役に立てると興奮するでもなし、あまりに淡々としているので、嫌いだといってやったが、それでも、動じた様子は無い。
花安英は、趙雲が孔明にかならず、蔡氏と蔡瑁の関係を注進するだろうと思った。事実、別れたフリをして趙雲のあとをつけると、孔明の部屋へと入っていった。
花安英は、待っていた。
趙雲の話を聞き、孔明が劉琦に密告をしに行くのを。
そうして劉琦が兵を動かして、蔡一族を捕縛するのを。
ところが、待てど暮らせど、かれらは部屋から出てこない。
なにをしているのだろうとこっそり覗いてみたら、趙雲は床のうえで、孔明は机に突っ伏して、ぐうぐうと眠っていた。
腹が立ったので、劉琦のもとへ行き、孔明ならば、かならず蔡一族を樊城から取り除ける策を持っている、と教えてやった。
劉琦から促されれば、孔明とて、おのれの得た情報を使わざるを得なくなるだろう。
しかし、またまた読みは外れた。
孔明は、劉琦に策を授けた。
しかし、それは期待していたものとは大きくかけ離れたものであった。
家督を相続することをあきらめて、夏口へ移動し、力を蓄えよ。
蔡一族の命は風前の灯だと期待していただけに、花安英は、がっかりした。
しかも、程子聞が、いまいましいことに、孔明に遺言めいたものを残していた。それを読んだ孔明が、『壷中』について何か感づいてしまったらしい。
程子聞が、まだ生きているように思える、と趙雲に語ったのは、本心である。
こうして程子聞の残した手紙によって、孔明が動いているのを見ると、さらにそんな錯覚をおぼえる。
だが程子聞は死んだのだ。
血の海でばらばらになって死んだ。
「あとで後悔するんじゃないかなあ」
花安英は、ふたたび、趙雲たちが消えていった、地平の彼方へ顔を向けてつぶやいた。
その嫌味に、背後にいる男がうめいた。
「おまえは趙子龍の真の強さを知らぬから、そのようなことを言う」
男のことばに、花安英はまた笑った。
今度は、さきほどの小馬鹿にした調子とは打って変わって、優しげな笑みであった。
「あんた、そうしていると、人間らしいね」
花安英の言葉に、男はなにかつぶやいたが、風のうなり声が邪魔をして、ひとことも花安英の耳朶に届かなかった。
「そういうふうなあんたのほうが、いままでより、ずっといいよ。いままでのあんたって、まるで木偶人形みたいだったもの」
男は、はっきりと怒気を示したが、花安英はすこしも恐ろしく感じなかった。
そうして、また笑う。
その嘲笑は、ほんの数年前までの、この男の顔色をうかがって身をすくめ、縮こまっていた過去の自分に対しての笑いであった。
ここ数年、花安英は、身体的に、大きな成長を遂げていた。
背も伸びたし、腕力もついた。
数年前では、想像をすることすらできなかったが、いまは、この男を一瞬にして倒すことができる。
だからもう怖くない。
弁舌にも磨きがかかったし、見聞もひろがった。
見聞がひろがった。
そこが花安英の場合、そもそもの発端があった。
それまで、花安英は籠の中の鳥であった。どこへ移動するにも、かならずだれかの監視がついて回っていた。
しかし、人生の初めからそんなふうであったので、籠の中にいるときは、それが当たり前なのだと思っていた。
当初は、従順な人形であった。
花安英も、人形として重宝されることに、むしろ誇りを抱いてさえいた。
従順であるがゆえに、籠から出された。
逃げないだろうというのが、彼らの思惑であった。
実際、花安英は逃げなかった。
逃げなかったが、世の中というものはそんなに窮屈ではない、人形であるおのれは、なんと惨めな存在であったのかと、そのことに気付いてしまったときから、なにかが狂い始めた。
花安英は、両腕をひろげて、その身いっぱいに風を受けた。
風を受けた袖が、まるで翼のように広がる。
その感覚を楽しみながら、花安英は笑った。大声で笑った。
しかし、その哄笑は、風にまぎれて流され、樊城の、だれの耳にも届くことがなかった。